Ⅰ 新しい仕事(仮)
頭上を巡るホウジョの鳴き声がして、首をおって空を見上げた。
低空で深界を飛ぶホウジョという名のこの鳥は、仮宿を求め群れて移動を繰り返す、深界に生息する渡り鳥である。
灰色に黒斑の小ぶりな羽根を必死にばたつかせ、短距離飛行を繰り返しながら、季節の変わり目に温暖な空気を望んで移動を繰り返す。その様はしかし、天高く飛翔する鳥達には及びもつかないほどみすぼらしかった。
ころりと丸い体に、短く見栄えの悪い羽根。喉をならせばホージョと悲鳴のような声で鳴き散らかすこの鳥が、深界を行く人々に嫌われているのだと知ったのは、つい最近のことだった。
曰く、ホウジョの鳴き声は人の悲鳴に似ている、それが深界に巣くう狂鬼達を呼び寄せるのだとか。が、それには同意しかねた。人と鳥の鳴き声を間違えるほど、灰色の森の化け物達は愚鈍ではないのだ。
ホウジョを腐す、そうした話を聞いたとき、多くの人々は、ものの片側だけにしか興味がないのではないかとおもった。
なぜなら、醜い声で鳴くこのみすぼらしい容姿の鳥の肉が、どれほどの美味か、彼らは知らないのだから。
*
荷馬車が気怠そうに奏でる車輪の音を聞きながら、積まれた荷に背を預けていたシュオウはなめらかなそよ風が運んできた、一足早い夏の香りを頬に受けて瞼をおとした。
灰色に覆われる深界に、四季の彩りなど皆無だが、時間は着実に前へと歩みを進めている。
春の終わり、夏の始まり。
その間にある今の頃は、どっちつかずのこそばゆさを思わせる。
日増しに空が高くなってゆき、放牧された羊の群れのように広がる白雲も、厚みが増していく。群れて飛ぶ鳥も入れ替わり、夜を彩る虫の音色も混ざり合う。
季節は生物の営みに変化をもたらすが、人もまたその影響下にあった。
ご機嫌な陽気に、時の移ろいをひしひしと感じるようになるこの頃、世界を血管のようにめぐる白道を交易のために旅する旅商の動きは、脈動する血液のように活発になる。
王都に戻る道すがらに立ち寄った宿場町で、シュオウは交渉の末、商い旅の途中にある隊商の荷馬車に席をいただいた。
乗り込んだ荷車は揺れが激しく落ち着かないが、徒歩で行くことを思えばそれも苦にはならない。が、問題は他にあった。
「ぐががッんガッ!」
それは、地鳴りを連想させるような強烈なイビキだった。
「おい、かんべんしてくれよ……その兄さんのイビキのせいで他から苦情がきてるんだ」
御者台に座って手綱を握る旅商の男が、振り返りながら苦情を言った。
「すいません、いますぐ起こします」
平謝りして、シュオウは隣で大きな体を横たえるシガの額を指で弾いた。
のんきに眠りこける、この巨体の男は、それでも目を開けようとはしなかった。
南方人であるガ・シガは、浅黒い褐色肌をぼりぼりと掻いて、言葉にならない声でなにかぶつぶつと呟いている。かと思えば、ふたたび空気をつんざくほどのイビキを喉の奥から吐きはじめた。
イビキに怯えたのか、連れだって行く他の荷馬車の馬達がいなないている。
深界を行く静かな旅路のなか、これでは顰蹙《ひんしゅく》を買うのも当然だ。
「おい、起きろ!」
シガの頬を強く叩いてみたが、一切動じた様子がない。
元々眠りが深いほうなのか、シガは一度眠りに入ると簡単には目を覚まさないのだが、それを知ったのは王都への出頭命令を受けたシュオウが、シガを連れ立って帰途についた道すがらに、最初に立ち寄った宿場町でのことだった。
渦視にいた際、怒りに猛って暴れまわっていたシガの顔つきは精悍だった。だが、蓋を開けてみれば、その性格には大いに隙があったのだ。注意散漫で、思慮が浅く、直情的で欲求を叶える事にはこのうえなく積極的。シガという人間はそういう男だった。
元サンゴ領、渦見城塞で、まんまと捕らわれの身になっていたのも、いまとなっては頷ける話である。
他から向けられる視線による無言の抗議にたえかねて、シュオウは奥の手をとることにした。のんきにイビキを演奏するシガの息を止めるのだ。
まず、鼻をつまもうとして手を伸ばした。が、指先が触れる直前になって、シガは巧みな首捌きにより、これを回避した。
二度、三度と試みても、シガは器用に睡眠を妨害せんとする魔の手から逃れてみせる。
「おまえ、起きてるんじゃないよな……」
「ぐごごごごご──んごッ」
イビキで返事を寄越した、幸せそうな顔でよだれを垂らすシガが憎らしい。
シュオウは、振り返って様子を窺っていた御者の男に、首を振って作戦が失敗に終わったことを告げた。
