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No.25115の一覧
[0] ラピスの心臓     【立身出世ファンタジー】[おぽっさむ](2013/07/07 23:09)
[1] 『ラピスの心臓 プロローグ』[おぽっさむ](2012/02/17 17:38)
[2] 『ラピスの心臓 無名編 第一話 ムラクモ王国』[おぽっさむ](2012/02/17 17:38)
[3] 『ラピスの心臓 無名編 第二話 氷姫』[おぽっさむ](2012/02/17 17:39)
[4] 『ラピスの心臓 無名編 第三話 ふぞろいな仲間達』[おぽっさむ](2012/02/17 17:40)
[5] 『ラピスの心臓 無名編 第四話 狂いの森』[おぽっさむ](2012/02/17 17:40)
[6] 『ラピスの心臓 無名編 第五話 握髪吐哺』[おぽっさむ](2014/05/13 20:20)
[7] 『ラピスの心臓 息抜き編 第××話 プレゼント』[おぽっさむ](2014/05/13 20:19)
[8] 『ラピスの心臓 従士編 第一話 シワス砦』[おぽっさむ](2011/10/02 18:21)
[9] 『ラピスの心臓 従士編 第二話 アベンチュリンの驕慢な女王』[おぽっさむ](2014/05/13 20:32)
[10] 『ラピスの心臓 従士編 第三話 残酷な手法』 [おぽっさむ](2013/10/04 19:33)
[11] 『ラピスの心臓 息抜き編 第××話 蜘蛛の巣』[おぽっさむ](2012/02/12 08:12)
[12] 『ラピスの心臓 謹慎編 第一話 アデュレリア』[おぽっさむ](2014/05/13 20:21)
[13] 『ラピスの心臓 謹慎編 第二話 深紅の狂鬼』[おぽっさむ](2013/08/09 23:49)
[14] 『ラピスの心臓 謹慎編 第三話 逃避の果て.1』[おぽっさむ](2014/05/13 20:30)
[15] 『ラピスの心臓 謹慎編 第四話 逃避の果て.2』[おぽっさむ](2014/05/13 20:30)
[16] 『ラピスの心臓 謹慎編 第五話 逃避の果て.3』[おぽっさむ](2013/08/02 22:01)
[17] 『ラピスの心臓 謹慎編 第六話 春』[おぽっさむ](2013/08/09 23:50)
[18] 『ラピスの心臓 息抜き編 第××話 ジェダの土産』[おぽっさむ](2014/05/13 20:31)
[19] 『ラピスの心臓 初陣編 第一、二、三話』[おぽっさむ](2013/09/05 20:22)
[20] 『ラピスの心臓 初陣編 第四話』[おぽっさむ](2013/10/04 20:52)
[21] 『ラピスの心臓 初陣編 第五話』[おぽっさむ](2014/05/13 20:22)
[22] 『ラピスの心臓 初陣編 第六話』[おぽっさむ](2014/05/13 20:23)
[23] 『ラピスの心臓 初陣編 第七話』[おぽっさむ](2014/05/13 20:24)
[24] 『ラピスの心臓 初陣編 第八話』[おぽっさむ](2014/05/13 20:25)
[25] 『ラピスの心臓 初陣編 第九話』[おぽっさむ](2014/05/29 16:54)
[26] 『ラピスの心臓 初陣編 第十話』[おぽっさむ](2014/05/13 20:25)
[27] 『ラピスの心臓 初陣編 第十一話』[おぽっさむ](2013/12/07 10:43)
[28] 『ラピスの心臓 初陣編 第十二話』[おぽっさむ](2014/05/13 20:27)
[29] 『ラピスの心臓 小休止編 第一話』[おぽっさむ](2014/05/13 20:33)
[30] 『ラピスの心臓 小休止編 第二話』[おぽっさむ](2014/05/13 20:33)
[31] 『ラピスの心臓 小休止編 第三話』[おぽっさむ](2014/06/12 20:34)
[32] 『ラピスの心臓 小休止編 第四話』[おぽっさむ](2014/06/12 20:35)
[33] 『ラピスの心臓 小休止編 第五話』[おぽっさむ](2014/06/12 21:28)
[34] 『ラピスの心臓 小休止編 第六話』[おぽっさむ](2014/06/26 22:11)
[35] 『ラピスの心臓 小休止編 第七話』[おぽっさむ](2015/02/16 21:09)
[36] 『ラピスの心臓 小休止編 第八話』[おぽっさむ](2015/02/16 21:09)
[37] 『ラピスの心臓 小休止編 第九話』[おぽっさむ](2015/02/16 21:08)
[38] 『ラピスの心臓 小休止編 第十話』[おぽっさむ](2015/02/16 21:08)
[39] 『ラピスの心臓 外交編 第一話』[おぽっさむ](2015/02/27 20:31)
[40] 『ラピスの心臓 外交編 第二話』[おぽっさむ](2015/03/06 19:20)
[41] 『ラピスの心臓 外交編 第三話』[おぽっさむ](2015/03/13 18:04)
[42] 『ラピスの心臓 外交編 第四話』[おぽっさむ](2015/03/13 18:00)
[43] 『ラピスの心臓 外交編 第五話』[おぽっさむ](2015/04/03 18:48)
[44] 『ラピスの心臓 外交編 第六話』[おぽっさむ](2015/04/03 18:49)
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[25115] 『ラピスの心臓 従士編 第二話 アベンチュリンの驕慢な女王』
Name: おぽっさむ◆96f21d48 ID:80ba2569 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/05/13 20:32
   Ⅱ アベンチュリンの驕慢な女王


 
 曇り空がほんのりと赤く染る夕暮れを迎えた頃。一行はシワス砦とアベンチュリン王都の中間に位置する小さな宿場町に到着していた。
 アベンチュリンの人々が暮らす土地は、起伏の小さな山並みが西から東に向かって長く連なった場所にある。春から秋にかけて暖かくてほどよく湿った空気が南から運ばれ、比較的なだらかな地形を活かせる事もあり、昔から農耕が盛んに行われていた。
 国土のほとんどが寒地で、高地に生活圏を持つムラクモとは、米や野菜、果物等の収穫量が比較にならないほど豊かな国でもある。

 ゆるい傾斜が続く地系を削ることなく、ほとんどそのままに利用した町並みは壮観だった。低いところから高い所へ、連なるように木造藁葺き屋根の建物が建ち並び、その間を縫うように水田や畑が多く目に止まる。
 しかし、地系を含めた町全体の景色は目に新鮮だが、町中の空気は閑散としていて、とぼとぼと歩く人々もどこか虚ろに視線を落とし、頬が暗く痩けているのが気になった。

 シュウ王子らは、この街へ入る前に長い袖を引っぱって手の甲の輝石を隠し、庶民的な粗末なフード付きの外套を目深に被った。その様子を奇妙に思っていると、高貴な身分である事を悟られないようにとの配慮なのだろう、とヒノカジが言った。

 「お二人は我が国への来訪は初めてとか。よろしければ町の中を見て回られてはいかがですか。もう少し上まで昇れば工芸品や土産物を商っている店もあったはずです」
 物珍しげにキョロキョロと視線を動かしていたシュオウとミヤヒに、シュウ王子はそう提案した。
 「あたしは行ってみたい。どうせ使う機会のなかった給料も貯まってるし」
 そう言ったミヤヒに、シュオウもついて行くことに同意した。
 珍しい物を見られるかもしれないし、頻繁に贈り物をくれるアイセやシトリに対するお礼の品を探すのにも丁度良い機会だと思ったのだ。
 町の入口近くにある歴史のありそうな宿で荷を下ろし、腰を叩きながら宿で待つと言ったヒノカジを置いて、シュオウとミヤヒはさらに上を目指した。

 砂利っぽい土を踏みしめながら歩く。途中、何度も畑を通り過ぎた。
 土の畑には冬でも生育可能なイモ類や葉物の野菜がぽつぽつと植えられていた。だが、季節のせいなのか、どれも生育状況は貧弱としかいいようがなかった。

 町の坂は見た目にはなだらかでも、入口から奥までの距離を歩いていると結構な高さまで来ている事になる。シュオウにとっては軽い散歩程度の運動でも、ミヤヒは少し息をあがらせていた。
 「なあ、さっきから、ちょっと、変じゃないか?」
 呼吸を乱しながらミヤヒはシュオウに聞いた。
 「なにがですか?」
 「なんかさ、たまに町の人達からジロジロ見られてるような気がするんだけど」

 言われて理由に思い当たる。見られているのはミヤヒではなく自分であると。
 アベンチュリンの民は、ムラクモの平民と同じく黒髪が多く、他にも濃い茶系色の髪に掘りの浅い顔立ちという特長もある。夜の雪のようにくすんだシュオウの灰色の髪はどうしても浮いてしまうのだ。
 ムラクモ王都で、またシワス砦でもそうであったように、周囲と大きく異なる容姿から常に人々の関心を集めていたせいで、すっかりそうした視線にも慣れてしまっていたのかもしれない。

 「気のせいですよ」
 理由を話して暗い気分を共有したくはないシュオウは軽く流して返答した。
 「そうかな……なんか刺々しい視線を浴びてる気がするんだけど」
 ミヤヒは納得がいかない様子で、何度も首をひねっていた。

 しばらく歩いていると、唐突に街並みの雰囲気が変わる。
 民家や田畑がなくなり、職人達の工房が目立つようになってきた。
 細長く伸ばした麺のような狭い路地がいくつか並んで見える。中央の一番広い通りには、派手な模様のついた提灯が並んでいて、そこには露店が所狭しと並んでいる一角があった。シュウ王子の言っていた場所はここに間違いないだろう。

 「あったあった。はやく見にいこうよ!」
 ここまで辛そうに歩いてきたばかりだというのに、表情も晴れやかにミヤヒは一人で露店まで足早に向かった。
 路地に入ると外から見た印象より、まるで活気を感じなかった。
 隙間なく店舗が並んでいるが、半分以上は木板で塞がれて休業状態。開いている店や露店も、並んでいる商品が少なく、店主の姿がない所も散見される。
 一人先を行っていたミヤヒは、布地や服を置いている露店の前でしゃがんでいた。

 「良い物がありましたか」
 「あんまり、だね。縫い目は綺麗だけど、生地は品質がいまいち……」

 ミヤヒの横顔は真剣そのものだった。剣を握っていた時とは別種の迫力がにじみ出ている。
 シュオウも店先でしゃがみ、カゴに折りたたんで置かれている服や寝巻きを手にとってみた。細かい品質などわかるはずもないが、どの商品も庶民的な物ばかりで、華やかな容姿をした貴族の令嬢達に、とても喜んでもらえるとは思えなかった。
 手に取った薄紅色のツナギを眺めながら唸っていると、いつのまにか隣にいるミヤヒがじっとこちらを見つめていた。

 「ひょっとして、例の貴族達へのお返し物とか考えてる?」
 そう言われて驚いた。
 「どうして――」
 シュオウが真顔で聞こうとすると、ミヤヒは腹を抱えて吹き出した。
 「そりゃ、真剣な顔で女物の服ばかり見てりゃ誰でもわかるって」
 「……そうか」

 行動を見透かされていた事への羞恥心から顔を逸らすと、急に真剣な声になったミヤヒが尋ねてきた。
 「なあ、ずっと聞こうか迷ってたんだけど、あのしょっちゅう届いてた荷の送り主達とはどういう関係なんだ? もし答えにくいことだったらいいんだけどさ」
 彼女達との想い出は大切なものだ。しかし、かといって隠すようなことでもない。聞かれた以上は正直に答えるべきだし、そうしたからといって失うものも何もない。
 「ムラクモの貴族が通う学校……名前は忘れたけど、そこの試験があるのを知ってますか」
 「知ってる! 宝玉院だっけ。あたしらの中には貴族を嫌ってる連中も多いけど、あの無茶な試験をやらなくちゃ一人前扱いされないってのには同情的なんだ。大昔の古い白道を長期間歩かせるなんてさ。あれで毎年子を亡くす親も多いみたいだし、ちょっと気の毒だよな……でも、待てよ、ということはあんたあれに参加したの?」

 シュオウは頷いて、深界を旅した事、仲間達との出会い等について大雑把に説明した。
 店を離れ、他の様々な品を置いている露店を見て回りながら話を続ける。興味津々といった様子で聞いていたミヤヒは何度も頷いていた。
 雑貨を置いている店先で二人でかがんで品物を眺めていると、ミヤヒは感心したように呟いた。

 「そっか。貴族と一緒に旅をして、仲良くなるなんてこともあるんだな」
 「そうみたいです」

 親しくなれるまでに相応の苦労はあったが、その甲斐はあったと思う。
 気心のしれた仲間と食べた食事は美味しかったし、慕ってくれる異性と歩いて心が浮くような心地も経験した。自分を拾ってくれた師以外との新たな人間関係こそが、シュオウが独り立ちをして得た最も大切な物となっている。

 「でも、そんな理由があるなら最初からどんどんまわりに言っておけばよかったんだよ。みんなあんたの経歴を勝手に想像して、貴族のお嬢様に手を出して、そのせいで飛ばされてきたんじゃないか、なんて適当なこと言って、巻き込まれるのは嫌だって近寄りがたい空気作ってたしさ」
 「そんな話が――」

 シワス砦では、すれ違うほとんどの従士達がシュオウから目をそらした。それが自身の容姿のせいではと思っていたが、それだけが理由ではなかったようだ。
 もしも、最初からすべてを話していれば。もっと普通に接する事も出来たのだろうか。

 「みんな怖かったんだろうな、あんたが」
 「俺が?」

 恐怖心を抱かれるような事をした覚えは何もなかった。むしろ、シュオウは集団の中に後から入った新参者であり、普通どちらかといえば怯えるべき立場にいるのは自分のほうだ。

 「連中、体つきはしっかりしてるくせに臆病者揃いだからな。それに、あんたについて知ってる奴が誰もいなかっただろ。知らない、わからないって事はすごく怖いんだ」

 その言葉の意味を考え、反芻していると、ミヤヒはおもむろに店先に並んだ品物を一つ手に取り、シュオウに向けて突き出した。
 瞬間、息をのむ。
 ――短剣?
 かろうじて目で捉えたその姿を確認した時には遅すぎた。完全に油断していたせいで躱す余裕もなく、しゃがんでいたせいもあって足は固まり、咄嗟の回避行動も取ることができない。
 ミヤヒの突き出した短剣の切っ先は、シュオウの胸の中心を抉るように狙っている。剣術の腕があるだけあって、その所作に淀みがない。
 短剣の刃が胸に突き刺さる瞬間、肉を抉る刃の感覚が記憶の奥から引きずり出された。
 位置は心臓の真上。的確に急所を狙った一撃に致命傷を覚悟する。が、見た目には刃は確かに体に食い込んだはずなのに、いっこうに痛みはやってこない。
 緊張状態のまま、シュオウが尻餅をつくと、ミヤヒは短剣を見せて刃を指で押し込んだ。すると、刃の部分はするすると柄の中に収納されていく。

