Ⅵ 鉄拳
その報は前触れもなく訪れた。
「ターフェスタの特使──そう名乗ったのか」
ムラクモから通じる北方への門戸の一つ、ターフェスタ公国に属する使者が、前触れもなく訪れ、謁見を求めている、そうイザヤは直属の上官であるグエンに、すっきりとしない口調で報告した。
「男が持参していた旅券によると、氏名はエスド・ゼル・ドノス、聖リシア教会の司祭で、目的は古美術の引き取りとあります、が──」
口ごもる副官に、グエンは問う。
「偽りか」
イザヤは曖昧に頷いた。
「……どう見ても宗教家というよりは武人、もっといえば武将の風格を漂わせている人物でした」
突拍子もない急な申し入れを突っぱねなかっただけの根拠を、イザヤは感じ取ったのだろう。
「いいだろう、その男に会う」
イザヤは露骨に顔色を変えた。
「身元の不確かな人間です、まずは穏便に取り調べをするつもりでした。その件についての許可をいただくため、ご報告にあがったのですが」
グエンは軽く手を薙いだ。
「この目で見定める。欺瞞であれば裁くまでだ」
「は」
男は、グエンの執務室に入るなり、両手をついて平伏した。
「偉大なる血星石、グエン・ヴラドウ閣下に拝謁いたします」
男は体を起こし、天井に伸ばした手から、胸元になにかを引き寄せるような仕草をした後、再び両手を床につく。それを繰り返した。
「立たれよ、床埃を吸わせるために呼び入れたつもりはない」
イザヤに促され、男は応接用の長いすに腰をおろす。
男は部屋の中をきょろきょろと見回した。
「いやしかし、実に質素な部屋ですな。これがムラクモ一国を肩に負う人物の部屋とは」
野太い声で男はそう言った。明るい灰一色の短髪に、北の聖職者が好んで着る赤生地の聖衣を身につけているが、どうにも違和感が鼻につく。ぶかついた上衣のうえからでもわかる厚い胸板、筋肉質な腕、そしてなによりへりくだっているようでいて、面構えは堂々としている。
おそらく、この男は貴人だろう。それも相当に位の高い人物だ。そうした者が放つ特有の風気というのは、隠そうとしてもにじみ出てしまうものである。
話をする価値があると、グエンは男の後ろに警戒したまま控えていたイザヤに、そっと目配せをした。
「必要な物以外を置くことをよしとはしていない」
グエンの言葉に、男は息を強く吐きだして、しみじみと声を吐いた。
「ごもっとも。我が国の執政の部屋を訪れたことがあるが、なんというか、ケバケバしい美術品が蔓延り、鼻の曲がりそうな花香水の臭いが漂っておりました。あの干からびた老キツネに、ここを見せて御言葉を聞かせてやりたいものだ」
無駄話を遮るように、グエンは一つ咳払いを落とす。
「名を伺おう、偽りは無用に願う」
直截な問いに、男はにやついて、無精髭で埋め尽くされた下アゴを真横にずらした。
一国の執政の私室に容易く出入りできるような者が、一介の司祭を自称し続けるのは無理がある。雑談にみせて、その実この男は、自らの正体を知らせたがっていた。
男は席を立ち、ぶかついたローブを脱ぎ置いた。戦士が好んで着るような軽装の革鎧を身につけた、偉丈夫がそこに立つ。
「〈対南要塞ミザール〉総督ショルザイ・ラハ・バリウム。聖都リシアより侯爵位を預かっております。ターフェスタ大公妃キルシャの実弟にして、太子エンスの叔父であり、後見人であります」
グエンは腰を上げ、バリウム侯爵を名乗る男に歩み寄る。武人然として体格に優れる彼の前にあっても、グエンのそれはさらに勝っていた。大山のようそびえ立ち、威風堂々と相手を睨みつける。
バリウム侯爵は目を合わせたまま、はずそうとはしない。額から伝う一筋の汗が、無精髭の林に流れ込んだの合図として、根比べに観念したかのように表情を緩めた。
グエンは地鳴りのような重声で喉を鳴らす。
「貴殿が自称する通りの人間だとするならば、その証明を求める」
「それが、身元を明らかとする物のすべては置いてまいりましてな。今この場で偽証の罪に問われ処刑されたところで、ターフェスタは御国を責めるための手を一切持ち合わせてはおりません」
グエンは男を睨めつけたまま、応接用の椅子に腰掛けた。バリウム侯爵も追うように、対面に座す。
「……貴様、売国の徒ではあるまいな」
男の眼光が一瞬、炎を宿した。
「かのグエン公とはいえ、誰よりも祖国に心血を注ぐ男を前にして、その御言葉を口にされるのは遠慮願いたい」
グエンは腕を組み、男と視線をぶつけた。
「では、自称バリウム侯爵に問う、身元を偽って越境したうえで、なにを目的として私に接触を計った」
