Ⅳ 初陣
〈サク砦〉は、ムラクモという国が深界に有する拠点の中でも最南端に位置し、その先にあるものを封じ込める蓋としての役割を果たしていた。
互いに境界を睨む、サンゴの渦視城塞に比べれば、サク砦が有する防衛拠点としての機能は最低限のものでしかなく、本来最重要拠点の一つであるはずのそこは、不当といえるほどの過小評価の元に、雀の涙ほどの資金を頼りに運営されていた。
鈍色に湿った空から、絹糸のような雫が降り注いでいる。
深界、灰色の森の奥深くから、狂鬼達の不気味な咆哮があがり、白道は水気を帯びて青白い一筋の光で色味のない世界を彩っていた。
強い水の香りを受け、鼻孔が潤っていく心地よさを堪能しつつ、シュオウはボルジと共に、サク砦の物見やぐらに入り、深界という世界が放つ独特な静の景色を眺めていた。
ボルジはトゲトゲしい頭髪を撫でながら、大きな鼻いっぱいに湿った空気を吸い込んだ。
「いいもんだな、春の雨ってやつは」
温かいとまではいえないが、冬に別れを告げた世界の空気は、ほどよく肌に馴染む。時折風にあおられた霧雨が顔を濡らすが、それすら心地良いと思えた。
「俺も、この頃の空気は嫌いじゃない」
「戦が控えてなければ、他の連中ももう少し気を抜けるんだろうがな」
中庭では、若い従士や雇われの傭兵達が、険しい顔で訓練や装備の確認に勤しんでいる。和やかに談笑をしているように見える男達の顔も、目だけは笑っていなかった。
この地の司令官アル・バーデン准将は、サンゴが本格的に戦支度を始めているという情報を元に、オウドから兵を引き連れて、サク砦に戦力を集結させていた。
深界にぽつんと存在する小さな砦に歓楽街としての機能はなく、日々募っていく不安や苛立ちの解消方を失った荒くれ達は、ここのところ些細な事を理由にして、頻繁に喧嘩騒ぎを起こしている。
皆、戦場に生きる男として堂々たる面持ちをしながらも、やはり命のやりとりを目の前に控えた状況に置かれれば、等しく恐怖に身を晒す事になる、とボルジは淡々と語った。
多くの生物は命の危機を迎えた時、まず逃げる事を考える。しかし、この場に詰める多くの者達に求められるのは、生物である前に戦士であるという事。それは恐怖に身を震わせながらも、生きるために戦う事を求められる存在である。
しかし、以前にボルジも言っていたように、なにごとにも例外というものはある。
重たい空気が流れる砦の中で、悠然とした所作で馬の首を撫でている輝士達には、他の者らにはない優雅さが見てとれた。
「さすがに余裕があるな」
シュオウは輝士を頭上から見つめ、そうこぼした。
「そりゃあな。特別な力が使えて、生き残れる可能性が高いやつは、それだけ他よりも気楽なんだろうよ」
「輝士、貴族……か。生まれた場所が違うだけなのに……な」
皮肉を込めたシュオウの言葉を受けて、ボルジが応じる。
「この国の輝士はまあ、それなりに踏ん張って生きてるほうだぜ。お前も、あの貴族のお嬢ちゃん達と居たんだから知ってるだろうが、連中、ガキの頃から教育校に放り込まれて訓練漬けだからな。この国の輝士の質の高さには、それなりの理由があるってこった」
その言葉の通り、ムラクモには高い水準の輝士教育制度が整っている。他国では彩石を持った人間はかならずしも戦いに身を投じないが、ムラクモでは生まれの階位や性別を問わず、輝士としての相応しい能力を養うために、宝玉院という施設への入学が、不文律にも似た慣習として存在していた。馬を自在に駆り、多彩な晶気を操りながら戦場を疾駆する彼らこそが、長きに渡って隣国の侵攻からムラクモを守る盾としての役割を果たしてきたのだ。
「お前は戦場に出るのは初めてだったよな」
「ああ」
「だったら今の内に覚悟しておけよ。戦場で見る色付きは恐えぞ。大抵のやつは狙われたら最後、瞬きをしている間にこの世とはおさらばだ」
戦場に出た経験の豊富なボルジは、肩をすくめて言った。
「でも、ボルジは戦に何度も出たんだろ、それなのに今まで生き残ってるじゃないか」
ボルジはニヤリと笑みをつくった。
「運がよかったのさ、戦場じゃなによりそれが重要になる。なんども戦いの場に出たが、いつもぎりぎりのところで生き残った。深界で置き去りにされたときだって、お前が来て助けてくれた。今度の戦でも、俺はかならず生きて帰ってやる」
拳を出して言うボルジに、シュオウも拳を重ねて答えた。
