『ラピスの心臓 無名編 第四話 狂いの森』
王都の西門を出た先の山の麓に、従士志願者は集められた。
時刻は早朝。皆、無理矢理叩き起こされたせいで寝惚けた顔をしている。
途中、飲み過ぎたせいなのか、胃の中のものをすべて吐きだしている者までいた。
ここから見える景色の先には、灰色の森が視界一杯に広がっている。
世界を見るために森を出てきたのに、なんの因果か再び森へ入ることになったシュオウは、なんとなく納得いかない気持ちを抱えていた。
「しまりのない顔だな」
合流した貴族の娘が言った、最初の言葉がこれだった。
寝不足、かつ昨日の疲労が顔に出ていたシュオウを指して言ったのだろう。
露骨にこちらを見下したような視線に、なにか言ってやりたい気分にもなったが、ほうっておけ、と心の中で呟くのに留めた。
宝玉院の生徒達は試験官の元に集められ、何かの説明を受けている。
ここからでは何の話をしているか聞こえないが、生徒達は緊張した面持ちで話を聞いていた。
試験官が説明を終えると、各生徒達に茶色い背負い袋が手渡されていった。
荷物を受け取った生徒達から、自分の小隊の元へ戻っていく。
シュオウの小隊の生徒達も、重そうに背負い袋を抱えて戻ってきた。
「お……まえたち、さっさとこれを受け、取れッ……」
金髪の女生徒が、一番重そうな袋を押しつけるようにしてシュオウに渡した。
受け取ってみて、袋のあまりの重量に驚く。
袋は硬くて大容量の何かでパンパンに膨れていた。袋の底がやぶけてしまうのではないかと心配になるくらい重い。
「重いな、何が入ってるんだ」
「試験官は食料だと言っていた。試験開始まで中を開けるなともな。―――こっちの袋もそうだ」
金髪の女生徒は、背負っていたもう一つの袋をクモカリに渡した。
「これは、それほどでもないみたいね。シュオウ、交換する?」
「頼む」
体格も筋力もクモカリのほうが優れているので、素直に申し出を受け入れた。
重たい袋を、クモカリが受け取った袋と交換する。
さすがに軽々とはいかないようだったが、クモカリは重たい袋を肩に背負って、まだ余裕がありそうだ。特盛りの筋肉は伊達ではないらしい。
「わたしのも持って」
そう言って最後の一袋をクモカリに投げたのは、水色髪の女生徒だ。
二つ目の袋を受け取ったクモカリは、最初それをジロに手渡そうとしたが、しばらく荷物とジロを交互に見て、手を戻した。
背負い袋はかなり大きく、小柄なジロに持たせるのは酷だと思ったのだろう。
結局、シュオウが一つ、クモカリが二つ、袋を運ぶ事に決まった。
「それから、食料の支給品以外の持ち込みは不可だと言われた。もし持っていたら今ここで出せ―――まず、お前だ」
金髪の女生徒がシュオウを指さした。
「ない」
昨日の夜までは数日分の携帯食を持っていた。食料の持ち込みができないという話は事前に聞いていたので、すべて宿の人間に預けてきている。
「本当だな? この後試験官が全員の荷物を検査する。その時になって私に恥をかかせるなよ」
次に女生徒はクモカリを見た。
「アタシも持ってないわ。信用できないなら、体中まさぐって調べてみる?」
「だ、黙れ汚らわしいッ。もういい、最後にカエル、お前も持っていないだろうな?」
問われたジロは、なぜか気まずそうに目をきょろきょろ動かしている。
「………ジロ、魚の骨持ってる。これもだめっぽい?」
ジロは懐から、魚まるまる一匹分の骨を取り出した。
「あんた、それって昨日の?」
クモカリが呆れた様子で聞くと、ジロは目をそらしながら一回頷いた。
「まだ身が残ってたから、口に入れて持ってあがった」
昨日の騒ぎの最中、そんなことをしていたらしい。見上げた食い意地だ。
「たとえ骨だけでもダメだ。今すぐそのへんに捨ててこい。まったく、先が思いやられるぞ」
ジロは、まだ味があるのに、と呟きながら渋々骨を捨てに行った。
女生徒の言葉通り、複数の試験官達が各小隊の荷物検査をしてまわった。
ポケットやズボンの中まで調べられ、先ほど渡された三つの背負い袋の中まで細かく検査をしたのだから、徹底している。
荷物検査を受けた従士志願者の中には、ポケットにクッキーのかけらが入っていた者がいて、それだけで試験官はかなり厳しい口調で注意していた。
準備を一通り終えて、全小隊が即時出発できる状態を整えた。
さて、このまま一斉に試験開始か、と身構えていたのだが、どうも一本の白道につき、一隊ずつを時間差で出発させるらしい。
シュオウ達の小隊は二番手に出発する組となった。
試験場となる深界の森には、九本の白道が見える。
そのうち、最も北側に位置する白道は、整備が行き届いていて状態も良く、道幅も広い。
この状態の良い最奥の白道は、試験官達の移動と、試験後の帰り道に使われる。
残り八本の白道は、外から見える箇所だけでも、どれも同じくらい状態が悪そうだった。
次の出発時刻までの空いた時間で、小隊員達の簡単な自己紹介が交わされた。
金髪で、高圧的な態度の女生徒の名前は、アイセ・モートレッド准輝士候補生。手の甲には淡い緑色の輝石がある。
身長は女性としては平均的なくらいで、高くも低くもない。しかし、引き締まった長い足と、小顔のおかげか、全体的なスタイルは抜群と言っても過言ではないくらい見栄えがいい。
胸の大きさはそれほどではないが、だからといって男性的な印象はなく、洗練された都会的な女性の雰囲気を漂わせている。
整った眉目と厳しい表情が、その印象をより強調していた。
彼女は、小隊の隊長でもある。
水色髪の気怠いオーラを纏った女生徒のほうは、シトリ・アウレール准晶士候補生、と投げやりに言った。
常に眠そうな瞳は、夢と現のどちらを見ているのかはっきりしない。
だがそんな昼行灯な性格からは不釣り合いな、ふくよかな胸と女性的な魅力に満ちたやわらかそうな肢体のおかげで、チラチラとシトリに視線を送る男が後を絶たない。
一般的な市井の女性なら、自分が異性にもてることを喜ぶものだが、彼女からそんな印象は一切受けかなかった。
シトリの手の甲には淡い青系色の輝石がみえる。おそらくは、水を操る彩石だろう。
アイセとシトリは、どちらも背格好は大差ない。
なのに、両者から受ける印象はまるで違う。
アイセは触れれば切れてしまう鋭い刃物のようであり、シトリのほうは水面に映った曇りの日の月明かりのようにぼんやりしている。
アイセは肩先まで直進する真っ直ぐ伸びた金髪。シトリのほうは腰くらいまであるフワフワとした水色の癖毛だ。
性格が髪質にまで現れるものかと、シュオウは一人感心していた。
二人の服装は、水色の上等な制服だ。
貴族の子弟が通う軍学校の制服だけあって、質は素人目にも上等だとわかる。
上は男女共に、白いシャツの上に水色の上着を羽織っている。
下は男子が紺色のズボンで、女子は同色のスカート、その下に厚手のタイツをはいている。
靴は膝下くらいまである黒のブーツだ。
「その格好で参加するつもりか?」
シュオウは思わずそんな事を聞いてしまった。
宝玉院の制服が、深界を歩くのに適していないわけではない。
彼らが身につけているものは、平民の一張羅より良品質、かつ丈夫そうで、強度の面では心配はいらないだろう。
だが、深界を歩くにはあまりに綺麗すぎて、汚してしまうのはもったいない気がしたのだ。
「当たり前だ。お前達はともかく、私たちにとっては卒業試験なのだからな」
案の定、アイセはシュオウの発言を一蹴した。
シュオウ達の小隊が出発する時間となった。
開始地点に、横一列に八組の小隊が並ぶ。
シュオウの小隊は、最奥の試験官移動用の白道から四番目の白道を指定された。
同じ道に、昨日シュオウに酒を浴びせた傭兵くずれと、アイセ達にからんできた男子生徒のいる小隊が先に入っている。
試験官が剣を抜き、上に掲げて振り下ろした。
スタートの合図だ。
横一列に並んだ小隊が、各白道へ向けていっせいに駆けだした。
勢いよく走りだしたアイセに引きずられるように、シュオウ達は小走りで後を追った。
いまはもう使われていないという古道は、入り口からは若干広く見えたが、実際に中に入ってみると、奥に行くほど道が狭くなっているのがわかる。
古道の入り口に入ってすぐ、シュオウは全員を止めた。
「待て」
「なんだ、忘れ物なら今更無理だぞ」
スタート時の勢いそのままに奥へ走り込もうとしていたアイセは、煩わしそうにシュオウを睨んだ。
「渡された荷物の中身を調べていない。本格的に奥へ行く前に把握しておきたい」
「そんなこと、もう少し先へ行ってから休憩のときにでも―――」
シュオウはアイセの返事を待たずに、自身の背負っていた袋を降ろして中身を確認した。
クモカリも地面に二つの袋を降ろした。
言うことを聞けと喚くアイセを無視して袋を開ける。
シュオウの持っていたほうには水を入れた革袋が入っていた。雨の多い森には、あちらこちらに水溜まりがあるので、補給の心配はいらないだろう。
他に、パン、干した肉や乾燥した豆料理、蜜漬けの果物が入った小瓶等の保存食が詰められていた。
クモカリの持っていた袋の一つには、折りたたみ式のテントと、寝袋、ロープやランプ、火おこしの道具といった野外向けの寝具や雑貨が入っている。
野宿をするには、まあまあの装備といっていい。
問題は、最初にシュオウが渡された底が抜けそうなほど重い袋だった。
中には丈夫そうな太った袋が入っていて、そこに手を突っ込むとジャラジャラと細かい粒の感触がした。
「米、か」
「けっこうな量みたいね。これだけあれば五人で一ヶ月、食べるのには困らなそうよ」
クモカリが米を手で掬い、上からさらさらと落とした。
「当たり前だ、この試験の目的は目標地点までの踏破であって、参加者を飢え死にさせるものじゃないんだからな」
米は栄養もあって腹持ちもいい。
炊かずに置いておけばすぐに腐ることはないし、旅の主食としては贅沢なくらいだ。
だが、シュオウは解せない気持ちを抱えていた。
「目的地まではどれくらいかかる?」
シュオウの質問にアイセは眉間に皺を寄せた。
「試験期間は今日から一ヶ月だが、毎年早い小隊で二週間くらいで目的地まで辿りつくらしい。遅くても三週間もすれば、一通りの小隊は指定地点まで到達すると聞いている」
目的地までは最速で二週間、遅くても三週間はかかるらしい。だがどちらにしてもこの米の量は多すぎる。
米は火を使って炊かなければ、まともに食べる事ができない。
シュオウ達の行く古い白道は、夜光石の効力も弱まり、道幅も馬車一つ通るのがやっと、というくらい狭い。道の左右には圧迫するように灰色の森が迫っていて、この先を行けば、奥はこれ以上狭くなっている可能性もある。そんな状況で火を使えば、匂いで狂鬼を呼び寄せてしまう危険もでてくるのだ。
上層界の生き物とは違い、狂鬼は火を怖がらない。むしろ、本来森にないはずの臭いから人の気配を察知して襲いかかってくる。そのため、深界を行き来する仕事をしている者達は、臭いのでにくい特別な木材を使ったりと、それなりに工夫して火を使っている。当然、試験参加者達に、そんな特別な道具は渡されていない。
「この米は置いていく」
そう言うと、全員が驚いてシュオウを見た。
「なにを勝手なことを言っているッ! さっきから調子に乗って仕切ろうとしているが、この小隊の責任者はこの私だ。大事な食料を置いていくなど、そんな勝手は許さないぞ!」
アイセはヒステリックに怒鳴って、米の入った袋を指さした。
「米は食べるために火が必要になる。森で不用意に火を使えば狂鬼を呼び寄せる。それを知っていて、わざわざこんな重たい物を運ぶ必要はない」
「火が狂鬼を呼ぶだと? 深界については私もそれなりに習っている。白道の上で火を使ってはいけないなんて、教わったことはないぞ」
「それは白道がまともな状態で、さらにそれなりの準備ができている場合の話だ。これから俺達が行くのは、狭くてまったく整備されていない古道だ。常識は通用しないと思っておいたほうがいい」
アイセは少したじろいだ。はじめて迷いの色が見える。
「だ、だが……」
「俺も、お前と同じ試験の参加者だということをを忘れるな。自分が死ぬかもしれない状況で、勝算のない意見を提案したりはしない。どうしても持って行きたいのなら好きにしろ。俺はここで抜けさせてもらう」
アイセは難しい顔で米袋を睨み、何事か考え混むように黙った。
信じて貰えないのならそれまでだ。ここで判断を誤るような人間と、この試験を共に乗り切る自信はない。
「ねえ、ちょっと待って」
クモカリが手をあげてシュオウに問いかけた。
「なんだ」
「深界で素人が火を使うのは危ないっていうのは聞いたことがあるからわかるんだけど、お米を置いていくとして、残りの食べ物だけで最後までやっていけるの?」
乾燥した硬いパン、肉や豆、甘い果物などの保存食は、そこそこ節約して食べても一週間もつかどうかの量しかない。相当切り詰めれば二週間分は捻出できるかもしれないが、体力面で心配がでてくる。
「米を抜いた手持ちでは、だいたい一週間、どんなに努力しても二週間で底をつくだろうな」
「だろうな、だと。まるで他人事みたいな言い方だが、森を抜けるまでに食料が尽きたら全員飢え死になんだぞ」
アイセの表情が一層険しくなる。
試験途中に食べ物がなくなってしまうのと、豊富な食料を抱えて狂鬼に襲われるのとでは、はたしてどちらがましなのだろうか。この試験を管理している側が、この二択を意図的に用意したのだとしたら、なんとも意地が悪い。
「食事の度に狂鬼に襲われる心配をしているくらいなら、少ない食料が尽きる前に森を抜けてしまうほうがいい。さっき言っていたな、二週間で試験を終わらせる小隊もいる、と。なら、できるだけ食べる量を節約しつつ、二週間以内を目標に森を抜ければいい」
アイセはわずかに思案して、ようやく答えを出した。
「………わかった。自分でもどうかしてると思うが、お前の案を受け入れよう。だけど、食料が尽きる前に森を抜けられそうになかったら、お前から食べる量を減らしてもらうからな」
シュオウは大きく頷いた。
その程度の約束で納得してくれるなら、安いものだ。
アイセはまだ完全には納得していない様子で、すぐにシュオウから視線をそらした。
クモカリは微笑んで頷いている。ジロは黙っているが不満を抱えている様子はない。
シトリは何事もなかったかのように、眠たそうな視線を遠くへ向けていた。
小隊は灰色の森の狭い白道の上をかき分けるように進んだ。
出発した時はまだ午前中だったが、今はもう日が落ちそうな時間になっている。
ただでさえ狭い白道は、所々欠け落ちてしまっていたり、隙間から雑草が伸びていて心許ない。
同じような色のない景色が延々と先まで続いていて、墓場の中を歩いているような気味の悪さを感じる。
まるで死者の行列のように立ち並ぶ灰色の木々が、不気味な空気をより一層強めていた。
唐突に空気が静まりかえった。
小さな虫や動物の声が消えて静寂が訪れる。
遠くのほうから、地鳴りのような重たい音が、一定の間隔で聞こえてくる。
その音は、徐々に大きくなっていった。
「この音はなんだ……」
先頭を歩いていたアイセが、足を止めた。
小隊全員が緊張した面持ちでその場にしゃがみ込む。
地響きのような重低音が、皆の不安な気持ちを煽った。
前方右側の森の中から、黒い巨大な虫の足が伸びた。
歪な形をした足が、尖った先っぽを地面に降ろすたび、ズシンズシンと大きな音を鳴らしている。
足がシュオウ達の目の前に一本、二本と出てきて、ソレは姿を現した。
――オウジグモ。
巨大な虫型の狂鬼で、その形は蜘蛛によく似ている。
しかし、体の大きさは大きな二階建ての家くらいあり、黄色と黒の縞模様をした硬い外皮の上には細かい体毛がはえている。
このオウジグモは、捕食するときに粘着質の糸を出して獲物の動きを封じ、捕食する。灰色の森の食物連鎖の中でも上位に位置する狂鬼だ。
てっきり、シュオウ達に狙いを定めて現れたのかと思ったのだが、様子がおかしい。
こちらを目の前にしても、オウジグモの歩行はゆるやかで、ただこの場を横切ろうとしているだけのようだ。
こちらに気づいていない、というより、興味がないというのが適切だろう。
悠然と歩を進めるオウジグモの口元をよく見ると、人間の服の切れ端らしい布地がひっかかっていた。
食べたのだ。
おそらく、試験参加者の一人だろう。
すでに腹がふくれているオウジグモは、それ以上に余分な栄養を欲してはいない。
ならば、このままやりすごすことができる。
「全員動くな」
シュオウは囁き声で言った。
だが、遅かった。
「うあああああああああッ!!」
アイセが叫び声をあげながら狂鬼めがけて突進していく。
その手には、緑色に光り輝く剣の形をした晶気が握られていた。
状況を一切考慮していない、完全な暴走だ。
「待てッ!」
