XII 英雄の仕事
夜の静けさに夢を見る深界の拠点を、突如鳴り響いた轟音が叩き起こした。
夢現の世界を漂っていたア・ザンは、はね起きて反射的に裏返った声をあげた。
「な、なんだぁ!?」
部屋の中は減光処理をされた夜光石の灯篭が放つ淡い青の色に照らされるのみ。おそらく今はまだ深夜のただ中であろう。
ア・ザンは寝間着のまま、部屋履きに足をつっこんで扉の外に向けて怒鳴った。
「なにがあった!」
見張りに立つ従者の報告よりもはやく、外から早打ちされる警鐘が鳴り響く。
「む、ムクラモの夜襲か?!」
血相を変えた従者が飛び込みざまに叫んだ。
「き、きッ──狂鬼です!! 突然現れた狂鬼が、城壁を突破して敷地内に入り込みました!」
ア・ザンはその一報を聞くや、顔の中心に渦でも生じたかのように顔を歪めた。
古来より、狂鬼という括りによって総称される化け物達が、人の造った白道という安全圏に侵入したという話は、それほどめずらしいものでもない。だが、狂鬼はその習性として、高純度の夜光石を嫌うため、頻繁に起こりうる事、というわけでもなかった。深界に根を下ろし、拠点を設けてそこで住まう人々にとって、極まれにおこりうる狂鬼の襲来は、一種の天変地異に似た事象として畏怖の対象となっていた。
「ええい! ならばさっさと常駐の警備兵を集めて退治してしまえ!」
「あの、ですが……」
従者の顔は青ざめている。それがなにより、言葉一つでこの事態を打開する事が難しい事を語っていた。
「で、でかいのか……?」
額に脂汗を浮かべる従者は小さく二度頷いた。
「最悪の場合、渦視放棄のご検討も必要になるかと……」
固唾をどうにか飲み下し、ア・ザンは目を泳がせた。
先の小戦での勝ちにわき、義父である王が、近日中に慰問に訪れるという報告があったばかりの今、この渦視を失うという事になれば、娘婿の勝ちを祝おうと腰を上げた王の顔に恥辱の泥を塗りたくる事になる。宮中で暇を持てあました者達が、慣れない勝利に浮かれて城を一つ失った成り上がり者として、多彩な言葉を労して詩歌のごとく艶やかに、自分を笑いものにする声が、今すぐにでも聞こえてきそうだった。
屈辱を想像し、歯ぎしりがおさまらなかった。
「総帥閣下、ご命令を!」
急かす声に、ア・ザンは怒鳴った。
「だ、だまれ! とにかく、撤退はありえんのだ」
「であれば、ただちに後陣に援軍の要請を!」
前回、戦の前に多方からかきあつめた人員は、拠点の台所事情によりすでにほとんどが返されている。現状、渦視にある兵力は平常時に城を守るのに必要とされる最低限の人員しかいない。たとえ、ムラクモ領であるオウドが全軍を寄せてきたとしてもはね除けるのに十分な人員は確保されているが、現状のような事態は、まるで想定外の出来事だ。
本来、一秒を争って伝令の早馬を出す状況。だが、ア・ザンの思慮のほとんどは、合理を捨てた保身への道筋を欲して動いていた。
「だめだだめだ! この件は内々に納めなければ……どのみち外からの助けなど間に合うものか。どれだけの犠牲を払おうと、侵入した狂鬼を現有の兵力で始末するッ。寝台を温めている将兵らもたたき起こして討伐に向かわせろ! 階級、生まれ、役職を問わずすべての者を働かせるのだ!」
「閣下の身辺警護にまわす人員の確保だけは──」
「そんなもの最低限でかまわん! 入り込んだネズミを駆除さえすればよいのだ。この部屋を本陣として指示をだすぞ。まずは着替えを──」
途中でぴたりと言葉を止めたア・ザンの脳裏に、あのシャノアの老将のしかめっ面が浮かんだ。
「──そうだ、バ・リョウキに協力させろ! シャノアが寄越した星君は少数だがまごうことなき精鋭揃い、うまく使えば退治に役立つぞ。あの老いぼれは私に借りがあるはずだ、断りはすまい、いそげぇ!」
「は、はいッ!」
*
轟いた異音を耳にしたバ・リョウキとリビは、一切の迷いなく跳ね起きていた。
「聞いたな」
寝起きに問うたバ・リョウキに、寝癖に髪を跳ね上げたリビは即答した。
「はいッ」
うっすらともっていた夜光石の灯りに布をかぶせて覆い隠す。はいた靴の紐をしめ、シャノアの伝統的な軽鎧をまとい、剣を身につける。黙々と整えた戦支度を終えると、薄暗い部屋の中でリビが沈黙をやぶった。
「夜襲でしょうか」
「さて──」
警鐘が鳴った。その音は激しく早い間隔で絶え間なく続いている。
「──ただ事でないのは間違いない」
慌ただしく踏みならす足音が、外の廊下から聞こえてくる。足音の主は、勢いそのままにバ・リョウキの泊まる部屋の戸を開け放った。
「無礼だぞ!」
リビは叱責の怒鳴りをあげた。
激しく息を切らせて入ってきた男には見覚えがあった。ア・ザンの身辺に使える従者の一人だ。
「も、申し訳ありません!」
慌てて平伏し、激しく呼吸を乱した様子の従者に、バ・リョウキは落ち着きを促すため、ゆっくりと咳払いをした。
「なにがあった」
「は、はいッ、狂鬼! 狂鬼です! 虫が拠点内に入り込みました」
バ・リョウキは眉をひそめた。
「狂鬼、だと」
ア・ザンの従者の唾を飲み下しながら深く頷いた。
「総帥はシャノアの助力を願っております! なにとぞ、討伐にバ・リョウキ様のお力をお貸しくださいッ」
一瞬視線をおとしたバ・リョウキの横顔を、リビがじっと見つめていた。
「……当然のことだ。同盟の危機、このバ・リョウキが陣頭に立ち、ご助勢つかまつる、とア・ザン殿にお伝え願おう」
「あ、ありがとうございます! ありがとうございますッ、ただちに伝えてまいります」
飛び上がらんばかりに礼を言った従者は、その顔に偽りなく喜びと安堵の色を浮かべて、戸を開け放ったまま走り去っていった。
「叔父上ッ」
若いリビは、血気盛んにその目に戦士としての意気を宿している。
「よし、借りを返す機会が舞って訪れた。討伐に加わるぞ、覚悟はいいな」
「はい!」
リビは力強く手のひらと拳を叩き合わせた。
「まずはこの目で敵を知る必要がある」
頷いたリビと共に廊下から通じる小さな露台に出たバ・リョウキの目に飛び込んできたのは、広い中庭で咆哮をあげながら歩き回る大きな虫の姿だった。蛇腹形をした黒くて大きな甲羅を背負い、そこから伸びた長い多足と、鋭く重そうな鎌状の両手を持ち上げて、槍を持って足下に群がるサンゴの兵達を根こそぎに蹂躙している。
「あれの相手をするのです、か……」
思いの外大きく膂力に優れ、そして機敏に暴れ回る虫の姿を見て、リビは若干怖じ気づいたように顔の色を低くした。
「……厄介だな────ん?」
眼下に見る光景に、ふと違和感を覚えた。暗がりのなかにあって、ひときわ目立つ銀色の頭をした男が、中庭の隅を駆け抜けていく。バ・リョウキは思わず、口の中いっぱいに沸いた生唾を飲み込んだ。
視線を追ったのか、リビもまたその人物に気づいて声を漏らす。
「あの男?!」
バ・リョウキは渇いた唇を濡らし、笑みを浮かべた。
「騒ぎに乗じて戻ったのか。目的はわからんが、並の者のとる行動ではないな。やはりこのバ・リョウキと差しで渡り合える者」
手に汗がにじんでいく。言葉に言い表せないほどの高揚感で、身体中の血がわき上がるこの感覚。まるで小僧が祭りを喜ぶような、純粋かつ幼稚なその思いが、老いた身に浸透していく。
──鬼神の導きか。
無意識に撫でた首筋の傷が、じん、と熱をもった。
「叔父上、まさか────今は人一人にかかずらっている時ではありませんッ、渦視の危機を助け、失った信用を取り戻す時です!」
知ったような甥の言葉が耳から入り、澄み渡った濁りのない想いに水を差した。
バ・リョウキは必死の形相でリビを睨みつけた。
「口が過ぎるぞッ。私は先に現場に向かう。お前は隊をまとめ、状況を理解させた後に早々に後に続け──」
「あッ!?」
背後から呼び止める甥の言葉も、右から左へ素通りさせ、バ・リョウキは全力で廊下を駆けた。
*
突如として現れた狂鬼の襲来により、屈強なる深界の城塞は惑乱状態に陥っていた。その根源を呼び寄せた張本人たるシュオウは、狂鬼が高い城壁に突撃したその瞬間に、崩れ落ちた瓦礫の間をぬうようにして、渦視への侵入を果たしていた。
激しく警鐘が鳴り響く中庭を、力を振り絞って駆け抜けた後、倒れ込むようにして兵舎の片隅に身を隠し、壁に背をもたれかけた。
長時間走り通した結果、疲れきった身体は浅い呼吸を繰り返し、体液がすべて外にこぼれてしまいそうなほどの吐き気に見舞われる。膝はがくがくとわらい、もう一度立ち上がれるのか、不安になるくらいだった。
うごめく無数の人間達の中にその身を投じ、狂鬼は本来の目的であったシュオウをすっかり見失い、目についたサンゴの兵士達を見境なく襲っている。
夜の深層につつまれた空を見上げ、考えていた以上に時間が経過していたことを知った。狂鬼を引きずりだすため、深界を駆け抜けてきたが、場所が場所だけに、そこはただまっすぐ進む事のできる世界ではない。あれこれと重なる危険を避けるための順路を選んでいるうち、時間と体力を思った以上に削ってしまっていた。
──あいつは。
湯気がのぼる頭を動かすが、共にここまで走り通しだったア・シャラの姿がどこにもなかった。城壁に狂鬼を誘い込むその瞬間までは隣で肩を揺らしていた記憶があるが、その後のことは自分の面倒をみるだけで、あの少女にかまっている余裕などなかったのだ。彼女の無事を心配しつつも、シュオウはさっと目的を切り替えた。
震える足に鞭を打って向かった先は、敷地の片隅にある地下牢への入り口だった。四方から怒号、悲鳴があがるなか、牢の入り口を警備する二人の兵士は、所在なさげにふってわいたこの事態に戸惑っている様子だ。
機に乗じ、シュオウは地を這うように駆けた。二人の番兵は、暗がりから迫り来る敵意の塊に気づいている様子はない。あと十歩もなく間合いに入ろうかという時になって、一人がようやく察知して、間の抜けた叫声をあげた。
「んあ!?」
全力で詰め寄り、最初に気づいた番兵の頭を掴んで石壁に打ち付ける。その力が完全に抜けた事を知るや、シュオウは呆然として未だ対応しきれていないもう一人の腕を背にまわし、相手が差していた剣を背後から引き抜いて首筋に当てた。横目に見上げるサンゴ兵の眼は怯えに染まっている。
「鍵は?」
拘束したサンゴ兵の目線は近くにある掘っ立て小屋を差していた。
当てた剣を放し、相手が若干ほっとした顔色をしてみせたのは一瞬の事。シュオウは間髪おかずにその顔を強烈に壁に打ち付けた。頭から倒れ込んだ番兵は、その身を微動だにすることなく意識を失った。
地下牢には鼻を塞ぎたくなるような異臭が漂っていた。家畜小屋にも似たその臭いに顔を歪めつつ、皆が閉じ込められている部屋の前に立つと、ギラついた無数の眼が一斉にぎょろりと向き、どよめきが沸いた。
「シュオウ、か」
眼だけで相手を殺せそうなほど鋭い眼光を湛えたボルジが、暗がりからぬるりと顔を出した。
「全員無事か」
小さく言った声は反響する。どよめきは歓声へと変わった。大勢があげる声の圧力に、身が縮まる。あらためて冷静な眼で観察するに、牢部屋に詰め込まれたその人数の多さに、若干の不安もわいた。
「助けを呼んできてくれたのか」
痩せた顔を見せたサンジが、見たこともないほど柔らかな顔で笑みを浮かべ、そう聞いた。シュオウは首を振って否定した。
「いいや」
