Ⅴ 弟子入り志願
「物ってのはよ、欲しいやつがいるから売り物になるんじゃねえのか」
宝玉院の中庭に広げた敷物の上に、醜悪な木像を並べ、シュオウとシガは午後の陽光の下、辛気くさい顔で二人肩を並べて商い人の真似事に勤しんでいた。
膝を抱えて座るシュオウは、隣で胡座を組むシガから冷めた言葉をかけられ、しかめっ面に暗い影を落とす。
「売り物にならないって、そう言いたいんだろ」
一晩中飲み明かした後のような枯れた声で返すと、シガは腹の底で淀んだ憤懣を持てあますかのように、小さく怒鳴った。
「あたりまえだッ。くそ、中身がこんなくだらねえもんだと知ってたら、黙って荷運びなんてするんじゃなかったぜ」
はたして、彼が黙々と仕事をこなしていたかとシュオウは首を傾げたが、無駄な労働をさせられたという苦情には返す言葉が見当たらず、黙り込むことしかできなかった。
どこか気怠い空気が漂う朝と昼の境を越えて、宝玉院は昼食を楽しむ生徒達の喧噪に包まれていた。心地良い外気を求めて、中庭で昼食をいただく生徒達も多いが、彼らは皆、不気味な置物を並べるシュオウ達から距離を置き、遠巻きに様子を窺っている。
あわよくば、貴族の子女達が通うここでなら抱えた商材を売りさばけるのではないか。そうした目論みがまるで的外れであると気付かされるまでにかかった時間は、小鳥が行水をするよりも短かった。
枯れ草で編んだ榛色《はしばみいろ》の敷物に、不気味な木像をずらりと並べてわかったのは、このおかしな置物に商品としての価値がまったくないということと、自分には商才がないのだという、冷めきった現実だけだった。
ふと前を、仕事道具を担いで歩く、老いた庭師が横切った。シガはその老人を呼び止めた。
「おい、じいさん、これ買わないか」
手に持った不気味な木像をかざし、シガは売り込みをかけるが、その老人は手首が隠れるほどぶかぶかとして粗末な長衣をひるがえし、振り返って首を傾げた。長い白まつげの奥に鈍く光る瞳を上げて、あごをしゃくって笑声をもらす。
「ほーほッ」
夜に鳴く鳥のような笑いを残し、老人は頼りない足取りで去って行った。
「おい、見たか……ボケて死ぬ寸前みたいなジイさんですらあれだ。ああ、くそ、俺はもう寝るぞ。そうすりゃこの阿呆みたな時間にゴマ粒ほどでも意味がわくぜ」
シガは背を倒して寝そべり、長い手をいっぱいに広げて目を閉じた。昼食を食べた後ということもあり、これでも機嫌良く過ごしているほうだ。この男は、見た目と生き方の豪放さとは裏腹に、ねちねちとよく愚痴をこぼす。
シュオウが早々に、自らの商いの才能を諦めるには理由があった。ひとつに、相場というものをまるで知らず、それゆえ並べている木像には値札が用意されていない。また、客を呼ぶための手段をなんら講じてはいないし、そもそも思いつきもしなかった。唯一考えられる事といえば、街中でも見かける呼び込みを真似るくらいなものだが、威勢良く声を張って売り物を宣伝するには、消すことのできない羞恥心が邪魔をする。
折り目正しく座っていたシュオウは、足を崩して後ろに手をまわし、楽な姿勢で体を預けた。
ごく何気なく、ぼうっと目の前の光景を観察する。その対象は、思い思いに昼の休みを過ごす生徒達だった。
学校、という空間は面白い。似たような境遇の人間達が一つ所に集まり、目的に添った内容を学んでいる。限られた空間のなかに押し込められている点では、自らも経験した深界の砦と同じだが、階級というもので明確な序列で縛られていた砦や城塞とは違うはずのこの宝玉院にも、明らかに序列は存在していた。それは、廊下をなにげなく歩く生徒らを見ているだけでわかる。
まず、もっともわかりやすい序列の在り方は年齢だ。小柄な子供達は、自分達より体の大きな年上の生徒達に優先的に道を譲る。だが、上級の生徒らが意識して道を明け渡す相手のなかに、明らかな年下の生徒を対象としていることもあった。おそらく、それこそがこの宝玉院に存在する不可視の序列、家柄というものなのだろう。
