暫しの間、謎めいたホビットが影のように溶け込んでいった丘陵の彼方を眺めていた黒髪の娘であったが、夕暮れの光が薄くなり、入れ替わるようにして闇の色濃くなる気配に何時までも其処で突っ立っている訳にもいかないと気づいたのだろう。
気持ちを切り替えると、エルフの娘に歩み寄って「行こう」と出発を促がした。
先刻、エルフの娘が全力で駆け抜けてきた丘陵の道なき道を、今は濡れた地面に刻まれた足跡だけを頼りに逆に辿っていく。
街道を求めてただ漠然と南へ戻るよりはいい考えに思えたのだが、此れが思ったより時間が掛かりそうであった。
周囲は既に薄暮に包まれており、丘陵の影を通過する際や水溜りになった箇所では、時に足跡を見失い、再び探すのに手間取りもした。
幸いにしてエルフ娘が夜目の効く性質であったから、頼りない月明かりの下、辛うじて丘陵と丘陵の狭間を縫うように進みながら、娘たちはなんとか道行をこなしていく。
冬の外気と雨に体が冷えたのだろう。
時折、エルフがくしゃみをするだけで、丘陵の谷間を進む二人の上には共に陰気な沈黙が漂っていたが、その原因についてはそれぞれが異なった理由を抱え込んでいた。
人族の娘は、己を虚仮にした赤毛のホビットについて頭を悩ませていた。
自信も自負も持った剣士であるから、鼻っ柱をへし折られた程度とは言え、胸のうちには此の侭にはしておけまいぞとの想いが渦巻いていたものの、だからと言って如何すればいいのかというと、此れが何も思い浮かんでこない。
出来るなら正々堂々と剣と剣での決闘を挑んでもいいし、戦場で相見えたら手段問わずに闘争を挑んでもいい。
ようは彼のホビットの剣士と戦って勝ちたいのだが、そもそも彼奴めが何処に住まい、何者なのかすら定かではない。
よくよく考えれば、キスカ・ロレンツォという名前さえ偽名かも知れない。
考え深げに口を閉じて長々と考え込んでいた女剣士が解けない疑問に眉を顰めて唸りを上げた時に、半エルフが明るい声を上げて傍らを駆け抜けていった。
漸く街道に着いたらしい。
天空に浮かぶ蒼い月が、幽かな光で大地に転がる事切れた賊の亡骸を照らし出していた。
一つは頭を砕かれ、一つは歪に仰向けに倒れ、一つは首を切断されたまま大地に膝を付き、もう一つは見当たらなかったが、日の光の下であればさぞ凄惨であったろう光景は、幸いにして夜の闇に覆い隠され、エルフ娘も動じる事もなく賊の死骸を眺めていた。
「……凄い切り口。本当に強いんだね」
首を半ば切り落とされた首魁の死体をまじまじと見詰め、素直に感嘆の声を洩らした。
女剣士は放り投げた黒狼のマントを探し求めて周囲の草叢を見回してみたが、何処へ行ったものやら、まるで見当たらない。
どうやら、お気に入りのマントを失くしたらしい。
腹立ち紛れに手近な石を蹴っ飛ばした。
興味深げに死体を眺めていたエルフが、ふと顔を上げた。
「……此れ如何する?」
「……此れとは?」
訝しげな表情で訊ね返す女剣士。
「だから、死体。此の侭、街道に放置する?」
街道などに放置された死体が不死(アンデッド)と成り果てて何時しか動き出し、旅人を襲うのは稀に耳にする話でもある。
「動死体(ゾンビ)や骸骨(スケルトン)になられても厄介だし、放置すれば狼や山犬など野の獣を引き寄せるかも知れない」
小さくくしゃみをした後、鼻水を啜りながらエルフが訴える。
「存外、人の良い奴だな。不死になるなど滅多にないよ。
己が欲心のままに葦の如く世の風に流され、病んだ無花果のように実をつけずに生を終えた者共だもの。
捨て置いても、不死となるほどの無念を抱いているとも思えない」
黒髪の女剣士は楽観的な意見だが、翠髪のエルフは少し首を傾げて切り返す。
「なればこそ、何も為しえず死んだが為の悔いも大きいのでは?」
「……ふむ」
考えてから頷いた。
「如何様。此の侭、街道に放置して山犬や狼でも呼び込んでも、旅人に迷惑な話か。道端にでも捨てよう」