「そこのお嬢さんにも伝えたことですがね、私は特使として、太守の意を伝えるために参じたまで。そしてその申し出は、御国にとって、そう悪い話ではない、と断言しておきましょう。ただし、繊細な事柄ゆえに、太守直筆の書簡は持参しておりませんし、秘密裏のうちに事を進めるため、こうして身を偽っての接触を図ったしだい」
「特使としての正式な手順すら踏んでいない相手からの申し出か。文もなく、口だけでなにを聞かされたとて、すべては与太話の域をでない」
男は両手の平を広げ、手を上げた。
「まあそうなりましょうな。が、身元を証明する手立てがないわけでもない。御国の特使の一人に、ターフェスタにて顔を合わせたことがあります。その者をここへ呼びつけていただければ、身の証明はすぐに立つでしょう。そして、この口から発せられる言葉にどれほど甘美なる価値があるか、御身は即座に頭の中で計算を始めるはず」
「よかろう、その者はだれか」
男は視線を天井へ泳がせた。
「はて、そう……たしかアライとか……いやアマイか。ちょこざいな男ではあったが、存外我らの文化、歴史に造詣の深い者でありました。目の細い神経質そうな黒髪の輝士です」
アマイと聞き、グエンは口角を僅かに歪めた。
「その男はいま、王女付き親衛隊を率いている」
男はぱしんと膝を打った。
「なんとッ、有能な男とは思っていたが、また随分な出世でありますな」
言って、野太い声で豪快に笑った。
シシジシ・アマイは、本来グエンからすれば指先一つで呼びつけることができる程度の相手ではあるが、王家の管理下にある親衛隊に対しては、その限りではない。親衛隊長を口先一つで呼びつけるには、内外の目を考慮し、憚られる。
しかし、アマイが外交特使として任務についていた頃を知る相手は限られている。彼が交渉事を重ねてきた相手は、ターフェスタでも実権を握る者達に限られていたからだ。そのアマイをよく知る様子の目の前の男の言葉が、その事で多少の重さを得たのは間違いなかった。
「身元の証明は追々とする。まずは、話を聞こう」
バリウム侯爵を自称する男は、前のめりになり、前で両手を握りしめ、頷いた。
「これまでのターフェスタとムラクモの歴史は、いかなる時代においても血しぶきにまみれた醜いものでありました」
グエンは顔を変えず、頷いた。
「然り。されど、侵犯行為の根源は常に北方より顕在する」
「それについては……少々見解が異なりますな。東方より幾たびも侵攻を繰り返した、あの野犬の群れを無視なさいますか」
「アデュレリアに関して言えば、その首に縄をまかれる前の話だ」
バリウム侯爵は不満げに鼻息を漏らした。
「その話はいずれまた。私が言いたかったのは一つ、ターフェスタの太守は、向こう五十年の領土不可侵協定を御国との間に交わす意向をお持ちであります」
場の空気が一変した。
「……まことの話か」
バリウム侯爵はほくそ笑む。
「一軍の将にして義弟、そして次期執政の私を単身で敵地に使わしたことをもって、太守は誠意を見せておられる。それに、この約定に信を得るため、我が甥にして次期太守、エスト殿下の身柄をお預けしてもいいとも仰せであります」
この男のいうことがすべて事実であるとするならば、その通り、ターフェスタが今回の交渉に対してどれほどの決意を秘めているかが窺える。と同時に、それは根拠不明の焦りのようなものにも受け取れた。
提示された条件は五十年に渡る停戦。ここのところは本格的な開戦にはいたっていないものの、ターフェスタは一年を通して、二度三度と不規則に小戦を仕掛けてくる。グエンにとっては、その都度処置を講ずる必要があり、目の前にたかる小バエのように、煩わしさを禁じ得なかった。
だが当然のこと、うまい話にはかならず引き替えの対価が必要とされる。
「条件を聞こう。だがこれより発する言葉には留意を。見え透いた駆け引きは不要だ」
男は後ろ頭に手をまわし、落ち着きなくまさぐった。
「なんといいますか、我らが提示した条件に比べるまでもなく、御国にとって──とくに閣下におかれましては、まったくの小事かと存じます」
「これ以上、時を無駄にするつもりはない」
これまでの饒舌が嘘のように、バリウム侯爵は頬の内側を右に左に、舌で突いた。
「まあ……なんといいますか、そちらの人間を一人、我々に差し出してほしい、ということでありましてな」
心の内で、グエンは目の前の男と接する間にはじめて首を傾げた。
「差し出す、という言葉の真意を求める」
「言葉のまま、一人の人間の身柄を引き渡していただきたい」
「……その者の名は」
バリウム侯爵は唇を濡らし、眉間に力を込めた。
「ジェダ・サーペンティアという名をご存じでありましょうか」
現サーペンティア公爵の息子、ジェダ・サーペンティア。知るもなにもなく、グエンは間近で顔を合わせたことがある。
真意が見えぬまま、グエンは軽く頷いてみせた。
男は視線をはずし、重々しく口を開く。