その例としてもっともわかりやすい対象が、今まさに、シュオウの視界の中に現れた。
数にして五人の女生徒達が廊下を行く。同じ道を行く者すべてが立ち止まって隅によけ、なかには軽く頭を下げる者までいた。まとまって歩く女生徒達の先頭に立つのは、シュオウも知るアデュレリアの若姫、ユウヒナである。彼女が従えるように共に歩く幼い女生徒達は、おぼろげに見覚えのあるアデュレリア一族の娘達だった。
氷狼の娘達は悠々と胸を張り、左右に割れた人波のなかを歩いて行く。その所作からは大貴族に連なる者がもつ特有の威厳と、隠しきれない傲慢さが漏れていた。
先頭を行くユウヒナがふと足を止めた。整った涼しい顔に怒りの炎が灯る。その視線を追うと、サーペンティアの娘、アズアが分厚い本を片手に、廊下の真ん中で立ち尽くしていた。
遠目に、場の空気が凍り付いてゆく様をひしひしと感じ、シュオウは他の生徒らと同様、黙って彼女達の様子を見ていた。
聞こえはしないが、ユウヒナの口が僅かに開くのが見えた。一時も瞬くことなく、天敵を視る目は鋭い。
対するアズアは見るからに動揺した態度で、手にしていた本を胸の中で強く抱きしめていた。口を開き、何事か言い返したようだが、ユウヒナは動じた様子なく、さらになにか言葉をかける。アズアの表情が一瞬にして怒気をはらみ、気持ちを必死に押さえ込むように唇を噛みしめた。
ユウヒナは勝ち誇ったようにアゴをつんと上げ、アデュレリアの娘達を引き連れてアズアの横を通り過ぎていく。
一人廊下に残ったアズアは、しばらくそこで立ち尽くしていたが、まわりからの視線を振り払うように、何事もなかったという顔をつくって、流麗な所作で髪をなで上げた。その最中に、離れた所から一部始終を観察していたシュオウと視線が重なった。
アズアは視線を合わせたまま、シュオウの下まで歩み寄る。なにごとかと不思議に思ったが、すぐ目の前まで来たアズアは、膝に手をついて地面に視線をおとした。彼女の目的は別にあったらしい。
「あの……これは、なぜ並べているのでしょうか」
アズアは並ぶ木像をじっと見つめたまま、ささやくような小声で問うた。
「えっと……売ってる、つもりなんだ」
「売り物、なのですか。でしたら、あの、ひとつ」
隣で目をつむっていたシガが、突然体を起こし、手の平をアズアに差し出す。アズアは突然の事に、怯えた様子で後ずさった。
「な、なん──」
シガは地を這う大蛇のような威圧感をもって、重く低く、喉を鳴らす。
「有り金全部だ、だせ」
奇跡的に現れた客に、賊のような台詞を吐いて捨てたシガに、シュオウはあっけにとられて口をぽかんと開き、呆然と視線を送っていた。一方のアズアは、怒り出すかと思いきや、生真面目に自身の服の内をまさぐっている。
「あれ──どうして」
アズアは制服の上着を脱いでまで手持ちの金を探していたが、見つからなかったのか、沈んだ様子で項垂れた。
「あの、いまは少しも手持ちがなくて……」
気まずそうにしているアズアに、シガは強烈な睨みを効かせた後、興味を捨てて居眠りを再開した。
アズアは顔をおとし、唇を噛んだ。買うと言って、金がなかったことを恥じてのことか、彼女の頬には若干赤みがさしている。初対面の時、ユウヒナと接していたときの高飛車な態度からすると、今の彼女の態度は首を傾げるほど内気に見えた。
アズアが小さく謝罪を残し去ろうとした間際、シュオウは小さく縮こまったその背を呼び止めていた。
「これ」
シュオウは木像を一つ取り、差し出した。
「でも……」
「金はいつでもいい」
少々の迷いの後、アズアはシュオウから木像をそっと受け取り、一礼して小走りに去って行った。
再び隣で体を起こしたシガが、うんざり調子にだらけた声をだす。
「阿呆か、おまえ。ただで渡したら商売じゃなくて施しだろうが。いまのやつ、絶対に金なんか持ってこねえぞ」
「それならそれでいい。まともに売れる物じゃないなら、一つ売れても売れなくても、同じ事だ」
