※この作品は、小説家になろう様にも投稿させて頂いております
序章 「羽柴の鬼姫」
たったひとつの訃報が、時を凍てつかせた。
織田信長の死は、それほどの衝撃を、戦国に生きる者すべてに与えた。
天下人が死んだ。あろうことか後継者までもが直後に死んでいる。天下が宙に浮いたのだ。それをめぐって激しい争いが起こることは明らかだった。
天下大乱の時が来る。
狂熱の予感が凍てついた時を溶かし、にわかに混乱が広がった。
その中で誰よりも早く動いたのは、信長を死に追いやった張本人だった。
明智光秀。今は惟任日向守を名乗っている。
織田家の有力武将として畿内方面軍を統率していたこの老将は、混乱の巷であった京都を治めると、与力諸将に懐柔の手を伸ばし、さらには天下人信長の象徴であった安土城を占拠している。
ここまでわずか数日。電光石火の所業だ。
光秀は宙に浮いた天下を掴まんとしていた。
――かの人は、天下人に成る。
そう確信する者も多い。
京極高次もその一人だ。
この、二十歳になったばかりの若き武将は、夕闇に沈む近江長浜城への道を、手勢を率いてひた走りながら、その思いを深めていた。
長浜城の主は羽柴秀吉だ。
光秀と同じく、織田家の一方面軍を率いる有力武将である。
中国方面で毛利と対峙している秀吉の留守を突いて占拠する。まさに天下取りの一翼を担う働きだ。
「おおっ!!」
感極まり、高次は思わず吼えた。
京極氏は、元をたどれば北近江守護の家柄だ。
それが浅井氏の下剋上を受け、国守の座から転がり落ちた。
高次自身は、信長の庇護下で近江奥島五千石を領する身でしかなかった。
若い高次には、それが我慢できない。だからこそ、謀反を起こした光秀に、素早く従ったのだ。
――天下人となられた惟任どの(光秀)の令下で、導誉公ほどの威勢を示してみせようぞ!
バサラ大名として名を馳せた先祖に己をなぞらえて、高次は意気を高ぶらせていた。
そんな彼の瞳に、ちかと朱の光が映った。
長浜城のある方角だ。すわ火事かと肝を冷やした高次だが、違った。
かがり火だ。無数のかがり火が、城を朱に照らしているのだ。城下まで馬を進めた高次はようやくそれに気づいた。
――敵襲に備えてか?
“本能寺”より数日経つ。
光秀謀反、信長死亡の報は、長浜城にもすでに伝わっているに違いない。
おそらく夜襲に対する備えだろうと見当をつけながら、高次は構わず馬を進めた。
「羽柴筑前は遠征中である。どれほど備えようと、城を守るは寡兵よ」
声に出したのは、将兵の不安を払うためだ。
正しい推測だった。兵を寄せてみれば、大手門付近には人の影もない。
――やはり兵が足りぬのだ。それゆえ他を捨て、本丸のみを守るつもりであろう。
無人の大手門をくぐりながら高次は確信した。
だが、高次の余裕も、本丸にたどり着くまでだった。
城の中は、かがり火で明々と照らされている。
長浜城は水城である。二重の外堀と内堀に囲まれ、琵琶湖の湖面に浮かんだ格好だ。
吸い込まれそうな夜空の下、炎の照り返しは城ばかりか湖面までをも朱に染めている。
そんな闇と朱の世界に、たったひとつ、人の姿があった。
開け放たれた本丸門の下である。両脇に据えられたかがり火が、その孤影をはっきりと映していた。
少女である。
女と呼ぶにはまだ幼さの残る顔立ち。
身に纏う打掛はまばゆいまでの白だが、肌はそれ以上に白い。
艶づやとした髪は黒く長く、唇は血を塗りつけたように赤かった。
手には薙刀。こちらを見返す瞳が、かがり火の朱い光を反射して、獣のように輝いている。
知っている。高次は彼女を知っている。
気圧され、飲んだ息を押しのけるように、高次はつぶやく。
「羽柴の、鬼姫」
「――羽柴の鬼姫」
少女の名乗りが、高次の言葉に重なる。
「主不在の長浜を侵す狼藉者に……懲罰仕る!」
厳然と。閻魔が罰を下すように。
少女は朱の光照り返す白刃を、足元に叩きつけた。
第一話 「羽柴の娘」
――景子さま。
地の底からささやくような声を、ねねは聞いた。
長浜城への帰路でのことだ。寒い日だった。日中から雪がちらついており、葦の茂る湖岸には、うっすらと雪化粧が施されている。そこに折り重なった死体の山から、声は聞こえてきた。
賊に遭ったのだろう。殺されたうえ、身に纏うものすべて剥ぎ取られた死体は、みな間違いなく三途の川を渡っている。生き残りの存在を信じるには、亡骸たちの姿は凄惨すぎた。