咄嗟に止めようと声をあげるが、アイセはそのままオウジグモの足の一本に、晶気の剣で思い切り斬りかかる。
オウジグモの足に触れたアイセの晶気の剣は、オウジグモの硬い外皮にはじき返された。
結局、体毛をわずかに剃りおとしただけで、オウジグモの足には傷一つついていない。
オウジグモの歩みが、止まった。
シュオウは尻餅をついたアイセの元まで走り、後ろから抱えるようにして少しずつ後ろへ引きずった。
アイセの手にあった剣状の晶気は、すでに消えている。
抱きかかえたアイセの細い体は硬直し、震える体からカチカチと歯が鳴る音が聞こえた。
オウジグモは少し周囲を探るように頭を動かした後、再びゆっくりと歩き始めた。
やがて、巨大な狂鬼の姿は見えなくなり、地鳴りのような足音も聞こえなくなった。
周囲の空気が元に戻る。
オウジグモが通った後の白道には、足の形に穴が穿たれていた。
ジロ、クモカリはすでに立ち上がり、白道に空いた狂鬼の足跡を見物している。
だが、シトリは顔面蒼白で地面にうずくまり、アイセはシュオウの腕の中で、捨てられた子犬のように震えていた。
どうやら、この狂鬼との遭遇は、彼女たちにとっては想像を絶する体験だったようだ。
オウジグモとの遭遇から、魂が抜けたように大人しくなってしまったアイセに影響されて、小隊の進行速度は重くなってしまった。
辺りも暗くなりはじめていたので、寝床の用意をはじめることにした。
折りたたみ式のテントは風を通さない丈夫な布で出来ていて、中に入ればそれなりに寒さをしのげそうだ。
そのテントを二つ、狭い道のど真ん中に向かい合うように設営した。
脇に落ちていた木の丸太を椅子がわりにして、ようやく一息つく。
シュオウは一日目の食事として、小瓶に入った蜜漬けの果物を選んだ。
甘い物には心を落ち着かせる効果も期待できる。
全員が同じ量を少しずつ口に運び、初日のわびしい夕食が終わる。
シュオウは空いた瓶を軽く洗い、水を注いだ。
それから古くなった白道の一部を手に取り、地面に落ちていた石で細かく砕いていく。
「なにしてるの?」
クモカリがシュオウの手元を覗き込んだ。
「最低限の灯りを確保する。白道は、それ自体がただの加工した夜光石だからな。細かく砕いて水に浸せば、発光する力も少しは戻るはずだ」
シュオウは壊れた白道の破片を、砂利になるくらいまで砕き、それを水の入った小瓶に入れた。
水に浸かった夜光石が、ぼんやりと白く発光する。
炎のような暖かい光ではないが、暗闇を照らすには十分な光量だ。
この光は狂鬼よけとしての効果も僅かに期待できる。
即席のランプを、二つの天幕の中心に置く。
夜光石の光が、仲間達の姿をぼんやりと照らした。
ジロは、まださっきの蜜漬け果物をモゴモゴと口の中でころがしている。
シトリは膝を抱えてうずくまり、アイセは無表情に地面を見つめて微動だにしない。
「いつまでそうしている気だ?」
シュオウはアイセに向けて声をかけた。
出発前とはまるで別人だ。
オウジグモとの遭遇から一言も話さず、虚ろな目で下ばかり見ている。
「………ほっといてくれ」
アイセは絞り出すように、ようやく声を出した。
「そうもいかない。明日からの事も含めて相談したいこともある」
「相談?」
「全員の武器、持ち物。とくに貴族のお前達は、晶気でどんなことができるのか把握しておきたい」
「…………」
アイセの返事はなかった。
自分の手の平をじっと見つめて、なにか考え込んでいる。
「え、えっと、それじゃあアタシから―――」
クモカリが不自然なほど明るい口調で声をあげた。
「クモカリの得物は重斧だな」
クモカリが取り出した武器は大きくて重そうな両刃の斧だ。
今朝、宿を出発した時から、クモカリはこの重そうな斧を背負っていたので、いやでも目についた。
「アタシのいた村のホラ吹きジイさんがね、若い頃これで狂鬼を狩った、なんて言ってたのよ。それで軍の仕事の出稼ぎに行くって言ったら持ってけって言うじゃない? それでなんとなくね。まぁ、見ての通り力はあるほうだから、それなりに使いこなせると思うわ」
「ジロのはコレっぽい」
ジロは天幕の中から小剣と小さな丸い盾を取りだして見せた。
剣は刃の部分が小さく、一般的なサイズの剣の半分くらいしかない。
盾は丸い形で、焦げ茶色の木材に、部分的に鉄で補強されている。
「お前はどうなんだ。さっき、剣のような晶気を使っていたな」
シュオウはアイセに問いかけた。
「ああ……これの事か」
アイセが左手を空中にかざすと、手の中に緑色に光る晶気の剣が現れた。
晶気の剣は大人が使う長剣と同じくらいの長さで、刃となる部分からは風が振動して高音を鳴り響かせている。
「これは……」
「風の剣だ。私が最も得意とする晶気の形だな」
「晶気は手から離して使うものだと思っていた。こんな使い方もあるんだな」
シュオウは先日の三人の輝士を思い出していた。各々が使う晶気はばらばらだったが、全員が力を飛ばす使い方をしていた。
アイセが作り出した風の剣は、普通の剣と同じように相手に斬りつけるようにして使うのだろう。晶気を投げて使うものと比べれば、もったいない力の使い方のような気もするが、もし風の剣に鉄剣のような重さがないのだとしたら、それは戦いにおいて十分な利を得ることができる。
「輝士なら誰でも、晶気をある程度思う形に構築することができる。でも、得手不得手というものはある。私の持つ輝石の力は風に属するものだが、同じ力を持っている輝士の中にも、投げて使うの形が得意な者もいれば、砂埃をまきあげて相手を攪乱するような小技が得意な者もいる。私は、たまたま得意とする晶気の形がこれだったんだ。平民だって、弓が得意な者もいれば、剣が得意な者もいるだろ」
「つまり、他の輝士達もその晶気の剣を使えるのか」
「これと同じ物を構築すること自体は誰でもできる。だが、構築と持続は別だ。構築した晶気を投げるようにして使うタイプは、晶気を構築してから、溜めて、放出するまでの手順がすぐに終わる。しかし、手元で常に晶気を維持し続ける剣のような形状は、晶気を一定量で維持し続けなければいけなくて、これはちょっと難しい。これと似たような感覚で――――」
アイセは晶気の剣を空中に放るようにして消した。
すぐに両手を前に突き出す。
そこからアイセの手の前に大きくて幅のある風の壁が構築される。
「―――こんなことも出来る」
「すっごいわね、まるで盾みたい」
クモカリが小さく拍手した。
それに気をよくしたのか、暗い表情で淡々と話していたアイセの表情に明るい色が戻る。
「そ、そうだろう? これは晶壁といって輝士なら誰でも使える力だが、私はこれを長時間維持できるのが自慢なんだ」
「輝士なら誰でも、ということは、そこの青髪の女も同じ事ができるのか」
シュオウはうずくまって顔を膝の間に沈めているシトリを見て言った。
「シトリは晶士だ。急速な構築が必要になる晶壁のような力は向いていない」
「その晶士という役割は、輝士とは随分違う仕事をするものなんだな。ただの軍での階級だと思っていた」
軍の階級として、輝士と晶士というものが存在することは知っていたが、その二つの明確な違いは知らなかった。
「輝士と晶士は全然違う。輝士は剣も使うし、前に出て戦うために素早く晶気を構築できる素質がなければ勤まらない。晶士は逆に、晶気をじっくり練って溜め込み、高威力、または広範囲で打ち出せなければならない。輝士、晶士のどちらになるかは自分で選択できない。これらの適性は生まれついてのものだからな。晶士としての素質を持つ者は少なくて――――」
アイセが饒舌に解説を続けようとした時、シトリの不機嫌な声が、それを止めた。
「うるさいな……」
シトリが顔をあげ、アイセを横目で見た。
「朝まであんなに偉そうにしてたくせに、急にペラペラと仲良く喋りはじめちゃって、気持ち悪い」
「私は別に……。ただ、これからのために必要な説明だと思ったから」
アイセの語気がだんだんと弱くなっていく。
「それで、いつもの傲岸不遜な主席のアイセが、平民相手に輝士と晶士の違いを説明してたの? アイセ、いっつも平民は使えない、貴族とは違う生き物だって見下してたじゃん」
「そ、それは………」
「そうやって口を動かしてればさっきの事がなかったことになると思ったの? 恐かったんでしょ、素直に認めなよ」
シトリの挑発的な言葉に、アイセはその場から立ち上がった。
「そんなわけがあるかッ! 私はちゃんとあの狂鬼に……一太刀浴びせた。なにもせずにじっとしていたお前に言われる筋合いはないッ」
静かな森に怒声が木霊した。
「そのくらいにしておけ」
シュオウが一言そう言うと、二人は少しの間睨み合って、互いに顔を背けるように座った。
「もう寝る。わたしのぶんの寝袋をちょうだい」
シュオウは袋から寝袋を一つ取り出し、それをシトリに渡した。
シトリは寝袋を抱えてテントの中に入っていった。
「………私も寝る」
アイセもそう言い残し、シトリと同じテントに入っていってしまう。
「やれやれね。アタシももう休ませてもらうわ。―――あんたはどうするの?」
クモカリは疲れた顔でジロに聞いた。
「微妙っぽい」
「ハッキリ言いなさいよ」
「疲れたっぽい……」
ジロは自分の肩をトントンと叩いた。
「そ、じゃあアタシたちも寝ましょうか。シュオウはどうするの?」
「俺は、もう少しここにいる」
シュオウはアイセとシトリが寝ている天幕を見た。
シトリの言い方はきつかったが、たしかにアイセは自分を見失っているように思えた。
今朝までの自信に満ちた瞳は、いまや虚ろで視点も定まらない。
あの大きな狂鬼との遭遇が、彼女の自尊心を打ち砕いてしまうほどの出来事だったのだとしたら、よほどの温室で育てられてきたのだろうか。
後ろの天幕からクモカリのイビキが聞こえてくる。
貴族の娘達も含め、彼らには見張りをする、という考えも浮かばないらしい。
シュオウは砕いた夜光石を小瓶に入れた。
こうして一晩中、少しずつ足していかないと、すぐに光は弱くなってしまう。
この時期、夜になると平地にある深界でも寒さが厳しい。
不安のせいか、シュオウは眠気を感じなかった。あるいは、慣れ親しんだ森の空気のおかげかもしれない。
シュオウは外套を目深にかぶり、暖をとった。
こうして、このまま夜明けがくるのを待つだけだ。
◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇
試験二日目の早朝。
曇り空がわずかに明るさを帯び始める頃、正面のテントからシトリが目をこすりながら起き出してきた。
「早いのね」
シュオウはまともに寝ていない。そのことを知らなければ、たしかに誰よりも早起きしたようにしか見えないだろう。
「まだ暗い。出発はもう少し明るくなってからだ。その時になったら全員起こすから、もう少し横になっていろ」
シトリは天幕へは戻らず、シュオウの横にピッタリとくっつく形で座り込んだ。
女性特有の甘い香りが、シュオウの鼻孔をくすぐった。
「それで、君は一番最初に起きてみんなを起こす係? それってお人好しすぎ」
シトリが下から覗き込んでくるように言った。
どこを見ているのかはっきりしない、ぼんやりとした青い双眸が、上目遣いでシュオウを見る。
シトリは、全体的に見た目が青い。
髪も目も青系色で、着ている制服もそうだ。おまけに左手の輝石までが淡い水色をしている。
そんなシトリをまじまじと見つめていると、まるで深い水底に引きずり込まれていくような感覚に囚われる。
それは、シトリが女性的な魅力に溢れていることも、一因なのかもしれない。
シュオウは平常心が揺らいでいるのを自覚し、咄嗟にシトリから距離をとり、対面に座した。
「いきなりそれって失礼じゃない」
シトリは下唇を噛みながら、半眼でシュオウを見た。
「突然他人にくっつくのは失礼じゃないのか。それとも、こんなことが当たり前になるくらい、日常的に男の側に座るのか」
「やめてッ。そんなことあるわけないじゃない、気持ち悪い」
「だったら――」
「胸や腰ばかり見てくる男なんてキモイだけじゃん。でも、君は近くにいてもわたしの体をジロジロ見たりしなかったでしょ? なんとなくだけど、君は他の男達とは持ってるものが違う気がする。空気が違うっていうか」
「空気が違う……」
「だから、生まれて初めて色仕掛けっていうのをやってみてもいいかなって思っただけ」
もし、シトリがシュオウに対して安心感を抱いたのだとしたら、それは大いなる勘違いだ。
シトリに体を寄せられたとき、その色香に心がグラついた。
シュオウも男としての欲求は当たり前に持っているし、それを意図的に隠すつもりもない。
シトリから距離をとったのは、ただ単純に、女に慣れていないからだ。
子供の頃は論外として、思春期を共に過ごした女性は師匠のアマネだけ。
アマネは育ての親として、また師として敬愛していた相手で、異性として強く意識したことはなかった。
「ちょっと待て、どうして俺に色仕掛けをする必要がある?」
「君に、お願いしたいことがある」
ぽやぽやとしたシトリにはめずらしく、真剣な視線を向けてくる。
「……なんだ?」
「聞いてくれる?」
「聞くだけなら、な」
シトリは軽く咳払いをする。そして、小声で突拍子もないことを言った。
「わたしを王都まで連れて戻って欲しいの」
なにを言われるかと身構えていたシュオウだったが、これには流石にとまどった。
「ここまで来て、今更なにを――」
「わたしはこの試験を棄権したい。最初から、こんなバカみたいな試験参加したくなかったんだけど、パパが世間体を気にして、どうしても出てくれってウルサイから仕方なく出ただけ。昨日みたいな、あんな大きな化け物が出るって知ってたら、こんなところ絶対にこなかった」
初めて見た時からやる気のなさそうな様子だったが、本当にやる気がなかったようだ。
試験に参加したくないという気持ちが、昨日の狂鬼との遭遇で一気に噴出したのだろう。
シトリはあくまで冷静に、余裕を持って話しているように振る舞っているが、しきりに唇を噛んだり、体をゆすったりして、精神的に不安定になっているのが見てとれる。
シトリが縋るように言葉を紡いだ。
「お願い」
「どうして俺に?」
「アイセがいない時に、二人きりで話せているから、というのもあるけど、君は言動を見ていると深界にすごく慣れていそうだから。昨日のあのでかいのに会ったときだって、アイセを助けるくらい余裕があったのは君だけだった。だから、ここから王都までわたしを護衛するくらい簡単でしょ? もし、このお願いをきいてくれるなら、君が貰うはずだったお金の二倍、ううん、三倍払う。だから―――」
「断る」
「どうして!?」
「信用できない。会ってまだ間もない。おまけにまともに話したのはこれが初めて。そんな相手の言葉を信じられるわけがない。言われるままに王都へ連れて行って、お尋ね者にされるのは困る」
「でも――」
「この話は終わりだ。そろそろみんなを起こすぞ」
――厄介だ。
小隊のうち四人は深界については素人。
そのうち二人は貴族のお嬢様。一人は自慢の鼻を折られた自信過剰な女で、もう一人は始めからやる気のないうえに、途中棄権を希望している、軟弱で協調性のかけらもないお姫様。
はたして、彼らと共に、無事森を抜けることができるのだろうか。
朝日が薄雲を照らし、辺りは明るくなりはじめている。
いまだにテントの中でのんきに眠る三人を起こして、ここを出発する頃には丁度良い時間になっているだろう。
午前中はなんら代わり映えしない、森の景色の中を歩き続けた。
主導権を握ろうとするアイセは先頭を歩き、シュオウに途中棄権の手伝いを依頼したシトリは、重そうな足取りで最後尾を歩いている。
時刻が正午をまわる頃、これまで出発してからずっと一本道だった白道が、突如二股に分かれる地点にさしかかった。
道は左右に分かれていて、どちらを選択するかによっては状況が大きく変わってくるかもしれない。
「最初の分かれ道、か」
アイセは腰に手を当て、左右の道を見比べている。
「目標地点まで一直線じゃないんだな」
シュオウがそう言うと、シトリは当たり前だ、と言って返した。
「そういえば地図を渡されていたんだった」
アイセは服の内ポケットから、古ぼけた皮に書かれた地図を取り出した。
「その地図の通りに進めばいいのか?」
「残念ながら、そんなに簡単にはいかない。この試験で使われる古道は長い年月をかけて少しずつ森に浸食されている。だから、地図に書いてある道でも、途中で森に塞がれていたりするらしい。この地図は自分達の現在位置を知るのに使えるくらいだな」
アイセから地図を受け取る。
インクがぼやけ、すでに消えかかっている箇所もあるが、まだ全体を見ることができる。
はじまりの部分から八本の道が大きく描かれている。道が左右に分かれている最初の分岐路が現在地だ。この二つに分かれる道の先には、さらに分岐地点がある。その様はまるで出来損ないの蜘蛛の巣のようでもある。
