Ⅳ 伯爵家の夕食会
その馬車は、夜の街中を進んでいた。
窓の外を流れゆくぼやけた夜の灯りは、ビノー・モートレッドを陰鬱という名の沼底に深く引きずり込んだ。
すれ違う労働者達が馬車に道をあけ頭を垂れるが、落とした顔に侮蔑の心を隠しているような気がして、ビノーは苦く顔を歪めた。
人は鏡である。
他人を見て不快に思うのは、自らの心が荒んでいる証なのだろう。しかしそうとわかっていても、身を切るような不快感から逃れることはできない。
すべてが忌々しい夜だった。
住処としているモートレッド伯爵邸の門をくぐり、御者が馬車を止めたのを見計らって、ビノーは扉が開かれるのも待たず、自らの手でドアを押し開けた。
庭に敷き詰めた砂利を踏みしめると、邸から慌てて使用人達が現れる。
この邸の主であるモートレッド伯爵ビノーは、先頭に立って一番に出迎えた老執事に帽子と上着を渡した。
老執事は腰を折って低頭した。
「旦那さま、本日はご領地にて商談のご予定では。そのままお泊まりになられるかと思っておりましたが」
ビノーは風で乱れた白髪交じりの金髪をなであげ、青色の瞳で虚空を睨みつけた。
「寸前になって破談を申し込んできたのだッ。当家は今後、ラ・ジャン商会に属する者とは一切の取引をしない、そう周知させておけ」
老執事は預かった上着と帽子を宝物のように掲げ、恭しく頭を下げる。
「かしこまりました、旦那さま」
手広く交易路を確保している新たな商会との取引に、ビノーは期待を持って全力で取り組んでいた。動物を模した質の良い工芸品を大量生産し、大々的に売り出すことを計画していたが、自らの設計によって造らせた三匹の猿の木像見本を先方に渡した途端、それまで友好的だった態度が一変したのだ。
金額をふっかけたわけではない、かけている手間暇と、良質な木材、職人達に支払う給金を計算すれば、伯爵家の金庫に入る分など雀の涙ほどにしかならない。だがそれでも、新たな取引相手との関係構築になると思えばこそ、身を切る覚悟で臨んでいたというのに。
玄関に向かう途中に、ビノーは邸の壁面に寄せて積み上げられていた木箱に目をやった。
「なんだ、あれは」
「あの、それが──」
老執事は言いにくそうに言葉を濁す。
「──以前、街商人に卸したものでございます。昼頃、代理人を通して持ち込まれました」
ビノーはぎょっとして振り返った。
「まさか、突き返してきたのか。返金に応じたつもりはないぞッ」
「先方はその必要はないと。申し上げにくいのですが、売れ行きが思わしくなく、倉庫に置いておけなくなったのだそうでして……」
ビノーはよろけるように後ずさった。
金のためなら誇りすら売り物にする商売人が、大損を覚悟のうえで品物だけ返してきたのだ。
「旦那さま……どうかお気をたしかに」
ビノーは積み上げられた木箱に背を向け、声を荒げる。
「部屋で休む、紅酒の用意をさせろッ」
「かしこまり、ました……」
ビノーは邸に入ろうとして、しかし足を止めた。いつも忠実な老執事の様子に不審な空気を感じ取ったのだ。
「まだ、なにかあるのか」
老執事は肩を震わせた。弱り切った様子で額の汗を拭う。
ビノーは老執事の骨張った二の腕を掴んだ。
「言え」
老執事は観念したように一礼し、口を手で隠して耳打ちの姿勢を求めた。
「なにとぞ、ご冷静に。じつは……その……アイセお嬢様が──」
耳に言葉が吸い込まれてゆくたび、ビノーの顔は怒りを湛えて醜く歪んだ。
滅多に入ることのない娘の部屋を蹴破るように押し開けたビノーは、中で繰り広げられていた光景を前に言葉を失った。
派手に着飾った娘と、見るからに下民と思しき北方人風の若い男が、親しげな様子で、小さなテーブルに向かい合って食事をしている最中だったのだ。
飛び込んできた父を前に、アイセは驚いて立ち上がり、裏返った声をあげた。
「お父さま!?」
アイセが連れ込んだ若い男は、食べ物でふくらませた頬をそのままに、硬直してビノーをじっと見つめていた。
「おのれッ──」
ビノーは瞬時に風の晶気を構築した。その形は一陣のかまいたちなどではなく、投擲用の槍を模した、ビノーがもっとも得意とし、好む形状でもあった。
手の内で激しく唸りをあげる風の投げ槍が、その形を完全に成したところで、ビノーはそれを座ったまま様子を窺っていた男に投げつけた。
放った晶気には、分厚い石壁にすら穴を穿つほどの威力があった。人体など、触れた瞬間に即死にいたるのは間違いない。
だが、ビノーは自らの目を疑った。
放った風の槍を、男は椅子に座ったまま体を後ろへ倒し、爪の先ほどにもかすることすらなく、躱してしまったのだ。結局、放った晶気は邸の壁に穴を開けただけに終わり、見た目の仰々しさとはかけ離れた地味な結果に終止した。
ただの偶然だ。ビノーはそう決めつけ、即座に次の一撃を用意する。が、手の中に二撃目の槍が構築される直前に、男は窓を押し破り、飛び込むようにして外に逃げ出した。
ビノーは慌てて窓の外に駆け寄るが、夜の闇に飲まれ、男の姿はどこにも見えない。
遅れてきた老執事が部屋に踏み込むと、アイセが抗議を叫んだ。
「言わないでくれと頼んだじゃないか!」
「申し訳ありません、お嬢様。ですが、主に直接問われれば、答えぬわけにはいかぬのです……」
平身低頭する老執事から標的を移し、アイセはビノーをきつく睨んだ。
「お父さまは私の恩人を寸前で殺めるところでした! 一言もなく突然襲いかかるなど、あまりな仕打ちですッ」
かつてないほど血走った怒りの眼を向ける娘に、ビノーは内心で狼狽した。