 「おもちゃだよ」
 ミヤヒは悪戯を成功させた子供のように無邪気に笑った。
 「……心臓に悪いですよ」
 額に溜まった汗を拭いながら、シュオウは抗議した。

 「悪かった。だけどわかっただろ? これがおもちゃだって知らないと、本物の短剣に刺されるみたいでおっかないけど、偽物だと知っていれば、実際に突き刺されてもちっとも怖くない。あたしは、人と人の関係もこれと同じだと思うけどね」

 ミヤヒが手にしているおもちゃの短剣を改めて見ると、刃先は鈍く、素材もおそまつだ。最初からよく見ておけばそれが偽物であるとすぐに気づいただろうが、不意をつかれれば真贋をたしかめるだけの余裕はない。
 ミヤヒが差し出した手を掴み、立ち上がる。

 「知らないから怖い。だけど、最初からわかっていれば怖くない……そういうことですか」
 シュオウは尻についたホコリを払いながら、ミヤヒの言った言葉を簡潔に言い直した。
 「まあね。現実にはもっと色々とめんどうがつきまとうけど。とりあえず、相手の事を何も知らないと怖いし、勝手な想像もする。場合によっては自分の身を守るために敵ってことにしちゃう場合もある。だから相手を知ろうとする努力も大切だけど、相手に自分を知ってもらう努力ってのも大事なんじゃない」

 これは、人生を自分より長く生きている相手からのささやかな助言なのだろう。
 考えてみれば、わけもわからずシワス砦に配属されてから、周囲に対して壁を作ってきたのは自分だったのかもしれない。積極的に誰かに話しかけるという選択肢を排除し、仕事がもらえないことを心の中で愚痴りながら、ひたすら一人きりの時間を基礎訓練に費やしてきた。

 砦の従士達の態度には辟易していたが、それでも自分から説明する場を設けるなりしていれば聞いてくれる耳くらいはあっただろう。
 考えるたび、思い出すたびに、いくつもの後悔が浮かんでは消えていく。
 遅すぎるということはないはずだ。シワス砦に戻れば、きっとまだやり直す機会はいくらでもある。

 「ありがとうございます」
 シュオウはミヤヒに向け、小さく頭を垂れた。
 「うんうん、せいぜい先輩の言葉をありがたく受け取りなさいよ」
 ミヤヒは大袈裟に戯けて見せた。照れているのかもしれない。

 陽は徐々に落ち、辺りは暗くなりはじめていた。
 いくつかの提灯に火が入れられ、情緒のある赤い光が周囲を照らす。
 宵の訪れを知らせる鳥の鳴き声が聞こえた。

 「そろそろ戻ろうか?」
 「先に戻っていてください。もう少し何か探してから追いかけます」
 「それって貴族のお嬢達のための物だろ? だったら選ぶの手伝うよ」

 ミヤヒの申し出はありがたかった。なにせ、女性に贈って喜ばれそうなものを選ぶのに頭を悩ませていたからだ。
 しばらく商店路地をうろうろと見てまわっていたミヤヒは、装身具を扱った店に目をつけた。

 「お金に余裕があるならだけど、このへんが無難じゃない。他の店の物はどれもぱっとしないし」
 ミヤヒが返事を待たずにするすると店に入って行ってしまったので、シュオウもそれに続く。
 立ち寄った店内には、この辺りには不釣り合いな見栄えの良い首飾りや耳飾りが多く置かれていた。さすがに高価な品を置いているためか、シュオウ達が店に入ると、すぐに店主が奥から現れた。

 「いらっしゃい」
 「見せてもらってもいいですか」
 聞くと、細身の店主は快く了承してくれた。

 ミヤヒは煌びやかな装身具の数々に目を奪われているようで、一人感嘆の声を漏らしている。
 「すごい。こんなに綺麗な飾り物、ムラクモでもそうそう見られないよ」
 ミヤヒの言葉に店主は気を良くしたようだった。
 「そう言ってもらえると作った甲斐があるよ」
 「言ったら悪いけど、こんなとこでこれだけのものを売ってて儲かるの?」
 店主は苦笑いを浮かべた。

 「一つも売れとらんさ。ここに並べてる物は例年なら北方の交易都市に卸すんだが、今回はちょっと理由があって輸送隊の出発が遅れていてね。こっちも予定外だったから、しかたなくこうして並べてはいるんだが、まあわざわざこんな田舎町まで買い付けにくるような商人はみな食い物が目当てだ。こうした贅沢品を買っていってはくれないからね。そのうえ季節がこれだろ――」

 店主は勢いがついてしまったらしく、ミヤヒにあれやこれやと愚痴をこぼし始めた。
 その隙に、シュオウは目的の通り、お礼のための品を物色する。
 一通り視線を滑らせて目についたのは小さな青い宝石で飾られた首飾りと、透明な緑色の宝石を冠した指輪だった。
 青いほうはシトリ、緑のほうはアイセの持つ輝石の色を連想させる。両者がこの宝飾品を身につけている姿を想像してみると、これが不思議なほどにしっくりと当てはまった。

 「なになに、どれにするか決めたのか?」
 ミヤヒはシュオウの手元を覗き込んだ。
 「この二つにします。なんとなく気に入ってくれそうな気がするので」
 「へえ、趣味は悪くないとおもうけど……でもやめといたほうがいいんじゃない?」

 ミヤヒはなぜか、シュオウの手元で光る二つの装身具を見つめ、顔をしかめた。
 「どうして?」
 「だってさ、一つは指輪でもう一つは首飾りだろ? 貰った側が自分達の物を見比べたら、差をつけられたって気分を悪くするかもよ」
 そうなのだろうか。シュオウの抱いた感想は、どちらもそれぞれに魅力があるように思う。
 結局、ミヤヒの忠告を吟味したうえで、シュオウは自分の考えを通すことに決めた。

 「大丈夫ですよ、たぶん――この二つをください」
 シュオウの差し出した二つの品を受け取った店主の表情が、一瞬で綻ぶ。
 「買ってくれるのかい? 本当に? いやぁ助かるよ、実入りがほとんどなくて困ってたところなんだ。二つでこのくらいになっちゃうけど大丈夫かい?」
 店主は揉み手でもしそうな勢いで手で数字を表した。
 けっこうな値段だが、シュオウの懐には試験で得た報酬がある。いつか旅に出た際の資金にとっておきたい金ではあるが、良くしてくれる相手へのお礼のためなら、このくらいの出費は致し方ないだろう。

 「これで払えますか」
 懐から取り出した、ずっしりと重い金貨を一枚手渡した。
 「カトレイとは……いやいや、わからないものだね、こんなとこで上客に縁があるなんて。ちょっと失礼するよ」
 店主はことわってから金貨の真贋をたしかめる。すぐに納得のいく結果が得られたらしく、上機嫌でカトレイ金貨を懐にしまい込んだ。

 店主が釣りを用意している間、ミヤヒは外で待っていると言い残して店を後にした。
 「お客さん。買ってもらったお礼っていうのも変だけど、一つだけ忠告したいことがあるんだがね」
 はい、とシュオウは頷いた。
 「いやね、別段言うようなことでもないかもしれないんだが、あんた達ムラクモの軍人さんだろ? さっきちらっと服が見えたんだ」
 ミヤヒもシュオウも厚手の外套を羽織っているため目立たないが、下には薄茶色の従士服を着ていた。
 「そうです。シワス砦の」

 「やっぱりそうかい。実はね、この辺りじゃ最近の強行な税の取り立てで満足に食べられないような家が増えてるんだよ。役人どもはムラクモが食料の要求量を増やしたせいだなんて嘯いてるけどね、本当のところは女王の度をこした贅沢のせいで、国庫がひっぱくしてるのが現状らしい。だってのにその責任を全部ムラクモにおっかぶせて国民に伝えるもんだから、生活に余裕のない農家の連中はムラクモを一方的に逆恨みしてるんだよ。私らみたいな外との繋がりがある商売人ならある程度の事情は透けてるからわかるんだけどね。そうじゃない連中は自分で考えようとせず、てっとりばやく敵を決めつけたがる。その相手は自国の女王より、直接普段関わりがないムラクモにしておいたほうが楽なんだろう。まあ、だからって連中があんた達になにかするとは思えないんだが、それでも一応気をつけておいたほうがいいよ」

 シュオウは釣りと品物を受け取り、礼を言って店を後にした。
 ミヤヒと合流して、すっかり暗くなってしまった夜道を歩く最中も、店主の忠告について考えていた。
 贅沢のために税の取り立てを厳しくする女王は、民の不満の矛先をムラクモに向くように操作している。そのため彼らの怒りと不満はムラクモ、ないしはその国民に向けられている。こうなると、ミヤヒの言っていた視線の正体は、シュオウに向けられていたものではなく、時折見えるムラクモの従士服に向けられていたのかもしれない。

 事情を知ったせいか、周囲への警戒を強めるほどに、どこかから見られているような視線を感じる。
 薄明かりを漏らす民家の隙間から。あるいは真っ暗な物陰から。出所ははっきりとしないが、じっとりと湿った感覚に、後ろ髪を引っぱられているような錯覚を感じた。
 気のせいであればいいと思うが、念のため、警戒を強めておいたほうがいいのだろう。


 到着した宿は、シュオウ達以外に誰一人として客のいない、お化け屋敷のような雰囲気を漂わせていた。
 収穫期になると、商いのために訪れる人々で賑わうらしいのだが、冬のちょうど今頃はそうした客も少なく、宿を経営している老夫婦がひっそりと生活するための住まいとして利用しているだけなのだという。

 引き戸を開けて入った広い玄関には、小さな提灯が一つ置いてある。それが真っ暗な建物の中を僅かに照らしていた。一人きりで歩くことを考えると少々不気味かもしれない。
 薄暗く長い廊下は、どこからともなく外の空気が流れてくる。冷たい風が時折首の後ろを撫でるので、落ち着かない心地に一層拍車をかけた。

 出迎えた老婆に案内されて、それぞれ部屋に通される。
 ミヤヒはヒノカジと同じ部屋で、シュオウはその隣の一人部屋を用意されていた。場所は階段を上がってすぐの所だ。
 シュウ王子には一階の最も上等な部屋が用意され、護衛の輝士達はその部屋の左右に陣取っているのだという。
 ヒノカジは一足先に温泉につかり、ぽかぽかと湯気を漂わせながら夕涼みをしていた。

 極ささやかな夕食をいただいた後、シュオウは一人で温泉へ向かった。
 宿の敷地内の離れにある湯殿は、そこだけ上質な木材が使用され、丁寧な造りになっている。僅かに周囲を照らす提灯の赤い明かりが、情緒ある良い雰囲気を漂わせていた。

 脱衣所で服を脱ぎ、石壁で囲まれた温泉の引き戸を開けると、中から漂ってきた柑橘系の果物の香りが鼻孔をくすぐった。一つ呼吸をするたび、温かい湯気が鼻を通り、爽快な果物の臭気が肺を満たしていく。
 髪と体を大雑把に洗って湯船に入る。熱い湯に体をひたすこと自体ひさしぶりの事だったが、それ以上に足を思い切り伸ばせるような風呂に入るのは初めてのことで、未体験の心地に身も心も癒された。きめ細かい布地でくるまれた果物の皮をぎゅっと絞り、香りを際立たせる事も忘れない。

 ほっと一息つく間もなく、湯殿の入口のほうから人の気配を感じた。聞こえてくる音から察するに服を脱いでいるようだ。
 ミヤヒかもしれない。そう考え、急いで眼帯を装着し、下半身に手を伸ばして股の間を隠す。
 風呂に入ってきた人物を見て、シュオウはガッカリしたのと同時に驚いた。

 「王子、さま?」
 素っ裸で前を隠しながら入ってきたシュウ王子。その後ろから衣服を纏い帯剣したままの女輝士まで入ってきた。
 「お邪魔でなければご一緒させてください」
 「それは、いいんですけど……」

 シュオウが女輝士へちらちら視線をやると、シュウ王子は微笑み、なんでもないことのように言った。
 「彼女の事はお気になさらず。私に張り付いているのが仕事なんですよ」
 そう軽く言ってせっせと体を洗い始めた。
 護衛の女輝士は入口の前に立ち、真っ直ぐ空中を見つめている。真冬の格好のままなので額には汗が浮かんでいた。手は剣を押さえるように置かれ、いつでも抜くことができるよう臨戦態勢を維持している。

 「あの砦には、勤めて長いのですか?」
 たわしで体をこすりながら話すシュウ王子の声が、背中ごしに聞こえる。
 「まだ配属されたばかりです。軍にも入ったばかりで」
 「なるほど、それで」
 シュウ王子はじっくりと噛みしめるように言った。

 「どういう意味ですか?」
 互いに顔を合わさずに、シュオウは背中ごしにシュウ王子に聞いた。
 「失礼かもしれませんが、あの砦であなたを見かけた時から、浮いて見えたというか、まわりの方達とは何か違うな、と思ったものですから。ああ、もちろん見た目のことを言っているのではありませんが」

 体を洗い終えたシュウ王子は、綺麗に編み込んだ髪は洗わず、シュオウに向かい合うような形で湯船につかった。体を落とすたび、湯がもわもわと煙をたてながらこぼれていく。
 人心地が付いてから、シュウ王子はゆっくりと溢れるように息を吐き出し、話を再開した。

 「いかがですか、私たちの国は」
 「……えっと」

 答え辛い質問だ。というのも、現在地であるこの町を見た限りで、特別褒めるような部分はないと思っているからだ。気の利いた人間ならここで王子様を相手に世辞の一つも言うのだろうが、今の自分にそんな器用さは期待できない。

 「ここで生活している人達からは活気を感じません。町全体にも元気がないような気がします。ムラクモと比べて、ですけど」
 シュオウは真っ直ぐシュウ王子を見つめて言った。
 「いやあ、アハハ……正直な方ですね」
 シュウ王子は乾いた声で笑った。

 「すいません。言葉を選ぶ事に慣れていないので」
 「いえ、いいんですよ。私の場合、あけすけに接していただいたほうが気が休まりますから」
 自国に対する低い評価を聞かされても、シュウ王子は朗らかに笑んでいた。人の良い人物を演じているのではないか。そうした疑念が一瞬湧きもしたが、目に笑い皺を刻んだ人の良さそうな顔を見ていると、この人は心底こういう性格なのかもしれない、と思った。

 「あなたは本当に変わった方ですね」
 唐突にシュウ王子が放った言葉に、シュオウはどきりとした。
 「あまりいないんですよ、私を真っ直ぐ見る人というのは」
 「そうなんですか」

 「弱小国のとはいえ、これでも一国の王子ですからね。私と対する相手にはそれがどうしても頭にこびりついてしまうようで、酷い時には地面に伏してしまわれたり……。ご同行いただいている他のお二人も、あまり態度には出しませんが、私とは一度も目を合わせてくれません。それなのに、あなたは初めて見た時から真っ直ぐこちらに視線を向けてくる。それは私にとってとても好ましい事で、同時に驚いてもいます」

 それは、シュウ王子の本音のように聞こえた。
 王族の心の内など知った事ではないし、細かい感情の機微などを察して慰めの言葉を用意してやれるような話術も持ち合わせてはいない。ただ、目の前の人物が、王族としてではなく、ただの年の近い男同士として話したがっている、という事だけは朧気に理解した。
 シュウ王子の毒気のない顔を見ているうち、のぼせる寸前くらいまでは付き合ってもいいかもしれない、と思い始めていた。