選ぶ道によっては行き止まりになってしまうあたり、自然の作り出した迷宮のようなものだ。
「これほど道が分岐しているのは想定外だ。もし選んだ道の先が森で塞がれていたら、時間を大きく消費してしまう」
「別に大したこともないだろ。道を間違えたら戻ればいいだけだ」
「忘れたのか、俺達は試験開始時点で食料を置いてきている」
「あッ……」
アイセの顔に陰りが差した。
もしも道の選択を間違えた場合は大幅に引き返さなければならない。その分にかかる余計な時間は、小隊の食料事情を考えると大きな痛手となるだろう。
シュオウ一人なら森の中を突っ切ることはできる。だが、慣れない同行者四人を連れて森の中を歩くのは自殺行為だ。
森の中には、鉄を溶かすほど強力な酸を吐く植物や、動物の鼻や耳から進入して中から内蔵を食い荒らす虫のような、危険な動植物がたくさんいる。
安全な上層界で日常生活を送るほとんどの人間にとって、灰色の森の中は、入れば命を落とす死の世界への入り口に等しい。
「……明日から、食事は夜だけにしよう」
「朝食は硬いパンをちょっとと、一口くらいの大きさの干し肉だけだったのに、これ以上減らすの? ……そんなに深刻?」
クモカリは胃の上に手を置きながら、不安げに聞いた。
「その通りだ。行き止まりの道を選んでしまった場合に備えて、食料は少しでも確保しておきたい」
「仕方ないみたいね……はぁ、頭では納得できるけど、お腹はそうもいかないわね」
クモカリの腹が、グウと大きな音を鳴らした。
クモカリほどの巨体を維持するには、現状の食事量では足りないのだろう。気の毒に思う気持ちはあるが、仕方がない。
気がつくと、全員の視線がシュオウに集まっていた。
その表情は一様に暗く、不安に満ちている。
シュオウの緊張した表情と声が、彼らにも伝染してしまったのかもしれない。
「心配するな。まだ悲観するような状況じゃない」
アイセがゆっくりと強く頷いた。
「うむ。今はとにかく行けるだけ先に進もう。―――ところで、右と左、どちらの道を選ぶべきだろうか」
「今の段階では、どちらを選ぶのが最良なのか判断できない。だから、好きなほうを選べばいい」
「……私がか?」
「隊長なんだろう」
「む、そうだな。それじゃあ、左だッ。左に行くぞ!」
アイセは宣言して左の道への一歩を踏み出した。が、すぐに倒れ込むようにしてその場にしゃがみこんでしまう。
「痛ッ――」
「どうした?」
シトリを除いた三人が、アイセの元に駆け寄った。
「怪我か?」
「足が………いや、なんでもない」
アイセの額には脂汗がにじみ出ている。
「ちょっと、どうみても大丈夫そうには見えないわよ。休んでいったほうがいいんじゃ―――」
クモカリがしゃがみ込んで、アイセの様子を心配そうに伺う。
「必要ないッ。私のことはいいから、早く行こう。―――お前達、先に行け」
「はいはい………まったく心配してあげてるのに」
クモカリとジロは渋々先頭を歩きはじめた。シュオウもそれに続く。
振り返ると、アイセが必死の形相で足を一歩ずつ踏み込んでいた。
貴族として不自由なく育ったお嬢様の割には、泣き言を言わないアイセに、シュオウは少し感心を覚えた。
本当なら、すぐにでも休憩を入れるべきなのかもしれないが、自身に甘えを許さない彼女に敬意を払い、この場は黙って先を行くことにした。
小隊は二日目の夜を迎えていた。
シュオウ達の現在位置は、地図上で見たところ全体の三分の一にようやく届くかどうか、といった所だ。だが、これも大雑把な見立てにすぎない。
今は寝床の用意もすませて、全員が束の間の休息で体を休めている。
「く――ッ」
アイセが苦しげに声を漏らし、右を抑えた。
その対面に座るクモカリが、気遣うようにアイセに声をかける。
「ねぇ、痛いんでしょ?」
「足の裏が少しチクチクするだけだ。たいしたことはない」
「たいしたことないって………嘘だってバレバレよ。顔が青ざめてるし、変な汗だってかいてるじゃない……」
アイセは日中、痛みを堪えてよく歩いていた。
結局、シュオウはその事に気づいていながらも、最初に見逃してしまったことで、再び声をかけるタイミングを逸してしまった。
この自信過剰で強情なお嬢様に半端な同情をかければ、意固地になってしまうのではないか、という心配もあった。
だが、それにしても無理をさせすぎてしまった。
シュオウはアイセに向き合い、言った。
「脱げ」
「………は?」
全員の視線がシュオウに集まった。
アイセは目を丸くして聞き返した。
「い、今なんて言ったんだ」
「脱げ、と言ったんだ。その靴と、脚に履いているものだ。怪我を見てやる」
「お、脅かすなッ」
シュオウはポケットから一輪の花を取り出した。
「花?」
「ボルタレンという、深界にだけ咲く花だ。どこででもすぐに見つかる物じゃないが、偶然道ばたに咲いているのを見つけたから摘んでおいた」
アイセの青ざめて見えた顔が、瞬時に火照ったように紅潮する。
「ま、待てッ、会ってまだ間もないというのに、いきなり花を贈られるというのは―――」
「この花が出す蜜には鎮痛効果があるんだ。妙な勘違いをするな」
真面目な顔でシュオウがそう言うと、アイセの顔面が凍り付いた。
「あ、アハハハハ、冗談だ、今のは冗談……。準備するから、少し向こうをむいていてくれ。お前達もだ、絶対見るなよ」
アイセはクモカリとジロにも念を押した。
「いやねぇ、女の体になんてこれっぽっちも興味なんかないわよ」
「ジロも、人間のメスに興味なしなし」
二人はぶつぶつ言いながらも、テントの中に入っていった。
「―――いいぞ」
準備を終えたアイセは、こちらに背を向けたままだったので、シュオウは反対側にまわった。
アイセは左足を前に投げ出し、その上に右足を乗せている。
しゃがんでアイセの右足の裏を見ると、皮が擦りむけて固まった血でガビガビになっていた。見ているだけで痛々しい。
「ひどいな。一度水で綺麗に洗ってから処置しよう」
シュオウはアイセの傷ついた足をそっと水で洗った。
傷口に触れる水とシュオウの指で相当痛いはずだ。
アイセは苦痛に顔を歪めながらも、シュオウの手を止めることはしなかった。
ボルタレンの花を取り出し、花を逆さにして絞る。すると、そこからトロリとした透明な蜜が指の上に落ちてくる。
このボルタレンという花は、自らが分泌する蜜で小さな虫を誘い、蜜に含まれる麻痺性の毒で痺れさせて捕食する食虫花だ。
蜜は人体にもわずかながら効果があり、痺れさせる成分が、強力な鎮痛効果をもたらす。
こういった深界のものに関する知識は、すべて師匠からの受け売りだ。
「お前は、深界に詳しいんだな。出発してすぐの火の件もそうだが、怪我のときに使える花を知っているなんて、まるで医者か学者みたいだ」
アイセは神妙な面持ちで、傷口を洗い流すシュオウに語りかけた。
「俺を育ててくれた人が詳しかった。その人から色々と学んだからな」
「育ててくれた、というと、お前は孤児だったのか?」
「そんなところだ」
「そうか……」
火山のように赤くはじけた足の裏にこびりついた血を綺麗に洗い流し、小指に塗ったボルタレンの蜜を丁寧に患部に塗布していく。
すると、アイセが体を強ばらせ、妙な声をあげた。
「あッ――」
「痛かったか?」
「ち、違う。痛くはないけど、触り方が優しすぎてくすぐったいんだ」
「我慢だ。すぐ終わらせる」
シュオウは処置を続けた。
アイセは唇を噛み、目を摘むって身悶えている。
右足だけは固定しているので、蜜を塗るのに困ることはないのだが、さっきからアイセが体をくねらせているせいで、スカートの中から伸びる白い太股が、シュオウの視線を誘ってくるのが誤算だった。
目の前で繰り広げられる、艶めかしい光景に、その気はなくとも口の中に唾液が溜まり、ゴクリと喉を鳴らしてしまう。
シュオウはもっと見ていたい、という誘惑を振り払い、傷口を凝視して作業に集中した。
頭を冷やすために、必死で別の事を考える。
思い出したのは、子供の頃の事。
シュオウがひどい傷を負う度に、師匠がこうして傷を洗ってボルタレンの蜜を塗ってくれた。
そこだけを考えると美しい思い出だが、よくよく思い出すと、シュオウの体に出来る傷や怪我の原因は、師匠その人からもたらされたものだった。美しい思い出というよりは、恐ろしい思い出といったほうがいい。
「終わった。あとは綺麗な布を巻いて、明日までできるだけ負担をかけないよう、安静に」
探してみると、雑貨の入った袋の中に包帯があったので、それをアイセの右足に丁寧に巻いた。
「……痛みが消えた。すごいぞ! あんなに痛かったのに、なにもなかったみたいに痛くない」
アイセは靴を履いて地面を何度も踏み、喜びの表情でシュオウを見た。
「蜜には鎮痛効果はあっても癒す薬としての効果はないからな。あまり無理はするなよ」
「あ、ありがとう……」
「え?」
「ち、ちょっと中で着替えてくる。汗をたくさんかいたからな―――」
アイセはシュオウと目をあわさず、あわてた様子で自分の天幕へ入っていった。
シュオウの耳には、たしかに、ありがとう、という言葉が届いていた。
初対面のときは、互いに良い印象を持ってはいなかったはずなのに、不思議なものだ。
今のシュオウは、アイセに対してそう悪くない感情が芽生え始めている。
シュオウは地面に腰を下ろした。
すると、突然ぬるりと横から足が伸びてきた。
今この場にいるのはシュオウと、そして朝出発してから一度も口を開いていないシトリだけだ。
「なんだ、これは」
「足だけど」
「見ればわかる。というか、居たんだな」
「酷いこと言うんだね。さっきからずーっとここにいるのに」
「黙って俯いてばかりいたから、存在をすっかり忘れていた。―――で?」
シトリは依然として足をシュオウの前に投げ出したままだ。
「わたしも足が痛いの。アイセにしたことと同じ事をして」
「だめだ。ここに来るまで普通に歩いてただろ。怪我をしているようには見えなかったぞ。それに、蜜はさっきので使い切った」
「ふうん……ねえ、もし、わたしが怪我をしたら、同じように治療してくれる?」
「さあな。するんじゃないのか。同じ花があれば、だが」
要領を得ない会話に苛立ちを感じて、投げやりに言った。
「冷たいね。アイセには妙に優しくしてるのに。もしかしてご機嫌とり? アイセに取り入って、将来雇ってもらいたいとか? わたしを王都へ連れて帰ってくれるなら、パパにお願いして仕事を紹介してあげる。アイセの家ほどじゃないけど、うちだって子爵家で、それなりに裕福なんだから」
「余計なお世話だ。これからのために必要だから怪我を見てやった、それだけだ」
「ふーん……あっそ」
シトリはふてくされたように足を引っ込めて、ぷいと余所を向いた。
結局、そのままだんまりを決め込んでしまったシトリが、いったいなにをしたかったのか、シュオウには解らないままだった。
この日の食事は、ほんの少しのパンと赤ワインで煮込んである豆料理の保存食だ。
パンは長期保存用に、乾いていて硬く、味も素っ気ない。
豆料理のほうは細切れにした野菜と一緒に煮込み、調味料をくわえてあるので味はまあまあだ。
全員に同じ分量を分配し、少しずつそれを食べる。
昨日までとは違い、皆の間に自然と会話が交わされて、和やかな空気が満ちている。
それは、硬かったアイセの態度が軟化したのが大きな要因なのかもしれない。
「みんなに言っておきたいことがある」
皆が食事を終えて間もなく、アイセが姿勢を正して、注目を集めた。
アイセは座ったまま、深く頭を下げる。
「どうしちゃったのよ急に」
クモカリは唖然として声をあげた。
「私の性格が頑固で融通が利かないというのは、よく言われる。だが、自分の失敗を認めるくらいの余裕はあるつもりだ。昨日、シトリが言っていた通りだ。お前達が平民だというだけで知りもしないで一方的に見下していた。それが間違いだったと知った。そこの―――」
アイセはシュオウを見て言い淀んだ。
直感で、シュオウはアイセの望んでいる言葉を咄嗟に思いつく。
「シュオウだ」
「―――シュオウのおかげだ。お前は私よりよほど物を知っている。言うことや行動も的確で、私なんかとは全然違う。平民にもこんな人間がいるのかと思ったら、それを見下していた自分が、なんだかくだらない存在に思えてきてしまった」
「たまたま深界についての知識があっただけだ。俺にも知らない事は山とある」
「だとしてもだ、お前は頼りになるじゃないか。落ち着いているし、冷静だ。そんな姿を見ていると自分と比べてしまって情けない気持ちになるんだ」
しゅんと弱気になってしまったアイセを前にして、シュオウは二の句が継げなくなってしまった。
僅かな沈黙が訪れる。
「アタシの故郷は鉱山街でね―――」
不意に、クモカリがゆっくりと自分の事を話し始めた。
「―――アタシも小さい頃から採掘を手伝って、けっこうな重労働だったから、気がついたらこんなに筋肉もついちゃったのよ」
クモカリは腕に力を入れて、たくましい筋肉を披露した。
「なにが言いたいんだ」
「要するに、掘る事に関しちゃ、アタシの知識と経験はちょっとしたもんなのよ。この中で採掘なんてしたことある人いる? いないでしょ。つまりそういうことよ。誰にでも出来る事と出来ない事があるの。自分に出来ない事があって、側にそれを出来る人がいるなら、その人に助けてもらえばいい。でも、自分はその人に出来ない事ができちゃったり、知らないことを知ってたりすることもあるんだから」
「助け合い、ということっぽい」
ジロはキリッとした表情で頷いた。
「そうか……その通りだな。私も精々この試験の間に学ばせてもらおう。いいか?」
アイセはなぜかシュオウを見て言った。
「知っている事なら、な」
「さっそくだが、一つ教えてほしい事がある」
シュオウは黙って頷き、続きを促した。
「昨日の、あのでかい狂鬼の事だ。正直、恐ろしくて考えないようにしていたが、これから先も、あんなのがウヨウヨしているのか?」
「ここの白道は狭いうえに古い。狂鬼除けの効果も期待できないから、これから狂鬼と遭遇する可能性は、一般的な白道とは比べものにならないくらい高くなるはずだ」
アイセは自分の手の平を見つめて、自問するかのように呟いた。
「あの狂鬼には私の晶気が通用しなかった。もし、またあんなのに遭遇して、こちらを狙ってきたらと思うと………」
「虫型の狂鬼は外皮の硬い種類が多い。獣型の狂鬼の大半は、単純な鉄剣でも傷はつけられる」
「そうか。なら、私にも名誉挽回の機会はあるかもしれないな。先のことはわからないが、できるだけ順調な旅になるよう祈ろう。―――今日は先に休ませてもらう。話せてよかった」
アイセが天幕に入り、シトリも無言で続いた。
クモカリとジロも寝袋を抱えて寝床に入って、夜の一時は解散となった。
皆、あまり口にはしないが、一日中歩きずくめで疲れきっているはずだ。
シュオウも、クモカリに休むように促されたが、後で休むと言ってやんわり断った。
外套を深くかぶり、体を抱え込むようにして丸くなる。この姿勢で目を閉じているだけでも、、体力を温存できる。
静かで長い夜を、そうして孤独に過ごした。
◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇
「やっぱり起きてた」
早朝、といってもまだ夜中といってもいいくらい辺りは暗い。
小瓶に夜光石のかけらを追加していると、シトリが目をこすりながら起き出してきた。
「まだ寝ててもいいぞ。今日もかなりの距離を歩くことになる」
「もう十分。下がゴツゴツしてて、寝てても体が痛いだけだし」
それに返事はせず、黙々と作業を続けた。
空気は身を切るように冷たい。
シトリはシュオウの正面に座り、手持ちの上等な外套を羽織って、手を擦りながら暖かい息を吹きかけた。
「なにか喋って。もう、いまさら連れて戻れ、なんて言わないから」
シトリのぼんやりとした碧眼が、シュオウをじっと見つめる。
「他の奴がいないとよく喋るんだな。話し相手が欲しいなら、俺よりクモカリやアイセのほうが向いてるだろ。普段から積極的に話しかけたらどうだ」
「いやよ。集団で馴れ合うのってダルいだけじゃん。昨日のアイセとかさ、突然良い子ちゃんになっちゃって、ほんとにバカみたい」
シトリは抑揚のない声で淡々と言った。感情がこもっていないので、どこまで本気で言っているのか把握しにくい。
「見ているかぎり、アイセにきついようだな。嫌いなのか?」
「だーいっ嫌い。いっつも自分は正しいです、みたいな態度でさ。真面目で努力家で、ほんと見てるだけで暑苦しい」
「真面目で努力家なのは良い事だろ」
シュオウが言ったことを受けて、シトリの表情が険しくなった。
「ふーん……アイセをかばうの?」
