次の目覚めは穏やかだった。
カウノは瞼を擦り欠伸をすると、いつの間にかリクライニング・モードに移行していた操縦席をクルージング・モードへと移行させた。長距離の操縦に際し、パイロットの身体に重力を再現する適度な負担をかけるモードである。椅子が形を変える最中、彼は全身をある違和感が包み込んでいることを認識した。
この違和感――身体と意識が乖離したような、連続性のない記憶を埋め込まれた感覚――は、カウノにとっては初めてではなかった。例えば長い夢を見た後や、バーチャル・リアリティでどっぷりゲームにはまってシャットダウンした後など、その不安は徐々に心の中で膨らんでくる。特に後者による精神乖離障害は一時期社会問題となり、政治家や精神科医たちが必死で軽度の患者への簡易心理テストや復帰プログラムを整備することで、二百年ほど前に一応の解決をみている。カウノは自身がそういった障害にかかってしまったのではと僅かに疑い、心理テストアプリケーションを立ち上げようとしたが、この程度なら大丈夫か、と一つ大きく伸びをした。
二三目を瞬かせると、ふとカウノは手元に目線を落とし、そして振り返った。そこにはもう誰もいない。アルコールの臭気すらきれいさっぱり消えている。再び前へと向き直ると、汗をたっぷりかいたジーマの瓶も、下に溜まった水滴ごと、例外なく消えていた。無論、モニターの向こうに鎮座していた、巨大なプラズマの惑星も。全ては夢だと言わんばかりに、一切が消滅していた。そうしてあれだけ騒がしかった船内は、宇宙独特の静寂に、再び包まれている。
「そりゃ、そうか」
カウノはぽつりと呟いた。
彼女――モーリェ、或いはソリャリス――が探していた女性は、きっともうこの世にいない。
(であれば、俺につきまとう理由もなくなるってもんだ)
ドリンクボトルを取り出すと、ストローに口をつけて水を飲む。そうやってボトルの半分を一気に飲み干すと、溜息を一つ吐いて、カウノは思案した。
(結局、あいつは何だったんだろう)
白いワンピースというおよそ宇宙らしからぬ格好に、どこからか取り出しては積み上げるビールの空き缶の山。突然始まる、カウノの知らない歌の数々。まともではないとは知っていたが、そもそも人間すらなかった。少女であり、幻覚であり、惑星。カウノの網膜には、モーリェの瞳の奥で蠢くソリャリスの輝きが未だに焼き付いて離れずにいた。
彼女を(ひょっとすると彼を)知的生命体と呼ぶには、幾分躊躇を覚える。とは言え生理的な直感や先入観を排除すれば、間違いなくあれは知的生命体と呼ぶに相応しい代物だ。
(何某かではあるけど、明確にメッセージを持ってたんだからな)
彼らが伝えたかったことは何だろう。
カウノはモニターに映る漆黒と、点在する星の光を見詰めながら考えた。
答えは出ない。しかし彼は考えた。
(お前はどうして、俺たちに興味を持ったんだ)
思い返すのは、モーリェのぽかんと呆けたような、力の抜けてしまった相貌。
探していた女がもうきっとこの世にはいないと知って、希望を失った時の表情。
笑顔ばかり浮かべていた彼女にそんな顔をさせてしまったことが、カウノの心に小さな焦げ痕を残していた。
(お前は、ただの、プラズマの塊じゃないのか)
そこまで考えて、カウノは自分の考えが間違った方向に向かっていることに気付いた。これでは有機生命体至上主義者と同じではないか。珪素生命体であるヘッララ人が聞いたら血祭りに上げられてしまう。身体を構成する元素で差別する時代はとっくに終わっているのだ。
ふと、カウノはそこで、あることに思い当たった。
(そうだ。あいつらは、わざわざ、)
コミュニケーションをとりやすいよう、こちらの姿を真似てきた。そしてそれはきっと、彼らなりの善意からきたものなのだ。惑星である自分たちの流儀ではなく、こちらの言葉で伝えようと。
そう、あのプラズマの惑星には、善悪の分別があったのだ!