歓声は再び、どよめきへと回帰した。
「おい──」
ボルジに手招きされ、シュオウは鉄格子を挟んで顔を寄せた。
「──どういう状況だ」
「狂鬼をここに誘い入れた」
ボルジは一瞬驚きに目を見開いたが、すぐに破顔した。
「へッ、どおりで騒がしいと思ったぜ」
「騒ぎにのって皆でここから逃げようと考えていたけど、少し計算がはずれたな」
ボルジは唇を目線を上げてじっくりと頷く。
「数、か。たしかに全員を連れて逃げるにしちゃ多すぎる。歩くのもやっとの怪我人も少なくない」
牢部屋に幽閉されていたムラクモ兵の数は、中の下ほどの規模の酒場を埋め尽くしてまだ少し足りない程度。これだけの人数分の退路を、この状況で首尾よく用意する事は難儀だ。
考え込むシュオウに、ボルジはひとつ提案を述べた。
「とっちまうか」
「え?」
思わぬその言葉に、シュオウは顔をあげた。
「上の混乱っぷりは相当なんだろう。考えなしに外に出て追っ手に怯えるより、騒ぎにのってここの頭を押さえちまうのも一つの方法かもしれねえ。敷地内で人捜しが出来る程度の数もいる」
「頭、か」
加虐趣味に愉悦の表情を浮かべるア・ザンの顔を思い出しながら、シュオウは逡巡する。国境の要衝をまかされる高位の軍人であり、サンゴの姫であるア・シャラの父でもある。人質として捕らえ、自由を得るための手形として活用するには十分すぎるほどの価値があるはずだ。
「……それがいいかもしれない」
ボルジは首肯する。
「馬が得意なやつを集めてサク砦に向かわせたほうがいい。期待はできねえが、気まぐれに迎えくらいはだすかもしれないからな」
その提案も肯定したシュオウは、鍵を取り出してボルジに差し出した。
「今の状況と、これからの事を皆に」
ボルジは、しかし鍵を受け取らずに笑った。
「おいおい、もう誰も俺のことなんて見てねえよ」
促されて流した視線の先には、じっと不安そうに自分を見つめる男達がいた。彼らの思いを一身に受け止めつつ、シュオウは唇を濡らし、今の状況を伝えた。皆一様に信じられぬ、といった様子ではあったが、時折上から聞こえてくる激しい音と悲鳴が、一応の説得力となって働いたようだ。話が渦視の城主を押さえるという段になったとき、見知った老人、ジン爺がうわずった声をあげた。
「武器がねえぞ。丸腰で敵だらけの城を歩き回れっていうんじゃねえだろうな」
シュオウは瞬時に記憶をさらった。
「城の一階東棟、最南の部屋が小さな武器庫になっていた。まずはそこを目指そう」
それはシャラにねだってあちこちをうろついた時に仕入れていた情報だった。一応の納得は得られたのか、ジン爺は深く頷いて強い視線を寄越す。
異を唱える者がいないのを確認し、シュオウが鍵を差した時だった。ボルジが扉の前に立ち突然どすの効いた声で男達に声をかけた。
「ここから先、自分かわいさの勝手はゆるさねえぞ。頭はシュオウだ、こいつの指示通りにできない野郎はここに置いていく。不満があるやつは、いまここで名乗り出ろ」
不思議と、ボルジの視線は一カ所へと向いている気がした。しんと静まりかえるなか、彼は振り返って解錠を促した。
扉を開け放つと、久方ぶりに味わう自由な空気に、皆が顔をほころばせた。一人ずつ出てくる度に、シュオウの肩や腕に触れ、感謝の言葉を残していく。最後にのっそりと部屋の片隅から出てきた見覚えのある二人組、サブリとハリオの両者は、それぞれに複雑な表情を見せていた。サブリは少しやつれた顔に困ったような愛想笑いを浮かべ、ハリオは青アザを浮かべた顔を一瞬だけこちらに向け、無表情に視線を落として皆の後に続いて行った。
地上に広がる光景に、仮の自由を得たムラクモの男達は、口をぽかんとあけて釘付けになっていた。
長槍を手に、一団となって突きを繰り出すサンゴ兵達が、狂鬼の丸くて堅い甲羅にごろんと踏みつけにされ、一瞬でその命を散らしていく。その傍らで大きな武器を手に、馬上から虫の長い足を切りつけようと試みる星君兵は、巨大な鎌の一撃に薙ぎ払われ、吹き飛ばされた身体はもはや人としての原形をとどめていなかった。
城壁の矢狭間から放たれるひょろひょろとした弓矢も、堅い外皮に石粒ほどの傷もおわせることはできていない。火を用いて撃退しようと試みる者らもいたが、狂鬼は炎を恐れない。その効果は微塵もみられず、むしろ目立つ明かりを目印にして、まっさきに火を持つ人間達は虫の餌食となっていった。
はじめ、多く耳に触れていた怒号は、今となっては悲鳴のほうが勝っていた。戦場においてはたくましく敵兵を屠る男達も、甲高い声で助けを求めて泣き叫んでいる。望んでいた状況とはいえ、シュオウは一方的になぶり殺しのめにあっている彼らの悲鳴に唇を噛みしめた。
突如、狂鬼はけたたましく吠えた。両手の鎌を持ち上げて威嚇の構えをとる。中庭や城壁で武器を構える者達の視線は、この巨大な侵入者に釘付けとなっていた。
「いまだッ」
まとまった人数が広場を駆け抜けるには絶好の機会だった。シュオウは指標となるべく先行して駆けた。続け、とボルジが叫ぶ。篝火によって落ちる建物の影を踏むように進む一団の足は、期待していたほどの早さはない。けが人を両脇に抱えて走る者達もまた、少ない食料で狭い部屋に長時間押し込められていたせいで、体力を大幅に消耗しているのだ。そんな彼らにこれ以上急げ、とは言えなかった。
中庭の中央にある、もはや原形をとどめていない立像の横を通り抜け、向かい側の建物の入り口まであと少しというところで、シュオウは見覚えのある長剣を手に握った老人の姿を見つけ、足を止めた。
──見つかった。
同様に足を止めて訝るボルジが、顔をよせて口を開く。
「おい、あれは──」
遠目に見る老兵、バ・リョウキの口元には剥きだしにされた歯が見えた。笑っている、とシュオウは直感する。だがその姿に好々爺としての面影など、かけらすら見いだす事は不可能で、見開かれたまま一時も閉じることのない双眸には、無数の赤い川を浮かべた白眼がぎらついていた。
「走れ」
ボルジの顔を見ることなく、シュオウは言った。
「けどよ」
「あの人の目的は俺だけだ。皆を先導して脇を通り抜けろ」
一瞬の惑いの後、わかった、という声が背後からかかった。一団が足を前へ出した音が聞こえた瞬間に、シュオウは佇むバ・リョウキに向かって前のめりに走り出した。
対するバ・リョウキの口元が動き、なにかを叫んだ。それは傍らで大騒ぎを繰り広げている巨虫とサンゴの兵士らがだす騒音にかき消されるが、凝視していたシュオウには、バ・リョウキがなにを発したか、理解していた。
「勝負」
読み取った言葉を口にする。
血気で猛るバ・リョウキとは対照的に、シュオウの心は冷め切っていた。
紐で結んだように一直線に走り寄る。シュオウは腰の剣を抜いた。その手を真横にしならせて、思い切り回転をかけながら剣をバ・リョウキに向かって投げ放つ。
間合いはすでに、互いの声が耳に届く距離にある。一本限りの剣を投げ捨てたその行動を見て、バ・リョウキの顔が憤怒の色に染まった。
「剣を投げ捨てるとは……見下げ果てたッ、貴様も一介の剣士であろうが!」
回転を続ける剣が、バ・リョウキの目の前に届く直前、シュオウは叫んだ。
「ちがいます!」
その一瞬、シュオウは剣術のために割いていた思考、感覚のすべてを捨て去った。無垢なる自分に立ち返り、一つ大きく息を吐く。
バ・リョウキは回転をつけて迫る剣を、自身の長剣で受け止めた。その腕力と恰幅たくましい良剣のつくった壁の前に、回転する剣は金属音をあげて軽々とはね飛ばされる。その刹那を見極め、シュオウは脚に力を込めてバ・リョウキの目の前に躍り出た。そこは長剣を握るバ・リョウキにとっては必殺の間合い。振りかざされた剣の元、失望に満ちた怒りの顔が自分を見下ろしている。シュオウはしかし、身をかがめ背を向けた格好でさらに一歩を踏み込んだ。
「ぬゥ!?」
予想を越えた行動にバ・リョウキは戸惑い、しぼるように声を漏らした。
──すごい人だ。
生まれ持っての眼力をもって、間近に見たバ・リョウキに対し、シュオウは改めてそう思った。見た目にある老いが、すべて飾りであると思わされる。自分との戦いによって痛めているはずの片足は、それを忘れさせるほどしっかりと大地に根を生やし、揺らぐことのない体幹は、目の前に立つ人間がどれほどの修練を積み重ねてきたかを如実に語っているような気がした。
不意をつき、シュオウは手負いのバ・リョウキの足の膝を蹴り飛ばした。すでに振り下ろされている剣の勢いはそのまま。しかし、屈強なる老兵は苦痛に顔を歪ませていた。
痛みという感覚は、そこから抗いがたい反応を生じさせる。命の危機を察知した途端、保守のためにたとえ一瞬であれ、肉体は守りのための動作を優先させるのだ。そしてそれは予測しうる行動となって現れ、見極めればそれは相手を制するための明確な道筋となる。
バ・リョウキが見せた隙は一瞬だった。並の者であれば患部を抑えて転げ回っていてもおかしくない状況で、それだけの胆力があるのはさすがといえる。しかし、達人の生じる隙は一瞬であれ、勝敗を決する重要な隙間として機能する。
並の者が感知することすらできないであろうその刹那。シュオウはバ・リョウキが一瞬の痛みに堪えきれず、腰をわずかに浮かせたのを見逃さなかった。前のめりになるバ・リョウキの腹を背に負い、剣を握る手首を掴んだ。降りてくる力をそのまま流し、かがめていた腰をあげて、腹を背負ってバ・リョウキの身体を宙へと浮かせる。足が完全に中空に放り出された所で、シュオウはさらに身体をねじって真逆を向いた。流されるまま落ちてくる肘を肩に当てると、グジャっと鈍い感覚が伝わり、獣の断末魔にも似た悲鳴が聞こえた。強く握りしめられていた剣を落としたバ・リョウキは、ぷらりと力を失った右腕をかばいながら、地面に背を打って転げた落ちた。
すかさず、シュオウは仰向けになり苦悶の表情をにじませるバ・リョウキに詰め寄る。左太ももを掴み、膝蓋骨に自身の膝を乗せ、重を用いて圧をかける。想像を絶する痛みに絶叫したバ・リョウキの声が、突然に止んだ。見れば、その顔は白目を剥き、青ざめた顔のまま気を失っていた。
老いてなお健常だったバ・リョウキの左足は、すでに立ち上がるための力を失っていた。
向き直ると、先を行くはずの仲間達は無防備に足を止め、呆然とこちらに視線をよこしている。シュオウは彼らを促すため、黙って入り口に向けて指を差した。
*
様々な含みのある視線が、合流したシュオウに注がれていた。
ボルジは笑って声をかけたい衝動を抑え、渋い表情のままシュオウと肩を並べて兵舎の中へと足を踏み入れた。外とは対照的に、建物の中は静まりかえっている。警備のために常駐している者らの姿もないところを見るに、かなりの人員が狂鬼の相手をするために駆り出されている様子だった。
武器庫のある南側の部屋をめざし、先頭をきって走り出したシュオウが途中に見かけた階段を見て、ふと足を止めた。
「どうした?」
聞いたボルジに、シュオウは階段を見つめたままつぶやく。
「思い出した──」
言って、階段に足をかけた背中を呼び止める。
「あッ、おい!」
「まっすぐ進め! 少しまかせる」
振り向くこともなくそう言い残して、階段をかけあがっていったシュオウを呆然と見送る面々に、ボルジは活を入れた。