「そうじゃない。けど、必死で努力をして頑張っている人間を笑うようなことはしたくないだけだ」
「つまんなあい。―――もう少し寝るから、時間がきたら起こしてよね」
そう言ってシトリはさっさと天幕へ戻っていってしまった。
――なんなんだ。
シトリとはまともに会話が続かない。
なんとなく腑に落ちない物を感じながら、シュオウは一人首をかしげた。
午前中、全員が起きてテントを片付け、早々に出発した。
今日から朝食は抜くことになっている。
空腹に耐えるように、クモカリとジロが腹を押さえていた。
夜のわずかな食事だけで体力がもつか心配だが、今は仕方がない。
アイセの足は昨日より状態が良いようで、蜜の鎮痛効果も継続しているのか、足取りも軽やかに元気よく先頭を歩いている。
歩き出して間もなく、道の先が二股に分かれる分岐路にさしかかった。
だが、徐々にそこに近づくにつれ、シュオウは尋常ではない気配を感じ取り、皆の足を止めた。
「待て、様子がおかしい」
「どうした?」
アイセが立ち止まり、こちらを振り向く。
「臭いだ…………森とは違う臭いがする」
微風に乗って、わずかに届く微かな違和感。
――空気が苦い。
そう感じた瞬間、記憶からこの臭いを思い出した。
「火、か」
「火だと? ―――そうか、先に入ったあいつらか。もう追いついてしまったんだな」
シュオウ達の行く白道は、出発前に先に入った小隊があった。
アイセにからんだ貴族の男子生徒と、シュオウ達に喧嘩をふっかけた傭兵くずれ達がいる小隊だ。
途中道が二つに分かれていたが、彼らも同じ道を選択したのだろう。
それなら火の臭いがしても不思議はない。
だが、シュオウの不安は晴れない。
風で運ばれてきた火の臭いの中に、かすかに血の臭気が混じっていたからだ。
「全員ここで待っててくれ。俺はこの先の様子を調べてくる」
「奴らを警戒しているのなら心配無用だぞ。森の中での試験参加者同士の敵対行動は禁止されている」
「それは心配していない。―――ただ、気になるんだ」
「気になるって、なにがだ?」
「この先から嫌な気配がする。先に行ってたしかめてから合図を送る。それまで待て」
緊張が必要な事態だと教えるために、強い調子でアイセに告げた。
「わ、わかった」
「クモカリ、俺の荷物を頼めるか」
「まかせて」
シュオウは背負っていた袋をクモカリに手渡した。
「全員、身をかがめて静かにしていてくれ」
シュオウは単身で、臭いのする道の先をめざした。
身を低くし、足音を殺して少しずつ前へ進むごとに、血の臭気は強くなっていく。
緊張が高まる。
シュオウの視界に飛び込んできたのは、焦げた臭いを放ちながら散らばる無数の焼けた枝。
その周辺に飛び散った大量の血と、血だまりの中に悲壮にころがる、ちぎれた人間の左腕。
少し離れたところでうつぶせに横たわった男の姿。
大地を抉ったような大きな爪痕が、ここで起きた出来事を物語っている。
狂鬼に襲われたのだ。
シュオウは感覚を研ぎ澄ませて、周囲の気配を探った。
眼で全景を見渡し、耳で世界の音を聴く。
鼻はだめだ。焦げた枝の臭いと、濃厚な血の臭気で役に立たない。
――狂鬼の気配はない。
狩りはすでに終わっている。
シュオウの経験が、そう断定してもいいはずだと告げていた。
腰をかがめたままの状態で、倒れている男の元に駆け寄った。
横たわって微動だにしない男の首元に手をあて脈を確認する。
――生きている。
ドクンドクンと、力強く命の音は脈動している。
ゆっくりと男の体を仰向けに起こす。
男の顔を確認したとき、シュオウは少し戸惑った。
試験開始前日の夜、シュオウの頭に酒をかけた、あの傭兵くずれだったからだ。
「おい、しっかりしろ」
男の頬を軽く叩いて、シュオウは何度か呼びかけた。
すぐに男は絞るように呻き声をあげて、意識を取り戻した。
「……あ……う……………」
「しっかりしろ。わかるか?」
「……おれ、は……生きているのか……?」
「そうみたいだ。仲間を呼んでくる―――そこで大人しくしていろ」
シュオウは男をそっと地面に寝かせ、離れたところで待機している小隊へ手を振って合図を送った。
間もなく、シュオウに追いついた小隊の面々は、この場の惨状に酷く怯えていた。
血だまりと千切れた腕を見たアイセとシトリは口と鼻を抑えながら、潤んだ瞳で辺りを見渡していた。
「酷いわね……」
「クモカリ、水を――」
「あ、はい」
クモカリから水袋を受け取り、傭兵くずれの元まで戻った。
皆もシュオウに続き、横たわる男を囲むようにして集まった。
衰弱した様子の男を抱き起こし、水を与える。
男はゆっくりと確実に水を飲み下し、息を吐いた。
「ぷはぁ―――」
「話せるか?」
「全身が痛いが、口は、動かせそうだ」
「なにがあった?」
傭兵くずれの男は、息を切らせながら、ゆっくりと説明しはじめた。
「狂鬼に襲われた………休憩中、飯を炊いていたんだ。そしたら、突然二匹の赤い狂鬼が現れて、仲間の一人を食った。俺は咄嗟に手をつかんだんだが、狂鬼はそれを噛み千切りやがった。俺はその後すぐに吹っ飛ばされて、たぶん意識を失ったんだな………他の奴はどうなった? 貴族のぼっちゃん共ともう一人平民の男がいたはずだ」
「今の話にあったこと以外の痕跡は見あたらない。おそらく逃げ出したんだろう」
「へッ、ははは………あいつら、俺の生死も確認しないで置いていったのか………流石は貴族様だぜ、反吐が出るほど割り切ってやがる、ごほッごほッ」
男は激しく咳き込んだ。
「もういい、事情はわかった。とりあえずここから離れよう。血の臭いにつられて、また狂鬼がくるかもしれない。―――歩けるか?」
「無理だな、右足が折れちまってる。………俺の事は置いていけ、どのみち森のど真ん中で身動きできなくなった時点で運命は決まっちまってたんだ」
男は投げやりに言った。
男の硬そうな髪にはわずかだが白髪が混ざっていて、外見から四十前後くらいの年齢に見える。
ヒゲをはやした年期の入った顔には、無数の傷跡が刻まれていた。
この場で命乞いをしないのは、傭兵として場数を踏んできたからなのかもしれない。
自分を置いていけ、と言ったその顔に、恐怖や怯えの色は微塵もない。
あるのはただ死を受け入れ、命をあきらめた中年男の姿だけだ。
「この男を連れていく」
シュオウの言葉に、皆が難色を示した。
「気持ちはわかるが、ただでさえきつい道のりなんだぞ、なのに、その………」
アイセは言い辛そうに語尾を切った。
シュオウの意見に反対するということは、すなわち目の前の男を見殺しにすることになるからだ。本人の前ではっきりと否定し辛いのだろう。
「無理なら最初から提案しない。とにかく、今はこの男を連れて先に進もう」
まわりの返事を待たず、シュオウは男を強引に背負った。
立ち上がるとき、男の重さで膝が震えた。横幅があってかなり重い。
「お、おいッ。俺はいいんだ、おろせッ!」
「黙ってろ、無駄に体力を消耗するだけだ」
暴れてずり落ちそうになった男を、アイセが後ろから支えた。
「よし、お前がそこまで言うなら信じるぞ」
「くそッ………」
男は観念したのか、それきりおとなしくなった。
「この先は分岐路になってる。どっちを選ぶんだ?」
地面をよく見ると、わずかに人が踏み荒らした後のような形跡が、右の道のほうへと続いている。
「ここから逃げた生き残りは、右の道を選んだみたいだな。狂鬼がそれを追っている可能性もある」
地図では、この分かれ道はどちらを選んでも同じ道に繋がっている。なら、より安全である可能性が高いほうを選ぶのは当然だ。
「左へ行こう。―――いいか?」
念のためにアイセにも確認をとったが、アイセは即答で承諾した。
シュオウ達は、足の折れた傭兵くずれを加え、六人でこの場を後にした。
去り際、シュオウは後ろを振り返り、血だまりに視線を送った。
千切れた腕の手の甲にある灰色の輝石が、血に濡れて赤黒く見える。
側にいれば助けることが出来たのだろうか、という考えが頭をよぎって、直後にその思考を否定した。
人にかぎらず、輝石を持つすべての生き物は、輝石なくしてはこの世界で生きてはいけない。
あの腕の持ち主も、輝石のある左腕を千切られてしまった時点で、死という運命からは逃れられなかったのだ。
シュオウはやり切れない気持ちを残しつつ、この場を立ち去った。
「嘘だろ………」
日中休まず歩き続けて、夕方を迎えて森は薄暗くなっている。
にもかかわらず、シュオウ達の前に広がる光景は、まるで今日の努力を嘲笑うかのような一面の灰色の森だった。
古い白道は完全に森に飲み込まれ、この先に道があった痕跡すら探すことができない。
漂う悲壮な空気の中、アイセが膝をついて座り込んだ。
「右への道が正解だったみたいだ……すまない」
いたたまれない気持ちになり、シュオウは謝罪を口にしていた。
「いや、あの状況では正しい判断だった。このことで誰を責めたりもできない。私も同意したからな」
アイセが力ない声で、シュオウをかばうように言った。
「そうよ、これはただ運が悪かっただけよ。―――でも、今日はこれ以上歩くのは無理そうね」
クモカリは暗くなった空を見上げた。
「ああ、今日はここで休むしかなさそうだ」
辺りはこうして話している間に、どんどん暗くなっていく。
明日は今日来た道を引き返さなければいけない。
そのせいで消費する時間と体力が、歯がゆかった。
夜になり、夜光石の頼りない光を囲みながらの夕食は、これまでにないくらい暗い雰囲気を漂わせていた。
皆、疲れている。食事量は最低限だし、日中は休みなく歩き続けている。
そのうえ、今日のあの出来事は、皆の心に暗い影をおとした。
人の死を目の当たりにし、怪我人を連れて行くことになり、おまけに道半ばで引き返さなければいけない。
傭兵くずれの男は、ここへ来てすぐにテントの中で眠ってしまった。
ジロも疲労の色が濃く、早めに食事をすませて寝袋に入った。
残った四人は、重たい空気の中で食事を口に運んでいた。
「アタシだって、この試験が命がけってことは知ってて参加したけど、実際に死っていうものを直視してしまうと、急に恐くなってくるわね」
クモカリは食事の手を止めて、難しい顔で不安をこぼした。
「私もそうだ。あの、血だまりの光景が頭から離れない。あそこに転がっていた腕が、もし自分のものだったら、という考えが浮かんで見ていられなかった」
アイセはパンを口に運ぶ手を止めて、視線をおとした。
「こんな危険な試験になんの意味があるのかしら。最初は命がけなのは平民だけかと思ってたけど、貴族の生徒達だって危ないんじゃない?」
「ああ、実際その通りだ。毎年、宝玉院の卒業試験での死者は、従士志願者として参加する平民だけじゃない。多いときで両手で数えきれないくらい、生徒にも死者が出る。平民は参加者の半分以上が死ぬと聞いている。そんな思いをしても、この卒業試験で合格基準に達するのは極数人なんだ」
聞けば聞くほど不可解な話だった。
いくらでも替えがきく平民とは違い、彩石を持つ貴族の数はかぎられる。
強力な晶気を操る彩石を持った貴族の軍人は、そのまま国の軍事力となるはずだ。
その貴重な卵である軍学校の生徒達を、あえて命を落とすかもしれない危険な深界に放り込むのはどういう意図があるのだろうか。
「一つ、聞きたい」
シュオウはアイセに疑問を投げた。
「なんだ?」
「さっき言っていた、試験の合格基準についてだ。平民の参加者は、試験に参加するだけで報酬が約束されているが、軍学校の卒業試験として参加している生徒達は、なにをすれば合格扱いになるんだ」
アイセは何かを言いかけて、わずかに固まった。
そして、苦虫を噛み潰したような顔で話し始めた。
「………連れて帰ることが出来た平民の数だ。三人のうち、二人以上を連れて目標地点にたどり着ければ合格。その条件を満たせなければ、たとえ一番で目標地点に到達できたとしても不合格だ」
「まるでゲームの駒扱いね……」
クモカリにしてはめずらしく、険のこもった声だった。
アイセは何も言い返すことができず、気まずそうに視線をはずした。
「こんな試験、なんの意味もない。みんな本心ではおかしいって思ってるよ」
突如、シトリが吐き捨てるような口調で言った。
「おいッ!」
「本当のことじゃん。アイセだって、何年か前の試験でお兄さんを亡くしてるんでしょ? 本当はこんなのおかしいって思ってるんじゃないの?」
「おまえッ―――」
激高して立ち上がったアイセだったが、クモカリが鎮めるように絶妙な間で問いかける。
「ね、ねえ、お兄さんを亡くしたって本当なの?」
「………兄、といっても腹違いだし、一度も口をきいたことがなかった」
アイセは落ち着きを取り戻し、元の位置に戻った。
険悪になりかけている場の空気を読まずに、シュオウは無遠慮に疑問をぶつけた。
「話を聞くほど違和感を感じるな。親交がなかったとはいえ肉親を失って、それでも黙って試験に参加するのか? 他の貴族の生徒達だって、この試験で家族を失った経験をした者もいるんじゃないのか」
アイセは渋々、といった様子で答えた。
「この試験は、貴族の家に生まれた者なら全員が参加している。ある種の成人の儀式もかねているんだ。それに、卒業試験に合格することは名誉なんだ。軍で大きな仕事を与えられ、未来の出世も約束される。そうなれば家名もあがるし、親や親族は社交界で自慢できる。毎年の合格者は片手で数えられる程度だからなおさらだな。だから、試験の危険度などに不満をもっていても、それを堂々と言ったりする者はいないんだ」
「なら、合格できなければどうなる? もう一度挑戦できるのか」
「いや、機会は一度だけだ。合格をもらえなければ辺境の冴えない仕事に飛ばされたり、事務や警備などの地味な仕事しか与えられない。当然、この手の仕事で出世は望めないから、出世欲のある者は試験に必死の覚悟で挑んでいる。数日前の私のように、な」
「たった一度の失敗で、その後の人生が左右されるのか。それでよく不満がでないな」
「我々貴族は、全員が一度は軍隊に入らなければならない義務がある。女なら五年、男は十年勤めれば死ぬまで年金がもらえるし、この試験で合格する者は極わずか。合格すれば羨望の的だが、不合格だからといって笑われたり、見下されるということはない。それに―――」
アイセはあからさまに言葉を切った。
「それに?」
「いや、なんでもない」
アイセはそれ以上話す意思がないと言わんばかりに、夕食のパンにかぶりついた。
それにしてもおかしな話だ。
試験に合格するための条件は、同小隊の三人の平民のうち、二人以上を連れて目的地まで辿り着くこと。
一見簡単そうに見えるこの条件も、食料という問題が壁となって立ちはだかる。
五人小隊に与えられる食料は、わずかな携帯食と、食べるのに火が必要となる米だ。狭く、本来の効力を発揮できなくなった古い白道で火を使うのは自殺行為。
本来自然界にあるはずのない火は、その独特な臭いで狂鬼を呼び寄せてしまう可能性が高まる。
その結果を、今日シュオウ達は目の当たりにした。
そして、そこそこの量のある米袋は、重い。
それを背負って長時間歩くのは、体格の良い大人であっても、相当な負担となり、小隊の進行速度にも影響する。
つまり、その点では試験がはじまってすぐに米を捨てていったシュオウの判断は正しかったことになる。
だが、次に問題になるのが時間だ。
米を捨てた場合、手持ちは量の少ない携帯食だけ。それが尽きる前に目標地点までたどり着くことができなければ、狂鬼に襲われなかったとしても、いずれ餓死してしまう。
道は途中でいくつも分岐し、運が悪ければ行き止まりに当たって時間を大きく消費してしまう。
食料をすべてかかえて行けば、餓えることがないかわりに、狂鬼に襲われる危険が高まる。
そして食べるために火が必要になる米を捨てていけば、狂鬼に襲われる確率が減り、身軽になるかわりに、食料が尽きる前に目的地までたどりつかなければならなくなる。
後者のやり方を選んでも、先を行く道が森に浸食されていれば、後戻りしなければならず、それにかかる時間により、少ない食料はさらに減る。
つまり、この試験はリーダーの責任感が強く、かつ合格することに意欲のある者ほど、苦しむ仕組みになっている、とも考えられる。
この試験は、とことん意地が悪く、参加者を苦しめるように出来ている。
このルールを最初に考えついた人間は、相当にひねくれ者で意地が悪い。
「この試験はいつからやっているんだ?」
「かなりの大昔からだぞ。ムラクモの伝統行事だからな」
「その長い歴史の中で、この試験内容を問題視する人間はいなかったのか?」
「もちろんいた。子煩悩な親などは、この試験に子供を参加させることを嫌がる者もいた。だけど、その都度―――」
まただ。さっきと同じように、アイセは中途半端なところで言葉を切る。
「言いにくいことか?」