「――どっか行くんなら、さよならの挨拶くらい、やっとけっての」
カウノの口を、むき身の後悔が突いて出た。
船内は相変わらず静寂に包まれている。昨日までの騒がしさを、彼は初めて惜しいと思った。
しかし沈黙は長くは続かなかった。突然鳴り響いた電子音が、それを裂いたのだ。
慌ててモニターを見遣る。音声通信の電波が届いていた。
(救援だ)
やった、とカウノは小さくガッツポーズすると、宙に浮いたパネルをタッチし、交信の許可を出した。
『……こちら、連邦識別番号2435-6188-7187、ハーパニエミ星所属、パウラ・アランコ。応答願います、どうぞ』
ノイズが除去されたクリアな音声が流れてくる。女性のものだ。形式張った言葉は、翻訳プログラムを介しているからだろうか。
カウノはモニターに向かって、やや緊張気味に口を開いた。
「こちら連邦識別番号4241-7366-2199、ピエティカイネン星所属、カウノ・カトウ。ご連絡感謝します、アランコさん。どうぞ」
『ミスタカトウ、まずはあなたの声が聞けて嬉しい。あなたとあなたの船はご無事ですか?』
「無事です。しかし超新星バーストに飲まれて、方位を失ってしまった」
『なるほど』
「厚かましいお願いですが、方位のデータを頂きたいのです」
『喜んでお送りさせて頂きましょう、ミスタカトウ。ところで』
アランコの声は一瞬だけ途切れ、
『ミスタカトウはお一人で?』
「え、ええ、それが?」
『いやなに、救援要請を頂いたのは少女の声でしたので。それもちょっと、何と言ったらいいか、少し風変わりな要請だったもので』
カウノは苦笑した。あまりにも心当たりがありすぎる。
彼は少し考えると、まだ笑みの残る唇を開いて、
「こちらの船は一人です。なにか幽霊の声でも拾われたのでは?」
『幽霊……幽霊、ですか?』
「ええ。たまに『出る』らしいですよ。勿論噂話ですけど」
『いや、でも、あれは……』
カウノは声をだして笑いたい気分になった。
幽霊という表現は、あながち間違いではないだろう。なんせ、あのモーリェの姿はもういない人間を象ったものだ。その上、そもそもが脳に映された幻覚なのだから、これが幽霊でなくて何になるのだろうか。
「わたしも見たことがあります。そういうのを信じるタイプではないのですが」
あまりに嬉しくなって、カウノは冗談を口にした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
データを受け取ったカウノは迷うことなく針路を惑星『ユリマキ』へと向けた。カウノが学籍を置く星である。
旅はおよそ三日かかり、空港に着くとカウノはすぐさま職員に首根っこ捕まれて部屋に連れ込まれた挙句こってりと絞られ、三時間の後に漸く解放を許される顛末となった。
(超おこられた……)
憔悴しきった表情で荷物を抱え、書類を手に頼りない足取りで出てきた彼は、閑散としたロビーに見知った顔がいるのにふと気付いた。
銀の髪に、青の肌。目立つ容姿のヴァルマ人は、
「シスコ?」
ソファに腰掛けてじっとカウノを見詰めている女性は、声をかけられたのを切っ掛けについと立上がり、彼の元へとつかつかと歩み寄った。
カウノの視線は彼女の美しい顔、そして胸、腰、臀部へと移る。モーリェに見せられた映像を思い返してしまったのだ。あの中でのシスコは始終媚びた女の顔をしており、14のカウノにとってその匂い立つ色気は毒でしかない。浮かび上がる他者による悦楽の記憶を押し殺そうと、カウノは目線を彼女の顔から僅かに逸らして、驚いた、といった表情を作った。
「なんでいるんだ?」
「遭難したって聞いたから」
「……そりゃ、どうも」
「あと、たまたま近くに来たから」
カウノはシスコのそっけない言に、ぽりぽりと後頭部を掻いた。
「なんだ、ヒマなのか」
「そこそこに。やることもないし」
「練習でもしてろよ」
「してるわ。あなたこそ練習しなさい。しばらく私に勝ててないわよ」
「……ご忠告どーも」
「あと、あまり他の人に遭難したなんて言い触らさないでね。
ただでさえ『ユリマキ』リーグのレベルが低いのに、余計に舐められるから」
シスコの直接的な言い方に、カウノは彼女の瞳を睨み付けたが、それも一瞬、すぐに逸らしてエントランスの方へと目を向けた。