「ひとを責める前に自らのしでかしたことをよく考えてからものを言いなさい。こんなことがおおやけになれば、モートレッドの血に連なる者すべての婚姻に支障をきたすのだぞ。家のことを少しでも考えていれば、到底考えもできないことだ」
「ですが──」
なお、食い下がる娘を無視して、ビノーは矢継ぎ早に老執事に指示を飛ばした。
「ただちに追っ手を放ち、あの男を捜し出せ! 二度と階級の線を越えぬよう骨身に刻み込んでくれるッ」
「お父さま!」
「アイセ、お前はしばらくの間外出を禁ずる。私が許しをあたえるまで部屋でおとなしくしていろ」
「ですが、私には職務が──」
「宝玉院には私が話をつけておく」
「横暴です、私はもう子供ではありませんッ」
「本当にそうか、今日の行いを思い出してじっくりと考えてみなさい」
アイセを一人残し、ビノーは扉を閉めてこめかみを押さえた。
「部屋の前に見張りを立てろ、庭にもだ……それと、壁の穴を塞ぐ職人を手配しておけ」
老執事は青ざめた顔で黙礼した。
ビノーは自室へ引き上げるために一歩を踏み出すが、怒りにまかせて無理をしたせいか足元に力が入らず、ふらついて壁に肩をぶつけてへたり込んだ。
駆け寄る使用人たちの声も届かず、力なく肩を落とす。
──なんという一日だ。
もはや、自棄酒《やけざけ》を飲む気力すら残っていなかった。
*
モートレッド伯爵家が所有する領地は、決して富める土地ではなかった。豊富な水産資源があるわけでもなく、痩せて石塊の多い土地は農耕にも適さない。鉱物資源はその面影すら見いだすことができず、あるのは歪な地形と、そこに群生している密集した樹林くらいなもので、小さな町に暮らす領民達は、木材の切り出しと加工によって得る僅かばかりの稼ぎを糧に暮らしていた。
領地運営に悩むビノーに対し、ある者は大規模な牧羊や酪農にくら替えしてはどうかと勧めてきた。また別の者は、切り出した木材を加工せず、そのまま売りにだしたほうが儲かるのではないかと言った者もいる。なにを馬鹿な、とビノーはそれらの助言を聞き入れなかった。
木工部品を精巧に切り出し、それを組み合わせることで効率よく見栄えの良い工芸品を一気に生産できる技術こそ、モートレッドの職人達が受け継いできた唯一無二の財産なのである。それを捨て、他方に商いを広げる行為は、一族の長として家名と伝統を守らなければならないビノーにとっては、まさしく邪道以外のなにものでもなかったのだ。
しかし、近頃付き合いのある取引先に限界を感じ始めているのも揺らがぬ事実である。それ故、ビノーは新たな取引相手との交易権を求めていた。
北方に羽振りがよいと評判の交易都市のことを、近頃よく耳にしていたビノーは、その都市との正式な交易権を求めたが、新興ゆえにこれまで一切の関係がなく、異国でもあるゆえに正式に商取引を始めるには、侯以上の階位を受ける大貴族でもないかぎり、上からの許可が必要となる。そして、その許可状を発することができるのは王括府のみであり、組織の全権を掌握しているグエン・ヴラドウは、再三の要請もむなしく、ついぞ色よい返事を寄越すことはなかった。
グエンという人物は傑出した人物であり、宰相としても軍政を司る者としても、その実力をあますところなく発揮している傑物である。同時に私腹を肥やすことに執着がない変わり者でもあるため、賄賂や心付けを用いた交渉の一切が通用しない相手でもあった。
ビノーは後ろ盾を欲していた。伯爵家たるモートレッドよりも遙かに格上である、二大公爵家のどちらかが理想だが、王に比するほどの大家を相手に、木っ端の如き利益をちらつかせたところで、鼻にもかけてもらえないのは言うまでも無い。だが、二大公爵家を凌駕するほどの格があり、尚且つ王括府に物言いのできる家が他にもう一つあった。ムラクモ王家である。
王家の遺児、サーサリア王女は長い間王宮にこもり、外との接触を断っていた。しかし、近頃どういうわけか動向が活発になり、遊学をかねて遠方の地に赴いているという。
長期にわたって日陰の中に隠れていた王女もまた、繋がりを欲しているのだとビノーは考えた。つまり、伯爵位を預かるモートレッド家との繋がりは、王女にとっても利する関係となるはずである。
だが、直接の書簡によって会談を求めてみたものの、王家からの返事はろくに返ってこなかった。業を煮やしたビノーは、親衛隊長であるシシジシ・アマイに直談判を試みたが、あまりに素っ気ない態度で謁見を断られた事により、抱いていた期待が自身に都合の良くねじ曲げた、ただの妄想だったことを知ったのだ。
『誰に拝謁を許すかは、殿下のお心により決められる事です。臣下が決めることではありません』
親衛隊長にそう言われ、ビノーは絶望感に駆られた。伯爵とはいえ、軍からも政からも遠い今のモートレッド家との関わりなど、王女からは一切求められていないということなのだ。
親衛隊長アマイ直々に謁見を拒絶されたその日、ビノーは言われたまま黙って引き下がる気にはならなかった。権力に反抗したことなどこれまで一度もなかったが、この時のビノーは、度重なる商いの失敗と、従順であると思っていた跡取り娘が、どこからかつけてきた虫を家に引き込んでいたという耐えがたい屈辱をもたらしたこと等が重なり、多少自棄になっていたせいもある。
ビノーはアマイと別れた後、そのあとをこっそりとつけた。幸い、正装として用意した輝士服をまとって訪問していたこともあり、ビノーに不審の目を向ける者はいない。人目があるところは堂々と胸を張って歩き、逆に人気のない所は、物陰にそっと隠れてアマイを尾行した。