「足を動かせ! ボケっとつったってんじゃねえぞ! こっからが正念場なんだ」
追い立てるように手で行けと促し、ボルジは小走りで駆けていく彼らの後ろについた。
前を行く者達が、顔を合わせてひそひそと交わす話し声が聞こえてくる。
「さっきのジジイ、ありゃバ・リョウキだろう」
バ・リョウキの名は世に轟いている。国を違えど、その人物が繰り広げた数々の名勝負や逸話は枚挙にいとまがなく、剣術一つで国の顔になるまでにのし上がったその名は、生ける伝説の域にまで達しているといっても過言ではない。
「あいつ、あのバ・リョウキを一投げで倒したってか?」
「でもよ、たしか勝負して負けたって話だったよな──」
「………………」
皆、それぞれになにかを噛みしめるように黙りこくった。
ボルジは彼らの後ろでひっそりとほくそ笑んだ。シュオウという人間に対する彼らの驚きが、まるで自分のことのように誇らしい。先日まで、一人生きて解放された事をに恨みがましい眼を向けていた連中に、ほら見ろ、と声を大にして言いたい気分だ。
「行き止まりだ」
先頭を行く者の声がきこえ、一団はさっと足を止めた。塊となって廊下を塞ぐ人垣をかきわけながら前へ出ると、突き当たりの部屋に半開きになった武器庫らしき部屋があった。中に人気がないことを確認して覗くと、多少数を減らしてはいたが、人数分を確保して余りある量の武器がびっしりと詰め込まれていた。
ボルジは武器を選び、それぞれに手渡した。狭い屋内でも使えるよう、取り回しの良い短刃の剣や槍、小ぶりな木板に皮を貼った軽い盾を全員に行き渡らせる。
団体で動くのは敵と遭遇したときには心強いが、狭い建物の中では効率も悪く、ムラクモの輝士に相当する彩石を持った人間と遭遇してしまった場合、一網打尽にされる危険もはらんでいる。そうした判断のもと、ボルジは三人を一組として隊を編成し、それぞれにしらみつぶしに部屋を探させる事を決断した。同時に、馬を得意とする者らを自薦させ、彼らを厩舎へ向かわせる。うまくいくかは賭けになるが、この事態を味方に知らせるためには必要な一手だった。
「足に自信がないやつは出入り口を見張ってもらう。身を潜め、それらしい人間が外に出たら知らせをよこせ」
けが人や体力の衰えが酷い者達にも仕事をあたえ、全員に持ち場を理解させた。自分が思いつく限りのことはした、という自負の元、ボルジもまた剣を手にし、号令をかけて長い廊下を駆け抜けた。
行く手の先に、慌てて支度をしてきた様子の若いサンゴ兵がいた。その男がどたばたと歩み寄ってくる集団に気づき、大きく口を開いたその刹那、男に飛びかかって押し倒したボルジは、口を塞ぎ心臓を目がけ、剣を二度、三度と突き立てた。
*
覚えのある堅牢な牢門の前は、がらんとして人気がなかった。夜とはいえ、ここには少なくとも三から四人は見張りについていたはずだ。屋外で暴れている狂鬼がもたらした副産物として、シュオウは穏便に牢部屋へ続く門の前に立つことができていた。
脇の壁に無造作にかけられた鍵を拾い、中へ入る。暗がりの中を踏みしめながら、少し前まで自身がすごしたそこを、はじめて外から落ち着いた眼で観察した。通路のわきには拷問にかけるための、使い方もよくわからないような趣味の悪い道具が、手入れもされず、こびりついた血の跡と共に散乱している。
ここへ入れられた者の多くは、二度と外の空気を味わうことなく死んでいったのだろう。ここから連れ出され、自由を得た後に、また自分の意思で足を踏み入れている今を、シュオウはどこか自虐的な心地で楽しんでいた。
奥の部屋を覗くと、目的の人物はいた。監禁されていた間、なにかと口を交わしていた相手、南山の出身でガ族という滅亡した部族の生き残りを自称していた男、シガは最後に見たときとさして変わらぬ様子で、両腕を吊されたまま、ぐったりと頭を下げていた。
牢を蹴り、シュオウはわざと大きな音をたてる。
ゆっくりと顔をあげたシガの虚ろな瞳が、天井の隙間から漏れ落ちてくる月の明かりで浮いて見えた。
「夢、か」
寝ぼけた様子で聞いたシガに、シュオウは黙って首を振って否定した。
「なんでおまえが……」
はッとして、シガの眼が見開かれる。
「ジジイとの勝負はどうなった? 負けて、また連れ戻されたってところか──」
しかし、シガはすぐに自分の言った言葉の矛盾に気づいたように、
「──そんな様子じゃねえな」
シュオウは誰に連れられているわけでもなく、一人自由なまま立っている。
シガは不愉快そうに舌打ちをした。
「ち、めんどくせえ……言えよ、なにがどうなってやがる」
「狂鬼の襲撃があった。今、外は大騒ぎの真っ最中だ」
シガはいまひとつ実感を持てない様子で訝った。ここは特に造りが厳重にされているためか、外の喧噪は届きにくいようで、なにも知らなければ、いつも通りの静かな夜としか思えないのだろう。
「うそくせえ、と言いたいところだが、そうやって余裕ぶってるところからすると、その大騒ぎってやつはよっぽどなんだろうな」
シュオウは他人事のようにさっぱりと頷いた。
「ああ」
「それで──」
シガの眼が鋭さを帯びた。
「──なにをしにきた。自由を見せびらかせて笑いにきたかよ」
皮肉っぽくいうシガに、シュオウは手の内に忍ばせていた鍵を見せる。それを見て、シガはより一層険のある視線を深くした。
「……俺はな、善意ってやつにはほとほとうんざりしてんだ。善人面で親切を寄越す連中も、心の底ではかならずなにか見返りを期待してやがる。そうでなきゃ、助けるふりをして次の日には鎖につないで牢獄に押し込めるんだ。きれいごとはごめんだ。なにが欲しい、なにをすれば俺をここから出す。言え」
露骨に不信な眼を寄越すシガに、シュオウは小細工なしに言葉を選んだ。
「俺はこの騒ぎに乗じて仲間の無事を確保したい。そのために、ここの主の身柄を人質として手に入れるつもりだ」
シガは行き場のない憤懣を押し込めた苦々しい顔をつくった。
「あのブタかッ」
共に囚われていた数日間、シュオウはこのシガからうんざりするほど腕っ節を自慢する武勇伝を聞かされていた。名の知れた軍人の頭を一撃で砕いただの、五十人を越える追っ手をすべて殴り殺しただの、とにわかには信じられないような話ばかりだったが、並外れた体格と、手袋によって隠されている彩石を見れば、それが一応の説得力ともなっていた。だが、ア・ザンに短剣の先を向けられただけで泣き叫んでいた姿を見た後では、いまいち納得がいかなかった。
「お前はあの男に恨みがあるだろ。捕まえて、自分がされたように牢に閉じ込めたくないか」
飢えた猛獣のような強い眼がシュオウを貫いた。
「殺してやりてえよ! わかった、俺を出せ! 手伝ってやる。あの野郎の足を引きちぎってでも、ここに押し込めてやる!」
血気盛んに吠えるシガに、シュオウは冷めた目を向けた。
「この状況で仲間は一人でも欲しい。でも、お前は本当に役に立つのか」
「なにが言いたい……」
熱を帯びていたシガの声が途端に冷めた。
「尖ったものを見せられただけで泣き叫ぶようなやつが、本当に役に立つのか、と言いたい」
シガは突如、うろたえたように視線を泳がせた。
「ちが、あ、あれは!」
「無理を強いるつもりはない。修羅場をくぐり抜けるだけの度胸がないのなら、ここに入っていたほうが安全だろ」
シガは恥辱をごまかすように叫んだ。
「ふっざけんじゃねえぞ! 拘束さえされてなきゃな、誰があんなもんに怯えるかよッ。そりゃ、ちょっと……いや、少し……は苦手かもしれねえが、両腕が自由ならそんなもん屁でもねえんだよ!」
興奮して喚きちらしたシガと、しばし視線を交わして、シュオウは鍵を鉄扉に差し込んだ。きしむ戸を開け、中に入り、シガの両腕を縛りあげている拘束具を調べる。が、それはちょっとやそっとの事で外す事のできるようなものではなかった。どちらにも鍵穴はあるが、今手にしている物とは、あきらかに大きさが違う。入り口にはこの鍵以外なにもなく、おそらくこれは、ア・ザン自身が管理しているのだろうと、あたりをつけた。
手近な所に、拘束具を破壊するための道具も見当たらず、頭をかくと、シガはおもむろに自身の左手を見て言った。
「封じを──手袋をはずせ」
「そうか」
シガの目的を理解したシュオウは、その左手にある輝石ごと包み込んでいた手袋に手をかけた。テラテラとした感触の手袋は、きつく手に吸い付くようにはまっていたが、はじから丸めるようにしてようやくそれを脱がすと、紫色に変色したシガの左手が現れた。その甲には白熱する太陽のような色をした輝石があった。
手袋をはがした途端、シガは腕にはめられた拘束具ごと、左右の壁から垂れる鎖を引っ張りはがした。金具が打ち付けられていた石壁ごと、それをもぎ取ったシガは、腕輪から伸びる鎖を引きちぎり、たしかめるように目の前で両手を握った。
「くそッ、痺れが──」
言って立ち上がった姿は、巨木でも生えたようだった。背が低いというわけでもないシュオウからしても、見上げなければ目を合わせるのも難しい。
体をあげたシガは開いた戸を無視して、鉄格子を掴み、うなり声をあげながら、堅い二本の鉄棒を左右に引っ張り、ぐにゃりと曲げて通り道を作ってしまった。自称していた話にそぐわぬ怪力だった。
「なまってやがる」
シガは歯を食いしばって自身の両手を見つめていた。
シュオウは行儀良く、鍵の開いた戸をくぐり出て、シガの前に立つ。
「行けるか」
シガは渋い顔を向け、
「従って動く気はねえ。俺は俺でやらせてもらう」
約束違いだ、と言いかけた言葉を飲む。たしかに、命令に従うという誓いはとりつけていなかった。
「わかった。でも──」
言葉を遮り、シガは強く握った拳を見せた。
「わかってる。あのブタを見つけたら、生かして捕まえておきゃいいんだろう」
頷いたシュオウに、シガは邪悪な笑みを浮かべて見せた。
「とりあえず、生かしてはおいてやる」
恨みをふくんだ濁った眼をみて、シュオウは安堵を覚えた。結果がどうなるにしろ、この男が中から暴れれば、目的のために幾分か利を得られるはずだ、と。
*
「ばァかが」
そそくさと牢を後にしたシガは、自身を助け出した男をさっさと置き去りにして、廊下を駆け走りながら舌を出した。
押し売りの恩に報いるつもりはない。
あの男は、シガがア・ザンに対して猛烈な恨みを抱いていると踏み、それを利用しようとしていた。それはいいが、シガはすべての利を吐き捨ててまで執着するほどの値を、ア・ザンにつけてはいなかった。
廊下に点在する窓から外を覗くと、巨大な虫がお祭り騒ぎのように大暴れを演じていた。その尋常ならざる状況を見て、シガはしばし呆然と立ち尽くした。
「おいおい……まじかよ」
平素にはそこら中にいた兵士達を見かけないのも無理はない。あの男が難なく牢に侵入できていた段階で、ある程度その話に真実味はあったが、実際に見るまでいまいち実感の持てない話だったのだ。
かたまっていた顔をほぐし、シガは笑った。ここを根城としている者達にとっては一大事。しかしここから逃げ出したい者にとっては、これほどの好機は千載一遇だ。
シガはその行き先をア・ザンの元ではなく、厩に絞っていた。そこには、自分がこの渦視に招かれた時に預けたままとなっている〈三脚〉がいるはずだ。
階段を降りてすぐ、一人廊下の片隅で、震えて膝を抱えている兵士がいた。まだ若く、体格も頼りなく、一目で新前とわかる情けない風貌の男の襟首を片手で掴み、足が浮くほどまでに持ち上げた。