シガはわざとらしく溜め息を吐きだした。
「おまえ、商売人には向いてないな」
わかりきったことを言われ、シュオウはむすっとして胡座を組み、シガから視線を逸らした。
「おい」
肘でつつかれ、シュオウは不機嫌に声を荒げる。
「なんだ」
「見ろよ、あのガキもコレに興味があるみたいだ。いがいに売り物になるかもしれねえ。諦めるのは早いかもな」
促された先を見ると、たしかにじっとこちらを見つめながら向かってくる男子生徒がいる。その容姿に、わずかに見覚えがあった。
男子生徒は目の前まできて、さきほどのアズアと同様にしゃがみ込んで木像を一つつかみ取った。その顔を間近で見て、なぜ見覚えがあったのかを思い出す。それは、シュオウの部屋に侵入したあの金髪の男子生徒に、訓練場で頭を踏みつけにされていた、あの時の少年だった。
「おい、そいつは売り物だ。触ったなら金を払え、それはもうてめえのもんだ」
がめつく手を差し出すシガに、男子生徒は袋にずっしりと入った財布のようなものを乗せた。咄嗟に中を確かめたシガは、酒とご馳走を前にしたときと同様の、ほっこり顔で歯をぎらつかせながら笑みを浮かべた。
男子生徒はシュオウと視線を合わせた。
「これに商品としての価値、ないとおもいますよ。薪かなにかにして処分したほうが無難です」
文句をつけつつ、それに金を払った少年に、シュオウは訝って聞いた。
「ならどうして金を払う」
「あなたにお願いがあるからです。今年に入って、家からの仕送りを貯めていたもののほとんどすべてで、この気持ちの悪いのを買います。だから、僕に剣を教えてください」
唐突な弟子入り志願が、ただの酔狂ではないのだと、シガが大切そうに抱きしめている重そうな金袋と、男子生徒の揺れることのないまっすぐな瞳が告げていた。
*
連日、誰一人現れることのなかったシュオウの剣術授業に、初めて現れた参加者は、アラタ・コフキと名乗り丁寧に頭を下げた。
訓練場の片隅にある休憩用の東屋の下で、シュオウとアラタは向き合っていた。
「どうして地面に膝をつくんだ。こっちにきて椅子に座ればいい」
地べたに折った両すねをべったりとつけて、見るからに窮屈そうな姿勢で、アラタはかしこまっていた。
「これは東地伝統の礼儀作法です。僕はあなたに師事を申し込んでいるので、礼をもって願います」
生真面目に言われ、シュオウは閉口して頭をかいた。側で寝そべるシガが大きなあくびをあげ、寝返りをうって背を向けた。
「俺は誰かの師になれるような人間じゃない。剣だって、持ってからまだ少ししかたってないし」
あくまでも事実を述べたシュオウの言葉を、アラタはきっぱりと否定した。
「嘘ですね」
一切迷いのない物言いに、シュオウは眉根を寄せた。
「嘘じゃない」
「嘘です。僕の家の遠縁に、親衛隊に任命されている人間がいます。その人からあなたの話、聞いているんですよ」
「……なにを聞いた」
「あなたがしてきたことを。剣の腕一つで狂鬼に襲われた王女殿下の身を守り、敵国の要塞で高名な剣士を討ち取ったと。僕だってすぐに信用したわけじゃありませんけど、本来平民の出身で師官の座につくことなどありえないことですから、あなたの今の境遇と聞いた噂話を照らし合わせてみて、信用してもいい話だと思いました。あなたは従士の身分でありながら大きな成果を残し、王国軍の上層から信頼を受けている。その結果、宝玉院での剣術指南という、通常ではありえないような大役をまかされた。以上が僕の見立てです」
整然と説明され、シュオウは口を閉ざした。存外、目の前の少年が言ったことは間違っていない。
「黙っていることと、今のあなたの表情を、見立ての確証としてもいいですよね。すごい人ですね。他にも色々と聞いているんです、それがすべて事実だとすると、あなたは時代に名を残せるくらいの人なのかもしれない」
褒めそやされ、むずがゆいものを感じつつ、シュオウは否定も肯定もせずに黙って耳を傾けていた。