少しして、アマイは王家の寝間へと続く長い階段に足をかけた。さすがにこの先は厳重な警備が配置されているはずであると考え、ビノーは階段の影にその身を隠し、時をまった。
まもなくして、期待していた通り、再び階上から現れたアマイの背後には、王女サーサリアの姿があった。若くして独特な色香を漂わす、その美しさに見とれている心の余裕はない。ビノーは王女に直接謁見を申し込む絶好の機会を前にして、立つ足に力を込めた。王女が親衛隊に先導されて階段を降りきったその瞬間、ビノーは意を決した。
──いまだ。
だが、ビノーは王女と連れ添うように歩く、輝士服をまとった若い男の顔を見て、寸前で踏みとどまった。
──まさか。
物陰に隠れ、何度も瞬きをするが、その若者は間違いなく、先日アイセと共に卓を囲んでいた、あの平民の男だった。
その若者が立ち止まり、苦しそうに襟首を引っ張ると、その拍子に彼の腰帯がずるりと床に落ちる。すぐに拾おうとして手を伸ばすが、それよりも先に、王女であるサーサリアが膝をついてしゃがみ、落ちた腰帯を拾い上げた。警護する他の輝士らが戸惑う、ひかえめなざわめきが広がった。
若者は王女が拾い上げた腰帯を、立ったまま平然と受け取った。
「ありがとう、この服に慣れなくて」
「いいの」
礼を言われ、嬉しそうに微笑むサーサリアの横顔は、ビノーが隠れている位置からもはっきりと見えた。王女の顔は、臣下に対してきまぐれの慈悲を与える者のそれではない。熱に浮かされ、恋に我を見失う若い女の貌だった。
──私は、いったいなにを見ている。
ビノーは目の前で繰り広げられている光景を、現実の物として受け入れるまで時を要した。自覚がないだけで、不機嫌なまま自棄酒を流し込み、そのまま眠りおちて見ている夢なのではないかという疑念が頭にこびりつく。
サーサリアは無防備な笑みを浮かべ、若者と服が擦れ合うほど近く身を寄せて歩き出す。親衛隊の輝士達が壁になって追従してゆき、後には隊長であるアマイと、名を知らぬ黒髪の輝士が残った。
「おい、俺たちが普段お守りしているサーサリア様は、別人だったんじゃないだろうな」
黒髪の輝士が首を傾げ、腕を組んで小声でそう零した。
「どちらも同じサーサリア王女殿下ですよ」
と、アマイは黒髪の輝士の肩に触れながら言う。
「そうは思えん。あんな機嫌の良い殿下を見たのは初めてだぞ、まるで別人じゃないか」
「彼のおかげで、ね」
「気に入らん、俺たちはいつもあの方の機嫌にびくついているってのに、あのガキがそこにいるだけで、あそこまで態度が軟化するなんて」
「嫉妬心から言っているのなら、それこそ、立場をわきまえるべきですよ」
「違う! そんなんじゃない。俺が言いたいのは、平民のガキ一人に気分を振り回されているような、今の状況がだな──」
「冗談です。私だってわかっていますよ、こんな事がいつまでも続けば、隠し通すことも難しくなる。しかし人の心の問題です、周囲が望んだからといってどうこうできるものではないでしょう。サーサリア様は過去の体験によって完全に心を閉ざされておられた。それをもう一度、陽の当たる場所に呼び戻したのは、彼の功績であるのは間違いない。今殿下がされている行動、努力のすべては、彼に認めてもらいたいという一心からきていること。それを取り上げればどうなるか、考えるまでもないでしょう」
「ああ、わかってる。わかっていてもどうしようもないからこそ歯がゆいんだ」
「今は静かに見守るとき。殿下がお心安らかに過ごされていれば、それが一番です。喜ぶべきことに、彼は相手から思われているほどの感情は持ち合わせてはいない。はたから見ている分にも、妹が歳の離れた兄に甘えているようで微笑ましいじゃないですか」
「いつまでそれが通るか見物だがな。不敬を承知でいうが、俺ならあれだけの美女に言い寄られれば迷い無く惚れ返す自信がある」
「容姿だけを見て言う話ではないでしょう。私が彼の立場なら、王族から求愛されたその瞬間に、外国への逃亡を計画しますよ、命が惜しいですからね。その点、彼はやはり並の者ではない」
「それだけは同意する。あれだけの輝士に睨まれながら平然としてやがった。あれは心臓に剛毛が生えているうえ、そのうえから厚い毛皮を着込んでいるに違いない」
「すでに非凡な実績を残しつつある人物です、あのグエン公ですら一目置いている節がある。近いうち、誰にも文句を言われることなく親衛隊に迎え入れることができる日がくるのではないかと、密かに期待しているんですよ」
「へ、入ってきたら俺がいじめ抜いてやる」
「私がさせませんよ」
親しげな軽口を残し、二人はお喋りを続けながら去って行った。
一人残されたビノーは暗がりで硬直したまま、溜まっていた唾を嚥下する。
心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
間違いなく、たった今見聞きしたことは値のつけようもない情報だった。うまく利用すればどれほどの見返りが見込めるか、計算が追いつかない。
──この話を元にして王家を。
ビノーはかぶりを振って即座に愚考を捨て去った。後ろ盾を欲する今、王家をゆするような真似をすれば、逆にすべてを失いかねない。
もっと他に有効利用できる方法があるはず。ビノーは立ちすくんだまま、全力で思考を巡らせた。
──そうだ、そうだった。
刹那の雷光の如く、記憶にこびりついたある光景が頭に浮かぶ。それは娘と共に親しげに食事の席についていた、件の若者の姿だった。