男はうんざりした調子で、
「あれっぽっちの運賃じゃ割にあわねえ……」
と愚痴った。
もう一度謝って、シュオウは肩をおとした。
人の気も知らず、シガは心地よく大音量でいびきをたてている。背が高いせいで、長い足のかかとが流れる地面をこすっていた。
シュオウは腰にくくった財布の中身を見て嘆息した。
アデュレリアを出て、オウドについたころにはたっぷりと入っていた金も、今や底をついている。部下として従える必要のあった荒くれ者達の支持を得るために、気前良くばらまいたせいもあるが、それ以上に打撃だったのが、シガの胃袋だった。
巨体を維持するためか、やたらに食うシガに付き合って、宿場に立ち寄るたびに皿を重ねるほどの料理を注文するはめになり、乾いた砂が水を飲みほさんが如く飲み込まれる酒もあいまって、浪費は止まるところをしらない。
シガに対し、彼を雇うと言った以上、シュオウにも責任はある。だが、一度も給金を支払っていないのに、日ごとにやせ衰えていく財布を見ていると、言った言葉を取りやめにしたいという気持ちが、日を追うごとに強くなっていた。
シュオウはへたへたになった財布を、大きく開かれたシガの口の中に押し込んだ。
「もがッ」
異物に眉をひそめながらも、ほどなくして財布を咀嚼しはじめたシガを見て、どっぷりと吐きだしたシュオウの溜息は、濁った沼底のように暗い、後悔の色に塗れていた。
*
厳かに戸を叩く音がした。
ムラクモ王国、水晶宮の一間において、部屋の主であるグエンは来訪者に応対する副官、イザヤの背に視線を送っていた。
「閣下、オウドより、従士曹シュオウが到着いたしました」
「入れろ」
短く告げると、イザヤは頷いた。
グエンはやりかけの書類仕事に注意を戻し、内容に目を通しながら筆で署名を入れていく。
イザヤに促され、部屋に入ってきた者を、グエンは上目遣いに覗った。
灰色の髪、目立つ黒い眼帯、やたらに鋭い眼が、部屋のあちこちを観察するように動いていた。
その姿には覚えがあった。
シュオウという名のこの若者は、ムラクモにおいて存在する四つの希少輝石の持ち主が集まる四石会議の場で、その一翼を担うアデュレリア公爵の計らいにより、直接言葉を交わした相手である。
筆を置き、グエンは顔をあげた。前に立つシュオウをじっと睨めつける。
若さと生気に満ちあふれた瞳は曇りなく力強い。以前に対したとき、この目にここまでの力は感じなかった。
一時の成功に酔い、根のない自信を得た者にある見苦しい傲慢さなどではない。この若者が漂わせている雰囲気は、もっと歴然とした風格だった。
「名乗りなさい」
呆然と佇むシュオウを、イザヤが促した。
「シュオウ、です」
言われた通り、本当にただ名乗っただけのシュオウに、イザヤのきつい言葉がさらに浴びせられた。
「所属と階級を」
シュオウは言われ、たどたどしく言葉を選ぶ。
「第一軍所属、従曹、シュオウです」
グエンは一つ頷き、語りかけた。
「出頭命令をだしてから時がすぎている。渦視に派遣した調査官からの報告のほうが早く届いたほどだ。なにをしていた」
「宿場町をめぐりながら、戻りました」
少しも悪びれた様子なくシュオウは言ってのけた。側に控えるイザヤが呆れた様子で彼を見つめていた。
空気を察してか、シュオウは若干眉根を下げた。
「遅かった、ですか」
「命令は即時実行を基本とする、次はないとおもえ」
「はい」
言って頷くシュオウの雰囲気は、どうにも垢抜けない。洗練されていない、というのではなく、軍人としてのあり方としてあまりにぎこちないのだ。
王国軍最高司令官たるグエンに対し、こうも平常心に接することができる胆力。不遜ともいえるそれを、グエンは、しかし不快だとは思わなかった。
「渦視での顛末については大方報告を受けている。狂鬼の襲来、それに乗じて虜囚を解放し、事態を察知したシャノアの精兵を制圧。惑乱に陥った城塞で司令官を捕縛し、残された狂鬼を単身で討伐。後、拠点を支配下においた──」
これらすべてが、一夜のうちに起こった事だ。
グエンは数枚の紙束をつかみ、シュオウに向けて風を扇いだ。
「──この報告書は私のところへ直接あげられた。現地へ赴いた調査官が、当事者達から集めた情報をまとめたものだが、これを他の者が見れば、そのほとんどが一笑に付すだろう」
報告書には、一軍を用いても容易に成せない事が、たった一人の人間の手によって完遂されたのだと淡々と綴られている。子供向けに書かれた英雄譚ですら、幾分かましな説得力を発揮しているだろう。