「ムラクモ王国右硬軍所属の若き輝士。かの人物を、戦犯として我が国で裁きたい。さきほど提示した条件を叶えるため、太守が望むことは、ただそれだけであります」
バリウム公爵の背後に控えるイザヤは、無言のまま怪訝に顔を歪めた。
「バリウム侯爵、とあえて呼ぶ。貴殿が今なにを口にしたか、承知されていような」
グエンの言葉に、座した男は皮肉に口元を歪める。
「我が身は言葉一つで数千の兵を操ることができるのです。それが、ケチな聖職者を装い、この様を晒してまでここにいる。察していただきたい」
グエンは卓を拳でたたき付け、立ち上がった。
「無為に時を捨てた」
イザヤが剣身を抜き放つ。鞘を走る刃の鋭利な高音が部屋に響いた。
バリウム侯爵は狼狽し、腰をあげた。途端、イザヤは彼の太い腕を容易く捻りあげ、組み敷いて首元に刃を当てる。
床に頬を押しつけられたまま、男は必死に視線を上げた。
「グエン公ッ、どうかご再考を──ただ一人だ、たった一人の命で、法外な見返りを太守は差し出しておられる」
「戦において敵を殺めること、裁きの対象に非ず。論ずるまでもない。将を自称しておきながら、よくも馬鹿げた理由を並べ上げたものだ」
「あの男はやりすぎたのだッ、リシアの加護を受けし輝士達の体を切り刻んだ。石を切り離されれば、もはや天へ還ることすらままならん。残された者達の悲痛、神を持たぬ身であろうと、想像くらいはできましょうッ。戦とはいえ、守るべき流儀はあるはず──いや、あるべきだ!」
グエンは自身の執務机に場所を移し、押さえつけられたままのバリウム侯爵を見下ろした。
「自国の輝士を、裁かれるとわかっていて差し出す将を誰が信じようか」
「我らとてそこまで馬鹿ではない。ムラクモにおいて大貴族として名高いサーペンティア、その血に連なる者の命を求めるため、こうして私が直々に遣わされたのだ」
「無駄なことをしたと、貴様を送り出した者は後悔するだろう。その身が侯爵であろうとなかろうと、重罪をもって裁きを下す──イザヤ、連れて行け」
イザヤが男を引きずりあげると同時に、バリウム侯爵は血走った眼を剥いて怒鳴った。
「事を秘密裏に遂行するための計画があるのですッ、ムラクモはただ、件の輝士を特使としてターフェスタに送ってくださればそれでいいッ、その後、正当な理由を設けて罪人にしたてます!」
グエンは手をあげ、連行を止めるようイザヤに合図をおくった。
「……その話、証明する方法はあるのだろうな」
バリウム侯爵は蒼白な顔で幾度か頷いた。
「この件、事が事ゆえに知る者は僅かです。ターフェスタ公国親衛隊長、デュフォスに接触を。合い言葉を伝えれば、事の子細、すべて裏打ちされることでしょう。確認いただけるまでの間、この身を人質として御身にお預けする所存」
意を伺うイザヤに、グエンは頷いてみせた。イザヤはバリウム侯爵の拘束を解く。
「合い言葉を聞こう」
赤くなった手首をさすりながら、バリウム侯爵は大粒の汗を落とし、答えた。
「蛇の、冷血」
仮の対処として、バリウム侯爵を自称する男に対し、グエンは客室への監禁を命じた。
「厳重な監視を置き、自由を与えず、接する者も限定しろ。しかし、行動の自由を束縛する以外の待遇は侯爵の位階に相当するものを与える」
イザヤは首肯しつつも、疑念を露わにした。
「あの男の話、信じるおつもりですか」
「おそらく、虚言ではない。内容があまりに具体的で、そして馬鹿げている」
「刺客の可能性も──閣下に近づくための作り話では」
「だとすれば、もう少しましな事を口にするはず」
「では、ひと一人を対価にして、長期の停戦協定を提示したあの話、すべて事実とお考えですか」
グエンは鷹揚に頷いた。
「ターフェスタの領主には、なんらかの事情があるのだろう。一軍の司令官を秘密裏の特使として寄越すほど、件の贄を欲している」
バリウム侯爵は、今回の話はグエンにとっても魅力的なものであると言ったが、まさしくその通り。人的資源、資金、時間、それらすべてを膨大に消耗する国家間の武力紛争は少しでも避けたい事案だ。厄介事が減れば、その分の余力を東地の掌握に割く事が出来る。
「蛇紋石が、おとなしく息子を差し出すとは思えません……。ジェダ・サーペンティアにターフェスタへの外交任務をあたえるといっても、その意図を疑問に思うはずです」
ジェダ・サーペンティアは輝士として、すでに名を馳せている人間だ。そのきっかけになったのが、幾度かの北方との戦だった。ジェダは戦場で実力を発揮し、多くの敵輝士を屠った。それ事態、腕の良い輝士であれば珍しいことでもないが、バリウム侯爵が言っていたようにやりかたに問題があった。なにかしらの拘りか、ジェダは敵輝士の体を風刃を用いてバラバラに切り刻む。当然、それだけ特徴的な殺し方を続ければ、誰がやっていることか、知られるようになる。そのやりようは、身内からも嫌悪する声が少なからずあがっていた。宗教的な理由で身体の部位が切り離されることを最上級の屈辱と捉える北方の人間からすれば、ジェダは神を愚弄する大罪人に相当するのだ。