「余り街道に近いと、狼が出るかも」
「面倒くさいなぁ。草叢でいいと思うがな。さすれば、いずれは野の獣などが処分するだろうし」
露骨に厭そうな顔で女剣士は手間を惜しむ。
どうやら此処に来て余計な労力を割くのが嫌らしい。
「では、あの矮樹の少し先にある、窪んだところへ捨ててこよう。丁度、溝みたいになっているから」
エルフの指差したのは、おおよそ七十歩先の距離。
目を細めるが、薄闇に地面の地形が分かるほどには女剣士の夜目は効かない。
「私が頭を持つから、足の方を持ってくれるか?」
「はいな」
それほど近くでもなくそれほど遠くでもない箇所なので、妥協する事にした。
各々が腕と足を掴んで街道からやや離れた木の根元まで運び、少し溝になっている処に死体を投げ捨てた。
「出来れば、穴でも掘ればいいのだろうけれど……」
二人はやや街道から外れた木の根元まで二度往復して賊徒の骸を投げ捨ててきた。
三人目の頭目を担ごうとして此れが重たく、二人は意外と難儀した。
「こいつ重たいな。……糞。何を食べたら、こんなに重くなるんだ。少し痩せろ」
「よっ……きっと……お袋さんッが……ふうっ……オグル鬼かトロルと浮気でもしたに違いない」
死体は腕の太さだけで、エルフの太股ほどもあった。
頭部は近くの草叢へと放り込んだが、残った胴体だけでも兎に角、重い。
二人で足を持ち、引きずると、何やらいう賊の首無し死体がガツンガツンと地面や木の枝にぶち当たる。
だが、さすがの凶賊も死体になっては乱暴な扱いに抗議の声を上げる事も出来ない。
「文句は云うまいよ。なにしろ、もう口もないから」
笑えない冗談を口にするが、疲労感が増しただけだった。
首がないにも拘らず、頭目は他の死体の五割り増しかもっと体重があった。
エルフは体力のある働き者だったが、取り立てて膂力のある方ではなかったので、引きずっているにも拘らず、余りの重さに手が滑った。
足を地面に落とすと、それを見て女剣士も手を放した。
「ふうっ、ここでいいや。こいつは重すぎる」
「死んでからの方が生きていた時よりずっと私を梃子摺らせてくれたぞ」
エルフ娘も黒髪の女剣士も、安堵の深いと息を洩らして額は少し汗ばんでいた。
土を固めただけの街道に戻ったものの、女剣士はどうも腑に落ちない様子で周囲を見回していた。
「数が足りんな。爺の死体が見当たらん」
獣でも持ち去ったか、ゾンビーにでもなったか。
あれこれ考えるが、どちらも短時間ではありそうにない。
「死者は血を流さない。息を吹き返したんだよ」
地面に屈みこんでいたエルフ娘が低い声で呟いたので、傍に近寄って確認する。
赤茶けた地面を点々と濡らす血痕が向かう先へと、黒髪の女剣士は鋭い視線を向けた。
北国の街道を、痩せた人影が幽鬼のようによろめき歩いていた。
奪ってきた。殺してきた。犯してきた。
今まで散々、弱い者を食い物にしてきた人生の報いがつい来たに過ぎないが、今の今までそんな事は考えた事がなかった。
目が覚めたら、フィトーも乞食どもも皆殺しにされていた。
その時の驚愕。衝撃。弱々しい心の臓が止まるかと思ったほどだ。
後ろから今にもあの女剣士が追ってきているようで、老人は恐怖に喘いだ。
恐慌に陥り、荒い呼吸を繰り返しながら、だが走るだけの血が足りない。
仲間が皆殺しにあっては、此れで盗賊稼業もお終いだ。
行き掛けの駄賃と、手元に抱えた狼の毛皮のマント。
意識を取り戻した時、最初に目に入ったそれを抱え込んで、ひたすら街道を逃げていた。
いい金になるだろうと思った。だが、重くて仕方ない。
まるで纏わりついてくるように老人の進みを阻害する。
「……ひっ、ひっ、ひぃい」
だが、旅籠へは辿り着いた。
「お、おい……誰か、た、助けてくれ」
体当たりするように扉を開けて、入り口へと倒れこむと手当てを求めた。