「お願いです、僕に剣を教えてください。師匠に……なってください!」
手をついて頭を下げられ、シュオウは慌ててアラタの体を拾い起こした。
「待て、さっきも言ったけど、俺はまだ弟子を持てるような立場じゃない」
「でもッ──」
シュオウはアラタの膝についた砂埃を払った。
「教えないとは言ってない。ここへは仕事として配属されたんだし、もらう給金の分だけ働くのは当然のことだ。俺が剣の師から習った基礎訓練でよければ、それを教える」
彼の望む答えを用意したつもりだったが、アラタは納得のいかぬ様子でなおも食いついた。
「形どおりのことを教えてほしいなら、あなたに頼んでませんッ」
「じゃあ、なにを教わりたいんだ」
アラタは一呼吸おき、語気を強めて宣言した。
「勝ち方です。どうしても、勝たないといけない相手がいるんです」
アラタからは強い意志のようなものを感じる。事情があるのだろう。
シュオウは東屋の長いすを差して、アゴをしゃくった。
「同じところに座って話をするなら、事情を聞く」
「カデル・ミザントを知っていますか」
アラタに問われ、シュオウは頷いた。
「いちおう、顔と名前は一致する。前に見た時、お前の頭を踏みつけにしていたやつだろ。さっきいってた勝ち方っていうのは──」
「はい、僕はカデルに……彼に勝ちたい。勝たないといけないんです」
人間関係の摩擦はどこにでも生じる自然現象のようなものだ。
複数人が集まれば、それは尚のこと当たり前の事として起こりうる。人間は誰しもわかりあえるわけではなく、付き合いには相性が大きく左右する。シュオウが今まで、人類社会のなかで見聞きし経験してきた日々のなかでも、それは日常の一部であったし、自らが当事者であったこともある。
アラタ・コフキはカデル・ミザントから日常的に嫌がらせを受けている。この場合被害者ともいえるアラタが、状況を打開したいと思うのは、ごく当たり前のことといえる。
「つまり、そのカデル・ミザントを、力でなんとかしたいんだな」
アラタは、はい、と簡潔に肯定した。
「僕に、剣術を教えてくれますか」
「……わからないことがある。そのカデルは、力でどうにかして、本当に引き下がるような相手なのか」
「つまり、なにが聞きたいんですか」
「話し合いから始めることはできないのか」
「それは、もう言いました。でも無駄です、言った後、彼からの嫌がらせは酷くなりましたから」
「そいつは他の人間にも同じようなことをしているのか」
行き過ぎた加虐行為を周囲にふりまいているような人間だとしたら、もっと簡潔にこらしめる手段もあるかもしれない。だが、アラタは首を横に振った。
「カデルは僕以外の人間には優しいんです。統率力もあって、皆から好かれてます。きっと輝士になれば、出世して名を上げるような逸材ですよ」
「じゃあ、嫌がらせをするのは、お前だけにってことか……。どうも、カデルという人間が、アラタという人間を個人的に嫌っているように聞こえるな」
「はい、そうですよ」
アラタは他人事のようにあっさりと頷いた。
「どうして嫌われてるか心当たりは? きちんと事情を把握できないかぎり、俺もなにをすべきか考えることができない」
アラタは視線を地面へ流し、過去を懐かしむような顔をした。
「カデルの母親と僕の母は学友同士だったので、その繋がりでカデルとは幼なじみなんです。彼とは物心ついた頃からよく遊んでました」
「知り合いだったのか」
アラタは小さく頷く。
「だけど、ここに通うようになってすぐ、僕がしたことが原因で、彼とはまともに口もきけない関係になったんです」
「なにをした」
「彼の秘密を言いふらしました。カデルは子供の頃、妹が欲しかった歳の離れたお姉さんから、よく女の子の格好をさせられていて。カデルは容姿も成績も良かったので、宝玉院に入ってすぐ人気者になりました。その頃の僕は、カデルと友人だということを自慢に感じていたみたいで、彼の事をぺらぺらと喋ってまわったんです。言わないでくれって頼まれていた、女装の事も含めて」