渦視制圧の報は、宮中を雷鳴の如く駆け巡ったが、その詳細を知る者はまだ少ない。
グエンは紙束を放り、淡々と屹立するシュオウに聞いた。
「付け加えることはあるか」
「ありません」
グエンはアゴに手をやりつつ、ひとつ咳払いをした。
「腑に落ちんのだ」
独り言のように呟くと、シュオウが喉を鳴らした。
「なにが、ですか」
「事の始まりについて、とくに狂鬼の襲来はあまりに──」
煮え切らぬ疑問点をあげつらおうとして、グエンは口をつぐむ。奇跡の式を求めたところで、この一時に答えは得られまい。
無駄なことだ、と心中にごちる。
「──いや、いい」
困惑した様子でシュオウはかみ合わせるアゴに力を込めた。
この若者がすべてを明かしていないのは間違いない。来歴を探らせてはみたが、アデュレリアが下手な工作を仕掛けていたおかげで、詳細は靄《もや》がかったままだった。
シュオウという人間は、狂鬼を相手に生身で立ち回るだけの術を持つ。そして名をあげた歴戦の勇士を圧倒するだけの技があり、優れた武人としての資質を持ち合わせている。それだけわかっていれば、いまは十分だし、グエンが個人に対していだく好奇心としては、すでに最高点に達している。
グエンは小さな木箱を取りだし、それをシュオウに放り投げた。
「これは?」
「四珠青雲翼章──渦視制圧の功にたいし、報奨としてあたえる」
シュオウは木箱を開き、白紙につつまれていた勲章を取りだした。青い玉《ぎょく》がはめこまれた翼蛇を象ったそれは、ムラクモ王国でもとくに功績を残した者に与えられる最高位のものだ。
勲章を見て、傍らに佇むイザヤが驚きに目を見開いた。
四珠青雲翼章は一軍の将であろうと、おいそれとは受章できる代物ではない。記録にあるかぎりでも、貴族階級にないものがこれを受け取るのは前例のないことだ。
価値を知ってか知らずか、シュオウはそれを胸のうちにしまい込んで、どうも、とぶっきらぼうに言った。
グエンはイザヤに目配せした。頷いたイザヤは胸を張って声をあげる。
「第一軍所属シュオウに告げる。オウド配属の任を解き、一時的に王都第一軍本部の配属とする。次の沙汰があるまで待機せよ」
聞くや、シュオウは肩を怒らせた。
「オウドに──もうあそこに戻れないんですかッ」
意外に感じ、グエンは聞いた。
「不満か」
シュオウは歯を食いしばり、強い眼で頷いた。
かの地は東地に生きる人間にとっては辺境に等しい。多くの軍属にとって忌避すべき任務地にあって、そこを出ることを拒む者もめずらしいだろう。
「拒むことは許さん。これが貴様の立つ世界だ。不服を申し立てるなら、越権行為とみなし処分の対象とする」
しばしの睨み合いの後、シュオウは鼻から大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「……わかりました」
グエンはシュオウから視線をはずし、椅子に背をもたれかけた。
「オウドでの一件について、私は貴様を高く評価している。極小の負担によって拠点を一つ得たのだからな」
サンゴ国、国境を守護する要衝、渦視は長らく国庫を小針で突いていた難事だった。
過去、ムラクモがサンゴからの侵略を受けた折、反撃の勢いにまかせて敵国領土の先端を占領したがために、国土奪還という正義を得たサンゴは渦視を拠点として侵攻を繰り返した。
当然、南伐を主張する者は後を絶たなかったが、グエンはその主張を黙殺し続けてきた。
ムラクモには余力がある。それは誰もが知るところで、東地を統べるこの大国は、北方を警戒しつつ、国家間の繋がりが曖昧な南方に攻め込むだけの武力、兵糧、資金、人材には事欠かないのだ。
領土を広げ、国力をさらに高めることは、本来政を預かる者としてはそれこそを望むべきである。しかしグエンはムラクモという国家がこれ以上肥え太ることを、この世界にいるだれより望んでいなかった。
「渦視は、これからどうなりますか」
「時を見て、返還することになるだろう──」
問うたシュオウは答えを聞いて、目の色をおとして控えめに不満を表明した。
本来、南方諸国との外交的な均衡を崩す渦視制圧の一報はグエンの望むところではなかった。少数の人間が暴走したあげく、敵地一つを押さえてしまうなどという行為は、後先を考えない暴挙である。が、とある一人の人物の存在が状況をすべて一変させてしまったのだ。
グエンは言葉を繋ぐ。