――死者の声かしら。
ねねは心中つぶやいた。
当世珍しくない。
無念を抱えて死ぬものなど、戦国の世にはいくらでもいる。
その数だけ死霊が漂っているのだ。死者の声など、さして驚く類のものではない。
とはいえ、捨て置きにもできなかった。
なんといってもねねはこの一帯の領主、羽柴秀吉の妻なのだ。秀吉不在中は城代を務める身として、目にした以上は処置する必要がある。
死者の供養の手配を近衆の幾人か指示してから、ねね自身は城への帰路を急いだ。街道を荒らす賊の捜索及び討伐の段取りを相談するためだ。
その先で、彼女は一人の少女を見つけた。
最初、ねねはそれを死体だと思った。
さっきのいまである。湖岸に寄せられた小舟の中で、倒れ伏して動かない少女の姿を見れば、そう思いもする。
場所も近い。死者となった者たちとともに賊に襲われたに違いなかった。
小舟の中に隠れてかろうじて助かったものの、この寒空である。そのまま凍死したのだろう。
小袖姿の少女は、数え十三、四歳ほどか。
髪は黒く艶のある見事なものだ。幼さの残る顔立ちには、どこか貴風がある。
――この娘が、景子さまかね。
検めさせると、呼吸があった。
生きている。それがわかると、ねねの心に憐憫の情が湧いた。
民草ではない。並みの武家でもない。いずれ尊貴な家の娘に違いない。
そんな少女が、明日よりは天涯孤独の身とは、世の習いとはいえ哀れを誘わずにはいられない。
「この娘を、駕籠に入れて頂戴」
ねねは少女の冷えた体を抱いて温めながら城に戻った。
氷の塊のようだった少女の体に少しずつ生気が戻って来るのを間近に見ながら、ねねは少女に愛情を感じ始めている自分に気づいた。
結婚して十二年。夫、秀吉との間に子はなく、常に身辺に寂しさを覚えていた。その空虚に、少女はするりと滑り込んだのだ。
この日から二日後、少女は目を覚ます。
災いの衝撃でか、記憶定かならぬ少女を、ねねは養子として引き取った。
少女の名は景子という。
羽柴の鬼姫とは、まだ呼ばれていない。
◆
少女は己の名を覚えていない。
景子と呼ばれてはいるが、これは後からつけられたものだ。
「あるいは、この体の持ち主の、本当の名前なんでしょうか」
妙な言い方をするのには、わけがある。
少女としての記憶を完全に喪失した彼女には、名を忘れた、もうひとりの人間記憶があるのだ。
このことは、養母であるねねにも教えていない。
言っても理解されないに違いない。四百年以上未来の男子大学生の記憶があるなんて、景子自身、正気を疑ってしまう。
「でも、事実なんですよね」
と、景子は文机の上にため息を落とした。
目下景子は御殿の奥に篭もりきりで武家としての作法教養を勉強中である。
羽柴家は新興とはいえ武家である。しかも大名格だ。武家の作法どころかこの時代の一般常識すら知らないでは、胸を張って娘ですなどとは言えない。
なによりも、自分を娘にしてくれたねねが面目を失うような事態は、絶対に避けなくてはならない。
「母上のためにも、頑張らなくては」
景子にとってねねは大恩人だ。
野垂れ死に寸前の自分を拾ってくれた、だけではない。
目が覚めたら城の中で、わけがわからず途方に暮れていた景子に、彼女は「家族にならないか」とやさしく声をかけてくれた。
「母上――母さん、か……ふふ」
つぶやいてみて、景子は頬を緩ませた。
景子は施設の出だ。肉親に必要とされず、捨てられた過去がある。
それだけに家族というものにあこがれていたし、それ以上に愛情に飢えていた。
だからねねの好意に、景子は涙が出るほど感動し、また彼女のためにどんな労も厭わない気持ちになっている。
元の時代に未練はないと言えばうそになる。
友人たちと会えなくなって、それでも平気かと問われれば、首を横に振るしかない。
だけど、ここには家族がある。
それだけで、彼女はけっこう幸せだった。
「でも」
景子はあらためて思う。
名前も忘れてしまった“自分”が生きていたのは、はるか四百年以上の未来だ。
「それが、気がついたら戦国時代で、そのうえ豊臣秀吉の娘になるなんて」
景子はいまだ実感が湧かない。
長浜城で目を覚ますまで、思いもよらなかったことだ。
いや、ねねと対面して自己紹介された時も、景子は自分が戦国時代にいると気づかなかった。