「びびってるんだよね」
シトリがアイセを嘲笑した。
「シトリッ」
「吸血公が恐くて、名前を出すのも嫌だって正直に言えばいいのに」
「吸血公……」
氷姫と同じような俗称なのだろうが、吸血とは穏やかではない。
「勘違いするな、別に恐くて言えなかったんじゃない。シトリが言ったのは、ムラクモ王国軍元帥にして内政も一手に取り仕切る王轄府の長、そしてムラクモが誇る燦光石の一つ《血星石》を持つグエン・ヴラドウ元帥閣下の事だ。吸血公というのは、昔から影でそう呼ぶ者達がいるだけで、別にグエン様が人の血を吸っているから、というわけじゃないぞ」
「聞いた事があるわ。数百年に渡って生き続け、ムラクモ王家を支え続ける吸血公グエン。その男は老いから逃げるために夜な夜な若い女の生き血をすするって……」
クモカリはわざと声を震わせて、芝居がかった身振りでそう言った。
「そんなわけあるか。吸血公というのは、グエン様の持つ血星石の力がどんなものなのか、一切の情報がないせいで誰かがふざけて想像した話が広がってしまっただけなんだ。石の名前に血という言葉が入っていたせいで、適当に恐そうな話をでっちあげられたんだろう」
「やぁねぇ、アタシだってそれくらいわかってるわよ。悪いことをしたら吸血公に血を吸われるぞ~っていうのは、ムラクモでは定番の子供を怖がらせるお話だものね」
話がそれはじめているような気がして、シュオウはその修正を図った。
「話を戻したい。そのグエンという人物が、さっきの試験の話とどう繋がるんだ」
「うむ………グエン様は昔からこの卒業試験を強く推しているんだ。優秀な人材を探すためには命がけの試練が必要、というのがグエン様の主張だ。過去それに反対を表明した有力な貴族もいたが、ほとんどが押さえ込まれたか、強硬に言い張った者は家ごと潰されたと聞いたことがある。そのこともあって、試験についての不満を語るのは、貴族達の間ではどこか禁句のようになっている」
「ムラクモの王は、この件について何も言っていないのか」
グエンという男が、軍と内政を取り仕切る立場だとしても、立場上はあくまで王の臣下だ。
試験に反対する有力貴族達が、過去に王に進言したりはしなかったのだろうか。
「グエン様は三百年以上前の歴史書にも名前が出てくる。それくらい長くムラクモを見守ってきたという事もあって、王家に絶対の信頼をよせられている。それに、前女王陛下はすでに病で亡くなられ、今現在、王座は空席だ。次期王位継承者だった方は事故で命を落とし、残されたサーサリア王女殿下が現在唯一の王位継承者だが、当時まだ幼かった殿下を心配して、王家の燦光石である《天青石》の継承を、グエン様が先延ばしにされている。燦光石を持つ人間は、肉体の老い方がゆるやかになるからな」
「燦光石というのは、持って生まれる物ではないのか?」
大規模な自然災害級の力を発揮するといわれる燦光石。
この特別な輝石は、彩石と同じように血によって受け継がれると聞く。
今の話では、生後、それも時期を選んで継承できる、というふうにもとれる。
「燦光石はそれを持つ家の血を引く者のみが受け継ぐことができる特別な石なんだ。だが、その継承方法については有力貴族家の者でも知らされていない。燦光石の保有者が死ぬと、次の継承者が選ばれて、ある日突然、燦光石の新しい保有者になっている。その詳細については謎だらけだ」
「燦光石を受け継いだかどうかの基準はどうなる。言われたままに信じるのか」
「見ればわかるぞ。明らかに並の彩石とは気配が違うからな。それに、輝石はその力が強いほど重く、硬くなる性質がある。考えるだけでも不敬なことだが、その気になれば調べるのは簡単なことだ。実際に調べさせてください、なんて言う愚か者はいないがな」
「……なるほど、な」
グエンという男は、大昔からこの国の中枢で軍事と政治の両方に深く関わり、王家からの信頼も厚く、さらには燦光石の保有者でもある。これほどの傑物に意見を述べるなど、並の人間なら最初から考えることすらしないだろう。
現在は王が不在。次期王位継承者は燦光石の継承をしておらず、まだ年若い。それらを考慮すれば、件の男は現在のムラクモにおいて、圧倒的な権力を有していることが容易に考えられる。
「話してくれて助かった。色々と理解できた」
「うん。なにか参考になったか」
「この命がけの無茶な試験は、この国の偉い人間が好んでやっていることだ、ということがわかった。それだけで十分だ」
強大な権力を手に入れた者は、ある程度自分の思い通りに生きることができる。わがまま、ともいえるが、力さえあれば、そうした事も許されてしまうのが人の世の常だ。矛盾だらけに思えるこの試験も、そうした権力者の趣味だといわれれば、いっそ楽に納得できる。
後ろの天幕から、傭兵くずれの大きなイビキが聞こえてくる。
食事中だったのだが、話している間、皆なんとなく手が止まっていた。
シュオウも、腹が減っているはずなのに、手元にあるチーズを少し囓っただけでおいてある。
正面右側に座っているシトリが、少しずつ口に運んでいたパンを食べ終えて、チーズに手をのばした。
だが、掴み損なったのか、指先ではじかれたチーズが地面に落ちて転がってしまう。
「あッ………」
普段、感情の色をあまり見せないシトリだが、この時は意外なほど落ち込んだ表情を見せた。
シュオウは落ちて砂埃や石粒のついたチーズを拾って、かわりに自分の食べ残していたチーズをシトリの手の上に置いた。
「いいの………?」
「ああ。俺が一口囓ったのでよければ」
シュオウは落ちたチーズの汚れを適当に払って、口に放り込んだ。
腐汁のでた残飯にがっついていた子供時代を思えば、ほんの少し汚れただけの食べ物に抵抗感はまったくない。
「シトリ、私のと交換してやろうか? まだ口をつけていないんだ」
アイセは自分のチーズを見せつつ、シトリに聞いた。
「いい」
「でも、男の食べかけは抵抗があるだろ、こっちのと交換したほうが―――」
「いいっていってるじゃんッ! しつこくしないで」
「わ………わるかった」
シトリはシュオウの渡したチーズの塊を一口で頬張り、飲み込んでしまった。
この日の夜は、これ以降一度も会話することなく終わった。
最後に小さな諍いをおこしたアイセとシトリは、それっきり互いを視界に入れようともしなかった。
冬の寒さが体に染みる深界の夜にあっても、その二人の周辺だけはさらに凍えるような空気が漂っていたような気がした。
◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇
人間は、生きていくうえでいくつもの試練に遭遇するという。
いつか読んだ本でそれらしい言葉と共にそう綴られていた。
物語に登場する英雄達もまた、そんな試練を乗り越えて栄光の道を駆け昇る。
悪者を打ち倒し、人々に賞賛され、お姫様と結婚してその国の王になる。
そんな人生を夢にみたこともあった。
だというのに、現実の自分に与えられたこの試練は、あまりにも地味で苦しい。
――重い。
背中に背負った傭兵くずれの事だ。
見た目以上に身が詰まっているらしい。
とにかく重い。それに硬い。
元傭兵というだけはある。なかなか鍛えられた筋肉だ。これが女性のふわふわとした柔肌なら、どれほどいいかと考えても無駄な努力でしかない。
そして、臭い。ただでさえ男臭いのに、トドメに汗臭さまで漂わせている。
――眠い。
出発して早四日目となるが、その間まともな睡眠をとっていないせいで目蓋が重かった。
――疲れた。
道中、歩きながらクモカリやアイセ、時折ジロやシトリと交わす会話は楽しかったが、それでも日が出ている間は歩きっぱなしで、体力にはそこそこ自信のあるシュオウでも強烈な疲労に襲われる。なれない人付き合いと、寝不足もその一因である。
早朝から来た道を戻り、昼前には昨日のあの惨事があった場所まで戻ることができた。
血だまりはあいかわらずそこにあったが、ころがっていた腕は消えていた。
おそらく、森の生き物に食われたのだろうが、考えるだけで気が滅入りそうだったので、だれも口にはしなかった。
分岐路の右の道を行き、そこからさらに奥へ歩を進めた。
ここまでシュオウは、昨日の傭兵くずれの男を背負って歩いてきた。
クモカリが自分が背負うことを申し出たが断った。重斧を背負い、かつシュオウが持っていた分とあわせて袋を二つ預けている。
シトリは荷物を持っただけで崩れてしまいそうなほど華奢だし、アイセは足を怪我している。ジロは体格の問題で無理。というわけで、実質荷物持ちとして勘定できるのは、クモカリしかいない。シュオウが荷物を受け持った場合、斧と背負い袋二つを持つのは無理だ。そうして必然的に、シュオウが男を背負うことになるのである。
シュオウの首筋に、一筋の汗が流れた。
「おい」
背後から、男がシュオウを呼びかける。
「なんだ」
「降ろせ、もう十分だ」
「断る」
朝から何度したかわからない問答だ。いいかげんうんざりする。
「さっきから息があがってるじゃねえか………もういいんだ。ろくに歩けねえ怪我人をつれていけるほど、深界は甘くはねえぞ」
「甘くないのはよく知っている。いいから黙って背負われててくれ」
「………わかってるんだろ、あの夜、俺がお前達にからんだ張本人だってことは」
「ああ」
「なんでなにも言わねえ。俺はお前の頭に酒をかけたし、そこのデカイのや蛙人をバカにした。そんな俺をなぜ助ける」
「全部、過ぎたことだ」
「どうしてそう思える……憎くないのか、俺が。あの時、怪我をした俺を嗤いながら見捨てていくこともできたはずだ」
「出発前日の夜の事は、たしかに気分の良いことじゃなかった。でも、それが命と釣り合うほどの事だとは思えないんだ」
男は沈黙して息をのんだ。
「それに、助けるのが無理だと思ったら最初から連れてきたりしない。ただ、自分の手に持てるモノは持って行く、それだけだ」
「……ちくしょう、わかったぜ、俺の負けだ………あの時の事はすまなかった。俺はどうにも酒癖が悪くて、飲むと気が大きくなっちまうんだ。今となっちゃ後悔しかねぇ………本当に悪いと思ってる」
「許すさ―――そうだろ?」
シュオウはクモカリ、ジロの両名を見て言った。
「もちろんよ、あんなの慣れっこだし、最初から気にしてないわ」
「ジロはそんなことより、早く帰って魚を食べたいっぽい……」
ジロはベロを出して溜め息を吐いた。
「だ、そうだ」
「ありがてえ。俺はボルジってんだ、呼び捨ててくれてかまわねえ。ぶっちゃけた話ができたから言っておきたいんだが、もし俺がいることでお前達が本当にどうしようもないくらい苦しくなっちまったら、ためらうことなく俺を置いていってくれ。俺はな、お前らに見捨てられなかった事が内心嬉しかったんだ、だからよ、これがせめてもの礼としてだせる俺の覚悟みたいなもので――――」
早口でまくし立てるボルジの口を、シュオウは止めた。
「ボルジ」
「んあ? なんだよ、まだ話は途中で」
「そろそろ黙ってくれないか。さっきから口が臭くてたまらないんだ」
「んぐッ」
「ぷッ」
小隊全員が吹き出した。
先を黙って歩いていたアイセも、後ろをのっそり歩くシトリも、全員が笑い声をあげていた。
嘘を言ったつもりはなかったが、シュオウの言葉に不機嫌そうに口を閉じたボルジが可笑しくて、シュオウもこらえきれずに笑いがこぼれた。
状況はなにひとつ好転していない。なのに、こうして皆と笑っていられる時間が、たまらなく楽しいと感じる。
シュオウ達は歩き続けながら、その後もしばらく色々な話に花を咲かせた。
◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇
五日目の昼過ぎ、道が大きく二つに分かれる分岐路にさしかかった。
一方は左にほぼ真横に伸びる道。もう一方はこのまままっすぐ前に伸びる道だ。
特徴的なこの分かれ道は、地図上でも確認しやすい。
地図でおおまかに把握できる程度だが、かなり目標地点まで近づいているのがわかる。順調にいけば、二日ほどで森を抜けられるかもしれない
「どっちを選ぶ?」
アイセが疲れを滲ませた顔でシュオウに聞いた。
左へと続く道は別の大きな道へ続いている。その先に森を抜ける事ができる道があればいいが、行き止まりしかなかった場合は、またここへ戻ってこなければならない。
地図上では、このまま真っ直ぐ進むルートを選択した場合、フォークのように三つに分かれる最後の別れ道がある。そこから伸びる三つの道はすべて目標地点まで繋がっているが、途中で森に塞がれている可能性もあるのだ。別れ道すべてが塞がれていた場合も、またここに戻ってこなければならない。
食料は節約しているが、ボルジの分も加えて一人あたりの配分はさらに少なくなっている。
「どちらを選んでも、先の事は未知数。運にまかせるほかないが、あえて二つの道の差を探すなら―――」
シュオウは左へ続く道を観察した。
よく見てみると、左への道には古くなり壊れた白道の隙間からはえる雑草に、踏まれたような形跡がある。
「ボルジを置き去りにした連中は、左の道を選択したかもしれないな」
「あいつらが………そうか。なら私達は真っ直ぐ進もう」
「あら、迷ってたのにあっさり決めちゃうのね」
クモカリが意外そうに言った。
「連中は狂鬼に襲われているし、仲間も見捨てた。そんな奴等と同じ道を行くのは縁起が悪いような気がしたんだ」
「縁起って………ババ臭いわね」
「う、うるさいッ。皆、よければ行くぞ!」
照れたように背を向けて、アイセは歩き出した。
その選択に文句をいう者はいなかった。
今のところ、どちらを選ぶにしても運にまかせる以外にない。
アイセのいう、縁起というものを判断材料にして進むのも、悪くはないだろう。
分かれ道を出発してからたいして時間もたたないうちに、薄暗い森の中から奇妙な音が聞こえてきた。
チッチッチッチッチッチッチッチ――――
舌を小刻みにならしたような高い音。
トットットットットットットットットット――――
今度は少しだけ低音になった音が、やはり小刻みに鳴り響く。
「なんの音だ………」
皆が足を止め、アイセが緊張した面持ちで周囲を見回した。
チッチッチ、トットット、という不気味な音は左右から交互に聞こえてくる。
「気味が悪いっぽい……」
ジロは小振りな剣と盾を構え、身を低くした。
それを合図にしたようにアイセも身構え、クモカリは荷物を置いて重斧を手に持った。
「やつらだッ、またあいつらが来たんだッ」
シュオウの背中に背負われているボルジは、震える声で言った。
森の草木が音をたてて揺れた瞬間、左右から同時に赤い狂鬼が姿を現した。
炎のようにたゆたう長い体毛。安定感のある四本足の先には、鋼のように頑丈そうな爪がある。頬まで裂けた口からは、ズラリと並んだ鋭い牙がのぞいていた。
そして額の上には、人が持つ物の三倍はある、白濁した輝石が鈍く光を反射している。
形こそ犬や狼とそっくりだが、その大きさは前足の長さだけでシュオウの身長と同じくらいある。
レッドアゲート、と名付けられたこの狂鬼は、シュオウのいた森にはあまり生息していなかった。
姿を見たことはあるが、そのときは安全な場所で遠目から見ただけで、これほど近くで相対するのは初めてである。
「こいつらだ、まちがいねえ! 俺の隊を襲った二匹の狂鬼だッ」
レッドアゲートは群れで行動する獣の狂鬼だ。彼らは二体以上の群れをつくり、連携して獲物を狩る。
レッドアゲートのような獣型の狂鬼は、その行動に計算が含まれている。虫型狂鬼のように丈夫な外皮こそ持っていないが、素早さと狡猾さは侮れない。
「よ、よしッ、わ、わ、私にまかせておけ!」
アイセはそう叫んで、晶気の剣を構築した。
レッドアゲートはシュオウ達の前と後ろに立ちはだかり、少しずつ後ろに間合いをとっている。
小隊の隊列は、前にクモカリとジロ。中央にアイセとシトリ。後方はボルジを背負ったままのシュオウがいるだけだ。
トルトルトルトルトルトル――――
ツツツツツツツツツツツ――――
あの不気味な音が、前後の狂鬼から聞こえてくる。
――会話しているのか。
二匹の狂鬼は、舌を鳴らしてあの音を出している。互いにしかわからない方法で連絡を取り合っているのだ。
おそらくは、狩りの手順を。
――どうする。
後方に陣取った狂鬼は、徐々に後退している。なぜか殺気は感じなかった。
急な事態を迎えた場合、咄嗟に最善の手を判断するのは難しい。
こうした場合、もっとも頼りになるのは経験だ。
森や狂鬼についての経験はそれなりにあるが、それはすべて自分一人だけで対処する場合で、仲間がいたり、怪我人を背負っている今のような状況での経験はない。
なにをどうすればいいのか、咄嗟に考えが浮かばない。
――どうすれば。
対抗策を考える間もなく、前方の狂鬼は動く。