部屋の隅でサイコロ賭博に興じていた傭兵の二人組が立ち上がると、ゆっくり近寄ってきた。
「如何した?爺さん。」
「わ、わしは……」
その時、死神が老人に追いついた。
翁の胸から短剣の先端が飛び出す。
「……はう」
背骨と肋骨の間に滑り込んだ鋼の刃が、今度こそ心臓を貫いていた。
胡麻塩頭の老賊は、痩せた躰を舞うように回転させると、そのまま床へと倒れこんだ。
全身を返り血で真っ赤に濡らした凄まじい姿の女剣士が入り口に立っていた。
室内から悲鳴や怒号が上がるのにも動じない様子で狼のマントを取り返し、ついでに財布も奪うと唾を吐きかけた。
「こいつらは賊だ。襲ってきた故に返り討ちにした。証人もいる。」
「……へ、へい」
親父の顔は微かに強張っていた。
「待ちな。姉ちゃん」
呆気にとられていた傭兵たちが、警戒しながらも胡散臭そうに女剣士を眺めた。
傭兵たちは共に丈夫そうな革服を着て、一人は粗末な槍。一人は小剣で武装していた。
女剣士がかなりの使い手だという事は見て分かるが、咎めない訳にはいかない。
「……俺らにはおめえの方が盗賊にしか見えねえな」
「この丸腰の爺さんが武装したあんたを襲ったって?如何考えてもおかしいぜ?」
真紅に染まった女剣士が凄絶な笑みを浮かべると、
「賊は全部で七人いた。全員死んだがな」
親父が絶句する。
時々、近隣に出没しては旅人を襲う盗賊たちについては、村の者が被害に会う事はまだなかったにしても、宿屋の親父の密かな懸念であったし、老人は怪しいと睨んでいたうちの一人だったから、口に出してはこう云っただけだった。
「それは結構なことで……へえ」
「とっととこの薄汚い死体を片付けろ、目障りだからな」
理不尽、かつ居丈高な言葉に親父は顔が真っ赤に、しかし、言葉が真実なら七人のならず者をあっさりと片付けるような剣士でもある。
気色ばんでいるのは傭兵達の方だ。
目の前であっさりと老人を殺し、その上に持ち物を奪った。とても信用ならない。
傲慢な態度が気に入らないのもあって、ギラギラした物凄い目で女剣士を睨みつけているが、扉に近い場所に陣取った女剣士は何時でも剣を抜ける姿勢を取っているので動かなかった。
対峙している内にエルフ娘が追いついてきて旅籠へ入ってくる。
「……どうしたの?この人らは?」
「私が賊ではないかと疑ってる。云ってやれ。其処の翁の方が盗賊の一味だとな」
確かにエルフ娘は襤褸を纏った酷い姿であり、彼女が女剣士の傍に駆け寄るのを見て、盗賊に襲われたとの言葉も真実味があると納得した。
「彼女が証人だ。我らが盗賊に襲われた。後は赤毛のホビットもいたが姿が見えんな」
「……そうか。疑ってすまなかったな。姉ちゃんよ」
傭兵たちは顔を見合わせるとやや不愉快そうにもう一度睨みつけてから、部屋の隅へと戻っていった。
「……何があった?」
「別に何でもないさ」
「今日も泊まるんで?」
揉み手しながら親父が発した言葉遣いは、丁寧だった。
「うむ。ただし、他の客と同じ値段でな。私からぼっていただろう?」
睨みつけると、親父の顔が引き攣った。
誰だって七人の賊を返り討ちにするような剣の使い手を怒らせたくはない。
「とんでもねえ。このバウム親父は正直が取り柄ですぜ」
「後は水をくれ。服を洗いたいでな。血糊は早く流さないと取れなくなる。
それと、暖炉の傍を取っておけ。薪は多めにな。
雨の中を走り回ったから、躰が冷えてしまった」
銅貨を放った。親父がそれを腹で受け止め、掌で受け取った。
「……へ、へい。裏手に雨樋の水があります」
旅籠の少女が顔を曇らせたのを横目でエルフは見つめた。
「裏庭を貸してもらうぞ。何してる?来いよ」
「……ん」
「ちょっと気の毒だったな」
「何がだ」
「井戸から水を汲んでくるのはあの娘の役目だよ。きっと。
雨樋の水を使ったら、その分、汲んで来なきゃならん。仕事が増える」
「彼らはそれで金を貰って生活しているのだ。客の要求に応えるのは当たり前だ」