聞いて、シュオウは唸った。他人事に聞いていれば些細なことのようにも思うが、当事者からすれば数年にわたって根に持つほど、強く恨みを抱いたのだろう。
「じゃあ、その頃からずっと嫌がらせをされ続けてきたのか」
「そうですけど、最初のほうはたいしたことはなかったんです。口で罵られたり、物を隠されたり。僕も負い目を感じていたので、されるまま抵抗しませんでした。でも最近になって嫌がらせが暴力に発展するようになって、やめて欲しいと頼んだらもっと酷くなりました。ここのところは身の危険も感じるし、なにより生活に支障がでてるんです。僕はただ、静かに勉強したいだけなのに」
シュオウは腕を組み、アラタを見つめた。
「だいたいわかった。力で相手を負かして、一目置かせたいんだな」
「そうです。カデルは実技のなかでもとくに剣術が得意なので、彼が一番自信のあるもので勝てたら、もうほうっておいてくれるだろうと考えました」
「それで俺を師に選んだのか。他にも教えを請える相手はいただろ」
「前任の師官は個人授業を受けてくれるほどの余裕なんてなさそうでしたから。その点、あなたはいつも暇そうにしているので、ちょうどいいと思って。みんなあなたのことを気味悪がってますよ、その大きな眼帯の下はどうなってるのか、賭けてる生徒達も──」
耳に心地良くない話をずけずけと聞かされて、シュオウはむすっとして不快感をあらわにした。アラタは慌てて口をつぐむ。
「ッ──すいません……僕はどうも、口が軽いのが欠点みたいで。自覚していても直せないのだから、相当に」
「……もういい。とりあえず、さっきもらった金は返す」
「そんなッ──」
狼狽して立ち上がったアラタに、シュオウが言葉をかけようとしたその時、後ろで横になっていたシガが起き上がり、シュオウの肩に手を置いて、耳元で小声でささやきだした。
「待てよ、まさか給金もらってるから、金はいらねえとかぬかすんじゃねえだろうな」
図星をつかれ、シュオウは即座に反論する。
「わるいか」
「本物の阿呆だな──」
シガはのっそりとアラタに歩み寄り、華奢な肩を掴んで覗き込んだ。
「その依頼、俺が受けるぜ。おまえを鍛えてやる」
「え? いや、でも僕……」
「ぐだぐだ言うな、さっきの金は依頼料として俺がいただく。その代わり、仕事としてそのなまっちろい体を頑丈な戦士として鍛え上げてやる」
「でも、あなたは剣士なんですか? 見たところ帯剣もしていないし──」
「剣だぁ? ふざけんな。あんなのはな、弱いやつがてめえの一物代わりにふりまわしてる棒きれだ。男なら体を鍛えろ。拳一つで敵を殴り殺せばそれですむ話だろうが。さあ、さっそく始めるぞ」
シガは嫌がるアラタを真上に昇った太陽が照らす訓練場へと引きずっていく。
ずりずりと引っ張られながら、アラタは必死に手を差し伸べるが、シュオウはその手を掴むことなく、黙ってやり過ごした。
シガの一方的な宣言を諫めるか否か、考えるよりも先に、まるで知識に欠けている剣術を指導しなくてすむということに安堵を覚えてしまったのだ。
*
アラタが弟子入り志願をし、図らずも南方人の師を得てから三日が過ぎていた。
午後の授業時間。
多数の生徒で埋め尽くされるはずの訓練場には、体格の良い褐色肌の大男と、彼にしごかれる、なま白い肌をした小柄な男子生徒しかいない。
シガは張り切って弟子を鍛えていた。あまりに無茶をするようなら止めるつもりだったが、彼がさせているのは筋力を鍛えるための訓練や体力を養うための走り込みなど、意外なほどに堅実なものだった。が、時折度胸を付けるといって足首をつかまれ、力まかせに放り投げられているアラタに、同情心が芽生えないわけでもなかった。
多少むちゃな訓練方法だとしても、シガがただ単に相手を痛めつけるためにしていないのだということは、見ていてわかる。なぜなら、彼が本気を出せば、人の体に折り目を付けるくらいの事は容易くできてしまうからだ。