 「他人の目をじっと見つめるという行為には、敵対感情を持っている事を示す場合もありますから」
 「では、あなたも私になんらかの敵意を持っていらっしゃる?」
 「そういうわけじゃ」
 揚げ足をとるような物言いに僅かな苛立ちを覚える。
 シュオウは迷うことなく不快感を顔に出した。

 「あ、いや、怒らせるつもりではありませんでした。いけませんね、私の悪い癖なんです。生い立ちが原因で、ついつい出会う相手が敵か味方かを知りたくなってしまう」
 シュオウは小さく溜息を吐いた。
 「ほとんど初対面の相手に好きも嫌いもないです。俺はただ……」
 ――ただ、なんだろう。
 言葉は意味を失い、途切れてしまう。

 シュオウは、一般的な人々と比べても物怖じしない性格をしている。一国の王族を前にしても怯えや恐れを抱くような事もなく、淡々と接することが出来る。
 輝石に色のついた者達を、そうではない平凡な人々は恐れるが、自分はそうではない。あるのはただ未知の事象への好奇心だけだ。
 彩石を有する貴族達は、特別な力で他者を害することが出来るのだろうが、シュオウにすればそれよりも遙かに恐ろしいのは自分を鍛えた師や、一撃で生物を屠る事ができる狂鬼であり、どこからともなく現れる水の塊や風の刃ではない。

 言い淀むシュオウを前に、シュウ王子は続きを促すことはしなかった。
 「あなたはどうしてムラクモの軍隊に入ったのですか? 子供の頃からの夢だった、とか」
 「自然の流れです。どうしてこうなったのか、自分でもよくわかってませんから。たぶん、ただなんとなく流されてここまで来てしまっただけなんだと思います」

 「では、私と同じようなものですね」
 シュウ王子はそう言って、自嘲するように口元を歪める。
 「王子でいることが?」
 その問いに、彼は苦笑しつつ首肯した。
 「〈開拓士〉という仕事をご存知ですか?」
 シュオウは首を横に振る。

 「深界を切り開き、白道を敷いて道を造り、未開の高地や山へ続く新たな世界を開拓する仕事をする者の事です。それこそが私の子供の頃からの夢、なんですよ」
 「なら、今からでもそれをすればいい」
 相手は王族だ。シュオウの持つ個人的な印象では、他の人々よりも自由に生きることができる力を持っているように思う。
 しかし、シュウ王子は黄昏るように遠くを見つめて否定した。

 「私にそんな自由も権限もありません。深界は脆弱な生き物を拒みます。次代への子孫を残すという義務が私にかせられている以上、そうした危険な仕事への従事は許されません。それに、開拓業は膨大な資金が必要になる。姉上の贅沢ですきま風が吹く我が国の国庫では、とてもそんな贅沢は許されないのです」

 湯煙で霞む湯殿の入口から、女輝士の咳払いが聞こえた。
 「おっと……今言った最後の部分はお忘れください」
 シュウ王子はおどけて肩をすくめた。

 「でも、そんなに金がかかるうえに命の危険まであるのに、開拓士なんて仕事は成り立つんですか。そんなことを進んでやりたがる人間がいるとは思えない」
 小さな疑問をぶつけると、シュウ王子はこぼれんばかりの笑顔で対応する。

 「そこが、この仕事の面白いところです。遙か彼方の大昔、人類は灰色の森に追いやられるように山や高地へ逃げていきました。その後、森に閉ざされた人々は孤立し、独自の文化を育み、あるいは守ってきた。今では当然のように白道で各所を繋いで交流する事ができるようになりましたが、それでも世界のほんの極一部にすぎません。開拓士達は未開の土地を探し、未だに孤立したままの人類文明を探しているのです。そこから発見される文化、食料、武器、道具等、どこから金の卵が見つかるかわかりませんからね。一種、博打のようなものですが、夢があります」

 夢中になって手振り身振りで話をするシュウ王子の表情は、幼い子供のように輝いていた。気づけば、つられるようにシュオウの表情もゆるんでいる。
 「面白そうですね」
 「そうでしょう! 通常開拓士達はギルドに所属していて、国や富豪からの出資を受け、開拓業に勤しみます。大きな発見があれば権利は出資者のものとなりますが、それに見合うだけの莫大な報酬が受け取れるのですよ。アベンチュリンも、ムラクモに降伏する前の時代には開拓ギルドの出資者になり、効率の良い紙の製法や高地に強い野菜の種などを発見したこともあるのです。今となっては夢物語ですが、ね――」

 それからも、シュウ王子の夢の話は続いた。
 どれほど話し込んでいたのか、気がつけばシュウ王子の顔は熱した石のように赤くのぼせ上がっていた。
 「殿下、そのくらいにしてください。これ以上はお体にさわります」
 女輝士が厚手の手ぬぐいを差し出しながら言った。
 「残念ですが、ここまでのようですね。お話できて楽しかったです」

 ほとんど話していたのはシュウ王子で、自分は聞くばかりだった気がするが、シュオウも当たり障りのない言葉で返し、真っ赤に茹であがったシュウ王子を見送った。
 二人が出て行ったのを確認して、シュオウも湯船から上がる。シュウ王子のように湯だってはいなかったが、随分と長く湯につかっていたせいで、手の指は皺くちゃになっていた。

 通気口から外に視線をやると、蝋燭の頼りない灯りに誘われた一匹の蛾が、たゆたゆと頼りなげな羽で空中を泳いでいるのが見えた。
 曇り空の夜は漆黒に塗られ、遠くから聞こえる雷の音が、不穏に外の空気を揺らしていた。


 湯殿を出て、部屋へ戻る途中にミヤヒとすれ違った。
 「温泉、どうだった?」
 手ぬぐいを持って、長い髪を留め、うなじを見せるミヤヒの姿が妙に艶っぽい。
 「気持ちよかったです。綺麗だったし」
 シュオウはミヤヒの色香を含んだ女性らしい姿に、一瞬動揺した気持ちを隠すように、声を硬くして答えた。
 「へえ、風呂は悪くないんだ。たのしみたのしみ」
 ミヤヒは、ほっこりとした笑顔で手を振った。が、去りかけにシュオウを呼び止める。
 「そうだ、さっきじっちゃんが、あんたを見かけたら自分とこに呼べって言ってたよ」
 「ヒノカジ従曹が?」


 廊下を駆け足で歩き、シュオウは二階のヒノカジとミヤヒの部屋まで向かった。
 古い引き戸の前まで来ると、隙間からわずかに灯りが漏れているのが見える。
 コンコン、と軽く戸を叩くと、中から声がかかった。
 「あいとる」

 部屋へ入ると、ヒノカジは宿が用意した寝巻きに袖を通し、自分の手で頭をささえながら横になっていた。
 「ミヤヒさんに聞いて――」
 「まあ座れ。茶を入れたところだ」
 ヒノカジは起き上がり、部屋の隅の食台の上に置いてあった急須を取り出した。床の上にあぐらをかいて座ったシュオウに湯飲みを差し出し、暖かいミドリ茶を注ぐ。シュオウは礼を言って、ほろ苦い茶を一口すすった。

 「あの、これを飲ませるために?」
 ヒノカジは口元を引き締めて否定した。
 「いんや。ミヤヒからお前の話を聞いてな。軍へ入ったきっかけは例の貴族の学生がやらされる試験だとか」
 その問いに頷いて見せる。
 「旅の資金のために」
 「無茶をする……だが、まあ、貴族の娘達との繋がりがあるのも、それで得心がいった。あの試験はそれなりの時間を貴族と平民が共に過ごす。それだけの経験をすれば、たしかに多少の顔なじみにはなるんだろうが。まあ、だからといって貴族の娘に惚れられるなんざ、聞いた事もない話だがな」

 ヒノカジは複雑な表情で苦笑いし、自分の湯飲みにも茶をそそいだ。
 「惚れられたというか……色々と偶然が重なって、少し仲良くなったというだけです」

 「そうだとしてもだ。そんなことはまずあることじゃない。人の世は手にくっついた石っころに色があるかどうかというだけで、空に浮かぶ雲と地べたを這いずるミミズくらいの差がある。それなのに、自尊心の塊のようなあの連中が平民の男なんぞ――」
 しだいに口調が荒くなっていくヒノカジを、シュオウがぽかんと見つめていると、彼は頭を強く左右に振った。

 「――いや、まあいい。そんなことより、一つ聞いておきたい事があった。小僧、お前はどうしてシワス砦に来た? 毎年の宝玉院の試験を終えて、特別な入口から軍へ入る者がいる事は知っとる。だが、お前さんを含めてそういった連中は余所者や大金目当て、その他の事情のある者がほとんどだ。ムラクモの国民なら、適当な体力測定の試験を受けるか、それなりに立場のある者からの紹介状があれば軍へ入る事自体はそれほど難しくはない。そうして軍に入った人間は、大抵の場合自分の出身地の近くにある拠点に配属される。俺達の働いているシワス砦の従士の大半は、そう遠くないところに実家があるからな。普通ではない手段で軍に入った人間は、危険な他国との国境付近の拠点なり、王都の警備隊やらに回される。わざわざ人で溢れとる辺境の拠点に送ったりはせん。シワス砦への配属を指示されたとき、なにか事情を聞かされなかったのか?」

 ヒノカジの疑問はもっともだと思った。シュオウ自身もどうして自分が件の砦に行かされたのか、ずっと不思議に思っていたのだ。
 「わかりません。軍に入る事を決めたと思ったら、突然シワス砦に行け、と指示されただけですから」
 ヒノカジはううんと唸る。

 「お前、なにかやったか?」
 「なにかって、なにをですか?」
 「それがわからんから聞いとるんだ」

 なにかをやったかと問われれば、色々とやったような気もするし、何もやっていないような気もする。思い当たるとすれば、灰色の森に巣くう恐ろしい人食い生物の狂鬼を適切に対処した、という事実はあるが、それが左遷されるように辺境の砦へ送られた理由としては結びつかなかった。
 自らが狂鬼を屠る技術を持ち合わせているということは、ヒノカジの問いかけである何かをやったのか、という部分に当てはまるのかもしれない。しかし、それを正直に答えるべきか否か。迷いが生じた。

 狂鬼という存在は、人間にとっては天敵にも等しい。通常の獣はよほど餓えているか、自身が優位である場合を除いて、人間を食料として見る傾向は薄いが、狂鬼は違う。雨に濡れる事で狂ったように餓えて暴れる謎の多いこの生物は、人間を食料として積極的に襲いかかるのだ。
 大勢の人間が集まって協力しても、狂鬼の退治は容易ではない。それを単身で狩る事ができるシュオウは、人の世の常識からは大きく逸脱している。
 実際に現場での狩りを見せることなく、ヒノカジに自分は一人で狂鬼を相手にできます、などと言ったところで、信じてもらえるとは思えなかった。

 「心当たりは、ありません」
 結局は、そう言うしかない。
 「そうか……」
 ヒノカジはまだ何かを考えている様子だったが、それでも同じ話題をこれ以上続けるつもりはないようで、残っていた湯飲みの茶を大きく音を立てながら飲み込んだ。

 「明日は女王との謁見がある。小僧、何か武器は持ってきとるか」
 ヒノカジにそう聞かれるが、意図までは理解できなかった。
 「これくらいしか」
 シュオウは腰に差していた〈針〉という武器を取り出して見せた。

 「なんだ? 短剣ではないようだし、先が尖ってるのか。なにか動物の骨で出来ているようだが」
 「針、という武器で、その……獣を狩るのに使います」
 針の本来の使用目的は狂鬼に対する際の一撃必殺を目的としている。鋭く尖ったこの武器を使い、狂鬼の持つ輝石の命に繋がる重要な部分〈命核〉を貫くための代物だ。

 「これで狩りをするのか?」
 ヒノカジは困惑した様子で針を睨みつけていた。無理もない。

 シュオウは自身の生い立ちについて、常識の範囲で理解してもらえる情報のみを伝えた。物心ついた頃にはムラクモ王都に独りぼっちだった事。そこで偶然出会った人に拾われて、ここまで育てられてきた事など。話し終えると、ヒノカジは、そういうことだったのか、と感心したように呟いた。

 「育ての親に教わった事か。それにしても、弓ならわかるが、こんな物で獣を狩ろうなんざ、随分と変わった人間に拾われたもんだな」
 「はい、本当に」

 シュオウは自身が言うのもおかしいと自覚しているが、あれほど風変わりな人間を他には知らない。人の世の理を無視して深界の中に定住し、狂鬼を狩る技を知り、なおかつ遙かな大昔から伝わっているという珍妙な戦闘術とやらの継承者でもある。弟子に殺さずに相手を制圧する技術を教えておきながら、アマネの職業は依頼を受け、人を殺して報酬を得る刺客のような真似をして生計を立てていたらしい。時折、ぽつぽつと昔の事を話す機会もあったが、生い立ちなどの核心に触れる部分については、ついに聞くこともなくアマネの元から離れてしまった。

 「聞くまでもなさそうだが、剣の類は持ち合わせてはいないようだな」
 シュオウは首肯した。
 ヒノカジはおもむろに立ち上がり、すみに置いてある荷物の中から、一本の剣を取り出した。背が盛り上がった独特な鞘の形から見てムラクモ刀のようだ。

 「これを貸しておく。若い頃から持ってる予備の刀だ。ろくに使ってこなかったから状態は良い。ちと刀身は短いがな」
 ヒノカジはムラクモ刀をシュオウに差し出した。
 「剣は使った事がないですから」
 差し出されたムラクモ刀を受け取らず、躊躇っていると、ヒノカジは強引にムラクモ刀を押しつけてきた。

 「んなことはわかっとる。剣を腰に差しておくのは、軍人としてのたしなみのようなものだ。謁見時に帯刀が許されるかわからんが、それでも一応外面を取り繕っておいても損はせん。それに、お前が持ってる針という得物だがな、否定するわけじゃないが、ああいった先の短い物しか持っていないと疑われるぞ、兇手ではないかとな。他国は知らんが、少なくともムラクモでは剣をそこそこ使えて一人前扱いされるんだ。軍にいて剣を使えない、ではまわりから尊敬も得られん」

 シュオウは受け取ったムラクモ刀を見つめ、沈黙した。自分を否定されたようで、意気が消沈していく。
 「本当に、ろくに使った事もないのか?」
 「まったく。本物のムラクモ刀を触ったのも、これが初めてです」
 笑われるか、呆れられるか。身構えていたシュオウに対して、ヒノカジは意外な事を提案した。

 「お前にその気があるのなら、シワス砦に戻ってから剣術を教えてやる。これでも昔は道場主もやっとった。教える事には慣れてるが、どうだ?」
 ヒノカジは言って顔を逸らした。落ち着かない様子で口の中でもごもごと舌を動かしている。
 俯いたシュオウの顔には微笑みが浮かんでいた。照れている様子のヒノカジがおかしかったというのもあったが、剣術指南の申し出が心底嬉しかったのだ。
 「お願いします。是非」
 シュオウは頭を下げた。
 そうか、と言ったヒノカジの声は、心なし弾んでいるような気がした。