後退をやめ、ジグザグに道を縫うようにこちら目がけて疾走した。
アイセは晶気の剣を構えるだけで、恐怖でヒザがわらっている。これでは頼りにすることはできそうもない。
「防御だ!」
シュオウは叫んだ。
咄嗟のことだったが、クモカリは重斧の平らな部分を前にだし、ジロも盾を両手でしっかり持って攻撃にそなえた。
目の前まで迫ったレッドアゲートが、前足の爪でクモカリとジロに襲いかかる。
振りかぶられた前足は、クモカリの斧に当たり、ギィィィィと金属をひっかく嫌な音をたてた。
レッドアゲートは即座に爪を離し、素早く後退して距離をとった。
――おかしい。
クモカリは並の人間よりはるかに筋肉質で、斧も盾として使うのに、強度は申し分ない。
だが、それにしても今の一撃は軽かった。本当なら斧ごと飛ばされそうになっていてもおかしくない。なのに、爪が軽く触れただけで狂鬼は攻撃の手を止めた。
まるで様子をみているか、獲物を嬲っているようだ。
後ろに陣取って動かないもう一体のレッドアゲートは、近いとも遠いともいえないような絶妙な位置でこちらを伺っている。
そのレッドアゲートの赤い眼が、シュオウを視ていた。
――狙いは俺……いや。
レッドアゲートの視線はシュオウとは重ならない。その先にあるのは、シュオウの背にいる怪我人。
――本当の狙いはボルジか。
はじめから、彼らはこの人間の群れの中でもっとも弱っているものに狙いをつけた。
だとすれば、一方が陽動するようにやる気のない攻撃体勢を見せ、後方の一体がなにかを待つように動かない理由も理解できる。
レッドアゲートのように群れで行動する狂鬼は基本的に臆病なのだ。
できるだけ狩りの危険度を減らし、欲張らずに標的と定めた獲物のみを得ようとし、狩りの方法はもっぱら追い込み役と獲物に襲いかかる役に分けられている。
彼らは待っている。
弱って楽に獲得できそうな獲物に隙ができるのを。あるいは、シュオウ達が足手まといになりそうな仲間を置いて逃げるのを。
前方の一体が、再び加速をつけて突進してきた。
レッドアゲートが次に攻撃をしかけたのはジロだった。
振り下ろされた前足を、ジロは器用に盾でいなし、後退する。
一瞬動きの止まったレッドアゲートに対して、クモカリが重斧を振る―――だが、驚異的な反射神経ですばやく反転し、難無く躱されてしまった。
「どうするのッ、このままだと押し込まれるわ! 後ろのも一緒にこられたら―――」
クモカリが興奮気味に叫ぶ。
狂鬼に対して冷静に対処できているが、顔には怯えが色濃くでていた。
「よ、よし、次こそは私の風の剣で………」
アイセは一歩前にでた。
晶気の剣をそれらしく構えてはいるが、腰は完全にひけている。
トットトトト、ツッツツツ――――
前後の狂鬼がなにかの意思を交わした。
唸り声がして、二体が同時に動き出した。
二回の様子見の攻撃で、与しやすい相手と判断したのかもしれない。
二体は本気で獲物を捕りに動き出した。一糸乱れぬ完璧な動きで、ジグザグに迫り来る。
「同時にきた!? ど、どうすれば―――」
アイセは前後に首を動かして、晶気の剣を前へ後ろへとふらふら動かしている。
「アイセッ!」
――すまない。
シュオウは心の中で謝りながら、アイセの背中を前に思い切り蹴飛ばした。
「……え?」
シュオウに押し出されたアイセは、クモカリとジロを追い越して、一人突出する形となる。
猛烈な勢いで迫る狂鬼の前で戸惑っているアイセの背中に、シュオウは大声で叫んだ。
「アイセ、盾だ! 晶壁を!!」
「え、あッ―――」
アイセは晶気の剣を消し、咄嗟に晶気の壁を前面に展開した。
それとほぼ同時に、二体の狂鬼が小隊に襲いかかる。
前方の一体が繰り出した一撃は、アイセの晶壁によって完璧に防がれた。
後方から襲い来る狩り役の狂鬼は、やはり迷わずシュオウを狙ってきた。
もう一体の今までの攻撃とは比べものにならないくらいの強烈な右前足の一撃が、シュオウを襲う。
――大丈夫。
シュオウにはすべて見えていた。
レッドアゲートの最後の踏み込みから、右前足を高く持ち上げる様子。舞い上がった砂塵と石粒。
なぎ払われる前足の爪が、シュオウの上半身を狙っている。
躱すのは簡単だが、あえて寸前まで体を動かさず、爪が届くギリギリの距離まで待ってから、わずかに立ち位置をずらし、激烈に空気を切り裂きながら迫る鋭利な爪の一撃を躱した。
仕留めた、と思ったはずだ。
飛び散るはずだった血しぶき、そこから漂う血の臭い。そのどちらもなく、爪はむなしく空気を切り裂いただけだった。
狩り役のレッドアゲートは一瞬の戸惑いをみせた。
舌で鼻を濡らし、血の臭いを探す。
まばたき一回分ほどの短い時間だったが、シュオウの眼はその瞬間を見逃さなかった。
狂鬼の直前まで距離を詰め、左前足の一番小さな足の指を、今出せるすべての力をこめて踏み砕く。
木が折れるような乾いた音がして、レッドアゲートが甲高い悲鳴をあげた。
後ろに飛び退いて、背中から地面に転がり苦しげに息を吐いている。
――これでしばらくは時間を稼げる。
シュオウは振り返り、アイセ達のいるほうを見た。
アイセが展開した風の晶壁に、前足での一撃を阻まれたレッドアゲートは、後退することなく、そのまま晶壁に前足と爪を押し当てていた。
――踏み抜く気か。
アイセの晶壁は幾重にも折り重なった緑色の風の晶気で構築されている。岩をも切り裂きそうなほどの鋭い爪の一撃を、完璧に防いだその力は、見事といっていい。だが、問題はそれを扱う人間のほうだ。
「くうッ―――」
アイセは次第に狂鬼の勢いに押されはじめて、立ち姿勢を保てなくなってきている。少しずつヒザは折れ曲がり、ついには地面に片膝をつく形となってしまった。
「クモカリ、ジロッ! 前足を狙え!!」
二人は互いに顔を見合わせた後、頷いてから前に出て、武器で痛烈な一撃を叩き込んだ。
クモカリが振り下ろした重斧は、晶壁を押さえ込むレッドアゲートの右前足に食い込み、ジロの小剣での一撃は、体を支える左前足に突き刺さった。
両前足に傷を負ったレッドアゲートは悲鳴をあげて転がり、這いずるようにして森の中へ逃げていく。
一体は片付いた。
しかし、後ろから感じる気配はまだある。
シュオウが振り返った瞬間、
「間に合った」
というシトリの声が耳に届いた。
見ると両膝を地面につき、両手の中に大きな水球を抱えるシトリの姿があった。
シトリは晶士だ。扱う晶気は高威力だが、放つまでに時間を要するのだという。
これまでの修羅場の中、一人静かに力を溜め続けていたのだろうか。
普段の言動から、戦力としてまったく期待していなかったシュオウは驚いた。
残った狂鬼は左前足を浮かせつつ、こちらを睨みつけている。牙を向きだし、尻尾をあげて臨戦態勢は解いていない。
そこに目がけて、シトリが青白く輝く晶気を放った。
「水球、放つッ」
放たれた大水球は、目算を誤ったのか狂鬼の少し手前の地面に衝突した。しかし、その威力は凄まじく、地面を大きく抉り、水球の衝撃で砕かれた古い白道は、つぶてとなって狂鬼に襲いかかった。
轟音が鳴り響き、土埃が盛大に舞う。
視界が晴れると、そこにはヨタヨタと体を震わせながら立ち上がるレッドアゲートの姿があった。
完膚無きまでに痛めつけられた狂鬼は、血まみれになった体を揺らしながら森の中へと姿を消した。
「やった………………やったんだッ!!」
座り込んでいたアイセが飛び上がり、クモカリとハイタッチを交わした。
「勝ったっぽい、やったっぽい!」
ジロもぴょんぴょん跳びはねて、喜びを全身で表現していた。
「信じられねえ……一人の犠牲者もださずに、あの狂鬼を追い払っちまうなんて」
シュオウの背にいるボルジは、臭い息を吐きながら感嘆の声を漏らした。
危険な状況を脱することができたので、ボルジを地面に降ろす。
シュオウは地面に尻餅をついたまま放心したように虚空を見るシトリに声をかけた。
「大丈夫か?」
「……たぶん」
涼しく見えるシトリの顔には、うっすらと汗が見えた。
シュオウは手を差し出した。
「凄かったな」
シトリはシュオウの手を取り、はじめて見せる花の咲いたような美しい笑みを浮かべた。
「ありがと」
そう言って、シュオウに体重を預けて立ち上がる。
「あッ」
勢いよく引っ張ったせいか、シトリは立ち上がるのと同時にシュオウの胸に吸い込まれてしまった。
甘い香りと、柔らかなシトリの胸の感触が服越しに伝わり、心臓がドクンと跳ね上がる。
「ごっほん!」
シュオウがギギギと錆び付いたかのように固まった首を動かすと、にやにやと視線を送る仲間達と、目を尖らせてこちらを睨みつけるアイセがいた。
その視線に気づいた瞬間、シュオウは一歩後ずさり、照れ隠しに咳払いを一つした。
「シトリのことは優しく抱き留めて、私には蹴りをくれるのか……」
いつもより半音低い声でアイセが言った。
「あれは、そうするのが一番だと思ったからだ」
「だとしても、女の背中を足蹴にして、狂鬼の前につき出したんだぞ。一言くらいあやまったっていいじゃないか」
「あやまった」
「いつだ? 聞いてないぞ」
そういえば、と思い出してみると、たしかに口には出していなかったかもしれない。
「あー、いや………」
冷や汗が背中をつたう。
「ほらみろッ! さあさあ、謝れ。遅れた謝罪でも受け入れるぞ。私の心は広いんだ」
本当に心の広い人間はそんな事を言わないと思うのだが、火に油なので黙っておく。
「とにかく、全員が無事でよかった。一休みしたら、暗くなるまでまた歩こう」
「こら、勝手にまとめるなッ、ちょっと、おい―――」
シュオウにまとわりつくアイセをネタに笑いつつ、小隊はわずかの間休息をとった。
大きな危機を皆の力で乗り越えたことで、小隊の雰囲気は良好だ。
シュオウは空を見上げた。
昨日まで薄い灰色だった雲が、今日は一段色が濃くなっている。
降り出す前に目標地点まで辿り着くことができればいい。
シュオウはしばらくの間、重たい曇り空を見つめていた。
◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇
深界踏破試験、六日目。
すでに日が出て時間がたっているのに、前日よりもさらに濃くなった雲に覆われて、辺りは夕方のように薄暗い。
まるで黄昏の世界に囚われたような感覚に、例えようのない漠然とした不安を感じた。
かつて一人で森の中に居たとき、これほどの不安を感じたことがあっただろうか。
あの頃の自分と違うこと。それは行動を共にする仲間達の存在だ。
彼らを守りたい。
無事に森を抜け、それまでの苦労を皆で笑いながら話したいと思っている。
だが、頭の中では常にそうはならない未来も想像してしまう。
もし、小隊の仲間達の一人でも失うことがあれば、もうこれまでの共に過ごした時間を、良質なものとして心に留め置くのは難しくなってしまう。
――結局、自分が大事なだけか。
この不安な気持ちの根源は、仲間を失うことではなく、仲間を守れずに自分の心が傷つくのを恐れているにすぎない。
シュオウは空を見た。
雲は薄灰色の部分に、ほとんど黒に近い濃い灰色の雲が混ざりあっている。こうした色の雲が出るときは、激しい大雨が降りやすい。
雨が降れば狂鬼は狂う。その理由を人間は知らない。
狂った狂鬼は、空腹でなくとも敵と定めた相手を手当たりしだいに捕食しはじめる。生気のない灰色の世界の中、血肉を貪るその姿は、まさに狂気の沙汰。
その間、脆弱な人間にできることといえば、怯えて逃げ惑うか、じっと動かず雨がやむのを待つくらいだ。
今のシュオウにできる事は、雨が降り出す前に森を抜けられるよう祈ることくらいだ。
朝の冷えた空気で、吐く息が白くなる。
けして軽いとはいえない人間一人を背負って歩くのは、本当に疲れる。
だからといって速度を落とすわけにはいかない。
途中、息があがるたびに、自分を置いていけとわめくボルジの言葉を聞き流した。
シュオウにも意地はある。
拾っておいて、疲れたから置いていく、などとは絶対に言いたくないのだ。
「はぁ、はぁ―――」
疲労で息が荒くなる。鼻で呼吸する余裕がなくなり、冷たい空気を口から出し入れした。
「おい」
「置いていく気はないぞ」
ボルジに声をかけられたシュオウは、二の句を待たずに言った。
「ちげえよ。………これを、預かってほしいんだ」
ボルジは服の内ポケットから、宝石のついた指輪を取り出してシュオウに手渡した。
「指輪?」
「王都の〈鳥の頭〉って酒場で、給仕をやってる女がいる。隊商の護衛で東側に来るたびに、その店に寄って話してたら惚れちまってな。今回のこの試験で金を稼いで結婚を申し込もうと思ってたんだ」
ボルジは照れくさいのか、頭をボリボリと掻いた。
「そんな大事な物なら自分で持っていたほうがいい」
シュオウは指輪を返そうとしたが、ボルジはそれを手の平で突き返した。
「ここまで順調に来ることができたのは奇跡みたいなもんだ。俺っていうお荷物を背負わせたまま、無事に森を抜けられるなんて甘いことは考えてない。だから、もし俺になにかあったら、この指輪を女に渡して欲しいんだ。店に行って、俺の名前を出せば相手はすぐわかるはずだ」
「……しかし」
「お前を信用してるから、これを渡すんだ。頼む」
わずかにためらいながらも、シュオウは指輪を受け取り、胸ポケットの底にしまった。
「一応預かっておく」
「……ありがとよ」
昼をすぎた頃、三股に分かれる分岐路に差し掛かった。
直線に伸びる道と、左右に大きく分かれる二つの道が見える。
「ねえ、これって」
クモカリは期待に満ちた顔でシュオウを見た。
「地図では、これが最後の分かれ道みたいだな」
地図上で見る、フォークのように三つに分かれる道は、そこから試験の目標地点まで、かなり近いところにある。
もし正解の道を当てることができれば、半日とかからずに森を抜けることができるかもしれないが、三つの道すべてが行き止まりになっている可能性も十分あり得る。
「真ん中の道はダメっぽい」
どの道を選ぶか、相談しようとした矢先、ジロがそんなことを言った。
「どうした?」
「ここから見えるギリギリのとこ、塞がってるっぽい。ジロは、人間よりちょっと視力良い感じだし」
目を細めて道の先を見ると、たしかに奥のほうで道が途切れ、森に浸食されている様子をわずかに見ることができた。
「本当だな。そうなると、選べる道は二つ。右か左、どっちを選ぶか」
シュオウはアイセに視線を送った。
「私が決めていいのか?」
「隊長が決めればいい」
アイセは自嘲気味に笑った。
「隊長……か、いまさらな気がするけどな。―――よし、右へ行こう。この先が塞がれていないことを祈って」
アイセの言葉に全員が頷いて、力強く一歩を踏み出した。
遙か上空にある雷雲が、グググと音を鳴らした。
周囲の空気は、午前中より重くなっているような気がする。
逢魔が時。
視界の先は、強欲に道を飲み込んだ、灰色の森で埋め尽くされていた。
「行き止まり、か」
「すまない、ハズレをひいてしまったようだ……」
「気にするな。幸い、ここまでそれほど距離はかかっていない。明日には挽回できる」
「うん。でも、今日はそろそろ休んだほうがよさそうだな。夜が近いし、雨も降りそうだ」
太陽は沈みかけている。厚い雲に覆われた森は、まもなく漆黒の世界へおちるだろう。
「そうしよう。できるだけ道の真ん中にテントを用意して―――」
シュオウが指示を出そうとしたとき、シトリの震える声がそれを遮った。
「ねえッ」
一番後ろにいたシトリは後ずさりながら、来た道の先を指さした。
「あれ、なに………」
道幅いっぱいに横一列に並んだ大きな影が見える。影はゆっくりとこちらへ迫ってくる。
影の正体に気づいたとき、シュオウは固唾を飲み込んだ。
数にして十体以上。赤毛の狂鬼、レッドアゲートが低く喉を鳴らしながら、こちらを睨んでいる。
――数が、多すぎる。
「もしかしなくても、私たちを狙っているんだろうな」
絶体絶命の状況にあっても、アイセは落ち着きを保っていた。狂鬼を前にしただけで震えていたこれまでの姿が嘘のようだ。
クモカリもジロも取り乱した様子はない。
前日のレッドアゲート二体を追い払った事で、自信に繋がったのかもしれない。
しかし、これだけの数を相手にするのは無謀だ。昨日の二体は慎重だった。それ故に、シュオウ達にも勝機を見いだすだけの余裕があったのだ。
今回のように多数の群れで現れたレッドアゲートは、数を頼りに力任せに襲ってくるはずだ。そうなってしまえば、全員が無事にこの危機を乗り越えるのは不可能になる。
――考えろ。
いくつもの想像が浮かんでは消える。
どうすれば、仲間に犠牲をだすことなく、この危機を乗り越えられるのか。
――戦う。
否。勝てたとしても必ず犠牲者がでる。
――自分を囮に。
否。すべてを引きつけられるという保証はない。
――逃げる。
どうやって?