「──しかし、すぐにではない。賠償金を接収したのち、公式に不可侵の約定を結ばせる。これだけこちらに有利な条件を望む事が出来る目処が立ったのは、すべてあのア・シャラという娘によるところ」
名を出した娘と顔見知りであろうシュオウは、声をもらした。
「あいつが……?」
「ア・シャラ姫はサンゴ国王にとっては代えのきかぬ人間であったようだ。これまで強い字面が並んでいた王の書簡が、詫びの言葉で埋め尽くされていた。ありていにいえば、貴様に与えた報奨は、すべてア・シャラ姫を穏便に捕縛した功績によるところ。あの娘には万金に換えがたい価値があった」
圧倒的に有利な条件での講和を結ぶとなれば、南伐を主張する者達を黙らせる恰好のネタになる。警戒すべきは諸侯のなかでもとくに好戦的な一派であるアデュレリア一族だが、先のサーサリア王女遭難事件の責により、餓狼は口を閉ざし、よだれを零さぬよう自制に努めている。
あらゆる状況において最善の結果。それを名もなき末端のいち軍人がもたらしたのだ。無自覚なものであっても、その功績こそは、まさしく最高位の勲章に値する。
「あの娘はこれからどうなりますか」
それは年若いサンゴの姫を案ずる言葉だった。
「かの者は協力的だと聞いている、ゆえに過度の拘束はせず、王侯の礼を持って遇する。本人はこの機会に王都での遊学を望んでいるようだ。私はこれを是認するつもりでいる」
シュオウはあからさまにほっとして表情を緩めた。が、思い出したように即座に不機嫌そうに顔を歪める。
シュオウは物言いたげに口を開いた。
「あの──」
おおかた、言いそうな言葉にあたりのつくグエンは、それを即座に遮った。
「図に乗るな。口頭により、ここまでの説明を聞かせたのは私なりに武功を上げた者を労ってのこと。話は終わりだ、ゆけ」
手で払うと、シュオウは軽く一礼して部屋の戸に手をかけた。その背を、しかしグエンは思わず呼び止めていた。
「まて……」
シュオウは動きを止める。が振り返ることなく、戸に手をかけたままだ。
「……飯は、うまいか」
シュオウはアゴを引き、
「少し前までは」
と憮然として返事を寄越した。
廊下までシュオウを見送り、戻ってきたイザヤは扉を閉めると、行きました、と報告した。彼女がめずらしく疲れた様子を見せていたことを疑問に思い、グエンは聞いた。
「どうした」
「おかしな話ですが、気圧されました。とてもその……怒っていたので」
階級に照らしてみれば、遙かな高みにいるイザヤが、いち従士に気を遣っていたのだという。
「なにが気にくわんのか」
「異動に不満を持つ事はめずらしい話ではないのでしょうが……ところで、あの者の処遇はいかように」
グエンは筋骨たくましい腕を組み合わせた。
「わからん、以前にその処遇を案じたときには軍から去ることを望んだが……」
初めてその存在を話に聞いた時から、並の者ではないとわかっていた。が、ムラクモ──ないしはグエンにとって、降って湧いたように現れた傑出した人材など不要なのだ。すくなくとも、グエンはそう信じていた。
サーサリア王女を害するため、はなった虫をシュオウが退けたときも、その存在を疎ましいと思わなかったわけではない。
だがことここにいたり、渦視という喉にささった小骨を、結果的にシュオウが取り除いた事により、手放すことを惜しいとも思う心が、僅かに芽吹きはじめているのも事実だ。
能ある者に執心する癖のある氷長石たるアデュレリアの長が、これを熱心に求めるのも、無理からぬことであろう。
「妥当な配置先がないのであれば、休息をあたえては」
「ただ飯を食わせてやるつもりはない、本人が軍属であることを望み、国庫から給金を受けている以上、臨時にでもなにかしらの役は与える」
シュオウに対し、与えることのできる仕事の候補は、推薦という形ですでにあがっていた。出所の一つは王室から、もう一つはアデュレリアからだ。
名のある大貴族の長が直々に送ってきた内容は、シュオウをアデュレリアの旗下である左硬軍の所属に、と直接的に求める内容である。考えるまでもなく、これは却下だ。
ムラクモに存在する左右両軍は、それぞれアデュレリアとサーペンティアという二大公爵家が保有している固有の軍隊である。その在り方を王権から独立したものとして保有することを許す代わりに、膨大な資金を必要とする軍の維持費を、それぞれの家で賄わせている。