シガは、らしくなく活き活きとアラタの師匠を演じていた。食べること以外することのない日々に退屈していたのかもしれない。
シュオウは一人、一抹の寂しさを感じながらも、東屋におちた日陰のなかで読書に勤しんでいた。図書室から借りた一冊を読み込むうち、艶めかしい男女のからみを臭わせるような場面が出てきたあたりで、初めて無意識のうちに恋愛を主題とした物語を選んでいたことに気付いた。半分ほど読み進めて、ようやくまじまじと見た題名には、新米米屋の横恋慕、とある。
主人公の若い青年が、新商品がありますよ、と言いながらズボンに手を入れた所で、シュオウは乱暴に本を閉じた。
──なんで、こんなの。
借り物の本を放り投げてしまいたい衝動を堪え、溜め息をついて前を見つめる。
ふと視線をやった訓練場の奥から、めずらしい人物が歩いてくるのが見えた。主師のマニカだ。彼女が歩く方向、そして視線からしてシュオウを目標と定めているのは間違いない。
シュオウは急いでマニカに駆け寄った。
「俺に用ですか」
玉になった汗をぬぐって、必死に息を整えてから、マニカは口を開く。
「ええ。近頃、アラタ候補生が単独であなたの授業に出ていると噂を聞いたものですから、様子を見に。どうやら、話は本当だったようですね」
シュオウの背後に目をやったマニカが、目を細めて様子を窺う。
「はい、本人の希望で、鍛えてほしいと、頼まれて……」
背後から、状況を踏まえることのないシガの叫びがこだまする。
マニカは眉をしかめた。
「あれが、真っ当な訓練なのですか」
振り返って様子を伺ったシュオウの頬に、一筋の冷たい汗が伝う。
シガはアラタの手首を掴み、思い切り勢いをつけてぐるぐると、その体をコマのように振り回していた。ひとしきりぐるぐると回転を終え、アラタを地面の上に横たえる。
「うォえッ」
アラタはふらついて立ち上がることもままならず、四つん這いになって胃のなかのものを盛大にぶちまけた。
それをした張本人たるシガは、膝に手をついて、アラタのすぐ側で昼に食べたものをゲエと逆流させた。
──お前も吐くのか。
シガは口の端からよだれを垂らしたまま、両手足を地べたにつけたアラタに喝を入れた。
「おら、さっさと立て! この程度でへばってたらいっぱしの戦士にはなれねえぞッ」
すでに小一時間しごかれ通しのアラタは、虫の息で返事をする。
「も、もう、無理ですよ……こんなの意味ない。いくら体を鍛えたって、僕は小さいし、身体能力じゃカデルに勝てないんです。だから、やっぱり技を磨かないと、それには剣の使い方を──」
「うるせえ、なにが剣だ。根っこから弱いやつはな、なにをやったってすぐに折れるんだよ。てめえはそこからまるでなってねえ。いいか、諦めたくなったり、逃げたくなったらこれを見ろ」
シガは言って、あの不気味な木像を持ち出した。
「これ……」
木像を受け取ったアラタは、げっそりとした顔でそれを見つめる。
「おまえはな、自分を鍛えてくれって言いながら、このくだらねえ物を大枚はたいて買ったんだ。逃げたら全部無駄になるぞ。おまえが払った金の代わりに俺はお前を鍛えてやってんだ。お前が途中でやめたって金は返さねえ。これを見るたびにそれを思い出せ」
アラタは震える手で木像を掴み上げた。
「こんなものに、ぼくは、ぼくはァ────うわあああッ」
震える足で立ち上がったアラタは、自らを鼓舞するように叫び、吠えた。
「よし、走るぞアラタ、晩飯の時間までは付き合ってやるッ」
「はいッ、師匠!」
走りながら去って行く二人を見送ったシュオウは、立て付けの悪くなったドアのように、ギギギと首を捻ってマニカを見た。
「あの……これは……」
マニカは表情を変えることなく、目の前に一枚の紙を差し出した。
「実は、調理場の責任者から苦情が入っています。あなたが従者だといって引き入れた南方人の男が、校内の食材をあらかた食べ尽くしてしまうと。一日やそこらのことかと様子を見ていましたが、あのガ・シガという人物は、毎食のように調理場に押しかけているようですね」