なにより不快であるはずのその記憶は、一瞬にして金鉱脈へと変貌を遂げていた。
急ぎ、邸へ戻ったビノーは、軟禁状態にあるアイセの部屋の扉を押し開いた。
「アイセ」
「おとう、さま」
アイセは輝士服に着替えていた。眠っていないのか物憂げな表情で窓辺の椅子に腰掛けている。
ビノーは一つ、大げさに咳払いをした。
「昨夜のあの男についてだが」
言うや、アイセの顔が怒気を孕んでつり上がった。
「彼を害すおつもりなら、私はなにも話しませんッ」
「いや、ちがう──ちがうのだ」
敵意を剥き出す娘の機嫌をとろうと、ビノーは常になく声音をほぐした。
「あれは、私がやりすぎた。事情を知ろうともせずに乱暴に追い払ったことを今は後悔している」
父の態度の豹変ぶりに、アイセは不思議にそうに首を傾げた。
「本気で、おっしゃっておられるのですか」
ビノーは渾身の力を込めて頷いた。
「偽りなく本心だ。そこでだ、あの男に直接謝罪を述べたいのだが」
「はい、それは……でも」
「夕食に招待していたくらいだ、あの者とは親しいのだろう。私のとった非礼を詫びるため、モートレッド当主の名の下に正式に夕食会に招待したい。招待状を渡す役を頼めるだろうか」
鬱いでいたアイセの顔が、一瞬にして華やいだ。
「はいッ、そういうことでしたら、すぐに支度を──そうだ、着替えないと──いや、それより馬の支度を──でも汗も流したいし……」
「細事は私が指示を出しておく、お前は身支度を優先しなさい」
途端に気分を良くし、色とりどりのドレスを引っ張り出して品定めをする娘の姿を見て、ビノーは複雑な心地を抱いていた。王女について語り合っていたあの二人も、今の自分と同じような心境だったのだろうか。
*
友が経営する店、蜘蛛の巣の休憩室にて、シュオウは茶色の軍服に袖を通して着こなしをクモカリに確認した。
「おかしくないか」
クモカリはアゴに手をそえて、シュオウの頭のてっぺんからつま先まで凝視する。
「そうねえ、ちょっと全体的によれよしてる気がするけど。深い皺があちこちについてるわよ、もう少しきちんと管理しないと」
やんちゃを叱る姉のような調子で言いつつ、茶色の軍服についた折れ目を懸命に伸ばす。
「嫌いなんだ、これ」
「でも、こうやっていざってときに困るんだから。だめね……ちょっと貸して、近所の店で急ぎでアイロンをかけてもらうわ」
よれよれの上着をはぎ取ろうとするクモカリの手を、シュオウは躱した。
「いい、仕事中に面倒をかけたくない」
「伯爵様のご招待に正装をしていきたいんでしょ、まかせておいて。それにね、面倒だなんておもってないし、店番くらいはいるんだから」
「……わかった。ありがとう、たのむ」
観念して上着を渡すと、クモカリはにっこりと笑って部屋を出て行った。
アイセの招きによって、モートレッド伯爵邸で夕食をいただいていた夜に、留守の予定だったモートレッド伯爵に突然襲いかかられてから一夜明け、主師が朝礼を始める時間になっても、宝玉院にアイセの姿はなかった。
昼頃に、サーサリアからの招待に応じて水晶宮に出向いていたシュオウが宝玉院の自室に戻った夕暮れ時、ふらりと現れたアイセは、仰々しい招待状を差し出して、賓客としてモートレッド伯爵が夕食会に招いていると、シュオウに告げた。
招待状のなかを見てもまだ疑わしく思っていたが、さすがに正装した御者と大きな馬車に出迎えられれば、現実味は増す。
馬車に乗ったシュオウは、伯爵家に向かう途中にクモカリの店への寄り道を求めた。招きが正式なものであるとわかった途端、今度は自分の身なりが気になりだしたのだ。
──正装、か。
シュオウが持つ一張羅といえば、支給されている茶色の従士用軍服くらいなものだ。相手がだれであれ、本来服装を気にするほどの繊細な配慮を、シュオウは持ち合わせてはいないのだが、アイセの友として、彼女の家族と対面するのに、恥をかかせたくはないと考えが脳裏をかすめた。そうなると、急に自らの服装が相手に不快感をあたえるものでないかどうかが気になってくる。
──そうだ。
シュオウは自らを着飾るための持ち物に当たりを付ける。それは近頃いただいた勲章だった。王国軍の最高司令官から直接いただいたソレを見せれば、自らの人となりを多少でも主張できるかもしれない、という打算が働いたのだ。
いつも羽織っている黒の外套の内をまさぐるが、そこに入っているはずの勲章らしき手応えがまるでなかった。慌ててポケットをめくるが、あるはずの物は影も形もない。
──おとした、のか。
記憶を辿るうち、サーサリアに生殺しにされていた二人の男子生徒達の白目をむいた顔が浮かんだ。あの時、サーサリアは彼らがシュオウの持ち物を荒らしていたと言っていた。
急ぎ宝玉院へ戻ろうとして、シュオウは部屋を出る前に足を止めた。今から宝玉院まで戻り、犯人かもしれない生徒らを問い詰めていたらどれほどの時間を消耗するか。素直に認めればいいが、他人の部屋に黙って入り荷物を漁るような人間に良心を期待しても無駄だろう。それに、自らの不注意によってどこかに落としてしまった可能性も捨てがたい。
──あとでいい。
シュオウは失せ物に対する興味をあっさりと捨て去り、椅子に腰掛けてクモカリが戻るのを待つことにした。
御者の手によって扉が開かれ、馬車を降りると、少し肌寒い夜の風が吹き抜けた。
なにを思ってか、玄関に二十人を超えようかという使用人達がずらりと居並び、先頭から順にゆっくりと頭を下げていく。