「じゃあ俺帰るわ。疲れたし」
「私も。貴方の間抜けな顔も見られたし、今日はよく眠れるわ」
「……ホントいい趣味してるよ、あんたは。マインドチェックとカウンセリングを薦めるね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「皮肉として受け取って欲しいね」
そう言ってカウノがシスコの方へ冷たい視線を向けた瞬間である。
「……」
当の本人はまだ何も知らないようであるが、シスコのスカートが背中側で不自然にめくれ上がっているのに、カウノが気付いた。
でもって、見れば、めくれ上がっているスカートの中に、尻に顔を突きつける形で、一人の少女が頭を突っ込んでいた。
あ、と思ったカウノが、声を上げようとした瞬間、
「あーっすうっわ凄い臭いだよこれ! なにこれ! これ正ヒロインの臭いだねこれあーす! すっごいよシスコちゃんこれすっごいあーすっごい! ビンッビンきてるねこれ! あーっすこれすっごいあーっす!」
ズドン、と音がして、少女の顔が床にめり込んだ。シスコが足で踏み抜いたのだ。フットスタンプである。カウノも引くくらいの、体重の乗った強烈な一撃だ。
一方彼女の頬は真っ青になっていた。比喩ではない。ヴァルマ人の血は青色をしている。つまり羞恥のあまり、人間と同じように顔に血が上ってしまっていたのだった。論理的な種族であるヴァルマ人がここまで感情を露わにするのは珍しい。カウノは感嘆した。
「き、金的に匹敵する下段の踵蹴り……」
目がくらむのか震える手足のまま、少女は顔を上げてなんとかふらりと立ち上がった。瞳孔の広がり具合がかなり怪しい。ぐるぐるしている。
「……あんた、なんでいるんだよ」
あっけにとられたカウノは、目を丸くして呟いた。
「ち、ちょっと、なに、この娘!? 知り合い?」
「……まあ、知っていると言えば、知っているけど。
え、なに? つうか事態が飲み込めないんだけど」
「飲み込めないのはこっちよ! だれなのお嬢ちゃんは!?」
鼻血をたらりと一筋出しながら、「あ、ども」、と少女――モーリェは腰を折ってお辞儀をしてみせ、
「カウノさんの生き別れの妹っす」
「はあ!?」
「はあ!? ……って、なんで貴方が驚くのよ!?」
「ちょっと待てお前こっち来い」
カウノはモーリェの首根っこをふん捕まえると、トイレの傍まで彼女を引きずり回し、ちらりとシスコの方を向き距離が十分であることを念入りに確認した上で、「おい」と凄みをきかせた。
「どないなっとんねん」
「やだなあもう、そこ怒るとこじゃないっすよ。どうですか、今更生き別れの妹ですよ。
ねえ。レトロですよねえ。需要あるんすかねこういうの」
「ない。ぜんぜんない。この星には少なくとも皆無だ」
「じゃあり○るまいん式で。わたしが幼妻やりますんで。
今更ですが設定上ではわたしのCV釘○理恵なんで」
「式とか関係ねえ。妹も押しかけ女房も全部却下だ。
もう宇宙帰れよあんた、あのままきれいに別れてりゃよかったじゃねえか!
あ、ああ、ひょっとして救難信号送ったのもそういう理由か! 別に善意とかじゃなくって、てめえの寝床を確保するためだけだったのか!?」
「あらあらまあまあ、言い方が悪いですよカウノさん。ホントはわたしがいなくなっちゃったからって寂しがってたクセに。このこの」
ニヤリと笑みを浮かべたモーリェはそう言って、
「いいんすか。大体、わたしみたいな超美少女遊星ほっといて」
「……は?」
「みなさんに悪影響を与える電波を流し続けますよ。
わたしが本気出せばあら不思議、みんな二次元コンプレックスこじらせて、まともな生殖活動できなくなって子孫繁栄に重大な影響が出ちゃうんですからね!」
「――てめえ、脅す気か!」
「もちろん、か弱い女の子なので、使える手はなんでも使いますよう。
なあに、悪いようには致しません。カウノさんのおうちの隅っこをちょーっと貸して頂いて、あと週に一度ハーゲンダッツの配給を頂ければそれでいいんですって」
おほほほほ、と高笑いを隠さないモーリェの肩をわし掴んで、カウノは怒りのあまり爪を食い込ませた。
「い、いたいっす、お兄ちゃん! 兄貴! ……えっと、あにい! え、これもダメ? ……あ、兄チャマ! ああもう正解はどれっすかいたいいたい!」