「うああああ」
「厩はどこだあ!」
むき出した歯を見せて怒鳴り散らすと、男は怯えて悲鳴をあげた。肌の色を同じくしているとはいえ、しばらくのあいだ囚人としてすごしていたシガの風貌を見て、仲間ではないとすぐに気づいただろう。
「あッ……あ……」
震えた指が示した方を見るが、シガは違うと怒鳴った。
「雑魚の馬を置いてる所じゃねえ。ここの総帥の馬やらを管理してる特別な厩舎だ!」
「ひッ」
ぶるぶると指を揺らしながら、今度は真逆の南東の方に向いた指を見て、シガは男を掴み上げたまま、そこへ向けて走り出した。
外へ通じる石畳の廊下を抜けると、軍旗を掲げた立派な造りの木造の厩舎の外に、二人の番兵が立ち尽くしていた。彼らの目が自分を捉えた一瞬の間に、シガは掴んでいた男を前へと盛大に放り投げた。不意の事態に硬直した番兵達に、長い手足をいかして詰め寄り、左右の顔面に右の拳を一発ずつ打ち当てた。殴られた番兵達は一瞬で意識を失い、背中からその身を地面に横たえた。
巨大な引き扉を開けて見た厩舎の中は、中央の天井から吊された、高価な夜光石の明かりで満たされていた。左右に並んだ馬房には、見るからに高級な馬たちが入れられ、外から聞こえてくる喧噪に怯えて不安そうに頭を振っていた。管理が行き届いているようで、動物特有の糞尿の臭いはほとんどしなかった。
「な、なんだ、おまえはッ」
あきらかに戦闘員ではない初老の男が厩舎の奥から走り寄ってくる。厩番だろう。シガは問答無用で走り寄って、その首を掴み上げた。
「俺の三脚はどこだッ」
「な、なにをッ……ここがどこだか──」
シガは掴みあげた手に力を込めて締め上げた。厩番の男は喉をかきむしるように暴れ、青ざめた顔で苦しげに喉を鳴らす。
「聞かれたことだけ答えろ」
怯えに蒼白となった眼が向いた方角は、厩舎の最奥の壁が設けてある隔離された部屋だった。厩番を掴んだまま、向かったその先で見た光景を前に、シガは絶句した。
よく知った大きな瞳に生気はなく、白く濁って微動だにしない。くたくたに痩せ衰えた体には重そうな鎖が幾重にもまかれていた。
力なく腕を下ろすと、拘束から逃れた厩番の男は、喉を押さえて激しく咳を吐いた。
「なんで……だよ……」
ア・ザンは三脚を欲し、その情報を求めていた。いくつもの国から目をつけられていたシガをかくまう振りをしてまで呼び寄せて、生殺しの状態に放置し、希少価値のある三脚の捕獲法を知ろうとしていたのだ。だからこそ、手に入れた三脚の命には気を配るだろうと、シガはそう信じていた。
這って逃げようとする厩番の服を踏むと、怯えきった悲鳴が男の喉から漏れた。
「なんで殺した」
淀んだ冷気のように、静かに重く問うたシガの言葉に、厩番は見上げてぶるぶると頭を振った。
「こ、ころしてないッ、やたらに暴れるし、ろくに餌を食わなかったんだ」
「なんで、おれを呼ばなかった」
厩番は必死に首をふる。
「し、しらないよ! だいたいあんた誰なんだ!? この三脚は突然連れてこられて面倒をみろといわれただけだ。俺は何度も言った、弱っているからなんとかしないと死んでしまうって! だがア・ザン様は知らん、まかせるとだけ言われて……どうしようもなかった! 馬のことしか知らない俺に、これいじょうどうしろッ──」
ア・ザン。その名を聞いた途端、頭の奥深くの血が沸き立った。冷静な思考に霞みがかかり、理性が根底から消し飛んでいく。
振り上げられた拳は、厩番の顔面に深く突き刺さっていた。その顔は、もはや元の形もわからない。体液に汚れ、折れた歯が食い込んだ拳を突き上げて、シガは外で暴れる狂鬼にも劣らない怒りの咆哮で一帯の空気を震わせた。
*
シャノアの猛将バ・リョウキの血族者であり、その後継の立場にあるバ・リビは配下の星君達を作戦室に集め、装備の支度と各人の状況把握を進めるべく動いていた。
「樹将はいずこへ」
一人が口火をきった問いかけ。本来彼らを率いるべき立場にいる人間の不在を、他の者達も耳を寄せて知りたがった。
「将軍は単身、すでに現場に赴いておられる。サンゴ兵らを率いて討伐に参加されている」
──はずだ。
リビは言ってから、心中でそっと付け足した。
シャノアの星君らの間に、おお、とやる気に満ちた声があがった。
「では、我々もすぐに外へ! 樹将に続かねばッ」
隊を鼓舞する声と共に、張りのある空気が部屋の中に充満していく。しかし、リビは手を叩いて彼らに落ち着きを求めた。
「入り込んだ虫の危険度は驚異に値する。今回の敵は、烏合の衆であったオウドの兵とは別格だ。連携をとり、相応の手段を講じねば、討伐は難しいだろう」
「策がおありですか」
問うた一人に、リビは仏頂面を返した。
「わからん。ただ、個々人の力で立ち向かってどうにかなるようなモノではないだろう。各自に持ち場を決め、首尾良く傷を負わせることさえできれば、討伐は無理でも撃退くらいはできるかもしれない」
リビの後ろ向きな目算に、彼らは意気を落として黙り込んだ。だが、あえて士気を下げるようなことを言ったのも考えたうえでのこと。調子に乗ったがために成すべき事をできなかったとなれば、シャノアの名を傷つける事になり、それは結果的に国の名を背負って参じているバ族の名を落とすことにつながるからだ。
冷や水をかけられた意気に熱を戻すべく、リビは力を込めて声を張り上げた。
「狩りのための道具を的確に選定し、隊を陽動と打撃の二役に分ける! 狂鬼を北門の隅にある建物と城壁の隙間へ誘い入れ、そこで──」
言い切る間際、リビは背中から突如鳴り響いた爆音と共に、雪崩のように押し寄せた石壁の瓦礫に押しつぶされた。
濃霧のように埃が舞う部屋の中で、野獣のような咆哮が聞こえた。直後に鈍い音が幾重にも鳴り、吐瀉物がはき出される醜い音がいくつもして、部屋の中は一瞬の静寂を取り戻す。
リビは咄嗟にかばった腕をあげ、そこから生じた隙間の中から、前に広がる惨憺たる光景を目にしていた。
やたらに広い背中で息を切らせる巨体の男。その男はまるで人形でも手にするような手軽さで、片手でシャノア兵の首を捻りあげている。そのまわりでは、顔面を砕かれ絶命している仲間達の亡骸が、無残に転がっていた。
血反吐に濡れた壮絶な姿で、ゆっくりと男が振り向いた。心臓が痛みを伴うほど激しく鼓動する。
「ア・ザンはどこだあ、あのブタがァ! ゆるさねえぞッ、殺してやる! 全員皆殺しにしてやるッ! 殺してやるッ殺してやるッ殺してやるッ殺してやる!!」
握っていたシャノア兵を強烈に壁に投げつけ、男は大きく吠えてから隣の部屋へ続く壁を腕力だけでぶち抜き、去っていった。
シャノアが誇る猛者達の遺体で埋め尽くされた部屋の中で一人、リビは呼吸も忘れて、ただじっとしていた。
*
渦視城塞の内部に入り込んだムラクモ兵達は一階部分の探索を終えて、各出口の出入りを完璧に把握できるまで、制圧を完了させていた。
シガと分かれて後、早々に仲間達の元へ向かったシュオウは、彼らを仕切るボルジと合流し、現状の把握につとめていた。
「一階は逆側も含めてほとんどもぬけの殻だった。ちらほら見かけたサンゴ兵のほとんども、狂鬼に怯えて隠れているような連中ばかりで、とくに苦もなく制圧できたぜ。出入りも抑えている分、このことが内から外の奴らに漏れる心配も、今のところはいらないだろう。まあ、外から入ってくる分に対処できるかどうかは、別の話だがな」
ボルジの報告に、シュオウは頷いた。現状、もくろみは上々に推移しているが、決して安心できる段階ではない。もし、外の狂鬼が速やかに討伐か撃退されてしまえば、この城塞に蠢く猛者達が大挙して内に注意を戻してしまう。そうなったとき、体力の低下も著しい僅かばかりのムラクモ兵達は、一瞬で数の暴力に飲み込まれてしまうだろう。
「ア・ザンの確保を急ぐぞ」
シュオウが言うと、ボルジは力強く頷いた。
向かう先は捜索の及んでいない建物の二階部分。そこにア・ザンがいるとすれば、長を守る精鋭達がいるはずだ。彩石を持った星君の前に、手負いの傭兵くずれたちをさらせばどうなるか。結果は見えている。
「ここからは俺が一人で調べに行く。きっと、それが一番いい」
一人駆け出そうとしたシュオウの肩を、ボルジが掴んだ。血染めの剣を見せて、にやりと笑みを浮かべている。
「止めるなよ、言い合ってる時間はないだろ」
危険だ、足手まといだ、という感情も、命がけの同行と知って申し出たボルジに対して、嬉しさですべて塗りつぶされていた。
二階に上がるが、東棟はざっと確認したかぎりではほとんどもぬけの殻だった。自然と反対側の西棟へと足は向き、渡り廊下を抜けてたどり着いたそこは、見渡すかぎりに壁が崩れ、物が散乱していて、竜巻の通った後のような様相を呈していた。崩れた壁や物の間では、元の顔の形もわからないほど傷を負った遺体が無数に転がっている。服装と石の色を見るに、それらの遺体のほとんどは手甲に彩石のある高位の武官達だった。
「なにがあったんだよ……まさか、狂鬼の仕業か」
惨状を前にして、ボルジはその所行を人外のものと考えたようだが、シュオウはそうではない、と確信していた。狂鬼が襲ったのだとしたら外とを隔てる壁が崩れていて然るべきだが、城の外壁はどこを見渡しても無傷だったのだ。
──あいつだ。
自身が解放したあの男以外に、これをしたモノの正体が思い浮かばない。たしかに、腕前を誇るはずだ。状況を観察するに、絶命している者達の多くは、一方的になぶり殺されている様子であり、それはつまり、シガの腕っ節を証明している結果にもなっている。ただ、あまりにも手当たり次第なやり方に、シュオウは一抹の不安を抱いていた。
長く、広い通路の奥から、地鳴りに似た音がした。
「まずいな……」
首筋に冷や汗がつたう。シュオウは音のしたほうへ向けて走り出した。
突き当たりを右へ進み、北に向かって伸びる通路の中心にある、壁に軍旗と国旗を掛けた特別な雰囲気を帯びた部屋にさしかかったとき、その部屋の戸を開けて這いずるようにして、見覚えのある肥えた禿頭の男が現れた。
「どこに行った、ア・ザンッ!!」
轟音と共に石壁をぶち抜き、部屋の中からシガがその姿を現す。煙るなかに佇む姿、酷薄な形相をして、皮が破れてさらされた赤い肉を血で照らす拳を握り、鋭い犬歯をむきだして、怒りに震えながらガチガチと歯を鳴らしている。
「ひ、ひィィィ──」
芋虫のように床を這いつくばるア・ザンは、錯乱した様子で助けを求めた。
「──だ、だれか! わたしを助けろッ、だれかァ!」
忙しなく助けを探す目が、ふとシュオウを捉える。重なった視線を頼るように、ア・ザンは幼子のような泣き顔で、シュオウの足下へにじり寄り、背にまわって体を丸めた。
シガはそんなア・ザンに向け、怒鳴り声をまき散らす。
「ア・ザン! てめえ、なんであいつを死なせやがった!」
がたがたと震えるア・ザンは、頭をかばう両腕の中からこっそり顔をあげ、素っ頓狂な声を返す。
「あ、あいつとは……な、なんのことだ?!」
「ふざけたこと言ってんじゃねえぞッ俺が連れていた三脚のことだ! あいつは俺の無二の相棒だったッ、ガキの頃からずっと一緒だったんだ!」
「あ、あんなものッ……捕獲法を知っているのだろう、死んだならいくらでも捕まえればいいではないか! か、金がかかるならいくらでもくれやる!」