「理由を設け、近衛軍を中隊単位でいつでも動かせるようにしておけ。状況を鑑み、サーペンティアに通じるすべての白道を封鎖する。それだけで、蛇は子を差し出すだろう」
イザヤは固唾を飲み下し、一礼した。
「かしこまり、ました」
まずは例の話がどの程度の信用度を得られるか、様子を見る必要はある。が、話がどのように転ぼうと、グエンにとっての痛手はない。
突然の来訪によりもたらされたターフェスタ太守からの提案は、それをもたらした者の言葉通り、甘美の色を強く深めつつあった。
*
西北西へ抜ける分厚い風は、広い訓練場の地面を削りあげながら、巻き上げた砂塵をシュオウの顔面に見舞った。
口や目に入った砂粒を除いている間、眼を閉じた暗闇のなかで、修練に励む男達の声が聞こえる。
「そうじゃねえッ、軽いんだよお前の拳は。もっと腰を落とせ、体重を乗せろ、足を踏み込め!」
「はいッ」
影の落ちる東屋に、不意に人の気配がした。
まだちくりと痛む目を無理矢理にこじ開けたシュオウは、隣に腰掛けた人物を見た。
「……めずらしいですね」
隣の席に座るのは、宝玉院学舎の中庭にいつもいる庭師の老人だった。老人は、もそもそと重そうに口を開いた。
「なぁに、気まぐれにね。ここに居ては迷惑かね?」
「いいえ。いつでもどうぞ」
老人はじっくりと頷いて、前を見やる。奥まって隠れた瞳は、シガとアラタを観察しているのだろう。
「どうかね、あの少年は」
「真剣にがんばってます」
「たしかに、あの子はそういう子だ」
「アラタを知っているんですね」
老人はまた、以前と同じように鳥のような笑いをあげる。
「知っているとも。庭の植物を手入れしているとね、周囲を行く子供達の様子がよく見える。見てきたかぎり、あの子は身体を動かすより、文字を追うことを好んでいたが。ほんの少しの間に、人は変わるものだ」
遠目に見るアラタは、懸命に拳を突き出している。始めた頃、青白かった顔はうっすら陽に焼けて、自信なさげに下がっていたまなじりも、今は鋭く跳ね上がっていた。
「目標があるから、そのために努力している。がんばってますよ」
「人生、かならずどこかで壁に当たる。あの少年はその壁を正面から攻略する道を選んだのだろうね。立ち止まる子もいる、搦め手で攻めようと挑む子もいる。苦難から逃れようとする子もいる。どれも正しい」
老人は立ち上がって腰を叩いた。座ったまま見上げるシュオウは、試みに問いかけた。
「……アラタは、壁の先に行けると思いますか」
「さて、人は一面ではないからね。見る場所、角度によっても見え方は変わる。時に弱く見える小木の幹は太くたくましいこともある、その逆も。ああ見えて、必死に耐えとるよ。やり場のない怒りと孤独を持てましながら、必死にそれを忘れようと足掻いている」
アラタを指して言ったにしては、老人の言葉はあまりにちぐはぐに聞こえた。
「アラタは戦おうとしてる、そのために努力しています。けど、怒ってはいない。むしろ過去の行いを後悔していました」
老人はまた笑い、シュオウに背を向けて踏み出した。
「もう一人の坊やのことを言ったんだがね」
「え?」
反射的に、シュオウはシガを見ていた。特に変わった様子もなく、悪童染みた顔でアラタに檄を飛ばしている。
「なんの──」
再び老人に視線を戻すも、その背はすでに叫ばなければ声が届かない距離まで離れていた。
剣術訓練場よりさらに奥、馬術を教える初老の師官が、庭師の老人を見つめて軽く会釈をする。その光景に違和感を残しつつ、シュオウは励む師弟達に注意を戻した。
訓練場から続く宝玉院への夜道を行くシュオウの背には、くたびれ果てて気を失ったアラタがいた。
背後から義務的に様子を見に来ていたユウヒナがついてくる。シガは汗をたんまりと吸い込んだ訓練着を肩にかけ、シュオウの隣を歩いていた。
「こいつ、見かけによらず武人としての素質があるぞ」
シガは死んだように眠るアラタの背を叩いて言った。
「そうだな、始めてまもないのに拳を出す姿が様になってきてる」
「言った事をそのままやろうとするんだ。欠点を直せと言えばすぐにそうする。思い込みが激しいのか、あんまり素直に言うこと聞くからよ、朦朧としてたこいつに、ためしにお前は犬だ、雄の野良犬だって吹き込んだら、わんわん吠えて四つん這いになったあと、片足上げて草っぱらで小便を──」