 「話は変わるが、さっきミヤヒと町中へ出ただろう」
 シュオウは頷いた。
 「といっても、露店の出ている所までの一本道を歩いただけですけど」
 「……どうだった?」
 「空気が澱んでいる、と思いました。暮らしている人達の表情は暗いし、それに土産物を買ったときに店の人からこんな話を聞いて――」
 シュオウは装飾品店の店主から聞いた、アベンチュリンの現状と注意についてヒノカジに説明した。
 「やはり、か」
 ヒノカジの反応は予想の範囲内であったかのようだった。
 「知っていたんですか?」

 「砦を通る旅商人からちらほらとは聞いていた。女王の無理な課税が原因で、民が疲弊しているとな。随分昔にムラクモが許可を出して、アベンチュリン国民に自由な交易を認めて以来、毎年このくらいの時期には、アベンチュリンの平民らが自発的に発足させた隊商がシワス砦を通って北方の交易都市に向かう。それが今回は随分と遅れているとは思っていたが、お前から聞いた話も合わせると、もしかすると売り物がないのかもしれんな」

 話を聞いているうち、拭うことのできない違和感を覚えた。
 「そんな状況で、わざわざ他国の従士を招いた女王は何がしたいんでしょうか」
 「そうだな。今回の話はどうにも収まりが悪い」
 ヒノカジは腕を組んで唸る。

 「そういえば、シュウ王子も女王の金遣いについて少しだけ漏らしていました」
 シュオウがそう話すと、ヒノカジはギョッとして表情を強ばらせた。
 「王子と話したのか?」
 シュオウはさきほどの湯殿でのシュウ王子とした会話についておおまかに説明した。
 「開拓士に、な。あの王子がそんな事を……。貴族として生まれていれば、と考えたことのない平民はいないだろうが、彩石を持つ人間の中にも、似たような事を考える者はいるということか。この歳まで生きても、世の中にはわからんことがまだまだある」

 ヒノカジは感慨深そうに深く息を吐いた。
 ヒノカジの言ったこと、そして店主の警告とシュウ王子が漏らしていた話。それぞれを噛み砕いて思考していると、唐突に不安を覚える。
 このまま女王の元まで行くことが、正しい選択なのか。この国の現状が透けて見えるほどに、慰労のために他国の従士を招きたいという女王の言葉が、まるで重みを感じなくなってしまう。
 出発の前に不安気な表情をしていたヒノカジを思い出し、あのときの心境は今の自分と同じだったのではないか、と思った。

 「いいんですか? このままついて行っても」
 「わからん。ここまで来て今更帰りたいとも言えんし、それに俺達は上からの命令で動いている。それがどんなに馬鹿げた事だったとしても従わなければならない。それが軍で飯を食っている者としての限界だ。だが、まあ覚悟だけはしておくことだ」
 覚悟という言葉を聞いて体が強ばる。
 「なにかされるかもしれないんですか?」
 真剣に問うと、ヒノカジは声音を和らげた。

 「ん? なにを心配しとるか知らんが、捕まって殺されるような事を心配しているのなら、それは無用だ。向こうもそんなに馬鹿じゃねえ。ただ、連中は潜在的に支配者と隷属者という間柄になっているムラクモに不満を抱えているし、彩石を持つ者は濁石持ちの平民を根本的な部分で見下しとる。だからな、罵詈雑言や嫌味をしこたま浴びせられるくらいの事は覚悟しておいたほうが無難というもんだ。知っておけば、心の準備くらいはできるからな」

 諭されるように言われ、シュオウは頷いた。
 投げられるのが剣や槍ではなく、言葉だけですむのなら、一時を我慢すればそれですむ。そのくらいの事でこの旅を無事に終える事ができるのならそれでいい。慣れない人間を連れて深界の中を歩き、ろくに眠る事もできなかったあの時を思い出せば、体に受ける負担も遙かに少なくてすむ。

 ほかほかに温まったミヤヒが温泉から戻ってきたのきっかけに、シュオウは退室した。
 自室に戻ると、しんと冷えた空気が身を包む。
 風呂上がりに熱い飲み物を体に入れていたということもあって、寒いとは感じなかった。
 早々に寝巻きに着替えたシュオウは、そのまま薄い布団に入り、目を閉じた。
 手の中にあるずっしりと重たいムラクモ刀の感触に触れながら思うのは、これからの旅の無事と、戻ってからヒノカジに教えてもらえる事になった剣の扱い方についてだ。
 頭の中で色々な想像をめぐらせているうち、シュオウは間もなく、眠りへと誘われていった。


 明朝早くに寂れた町を出立し、馬を走らせて一行は太陽が真上に昇る頃にアベンチュリン王都に到着した。
 近隣でも一番大きな山の中腹まで広がるアベンチュリン王都は、山の形を削ることなく、傾斜の緩い斜面に沿うようにして街並みが広がっている。街の最上層には〈砂城〉と呼ばれる城があり、高い城壁と共に街を見下ろしていた。
 活気に溢れる人々や賑わう市場、行き交う人々の喧噪。おおよそ都というもに対するそうした印象は、脆くも崩れた。

 「ねえ……ここ本当に王都?」
 馬に乗ったまま坂を上る途中、ミヤヒが恐る恐るヒノカジに聞いた。
 「……俺が若い頃に見たときにはもう少し活気があったがな。これじゃ、まるで捨てられた街のようだ。昨日どこかに攻め落とされたと聞いても信じられる」

 街の中央から城へと続く大通り。その道を挟み込むようにしていくつも商店が建ち並んでいるが、ほとんどの店には商品もなく、無人だった。
 時折住人とすれ違うが、目に生気はなく、顔や腕を見る限り、相当に痩せ細っている。ふらふらと力なく歩いているその姿は、正気を失っているようでひたすら不気味だった。

 生ぬるい風が吹く。
 シワス砦では凍えるような寒さだったというのに、アベンチュリンは東へ行くほど空気が湿り暖かくなっていく。それでも十分に寒いのだが、このくらいであれば身一つでの野宿をするのに不安を感じないくらいの気温だ。

 ようやく辿り着いた城の大きな城壁には、何かで抉ったような傷跡があちこちに残されていた。等間隔で並んでいる矢狭間も、原型を止めていないほど大きく欠け落ちた部分が目立つ。シュウ王子が言うには、過去にムラクモに攻め入られた際の傷跡らしく、当時の戦の激しさを物語っている。今の時代になっても補修していないのは、敗戦国であることを知らしめるために、ムラクモから現状維持が命じられているのだという。

 城門を二つくぐり、城内へ入ったシュオウ達は驚いた。
 寂れた外の世界とは打って変わり、城に入ってすぐの広間は豪華絢爛、目に眩しいほどの金銀宝石で仕立てられた宝飾品の数々が並べられていた。
 シュウ王子は支度を整えるといって城の奥へと消えていく。代わりに女官に案内されて謁見の間へと続く小さな小部屋へ通された。

 「中から声がかかるまでこちらでお待ちください」
 女官は短く伝え、入口に控える。
 小部屋の中は広間よりもさらに豪奢な造りになっていた。
 灯りはクリスタル型に切り出された夜光石。天井には金と宝石をちりばめたシャンデリアがつり下がり、壁には高価な甲冑や宝剣が、来る者を威圧するかのように飾られている。

 「どうしよ……緊張してきた」
 ミヤヒは革張りの椅子に腰かけながら、体を揺すっていた。顔には引きつった笑みが張り付いている。
 「怖いですか?」
 シュオウは落ち着き払った声で聞いた。
 「そうじゃないけど……あたしらみたいなのが女王と謁見なんて、やっぱりおかしいよ。実際にここまで来て、こういう部屋を見せられるとさ、なんか急に自分が場違いなところにいるのを実感しちゃって」

 ヒノカジは黙っていた。一見落ち着いているようにも見えるが、注意深く様子を伺ってみると、額にはじんわりと汗が浮かんでいる。
 「少しの我慢だ。なにを言われても黙っていろ。女王陛下への返事は俺がする」
 そう孫に言い聞かせるヒノカジの唇は、ぱさぱさに乾いていた。

 ほどなくして、外からシュオウ達を呼び入れる声がした。
 慎重に扉を開いて出た先の謁見の間を見たシュオウは、呼吸を忘れるほどに圧倒される。
 これまで見て来た豪華な宝飾品が、ただの前座であったことを思い知らされた。

 謁見の間の天井は空に届きそうなほど高く、左右と奥行きは馬で数十人が競争を出来るほどだだっ広い。
 床には躓いてしまいそうなほど分厚い赤い絨毯が敷かれ、左右にはどうやって運び入れたのかわからないほど大きな石像が建ち並び、その他にも所狭しと巨大な宝飾品の数々が並べられている。盗賊がこの光景を見たなら、たらした涎で溺れてしまうかもしれない。

 しかし何より目を引くのが、玉座の後ろに置かれた天井に届きそうなほど巨大な砂時計だった。精巧に作られた大きなガラスの容器の中には、小山が出来そうなほど大量の砂が入っている。ただの飾りなのか、それとも実際に使用するものなのかはわからないが、これを本来の使用目的で使う場合、砂をどうやって逆さにするのか、と不思議に思った。

 一歩進むごとに、幅の広い玉座に体を横たえた女王の姿が徐々に鮮明になっていく。
 色白の肌。すらりとした肢体。豊満な胸をさらけ出しそうなほど開いた白いツナギを身に纏い、肩のあたりで短く切りそろえた焦げ茶色の髪は光が反射して見えるほど艶々しい。長く伸ばした爪には黒い爪化粧がこってりと塗られている。細長い瞳はシュウ王子とよく似ているが、隙間から覗く鋭い眼光は似てもにつかない。
 左手の甲で圧倒的な存在感を持って煌めくのは、砂金色に輝く輝石。それこそが、真実彼女が一国の主であることの証明である。

 先頭を行くヒノカジは膝を折り、深々と叩頭した。シュオウとミヤヒもそれに続く。
 「まずは、遠路はるばるご苦労と言っておくわ。私が砂金石が主にして、極東を統べるアベンチュリンの国主、フェイ・アベンチュリンである」
 女王の硬質な声が響き渡る。
 少し間を置き、ヒノカジが重々しく口を開いた。
 「この度は身に余るようなお招きを頂き、まことにありがたく――」
 言い終える前に、女王は冷たい一言でそれを制した。
 「よい。言葉は無用」
 シュオウ達はおもわず顔をあげた。

 いつの間にか女王のすぐ近くに立っていたシュウ王子が視界に入る。左側奥には家臣達とおぼしき一団が居並び、仏頂面をこちらへ向けていた。
 女王は戸惑うヒノカジを一瞥し、妖しく微笑んで、指を高らかに鳴らした。それを合図に右奥にある扉が開かれ、そこからゾロゾロと集団が現れる。明らかに場違いな見た目、服装。どこにでもいるような一般的な平民達だ。彼らの服装は途中に立ち寄った町で見かけた人々のものと同じだった。おそらく、アベンチュリンの農民達だろう。

 彼らはこちらに気づくと、瞳を輝かせて口々に感嘆の声をあげた。
 「おお、本当に……本当に女王陛下のお言葉どおりじゃ」
 痩せこけた老人が、そう大きく声をあげた。
 「陛下、これはいったい……」
 ヒノカジが思わず立ち上がろうとした時。後方に待機していた数名の兵士が駆け寄り、有無を言わせぬ勢いでシュオウ達を取り押さえにかかる。
 抵抗するかどうかの判断もつかぬまま、三人は床に顔を押しつけられ、両腕を強く拘束された。

 「なん、だ……どうしてッ、離れろッ」
 二人の兵士がシュオウの首を上から押さえつけ、体重を思い切り乗せてくる。腕も押さえられ、身動をとれるような状況ではなくなった。
 「陛下!? これはどういう事ですかッ」
 困惑したシュウ王子の声が頭上から聞こえる。
 「口を閉じていなさい、シュウ。すべては予定通りの事。この件への口出しは、あなたといえども許さないわ」
 シュウ王子が息を飲む気配を感じた。続く言葉は聞こえない。

 「顔を上げさせなさい」
 女王の命令により、兵士はシュオウの髪を掴んで強引に持ち上げた。同様にミヤヒとヒノカジも顔を強引に持ち上げられる。押さえどころが悪かったのか、ヒノカジは苦しそうに咳を漏らしていた。
 「こ、このような……大事になりますぞ。ムラクモへの謀反をお考えか」
 ぜいぜいと息をしぼりながら、苦しげにヒノカジは訴えた。
 「謀反など、そのような大袈裟な言葉はいらない。これは正当な抗議活動である」
 女王の態度はあくまでも冷静だった。

 「いったいなにをお考えか……ムラクモの従士を騙して招き入れ、このような蛮行を働くことの意味をおわかりではありませぬかッ」
 微笑みを浮かべていた女王の表情が凍り付く瞬間を、シュオウは見た。
 「お黙りなさい。砂金石たる我が身への説教など、それこそが恐れを知らぬ蛮行と心得よ――親衛隊ッ!」

 怒気のこもった女王の一声を合図に、五人の輝士がこちらに向かって歩み寄る。内三人は、シュウ王子と共にここまで同行した輝士達だった。
 彼らはにやけた顔を貼り付けながら、ヒノカジを見下ろし、足を持ち上げて一斉に蹴り降ろした。
 顔、腹、背中。ヒノカジの老体を汚れた靴が蹴り、踏みつけにする。
 「じっちゃんッ!」
 「やめろッ!!」
 ミヤヒと共にシュオウも叫び、咄嗟に止めに入ろうと藻掻く。が、両の腕を押さえられているせいで、わずかに前のめりに倒れ込んだだけに終わった。体勢はさらに悪化する。

 赤い絨毯のチクリとした感触を頬に感じながら、横向けに飛び込んだ光景を見て、シュオウは絶句した。
 はじめ、それを見たとき、すぐには理解できなかった。痛めつけられるヒノカジを見て手を叩き、嗤い、涎を垂らしながら熱狂し、手を振り上げて、暴虐に老人に危害を加える輝士達を、必死の形相で応援するアベンチュリンの人々。彼らの双眸は夜の谷底より暗い色に染まっていた。

 ――なんで。
 わからなかった。一方的に痛めつけられている者を見て、どうして彼らがこれほどまでに喜ぶことができるのか。
 聞こえるのは、苦しそうに嗚咽を漏らすヒノカジの声と、人々の嘲笑。同時にあってはならないはずの二つの音が無遠慮に耳の奥を犯す。
 ――なにが面白いんだ。
 わからない。
 自身の胸に去来する未知の不快感を処理することができず、無意識のうちにこみ上げてきた胃液を無理矢理飲み下した。
 こんな時だというのに、シュオウの眼はこの気味の悪い光景をつぶさに捉えて頭へと送る。瞬きすら忘れた血走った両目。口々に汚い言葉を吐き出す口の動きと、そこから飛び散る唾液の粒。目を閉じることすら忘れ、シュオウは彼らの姿に釘付けにされていた。