うまく全員がすり抜けられたとしても、レッドアゲートの足からは逃げ切れない。
後ろは森に囲まれている。
自分一人なら森に入ってやり過ごすこともできる。だが、知識も経験もない仲間達にそれは期待できない。
――考えろ、考えろ、考えろ、考えろ。
不意に、後方から流れてきた風が、冷や汗で濡れたシュオウの首筋を撫でた。
「風?」
風は森で塞がれた道のほうから流れてくる。
高い木々で囲まれているこの場所では、本来こんなに低いところに流れるような風はこない。
――もしかしたら。
一瞬の閃きから沸いた希望に縋るように、シュオウは森で塞がれているはずの道の奥を見た。
巨大な灰色の木々の間から左奥へ伸びる白い道が、かろうじて視界に入る。
「クモカリ、残った食料をすべて地面に蒔いてくれ」
「え?」
「たのむ」
「わ、わかったわ」
クモカリは食料の入った背負い袋を逆さまにして、中身をすべて地面にぶちまけた。
食料といってもわずかなものだ。
パンにチーズ、豆などの保存食。小隊にとって命綱でもあるそれらが、すべて道の上に散らばった。
「全員聞いてくれ。塞がれた道の先に小道がある。これから一斉に走ってそこを目指す。合図は俺がだす」
聞き返す者などいなかった。
シュオウの短い言葉だけで、全員がその意を汲み、ここから逃げ出すために身構えて足腰に力を入れる。
行け、というシュオウの言葉を合図に、全員が地面を蹴った。
レッドアゲートの群れは、シュオウ達が走り出したのと同時に一気に距離を詰めようと駆け出す。
地面に捨てた食料は、レッドアゲートの気を引くためのものだが、たったあれだけの食べ物で彼らが見逃してくれるはずはない。
欲しいのはわずかな時間。
臭いで注意が一瞬でも散漫になれば、小道に逃げ込むだけの時間稼ぎになってくれる。
生きるために、必死に駆け走る。
その最中、レッドアゲート達が地面に捨てた食料の臭いを嗅ぐために一瞬足を止めているのが見えた。
小道は、そこへ近づくほどはっきりとその姿を視認できた。
二本の巨木の間に、人間一人が通れるくらいの狭い白道が奥へと伸びている。
捨てた食料に早々に興味を無くしたレッドアゲート達は、全速力で追跡を再開した。
一番に小道に辿り着いたアイセが、二本の巨木の間に入った。シトリ、ジロがそれに続く。
「シュオウッ!」
クモカリは小道の入り口の前で、ボルジを背負っているせいで遅れていたシュオウを待ち、先に入れと促した。
レッドアゲートの群れは、すぐそこまで迫っている。
シュオウは勢いそのままに小道に飛び込んだ。
それを確認して、クモカリも小道へ飛び込む。
「きゃあッ」
小道に入ったはずのクモカリが、尻餅をついて後ろへ引きずられていった。
「クモカリッ!!」
シュオウは背負っていたボルジを降ろして、クモカリの足を掴んだ。
物凄い力で引きずられそうになるが、地面に落ちたボルジがシュオウの足を掴み、そのボルジの体を先に入っていたアイセ達が掴んで、どうにかつなぎ止める。
見上げると、巨木の狭い隙間から、頭だけ突き入れて、クモカリの持つ背負い袋に噛みついたレッドアゲートが見えた。
レッドアゲートは唸り声をあげながら、クモカリを外へ引きずり出そうともがいている。
「袋だッ、背負い袋を肩からはずせ!」
クモカリはするりと、背負っていた袋から腕を抜いた。
入り口へ引きずる力がふっと軽くなる。
シュオウはすぐに起き上がり、クモカリの足を持ったまま中のほうへ引きずった。
直後、再びレッドアゲートがこちらに頭を入れ、牙を向き出しにして、何度も噛みつく動作をする。その度に血臭のする生暖かい息が届いた。
すこしして、レッドアゲートは頭を引っ込めた。
「あ、あきらめたのかしら……」
クモカリがおそるおそる立ち上がった瞬間、ぬうっと鋭い爪を光らせる赤い前足が伸びてくる。
前足はクモカリの頭上まで届き、瞬きをする間もなく振り下ろされた。
シュオウは爪がクモカリに届く寸前、服を後ろに引っ張った。
爪は小指ほどの距離でクモカリには届かず、空を掻いただけに終わった。
呼吸は乱れ、心臓はうるさいくらい鳴っている。
ほんの少し、なにかを間違えば、クモカリはシュオウの目の前で引き裂かれていたかもしれない。
その後も、隙間からレッドアゲートの前足が、何度も獲物を掻き出そうとして暴れていた。
「奥へ行こう。ここは危険だ」
森の中に伸びる小道は、三股に分かれていた道の、中央の道がある方向に向かって進んでいた。
道幅の狭い白道の左右には、灰色の木々が隙間無く立ち並び、自然の作った壁のようになっている。息苦しさを感じるが、今は壁となって害敵から身を守ってくれる灰色の木々が頼もしい。
夜の暗闇の中で頼りにできるのは、足下の硬い白道の感触と、仲間達の存在だけだった。
しかし、荷物をすべて失ったことで、その仲間達からは意気消沈した気配しか伝わってこない。
まだ希望はある。この小道が別の道まで続いていれば、そこから一気に森を抜けられるかもしれない。
――途中で行き止まりだったら。
考えたくもない。
食料も、休む場所さえもない状況で、今まで来た道を戻るのは、精神的にも肉体的にも負担が大きすぎる。
「みんなは、どうしてこの試験に参加したんだ」
暗闇の小道を行く途中、アイセが唐突に聞いた。
話をして、心細い気持ちを紛らわせたいのだろう。
暗い中を黙りこくって歩くよりは、よほど健全だ。
「クモカリはどうなんだ?」
最後尾を行くクモカリは、わずかに間を置いて話し始めた。暗闇でほとんど姿が見えないが、声でたしかにそこにいるのがわかる。
「報酬で王都に自分の店を持とうと思ってるわ。アタシは孤児院の出身でね、子供のいなかったパパとママに拾われたんだけど、当時から男の子に恋をしたり、女の子の服を着たがったりしてたアタシを、なにもいわずに養子にしてくれたの。ママは少しして病気で死んじゃったけど、パパはそれから男手一つで育ててくれて…………今も鉱山で重労働してるわ。せめてもの恩返しに楽させてあげたくて、商売でもはじめようかって。そんな感じね」
クモカリの口調は、ついさきほど死線をくぐったとは思えないほど穏やかで、優しかった。そのことで、彼の育ての親に対する暖かい気持ちが伝わってくる。
「……そうか。ジロは、どうだ?」
「ジロは旅をして、人間や色んな世界を見たかったぽい。いっぱい反対されたけど、後悔はしてないっぽい。でも、人間の世界はお金いっぱい必要だし。いろんな魚料理を食べるために、これに参加したっぽい」
旅の目的の大部分が食い意地に支配されてそうなジロの言葉に、皆がくすりと笑った。
「ボルジはどうして参加したんだ」
「惚れた女がいる。結婚を申し込むのに、まとまった金とまともな職が欲しかった」
シュオウの背にいるボルジは、短く言った。
「皆、いろいろあるんだな。シトリは―――」
「わたしにそれを聞くの? こんなほぼ強制参加のバカみたいな試験。パパに泣きつかれてなかったら、出たりしなかった。早く帰って暖かいベッドに入りたい」
シトリは無愛想な声で返した。
「アウレール子爵が泣きついた、のか………あんまり想像できないな」
「しないであげて。ああみえて、一応は強面で通ってるんだから」
「そうだな、ここだけの話にしておこう。―――シュオウ、お前はどうして参加した。金か? それとも従士に志願したかったのか」
問われて、考えた。
――俺は、どうして。
最初の目的は金だった。
ジロと同じように人々が暮らす世界を見て回りたくて、そのための金が欲しかった。
でも今は違う。
金のためにはじめたことが、今は仲間と共に無事森を抜けたい、という目的に変化していた。
仲間と共に過ごしたこの数日間は、もはやシュオウにとって、何ものにも代え難い大切なものとして心にある。
それを説明するのは気恥ずかしいので、シュオウは照れ隠しに一言だけ告げた。
「金だ」
シュオウの言葉があまりに素っ気なさ過ぎたせいで、アイセは呆れた様子で笑った。
「つまらんやつだな」
「そっちはどうなんだ」
「私は与えられた道の中で、精一杯努力するだけだからな。この試験も、これから先の人生の中での小さな壁くらいにしか思っていなかった。でも、今はこの試験に参加できて―――いや、お前達と同じ小隊になることができてよかったと思っている。疲れてふらふらするし、空腹で腹が鳴る。足も痛い。なのに、不思議と今の瞬間を愛おしく感じている。まだ終わってほしくないとすら思うんだ」
はじめて会った頃の傲慢で刺々しい話し方をするアイセを、今思い出すのは難しい。彼女もまた、この短い間に悩み、成長したのかもしれない。
シュオウも、たった数日で金のためが、仲間のために、という考えに変わっている。
無愛想で無気力だったシトリも、時折微笑んでみせたり、少しずつだが皆と言葉を交わし始めていた。
仲間と築いていく絆には、人を変える力がある。シュオウは、それを身をもって実感していた。
アイセが話を終えたのとほぼ同時に、シュオウの頬にぽたりと水滴が当たった。
――雨。
本格的に降り出した大粒の雨。すべてを捨てて逃げてきたシュオウ達にとっては、これ以上ない追い打ちだった。
「こんなときに雨なんて……止むまで待機したほうがいいんじゃないのか?」
激しく降る雨は、周辺の木々や地面を叩き、ザァザァと大きな音をたてている。
アイセが叫ぶようにして言った言葉でも、雨音に打ち消されてかすかに聞き取れた程度だった。
「だめだッ、この雨は体温を奪う。少しでも歩いて、雨宿りできそうな場所を探そう」
まわりにこれだけ木があるというのに、雨よけの傘になってくれそうなものは一本もない。雪になってもおかしくないくらい冷たい雨に長時間さらされれば、最悪凍死してしまうか、よくても風邪をひいてしまうかもしれない。どちらにしても、深界の中で孤立する小隊にとっては致命傷になる。
「ねえ、道が―――」
暗闇の中でクモカリの声がして、足下を見ると、雨水に濡れた白道がぼんやりと光を帯び始めていた。そのおかげで、ほとんどなにも見えなかった周囲の様子がぼんやりと照らされて浮かび上がる。
豊富な水分を受けた白道は、まるで白蛇のような姿で幻想的な光を放っていた。
道は長く先まで続いている。
「行こう、この先へ」
ここが別の道へと続いていれば、まだ希望を持てる。
激しく降りしきる雨の中、朧気な光の道を行く。
森のどこかから、狂鬼の猛った咆哮が聞こえたような気がした。
歩き始めて一時間もしないうちに、シュオウ達はあっけなく小道の出口まで辿り着いた。
「ここは……」
「三股の分岐路の真ん中の道だな」
小道を出た先は、これまで歩いてきた道と同じような古道だった。
小道は右の道から斜め左方向に、ほぼ直線上に伸びていた。そこから考えて、この古道は、最初に塞がれていた中央の道でまちがいない。シュオウ達は、塞がれていた道の先へと辿り着いたのだ。
道のずっと奥を遠望したとき、シュオウは少しの間言葉を失った。
「みんな……あれを」
シュオウはそこへ向けて指さした。
長く一直線に伸びる白道のさらに先に、森の切れ間があり、そこから煌々と輝く白い光が見える。
道の奥から漏れる光は、整備された新しい白道の放つ光に違いない。
「夢じゃないのか……」
アイセは自分の頬をつねった。
「幸いなことに現実だ」
夜以外休まず歩き続け、少ない食事量で我慢して、狂鬼との命がけの戦いに勝利し、その後命からがら逃げてきた末に、ここまで辿りついたのだ。
仲間全員で勝ち取ったこの瞬間が、夢であるはずがない。
気づけば、言葉もなく皆で駆け出していた。
雨で濡れた体は凍えるように冷たくなっている。にもかかわらず、どこからともなく力が沸いてくるのだ。
アイセも、ジロも、シトリもクモカリも、そしてシュオウも、皆が希望に満ちた顔で走った。
アイセは試験官達の驚く顔を想像して笑い、シトリは暖かいベッドを望み、ジロは想像の中で魚料理に舌鼓を打っていた。
このまま、これまであったことを笑いながら、森を抜けられる、そう思っていた。
二体の大型狂鬼が、目の前に立ちふさがる直前までは。
左右の森から、かき分けるようにして現れたのは二体の狂鬼。
左から出てきた一体は、森に入ってすぐ遭遇したオウジグモ。
右の森から出てきたもう一体の狂鬼の名はソウガイキ。地域によってはジルコンとも呼ばれるこの狂鬼は、亀によく似ている。緑色の胴体の上に、青い甲羅を背負い、その動きは緩慢だが、長い尻尾は威力、素早さ共に驚異的だ。
両者とも巨体を誇る大型の狂鬼で、人間くらいの大きさなら一飲みで食べてしまう。
オウジグモとソウガイキは、口からだらしなく涎をこぼしつつ、その目はシュオウ達を捉えて離さない。
小隊の仲間達の間に、諦めに近い雰囲気が漂い始めた。
「ハ、ハハハ―――誰か、これは夢だと言ってくれ」
アイセは乾いた笑いをはき出して、地面に崩れ落ちた。
ジロもクモカリも、アイセもシトリも、戦闘態勢をとろうともしていない。当然だ。勝てるはずがないと知っているのだから。
「あの小道に戻れば、どうにかなるか?」
アイセは後方の小道への入り口を見て言った。
「無駄だな。あれほどの大きさなら、木をなぎ倒してでも追ってくる」
「じゃあ……」
アイセの言葉は、そこで終わった。がっくりと項垂れて、立ち上がろうともしない。
ついさっきまで、喜びで輝いていた表情は、受け入れがたい死の運命を前にして、暗く濁ったものになっていた。
仲間達のこんな顔は、見たくない。
「ボルジ、降ろすぞ」
「あ、ああ。そうだな、もう背負ってもらったって意味はなさそうだ」
ボルジはシュオウの背から降りて、そのまま地面に座り込んだ。
「行ってくる。ここで待っててくれ」
豪雨の中、狂鬼に向かってシュオウは駆け出した。
背後からそれを止めようとする仲間達の声が聞こえる。
彼らから見れば、シュオウは自殺に等しい行動をとったように見えたに違いない。あるいは、一人で逃げ出そうとした、か。
だが、そのどちらでもない。
シュオウは今まさに、確実な勝算を持って二体の狂鬼に挑もうとしている。
レッドアゲートのような比較的小型の狂鬼は、群れで獲物に襲いかかる事が多い。仲間を守りながらの行動に尽力しなければならなかったこれまでは、積極的に狂鬼と戦う事ができなかった。だが、今回のような大型の狂鬼はその動きも緩慢で、ある程度その動作に予測がたちやすい。
くわえて森には雨が降っている。捕食本能に狂う狂鬼は、普段の動きを忘れて猪突猛進に獲物を狩る。オウジグモの場合、獲物と定めた相手に粘着性質の糸を出して動きを封じてから狩りをはじめるのだが、じりじりと走り寄るシュオウに対して、未だに糸を出してくる気配はない。雨のせいで狂い、糸で獲物の動きを封じるという行動を忘れているのだ。
つまり、狂鬼は雨の中で猛り狂う状況にあるからといって、かならずしも普段より危険度が増すというわけではない。
しかし、それも一定の水準で狂鬼と対することができる者にかぎるので、力ない者達にとっては、狂鬼が狂っていようとそうでなかろうと、その差はほとんど意味をなさないだろう。
オウジグモの尖った前足が、シュオウめがけて振り下ろされる。
凝視してそれを回避する。空振りした前足が古道に突き刺さる。
シュオウはオウジグモの直下に潜り込んだ。
巨大な本体から伸びる六本の足がある。前から二番目の足は、体が崩れないように支える重要な部分だ。
オウジグモは全身に硬い外皮を纏っている。そのせいで、人の持つ一般的な武器などで致命傷を与えるのは至難の業。だが、足の関節は横方向へひねる動作に極端に弱い。
本体を支える足を抱え込む。オウジグモの体重を支える重要な部位だけあって、この足を攻撃に使う事はない。
シュオウは自らの足を崩れた白道の一部に引っかけて固定し、抱え込んだ狂鬼の足を力一杯右回転にずらした。
オウジグモの間接が砕ける嫌な音がして、狂鬼の悲痛な咆哮が森に響き渡る。
足を壊されて体重を支えきれなくなったオウジグモは、その巨体を地面に沈めた。