国内の軍事力を王の支配下から分離させたのは、グエンの計略による結果ではあったが、今となっては、謀叛の可能性を無視できないほど、両軍の力は増していた。
グエンがアデュレリア公爵の人事に関する要求を有無を言わさず拒絶するのは、軍としての序列を主張するためである。たとえひと一人の身柄であっても、唯々諾々と要求を飲めば、それを甘さと見る者は、影に隠れて家を食らうシロアリのように、見えずとも必ず現れるからだ。
もう一方の王室の名の下に出された一通の書簡には二枚の嘆願書が入っていた。手前に入れられていたものには件の若者を親衛隊所属にと望んいる。見た瞬間に破り捨ててしまいたい衝動にかられたが、これを出した相手──親衛隊長シシジシ・アマイ──はそれを見越してか、妥協案ともいえる第二案も差し込んでいた。それこそが二通目の提案である。
──珍妙なことをいう。
親衛隊は王族の影である。立場上彼らの権限がグエンのそれを上回るものではないにしても、表向き、その要求をすべてはね除けるのにも限界はある。不用意に不信をふりまくことはせず、振りであっても、ほどよく要請にこたえなくてはならない。
グエンは王室からの第二案をイザヤに渡した。
イザヤは真意をたしかめるように、受け取った紙とグエンを交互に見る。
「本気でしょうか? 現地からの抗議が容易に想像できるのですが……」
グエンは頷いた。
「推薦状には老師の裏書きがそえてある。仕込みがすまされているということだ」
イザヤは、はっとして眉をあげた。
「正式な配属命令を手配しろ」
命令を受けたイザヤは、敬礼をして部屋を出た。
一人になったグエンは、前日に届いていたオウド司令官アル・バーデン准将からの書簡の封を開けた。礼法通りの文面が綴られた後、シュオウという名が書かれているのを見て、眉をひそめて書簡を放り投げた。
アデュレリアは有能な人材として、親衛隊は王女救出の功に報いるためか。アル・バーデンにしても似たような理由からだろう。
多方から伸びる糸が、一人の平民である若者に我先にと絡みつこうとしていた。
卓上に並ぶ書簡の中から、グエンはまた一つを手に取った。翼蛇の紋様が刻まれた銀筒の中に丸めて入っていた書簡には、長期の視察に赴いていたサーサリア王女が帰途についたという報告が短く綴られている。
グエンは手の内にある、その一通の書簡を、ゆっくりと強く握りつぶした。
*
水晶宮と市街地を繋ぐ溜息橋の途中に待たせていたシガは、地べたにしゃがんで通行人達を鋭く睨みつけていた。
王宮へ物資を運び入れている通行人達は怯えたように目を逸らし、足早にシガの前を通過していく。その様は、まるで繋がれた猛獣のようだった。
「ひとを脅すな」
シュオウが注意すると、シガは緩慢な動作で腰をあげた。
「してねえよ、こういう顔なんだ」
シュオウは首を振ってシガを促し、水晶宮を背にして歩き出した。
「で、どうなった、またあそこに戻るのか」
シガは、シュオウの任地であったオウドへ戻るのかと聞いた。
シュオウは奥歯を食いしばって首を振った。
「その必要はないといわれた」
「じゃあなんだ、こんなナマったるいとこで働くのかよ」
「次の配属先はわからない、連絡があるまでは待機だそうだ。それまで王都で寝泊まりする」
シガは歩きながらぐるぐると長い腕をふり、肩をまわしはじめた。
「ここは都なんだろ、こんどはましな寝床を用意しろよ。どこもかしも寝台が狭すぎて体が痛くなる。あとな、そろそろ金を寄越せ、ここなら良い馬が手に入りそうだし、途中に見かけた店に、うまそうな濁り酒を売ってたんだよ」
図々しい要求に、シュオウは目に角を立てた。
「宿をとる金なんてもうないし、払う給金もない。お前の食費のせいで財布もすかすかだ」
シュオウは自分自身を金のかからない人間であると自負している。露宿も厭わず、食べ物に好き嫌いもなく、それが清潔かどうかすら問題ではない。一人きりの旅路であればほとんど出費なく王都まで辿り着くことができていただろうが、おおざっぱで豪放に思えたシガは何かと要求が多く、好みもうるさくて、とにかく金がかかる。
「おい、話が違うじゃねえか、雇うっていうからこんな東方くんだりまで付き合ってやったってのによ」
シガの身元、扱いに関してはオウド司令官たるアル・バーデンが引き受けている。シュオウの願いを快諾してくれた結果だが、自身の自由がそうした努力によってまかなわれているのだという自覚が微塵もない様子のシガに対し、シュオウは辟易として声を荒げた。