突如、シガは猛烈な叫び声をあげた。そのあまりの迫力に、ア・ザンはもとより、彼の標的には定められていないシュオウですら、気圧されて半歩後ずさる。
シガの長い足が一歩を踏み出した刹那に、シュオウは右手の平を突き出して叫んだ。
「待て!」
血走ったシガの眼が、はじめてシュオウに合わせられた。
「ど、けよ」
崩壊した理性のなかで、辛うじて止めていた人の心が、必死になってひねりだしたような話し声だった。
「どかない。この男には価値がある。でも生きていなければ、その価値も消える」
「知ったことじゃねえ! そいつは死んで当然のクズだ! 立場を利用して大勢をなぶり殺してきたゴミクズなんだよッ! お前も同じような目にあったくせにかばってんじゃねえ! なぶり殺してやる、はらわたを引きずりだして口に突っ込んでやる! 目玉をえぐり出して耳の中に押し込んでやる! 生まれてきたことを後悔させてやる!」
シガは叫び、厚い外壁を殴りつけて風穴を開けた。外から冷たい夜の外気と共に、狂鬼と対するサンゴ兵らの怒号が運ばれてくる。
「話にならないな──」
一つ、冷めた声を漏らしたシュオウに、シガの殺気に満ちた瞳が釘付けになった。
「──俺はこの男を絶対に譲らない。お前はどうすれば退く」
「……ざっけんなよ、獲物を前に引き下がるわけねえだろうが」
「なら」
シュオウは両腕の袖をまくりあげ、両の拳を見よう見まねの拳術の構えで前に出した。
シガの怒り猛る眼は、毒気を抜かれたように一瞬だけ驚きに丸くなった。
「馬鹿にしてんじゃねえぞ……もういい、いまッすぐここから消えろ。てめえには多少なり借りがある。今引き下がるなら、てめえだけは見逃してやる」
シュオウは動じることなく、構えたまま宣言する。
「お前が得意な拳の勝負だ。俺が勝ったら、こいつの処遇には口を出すな」
シガは再び、顔を憤怒に染め上げた。
「ぬるいこと考えてんじゃねえぞッ、俺が勝ったら、その瞬間にてめえの体に穴があいてるんだ」
「わかってる」
言葉は無用。ようやく悟ったのか、シガは戦いの構えをとり、一時も瞬くことなくシュオウを睨みつけた。
「おいッ」
背後から案ずる声をかけるボルジに、シュオウは目線をシガからはずすことなく、ア・ザンを、とだけ告げた。
予兆なく、勝負は始まった。大股に踏み込んだシガは、膝を沈めて強靱な腕を思い切りしならせる。当たれば即死、一撃必殺の拳だ。が、一撃の威力を自慢するシガはシュオウにとって、これほど与し易い相手はいない。
空気を強烈に貫いて迫る一撃をシュオウは難なく躱してみせる、勝敗はこの時点ですでに決していた。シガの懐深くへ入り込み、力を溜め込むように右拳と共に半身を捻り落とす。
──死ぬなよ。
ア・ザンを前に、怒りに満ちた顔をしたシガを見て一目でわかった。この男には心がある、と。大切なモノを失い、そのために利害をすてて、自身の手や体がぼろぼろになろうとも、怒りを露わにするその性格。シュオウは、このシガという一人の男の怒りに猛った顔を見て、それを嫌いではないと思っていた。
自分は欲しているのだと自覚があった。ボルジがそうであるように、一人の人間として信頼をもって接してみたい。自分の得意を捨ててでも、正面からぶつかって力ずくに屈服させたいという、雄の本能が疼く。
打ち上げた拳は、シガの無防備なアゴを強烈に打ち抜いていた。一瞬のうちに頭を激しく揺さぶられたシガは巨体を沈めて膝をついた。
「あ……れ……」
白目をむいて崩れ落ちたシガは、意識を完全に失っていた。
「つッ──」
シュオウはアゴを打った右手拳に走った激烈な痛みに耐えつつ、目に涙をいっぱいにためていた。
振り向いた先にいるア・ザンは怯えに耐えかねてか気を失い、ボルジに襟首を掴まれていた。力なく開かれた股の間には、失禁の跡がついて派手に濡れている。その姿に、大勢を率いて戦う将としての威風など、微塵も見ることはできない。
シュオウは服の内にしまいこんでいた手袋を取り出した。シガの力を弱らせていた封じの手袋だが、保険としてア・ザンの行動抑止のために、それを左手にはめた。
ボルジが後ろ手にア・ザンを縛り上げたのを見届けた後、うつぶせに倒れ込んだままぴくりとも動かない、シガの巨体を見る。
ボルジはおもむろに手にしていた剣を構え、横たわるシガに刃を向けた。
「やめろ」
止めたシュオウに、ボルジは不満の声を漏らす。
「こいつは面倒だぜ。殺るならいまのうちだ」
「恩がある。この男が暴れ回ってくれたおかげで、楽に城主を確保できたんだ。なにかあったら俺がなんとかする」
目を見てそうシュオウが言うと、ボルジは辛い顔をしながらも、わかった、と剣を納めた。
「狙いは手に入れた。この後はどうする──」
その時、ぐわり、と重たい異音が聞こえた。シガの開けた風穴がきしめき音をあげながら広がっていき、そこから鎌状の虫の手がずるりと中へ押し込まれる。
「逃げろ!」
咄嗟に叫ぶと、異常を察知したボルジはア・ザンを引きずって下がり、シュオウは倒れ込んだままのシガの重い体を引きずって、建物の中へ伸ばされた狂鬼の手から間一髪のところで距離を置いた。
手応えを得られなかった狂鬼は、興味をよそへと移し、せっせと外壁に穴を開けている。それらの行動は、狂鬼の興味が建物の中に向いている事を示唆していた。つまり、外で相手をしていた兵らは、すでに壊滅状態か、あきらめて逃亡したという状況が予想される。それはシュオウ達にとっては喜ばしい事であり、だが同時に身を危うくする事態ともなっていた。
──なんとかしないと。
決意の元、シュオウは血の気の引いた顔で呆然としているボルジに聞いた。
「取り上げられた俺たちの手荷物はどこかわかるか」
ボルジは否定の意味を込めて首をふる。
「わからねえ! どこかに入れられてるんだろうが、この状況で探し出すのは難しいぞ」
黙り込んだシュオウを見て、ボルジが逆に聞いた。
「あの尖った武器のことなんだろ?」
「ああ。でもないなら、いい」
「いいって、あの狂鬼をどうにかしようって考えなんだろう。あれがなきゃ──」
「どうにかする」
決意に満ちた顔を上げ、立ち上がったシュオウは一つ、深く息を吐いた。
死屍累々の中庭に出たとき、地べたを這いずるソレを見て、シュオウは暴れる狂鬼の存在も忘れ、総毛立つ感覚に見舞われた。
片腕、片足の自由を完全に失ったバ・リョウキが、動くもう一本の腕のみを頼りとして、地の上を這い寄ってきたのだ。
「おのれ……よくも、よくもッ」
身じろぐだけで激痛に見舞われるはず。なのに、バ・リョウキはさらに片腕の力のみで前へ進む。
「なぜだ……なぜ見抜けなかったッ! 剣士としての形《なり》が、すべて取り繕ったものだったと。なぜ、なぜだァ」
その歩みはあまりに鈍く、一片の脅威ともなり得ない。なのに、シュオウは後ずさって、逃げるようにバ・リョウキから距離を置いた。
「ふッ、うははッ、ハハハハハハッ」
血走った眼、憤怒につり上がった目尻、敵意を剥きだしにした歯。だが口元に笑みを浮かべ高らかに笑う、強者と崇められたその老兵の眼からは、筋になるほどの涙が零れ落ちていた。
狂っている、とシュオウはつぶやいた。
「この私が生かされたのか?! 小手先の技で封じられ抗う事すらできないまま────それも、石に色なき若造一人にッ!」
片手の拳を握り、バ・リョウキは何度も地面を叩いた。
「剣も握れず、地を這って喚き散らしている、これが一軍の将であるものか、これが剣聖と謳われた武人であるものか……私は誰だ…………もう、わからん」
顔中、あらゆる場所から汁をこぼすバ・リョウキは、すがるような眼をシュオウへ向けた。
「私を殺せッ、殺してくれ! このバ・リョウキはすでに亡い」
バ・リョウキは這いずる手に再び力を込める。が、しかし突然に両者の間に割って入った者によって、死を願う老兵の歩みは止まった。
「あいつ……」
城主の娘、ア・シャラはどこからかふらりと歩み出て、平素通りの、どこか冷たさを秘めた声でバ・リョウキに語りかけた。
「ご苦労だが、剣聖殿、死にたくば腰にある物を使って自らでそうされよ。生かされたのであれば、それもまた勝者の選択。なにをいおうが、敗者はそれを受け入れるのみであろう。勝ち続けてきた生のなかで、勝負の理すら忘れたか」
孫ほどに歳の離れた少女から、バ・リョウキはただ呆然として言葉を受けている。その口が何かを発しようとして開かれた時、この場に現れた新たな乱入者によって、それはかき消された。
馬を駆って現れた男を、シュオウは知っていた。バ・リョウキの側によくいた若者で、彼の身内であるシャノアの軍人、バ・リビである。リビの後には、生き残りであろう負傷した複数のサンゴ兵らが帯同していた。
颯爽に、とはとてもいえない。頭からこぼれ落ちている血は首を濡らすほどの出血量を窺わせる。リビは馬上からシュオウに強い視線を寄越したあと、馬を降りてバ・リョウキのもとに駆け寄った。
「叔父上、ここを出ましょう」
抱き上げて肩を入れようとするリビに、バ・リョウキは腕を振り上げて必死に抵抗した。
「ならん! 勝負は終わっていないのだッ」
「まだそんなことを! 総帥の居所はわからず、我らがシャノアの精鋭達は皆殺しにされました。渦視の兵も多くは死に、生き残りもほとんどが逃げだしています。指揮系統はすでに存在しません、ここはすでに陥落したのです!」
呆れを含んだ口調でリビが声を荒げた。
シュオウは背後から、無数の足音が近づいてくるのを感じ取った。
「シュオウ──」
ムラクモ兵達を引き連れて現れたボルジは、シュオウを見るなり顔をしかめて首を横に振った。
「悪い、探したんだがな」
血塗れの武器を手に現れた男達に、リビや彼に帯同するサンゴ兵らは緊張を高めた。
「バ・リョウキ様をお守りしろ!」
手負いのサンゴ兵らの間から、誰ともなくそうした叫びがあがり、彼らは自主的にバ・リョウキのまわりをとりかこんで、抜剣してシュオウ達を威嚇する。内、数人が抵抗するバ・リョウキを強引に担ぎ上げ、本国であるサンゴへ続く道が延びる、南門へ向けて走り出した。
「やめろ、やめんか! はなせ、はなせえええ!」
遠ざかっていくバ・リョウキの声は、不明瞭ながらにシュオウに向けた呪詛の言葉を並び立てているようだった。
バ・リョウキの無事を見届けたリビは素早く馬にまたがり、側に佇むシャラに向けて手を伸ばした。
「シャラ様、お手を!」
シャラは、手を後ろ腰にまわし、一歩二歩と後ずさる。
「どうして──」
苦悶の表情を浮かべて聞いたリビに、シャラは無邪気に笑みを浮かべ、荒れ狂う狂鬼を後ろに背負って言った。
「お前といても、こんな光景は見られない」
リビは伸ばした手を、きつく握りしめる。引き結んだ口を苦く歪め、断ち切るようにして前を向き、馬を駆って南門に向けて走り去った。
手を後ろで組んだまま、シャラは軽やかな足取りでシュオウの側に歩み寄る。ボルジが警戒したように剣を向けたが、シュオウは必要ない、とそれを諫めた。
「よくもやってくれたな」
言ったシャラに、シュオウは気まずいものを感じて視線をはずした。それを見て、シャラは笑う。
「責めているのではない。むしろ、責められるべきは私だろう」
シャラは中庭に転がる無残な遺体の数々を眺め、目を細めた。