「正解、なんて、ねえ、よ!」
「い、いやホント、ほら、わたしって食事なくても大丈夫ですから! そういう維持費とか全然かかりませんから! トイレにも行きません! エンゲル係数ゼロの大変家計に優しい造りとなっております、だからギブ! ギブ!」
いつの間にかカウノによって卍固めを極められていたモーリェは、タップしながらギバーップと叫んでみせるも、カウノは全身により一層力を込める一方だ。
しかしその刹那、ふとモーリェの姿は消失し、行き場を失った力に押される形でカウノはつんのめって転んでしまった。
「あたた……カウノさんマジ容赦ないっすね」
関節を痛そうにさする再び姿を現したモーリェを、カウノは信じられない、といった面持ちで見詰めた。はたと顔を上げて辺りを見回す。どうやら誰にも見られていないようで、カウノはひとまず安堵の溜息を吐いた。卍固めに入った時点で死角に場所を移したことが功を奏したらしい。
「そうだったな、思い出した。お前は俺の脳の中で作られた幻想でしかないんだった」
「リアルシャドーと思って頂ければ」
「その例えもよく分からん。
……そういや、確認しときたいんだけど、お前の姿って、他の人にも見えているんだよな?」
ちらりとシスコの方を見遣る。
彼女は心配そうにカウノの方をじっと見ているままで、カウノは「もうちょっと待ってくれ」と身振りで伝えた。
「ええ、若干のラグはありますが、周囲の人に同じ像を共有してもらってるつもりです。
そうですね、まあUstr○amとかニ○生みたいなもんすよ」
「……よくわからんが、まあ、いい。俺だけ一人芝居してるのは辛いからな、気が狂ったと思われる。あんたの姿が、他人に見えてるってのは、最悪から一つ上のまともな知らせに入る。
それで、だ」
カウノは壁に手を突きもたれかかりながら、深く皺が寄った眉間に指をやった。
「なにが目的だ」
「へ?」
「こうしてまた姿を現して。お前はなにがしたいんだ」
「いや、まあ。目的ですか。
あると言えばあるし、ないと言えばないっすけど……」
モーリェは腕を組み、首を捻るような仕草をみせた。
「まあその、留学みたいなもんで。海外留学。世界を知りたいなあ、と」
「……留学。星が、留学」
「こういうことしておくと就活の時ネタになりそうじゃないですか。面接の。
『幅広い視野と主体性を身につけました』みたいな」
「…………」
あたま痛くなってきた、とカウノは掌で目を覆った。
「どうしましたカウノさん、具合悪そうに見えますけど」
「ちょっと黙ってろ。いま考えてるから。超考えてるから」
「あ、はい、すんません」
大きく溜息を一つ吐いて、カウノはしばらくモーリェを見詰めた。
(宇宙で妙な生き物に出会ってしまった。本体は星で、端末としては少女。しかも少女はあくまで俺たちの脳に浮かべた虚像でしかなく、存在しないものを共有幻想として必死に相手している。
そして何の因果かは知らないけれど、彼女は俺を通じて人間達を知ろうとしている――)
カウノは悩んだ。14年間の人生で一番悩んだ。
悩んだが、しかしそれはあくまで決意を固めるための助走にしかならず、そうして三十秒程度黙りこくった後、カウノはぼそりと口を開いた。
「妹はない。妻も論外だ。
……従姉妹。お前は実家に帰った時に、なぜか勝手についてきた従姉妹だ。
こっそり俺の船に乗って家出紛いのマネをしているおマセなガキだ」
いいな、と念を押すカウノに、モーリェは両の親指を立てた。
「りょうかい、りょうかい、りょうかいです。なんの捻りもない設定ですけど、そこはカウノさんに従います」
「とりあえずシスコを煙に巻くぞ。あくまであんたは勝手に着いてきた。
あんたは親と和解するまで、俺の下宿先に居候させる。いいな、話を合わせろよ?」
「勘定奉行におまかせあれ!」
モーリェは満面の笑みを浮かべてみせるが、カウノの表情は晴れない。
しばらく首を振っていたが、腹を決めたか顔を上げ、モーリェとシスコを交互に見遣ると、カウノは漸く歩き始めた。
「――まったく。どうなっても知らないぞ、ホント」
そう呟いてみせた時には、しかし彼の目にも僅かに笑みの色が浮かんでいた。
フリップ・フロップ・フラループ
第一章 そらりす! 了