背後から、ユウヒナの大きな咳払いが聞こえ、シガは言葉を止めた。
「──頭がいいのか悪いのか、よくわからねえよ、こいつは」
シガの言いようには、どこか暖かみがあった。
「勝てそうか」
「勝たなきゃ、そのときは師匠として俺がアラタに引導を渡してやる」
言いながら、シガはばきばきと指を鳴らす。行くも退くも、待ち受けている苦難を思い、シュオウは背に預かるアラタに同情した。
*
次の教室へ移動する途中、廊下の角を曲がった先に居た者の背を見て、カデルは顔の中心に歪んだ皺を刻んだ。
──アラタ。
大股で歩み寄り、小柄な背を思い切り突き飛ばす。いつもなら、されるがまま無様に突っ伏すはずのアラタは、しかしこの時はいつもと様子が違った。奇襲したにもかかわらず、前のめりになっただけで踏みとどまったのだ。
ゆっくりと振り向いたアラタを見て、カデルは一歩後ずさった。まっすぐ射貫くようにこちらを見つめる眼光は鋭く、血走っていたからだ。
「カデル、もう、こういうことはしないでほしい」
静かに放たれた言葉には出所不明の重量があった。
別人のように振る舞うアラタに抱いた動揺を捨て、カデルは肩を怒らせる。
「お前、誰に言っているのかわかっているんだろうな」
「カデル・ミザント、君に言ったんだッ」
らしくなく、アラタは声を荒げた。
「な、に──」
尋常ならざる空気を察知して、周囲から聴衆が集まり始めていた。
カデルは固唾を飲み下す。
やられるままだった相手からの急な反抗を受け、継ぐ言葉が見つからなかった。そうしているうち、周囲のざわめきが耳に届く。それは、狼狽するカデルに対して疑問を呈する声だった。
見えない力に押されたかのように、カデルは踏み出してアラタの襟首を掴み上げ、睨みをきかせた。が、アラタに動揺した気配はない。
「こうして、いちいち君にからまれるのは、もう面倒なんだ」
「ふざけるな! 自分の立場を思い出させてやるッ」
カデルは拳を振り上げていた。しかし、予想外に強くアラタに突き飛ばされ、そのまま豪快に尻から倒れ込む。
見上げたアラタの顔は陽に焼けて、ほんのりと浅黒くなっていた。
「君に勝負を申し込む! 僕が勝ったら二度と関わらないと約束してほしい」
アラタは辺りまで言葉が届くよう、あからさまに声を大にして叫んだ。
──こいつ。
わざとだ、とカデルは直感する。
「負けたときの覚悟があって言ってるんだろうな」
「負ける事を考えて勝負を挑むやつなんていない。僕の師匠の言葉だ」
「……ししょう?」
「どうする? 勝負を受けるのか、それとも逃げるのか」
アラタから挑発され、カデルは体中を巡る血液が沸騰する心地に見舞われた。
「逃げるわけがない、受けてやる!」
アラタは仁王立ちで頷いた。
「勝負は一週間後。太陽が真上に上がる頃、剣術訓練場で待ってる」
言い残し背を向けて、いつのまにか大勢が集まって作り上げていた人垣のなかをかき分けて去って行った。
尻餅をついたまま、カデルはなかば放心状態でぼうっと前を見つめてた。
騒ぎを聞きつけて、どこからか師官が集まって生徒達を散らせていく。
目の前に突如差し出された手の主を、カデルは見上げた。
「なんか、えらいことになってんな」
悪友リックは、他人事のように軽く言って、手をとったカデルを力強く引き上げた。
結局、出席すべき授業を放棄したカデルは、リックを伴って学舎裏に落ちる日陰の中に身を置いていた。
積み上げられた石壁に背を預け、さきほど起こった出来事を反芻する。
「師匠っていってた」
ぼそりと呟くと、リックが人差し指を突き立てた。
「俺たちが剣術授業放棄して自習してたとき、あいつ居なかっただろ?」
問われ、ああ、と相づちを打つ。
「どうせ図書室でうずくまって本でもよんでるんだろうと思ってた」
「それがさ、一人であの剣士の所に居たのを見たやつがいる」
「じゃあ、アラタが言ってた師匠っていうのは」
「十中八九、あいつのことだろうな」
カデルは無意識のうち、歯を食いしばっていた。胸の内から、青く美しい輝きを放つ翼章を取り出して見つめる。
「それ、どうするんだよ」
「……うるさい」
それは、結果的に盗んでしまった形となった件の剣士の持ち物だった。彼の部屋に忍び入った時、急な来訪者に驚いて服の内にしまい込んでしまったが、その後の記憶がはっきりとはせず、気がついたときにはリックと二人、医務室で介抱されていた。
持っていたはずの合い鍵はなくなっており、てっきりバレたのだと思っていたが、どこからも自分達を咎める声はあがることなく、事態はうやむやのうちに流されてしまっていた。実際のところはどうなのか、気にはなっても、聞きに行くわけにもいかない。
「勝負するんだろ? あそこまで堂々と宣言されちゃ応じないわけにいかないもんな。今日の夜までには、きっと宝玉院中の人間の耳に届いてるぜ」