「父は────ア・ザンは、どうなった」
「生きている。身柄は俺たちの手にある」
その言葉に、ほんの少しだけシャラが肩の力を抜いたのをシュオウは見逃さなかった。
「よかったな、お前が欲しがっていたモノも手に入れたようじゃないか──」
シャラはシュオウの背後に立つムラクモ兵らに視線を送った。
「それで、どうする。渦視はすでに拠点としての力を失った。門は開きっぱなしで、壁のあちこちも穴だらけだ。逃げるにはたやすいだろう」
「……そうでもない」
首を捻ったシュオウの視線を追うように、皆が中庭の片隅に目をやった。
口にむさぼった血肉をこびりつかせた狂鬼が、不気味な顔をじっとこちらへ向けている。
「間近で見ればおかしな生き物だ。食うに事欠かないほどの獲物を得ただろうに、あれはよほど生きて動いている人間が許せないのだろうか」
この期に及んでまだ落ち着きはらった声を出せるシャラに関心しつつも、シュオウは一人、狙いを向けてくる狂鬼に向かって踏み出した。
首だけで振り返りつつ、ボルジに言葉を残す。
「誰も近づけるな!」
「あ──」
手を伸ばすボルジも、すぐに強く頷きを返す。シュオウには、それが自分に対する信用だと思えた。この場にいる者達の中で、唯一ボルジだけが知っている。自分にはあの化け物達と対する術があるのだと。しかし、一人駆けて行く頭の中は不安で一杯だった。
狂鬼の複眼は、より集団としてまとまっている、後ろの仲間達へと向いている。シュオウは地べたに落ちてくすぶっていた松明を手に取り、目立つように振り回した。
「注意を惹く」
独り言をつぶやき、おおい、と大声を張り上げる。狙い通り、手近なところにいる無防備な獲物を見つけ、荒れ狂う巨虫は多足を器用に使って、ぞろぞろと足を動かして迫り来る。
「武器を選ぶ」
自分への指示を口頭で並べていく。そうしなければ、絡み合う無数の思考に邪魔をされ、なにをすべきかわからなくなってしまいそうだった。
シュオウは側で転がっていた兵士の遺体から、ほどよい大きさの剣を取った。絶命しているこの剣の持ち主は将官らしく、剣の質は上々で切れ味も良さそうだ。
二つの鎌を持ち上げて一心不乱に迫る狂鬼を前にして、佇むシュオウの呼吸は、しだいに浅くなっていく。
「それから…………どうする」
眼前に迫った巨体の虫は、圧倒的な体格差を誇るように両手を振り上げた。直後、薙ぎ払われた鎌の一撃を、地べたに寝そべって躱す。無心に命を狩る虫に油断などない。あらかじめ、想定でもしていたかのように、素早く次の動作へと移り、寝そべっている自分を目がけ、極太の槍に相当する足の一撃で突きを見舞った。ごろッと体を転げて躱すも、シュオウはこの時点ですでにジリ貧状態に追い込まれていた。
時間をかけてはいけない。消耗戦に追い込まれれば、あらゆる面で劣っている人の側が負けるのは自明の理である。戦いにおいて狙うべきは常に弱点である、とは師から受け継いできた勝つための理念だ。一点突破、一撃必殺こそがのぞましく、それを可能とするのが、命につながる第二の心臓たる輝石の存在である。しかし、自分がいま相手をしている狂鬼の持つ輝石は、甲羅を背負った背の側ではなく腹の側にあった。これでは、視界の外から不意を突くという正攻法は通用しない。
──走り抜け、懐に潜り込む。
唯一、見いだした勝利への道筋。それは決してたやすい方法ではない。与したことのない相手、攻略法を知らぬ相手への対処としては、今はそれが精一杯だった。
手足で地面をはじき体を起こして前へ走る。虫は僅かに後退しつつ、足を下ろしてシュオウを串刺しにしようと試みたが、一本ずつ、きちんとその軌道を見分けて、活路を踏みしめた。間合いが狙い通り巨大な褪せた緑色の輝石に届こうかという寸前、眼前に牢獄のように三本の足が地面を穿ち、壁となって行く手を阻んだ。それは自分を狙った攻撃のための手段ではなく、懐に獲物が侵入するのを防ぐ、明確な防御行動だった。
「くそッ」
この守りを突破するための迂回行動をとることはできない。辛うじて命を繋いでいる今の状況では、余計な一歩は即、死へと繋がってしまうのだ。
シュオウは前へと駆ける勢いそのまま、力を込めて全力で跳躍した。壁として機能する足のうちの一本の節を目がけ、やけくそ気味に剣で切りつける。短刃の剣は刃先がぎりぎり触れる程度にしか届かなかったが、堅い外皮に覆われていない関節部分に小さな傷をつけることはできた。そこから薄茶色の体液が零れたのを見た時、狂鬼は悲鳴をあげて体を屈むようにしならせて不自然に体を収縮させた。堅牢に突き刺されていた三本の足に緩みが生じる。
──いまだ!
確信の元、着地して前転しながら隙間を通り抜け、腹の底へ潜り込んだシュオウは、無防備にさらされている輝石を目がけて剣を突き立てた。手に震えがくるほどの堅い感触。中心を射貫いたはずの刃は僅かにでも輝石を傷つけることもできず、がちんと音をたてただけでなんら成果なくはじき返された。次の行動を思考する間もなく、シュオウの身体は宙を舞っていた。
多足の一本に強烈に蹴り飛ばされた身体は、回転を加えて宙に投げ出され、そのまま地に落ちて痛みを伴う衝撃と共に、はげしくシュオウの身体を転がした。
風に飛ばされた小枝のように転がり、背中から城の外壁に打ち付けられ、肺の空気が強引に押し出された。
空っぽになった肺に急ぎ空気を吸い込むも、喉が焼けるように痛い。
激しく咳き込みながら自身の無事を確認する。四肢、その他の機能に問題はない。が、単純に体のあちこちが猛烈に痛かった。
ほんの僅か切り傷を負い、腹の輝石を突かれた狂鬼は、さきほどまでの威風堂々たる姿をしぼませて、背を丸めて甲羅の中に頭をしまっていた。
──意外に臆病なのか。
この狂鬼、硬い甲羅を背負うだけあって、自身に迫る命の危機には敏感なのかもしれない。それを一つの特性として理解していれば、なんらかの突破口になるかもしれない、とシュオウは考えた。
狂鬼は、しかし無事をたしかめるように頭をゆっくりと出す。わなわなと口元を震わせながら、その視線はこちらへと釘付けにされていた。傷をつけたことで、本格的に怒らせてしまったのだろう。
──逃げ道はない。
ただ進むのみ。しかし生きるためには勝たねばならない。
はじきとばされた際に、握っていた剣はどこかへはじき飛ばされて所在がわからなくなっていた。だが、あれにもう用はない。見渡すかぎり、中庭のあちらこちらで横たわる死体の側に、多種多彩な得物が転がっているが、そのどれでも狂鬼の輝石を砕くことはできないだろう。ここへきて、シュオウは〈針〉が手元にない事を猛烈に悔やんでいた。
──あれ?
景色の中にとけるたくさんの武器の中に、一つだけ、その存在を主張するように転がる、一本の剣が目を惹いた。松明の赤々とした明かりが照らしだす薄黒い鋼の刃。恰幅の良い重そうなその剣は、あのバ・リョウキが常日頃から背負って歩いていた物だ。
シュオウは、バ・リョウキの握っていたその剣が、硬い石で出来た立像を切り落としていた光景を思い出していた。考えるまでもなく、走り出したシュオウは、その途中にあったバ・リョウキの剣を拾いあげていた。
「おも──」
思わず口に出るほど、その剣には重量があった。輝士の扱う長剣を二本束ねてもまだ足りないかもしれない。アデュレリアで特注された自身の扱う剣とは比較にもならない。見た目には老いてみえるバ・リョウキが片手で振り回していたせいか、抱いていた、扱いやすい物であるという印象は、この剣を実際に握ってみた瞬間に消し飛んでいた。
特殊な材質を用いているのか、刃の部分はざらついていて、一目では切れ味を確信するのは難しい。
引きずるような姿勢のまま、重い剣を両手で握って、再び狂鬼の前へ出たシュオウは、地に穿たれた足の一本を横凪ぎに切りつけた。長い刃は跳躍することなく節に届き、刃が触れた瞬間、たしかな手応えと共に狂鬼の足は真っ二つに切り落とされていた。
体の一部を欠損した狂鬼は泡を食ったように後退する。泣き声や悲鳴を連想させる咆哮をあげると、身を縮めて体を包み込むように、背に折りたたんでいた甲羅を広げた。戦意を失ったその行動を見て、シュオウは咄嗟に腹の下へ飛び込んだ。
覆い被さるように迫り来る狂鬼の体の下、バ・リョウキの剣の柄を大地に突き立て、刃の先を迫り来る輝石の中心に当てる。軸がずれぬようにきつく剣を固定し、広がっていく影の内で、シュオウはじっと褪せた緑色の輝石を見つめていた。バリン、と音をたて、剣の先が輝石の中に食い込んでいく。殻に閉じこもろうとする自らの運動により、輝石に刃を飲み込んだ狂鬼の体は、次の瞬間に粉々の砂となって四散した。
天に向かって舞昇る光砂に包まれながら、シュオウはどっと尻を落とした。どっかりと背を大地に預け、ひんやりとした感触を味わいながら見上げた空は、早朝を間近に控えてうっすらと光明に覆われつつあった。
頭の上から、わき上がるような歓声が聞こえた。地面に預けたままの頭をずらして、逆さまに見た景色のなかに、生き残った仲間達が駆け寄ってくる姿がある。痛みで軋む体も、震えが止まらない足の事も、彼らの無邪気に喜ぶ顔を見てすべてが吹き飛んでいた。
──そういえば。
シュオウはサンゴ兵らに連れられていったバ・リョウキの姿を思い出していた。彼の腰には、奪われたままになっていた自分の剣が差されたままだ。戦いのなかで投げつけたもう一本は、おそらくそこらに紛れて転がっているだろう。
「全部は、無理だったな」
一人つぶやき、シュオウは駆け寄った仲間達に抱き上げられた。
エピローグ
深夜の城塞を混乱の渦へ貶めた、件の狂鬼が討伐されて後。シュオウはくたくたになった体を休める間もなく、拠点内部の状況把握と、生き残った敵兵達への対処に奔走するはめになっていた。
ボルジの手配によって発せられた知らせは、無事にサク砦まで届き、確認のために先行して訪れた斥候隊の面々は、敵兵がひしめくはずの渦視城塞の惨状を見て、しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。
救援のための本隊を待つ間、先に渦視奪還のための兵を送り届けたサンゴの部隊に対し、シュオウは捕らえたア・ザンを城壁の上に立たせて脅しをかけたが、期待していた効果はみられず、騎馬精兵を率いるサンゴの部隊長は突撃を命じて剣を掲げた。だが、彼らが実際に攻め込むための一歩を踏み出すより先に、ふらりとシュオウの隣に姿を見せたア・シャラを見るや、サンゴ兵らの態度は一変した。歯を食いしばり、憎々しげな視線を送りつけた後、ア・シャラに一礼した部隊長は隊に撤退を命じたのだ。その時になり、シュオウは誰に人質としての価値があったのかを、読み間違えていたことを知った。
渦視城塞は夜の闇にあって、やたらに賑やかな喧噪の中に包まれていた。
狂鬼の暴れまわった爪痕の残る中庭には、いまだ生々しく散った血の跡が色濃く残っている。
前日まで地下牢の中で飢えて縮こまっていた男達は、死闘の繰り広げられたそこで、食う飲むの大騒ぎを堪能していた。渦視制圧を成し遂げた褒美として、知らせを受けてオウドからこちらへ向かっている、アル・バーデンの計らいにより、シュオウを含む彼ら元虜囚達は、この特別な宴の出席者になる資格を得たのだ。大勢のムラクモ兵や輝士達が厳戒態勢で渦視を守備している中、これだけの待遇はまさに普段ではありえないほどの厚遇だった。