「約束したことだ、絶対に払う。落ち着いたらアデュレリアに預けてる金を送ってもらうように頼むから、少し待ってろ」
シガは物言いたげに眉を持ち上げ、アゴを伸ばす。
「おい、俺はバカじゃねえ、アデュレリアの名くらい知ってるぞ、そりゃ東方でも名のある豪族だろうが。そんなの相手に、お前みたいのが金を無心できるわけがねえ。くだらねえ嘘でやりすごそうとしてるなら、俺も黙ってねえぞ」
鼻の穴を広げるシガの鋭利な視線をまっこうから受け止め、シュオウは声を張る。
「嘘じゃない、ごまかしてもいない」
しばらくにらみ合っていると、シガは鼻からふんと息を吹いた。
「わかったよ、もう少し待ってやる。でも野宿はいやだ!」
シュオウは気が抜けたように肩をおとす。
「あてはある」
シュオウは懐から一通の手紙を取り出した。よく知る友の名が、差出人として記されていた。
目的の場所まで向かうため、シュオウはシガを連れ立って王都を貫く街路を歩いた。
通行人達の無遠慮な視線が突き刺さることには、シュオウはすでに慣れっこだったが、シガはそうではないらしくやたらに機嫌が悪い。
「胸くそ悪りい街だ」
「……故郷なんだ、悪く言うな」
シガは眉を上げた。
「そういや、そんなこと言ってたな。まあ、お前が見た目通りの北の人間なら、着いてきちゃいねえけどな」
シュオウは歩きながら、横目でシガを見た。
「北の人間がそんなに嫌か」
シガは鼻息を荒くする。
「ああ、嫌いだッ。あの白頭共は、リシアとかいう女の神を信仰してるんだ、女だぞ?!」
同意を求めるような物言いだが、シュオウは宗教的な思想を持たない。故に、シガが言わんとしていることが理解できなかった。
「わるいことか?」
「はッ、悪いとかそんな程度の話じゃすまねえよ。神ってのはな、もっと特別なもんなんだ。男とか女とか、そんなもんすらない、ク・オウの説く鬼神こそ、この世の頂点に在るものなんだよ」
「鬼神……か」
南方に住まう褐色肌をした人々は、クオウ教という宗教の元、鬼神を信仰している。オウドにあった寺院や、道ばたにもその痕跡は多く残されていた。
宗教を持たぬ東地において、鬼はお伽噺に登場する幻想の存在として知られている。シュオウも、これまで目を通してきた書物のなかに、幾度かそれを記したものを見てきた。
書物に書かれる鬼は、一本から二本の角を頭に生やし、猿や人、その他の獣の要素が入り交じった壮絶な容姿で描かれているが、それはオウドにあった石像などにも似通っていたため、東と南で、鬼という存在への姿形の認識にたいした違いはないようだった。
鬼は理性を持たず、並外れた膂力《りょりょく》を有し、目に映るものを見境なしに襲い殺すという。深界に蠢く狂鬼らの名付け元となっているだけあって、その凶暴性こそが存在たらしめているのに、南方人はそれを神として崇めているのだ。
「だいたい、北の連中は人間を作ったのは例の女の神で、輝石を与えたのもその女だとかぬかしやがる。それがきにくわねえ。命ってのはな、与えられるもんじゃねえ、勝ち取るもんだ。強者は雑魚を食らい、命を繋いで高みを目指す! 誰かから与えられるものなんて一つもないんだよ」
饒舌なシガに、シュオウは疑問をぶつけた。
「なら、鬼神はなんのためにいる?」
「生死を賭けるこの世界に俺たちを放り込んだのが鬼神だ。生殺を競わせて、一番に高みに達する生き物を待ってんだよ」
「その高みに達したら、どうなる」
シガは豪快に笑った。
「知るかよ、今がそれを競ってる真っ最中なんだ」
「リシアの神は創造主として、お前の言っている鬼神は……裁定者みたいなものか。なにかを信仰する気持ちはわからないけど、俺が考える神という存在への印象としては、リシアのほうが、よりそれらしい気がするな」
シュオウが想像する神という存在は、一種の超越者である。命を生み出したというリシアの神はそれに当てはまるが、箱のなかに生物を放り込んでただ競わせているだけの鬼神に、神としての風格があるかといわれれば、首を横に振らざるをえない。
シガは強面を怒らせた。
「神を持たないここらの連中はクソ馬鹿野郎共だがな、真逆を指さしてそれを信じるやつらとは、なにをしたって理解はできねえ。それなら神を持たない東方の蛮族共とのほうが、少しはましな付き合いができるってもんだ。でもな、冗談でも俺の前で北の糞女のほうがましだなんてヌかすんじゃねえぞ」
揺るぎないシガの視線を受けて、シュオウは視線を流した。
「わかった、この話はもうやめよう。たぶん、ろくなことにならない」