革袋のワインを煽ると口元を拭った。
黒髪の女剣士の服には幾らか染みは出来たが、水洗いで大体、綺麗になった。
エルフ娘は老人の服を奪うか迷ったが、長年の汗や垢がこびり付いた上、碌に洗濯してないので諦めた。
人族の女剣士の寄越したワインを受け取り、半エルフは口をつける。
軒下から空を見上げる。洗った服は軒下に掛けてある。
二人は、上半身裸で服が乾くのを待っていた。
酒を飲んだ分、体も暖まる。躰を拭いた布を首から掛けて、足を組んだ。
エルフ娘が空になった皮袋を振るう。
「……もうちょっと飲みたかったな」
漆喰の零れ落ちた旅籠の壁際で、痩せた傭兵がサイコロを振りながら呟いた。
「……いい女だ。胸もでかいし、憧れるぜ」
長身の傭兵が、短剣で歯を穿りながら如何でもよさそうに答えた。
「ご挨拶してみたら如何だ?一戦、お願いできるかも知れないぜ」
「無理だろ。お高い感じがするぁ」
長身の傭兵が頷いた。確かにいい女だとは思うが、如何見ても高嶺の花に思えた。
「もう一人の方は如何だよ?」
「あれぁ、駄目だ。髪も短いし、顔も真っ黒で……」
「ところで、何故、その美貌を隠してる?」
女剣士が唐突に話題を変えた。
「突然になにを?」
「相当な美人だ。よく見れば分かるよ。まぁ、私ほどではないがな」
大した自信と思いながら、エルフは肩を竦めた。
「なら、分かるでしょう。顔がいいとその分、厄介ごとに巻き込まれる」
「余り巻き込まれんぞ?」
武装した貴族の娘と、貧しげな旅のエルフでは、前提条件が全然違うのに恐らく分かっていてすっとぼけた。
「見たいな。素顔。」
「……女の顔を見ても面白くないでしょうに?」
「美しいもの、綺麗なものは見るだけで楽しめるよ」
耳元で囁くので、少し距離を取る。
「随分と軽く云うけど……貴女のような剣の使い手と違って、私は非力な半エルフの娘に過ぎないのだから。
賊に目を付けられたら、それだけでお終いという事にもなりかねない」
「では、ティレーに行くまでは、私が君を守るよ」
「軽い言い方だな」
断ると女剣士は少し困ったように顎に指を当てて眉を顰めた。
それからエルフ娘に向き直ると、打って変わって真摯な面持ちでじっと見つめてきた。
「カスケード領の後継にしてセレス・シェイナ・エイオンの娘。
アリアテート・トゥル・カスケード・ソル・エイオン・テュルフィングが、命に替えて君を守ると約束する」
恐らくは己と同年齢程度であろう若い娘が、突然に別人のような風格を発したのでエルフ娘は一瞬だけ混乱し、圧される。
気持ちを立て直して、推し量るように蒼い瞳でじっと見つめる。
推し量る眼差しにも全く揺らぐ気配を見せずに、強い黄玉の瞳で静かに見つめ返してきた。
溜息を洩らした。少し迷って、視線を宙にさまよわせた後、真っ直ぐに見詰めあう。
「……エリス。エリオンの森のエリス。エリス・メルヒナ・レヴィエス」
セーブという植物の葉を袋から取り出し、千切った。
余り知られてないが炭を落とす成分がある。
揉んでから掌にすりつけ、緑色の汁が広がると水瓶で顔を洗い始めた。
「やっぱり、美人だったな」
顔の汚れを洗い流したエルフの整った顔立ちを見て、女剣士は感嘆の吐息を洩らした。
女剣士、黒髪のアリアが上機嫌なのとは対象に、翠髪のエリスはむすっとしていた。
エルフの頬を撫でてから、顔を覗き込んで微笑みかけた。
黄玉の瞳には悪戯っぽい光が浮かんでいる。美形だが、どこか胡散臭そうな笑み。
「機嫌を直せ。折角の美人が台無しだ。私の腕は知ってるだろう?」
実力を伴った自信家で押しが強いから、どうにも敵いそうにない。
「……精々、期待させてもらうよ」
「うん。期待しろ」
何時の間にか小雨は止み、天には満点の星空が広がっていた。
人族の娘が機嫌良さそうに鼻歌を奏でる横で、半エルフは星を見上げながら小さく欠伸を洩らした。
序章 手長のフィトー 完結