シュオウは大いに困惑した。
行列から一人抜け出してきた老いた執事の男が、眼前まで歩み寄り辞儀をする。
「ようこそおいでくださいました。中で旦那様がお待ちでございます」
邸に向けて差し出された手に促され、シュオウは頭を下げたままの使用人達の合間を歩いて行く。まるで自分が偉い立場かなにかにでもなったような心地がするが、よく見ると、頭を下げた使用人達は、こっそりと目線を浮かせ、抜け目なく珍客の姿を観察していた。
「昨日とは随分違いますね」
老執事は気まずそうに声を震わせた。
「先日は、まことにご無礼をいたしました。なにとぞお許しくださいませ」
慇懃に詫びたこの老執事とは、アイセに客として招かれた際に顔を合わせているため面識がある。昨夜、邸の裏口で一目見て侮蔑の眼差しを向けてきた彼も、今はまるで別人のように態度が変わっていた。
邸の中に一歩足を踏み入れると、中央広間の中心に鎮座している鳥人間の石像がシュオウを出迎えた。頭は鷲、上半身と下半身は筋肉質な男の体を模していて、手の部分は大きな翼で出来ている。それだけならまだしも、この石像は人間の赤子の腹部を食いちぎり、腸を引きずりだしてくわえ、クチバシからぶら下げている。
もちろんすべて石を削った彫刻としての様相ではあるが、この石像は趣味が悪いとか、そういった事すら遙かに飛び越えているように思えた。これを造った人間も相当なものだが、邸の一番目立つ場所に平然と飾っている人間もどうかしている。
ほどなくして、手前の部屋から颯爽と登場したモートレッド伯爵が、堅そうな顔にわざとらしい笑みを貼り付けて挨拶を述べた。
「よくきてくれた、シュオウ君というそうだね、いや、シュオウ殿と呼ぶべきか。今日になって初めて聞いたのだが、君はアイセの卒業試験に同行した従者の一人だったそうだな。娘は君を命の恩人だと言っている。知らずとはいえ、私がしたことをどうか許して欲しい、このとおりだ」
伯爵は謝罪し、深々と頭を落とした。老執事が咄嗟に止めにはいる。
「旦那さまッ、そのような──」
伯爵は頭を下げたまま手で制した。
老執事は振り返り、意味ありげにシュオウをじっと見つめている。
「気にしてません、頭をあげてください」
頷き、伯爵は頭を上げた。
「許しをもらえたと、そう解釈してもいいだろうか」
「はじめから怒ってないですから」
シュオウは嘘を言った。
事情はあれど、言葉もなく突然人を殺めようとしたモートレッド伯爵に良い印象など持ちようがない。昨夜、伯爵がシュオウに向けて放った一撃は、並の人間であれば間違いなく一瞬で命を失っていただろう。
あれだけの殺意と怒りを振りまいていた人間が、一夜にしてこれほど態度を変えてしまうことなどあるのだろうか。突然の招待以上に、あまりにもへりくだった態度を見せる伯爵に、シュオウの抱く違和感はより強くなった。
「シュオウ、来てくれたんだな!」
二階からアイセがふわふわとした黄色いドレスを持ち上げて、小走りに階段を駆け下
りてくる。最後の階段を二段とばしに飛び降りると、はにかんで、もじもじとうつむいた。
「アイセ、料理の支度がすむまで彼を応接間にご案内しなさい」
伯爵に言われ、アイセは嬉々として返事をした。
「はいッ」
一階の中央広間から東側の部屋に通され、ふんわりと柔らかい椅子に腰掛けたシュオウは、対面して座ったアイセに、彼女の父の態度について聞いてみた。
「どうなってるんだ、あの変わりようは」
「さあ、突然私のところにきて、謝りたいからシュオウを招待すると言い出したんだ」
「おかしいと思わなかったのか」
「それは少しくらい思ったさ。けど過ちを認めてくれたんだと思えば、嬉しくてどうでもよくなった。こうして堂々と家に迎えることだってできたし」
アイセはそれ以上なにも考えようとはしていない。どこかで血の繋がった父親を信じる心もあるのだろう。しかし、シュオウとしては未だに気分が収まらない。命まで殺めようとした相手に一日もせずに頭を下げて、歓待しようとしている真意が計りかねた。今この瞬間、部屋の物陰に武器を手にした私兵達が隠れて命を狙っているのだとしたら、そのほうがよほど納得がいく話だ。
「それにしても……すごい部屋だな……」
しみじみと部屋を見渡しながら言うと、アイセは嬉しそうに頷いた。
「そうだろうッ、どれもこれも逸品揃いだ、このまま展示場にしたって価値があるぞ」
アイセは白目をむき、よだれを垂らしながら自らの首をしめる猿の像を背景に、満面の笑みをうかべている。
「いや……」
シュオウは引きつった顔であちこちに置かれた奇妙きてれつな置物の数々を観察した。どれもこれも、酷い形相をした動物の置物や像ばかりであり、そのどれもが、共通して死を連想させるような姿勢をとっている。
「展示場というより──」
悪趣味な見世物小屋だ。シュオウは言葉には出さず、本音をそっと飲み下した。
食堂に呼ばれ、席について最初に出てきたスープを、シュオウはじっと見つめたまま手をつけずにいた。
心の奥深くにこびりついた不信感が、出された料理に手をだしてよいかどうかの葛藤を生む。腐臭が漂っていようが、カビがはえていようが、それを平気で腹に収める自信があるが、毒入りの食べ物は別だ。
シュオウの心を知ってか知らずか、伯爵はスープをすくい、するすると飲み込んでいく。
「苦手なものでも入っていたのかね」
伯爵に問われてシュオウは否定した。
「いえ、そういうわけじゃ」
少し離れて座るアイセが、不安げに様子を窺っている。シュオウは意を決した。この状況で食事に手を付けないのは無理がある。