シュオウは生唾を飲み下して気まずそうに俯いた。
「はい、その通りです」
突き出された紙は、ざっと見たところ、食材の仕入れに関する内容を記した物のようだった。そこに書かれた数字を見るに、ぎょっとするような金額が綴られている。
紙を受け取ろうと手を差し伸べるが、寸前になってマニカはそれを引き上げた。
「なにもしない、ただの大飯ぐらいをこの宝玉院に引き込んだのだとしたら、由々しき問題です。即刻許可を取り消して、浪費された食費を負担していただきます──と、言うつもりでここまで足を運んだのですが、なかったことに致しましょう」
マニカは紙を折りたたみ、懐にしまい込んだ。
「いい、んですか」
シガが大食漢であることをシュオウは知っていてここへ連れてきた。それはもちろん、貴族社会の潤沢な資金をあてにしてのことではあったが、だめと言われれば、潔く非をみとめるほかにない。しかし、マニカはどこかで心変わりをしたようだった。
「彼は下手な師官よりよほど生徒を導いている様子。いつも気弱で下ばかり見ていたアラタ候補生があれほどやる気をだしているのを見て、正直驚いています。彼は師官に相当する仕事をこなしている、それならば、かかる食費の負担くらいは給金と思えば安いものでしょう」
シュオウはほっとして肩の力を抜いた。
「ただしッ──」
マニカが強い調子で声を荒げ、シュオウは再び肩を強ばらせる。
「大切な未来の輝士候補生に、くれぐれも大怪我をさせないように。ここの子供達はムラクモ王国が擁する大切な財産なのですから。いいですね」
シュオウは頷いた。一度や二度ではない。マニカから発する見えない力に気圧されたのだ。
立ち去るマニカを見送って、シュオウは慌てて駆け出した。シガが無茶をしないよう、常に見張っている必要がある。
*
闇の中、揺らぐ炎が近づいてくる。それはぼんやりとした玉のような、ランプの灯りだった。安堵を与える暖色の光を携える人物は、炎とは対象的に冷ややかな雰囲気を漂わすユウヒナ・アデュレリアである。
「お探ししました。まだこんなところにおられたのですね」
すっかり暗くなった夜の訓練場で、現れたユウヒナに、シュオウは軽く手をあげて応じた。
「昼から一度も戻ってないんだ」
「こんな時間までなにをされているのかと思えば、なにかおかしな事になっているご様子ですね」
薄暗い訓練場で、肩を並べて拳を突き出すシガとアラタ。その二人にユウヒナは冷めた視線を送って言った。
「まあ、な」
「戻りませんか。給仕のものに食事を運ぶ支度をさせてあります」
「あいつらが終わるまでは帰らない」
「でも、料理が冷めてしまいます」
僅かに苛立ち、シュオウは溜め息を聞かせた。
「ほっといてくれ、夕食を食べるかどうかは自分で決める」
「でも……」
前のめりになって食い下がるユウヒナに、シュオウは聞く。
「どうしたんだ、最近はそっとしておいてくれただろ」
ユウヒナは気まずそうに視線をおとした。
「はい、あなたがそれを望まれているようでしたから。でも、当主様からのお言葉として、カザヒナから書簡が届きました。あなたのお世話をきちんとこなしているか、と念を押す内容です」
拍子抜けし、シュオウは目を大きく開いた。
「それだけで、か」
「だけ、と思われるかもしれませんが、アデュレリア一族の長の言葉にはそれだけの重みがあります」
「側にいて監視されてるわけじゃないんだ、黙っていればわからないだろ」
ユウヒナは首を振った。
「ここにいるアデュレリアは私一人ではありません。一族の妹たちは、問われれば即座に告げ口をします」
進むも戻るもなく、つまりユウヒナに選択権はないのだろう。
「わかった、でもすぐには戻らない」
「はい、ここで待ちます」
シガはアラタをせっせとしごいている。いつもなら腹が減ったと騒ぎだす頃合いだが、弟子を鍛えることに夢中になっているせいか、今は黙々と励んでいた。