 「そこまでに。いま死なれては困る」
 女王の制止に、輝士達はようやく足を納めた。
 「じっちゃんッ! じっちゃんッ!!」
 ミヤヒは必死にもがき、ヒノカジに声をかける。だが、その体はぴくりとも動かない。口からは血反吐を吐き、顔の皮膚はアザが出来て色が変わっている。生きていれば儲けものだと思えるほどに酷い有様だった。

 「本題に入りましょう――」
 女王は玉座から立ち上がり、こちらを睥睨するかのように視線を高く、細長い瞳を向ける。
 生きているかどうかも解らないヒノカジに、半狂乱で暴れるミヤヒ。床に頭をこすりつけ、一点を見つめて固まるシュオウ。誰一人とてまともに話しを聞ける状況にはないというのに、女王はおかまいなしに言葉を紡ぐ。

 「――ムラクモが我が国の食料を徴収している事は知っているでしょう。米、野菜、酒やその他もろもろ。強欲にも毎年その取り立ては量を増し、ついには愛しい我が国民が飢えるにいたるほどに苛烈になっている。そこな者達は飢えて苦しむ各町村の代表達よ」

 だから年老いた人達が多いのか、と未だ戸惑いの中にいるシュオウは漠然と納得していた。

 「こうした現状をどうにかしたい、そう思い、税を減らすよう親書にしたためたが、ムラクモは返事一つ返してこなかったわ。屈辱だけれど、私のことはどうでもいい。けれどね、未だこの冬を乗り切れるだけの食料も用意できない国民達はどうすればいいのかしら。世に不満を声高に叫んだとしても、食べる物は空から降ってはこない」

 そうだそうだ、と興奮気味に同調する叫び声が部屋に響く。
 「そこで、我が国民のために、しかたなく横暴なるムラクモに対して、強攻策をとることにしたの。今日ここにいるムラクモの従士のうち二人を人質に取り、一人には私の親書を直々に責任ある地位の者へ届けさせる。それに対してまともな回答が得られなければ、人質の命は拷問にかけた後、国民の前で公開処刑とする――その親書を届ける役には、そうね――」

 女王は視線を滑らせた。
 「そこのおかしな見た目の男でいいわ――お前の事よ、聞いている?」
 おそらく、この驕慢な女王は自分に話しかけている。だというのに、シュオウは顔を持ち上げる気にも、返事をする気にもなれなかった。
 「貴様、陛下のお言葉を受け、無視を決め込むつもりかッ!」

 聞き覚えのある声がシュオウを罵倒する。
 ――この声。
 そうだ。シワス砦に来た時から、特に眼光鋭く、シュオウ達を睨みつけ、高圧的な態度で接してきた男の輝士。名も知らないが、まとわりつくような不快な視線と険のこもった嫌味な声だけは覚えている。
 「おい、聞いているのか? こいつ……怯えて声も出せないのか」
 あの女王も、この輝士も、自分に話しかけているのだ。なにかしらの応答をしなければならない。まとわりつく不快感を引きずったまま、ようやくの思いで顔をあげる。
 見えたのは、女王の姿ではなく靴の裏だった。

 故意か偶然か、輝士の降ろした左足は、シュオウの下顎を強烈に蹴り飛ばした。無防備な状態で頭を激しく揺さぶられ、一瞬で意識が朦朧とする。
 ――だめ、だ……いまは。
 正気を保つため、咄嗟の判断で下唇を強く噛む。犬歯が皮膚を破る新鮮な痛みを上書きし、どうにか遠くなりかけた意識を引き戻した。
 「あ……ぐッ……」
 定まらない視界の中で、ちかちかと激しい火花が飛び散っている。
 「解放なさい――」
 女王のその言葉で、両腕を拘束していた兵士がシュオウを放した。

 自由になった両手で四つん這いに体を支える。噛み切った唇から零れる鮮血が、赤い絨毯に染みこんでいった。
 「話は聞いていたはず。二度は言わないわ。この親書を持って早々にムラクモへ向かいなさい。制限時刻は、今よりきっかり七日の猶予を与える」
 言って、女王は金色の筒に入った書簡をシュオウの目の前に放り投げ、悠然と左手を高く掲げた。その手にある砂金石が、黄土色の光を放つ。

 次に起こった光景に、この場にいる者すべてが息を飲んだ。
 玉座の後ろにある巨大な砂時計の砂が、轟音をたてながら上へと昇っていく。流れ落ちる滝の水が逆流しているかのような、異様な光景だった。
 真ん中の細い管をすべて通り抜けた砂は、砂時計としての本来の役割を果たすように、刻々と時を刻み始めた。
 「王家に伝わる七日時計は正確よ。この砂がすべて下に落ちきるまでに良い返事を持ってここへ戻らなければ、人質の命は無残に散りゆく――さあ、行きなさい」

 床に転がる書簡を一瞥し、横で拘束されたままの二人を見る。意識を喪失し微動だにしないままのヒノカジと、押さえつけられたままのミヤヒの首元には剣の刃が当てられていた。
 平常時の十分の一も働かない思考は、とにかく立ち上がることだけを促している。
 ――書簡をムラクモの偉い人間に渡す、そうすれば。
 二人は戻る。皆でシワス砦に戻ることができるのだ。
 書簡を弱々しく掴み取り、シュオウは立ち上がった。
 まだ血の止まらない唇を押さえ、玉座を見上げると、砂金石を見せびらかせるように、左手を顎に置いた女王と目が合った。切れ長で焦げ茶色の双眸は、狡猾に感情を隠している。なのに、シュオウには彼女が心底楽しそうに、笑っているように見えた。



 「なんという、なんということをッ!」
 シュウは、生涯でかつてないほどの怒鳴りを上げる。
 「静かになさい、シュウ。そう大声をあげては、せっかくの厳粛な空気がだいなしだわ」
 アベンチュリン女王、フェイはあくまでも平静に答えた。

 「出立前、ムラクモとの良好な関係維持のために、現場で働く人々を招いて歓迎したいと言っていたのはすべて嘘だったのですか? 実際に料理の用意と宴の支度までしていた。あれを見たからこそ私は伝達役を了承したのですッ」
 「半分は嘘ではないわ。支度させていた料理と宴会は、集めた長達にふるまったのだから。へらへらと喜んで飲み食いしていたわよ」
 微笑を浮かべながら、フェイは言った。

 「なぜそう冷静でいられるのです。ご自分がなにをなさったのか、おわかりではないのですか!? 宗主国の国民、それも軍属に手を出し、人質にとったうえ、その引き替えに無理難題を押しつけるなど」
 強引に書簡の届け役に任じられた青年が謁見の間を後にして、まだ半時もたっていない。その間に集められた各町村の長達は退出し、残されたムラクモの二人の従士は牢獄へと連れて行かれた。

 謁見の間が静まる。
 今も絶え間なく落ちる砂時計のさらさらという音だけが、シュウの耳に届いている。
 家臣達が退出するのを待って、シュウは姉であるフェイに対し、はっきりと抗議を口にした。だが、フェイはまるで意に介してはいないようだ。
 「軍属といっても所詮は平民ではないの」
 「そういう問題ではありません。アベンチュリン王家はムラクモの温情により生かされている現状を姉上もご存知のはずです。この件、ムラクモの上層部に承知のこととなれば、どのような報復を受けるか、その可能性を僅かにでも考えての行動なのですか」

 さきほどから脂汗が止まらない。
 フェイは、幼い頃から奔放でワガママな性格だったが、一国を背負って立つ立場となったからには、越えてはならない一線というものを踏まえているものとばかり思っていた。さきほど繰り広げられた無意味で残虐な出来事を見た今でも、そうであってほしいと心底願っている。

 「どうでしょうね。今回の事で、ムラクモはきっと何も言ってきやしないわ」
 「いったいなにを根拠にそんな」
 「払ってないのよ」

 子供が悪戯を白状するような口ぶりで、フェイはさらりと言った。

 「は? いったい何を言って――」
 「秋からの収穫食料の規定分を、ムラクモに渡していないと言ったの」
 「ッ…………」
 フェイの言葉を聞いたシュウは言葉を失った。
 戦いに敗れ、それでもどうにか王家存続を許された、その要とも言える条約が毎年二回に分けての、自国で収穫された食料の引き渡しである。長い年月の中でも、アベンチュリンは律儀にその義務を果たしてきた。だからこそ、未だにムラクモという大国の庇護下にあって、王国という面子は保たれている。だというのに、フェイはなんでもないことのように約束を破ったことをさらりと言ってのけたのだ。

 「ちょっと欲しい物があったのよ。けれどすぐに使えるお金がなかったから、民から集めた食料をこっそり売らせてお金に換えたの」
 「まさか……そんな」

 去年から今までの一年間の収穫量は例年と比べると非常に頼りないものだった。それでもムラクモへはかならず一定量を納めなければならず、国民に多少の無理を敷いても税として食料を集めなければならない。だが、それでもなお目標には届かず、しかたなしに厳しい取り立てを行ったことは知っていたが、よもやそれが、姉の物欲を満たすためだけにされていた所行だったとは、微塵も知らされてはいなかった。
 フェイは自身の贅沢のため、強引な徴収をし、その責任をすべてムラクモに押しつけたのだ。

 「ムラクモのグエン様は聡いお方よ。きっと引き渡しが遅れている事情もご存知のはず。私としてもムラクモの怒りに触れたくはない。だから、不満を溜めた民の溜飲を下げるために、こうして各町村の長達を集めて、憎いムラクモを貶める芝居を見せてやったの。あの者らは今日見たことを故郷に戻って話すでしょうね。私の評判は上がり、そうすればこれからさらなる税を徴収したとしても、不平不満はムラクモへ向かうでしょう? きっとグエン様なら、今回の件を大事にするより、丸く収めたほうが得、そうお考えになるはずよ。結果として規定の税を納める事ができれば、それでいいとも、ね。そのためになら、あの国をちょっと悪者にするくらいの事は許容範囲内というもの」

 フェイは微笑んだ。子供の頃、シュウの服の中に蛇を入れて笑っていたあの頃と同じように。その幼い無邪気さが、シュウの不安をこれ以上ないほどに煽る。
 「シワス砦へ赴く途中、この目で民の暮らしを見てきました。彼らは痩せ衰え、日々を生きるのもやっとの状態です。これ以上の無理な課税をすれば餓死者が大量に出ます」
 「平民なんて掃いて捨てるほどいるでしょ。濁った石に価値なんてないわ」

 寸前まででかかった言葉を飲み込む。今、フェイに対して思いのすべてをぶちまけてしまえば、きっと彼女は機嫌を損ねるだろう。
 あくまで冷静に、現状を把握するためにもっと話を引き出さなければならない。
 「あの従士に渡した親書の内容は?」
 「今回の食料引き渡し遅延への謝罪と、納める食料の規定量を半分にして欲しいという旨がしたためてある」
 「そんなこと、ムラクモが認めるはずが――」
 フェイはシュウを小馬鹿にしたように笑って言う。
 「そんなことわかっているわ。ムラクモがアベンチュリンからの要求を飲むはずがない。これまでもそうだったように」
 「ではなぜ」

 「あの親書が真っ当にムラクモのお偉方の元まで届く保証なんてないからよ。たった一人の従士が、一国の王から親書を受け取ったと言ったところで相手にされるはずがない。仮に信用されたとしても、これまでと同じように無視されるのが目に見えるわ。それにあの男の風貌を見たでしょう? あの薄暗い雨雲みたいな髪の色。きっと純粋なムラクモの国民というわけではないでしょう。どこかから流れてきた傭兵くずれか……いずれにしても、今頃は逃げ出す算段でもつけているでしょうね。そういうわけで、渡した親書の中身になんと書こうが、結果は変わったりしない。どうでもいいことよ」

 フェイはくるくると空中で指を回した。

 「なら、捕らえた二人の従士を即刻解放しましょう」
 シュウの提案に、フェイは表情を引き締めて首を振る。
 「それはだめよ。あの二人は宣言通り、七日の期限後に国民の前で処刑する。卑しい民草の一時の憂さ晴らしに丁度良い見せ物になるでしょう」

 ――見誤っていた。
 血を分けた姉は、奔放で少々無理を通そうとする、その程度の悪癖を抱える人物だと思っていたが、実際には自身の得を狡猾に追求する、ずる賢いキツネのような女だった。
 「聞いてはくださいませぬか、姉上」
 シュウの言葉に、もはや力はない。
 この状況を覆すだけの手段を、自分はなんら持ち合わせてはいない。王の石を継いだ姉と、それを戦わずして放棄した自分。その現実が、ことさら身に染みる。
 あきらめの感情を、もはや受け入れつつあることをシュウは自覚していた。

 「安心なさい、捕らえた者達には死なない程度に水と食料は出すわ。殺すまでだけど、ね」
 こんな酷薄な物言いを、表情一つ変える事なく言ってのけるフェイを見て、シュウは思った。もはや人ではないと。
 最後の勇気を振り絞り、もはや手の届かぬ所にいる姉に吐き捨てるように言う。
 「あなたは、愚かだ……」
 フェイは微力な抵抗を続ける弟を睨め付ける。

 「そうね、私は愚かだわ。でもね、ムラクモの顔色を伺いながら、自分の城を好きに修復すらできない。持つことを許されたのは城を守る僅かな兵と十人にも満たない輝士達だけ。こんな惨めな王がアベンチュリンを除いていったいどこにいるというの? 私は愚かだけど、同時にかわいそうでもあるわ。城の外を好きに飾れないというのなら、中をどこよりも豪華に。欲しい物は全て買って、私の思う通りにするの。それくらいの自由は認められて当然のはずよ」

 「その代償に、我が国の民が餓え、死に行くとしてもですか」

 「あなたは私を愚かというけど、今日集めたあの連中を見たでしょ? 用意された心地良い嘘に群がって酔いしれる浅慮な木っ端共を。私が愚かなら、民はさらに愚かで救いようがない。そんな者達を慈しむほど、私は偽善に興味はないのよ」

 ささやかでも、安定した治世を行ってきた先祖を想う。代々の王が座ってきた玉座を見つめると、フェイはからかうように声を弾ませた。

 「この座を捨てた事が惜しくなった? いまさら遅いわ。難しい事は考えず、あなたは早く子供を作りなさい。私は誰とも結婚するつもりはないのだから、このままでは血が絶えてしまうわ。あなたの孫になるか、その次の子になるか。この身の時が尽きるのがいつになるかわらないけれど、候補だけはきちんと用意しておかなくてはね」

 もはや返事をする気力もない。シュウが眉根を寄せて俯いていると、玉座の間にフェイの親衛隊の一人が入ってきた。
 「陛下、例の物、今しがた届きました」
 「そう! 急いでここへ」
 「は」

 間もなく使用人達が運び入れた物を見て、シュウは愕然とした。
 「……これは、なんですか」
 大人の背丈三人分はある巨大な黄金像。頭には角が生え、表情は禍々しく歪み、腹は樽のように膨らんでいる。
 「聞いていた通り見事な出来ね。見てごらんなさい、シュウ。南方のベリキンという鬼神だそうよ。向こうの人間は本当に鬼を神として崇めているのね、面白い。――約束通り、残りの半金を渡してやりなさい」
 フェイは輝士の一人にそう命令し、黄金の鬼神像をなめ回すように観察する。