粗挽きされたイモの冷製スープは、口のなかでふんわりとした甘さを拡散させ、雪どけのようにしっとりと喉の奥に吸い込まれていく。
抱いていた不安をすべて吹き飛ばすほど、料理は美味だった。ちょうど空腹を感じ始めていた事もあり、シュオウは勢いをつけてスープを口に運ぶ。
舌鼓を打つシュオウをみて、伯爵とアイセは満足げに微笑む。
「口に合ったようでなによりだ。料理人もさぞ喜ぶことだろう」
食べ終えたスープが片付けられ、代わりに煮込んだ果物のソースをかけた蒸した鳥肉の料理が運ばれてくる。甘く香ばしい臭いが、口の中に溢れんばかりの唾液を沸き上がらせた。
「ところで、君は随分と腕のたつ従士だそうだな。ここのところは南方、オウドの軍に配属されていたとか。現地ではサンゴ領の砦が陥落したと聞くが、君もその戦いに参加していたのかね」
シュオウは鳥肉を頬張りながら首肯した。
「はい、渦視城塞は俺が制圧しました」
聞くや、伯爵は目を瞬かせ、視線を泳がせた後わざとらしく笑ってみせた。
「いや、冗談かね。私も若い時分、肩を並べた戦友と軽口を言って笑い合っていたものだ。つまり、君は渦視城塞攻略の軍に参加していたと、そういうことなのだろう」
「いえ、狂鬼の侵入にあわせて、一人で渦視に乗り込んだんです。捕らわれていた仲間達を解放したあと、渦視の総帥を捕まえて、残った狂鬼を片付けた後に、拠点を掌握しました」
かなり端折った内容ではあったが、シュオウが淡々と言った事実に、伯爵は大声をあげて笑いだした。
「君は劇作家としての素質があるようだな。悪くない英雄物語だ、聞いていて光景が目の前に浮かんだよ」
アイセが食事の手を止めて、伯爵に食ってかかった。
「お父さまッ、嘘ではありません、彼ならばそれくらいしてみせます」
伯爵は猛る娘を手で制す。
「悪乗りはやめなさい。私とて冗談くらい理解できるのだ。だが、この話はこのくらいにしておこう。ありがとう、楽しい話だったよ」
こっそり目を合わせたアイセが、視線だけで謝っているのが伝わってきた。シュオウはそれ以上なにも言わず、黙って鳥肉を頬張る作業に専念することにした。
二番目の料理が片付けられ、次のパイ料理が運ばれてくる。
「楽しんでくれているかね」
伯爵に伺いをされ、シュオウは強く頷いた。
「どれも美味しいです──」
ついでに、気になっていた事を思い切って聞くことにした。
「──だけどどうして、俺を招待してくれたんですか」
「先ほども言ったように謝罪のためでもある、それと娘の恩人に礼を尽くすのに、家族の食卓に招きたかったのだ。とはいえ、父と娘の二人きりでは、君に対して失礼かとも思ったのだが。私には三人の妻がいるが、二人は領地で暮らし、あとの一人は旅を好んで保養地巡りに忙しく、ろくに戻ってもこなくてね」
「奥さんが三人もいて、大変じゃないですか」
シュオウの素朴な疑問を、伯爵は笑い飛ばした。
「どうということはない。複数人を相手に恋をして非難を浴びるのは平民の話だ。貴族家の立場ある男であれば、恋多き者はむしろ尊ばれる。才ある者ほど種を多く残さねばならん」
顔を赤くしたアイセが父を諫めた。
「お父さまッ、食事の場に相応しい話題ではありませんッ」
「そうだな。いや、私も悪乗りをしてしまったようだ、すまない。そうだ、詫びといってはなんだが──」
伯爵は手をあげ、老執事に何事か合図を送る。運ばれてきたのは、盆の上に乗せられた何かだった。それは紫の布が被さっていて、中を確認することはできない。
「これは贈り物として受け取ってほしい」
伯爵はおもむろに布をとってそこにあるモノを披露する。正体を見た途端、シュオウは激しくむせて咳き込んだ。
「遠く、南西の山中に生息している象という動物の木像だ。これは私の設計なのだが、実際に見たことがないのでね、本にあった記載と想像を交えて造らせたのだ」
隣で父親の講釈を聞く娘、アイセはなぜか目を輝かせながらその木像を見つめていた。
シュオウはソレを受け取り、深刻な表情で息を飲んだ。ミミズのようにうねった鼻、飛び出した眼球に突き出した下顎からは頭頂部まで届く鋭い歯が二本生えている。あばら骨が浮いた胴体からは、なぜかバッタなどの昆虫類のような足が六本生えていた。
シュオウは本で見て、象という生き物がどんな姿をしているのかおぼろげに知っている。伯爵が象だと言って持ち出してきたコレは、おそらく悪夢に現れる化け物かなにかに違いない。深界に巣くう狂鬼のなかにすら、これほど醜悪な見た目をした生物を見たことがなかった。
「これは……」
いりません、とどうにかして突っ返したいと思い口を開いた時だった、シュオウの言葉にかぶせるようにかけられた伯爵の口から、信じられない一言が猛威をふるう。
「同じ物が箱いっぱいあってね、ちょうど庭先に置いてあるから、すべて君に進呈しよう」
ぞくりと、背中を寒気がつたう。
「お父さま……」
娘の友人に気前良く贈り物を差し出した父を、アイセはうっとりと眺めていた。
なにかが違う。シュオウはそう思った。
この親子と自分は、きっと見ている世界が違うのだ。おかしいのはどちらか。こっそりと目配せした老執事が、気まずそうに視線を逸らしたところからして、正否を考えるまでもないのだろう。
頬がとろけてしまいそうな、甘くて美味しいデザートをいただいた後、伯爵はアイセに帰りの馬車と土産物を運ぶための手配をするように言った。使用人にやらせればいいのではと首を傾げつつ、アイセは父親からの指示を静々と実行に移した。