神を論じるにはあまりに無知であるシュオウには、何かを強く信じる者の目は、ぎらついた真昼の太陽のように、直視に堪えないもののように思えた。
街の中心部にある広場を囲む一角に、目的の店はあった。〈蜘蛛の巣〉という看板を掲げるそこは、かつて共に深界を旅した仲間であるクモカリがひらいた店である。以前に受け取った手紙には、王都へ立ち寄ったときには絶対に顔を出すように、店の住所と共に強く書かれていた。
シュオウにとって、どこか気兼ねなく甘えることができる数少ない友人であるクモカリの店の前に立ち、戸を開くと、中から賑やかなやりとりと、食器が重なり合う音がして、香ばしい茶の香りと、甘い料理の香りまで漂ってきた。
店の戸を開けてすぐ、シュオウはそこにあるものを見て固まった。
「これ……」
それはぼんやりと見覚えのある醜い像だった。金箔で覆われた、小さな鬼を象ったそれは、かつて貴族の娘であるアイセが、シュオウに渡そうと試みた品のない偶像である。
「おいこれ、ベリキン様じゃねえかッ。どうやら、この店は同胞が経営してるみたいだな──」
勝手に想像をふくらませたシガは、弾む声で気が利くなと言い残し、シュオウが止めるのも聞かず、一人で店の奥へ入っていってしまった。
直後、シガの悲鳴があがった。
開けたままの戸を閉めて、シュオウもシガの後を追った。奥から聞き慣れた声が聞こえてくる。
「ちょっとぉ、一目見るなり悲鳴あげるなんてあんまりよ」
シュオウは声の主を見るまでもなく、和やかに頬を緩めていた。
*
「それで、拾っちゃったってわけね、この歩く胃袋を」
店の軽食をあらかた食い尽くしたシガを例えてクモカリが言った言葉を、シュオウはこれ以上なく的確だと思った。
夜を迎え、閉じた店内を鈍く照らすランプの明かりは、シガの積み上げた皿に大きな影を落としている。
「わるい、この分は後でかならず払う」
カウンターを挟んで、クモカリは大きな手を振った。
「命の恩人からお金をせびるつもりなんてないわよ」
クモカリは言うが、しかしシュオウはその言葉を鵜呑みにできるような気分ではなかった。これが一人前や二人前なら甘えていたかもしれないが、シガは店の二日分の食材をすべて腹に収めたのだ。
「ありがとう、少しの間だけ貸しておいてくれ」
「本当に気にしないで、ただ明日の早朝から仕入れに付き合ってもらうかもしれないけどね。でも相変わらずみたいね、あなたも」
顔を合わせ、笑い合う。
見知った者同士の間に流れる、あたたかな空気は、ほどよい距離感と共に友という存在を強く実感させた。
「それで、どうするの、この胃袋くん」
クモカリは熟睡するシガをつんつんと指さした。
「どうしよう」
聞き返したシュオウを、クモカリは笑った。
「拾ったのはあなたでしょ」
「戦いの場では魅力的に思えたんだ、けど──」
「平和な世界に戻ったら、その魅力も薄れちゃったのね」
シュオウは鷹揚に頷いた。
「見てきたことも、考え方も違うんだ。話も合わないし、時々こいつが喋るクマかなにかに見える」
クモカリは苦笑いして、シガを見た。
「あんまり言うもんじゃないわよ、こんなでもいちおう貴族様なんでしょ」
シガの左手にある色のついた輝石をこつんと指ではじき、シュオウは深く息を吐いた。
「言葉使いは荒いし、貴族って顔じゃないけどな」
「あら、背格好のせいでそう見えないかもしれないけど、この人、顔立ちは端正で上品よ」
「上品……か?」
つっぷしたまま、ヨダレで水たまりをつくるシガを見ていると、クモカリのいう事に同意するのは難しい。
「ついこのあいだまで、酔っ払いにからまれてたあなたが、浅黒い肌の貴族をお供に連れているんだものね…………お隣の国で一暴れして、アデュレリアでお姫様を助けて、戦場でお城を一つ手に入れて、あの吸血公グエンから直接勲章をいただいて、か……ねえシュオウ、あなたほんとに人間?」
クモカリは指を一つずつ折ながら、近況を告げた内容を復唱しつつ、ちゃかすように笑った。
シュオウは戯けて肩をすくませた。
「見ての通りだ──でも悪かったな、一度くらいまともに顔を出しておきたかったんだけど」
クモカリは女らしい仕草で手を泳がせる。
「それだけ濃密な時間をすごしていたってことなのよ」
「他には、誰か来たのか」
「あのおバカ娘達は何度か顔をだしてるわよ、おかげで貴族御用達の店なんて評判がたっちゃったけど」