 「まさか、これを買うために――」
 聞いておきながら、その答えを耳に入れるのが怖かった。シュウの願い通り、フェイは答えをはぐらかし、新しいぬいぐるみを渡された童女のように微笑んだ。
 「長旅ご苦労様。自室でしばらく休んでいるといいわ。そうね……すくなくとも七日の間は」
 「姉上……」
 フェイは親衛隊にシュウの軟禁を暗に命じた。
 無力さを噛みしめつつ、輝士に促されるままに玉座の間を後にする。
 背後から聞こえてくるフェイの声は、自らのしでかした事の重大さをまるで理解していないように、軽やかに弾んでいた。
 


 誰かが呼ぶ声に起こされて、重たい目蓋を開く。
 ぼやけた視界が徐々に整って、目に涙を溜めて自分に縋る、愛する孫娘の姿が見えた。
 口を開こうとして感じた痛みに体を丸める。溜まった血を吐き出し、ようやくの思いで一つ、深い呼吸をした。

 「ここは……」
 「地下牢だよ。じっちゃん、あいつらに酷い目に遭わされて……呼んでも返事がないから、心配したんだから……」
 背中からミヤヒの泣き声が聞こえる。
 こんなに元気のない声を聞くのはいつ以来だろうか。死んだ両親を想い、こうして消え入りそうな声で一人で泣いていたのが、昨日の事のように思える。
 「もういい歳なんだ、泣いてんじゃねえ」
 ぶっきらぼうなヒノカジの叱咤に、すぐさまミヤヒは歯を食いしばって涙を納めた。
 こうでなくてはいけない、泣いたところで、状況は何一つ変化しないのだから。

 体を起こす途中、無意識のうちに苦痛の声が漏れた。
 目蓋は腫れ、口の中はいくつも切り傷があり、胸や腹にも圧迫されているような痛みが持続して襲ってくる。おそらく服の下はアザだらけだろう。
 「小僧は……シュオウはどうした」
 「あいつは――」

 ミヤヒはヒノカジが気を失ってからの出来事を語って聞かせた。シュオウに与えられた命令と、自分達がここから出られる条件についても。

 「そんなことに」
 「ねえ、大丈夫……だよね? ここから出られるよね、あたし達」
 慰めの言葉はいくらでも頭に浮かぶ。しかし、一時凌ぎに現実逃避の希望を見せる事が、良いことだとは思えなかった。
 「難しいだろう」
 「そんな……」
 ミヤヒの顔は痛々しいほどに青ざめていた。

 「まず、小僧が女王に言われた通りに動くかどうかわからん」
 自分達二人の命を背負わされたシュオウとは、知り合ってまだ一月ほど。仲間ではあるが、昔からの知り合いというわけでもなく、出会ってからの共に過ごした経験もほとんどない。そんな人間が、僅かな間同じ建物で生活してただけのヒノカジとミヤヒのために奔走してくれるとは、到底思えなかった。

 「それに、小僧が無事に砦まで戻ってこの件を報告したところで、上がまともに取り合うとは思えん」
 シワス砦の現責任者はコレン・タールである。彼はヒノカジの知るかぎり、半ば左遷された状態であるにもかかわらず保身には熱心だった。
 得体のしれない他国からの招待に、きちんと確認もとらず従士を送り込んだのはコレン・タールであり、彼がそのことを上に知られたくないと考えるのは容易に想像がつく。
 下手をすれば、戻ってきたシュオウに対しても何をするかわかったものではない。
 仮にコレン・タールがこの事を軍上層部へ報告したとしても、希望的な未来を予測する事はできなかった。ムラクモという大国が、たかだか平民二人を熱心に取り戻そうとする姿など、微塵も思い描くことが出来ないからだ。

 気になるのはアベンチュリン女王の態度だ。これだけの事をしておいて、シュオウを使って自らの行いを喧伝するような真似をしている。
 現女王が即位した際には、その性格に難ありという噂を少なからず耳にはしていたが、だからといって自らが窮地に陥るような事態は易々と招いたりしないだろう。勝算があってしていることだとすれば、それこそ一切の希望はない。おそらく自分達は――
 「生け贄、か」
 ヒノカジは思わずそうこぼした。
 「じっちゃん……」
 落ち着き欠けていたミヤヒは、ヒノカジの発した言葉で不安になってしまったのか、再び目に涙を溜めた。

 「そんな顔をするな。この世はなにがあるかわからん。俺も若い頃にはいくらか無茶をしたが、それでもこうしてこの歳まで生き残った」
 言って、ミヤヒの柔らかい黒髪に手を乗せ、わしわしと撫でつける。
 「うん、きっとなんとかなるよ。あいつ、以外と根性あるし、絶対に砦に戻ってちゃんと報告してくれるって」
 「……そうだな」
 頭では反対の事を思う。

 シュオウという青年はまだ若い。この事態に巻き込んだ責任は、連れて行くことを決めた自分にあるのだから、自分達を救うために何もしれくれなかったとしても恨む立場にはないだろう。
 ただ、こんなことで孫を死なせるような事にはしたくなかった。まだ自分の家族も持っていない、たいした経験も喜びも知らないうちに命を落としてしまうことになる。それに、二人の家族を同時に失う妻の気持ちを思えば、ひたすら申し訳なかった。

 薄暗く冷たい牢獄の中。
 二人は身を寄せ合うように目をつむった。
 痛みにこらえながら小刻みに呼吸をするヒノカジの胸中には、ここに至るまでのあらゆる事への後悔の念が渦巻いている。
 過ぎた時間は二度と取り戻す事は出来ない。だというのに、もしも、という言葉が、とめどなく頭の中で繰り返された。
 飲み込んだ唾液は、苦い血の味がした。



 アベンチュリン王都からシワス砦まで伸びる白道には、大粒の雨が降っていた。 
 夜道を一人で走る。雨に打たれながらも、シュオウは足をがむしゃらに前へ出した。

 頭の中では、これからの行動をどうするべきか二転三転して定まらず、答えがでないままに、とにかくシワス砦を目指している。
 皮肉な事に、シワス砦での退屈な日々で鍛えていたおかげで健脚を維持し、なおかつ雨降りで、水に濡れると光を放つ性質を持つ白道は、シワス砦までの道筋を示す一本の光を形成してシュオウを導いている。

 混乱、不快感、怒りや迷いが混沌として胸にざわつく。
 流されるままに退屈な箱の中に閉じ込められ、ようやく解放されたかと思えば、今度は一方的に他人の命を背負わされて、小間使いのようなことをさせられている。
 城から放り出されてから、胃の中のものがこみ上げてくるような吐き気が収まらない。

 ――あの時。
 無抵抗なヒノカジが暴行を受け、その様子を笑って心底嬉しそうに喜んでいた人々の顔が、頭の中にこびり付いて離れなかった。
 ――気持ちが悪い。
 あんなものを見たくて、自分は師の元を飛び出したのではない。堰から溢れ出した水のように、惑いが思考を埋め尽くしていた。しかし、感情とは裏腹に、足は迷う事なくシワス砦に向けて走り続けている。

 ふいに、欠けた道の段差に足を取られた。
 夢中で走っていたせいで受け身もとれずに、シュオウは雨に濡れる白道に体を投げ出す形となる。
 「つう……」
 全身に軽い痛みを感じる。立ち上がれないほどの怪我はしていないはずなのに、体を起こす気になれなかった。

 徐々に激しくなっていく雨に打たれながら見た先には、暗い深界の森が広がっている。
 風と雨に揺れる木の枝が、帰ってこいと手招きをしているように見えた。
 ――逃げよう。
 常人には無理でも、自分には灰色の森を歩く術がある。この忌まわしく、馬鹿げた人の世に、いつでも背を向ける事ができる権利を持っているのだ。

 自分が逃げればどうなるのだろう、とシュオウは考えた。
 ヒノカジとミヤヒは、女王の言った通り殺されるのだろうか。
 ――どうでもいい!
 目に見えない世界で何かが起こっていたとしても、それを目で見て、耳で聞いていなければ、自分にとってはないのと同じではないか。

 生と死の混在する灰色の森。かの地はシュオウを拒まない。
 奇異の目を向ける者もなく、多くの人々の中にあって孤独を感じることもなく、無理難題を押しつける理不尽も存在しない。
 帰ってしまいたかった。居心地の良い自分の世界に。

 心は自らの保身と逃避へ傾いていく。

 落としてしまった荷袋を拾うため手を伸ばすと、柔らかい袋の中にある硬く長い感触に違和感を覚える。手を突っ込んで取り出すと、それは一本のムラクモ刀だった。
 剣を教えてくれると言っていた、ヒノカジの顔を無意識に思い出す。砦の従士達との付き合い方をそれとなく諭してくれたミヤヒの顔も、同時に頭をよぎった。

 「くそッ」
 握った拳を地面に叩きつける。
 これから先、どこにいても、何をしていても、きっと自分は思い出す。命を見捨てた彼らの事を。
 ――知らせるだけ、それだけすれば十分だ。後は国がなんとかする。
 言い聞かせるように、シュオウは心の中で後ろ向きな決意を固めた。

 力なく立ち上がり、濡れた荷袋を背負って、重たいムラクモ刀を強く握る。
 冬の冷たい雨にあたって、体は急速に熱を奪われていく。肩は震えて指先の感覚は鈍くなりつつある。
 ――走ろう。
 せめてそうしている間は、体温を保てるはず。
 力強くとはいえないが、とにかく前へ向かって足を動かす。
 未だ尾を引く不快感はねっとりと胃のあたりにまとわりついていた。



 「なあサブリ、見てみろよ、これ」
 ハリオは人差し指につけた黒い点をサブリの目の前に突き出した。
 「……なんだ、これ?」
 「俺の鼻糞、デカイだろ」
 「きたねえなぁ……見せないでくれよ、そんなもん」
 サブリがハリオの手を払うと、彼はおかしそうに笑い、見張り塔の外へ大きな黒点をはじき飛ばした。

 時刻は日付が変わってから小一時間ほどが経過した深夜。シワス砦の周囲には弱い霧雨が降っている。
 「いいのかなぁ、俺達こんなことばっかりしてて」
 日頃からあまり真面目に仕事をしていない両者は、砦の実質的な責任者であるヒノカジが留守なのをいいことに、仕事場にこっそり酒とツマミを持ち込んでいた。

 さらさらと降る雨の音に耳を傾けながらの酒は旨いが、さすがにこれはやりすぎなのではないかと居心地が悪い。
 基本的に小心者であるサブリをよそに、酒を持ち込んだ張本人であるハリオはご機嫌に鼻歌を歌いながら、酒瓶をあおっていた。

 「いいじゃねえかよ、小うるさい爺さんが居ないことなんて滅多にないんだし、他の連中だってふらふらと手抜いて仕事してるじゃねえか。うぃっく……だいたいよぉ、こんな糞田舎でこんな夜中に通行人なんて来やしねえんだ、ほら、見てみろよ――って、あれ……?」
 立ち上がり、アベンチュリンのある東側へ視線を送ったハリオは奇妙な反応を見せた。すかさずサブリも立ち上がり、同じ方向を見る。

 「あれって、人か?」
 遠くのほうから、ぼんやりと光る白道の上を走って向かってくる人影のようなものが見えた。真っ暗闇の中、雨が降っていなければ気づかなかったかもしれない。
 「おい。あれ、従曹について行った例の新入りじゃねえか?」

 霧のような雨に遮られてぼんやりとしているが、たしかにハリオの言うとおり、灰がかった髪と黒い眼帯のようなものをつけた男の姿が見える。
 「だなぁ……でも、どうして走ってるんだろ、それに従曹とミヤヒ従士は?」
 「知るかよ。とにかく、他の連中に報告したほうがいいな」
 「他って、だれに?」
 「夜仕事で起きてる奴ら一通り。それに食堂のばあさんはすぐ起こしたほうがいいんじゃねえか」
 ハリオはそう言うと、自分だけさっさと下へ降りるはしごに足をかける。
 「おい、お前はどうするんだよ」
 「コレン輝士に報告するんだよ。あの様子はただ事じゃなさそうだしな」
 そう言い残して足早に去って行ったハリオを見送り、サブリも慌てて後を追った。

 中庭の東門の前に大勢の人間が集まっていた。コレン・タールとその私兵二人を先頭に、夜勤の従士達、それに食堂を管理するヤイナ。皆の視線が開かれていく門に釘付けにされている。
 開放された門の先には、さきほどサブリとハリオが見たとおり、新入りの青年がいた。
 全身をびしょびしょに濡らしながら、両手を膝に置いて体をささえ、痛々しいほどに疲れ切った表情で激しい呼吸を繰り返している。その姿を見て、ヤイナが真っ先に駆け寄った。

 「坊や、いったいどうしたってんだい? ……うちの人とミヤヒは?」
 ヤイナに聞かれて、新入りの青年は息も絶え絶えに話し始めた。
 「アベンチュリンに……女王に監禁されて、それで――」

 青年が続けて言った話に、皆は驚き戸惑った。ヤイナは口元を抑えて言葉を失っている。
 だが、皆の様子とはまた違った反応を見せている人物がいた。この砦の最高責任者であるコレン・タールだ。彼の斜め後ろに立っていたサブリから見たかぎり、その顔色は徐々に色を無くしていっているように見えた。

 「――それで、これを」
 青年は荷袋の中から金筒の書簡を取りだし、コレン・タールに差し出した。
 その場で直接書簡を受け取り中身を確認したコレン・タールの表情は、みるみるうちに険しくなっていく。

 「捕らえろ」
 書簡を手にしたまま、コレン・タールはそう呟いた。それを聞いて、この場にいる全員が耳を疑った。
 「この者を捕らえろといったのだ! 今すぐに!」
 コレン・タールの命令に従ったのは、二人の私兵だけだった。慌てて、今にも倒れてしまいそうな青年の両脇を拘束する。それを受けて、彼は声を荒げるような事もせず、どうして、と呟いた。

 「ちょっと、どういうことなんだい! この子の話の通りなら、すぐに王都に連絡を――」
 ヤイナが勇敢にも強い調子で叫ぶ。だが、コレン・タールはそれをさらに大きな怒声で遮った。
 「うるさいッ!! 黙れ! この者は嘘をついている。拘束して真実を問いただす。それまで牢に閉じ込めておけ!」

 そうまくしたてると、二人の私兵は青年を引きずるように抱えながら、ほとんど使われていない地下牢へ向かった。
 動揺する砦の従士達を余所に、コレン・タールは書簡を懐にしまって、さらに命令を飛ばした。
 「中を見張る人間がいる。お前と……そこのお前」
 コレン・タールは近くにいたハリオと、その次にサブリを指名した。
 「お、俺ですか?」
 サブリは確認を込めて自分を指さして聞いた。
 「そうだ。私が許可を出すまで、あれを見張っておけ。一切の口を聞かず、中には誰もいれるな。いいな」
 返事を待たず、コレン・タールは足早に建物内に入って行く。