シュオウは邸を案内すると言った伯爵に付き添われ、広くて長い廊下を歩いていた。
静かにたゆたうランプの明かりは、廊下の壁にずらりと並んだ肖像画を照らしだす。前を行く伯爵のゆっくりとした歩調に合わせつつ、シュオウは居並ぶ顔を一つずつじっくりと眺めた。
「モートレッド一族代々の当主達だ」
奥へ行くほど古びた様相を呈していく肖像画は、ほとんどは男、まばらに女が混じり、風貌はほとんどが金髪に青色の瞳をしていた。彼らの血は脈々と受け継がれ、共に歩いている伯爵、そして彼の娘の代にまで、命の系譜は続いている。
「我が一族は勇猛だが、それゆえに短命のきらいがある。アイセの兄姉達は優れていたが、成人を目前にして皆命を落としてしまった」
「そう、みたいですね」
腰にまわした両手を握って、伯爵は足を止めた。側には誰も居ない。
廊下は静寂のなかにあった。動くものは、揺れるロウソクの灯りが落とす影のみである。
「情けない話だが、立て続けに子らを失って恐くなってしまってね。とくにアイセには、ろくに愛をもって接した覚えがない。だが、あの子は深界踏破試験を無事に終えた、それも前例のない好成績でだ。都合の良い話だが、ここのところは、娘とも会話を交わす機会が増えた。ようやく後継者を得たことで、私も張り詰めていた心の壁の高さを、少し下げることができたのかもしれんな」
伯爵はゆっくりと振り返り、背後にまわしていた手をもどして、浅く頭をおとした。
「なんですか、急に」
「父として、そして伯爵家の当主として認めたくはないが、娘はどうも、君に恋心を抱いているらしい。一晩中思い悩んだが、君とこうしてゆっくり話をする機会をもててよかったよ。君と話していて一つわかったことがある」
シュオウは微動だにせぬまま、拳だけゆっくりと握りしめる。
「なにがわかったんですか」
「君が、私の娘に抱いている感情が、同等のものではないということがだよ。それともう一つ、シュオウという名の若者が、話ができる人物であるということもね。意外なことに、私は君に好感を抱いている。君は己を知る者だ。だからこそ伏して頼みたい、どうか娘に想いを捨てるよう計らってほしいのだ」
手のひらに痛いほど爪が食い込み、シュオウは無意識のうちに握る拳に力を込めていたことを自覚した。
アイセが向けてくる感情が友という一線を越えたものであると、シュオウは知っている。だが知っているからといってどうなるのか。直接なにかを言われたわけでもなく、自分を諦めてくれ、などと伝えるのは、それこそ驕り高ぶった愚かな行いではないのか。
伯爵のいった言葉は事実だった。シュオウはアイセに対して、友という一線を越える感情は持ち合わせてはいない。だがそれでも、側にいて少しも感情が揺さぶられないかといえば、それも違う。整った顔に見とれてしまいそうな事はあるし、側にいて感じる甘い果物のような香りに、そわそわと落ち着かない心地にもなる。きまじめな性格も、側にいて安心ができるし、常に彼女なりに正しくあろうとする姿勢も尊敬できる。
シュオウは言葉にできぬ不快感に顔をおとした。
シュオウはアイセが好きだった。一緒に旅をした仲間として、甘い食べ物をくれる友として、同じ場所で働く同僚として。
だが、たった今、彼女に抱いていた好意を、強引に分類されたような心地がしていた。
シュオウはゆっくりと顔あげる。
「返事を、したくありません」
その返答に、伯爵は眉間に皺を寄せた。
「立場をかえりみず、自らの想いだけを遂げようとするのは子供の恋だ。君にも、さぞ負担をかけただろう。私は血族の長として、そして父として言うべきことを伝えた。これ以上はなにも言うつもりも、するつもりもない。不快な思いをさせてしまったようだ、すまなかったね」
シュオウは黙したまま視線をはずした。
伯爵は再び前を向いて、ゆっくりと歩き出す。
重くなってしまった空気を戻したかったのか、伯爵は露骨に声の調子をはずませた。
「ときに、先ほどの贈り物の件なのだが──」
シュオウも気持ちを切り替え、声を張った。
「そのことですけど、やっぱり受け取れません」
伯爵は長い廊下を歩きつつ、首を捻って振り返った。
「ん? たしかに物としてかさばるかもしれんが、商材としてみればどれほどの利益を見込めるか、考えてみたのかね。卸値を考慮しなくてもよい分、いくらで売ろうとも丸ごとの儲けになるのだぞ」
話を聞いて、シュオウは眉をあげた。
「金……」
「そうとも。モートレッドの工芸品は高品質なものとしてとくに評判がいい。君に進呈するといったものは、私の力作だ。娘が受けた恩義を返すため、破格の条件で差し上げようといっている。どうか遠慮せず、受け取ってはもらえないだろうか」
シュオウが伯爵からの贈り物を受け取ることを躊躇しているのには理由がある。それはなにより趣味の悪い造形がためだ。しかし売れば金になるという言葉は、まさしく甘言だった。ここのところ、財産の重要性を痛感しつつあるシュオウを惑わすのに、伯爵の言った演説はこれ以上なく効果を発揮した。
「それじゃあ、ありがたくいただきます」
「いや、そうか。よかったよ」
伯爵の様子は、どこかほっとしているようにも見え、シュオウは密かに首を傾げる。
ふと、流してみていたモートレッド家の先祖達の肖像画のなかに、視線を誘われた。それは、眉目秀麗で品良く前を見つめる絵が並ぶなかにあって、ひときわ異彩を放っていた。