彼女の口から羽柴秀吉の名が出てはじめて、もしや“ねね”とはあの“ねね”か。ならひょっとしてここは戦国時代なのかと思い至ったのだ。あまりの環境の変化に、自分が少女になっていたという驚きすら、吹っ飛んでしまったほどだ。
「しかし、こんなことなら日本史をもっと突っ込んで勉強しておくべきでしたか」
景子はため息をついた。
彼女が知っているのは、高校の授業で習う程度の歴史に、歴史ゲーム好きの友人が語っていた断片的なエピソードぐらいのものだ。それもかなりあやふやである。
「今は、天正二年……もうじき三年ですか」
それが西暦に換算して何年になるのかも、景子は知らない。
ただ何年か後には本能寺の変が起こるのだろうし、その後秀吉は天下人になるのだろう。
「天下人、豊臣秀吉か……一体どんな人なんでしょう」
天井に目を向けながら、景子は想いを馳せる。
秀吉は現在他行中である。帰ったら会えるのを楽しみにしているという手紙が、先に届いている。
◆
豊臣秀吉。
天正二年当時は羽柴秀吉を名乗っている。
元の名を木下藤吉郎といい、卑賎な身分から出世に出世を重ね、ついに天下を取った空前絶後の人物だ。
そんな偉人の養子に、景子はなってしまった。
まだ直接会っていないが、手紙ではいち早く歓迎の言葉を送ってくれている。
その秀吉が城に帰って来ると知らせを受け、そわそわしながら、景子はねねに身だしなみを整えてもらっていた。
少女の体でいるのは慣れた。
というより、名前を忘れてしまったせいだろう。どうも未来の記憶を持つ大学生だという実感が薄れている。
だからそのぶん今現在の、少女としての自分を容易に受け入れられたのではないか。景子はそう自己分析している。
――まあ、嫁入りとか男女のあれこれは、まだまだ勘弁ですけど。
それはまだ先の話だろうと思っている。
この時代、彼女くらいの年齢であればすでに適齢期だという事実を、景子はまだよくわかっていない。
「やあ、どこへ出しても恥ずかしくないお姫さんができたよ」
ねねのこんな台詞を、景子はただの褒め言葉だと思っているのだから、平和なものだ。
そんな風にして待っていると、ほどなくして秀吉帰城の知らせがあった。
直後に、なんと秀吉本人がひょっこりと姿を現した。報告した人について来たかと思うような早さだ。
そこまではしていないとしても、城に帰るやまっすぐに来たのだろう。秀吉の格好は旅塵にまみれ、薄汚れている。
「せめてもうちょっときれいに身を整えてからにしておくれよ」
「まあまあ、ええとしといてくれや――おお、めんこいのが居るのう」
渋い顔で咎めるねねの言葉もどこ吹く風だ。
秀吉に無遠慮な視線を向けられ、景子ははにかみながら頭を下げた。
秀吉は四十前に見える。
戦場焼けの肌は赤黒く、しかしなめし皮のような艶がある。
頭髪は擦り切れたように薄くなっており、髭もまた、薄い。シワが笑顔の形に刻まれており、瞳には生気があふれている。
――この人が、天下人。
そう思えば、自然と肩がふるえる。
無理もない。はるか四百年の後にも、知らぬ者のない名なのだ。
「おまえさんがワシの子か?」
笑いかけられ、景子はあわてて一礼した。
頭を下げたところで、やっと自分を歓迎してくれているんだと気づく。
じわりと広がってきた喜びに、肩を震わせる。そんな景子の肩に、ぽんと手が置かれた。秀吉の手だ。大きくて、温かい。
「秀吉じゃ。おまえの父様じゃ。よろしくのう」
やさしい声だった。
温もりが、心に沁みた。
「ととさま」
景子は口に出してつぶやいた。
孤児だった景子にとって、生まれてこのかた口にしたこともない言葉だ。
「おう。ととさまじゃ。遠慮のう呼んでくれい」
秀吉は笑っている。
ねねもつられてか、笑顔だった。
だが一瞬のち、その顔が夜叉にかわる。
秀吉が景子に「いっしょに風呂に入らんか」などと言い出したためだ。
他意はなかったのかもしれないが、この場合言った人間に問題がある。
秀吉の好色ぶりは、四百年も後の、しかも歴史に詳しくない景子ですら知っている。
ほうほうの体で逃げ回る未来の天下人と、それを追う夫人の姿を、ぽかんと見ながら、景子は次第に笑みがこぼれてくるのがわかった。
――私はこの時代で生きる。
笑いながら、景子は心に決めた。
生きて、この素敵なふたりに娘と呼ばれたいと、掛け値なしに思ってしまった。
さよなら、と、未来の知友に別れを告げて、景子は追いかけっこをするふたりに抱きついた。
「――羽柴の娘に、私はなる」