シュオウはすかさずオウジグモの体毛を掴み、体の上へよじ登って、立ち上がろうと必死にもがくオウジグモの上に立つ。
胴体と頭の繋ぎ目近くにある、白濁した特大の輝石の前まで歩み寄り、腰に差した武器を抜いた。
師匠のアマネは、この奇妙な武器を〈針〉と呼んでいた。
白い先の尖った刃を木製の柄に取り付けただけの単純な武器だ。
斬りつけることもできず、ただ突くことのみに特化したこの刃の部分は〈コクテイ〉という狂鬼の割れた歯の破片で出来ている。
コクテイの歯は硬い。岩だろうが、鋼鉄だろうが、たやすく噛み砕いてしまう。
輝石には、それを所有する者の有する能力が高いほど、硬く重たくなる性質がある。オウジグモの輝石の硬さは、並の人間のそれを軽く凌駕するが、コクテイの歯の強度はそのさらに上にある。
シュオウは針を下向きに両手で持って、オウジグモの巨大な輝石の上に構えた。
輝石を砕くうえで重要になるのが、大きさと安定だ。人間やレッドアゲートのように、小さめの輝石で本体が素早かったり、不安定だったりするものを、激しい戦いの中で砕くのは難しい。しかし、このオウジグモのような大型狂鬼の場合、そのどちらの条件も満たしている。
振り上げた針で輝石の中心を貫いた。
刃は狂鬼の輝石に食い込み、中心奥にある命核を砕く。
輝石が砕ける硬質な音がして、今ここにあったはずのオウジグモの巨体は、浅黒い光砂となって空中に四散した。
オウジグモの体が崩れる寸前、シュオウはソウガイキのいる右奥方向へ飛び出した。
――あと一体。
着地の瞬間に一回転して衝撃を減らし、勢いを殺さずに間合いを詰める。
胴体よりも長いソウガイキの尻尾がシュオウを狙ってなぎ払われた。当たれば一撃死は確実な攻撃を、絶妙なタイミングで飛び込んで躱す。
振り払われた尻尾を戻す際の二撃目が、シュオウを再び襲った。一撃目と同じ動作でそれを躱す瞬間、針を突き刺して、振り回される尻尾を乗り込むようにして掴んだ。
ソウガイキが突き刺された針の痛みに苦痛の声を漏らした。尻尾が異物を振り落とそうと縦横無尽に振り回される。
シュオウは、尻尾が上へ高く振り上げられた瞬間、針を抜いて空中に飛び上がった。
ソウガイキは、高く真上に舞い上がったシュオウを完全に見失っていた。
この、亀によく似た狂鬼は、青い甲羅の下に輝石を隠している。その位置は甲羅の中心。高所から見下ろせる今のような状況なら簡単に位置を特定できる。
空中での上昇が終わり、重力に引きずられて、雨を背負いながら下降していく。
命がけの状況にあって、シュオウの心は場違いなほど落ち着いていた。
落下していく最中、師匠に鍛えられた十二年間の記憶が頭の中を駆け巡る。
森に放り込まれては何度も死にかけ、鍛えるためだといっては血反吐を吐くまで殴られた。何度逃げだそうと考えたかわからない。それに耐えたあの日々が、今のシュオウを形作っている。
下持ちに構えた針がソウガイキの甲羅に届く瞬間、シュオウは笑っていた。
――無駄じゃなかった。
死ぬ思いをして獲得したすべての技術や経験が、今、この時、この瞬間、仲間を守る力となって発揮できる。
そのことが、なによりも嬉しかった。
一条の雷光が大地を穿ち、遅れてきた轟音が大気を揺らした。
高所からの勢いと、振り下ろした腕の力が、刃先の一点に集中して青い甲羅に突き刺さり、下に隠された輝石ごと豪快に破砕した。
ソウガイキの巨体は光砂となって天空へと舞い上がり、その命は世界に溶けていくかのように消え去った。
ソウガイキの体が崩れ去り、唯一残された砕けた輝石と一緒に、シュオウも地面に着地する。
シュオウの背後にそびえ立つ巨木に、雷が落ちた刹那、世界が白く染まった。
仲間達の元へ戻ると、皆が目を大きく見開いて呆然と立ち尽くしていた。
アイセはなにか伝えようとして口を開くが、ぱくぱくと動かすだけで声になっていない。
シュオウは胸ポケットの中にしまっていた指輪を取り出した。
「ボルジッ」
濡れた地面に座り込んだ、ボルジの手元に指輪を投げる。
それを受け取ったボルジは、シュオウと指輪を交互に見た。
「え……お、おい」
戸惑うボルジに、シュオウはこう言った。
「自分で渡せ」
過酷な深界を行く旅も、もうすぐ終わる。
◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇
先日の夜、あの騒ぎの後、小隊は無事に森を抜けて、目標地点への到達を果たした。
真新しい白道が敷き詰められた、だだっ広い道のど真ん中に、試験官達が寝泊まりする砦があり、そこの門を叩く頃には夜中近くになっていた。
まさかこんなに早く試験を終わらせてしまう小隊があると思っていなかった彼らの慌てようは凄まじく、仲間達は皆苦笑していた。
砦に入った後は、乾いた予備の服を借りて、暖かいベッドの中で泥のように眠った。
翌日、起床して食事をもらい、昼近くになった頃には馬を借りて王都に戻る事になった。
あれほど苦労したここまでの道程も、試験官が行き来に使う整備された白道を馬で行けば、半日もかからずに王都へ戻れるという。
アイセは今、王都を目指して馬を走らせる道中にあった。
意外な事に、馬に乗れないというシュオウは、これまた意外なことに、馬が得意だというジロの後ろに乗って先頭を走っている。ジロは得意だというだけあって、その乗りこなしは見事なものだった。
アイセ、シトリはジロから少し離れて後ろを併走している。
クモカリは背にボルジを乗せて、すぐ後ろをついてきている。
「昨日の……凄かったな」
アイセは興奮気味に言った。
二体の大型狂鬼を一人で片付けてしまったシュオウ。
あのときの光景が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
何度その話をしようかと思ったかわからない。だが、あまりにも落ち着き払ったシュオウの雰囲気に飲まれてしまい、あの時の事には触れられなかった。
「そうね」
クモカリの反応は、アイセが期待していたよりもあっさりとしていた。
「どうしたんだ、あんな立ち回りを見ておいて、それだけなのか?」
「正直、あまりにも驚きすぎて、びっくりする感情が一周しちゃったのよね。それに、彼ってなんとなく並じゃない雰囲気を匂わせてたじゃない。だから、あれだけ凄いことをしても、そのくらいできちゃいそうだな、なんて不思議と納得しちゃったのよね」
クモカリの背後でしがみつくボルジが、言葉を挟んだ。
「ありゃすげえなんてもんじゃねえ。一生に一度お目にかかれるかって神業だぜ。彩石持ちでもない、ただの平民が、たった一人であの大きさの狂鬼を倒しちまったんだ。しかも二体だッ。まったく、とんでもない野郎に命を拾われたもんだぜ」
ボルジは指を二本立てて、二体、というところを強調した。
「そうなんだッ! 凄いんだ! あいつは凄い。あのでっかい蜘蛛の足を、こう―――」
アイセは身振り手振りで昨日のシュオウの動作を一つ一つ再現した。
あの二体の狂鬼が目の前に現れた瞬間、アイセは確かに死を覚悟した。
そんなアイセの覚悟を、たやすく吹き飛ばしてしまったのはシュオウだ。
あれだけの事を成して、最後に雷を背負うようにして立っていた、あの時の姿は神々しくさえ見えた。あの時の光景を、一生忘れられそうにない。
「彼、これから大変なんじゃない」
クモカリのその言葉が、アイセの妄想を断ち切った。
「どうしてだ?」
「あれだけの事をひょいっとやって涼しい顔をしてられるような人なのよ? そんな凄い人材、国や軍が放っておくのかしら。あれだけの腕があるって世間に知れたら、彼を雇いたいって大商人や傭兵団だって掃いて捨てるほど出てくるわ。なにせ、白道を行き来する商売は、儲かるけど安全性に難あり、ってのが商売人達の悩みの種だしね」
「なるほどな」
たしかに、とアイセは思う。
軍は常に優秀な人材を欲している。シュオウのような人材なら、各国、各領主などが喉から手が出るほど欲しがる逸材だ。
もし、ムラクモが彼を雇い入れたらどうなるだろう。
うまくすれば、同じ隊の所属になれるかもしれない。
そうすれば、またあんな姿を見せてくれるのだろうか。
もっと色々な話をして、今よりもっと仲良くなれるだろうか。
そんな前向きな想像が頭を駆け巡り、心が自然と浮き立った。
「シトリはどうだったんだ」
すぐ横を走るシトリに声をかける。が、シトリは前のほうへ視線を固定させて返事をしなかった。
「シトリッ」
「―――え?」
今気づいた様子でシトリがアイセを見た。
「昨日のシュオウの事を聞いたんだ。なにか思わなかったのか?」
「………べつに、なんとも」
そっけなくシトリはそう言って、また視線を遠くへやってしまう。
この時のシトリの態度に少し違和感を感じながらも、アイセは再びクモカリやボルジとシュオウの話をする事に没頭し、あまり深くは考えなかった。
馬を飛ばして、夜のそこそこ遅い時間に、王都に到着した。
シュオウ達、従士志願者組は出発したときの宿に泊まる手筈になっていて、これから朝まで飲み明かすのだと騒いでいる。
街の門をくぐってすぐ、彼らは早々に宿へ向かった。
アイセとシトリも誘われたが、行けそうだったら、と曖昧な返事を返すに留めた。
「シトリは参加するのか?」
「するわけないじゃん。帰ってお風呂に入ってゆっくり寝たいし」
「そうか」
「アイセはこれから大変なんじゃないの」
シトリは、アイセの手元にある一枚のカードに視線をやった。
アイセの小隊が前代未聞の早さと、同行する平民を全員と別の隊の怪我人を一人加えて試験を無事に終えたことは、昨夜のうちに知らせが送られている。
父親のモートレッド伯爵の耳にも当然届き、アイセが王都に到着するなり、待ち構えていた家の者にパーティーへの招待を知らせる招待状を渡された。
モートレッド伯爵家の血族、および社交界の貴族達を大勢招いた、アイセの祝勝パーティーが開かれているらしい。
アイセはこのまま家に戻って支度をして、主賓として参加することになっている。
「まあ、どうにかこなすさ」
「アイセなら、そうでしょうね。―――わたしはもう行くから。おつかれさま」
「あ、ああ……おつかれ」
――おつかれ、か。
シトリからねぎらうような言葉をもらうのは、これがはじめての経験だ。
なんとなくむず痒いものを感じつつ、アイセは家族の待つ館に向けて馬を走らせた。
雅な宝飾の数々で彩られた黄色のドレスを身に纏い、色鮮やかなカクテルを片手に持つ。
天井の高いダンスホールに、食べきれない量の豪華な食事が並んでいる。
綺麗で贅沢な衣服を身に纏う人々は、中身のない美辞麗句のやりとりに必死だ。
なんてことはない。見慣れた貴族達の世界が、そこにはある。
――つまらない。
自分を褒めそやす言葉も、尽きることなく新しいものがでてくる料理も、甘い飲み物も、目に映るなにもかもが、無価値なものに見えてしまう。
試験に参加する前の日まで、自分はこの世界に満足していたはずだった。
母や父、その他の人々が自分を認め、賞賛してくれることが、なにより嬉しかったはずだ。
それなのに、深界の灰色で生気のない風景が、今はなんとなく恋しい。
一口で食べ終わった質素な食事。築いてきた自信を、一瞬で打ち砕いたあの狂鬼。ゴツゴツとしていて寝苦しかったテント。落ち込んだ自分を気遣って話しかけてくれた仲間。そのどれもが、ここにはない。
わずか六日間に濃縮された数々の出来事が、いまはすでに懐かしい。
アイセは足にまかれた包帯を見た。
家に戻ったとき、包帯を替えようと言ってくれた使用人の提案を断ってしまった。
傷を負った足を綺麗に洗って、優しく花の蜜を塗ってくれたシュオウを思い出し、顔には自然と微笑みが浮かんでいた。
「――セ―――アイセ」
考え事に集中していたところに、父の言葉が現実へ引き戻した。
「……失礼致しました。お父様」
「なに、疲れているのだろう。無理をいっているのは私のほうなのだから、気にする事はない」
いつも厳格な態度を崩さない父は、ほどよく酒も入って、めったに見せないくらい機嫌が良い。
宝玉院の卒業試験の結果は、貴族としての今後の人生を大きく左右する。その試験に、アイセはかつてない好記録で合格した。
娘の出した成果に、父は誇らしい気持ちで一杯なのだろう。
挨拶に集まってくる貴族達は、優秀な子供を育てたモートレッド伯爵を羨み、祝いの言葉を絶やすことなく浴びせている。その度に父の鼻は高くなっていった。
「アイセ、そろそろ皆さんに挨拶をしてもいい頃だろう」
「……はい」
ホールの中心に置かれた小さな演壇の上に立つ。
静粛を求める使用人の呼びかけで、人々は雑談を切り上げて、視線をアイセに集中させた。
「本日は、私のような若輩者のために、これだけの方々にお集まりいただいたこと、本当に嬉しく思っております。モートレッド家を代表し、お礼を申し上げます」
アイセが優雅に一礼してみせると、会場から拍手がおこった。
拍手がおさまるのを待って、言葉を続ける。
「父は、この度の試験の成果を、私の実力だと褒めてくださいました。ですが、それは違います」
人々の間から、ざわめきが起こる。
「私は弱くて、そして愚かだった。頼りになる仲間達がいなければ、今、私はここでこうして話をしていることはありませんでした。私は、小隊を率いる責任者として、その役割をほとんど果たせなかった……」
「アイセッ、いったいなにを言い出すんだ」
急ぎ足でアイセの元まで来た父を真っ直ぐ見据える。
「お父様、今日だけは、どうか私のワガママをお許しください。―――私は行きます」
「行くって、どこへだね!?」
アイセは演壇を降りて駆け出した。
はじめから、仲間達と共に行くべきだったのだ。
ここにはなにもない。
皆を気遣うクモカリの声も、不機嫌そうなシトリの顔も、おかしな言葉で笑わせてくれるジロも、そして、静かに皆を見守っていてくれた彼の姿も。
空っぽの箱から出て行く間際、呆然と見送る父に言葉を残した。
「仲間達の元へ!」
アイセはドレス姿のまま、上着も羽織らずに外に出た。
乗ってきた馬に跨って、仲間のいる宿を目指して走り出す。
吐いた息が、白煙のように尾を引いて後ろへ流れた。
表通りを駆け抜けて、慣れない市街地を右へ左へ曲がる。
あらかじめ聞いていた場所を頼りに、アイセはどうにか目的の宿へ辿り着いた。
建物から暖かい光が漏れて、中から楽しげに語り合う、聞き慣れた声が耳に届く。
入り口のドアに手をかける。
緊張で高鳴る胸を押さえて、扉を開けた。
建物の中でテーブルを囲んでいた仲間達がアイセに気づいて、大喜びで迎え入れてくれた。
仲間達に向けて、アイセは子供のように無邪気に微笑んだ。
ジロが魚を咥えたまま椅子を運んできて、クモカリが後ろから背中を押す。ボルジは座ったまま酒の入ったコップを掲げて笑っていた。
そして、これまでと変わらず、一人落ち着いた表情でアイセを見るシュオウがいる。参加しないと言っていたシトリが、なぜかちゃっかりその隣に陣取っているのが気になるが、今は置いておこう。
今はただ、苦楽を共にした仲間と過ごすこの時間が、嬉しくてたまらないのだ。
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●あとがきのようなもの
ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございます。
今回は無名編の山場となるシーンを書きました。
無名編は次回くらいで終わる予定で、その後は短いヒロイン視点のストーリーをちょこっとだけ書いてから、次章に入る予定です。
感想欄で、輝石が体から離れたり、輝石のある部位が体から離れたらどうなるのか、という質問をいただいたのですが、今の時点で言えることは、かならず死を迎えることになる、ということまでです。この部分に関しては、作中でも結構重たい設定に関わるところなのですが、詳細については、もうしばらく先のお話で触れることになるとおもいます。
それでは、また次回に。