 「あんた達……」
 ヤイナがこちらに向けて何か言いかけたが、コレン・タールの私兵の声がそれを遮った。
 「お前達、はやく来い! 牢へ入れるのを手伝え」
 ハリオとサブリは渋々後をついて行く。
 「はあ、めんどくせえことになったなあ」
 ハリオが渋い顔でそう漏らした。サブリも心底それに同意したい気分だった。


 地下牢は一度として使われていたという記憶がない。少なくともサブリがシワス砦に来てからは一度も使用されていないはずだ。だというのに中は小綺麗で、蜘蛛の巣一つ見あたらない。誰かがここの掃除を担当し、きちんとこなしていたからこその結果なのだろう。こういう所は、さすがに過剰な人員を擁するシワス砦、といったところだろうか。
 コレン・タールの私兵に囚われた青年は、ほとんど抵抗する様子も見せず、強引に引っぱられるままに牢獄の中に放り込まれた。

 「お前達はここで見張ってろ。コレン男爵の言った通りにしていろよ」
 私兵の一人がそう言い残し、牢獄にかけた鍵を手に外へ出ていく。
 残された二人は粗末な椅子に腰かけて、凍えるような地下の空気に耐えるように、体をさすっていた。
 同僚から一転、虜囚となった青年は、石で作られた粗末なベッドに体を横たえている。こちらに背を向けているので顔は見えなかった。

 「なあ、お前。さっきの話、本当なのか?」
 「おいッ、話すなって言われただろうが」
 聞いたサブリにハリオが注意する。が、事が事だけに聞かずにはいられなかった。
 「…………ほんとうです」
 青年は顔も向けず、ぶっきらぼうに言った。

 「んだよ、ふてくされてんのか? 俺達はお前の先輩なんだから、もう少しまともな態度で接したって罰はあたらねえだろ」
 話すなと言っておいて、今度はハリオが積極的に言葉をかける。
 「……ここの人達は、心配じゃないんですか。あの二人の事が」
 酷く力ない青年の声が、冷たい牢獄の中で反響する。

 「そりゃ気にはなるけどよ、俺達にどうしろってんだよ。だいたい話はコレン輝士に通ってるんだ。あとはあっちでなんとかするんじゃねえか?」
 楽観的なハリオの言葉に、サブリは異議を唱えた。
 「それはないって。こいつをこんなところに閉じ込めたんだぜ? 捕まった部下を助けよう、なんて考えてる人間の行動じゃないよ。あの焦った表情から見ても、きっとここで話を止める気だと思うんだ」

 「そんなもんか? まあ仕方ねえよ。貴族のすることに俺らが口出しできるはずねえしな」
 ハリオは話に飽きたのか、懐から木の実入りの革袋を取り出して中を探り始める。
 「なあ、お前なんて名前なんだ?」
 サブリが青年に聞くと、少しの間を置いて、小さな返事が戻ってきた。
 「……シュオウ」
 「プ、変な名前だな」
 ハリオが嘲笑を込めて言うと、気のせいかも知れないがシュオウの肩が機嫌を悪くしたように縮んで見えた。

 「俺はなサブリってんだ。で、そこの俺より品がないのがハリオだ」
 「おいッ」
 文句を言いたげなハリオを無視して、サブリはシュオウに話しかける。

 「なあ、ちょっと話さないか? 聞きたいと思ってたんだけどよ、お前に贈り物寄越してた貴族の娘らとはどうやって知り合ったんだよ?」
 聞いた内容について、シュオウからの返事はなかった。
 「なあ、聞いてるのか?」
 「ほっといてください」
 シュオウの不機嫌な声に、サブリは一瞬たじろいだ。だが、好奇心のほうが勝り、さらに話題を変えて話しかける。

 「じゃあさ、ヒノカジ従曹達が捕まったときのことを詳しく聞かせてくれよ。それくらいいいだろ?」
 シュオウはすべてを拒むように、体を丸めて両手で耳を塞いだ。これ以上話しかけて欲しくはないという気持ちを態度で表したのだろう。
 「ちぇ、なんだよ……」
 座った椅子に傾けながら、鉄格子に寄りかかる。そうしていると、背中からぼそっと小さく呟く声が聞こえたような気がした。
 「もうどうでもいい」

 首だけを動かし、後ろを振り返ると、相変わらずじっと体を横たえるシュオウの姿がそこにある。顔は見えないのに、その背中はとても辛そうに前のめりに丸まっていた。
 もっと話をしたい。静かな空気が苦手なサブリはそう思ったが、穴蔵で冬眠する動物のように会話を拒否するシュオウを前に、それ以上かける言葉が見つからなかった。


 どれほど時間がたったのか、サブリはいつの間にか座ったまま眠りに落ちていた。
 夢の中の自分は、ヒノカジと共にアベンチュリンへ同行し、そこで女王から見たこともないような豪華な食事を振る舞われていた。甘く香ばしい蜂蜜ソースがたっぷりとかけられた薄切りの肉に箸を出すと、そこで自分の手をアベンチュリンの輝士が掴む。それに驚き、箸を落としたところで夢は唐突に終わった。どうせなら食べ終わるまでを見せてくれればいいのに、夢はいつも肝心な所で終わってしまう。

 乾燥した口のまわりを舌で濡らしながら、サブリは鉄格子に寄りかかっていた体を起こし、目を開けた。
 そこで気づく。左のほうから聞こえてくる、カチャカチャという金属音に。
 見ると、涎を垂らしながら眠りこけるハリオの横で、ヤイナが牢獄の鍵穴に古びた鍵を差し込んでいる真っ最中だった。

 「ばあちゃん!? だめだって!」
 サブリは思わず大声で止める。それに驚いたハリオが目を覚まし、椅子から転げ落ちた。
 「んあッ!? いっつつ……なんだよ」

 当のヤイナはさほど気にした様子もなく、さらに鍵をせっせと動かしている。
 「うるさいね、静かにしなッ!」
 そう言ったヤイナの声のほうがよほどうるさかった。

 「え? おい、ばあさん何やってんだよ!? こんな事バレたらやべえって」
 ヤイナの持つ鍵に手を伸ばしたハリオの手を、ヤイナがぴしゃりとはたく。
 「邪魔するならただじゃおかないよ」
 ヤイナのドスのきいた声に二人は震え上がった。女性の、しかもそれなりに年老いた彼女のどこからこんな声が出てくるのだろう。
 この騒ぎに、今までじっとしたまま動かなかったシュオウも体を起こしてこちらへ顔を向ける。目の下には真っ黒なクマが浮かび、憔悴しきっているようだった。

 「この合い鍵は古いから使えるか心配だったんだけどね……よし、開いたッ」
 ヤイナが威勢よく叫ぶ。ガチャンと小気味良い音がして、堅牢な扉は開放された。
 「ヤイナ、さん」
 シュオウの枯れた声を聞いて、ヤイナは目に涙を溜めながら歩み寄る。

 「悪かったね、遅くなっちまって。あの馬鹿貴族の従者どもが外をうろちょろしてたもんだからさ」
 ヤイナは膝を折り、ベッドに腰かけたままのシュオウの手を包み込むようにして握った。
 「こんなに冷たくなって……。うちの人とミヤヒのためにここまで必死に走ってきてくれたんだね。ありがとうよ……」
 ヤイナは大切な物を扱うように、シュオウの手を何度もさすった。
 「すいません。結局、何もできなくて」
 シュオウが謝ると、ヤイナは頭をぶるぶると大きく振った。

 「十分やってくれたさ。どれだけ長い間走ってくれたのか知らないけど、疲れ切った顔をして……それなのに、あんた達は毛布の一つも用意しないなんてッ」
 急にヤイナの矛先がサブリとハリオに向いた。
 ハリオはぶつぶつと何か言いながらふてくされ、サブリは後ろめたさを感じて首の後ろを掻いた。

 「まあいい。とにかく、あんたは早くここから逃げな」
 ヤイナの提案に、二人の表情が蒼白となる。
 「ちょ、いくらなんでもそれはダメだろ。コレン輝士にばれたら俺達がやばいって!」
 めずらしく余裕のないハリオの声を聞いて、サブリも不安になってきた。

 「そ、そうだよ、いくらなんでもこれはやりすぎだ、ばあちゃん」
 「逃げられたとか、なんでもいいから適当に言い訳を考えな。あの馬鹿貴族、頭の中は自分の身を守る事で一杯だ。このままじゃこの子の命が危ないんだよ。協力するならよし、しないなら今後あんた達の飯はなしだよ」

 ヤイナはきっぱりと言い切った。
 「そんなあ……」
 嘆くサブリを無視して、ヤイナは、さあ、とシュオウの手を引っ張り上げる。が、シュオウは立ち上がろうとはしなかった。

 「だけど、このままじゃヒノカジ従曹達が……」
 ヤイナの表情が渋くなる。
 「そうだね。こうなったらあたし一人でアベンチュリンまで乗り込んでって、女王に文句の一つでも言ってやるよ。そのせいで殺されたっていいさ。どのみち、家族がいないんじゃ生きてる意味もないんだからね。上はまったくあてにならないし……せめて軍の偉いさんに顔がききゃまだ望みはあるかもしれないけど。そんなの、あたしら平民にゃ縁遠い話ってもんさ」

 ヤイナの投げやりな言葉に、シュオウはハッとして顔をあげた。
 「俺の荷物は?」
 シュオウの視線の先にいるのはサブリだ。突然話しかけられて、慌てながらも答える。

 「えっと、たしかここに来た時にコレン輝士の従者がそこらへんに放り投げてたけど……えっと、あったぞ」
 部屋の隅に無造作に放り出されたままになっていた荷袋を手渡す。それを受け取ったシュオウは、必死に中を探り、一通の手紙を取り出した。
 「もしかして、それ貴族の娘からのやつか?」
 ハリオが興味津々にシュオウの手元を覗く。サブリも強く興味を惹かれ、気がつけば二人ともが牢の中まで入っていた。

 「違います。これ――」
 シュオウは手紙の差出人が書いてある面をよく見えるように掲げた。そこにあった名前を見て、シュオウを除く三人は声を失った。
 「おい……これ、アミュ・アデュレリアって書いてあるのか?」
 ハリオは平素では見られないほど、飾り気のない驚きを見せた。
 「その名前って、アデュレリア公爵家の氷長石様の事なんじゃ」
 サブリもまた、驚きをもってシュオウの手にある手紙を凝視する。
 「坊や、まさか氷姫様と顔見知りなのかい?」
 ヤイナが聞くと、シュオウはたしかに頷いた。

 アデュレリアは、ムラクモに暮らす者のみならず、他国にもその名が知れ渡るほどの大貴族だ。アデュレリア一族は代々氷長石という名を持つ燦光石を受け継いでいる。現アデュレリア当主は、齢百年を超えていまだ壮健との噂で、公爵位と、軍では元帥に次ぐ重将の階級をも担っている。別名で氷狼輝士団とも呼ばれている大規模な軍組織、左硬軍の長でもあるアデュレリア公爵の存在は、平民にとって雲の上の存在である並の貴族からもさらに一線を画す存在として認知されていた。
 また、現当主は気性が荒いという噂があり、粗相をした平民を氷漬けにして殺したという噂も広まっていた。そのため、民草の間では氷姫の愛称で恐れられてもいる。

 「この人に軍に誘われたんです。予定が狂ってしまって、ここへまわされたんですけど」
 「こいつぁ驚いた」
 ハリオが漏らした飾り気のない言葉に、サブリは無言で何度も頷いた。謎めいた新入り従士の出所が、まさかムラクモでも王家に次ぐ歴史ある名家アデュレリアに関連していたとは、砦の皆が知ればさぞ驚くことだろう。
 サブリは今すぐ駆け出して、この話を皆に触れ回りたい衝動で一杯だった。これだけのネタを持って聞かせれば、当分の間はちやほやしてくれるかもしれない。

 「今回の話を聞いてもらう相手が、アデュレリア公爵くらいの人だったら、何か良い解決法をみせてくれるかもしれない」
 シュオウの言った言葉に、ヤイナは困惑した表情で静かに頷く。
 「それはねえ、そうだろうけど。氷姫様はこの国でもグエン様の次にご長寿なお方だよ。あたしら平民が願ったからって、簡単に会って話を出来るようなお人じゃないんだ」

 「何かを頼んで、それを聞いてもらえるかはわからない。けど、会うくらいならきっとなんとかなります」
 シュオウは強くヤイナに言った。依然として疲れた顔からは生気を感じないが、消えかけた蝋燭にわずかに灯った炎は、かろうじて燃ゆる事をあきらめてはいない、そうした印象を受ける。

 「今回みたいな事にならないとはかぎらないんだよ? あんたの命だって危ないかもしれない。知り合って間もない人間のために、命がけで行動する気持ちが本当にあるのかい?」
 「命がけなんて大袈裟な気持ちはないです。ただ、出来ることがまだあるのに、このまま逃げ出したらきっと後悔する。本当に命が危ないと思ったら、這いつくばってでも逃げだします」

 ヤイナは瞳の奥を揺らし、一度深く顔を落としてから、シュオウの前にひざまずいて手を強く握った。
 「お願いするよ。出来るかぎりの事でいい。亭主とミヤヒのために」
 そんなヤイナを、複雑な表情で見つめていたシュオウは、彼女から僅かに目を逸らしながら頷いた。
 「……やってみます」

 次の瞬間、めそめそとしていたヤイナは突如元気良く立ち上がった。
 「よし、事が決まったんなら暗くなっててもしょうがない。坊や、あんたここを出る前に馬に乗れないって言ってたね?」
 シュオウは鷹揚に頷いた。

 「たいして役にも立たないだろうが、この二人を連れて行きな」
 ヤイナはそのへんに落ちている石ころでも指さすような気軽さで、サブリとハリオを指名した。
 当然のごとく、ハリオは猛烈に拒否する意志を表明した。

 「ばあさん、それはねえよ。こうしてるだけでもどうなるかわからねえってのに、こいつと一緒に、会えるかどうかもわからない貴族のために王都に行けって? 冗談じゃねえって。だいたいよ、本当に公爵とこいつが顔見知りかどうかもわからねえんだぞ。手紙一枚見せられたって、俺らじゃそれが公爵が書いたものかどうかすらわからねえんだ。こいつがここから逃げたいためだけに適当な事を言ってない証拠がどこにあるんだよ」

 ハリオの毒気のある饒舌さは、こういう時には頼もしい。サブリも影ながら激しく首を振って応援した。だが、地鳴りのような低いヤイナの声は、歴戦の勇将の如き安定感をもってそれに応戦する。

 「ハリオ、あんたたまに台所に置いてある調理用の酒に手だしてるだろ」
 「うぐッ」
 次に、ヤイナの厳しい視線がサブリを串刺しにする。
 「ひッ」
 「サブリ、剣もダメ、体を動かす事もダメ。これといった特技もない。そんなあんたをシワス砦に迎え入れてやるために、あんたの母親に頼まれて推薦状を書いたのは誰だったっけね」
 「……ヒノカジ、従曹です」
 互いに泣き所を突かれた二人は、しょんぼりと顔を落とした。