シュオウは肉と酒を片手に談笑する仲間達から少し離れ、温かな炎を囲みながら震える足の筋をゆっくりともみほぐしていた。傍らには、防寒用の織物をかけられ、丁重に傷の手当てがされている南方人であるガ・シガが、仰向けに寝息をたてていた。
誰かが派手に酒瓶を割った音が響くと、それまでぐっすりと眠っていたシガは、鼻を鳴らしてがばりと体を起こし上げた。
「……どう、なってる」
目の前の光景に呆然としているシガに、シュオウは声をかけた。
「よく寝てたな」
それまで隣に座るシュオウに気づいていなかったシガは、びくっと体を震わせた。
「てッめえ──」
シガは敵意のある視線で睨みをきかせた後、すぐに自身の左手甲を見た。
「──拘束も封じもなしで怪我の治療まで……どういうつもりだ」
「一応、協力者ということで話が通ってる」
シガは不満げに口元を歪めた。
「俺はムラクモに与したつもりなんざ、これっぽっちもねえぞ」
「わかってる。でも、結果的にお前が暴れてくれたおかげで仲間は助かった」
「くそッ──」
そう吐き捨てたシガは、アゴに触れて耐えるような表情をした。
「勝負をして……俺は…………負けた、のか」
敵意を下げ、アゴを抑えながらシガはシュオウを見て訝った。
「あいつは、ア・ザンはどうなった」
「生きてる。今は地下牢の中で縛られて、十人近い男達に見張られてるよ」
「あのでかい虫は」
「倒した」
言って、シュオウは傍らに転がったままの、砕けた狂鬼の大きな輝石と切り落とされた虫の足を指さした。
「倒したって……お前、なんなんだよ……」
正面を向き、シュオウは言った。
「お前じゃない」
「はあ?」
「シュオウだ。名乗っただろ」
おかしなものでも見るかのように眉をあげたシガの名を、シュオウは呼ぶ。
「シガ」
「……なんだよ」
「捕まっていた時、もう南では行く当てがないと言ってたな」
シガは仏頂面で頷いた。
「ムラクモに……俺の所に来い。ちょうどいいだろう」
「軍に入れって、そう言いたいのか」
「そうしたいなら頼んでみる」
シガは傍らに唾を吐き捨てた。
「けッ、冗談じゃねえ」
唇を尖らせて不満を露わにしたシガが子供のように見え、シュオウは笑った。
「なら、俺が雇う」
「……雇って、なにをさせたい。誰かを殺せってのか。それとも、三脚の捕獲法を教えろってか」
どこか憎しみのこもっている言い方だった。実際、甘言に釣られて大切なものを失ったのだから、警戒するのも当然だろう。
「どっちにも興味はない。目的が必要なら、護衛という事でいい。お前みたいな強いやつが側にいれば、それだけで仲間が助かる可能性が増える。今回の事でそれがよくわかった」
シガは鼻をかいてむずがゆそうに視線をはずした。
「……俺は高いぞ」
「なんとかする」
「……気まぐれで、飽きっぽいしな」
「他にやりたい事を見つけたら、好きなときにやめればいい」
シガは拳に巻かれた包帯をまじまじと見つめ、舌打ちした。
「くそッ、断る理由が……おもいつかねえ」
シュオウは確認を求めるように拳を差し出した。おそるおそる、シガは大きな握り拳をぶつけて返す。シガはそのまま手を広げ、親指と人差指を折って数えた。
「一応、お前には二つ借りがある。それを返すまでは付き合ってやる。ただ、最後に一つだけ、どうしても見送ってやりたいやつがいる」
「言っていた生き物のことか」
シガはしんみりと視線をおとし、頷いた。
「飼い慣らした三脚が死んだときは、元々のいた深界の森へ返すのがガ族の習わしだったとか、俺を育てたジジイが言ってた。ただ一人になった俺が、一族の風習を真似るのもばかばかしいと思ってたが、今は無性にそれをしてやりてえ」
シュオウは強く頷きを返した。
「俺も手伝う」
横目をちらりと向けたシガは、深く息を吐いて肩の緊張をほぐした。
「おい、こら! シロウ! こんなところで、なに辛気くせえ顔してやがんだ! 飲めや、おら! ぷわーっと飲め飲めぇ」
赤ら顔に座った目で、酒樽をかつぎながらノシノシと迫ってきたボルジは、シュオウの後ろに立つと樽を逆さにして中に入った酒をとくとくと髪の上に注ぎ始めた。
「おいッ」
急なことに止めに入ろうと膝をたてたシガを、シュオウは笑って止めた。
「慣れてるんだ」
*
ごたごたの最中に敵兵から受けた切り傷を抑えながら、ハリオは憎々しげに片隅で濡れた髪を拭くシュオウを睨みつけていた。
どこからともなくふわりと姿を現した、この場に不自然なほど美しい、褐色肌の南方人の少女がシュオウの隣に腰掛ける。濡れ髪を拭く乾布を奪い、馴れ馴れしい態度でシュオウの髪を拭いているが、あの娘は囚われの身となっている、この城の主の娘なのだという。
──わけがわからねえ。
心中、ハリオはそう吐き捨てた。
閉じ込められ、食べ物を絶たれ、見世物として残虐に処刑されるはずだった。ならばせめて、一人生き残ったシュオウを、皆が呪いながら死ねばいい、と薄ら寒い考えに囚われていた。だが、そうした状況からほんの僅かな時を経て、自分達は今、特上の酒と食事にありついている。しかも、輝士という特権階級にある者達が立って見張りをしている中で、だ。
「なんでなんだよ……」
問いかけに返す者はだれもいない。皆が生きている事と勝利を祝い笑顔を浮かべて宴を楽しんでいる最中、一人無表情で黙り込んでいる自分のまわりに、人が集まるわけもない。相棒のサブリですら、無言を貫いていた自分に愛想を尽かして、他の者らと共に炎を囲んで楽しそうに酒をあおっていた。
ねっとりとした沼底のようにシュオウを睨むハリオは、突如はっとして顔を背けた。視線が一瞬交差したような気がしたのだ。
顔を落とし、揺らめく炎に照らされた地面を見つめていると、どっかと、隣に人が座る気配がした。俯いたまま視線を送った先には、肩に濡れた布をかけたシュオウがいた。
目立つ灰色の髪はまだ濡れていて、炎に照らされて煌々と燃えさかっているようにも見えた。
「怪我は大丈夫か」
柔らかな口調で聞いたシュオウに、ハリオは顔を背けて無言を通した。沈黙の後、シュオウは深く息を吐き、ややトゲのある声で、
「あやまらないからな」
とつぶやいた。
ハリオは思わず顔をあげていた。険しい顔で口元を歪め、隣に座るシュオウを睨みつける。
「誰のせいでこんな──」
重ねた視線の先にある、鋭い眼光を帯びた瞳に、ハリオは思わず顔を背けていた。
「──お前は、偉そうなんだよッ」
「わかってる」
他人事のように軽く流して言ったシュオウに、ハリオの苛立ちは膨れていった。
「開き直ってんのか」
シュオウは小さく指を立て、酒を片手に大宴会を楽しんでいる男達を指さした。
「偉そうにしてないと、あいつらは従わない。ここがそういう場所だと知ってから、そうするのが一番いいんだと思った。言うことをきかなければ従わせる。言ってだめなら力尽くか、金や物で納得してもらう。皆が仕事をしている最中に、遊んでいるやつがいたら、注意する」
痛いところをつかれ、ハリオは感情的に声を尖らせた。
「俺はお前の先任だ! シワスでも助けてやって、王女が遭難したときだって、俺の持ってたツマミで助かったって言ってたくせによ……」
「一人を特別扱いしたら、きっと他の奴らは俺を軽く見る。自分のためにそうしたし、これからも必要ならそうする。俺は何も変える気はないし、後悔もしていない。だから、あやまらない」
「──ッ!」
返す言葉が見つからず、ハリオは足下の小石を蹴り飛ばした。
「偉そうにしていたとしても、見下しているつもりはない。みんな同じ人間で、同じ仲間だと思って──」
シュオウの体が突然ふわりと持ち上がった。酒に酔った男達が集団でシュオウを担ぎ上げ、高く突き上げて賞賛の叫びをあげた。彼らに連れて行かれるシュオウは、めずらしく慌てた様子で足をばたつかせている。
ぽっかりと空いた席を見つめ、ハリオは一抹の寂しさを抱いていた。嫌い憎んでいたはずの人間と、もう少し話していたいという、やり場のない気持ちが後に残る。
やり場のない思いを埋めるように、空いた席に一人の男が座った。直接話したことはないが、皆からジン爺と呼ばれ親しまれている老人だった。
「やめとけやめとけ」
ジン爺は酒袋を煽ってそんなことを言った。
「なんだよ、いきなり」
「人を恨むな、張り合うな。そのどちらかか、両方に捕らわれて早死にしたやつを腐るほど見てきたぜ。お前みたいなのを見てるとな、そういう連中を嫌でも思い出しちまうんだ」
「別に、張り合ってなんかねえよ」
ジン爺は赤ら顔に笑みをつくった。
「ふんッ、まあ場合によっちゃ、張り合うのは悪いことじゃねえかもしれねえ。でも相手は選べや。少なくとも、あいつはやめておけ」
「……シュオウのことか」
ジン爺は強く何度も頷いた。
「いるんだ、ああいうのが。ひょっこりでてきて、なにかでかいことをやっちまうような奴がよ。その結果が詩や物語で語られるか、それともどこかでのたれ死ぬかはわからねえが、あの若造は俗に言う英雄ってやつの素質があるんだろう。血の気の多かった若い頃の俺でも、ああいうのに張り合おうとはしなかっただろうさ」
「なにが英雄だよ……石の色だって同じじゃねえか。俺たちと同じ、ただの平民じゃねえかッ」
ジン爺はにやと、したり顔をしてみせた。
「同じなもんかあ、あの頭の悪い荒くれどもが、自分と同じ人間を担ぎ上げると思うか。見てみろ、あいつらの馬鹿面を」
シュオウを担いで騒ぐ者達は、皆上にいる彼を見上げて、幼子のように目を輝かせている。日常に見る彼らは一様に濁り諦めを含んだ擦れた眼で世を見ていたというのに、ここにいる誰もがシュオウに向ける目は、おとぎ話の英雄にあこがれる子供のそれと同じだった。
「まさかな、俺も生きている間にあんなのをお目にかかれるとは思わなかったぜ。へへッ」
立ち上がったジン爺は、まだたっぷりと中身のある酒袋をハリオに投げ、胴上げを繰り返す一団に向けて走り出した。その横顔には、彼の若い頃を彷彿とさせる活力に満ちた笑顔があった。本人の言葉を真似るならば、まさにそれこそ馬鹿面だ。
輪にくわわって手をあげて跳ねるジン爺の背中を見つめ、ハリオは酒袋を盛大にあおった。
輪の中心で高々と舞うシュオウを見つめ、ハリオは心の中で彼に向けてつぶやいた。
──もう誰も、お前を同じだなんて思ってねえってよ。
*
一夜明け、オウドから寝ずの強行軍で渦視に到着したアル・バーデンに呼び出され、シュオウはア・ザンが応接用に使っていた部屋に通された。
「これが、あの岩縄か──」
戦利品として持ち歩いていたバ・リョウキの落とし物を渡すと、アル・バーデンは涎をおとさんばかりにそれに魅入っていた。
「──南西の覇国ヘリオドールの宝剣。遙かな昔、中央大山の頂上より持ち帰ったとされる神の鉱石を、高名な名匠が生涯をかけて鍛え上げたというが……眉唾な話と、若い時分に聞いた時は笑ったが、手にして見れば、なるほど納得してしまうだけの気迫がある」
アル・バーデンは剣にうっとりとみとれていた。
「興味があるなら」
気前良く剣を差し出すと提案したシュオウに、アル・バーデンは顔を綻ばせて驚きに声をあげた。
「なに?!」
しかし、愛おしそうに剣を持つ手を、副官であり彼の配偶者でもあるケイシア重輝士がばしんとはたいた。痛がる上官から剣を奪ったケイシアはそれをそそくさとシュオウに引き渡す。