シュオウはくすりと笑った。アイセとシトリという対照的な性格をした二人の娘達も、あの時の旅の縁を継続しているようだ。
「ジロは?」
「あのカエルは旅人だもの、あれっきり行方なんてわからないわ。おっさんにも一応知らせを出そうかとおもったんだけど、連絡のとりようがなくってね。でも、あなたは会ったんでしょ?」
シュオウは頷いた。
「ああ、オウドの配属になってから、すごく助けてもらった」
クモカリは、のたくった蛇のように眉をくねらせた。
「あの飲んだっクレが?」
シュオウは首肯し、
「うん、でも、また酒を浴びせられた」
言いながら髪を撫でると、クモカリは吹き出して笑った。
「あの二人は──アイセとシトリは元気か?」
「そりゃもうね。顔を見せたかと思えば喧嘩ばっかりしてるわよ、仲が良いんだかわるいんだか」
「まるで性格が違っていたからな」
「それだけが原因とは思えないけれど」
クモカリの言葉が、なにやら意味深な響きに聞こえた。
「他になにかあるのか」
クモカリは視線を高く泳がせて、首を傾げつつシュオウに視線を戻した。
「人が争うときってどんなとき?」
要領を得ない話に、シュオウは首を傾げた。争いという単語から、シュオウは自身が経験した、領土争いに端を発するオウドでの戦を思い浮かべていた。
「──なにかを、取り合うときとか」
クモカリは満足そうに頷いてみせる。
「そうそう。とくに、その取り合うモノが一つしかないときは尋常ではすまないのよ」
「そう、だろうな──なにが言いたい」
「いいの、暇人の戯れ言と思って流してちょうだい」
終始首を傾けっぱなしだったシュオウは、なんとなく了解したことを告げて、それ以上追求はしなかった。
「ところで、今夜は泊まるところがあるの?」
「それが……」
シュオウは言葉を濁し、後ろ頭をかいた。
「ちょっとなによ、水くさい。決まってないならそう言って。店の奥に休憩室があるから、そこでよければいくらでも使ってちょうだい」
「ありがとう、ほんとうに助かる」
「でも、あなたもいまや立派な従士さんでしょ。軍もケチよね、寝場所の用意もしてくれないなんて」
「宿舎を用意するって、申し出はくれたんだ。でも断った」
「あら、どうして?」
シュオウは親指を立ててシガを指し、
「部外者も連れてるし、それに──」
視線を泳がし、シュオウは鼻の頭をかく。そんな様子を見て、察しの良いクモカリは満面の笑みを浮かべた。
「それって、あたしに甘えたいって、そう思ってくれたってことよね」
クモカリから視線をはずし、照れくささを必死に隠すシュオウは無言の肯定を返した。
「ね、今夜は飲みましょうよ、もっともっと話を聞きたいわ」
弾む友の声は、しんと静まりかえった店内に、華やかな彩りの炎を灯した。
*
日常について考える。
それは平穏であり、変わらぬ日々である。
だとすれば、シュオウが過ごしてきたここ数日の時は、まさしく日常と呼べるものだった。
命を案ずる事なく目を覚まし、調理されたものを食べて、単調な仕事に従事する。
血生臭い城塞での一時が嘘のような、穏やかで平坦な時を過ごし、心と体は無慈悲なまでに過酷であった日々を置き去りにして、今ある日常に身を浸していた。
湿った朝靄のなか、シュオウは高くそびえた大きな門の前に立っていた。
クモカリの元で数日を過ごした後、第一軍より発せられた命令書を受け取ったシュオウは、受領して早々に新たな配属先を目指し、眠りこけるシガを置いたまま、一人そこに辿り着いていた。
手に持った地図を見直して、所在地をあらためて確認する。
門の傍らに立つ古びた石柱には〈宝玉院〉という文字が彫り込まれていた。
薄白い靄の中、一人の少女がそこに佇んでいた。
見覚えのある水色の制服を纏う少女は、シュオウと目を合わせると深々と一礼する。顔をあげたその姿を見ても、シュオウは彼女が誰であるか、はっきりと思い出せずにいた。
格子の門を差し挟み、戸惑うシュオウを察して、少女は自分から口を開く。
「ユウヒナ・アデュレリアです。私を覚えていますか。命を、救っていただきました」
言って、もう一度礼の姿勢をとった少女の名を聞き、シュオウは思わず声を漏らしていた。
手の甲に深い紫の輝石を光らせる少女が背負う古めかしい建造物は、まるで辺境にある遺跡のような雰囲気を醸している。
少女の両脇に、武装した険しい顔つきの守衛が立ち、見定めるような視線でシュオウを睨めつけていた。
眼前にある光景を見て直感した。
この門を挟んで、日常は非日常へと変わるのだと。