カデルはむすっとして、翼章を再び胸の内にしまい込む。
「あたりまえだ」
リックは身を乗り出して、眉根を下げた。
「なあ、負けてやれよ」
「なに?」
「あれだけお前にされて、あいつなりに努力もして、そうしてやめてくれって言ってるんだろ。今回のことで他の連中もアラタに一目おくだろうし、あいつの顔を立てて勝ちを譲ってやればお前の株も上がる。どっちにも損はない。もう終わりにしていい頃なんじゃないのか」
鼻の穴を広げ、カデルは言い放つ。
「いやだッ──」
友人の呆れ顔を視界の外に追いやるように、顔を背ける。
「──アラタのやつ、まじめに剣術を学んでるんだな……」
「謎多き剣士を師にしてな。案外、強くなってたりしてな──」
冗談めかして笑いながら言ったリックを、カデルは真顔で見つめた。
「──おい、なにまじな顔になってんだよ。冗談だぜ? だいたい、アラタが本気で訓練を始めたって一年たってもお前の腕に追いつけないよ。剣術だけじゃない、腕の長さも身長も、なにもかも違うんだ」
カデルはすっくと立ち上がる。
「アラタは──あいつは、本当はなんでも上手くこなせるんだ。でも興味がない事には本気をださない。全力を出せば、誰よりもうまくやってみせるくせに……」
幼少の頃。アラタはカデルよりも一月早く立ち上がったし、言葉を覚えたのも、同年代の子供達と比べても格段に早かった。
物心もつき、共に庭を駆け回って遊んでいた頃は、足比べで、アラタに追いつくことはできなかったし、カデルは彼の後をついて歩き、植物や虫に関する事柄を教わった。五歳になる頃にはすでに大人の本を読み解いていたアラタは、カデルにとって、なにをしても追いつくことのできない憧れの存在であり、誇るべき友であった。
しかし、宝玉院にあがってまもなく、アラタは身体を使うことより、知識を溜め込むことにのみ興味を示すようになった。そのアラタが今、師を得て訓練に励んでいる。それは彼の日焼けした顔と、所々につけた生傷が如実に物語っていた。
アラタが師に選んだ男については、未だたいして知る事はない。再三の抗議もむなしく、彼はなにごともなかったかのように宝玉院の中をうろついている。
これまでの事で、あの剣士についてはわかったことがある。それは、彼の人事に関して寄せられている、名だたる名家からの苦情がまるで意味を成していないということだった。
カデルの実家ミザントは代々有能な軍属を輩出し、富に恵まれ、政への影響力も多少なり有している大家である。そのミザントからの抗議が一蹴されている現実。それは、つまりその言葉を無視できるほどの人間が、あの剣士の人事に関わっている、という現実だった。
生まれに恵まれていようと、認めなければならない現実というものがある。それは気にいらない平民の無名の剣士が、ムラクモ王国という世界にあって遙か雲の上にいる人間の加護を受けている、という推測を元にした、しかし強固な既成事実に根ざした現実である。
胸の内に収まる勲章からしても、あの男は、多くの人々が知らぬ所で、それだけの事をしたのだろう。だとすれば、生まれに恵まれていない平民の男は、剣の腕一つで宝玉院の剣術指南に抜擢されるほどの実力があるのだ。
アラタはそれほどの人物に師事している。
カデルは力を込めて一歩を踏み出した。
「おい、どこいくんだよ」
「木剣を取ってくる。つきあえ、今日から特訓する!」
リックは慌てて腰を上げた。
「ちょっと待てよ、まさか本気でやるつもりなのか? そんなことしたって、お前がアラタに負けるわけないだろ」
カデルは黙したまま、日陰のなかを飛び出して、じりついた陽光の下に肌身を晒した。
まっすぐ自分を見つめていたアラタの顔を思い出し、カデルの口角は上がっていた。
*
約束の日を迎えていた。
対決の舞台へ向かう道すがらに、カデルの青い双眸は、過去の一日を映していた。
始まりは些細なことだったのだ。
幼少時よりカデルが少女の格好をさせられていたことを、アラタが周囲に言ってまわり、カデルはそのことで少しへそを曲げた。アラタに詰め寄り、約束を破ったことを責めたが、それは当人達にとって、ただの兄弟喧嘩の延長のようなものだと捉えていた。が、周囲を取り巻く環境が、友人間に生まれた些細な喧嘩を、大事として膨らませたのだ。
二人の間に起こった諍いは、二人の少年達の喧嘩という枠を超えて、有力貴族家と、それに仇をなした弱小貴族家という構図に変容した。
無責任に事態を煽る同級生達は、アラタを責めた。それ以来、彼はカデルとは目を合わさなくなった。
アラタはカデルとの関係に、家柄という名の線を引いたのだ。それは、親友と思っていた相手の明確な裏切り行為だった。