「悪行をそそのかすのはやめてください。他人の手柄を横取りしたなどと噂がたてば、夫の名は地に落ちてしまう。それはあなたが勝ち得た物でしょ。軽はずみにひとに渡すようなことは慎みなさい」
叱りを受けつつ受け取った剣を、まじまじと見つめる。これは多くの者にとって価値のある物のようだが、シュオウにとっては、ただ堅くて丈夫な棒に等しい。自分のためにと、考えて用意してくれたアデュレリアから贈られた剣のほうが、よほど価値があった。
「しかし、未だに信じられん。あのア・ザンを捕らえ、我がオウドの軍がこの渦視を制圧下においているとは」
噛みしめるように言うアル・バーデンに、シュオウは問う。
「ここは、これからどうなるんですか」
「わからん。いくつも道はあるが、このままムラクモの統治下に置かれるか、さもなくば賠償金をせしめて返還するか。俺はおそらく後者であろうと考えている」
「返して、しまうんですか」
声を落とすシュオウに、アル・バーデンはむずがゆい顔をした。
「言うな、俺に決定権はない。まあ、上はそうするだろうという話だ。実質的な裁量権は近衛を統括する元帥にある。グエン公は渦視を支配下に置くことで周辺国に刺激を与えることを嫌われるだろうな」
上の人間にも考えはあるだろう。きっと自分には見えていない事情や理由があるのだろうが、せっかく奪い取ったものをあっさりと返してしまうのは惜しい気がした。
アル・バーデンはシュオウの気持ちを汲んでか、慰めるように笑った。
「そんな顔をするな。返すなら返すで、その分たっぷりと金はせしめることになるだろう。当分の間は、サンゴがまともな軍を動かせないくらいのな」
すっきりとしない顔のまま、シュオウは頷いた。
「はい」
アル・バーデンは突然立ち上がり、シュオウの手を両手で包み込んで頭を下げた。
「礼を言う。自分の立つ道は暗闇で、先にあるのは壁ばかりと思っていたが、初めて光明が見えた。これで当分の間は胸を張る事が出来る。よくやってくれた」
照れくささに頭をかきたくなったが、強く包みこまれたアル・バーデンの大きな手は、それをさせてはくれなかった。
「このままオウドに残り、俺の元で働いてほしい、と言いたいところだったのだがな、よこやりがはいった」
アル・バーデンは憎らしげに言い捨てた。
「よこやり?」
「上からの達しで、近日中に近衛から調査団が派遣されてくるが、お前に関しては中央への召還命令が下された」
シュオウは慌ててアル・バーデンの手を放した。
「ここを出ろってことですか……あいつらから──仲間達から離れろって」
強く睨んだシュオウに対して、アル・バーデンは気まずそうに鼻をかく。
「命令だ、仕方ない。その後のことがどうなるかは、俺にもわからん。オウドへ戻される可能性がないとはいわんが、確約ができる立場にはないからな。この命令は近衛軍元帥の署名付だぞ。よほどの手柄をたてたとしても、早々あることじゃない。俺としては、喜んでもらえる話だと思ったんだが」
悪い話ではないとアル・バーデンは言う。武勲に報いるための呼び出しだというが、シュオウとしてはせっかく築いた人間関係を根こそぎに奪われてしまったようで、悲しかった。
「残していく彼らが……心配です」
生き残ったムラクモの男達。そのなかには今回の一件で二度と戦場に出られないような傷を負った者もいる。
静かに様子を窺っていたケイシアが前へ出た。
「臨時雇いだった人間の処遇に関しては、この件への功績として正規の従士としての雇い入れるよう働きかけるつもりです。負傷した人間に関しても、生活に困窮しないように何らかの配慮を検討します。だから、心配しないで行ってきなさい」
シュオウが渋々頷くと、アル・バーデンはなぜかほっとしたように肩をさげた。
「まだ聞かねばならんことが山とあるが、俺もまだここへ到着したばかりだ。オウドから腕の良い料理人を連れてきている、夜の予定はあけておけ」
夕食を共にすることを約束し、シュオウは行き場のない不満を押し殺したまま、上官に退室することを告げた。
*
部屋を出たシュオウを見送った夫婦は、どっかりと息を吐いて緊張を解いた。
「見たかあの顔」
どこかげっそりとした様子で言ったアルに、妻のケイシアは、ええ、と返した。
「おっかないな」
実質的に仲間を置いていけ、という命令が下された途端、シュオウは見る者を圧倒するような怒気をふりまいた。それは長年軍に身を置いてきたアル・バーデンをも怖じ気づかせるほどの迫力があった。
「あんな事言ってよかったのか? 節約が信条のお前にしては、ずいぶんな大盤振る舞いだったな」
「つい……あれくらい言わないと納得してくれないような気がして。でも、言った以上は実行してみせる。それに──」
意味深に言葉を止めた妻に、アルは問う。
「それに、なんだ」
「彼には何か特別な……その、気風のようなものが見えたのよ。アデュレリアから紋入りの剣を下賜されるはずよね。もし、今後も彼が羽ばたいていくのなら、これくらいの恩は、売っておいて私たちに損はないはず。そう思わされてしまうくらいの気迫が、今の彼からは感じられる」
「英雄、といいたいのか。たしかに、あれのしたことが真実その通りなら、言うに不足はないのだろうが──」
すねたように唇を尖らせた夫を見て、ケイシアは笑った。
「妬いてるの?」
「……悪いか? お前がそれだけひとを褒めたのも、あまり覚えがないぞ」
ケイシアは座る夫の膝に腰を落とす。大きな腕を腹に回し、どっかりと体を預けて顔を寄せた。
「あなたは特別よ。私が選んだ人だもの。生まれてくる私たちの子供ともども、生涯愛し尽くしてみせますから」
じんわりと熱を帯びていく体の熱を自覚しながら、アルは強く妻を抱き寄せた。ふくらんだ腹に手を当て、幸福に満ちた時を堪能する。が、
「そうだッ、生まれる子が男の子だったら、渦視制圧を成し遂げた英雄から名前をもらうのはどうかしら」
愛する妻からの提案に、アルが一瞬びくんと身を固めると、ケイシアはそれをおもしろがってけらけらと笑っていた。
*
アル・バーデンとの挨拶をすませ、シュオウは単身廊下を歩いて外へと向かっていた。下へ続く階段が見えた頃、すぐ目の前の部屋からなにげなく顔を出したシャラは、シュオウに目をやると気軽に挨拶を寄越した。立場を思えば幽閉されていてもおかしくないはずだが、シャラは拘束もなく自由なまま、しかし初めて見る艶やかでひらひらとした紅の衣装を身にまとって、めかしこんでいた。
思いもよらなかった美しいシャラの立ち姿を、ぼうっと見つめていると、シャラは機嫌良く微笑んだ。
「機嫌が悪そうだな」
言ったシャラが廊下に出ると、彼女の後ろから、ぞろぞろと帯剣した女の輝士達が続いた。輝士達は外へ出ると告げたシャラの肩に慌てて外衣をかける。その様は監視のため、というより、ただ高位の人間にかしずく女官達のようだった。
「出歩いて大丈夫なのか」
「父の助命を求める代わりに、祖父王との交渉に協力を惜しまないと約束した。お前達の指揮官は甘いな、ほんのすこし協力的な態度を見せただけで、私に信を置いたようだ。ただ、身分に相応しい格好をしろという要求だけは、窮屈でわずらわしい」
シャラに促され、シュオウは並んで階段を踏んだ。
「ア・ザンは……お前の父親はどうしてる」
父の事を聞かれ露骨に顔を歪ませたシャラは、どこか自嘲しているようにも見えた。
「体調にはなんら問題ない。ただ、ひどく怯えていた」
「どうした?」
「どうもしない、被害妄想だ。自分がしていたように、ムラクモから酷い拷問を受けるのではないか、とな。自分がする事を相手もする、と思い込むのが愚者の常なのだろう」
「そういうことか」
いいきみだ、などと今更考えもしなかった。生涯の恨みを抱くほどの仕打ちを受ける前に逃げ切った自分としては、これ以上の執着心は持ちようもない。実際話を聞いても、シュオウはア・ザンという人間の今後についてなんら思う事はなかった。
階段を降りて一階の廊下に出た。長い通路にはあちらこちらに飛び散った血跡が残り、それらはなまぐさい人間の末期の瞬間を連想させた。
「少し前まで、ここにはサンゴの兵士達が行き交っていた。死んだ者達も、生き残った者達も、いまこの瞬間に無傷で私がここに立っている事を知れば、きっと軽蔑して罵るだろうな」
シャラは物憂げな顔で下唇を触った。
「後悔しているのか?」
シュオウがそう聞くと、シャラは眼を怒らせた。
「お前のやることを知りつつ止めなかった事をか? そんなもの、ここまでの結果になると誰が考える。わかっていたとしても、不慣れな深界の森でそれができたと──」
感情的になってまくしたてるシャラに、シュオウは重い言葉を返して遮った。
「違う。あのとき、あの手をとってここを出なかった事だ」
シャラは見開いていた眼を閉じ、唇をそっと噛みしめた。
「……父を一人置いていきたくはなかった、ということもある。でも、本当のところでは、この流れに身を任せてみたいという欲求に負けてしまった」
「流れ、か。よくわからないな」
「なんとなくのものだ。すでに凝り固まっていたと思っていた私の世界が根底から崩れたんだ。国防の要を担う父と、王の血族たる母。二人の間に生まれ、私は世に落ちた瞬間から王の石を継ぐ資格をあたえられた。なにをしても、なにもかわらない。自分は自分、持って生まれたものからは逃れられない。つまらない、退屈だと嘆いたが、私はまだ、なにもしらなかった。お前のような人間を見て、知らなかったという事を知った。しばらくはこのまま身を委ねてみる。そして叶うなら、この機会にムラクモという国を見てみたいと思っている。あの赤毛の輝士いわく、ムラクモはクオウ教圏の国々のようにやばんではないらしい。なら、おとなしくしているかぎり我が身を憂う必要もないだろう」
シュオウは軽く返事をした。
「そうか」
シャラは訝る。
「聞くが、どうしてそう涼しい顔をしていられる。自分のしたことをきちんと理解しているのか? どれだけの人間の運命をひっくり返したのか、少しは考えてみるべきだ」
年下の少女から叱られた気がしてシュオウはむすっと黙り込んだ。歩みを早めると、シャラはむきになって競るように足を動かした。徐々に早まっていく速度のまま、飛び出すように外へ出た途端、シュオウは改めて見るその光景に絶句した。
四方八方に崩れた瓦礫が飛び散る光景の中、中庭の半分近くを覆うほどのムラクモ兵達が、こぞって自分の名を呼び拳を突き上げて歓喜の雄叫びをあげている。紅潮した顔で、それぞれに自分を褒め称える言葉を口にし、熱を帯びた視線は一時たりともはずれることもなかった。
「この光景は全部お前がしたことの結果だろう。少しくらい調子にのったらどうだ」
シャラは戸惑う輝士達を引き連れて、父の元へ行く、と言い残して去って行った。
「シュオウ!」
耳に慣れた野太い声が聞こえた。素早く声の主を追うと、満面の笑みを浮かべたボルジと目が合った。
不意に彼が投げて寄越した筒を受け取り、中を見たシュオウは破顔した。手に馴染むそれを筒から取り出して、定位置である腰帯に差し込む。背にある英雄の剣よりも、想いの詰まった〈針〉が戻ったことを喜び、シュオウは自分の名を呼ぶ仲間達に向け、高らかと拳を突き上げた。