 「あたしはね、恩着せがましいのは大嫌いなんだ。けど、家族の命がかかってるって時ならそんな事はおかまいなしだよ。今言ったことだけじゃない、他にも聞きたけりゃ何枚でも恩を着せてやるからね」
 ヤイナは少しずつ二人の元へ歩み寄る。頭を思い切り叩かれるような気がして、サブリは反射的に手で頭を防御した。だが、ヤイナはしゃがんでサブリとハリオの顔を覗き込んでから、小さく頭を下げる。

 「頼むよ。ここから王都まで、走り続けたって結構な距離になる。この坊やを向こうまで送ってやるだけでいいから」
 僅かな沈黙が流れ、ハリオが突然勢いよく立ち上がった。
 「わあったよ、行くよ。送るだけでいいんだろ。ばあさんに言われると母ちゃんにどやされてるみたいで落ちつかねえ……サブリ、お前はどうする?」

 いきなり心を変えた裏切り者のハリオを一瞥して、サブリはなおも返事に困った。心の中では絶対にめんどう事に巻き込まれたくはないという気持ちと、日頃世話になっているヤイナの頼みを聞きたいという気持ちがせめぎ合っている。

 「でもなあ……王都まで連れて行くだけなら、一人いりゃ十分だしよ……」
 やらない理由をあれこれと探していると、すっと目の前に手が差し出された。
 「ハリオ?」

 「来いよ。お前の事は別に好きでもなんでもないけどよ。俺の軽口を聞いてくれるやつがいないとつまんねーだろ。俺が王都の良い店紹介してやる、そこで嫁さん候補でも探せよ」

 「ハリオぉ……」
 サブリはめずらしく自分が必要とされているという状況に感動していた。この手を握れば、ハリオとももっと仲良くなれるかもしれない。そう、堂々と友達だと言えるくらいに。
 サブリはゆっくりと、慎重にハリオの手を取るため、汗で温かく湿った自らの手を伸ばした。だが、もう少しで手と手が触れあうという直前、ヤイナの鋭い張り手がサブリの後頭部を強烈に打ちはたいた。

 「いてえッ」
 「うっとうしいね。行くならいくでさっさと決めな」
 「……行くってば、もう」
 ひりひりする頭の天辺を撫でながら、サブリも同行することに同意した。
 「よし、そうと決まったら――」
 さて、ここを出ようかという空気になった時、シュオウがそれに水を差した。

 「待ってください。アベンチュリン女王の書簡は?」
 「それって、お前がコレン輝士に渡してたやつか?」
 ハリオが聞くとシュオウは頷いた。

 「あれがないと、これまであった事を何一つ証明できない」
 「それなら、コレン輝士が懐にしまい込んでたのを見たよ」
 サブリが覚えていたことを話すと、場の空気は静まった。だというのに、シュオウだけは気にした様子もなく、すっくと立ち上がる。
 「行きましょう」
 「どこにだよ?」
 重たい声で聞いたハリオに、シュオウは淡々とした様子で答える。
 「もちろん取り返しに。あの輝士の所まで案内頼みます」
 「こっそり取ってこうなんて考えてるなら無理だぞ。きっと見張りがいる」
 怯えるサブリの横を、シュオウが通り抜けていく。その途中に彼が言った一言が、サブリの耳にかろうじて届いた。
 「なんとかします」


 シュオウ、サブリ、ハリオの三人は砦の三階を目指していた。ヤイナは馬を用意しておくと言って別れたが、すんなりと目的の書簡を取り戻して厩まで向かう事ができるのか、サブリにはまったく自信がなかった。
 シュオウは疲れがまるで抜けていない様子で、時折歩きながらふらついている。足下はおぼつかず、表情もまるで頼りない。その姿が、不安をより一層煽る。

 こんな奴の言うことを信じて、そのうえ上官に逆らってまで王都へ送り届ける手伝いをしていいものか。いまだ迷いは晴れていなかった。
 砦の一階から二階へ昇る階段を目指して歩いていると、自分達の後ろが妙なことになっているのに気づく。すれ違った従士達が、後をぞろぞろとついて歩いてきているのだ。

 「なあ、ハリオ」
 「なんだよ」
 「なんかさ、みんなついてくるんだけど、なんでだろ」
 「こいつと一緒に歩いてるんだから当然だろうが。従曹達が捕まった話はとっくに砦中に広まってるんだろ」

 ハリオは親指を立ててシュオウの背中を指す。

 「だったらさ、もっと目立たないようにして来た方がよかったんじゃないのか」
 「……そうだな。今気づいたぜ」
 「たのむよ……」
 「ひとのこと言えるのかよッ」

 前を行くシュオウが突然足を止めた。余所見をしていたサブリとハリオも、慌ててその場に立ち止まる。興味本位に後をついてきていた従士達も、少し距離を置いて様子を伺っている。
 じっと前を見つめるシュオウの視線の先には、コレン・タールと二人の私兵がいた。強ばった表情でこちらを睨みつけるコレン・タールの様子に、サブリの肝は縮み上がった。

 「牢に入れておけと命じたはずだ。どうしてこやつが普通に外を歩いているッ!」
 「ひぃぃ」
 コレン・タールの怒声に、サブリは身を縮めた。
 この場にいる者のほとんどが怯えたように眉根を落とす。普段強気なハリオも、猛る貴族を前にして、緊張したように手で服の端を握っている。

 だが、シュオウだけは違った。憔悴した体をふらりと揺らしながらも、後ろから僅かに覗く横顔に、怯えの色は一切見えない。サブリはそれを不思議に思った。

 「アベンチュリンの女王から渡された書簡を返してください」
 シュオウは気負い無く言い放つ。あまりに堂々とした物言いに、砦の従士達を含め、サブリとハリオの二人も呆然とシュオウの背中を見つめた。
 「返せ、だと。なにを馬鹿な事を。お前のような下っ端従士が、あれを持っていてどうするつもりだ」

 「あなたでは話にならない。王都に行き、もっと上の人間に報告します」
 「は……は……話にならんのは貴様のほうだッ!! それが上官であり、輝士であり、男爵位も持つ私に対する態度なのか? だいたい王都の人間が一介の従士が持ち込んだ余田話を聞くはずがないだろうが。だが、まあいい。寛大な処置を検討してやろうと思っていたが、上官へ反抗した罪により、この場で相応の罰を下してくれるッ。他の者らも見ているがいい、これが輝士に逆らった者の末路だッ!」

 猛烈にまくしたてたコレン・タールは、その場で両手を大きく広げた。
 「おいッ、コレン輝士が晶気を使うぞ!」
 後方から様子を見ていた従士達の中から、悲鳴にも似た叫びがあがる。
 たいして時間もたたないうちに、コレン・タールの手元には人の頭くらいある水の球が出来上がっていた。ふよふよと浮かぶそれは、当たればただではすまない威力があることを、皆が知っている。

 「伏せろ――今すぐこの場に伏せろッ!」
 誰かが叫んだその声に、サブリとハリオも咄嗟に床に体を伏せた。
 恐怖から目を強く閉じると、目の前にあったはずの人の気配が、不意に消える。ドタドタと走り出したような靴の音がして、それは徐々に遠ざかっていった。

 「ぐごばッ」
 動物の断末魔のような奇妙な音が聞こえた。それと同時にゴツン、という鈍くて重たい音が聞こえたあと、ドサリと重たいないかが床に落ちる音が聞こえ、次にまた一つ、ゴツンと鈍い音がした。
 「なんだよ、お前……やめろ、くるなよ!」
 聞き覚えのあるこの声は、コレン・タールの私兵の一人だったはず。切羽詰まったような彼の声を聞いて、サブリは奇妙に思った。聞こえてくるのは、水の塊に吹き飛ばされたシュオウの苦悶に満ちた声であるはずなのに、と。

 もう一度、さらに強く重たい音がして、場は静まりかえる。
 サブリが恐る恐る顔をあげると、そこにあったのは血まみれに横たわる若き従士の無残な姿ではなく、顔にこすったような擦り傷を残し、潰れた鼻から大量に血を流しながら白眼をむいて横たわる、コレン・タールと二人の私兵の姿があった。

 床に伏せったまま顔だけ上げ呆然とシュオウを見やる従士達。いつのまにかハリオも顔をあげて様子を伺っていた。
 シュオウは何事もなかったかのような態度で、気を失って倒れたコレン・タールの服の中をごそごそと漁っている。
 「あった」
 金筒に入った書簡を手に、シュオウはサブリとハリオに向け、声をかけた。
 「行きましょう」
 そう言って、厩のあるほうまで小走りで駆け出す。
 「お、おい待てよ!」 
 ハリオが即座に立ち上がり後に続いたのを見て、サブリも慌ててそれを追いかけた。



 走り去っていく三人の背中を、シワス砦の従士達は呆然と見送っていた。
 誰かが思い出したかのように言う。
 「おい、追いかけなくていいのかよ」
 そんな声があがると、従士達は鼻血を垂らしながら気を失っている、無様な輝士の姿を見た。
 そして、それぞれに近くにいる者達と顔を見合わせながら、誰ともなしに、ぽつぽつと漏らした――
 「だれが?」
 「どうやって?」
 ――と。
 それに答える言葉は、だれからもあがらなかった。



 砦の一階から厩へ続いている廊下を走りながら、ハリオは爽快に声を張り上げた。
 「うっひょー! 見たかよ、さっきの?」
 聞かれたサブリは、首を振って否定する。
 「い、いや、目閉じてたから」

 「こうさ、突然走り出したかと思ったら、コレン輝士が晶気を使う寸前に身を低くかがめてよ、いきなり後ろに回ったかと思ったら頭を後ろから思い切り壁にドーンッと押しつけて……。ミヤヒにボコられてたのを見た時はただのヘタレだと思ってたけど、あの度胸は半端じゃねえよッ」

 興奮気味に喋るハリオの説明を聞いても、実際にそれを見ていないサブリにはいまひとつピンとこなかった。輝士を相手に、ただの従士が本当にそんな立ち回りをできるのだろうか。だが考えるだけ無駄だとすぐに思い直る。ハリオの話した通りの結果を、サブリはたしかに自分の目で見たのだから。
 廊下を抜けた先、薄暗い厩に入ると二頭の若い馬の手綱を引いて、ヤイナが待機していた。

 「ばあさん、すげえんだこいつ、さっきさ――」
 いつも捻くれた態度で冷めた事しか言わないハリオが、少年のような顔で興奮している。一瞬で人を変えてしまうほどの光景をシュオウが披露したのだとしたら、それを見逃した事が今更惜しくなってきた。

 「誰かが後を追ってきてるかもしれない、急がないと」
 シュオウはハリオの言葉を遮った。
 「そうだね、早くお行き。女王の言った期限からもう今日で三日目なんだろ。大急ぎでも間に合うかわからない。馬は若いのを二頭選んどいた。ちょっとくらいの無理には耐えてくれると思うんだけどね」
 ヤイナの言った通り、用意されていた馬は比較的若く、健脚なものが選ばれていた。

 「それと、こいつを――」
 ヤイナはシュオウの荷袋を持ち上げて渡した。
 「にぎりめしをいくつか入れておいたよ、昨夜の残り飯だし、急ごしらえで味は保証できないけどね。道中の腹ごしらえに使いな。あと、悪いとは思ったんだが、袋を開いたときに見覚えのある物を見つけてね」
 ヤイナは言って、一本のムラクモ刀を見せる。実際に普段から腰に差すものと違い、刃の少し短い予備刀であるようだった。
 「それは……アベンチュリン王都へ行く前に、ヒノカジ従曹から借りたままになっていて」
 シュオウはヤイナの握るムラクモ刀を見つめてそう説明した。
 「そうかい。あの人が若い頃から持ち続けてたもんだ。これを預けたってことは、あんたの事を信用してたんだろうね」
 ヤイナはムラクモ刀をシュオウに差し出す。
 「でも、これは……」
 「いいんだよ。あの人だって、たぶん坊やにあげるつもりだったんじゃないかと思うんだけどね。使えなかったとしても、売れば多少のたしにはなる。いざってときのために持っておいき」
 シュオウは躊躇いを見せた後、緊張した表情で受け取った。
 
 「さて、行こうぜ! 時間ないんだろ」
 ハリオはしんみりとした雰囲気を払うように声を張り上げながら黒鹿毛の馬に跨った。サブリは体格の良い鹿毛の馬に跨る。
 「お前はどっちに乗るんだよ」

 問われたシュオウは迷わずサブリのほうを選択した。
 だが――
 「…………ねえ。これ、おかしくない?」
 シュオウがよっこいしょと乗り込んだのは、サブリの後ろではなく前だった。丁度サブリがシュオウを抱きかかえるような形となる。
 「別におかしくはないんじゃないか」
 ハリオが目を細めながらそう言った。

 「おかしいって! 普通こうやって乗せるは女子供だよ。なにが悲しくて三十を目前にして馬の上で男を抱きかかえなきゃならないんだよ」
 サブリは半べそ気味に訴えた。

 「凄く疲れてて、背中を預ける所が欲しいんです……」
 眠たそうな目のシュオウが後ろを振り返り、サブリに詫びるように小さく頭を下げる。今にも倒れてしまいそうなほど元気をなくしたシュオウを見て、サブリはそれ以上何も言えなくなってしまった。

 「しょうがねえな……ハリオ、後で交代しろよな」
 「休憩する暇があればな」
 ハリオはくつくつと笑っていた。間違いなく交代してやろうなどという優しい事は考えていない顔だ。

 「くっちゃべってないで、準備ができたならさっさと出な」
 ヤイナは二頭の馬の腹に触れる。
 シュオウはヤイナを見て、最後の言葉をかけた。
 「出来る限りのことはやってみます。だから――」
 「ああ、頼むよ。けど、無茶はいらないからね。無理だと思ったらあたしらの事なんか忘れて、どっかに逃げちまいな」
 ヤイナは軽く笑ってそう言うが、本音では藁をも掴む心地だろう。

 厩を後にして、門をくぐる。夜まで降っていた雨は止み、周囲の空気は湿気をほどよく含んで、砦内を走り続けで火照ったサブリの体を冷ましてくれた。
 一直線に休まず西を目指せば、半日ほどで王都に近づく事ができるだろう。

 馬上でのシュオウは、出発してまもなくサブリに体を預けて、寝息をたてはじめた。首をがっくりとおとし、それでも両手でしっかりと鞍の出っ張りを掴んで離さない。
 「器用なやつだなあ。普通こんな状況で眠れるか?」
 サブリが言うと、ハリオも同意する。
 「ああ、変わってるよこいつ。見た目も、中身もな」
 「めんどうな事になったよ……」

 一日前まで、何事も平穏なシワス砦の中で、寝て起きて食って、簡単な仕事をこなしているだけの日々だった。それが今では上官に逆らい、雲の上よりさらに天高くにいるような大貴族に会うために王都へ向かっている。

 「本当にな。けど、ちょっと面白そうだよな」
 押し殺したような笑みを浮かべながらハリオは言った。
 「うん……まあ、そうかもな。ちょっとだけ」
 これまでの人生の中で、これほど心臓が強く鼓動する瞬間をサブリは知らない。
 腕の中でのんきに寝入るシュオウの重みを感じながら、サブリは強く手綱を握りしめた。



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