憧れを持って見ていた友の姿は、以来裏切りの象徴として不快感をもたらした。
声をかけても生返事を寄越し、すぐにどこかへ消えてしまう。怒らせようとして強い言葉で侮辱しても、嫌がらせをしても、アラタは目を背けたまま、一切の抵抗をしなかった。
時がたち、かつての友情は憎悪へと転化していた。
些細な嫌がらせは、傷害を目的とした暴力になり、それでもアラタは黙ってそれを享受した。
背中から吹き付けた追い風は、季節はずれの涼しさを伴っていた。
訓練場へ続く山の頂上まではあと少し。
カデルは足を止め、肩に乗せた木剣を前に構えた。使い回しにされている宝玉院の訓練用の木剣などではない、自らの身長、腕の長さ、体重を考慮し、足を付けて扱うことを計算して輝士の長剣よりも先端を拳一つ分短くつくってある。この日のためにだけに特注したのだ。
坂を上りきり、眼下にある訓練場にできた群衆を見て、カデルは驚いた。
剣術訓練用に設けられた一画を取り囲むように、水色の制服を着込んだ生徒達が野次馬の輪を形成している。
現れたカデルを見つけた聴衆達が、好奇の目を向けていた。
分厚い層を成していた生徒達の群れが、カデルを飲み込むように道を開く。その先に、かつての友の姿があった。
アラタは短めの木剣を片手で握り、だらりと垂らして切っ先を地面につけている。
真上に昇った太陽は、ムラクモの空を煌々と照らしてた。
向かい合い、佇む二人に会話はない。
アラタは別人のようだった。両足を開き、深く腰を落とし、握りしめた拳からは、強い意志がにじむ。前よりも増えている生傷は、彼の努力の痕を思わせた。
頬の筋が緩むのを押さえきれず、カデルは破顔した。
アラタの双眸は、かつてのように、まっすぐカデルを捉えている。
──やっとだ。
かつての喧嘩の続きを、ようやく始めることができる。それが嬉しかった。
「覚悟はできているみたいだな、アラタ」
カデルの声は、本人にしかわからない程度に弾んでいた。
「…………」
しかし、アラタからの言葉はない。よくよく見ると、どうにも様子がおかしい。
「アラ、タ……?」
「ふー、ふー……」
アラタは短く呼吸を繰り返し、興奮した野獣のような瞳を、瞬きもなくぎょろりと向けてくる。
──言葉はいらないってことか。
カデルは木剣を正眼に構えた。臨戦態勢を整えるが、しかしよくよく考えてみると、人垣の中心にいるのは自分達だけだ。
カデルは見回して、人混みの最前列に陣取った友の顔を見つけた。
「リック、開始の合図を頼む」
リックはキョトンとして自身を指さすが、すぐに頷いて前へ出た。
カデルとアラタの間に手を差し入れて、両者の様子を窺う。
──構えない気か。
アラタは握った木剣も下げたまま、自然体を貫いている。気味が悪かった。
例の剣士からいったいなにを習っていたのか。訓練場で励むアラタを見たという者達から聞いた話では、基礎的な訓練ばかりをしていて、ろくに剣を触っている様子はないという話だったが、それを聞いた時は徹底していると感心したものだ。
対戦相手の目を気にして、ひとの目の届かない場所で剣技を磨いていたにちがいない。
──油断はしないぞ。
カデルは自らの勝ちを完全に信じている。それは積み上げてきた経験と自覚する才能に裏打ちされた自信であり、けしておごりなどではない。リックが言っていたように、一朝一夕の努力で埋められるほど、実力の差は小さくない。
カデルは呼吸を整えて、瞬きを止めた。一瞬たりとも、目の前の対戦者から視線をはずさない。
緊迫した空気を察して、ざわついていた聴衆達は口を閉ざした。
無言のまま、手があがった。勝負開始だ。
先手をとるべきか迷い、カデルは軽く退いた。むやみに突っ込むにしては、相手の技を知らなすぎるからだ。
アラタの出方を観察する。が、次にとった行動を見たカデルは、ぽかんと口を開けて呟いていた。
「え……?」
アラタは片手に握っていた剣を後ろへ放り投げた。ぶんぶんと勢いをつけて回る木剣に目を奪われた瞬間、視界のすべてが握りしめられた拳で覆われていた。
*
「おい、もう終わったぞ」
拳一発をもろに顔面に受けたカデルが膝から崩れ落ちたのを見て、シュオウは共に観戦していたシガに言った。
シガは身を乗り出して叫んだ。
「ころせええ! アラタ、とどめを刺せ、そいつはまだ生きてるッ、殺せッ殺せ!」
師の言葉に呼応するかのように、息荒く興奮しきった様子のアラタは、倒れ込んだカデルに馬乗りになった。拳を振り上げて、一撃二撃と拳を顔面に叩き込んでいく。
静まりかえっていた聴衆から悲鳴があがった。
カデルに頼まれて審判をかってでた少年がアラタを止めようと羽交い締めを試みるが、シガの洗脳によって頭のネジがすべて吹き飛んでいるアラタを押さえることはできなかった。