いつ終わるともしれぬ一時を、ユウヒナに立ったまま過ごさせるのは気が引けた。シュオウは東屋にランプを置き、椅子に座るよう促す。共に肩を並べて、汗を流す師弟に視線をやった。
「どうしてこんなことに?」
「つっかかってくる相手を負かして、嫌がらせを止めさせたいらしい。だから、鍛えてほしいと頼まれた」
「頼まれたのは、あの男のほうですか」
「いや。初めて来てくれた生徒をとられたんだ」
「そう、ですか」
ユウヒナは慎ましく腰をおちつけつつも、横目でちらりちらりとシュオウを見る。
「なにかあるのか」
「えッ……」
一瞬焦った様子をみせたユウヒナも、すぐに落ち着きを取り戻して、静々と言葉を紡いだ。
「つい今し方、モートレッド師官にあなたの居場所を尋ねられました」
「アイセが」
「はい。存じませんと答えましたが、疑われているようでした。どうも、私はあの方から嫌われているみたいです」
「そうか」
「あの──あの人とは、どのようなご関係なのでしょうか」
「関係って……ただの知り合いだ。俺は友人だとおもってる」
「それだけ、ですか」
「それだけだ」
「そうですか。あなたがモートレッド伯爵邸の夕食会に招かれたと聞いたので、てっきり──」
咄嗟に睨むような視線を送ったシュオウを見て、ユウヒナは語尾を濁した。
ユウヒナは口を噤みながらも、物言いたげな視線を送り続けてくる。
「言いたいことがあるなら、聞く耳はある」
「では……言わせていただきます。他の家との親交は控えるべきです。モートレッド師官とも距離をおいてください」
シュオウは眉間に力を込めた。
「まるで、俺がアデュレリアの人間以外と親しくしてはいけないと言われているみたいだ」
「その通りです。あなたの身はアデュレリアの庇護下にあるのですから──」
シュオウはゆっくりと立ち上がり、ユウヒナを見下ろした。
「アデュレリア公爵には言葉にできないほど世話になった。でも、俺はあの人の──アデュレリアの所有物じゃない」
ユウヒナは唇を引き結ぶ。
「そこまでは言っていません。けど、少しは自覚してください。氷狼の長が直々に、一族の人間にあなたの側仕えを命じたのです。滅多にあることではありません。私が知るかぎり、同様の命令を出された相手は、サーサリア様、ただお一人でした」
アデュレリアの長は、王族に並ぶ待遇をシュオウに用意したのだ。ユウヒナはそれを重大なことであると言う。たしかにその通りなのだろう。が、シュオウにはそれが大それたことのように感じることはできなかった。この世界で上位に君臨する多くの貴人達と触れ合ってきたこれまでの日々が、感覚を麻痺させているのかもしれない。
背後からシガが騒ぐ声が聞こえた。
振り返ると、つい今し方まで腰をおとして拳を突き出していたアラタが、前のめりになって地面に崩れ落ちていた。
「限界みたいだ──」
ユウヒナに背を向け、シュオウは語りかける。
「──あの人の事は好きだし、尊敬もできる。それにアデュレリアには恩がある。けど、服従しているつもりはない。どこの誰と付き合うかは自分で決める」
歩き出すと、ユウヒナの声が背後からかかった。
「あなたは特別な人です、自覚してください」
言葉なく、拳を握る。
──特別なものか。
言われるまま、あまりにも場違いな世界ですごす日々は、退屈を超越し、むなしさの領域にさしかかっている。
不慣れな指導役をあたえられ、他人から押しつけられた商材を売りさばこうとあがいても、実りはない。充実感は、かけらも見いだす事ができなかった。
アラタを案ずるシガを見ながら、シュオウは彼が言っていた言葉を反芻していた。根が弱いのだ。これまでとたいした違いはないというのに、この宝玉院という世界では、自分が誰かの手の内にいるだけの存在なのだと、嫌というほど痛感させられる。
拭いがたい無力感は、はがゆさへと様相を変えつつあった。
強く噛みしめた奥歯が、ぎしりと軋んだ。