歳の頃は二十代の半ばほどといった雰囲気で、金髪碧眼なあたりは他のそれと同様だが、鼻の両穴に親指を突っ込んで手のひらを広げ、閉じた瞼に偽の目を描いて、口元は歯をぎらつかせながら引きつったように笑みを貼り付けている。
「これ、なんですか」
聞くと、伯爵は足を止め、その肖像画を前にして眉間を強く押さえた。
「エトハルト・モートレッド。我が一族が東方の地に移り来てまもなく輩出した希代の変人だ。昼夜逆転の生活を送り、私財をおかしな発明に費やしていたという。我らモートレッド一族も、他家と同様もっとも才ある者を当主の座につける。エトハルトは狂人ではあったが、輝士としての才には恵まれていたのだろう。彼はとくに生物の生と死に異常な執着をみせていたようだ。この頃のモートレッド家には、口にもだしたくない逸話が数多く残されている。正直にいってエトハルトは系譜にしみついた汚点だが、芸術的な素養には傑出した才能をもっていた。それゆえ、恥を感じつつも、私はこの先祖を嫌ってはいない」
シュオウは生唾を飲み下した。
「もしかして、邸の入り口にあった、あの石像は」
「ほう、よくわかったね。あれはエトハルト自らが造り出した彫刻だよ。他にも、この邸と領地にある別宅に、彼の作品が多数保管されている。保存のためにかかる費用は相当なものだが、彼の作品にはそれだけの価値がある、君もそう思うだろう」
伯爵の言葉を聞きつつ、シュオウはエトハルト・モートレッドの肖像をじっと見つめた。
──おまえか。
今日にいたるまで受け継がれているモートレッド一族の途方もない趣味の悪さは、このエトハルトという人物を根源としているのかもしれない。それは、彼が残した品物を後生大事に保管し続けてきた後の子孫達の行動をみれば明らかだ。
「ときに……君はサーサリア王女殿下とは知己の間柄なのかね」
急な質問に、シュオウはぎょっとした。
「どうして?」
「いやね、そういう類いの噂を耳にしたのだよ。それで……どうなのかね」
「一応、はい。あいつ──サーサリア王女が、アデュレリアの山中で遭難したときに側にいたんです」
伯爵は手のひらの上で拳を打った。
「知っているぞ、たしかに王女殿下はアデュレリアにて、一時山中で道に迷われたとか。まさか、君が王女の身をお助けしたのか」
「そうだと言ったら、また疑いますか」
「いいや、そうか──それならば納得のいく話だ」
独り言のようにぶつぶつと呟く伯爵の態度に、シュオウは眉をひそめた。
「なにが言いたいのか」
伯爵は突如、シュオウの手をがっしりと握りしめた。
「よくぞ聞いてくれた。実は、君に折り入って相談があるのだが──」
伯爵家に別れを告げて後、大きな木箱を五つも渡されたシュオウは、運び先に苦慮しつつとりあえずの置き場としてクモカリの店の裏に置かせてもらうことにした。
夜分に、予告なく大きな荷物を持ち込んだことで、さすがのクモカリも困り顔をした。
「なによこれ……」
「伯爵からもらった」
「もらったって、中身はなんなの?」
シュオウは見本として受け取った象の置物をクモカリに見せた。
「ちょっとやっだぁ……なにこれ、見てるだけで呪われちゃいそう──」
クモカリは大きな手を傘にして、不気味な象の置物との視界を塞いだ。
「──まさか、この箱の中身、全部これなの?」
シュオウはなかば放心状態で力なく頷いた。
「うん……」
「どうしてこんなのもらってきちゃったのよ」
「金になるって聞いて、つい……」
あの珍品邸から距離を置き、時間もあいて冷静になるにつれ、とんでもないお荷物を背負い込んだのではないかという後悔に襲われた。
「そりゃあ、売れればお金になるでしょうけど。これ全部、本当に見返りもなくくれたっていうの?」
「いいや、頼まれごとをした」
クモカリは、みたことかと困り顔をする。
「どんな?」
「サーサリアに……王女に紹介してほしいと言われた。俺一人で決めていいことじゃないから、返事はしなかったけど」
「そう、それでよかったと思うわよ。でも気をつけないと、ただより高いものはないって言うんだから」
シュオウはまさに、クモカリの言った言葉を現実のものとして実感していた。
クモカリが木箱をぽんと叩くと、重い音が夜の路地に反響した。
「これ、入れ物の木箱を売ったほうがまだお金になるんじゃないかしら──それと、悪いんだけれど、これ裏路地に置いておくのは無理よ。ここ、ご近所さん達も運び入れに使う共用通路なのよ」
シュオウは腕を組み、目を細めて積んだ木箱を見つめた。
「明日の朝には片付ける」
一夜明け、人通りの多い街路を行く人々の視線が、うずたかく積み上げた木箱を担ぐ男に集まっていた。
「おいッ、朝っぱらから人をたたき起こしといてさせる事がこれかよ!」
そう喚き散らすシガの隣で涼しい顔で歩きながら、シュオウはうっすらと笑む。
「きもちわりいな、なににやついてんだよ」
「いま、はじめてお前を雇ってよかったと思ってる」
「くそ……手が自由なら、そのむかつく白頭を殴ってやりたい」
シュオウはシガの背中を平手で叩いた。
「だまって宝玉院まで運べ、雇い主の命令だ」
「まともに金払ってから言えッ」
自らが雇うと言った男が初めて役に立った瞬間を、シュオウは満足げに見守っていた。
しかし、弾む足取りは、シガの手にある白熱した輝石を目にした途端、重くなる。シュオウは自らの白濁した輝石と見比べて、沈んだ表情で唇をとがらせた。
娘と距離を置いてほしいと、頭まで下げていたモートレッド伯爵の深刻な顔が頭の奥にこびりつき、いつまでも終わらない自己問答を、胸中に呼び起こしていた。