シュオウは焦って飛び出した。アラタの拳を掴み、振り上げられたときの勢いを利用して背に回して動きを封じる。膝で腰を押さえつけ、地面に倒して制圧し、必死にアラタの名を呼んだ。
「アラタッ、聞こえているか? もう終わったんだ、お前が勝った。終わりだ」
「オワ、リ……?」
アラタの力がふわりと抜けた。脱力して、地面に身体を預ける。
アラタを解放したシュオウは、横たわるカデルに目を移した。前歯が二本欠け落ち、顔中ぶくぶくに腫れてはいるが、息はある。
「くそ、あと一歩だったな」
気絶したカデルの顔を覗き、心底くやしげに言うシガを見つめて、シュオウは溜め息を吐いた。
「やりすぎだ」
その後、観戦のために集まっていた暇な生徒達は、騒ぎを聞きつけた師官達の誘導により解散となった。
こっぴどくのされたカデルは医務室へ運ばれて行った。
観戦していた生徒達のなかには、アラタの健闘と努力を称える声もあがった。すべてではないが、状況を変えようとしてあがき、それを成し遂げたアラタを認める者達はいる。去り際に肩や背に触れられて、嬉しそうに破顔するアラタの顔は、強く印象に残った。
事態を聞きつけた主師のマニカに呼び出されたシュオウとシガは、事の子細を説明した後、こっぴどくお叱りをもらった。だが、この事は宝玉院の中で知らぬ者などいないくらい噂になっており、つまり、マニカはこのことを知っていたはずである。止めようと思えば、訓練場に生徒達が集まっていた時点でそうできたはずなのに、大人達が止めに入ったのはすべてが終わってからのことだった。
──信じてくれたのか。
答えはわからぬまま、シュオウはそう思うことにした。アラタが状況を脱する事を、彼女もまた望んでいたはずであり、おそらくそれは叶ったのだから、それでいい。
グチグチとマニカに文句を言うシガを伴って部屋に帰ると、シュオウはその場の異様な光景にたじろいだ。
狭い通路の中を埋め尽くす、水色の制服。年齢様々な男子生徒達が、シュオウを見るなりどっと押し寄せた。
それぞれが勝手に喋るせいで要領を得ないが、要するに、シュオウに対して師事を申し出ているようだった。あのアラタを、一月もかけずにカデルに勝てるほどに鍛え上げた。雑多に混じる言葉のなかに、そうした言いようがちらほらと聞こえた。
強く手を叩く音が通路に響く。その主、シガに皆の視線が集まった。
「アラタに拳術を教えたのはこの俺だ! 教えを乞いたきゃ俺に頭を下げろ。ただな、そこの白頭と違って俺はここの教官じゃねえ。弟子になりたきゃ金を払え」
シガは生徒達をかき分け、通路の隅に置いたまま埃を溜めつつあった木箱を下ろした。中から醜悪なる木像を取り出して、それを掲げる。
「これを買え、一個につき十日、俺がみっちりと鍛えあげてやる」
青ざめる生徒達に木像を突きつけるシガの笑みは、ランプの明かりを受けて影を落とし、見る者に恐怖を与える邪悪さを漂わせていた。
「全部買う!」
通路の入り口のほうであがった声に、皆が振り向いた。
「おまえ……」
シガが眉を顰めるのも無理はない。つい先ほどまで、アラタの倒すべき敵として在った、カデル・ミザントがそこにいたのだ。カデルは別人のように腫れた顔で、欠けた前歯を見せて言う。
「言い値を支払ってやる! そのかわり、アラタに教えたことを僕にも教えろ!」
一瞬の戸惑いの後、シガはほくそ笑んで言った。
「いいぜ、だが後悔するなよ。俺は半端にはしごかないからな」
カデルは口元を引き締めて、ふんと背を向けた。
「あとで請求書を寄越せ。訓練はさっそく明日から始めるからな」
颯爽に、とはいかず、カデルはふらふらとよたついた足取りで去って行った。しかし、後に残った他の生徒達からは不満の声があがる。自分達の分はもうないのかと。
「安心しろ、この馬鹿な木像はまだ他の箱にいっぱいある」
シガの宣言に歓声があがった。
シュオウは、目にこれから手に入るであろう金貨の山を映したシガに歩み寄り、小声で囁いた。
「おい、勝手に決めるな」
「心配すんな、売り上げは分ける。俺が八割、残りはお前のもんだ」
シュオウは小声を荒げた。
「これは全部俺の持ち物だぞ」
「けど売ったのは俺だ。こいつらの面倒みるのも俺だぞ」
シュオウは唇を噛みしめ、手のひらをシガに見せた。
「半分だ」
「七」
「半分」
「六」
「半分、だッ」
シガは舌打ちし、渋い顔で頷いた。
*
一夜が明け、訓練場にて馬術稽古に励んでいたアズア・サーペンティアは、遠目に見た地面の上に、青く光るなにかを見つけた。
下馬し、それを拾い上げたアズアは、青い宝玉をはめ込んだ翼の形を模した装飾品を手に、小さく溜め息を漏らした。
──きれい。