「そうだな。でも、もうお前みたいな重いのを背負って歩くのはごめんだ」
「へッ、言ってろよ。でも、お前はいざとなったらそうする男だよ、間違いなくな。前はこんなふうに誰かを信じる事なんてなかったが、あの時、狂鬼が目の前に現れて、もう全部諦めちまったときによ……お前が一人でそれを打ち破って見せたあの姿を見て、俺の中でなにかが変わったんだ」
「なにかって?」
「わかんねえ。学がねえからな、言葉にはできねえんだが、ぐにゃりと曲がってたものが、しゃきっとしたっていうかよ。どこか腐った性根で生きてた俺が、今は毎日が楽しくて仕方ねえんだ。ひさびさにお前の顔を見たらな、尚更そう思えてきたぜ」
言っておいて照れたのか、ボルジはよそを向いて顔を隠した。
時刻が夕刻にさしかかろうかという頃。白道の先から荷馬車を引き連れた数人の商人らしき者らが、こちらに向かってくる姿を、シュオウとボルジは確認した。
「敵、なわけないか」
「まあ、どうみても旅商人だな」
彼らが近づき手を振ってみせると、門の前で警護の任務につく従士達が、剣を抜いて荷馬車に詰め寄っていく。旅商の一行から代表者が歩み出て、彼らに何かを見せた後、一言二言交わした後に、従士は剣を収めてこちらに門を開けるように合図を送った。
ボルジが大声で開門を指示し、旅商一行は開かれた扉をくぐった。荷調べを受けた後に、のんびりと反対側へ抜けていく。
国境を挟んで睨み合いを続けるこの状況にあって、旅券以外にたしかな身元の確認方法がない相手を素通りさせるのには理由がある。大手の商会に所属する旅商に道を閉ざせば、彼らは裏から交易品の流通を妨害し、経済面での報復行動に打って出るからだ。実際に商い人を軽んじ、その手の報復を受けた国々は、彼らの行く手を遮るという行為の愚かしさを、身をもって知る事となった。裏で力を持つ商人は、どこでだれと繋がっているかわからず、賢い者ほど、そうした相手に対してはある程度の便宜を図るのだ。
もちろん、戦時下にあっては警戒を強めなければならない。通過を求める旅商が、いかな大商会に所属していようとも、厳重な荷の検査は避けられず、かかる手間の分、平時よりも多く通行税を徴収される事になっていた。だが、旅商の側からしても、わざわざ遠回りをして消費する旅費を大幅に節約できる分、利とそれに伴う危険に関して、十分に計算したうえでの選択である。
交代の時刻を迎え、シュオウとボルジは年若い二人組の従士にやぐらの席を譲った。
砦のかがりかごに火が入り、そこかしこで夜食の支度が始まっている。
シュオウはボルジと連れだって、ねぐらを目指していたが、飯の支度に賑わう中庭を通りすぎた時、部下の一人であるサンジと出くわした。
「サンジ、装備の確認はすませたか」
シュオウが問うと、サンジは後ろ頭に手を乗せて作り笑いをした。
「へいへい、やっといたよ。あんたの言った通りボロクソになった物ははぶいといたが、上に言ったって代わりの支給品なんて出てきやしねえぞ」
「言うだけはためしてみる。それより、食事の前に少し汗をかくのはどうだ」
シュオウは剣を握るそぶりをしてみせたが、サンジは困惑した顔で首を振った。
「かんべんしてくれよ、あんたの腕はいやってほどわかったからよ。わるいけど俺は行かせてもらうぜ、いそがねえと飯の取り分がなくなっちまう。訓練なら明日にしてくれや」
シュオウは離れたがるサンジに許可を与え、小走りで駆けていく姿を見送った。
「隊長としては、なかなかさまになってきたじゃねえか」
ちゃかしつつ、ボルジはシュオウを肘で小突いた。
シュオウは頭をかきながら溜息をはいた。
「どこがだ。自分より長く生きている相手を下に置いて接するのは、すごく疲れる」
だが、初めの頃を思えば、傭兵達は随分と大人しく言うことを聞くようにはなった。ここ数日の間、木剣等を使った訓練で彼らを打ちのめしてきた事も関係しているのだろうが、やはり金を使って個人的な雇用関係を結んだ事が、その理由としては最も妥当といえるだろう。
彼らになめられないよう、ジン爺という年長者の助言に従って出来るかぎり横柄に振る舞ってはいるが、それに関しては未だぎこちなさが抜けずにいた。目上の者を相手にするのであれば、シュオウは調教とも呼べるような師匠とすごした日々で、どう接するべきかよく把握している。が、逆の場合に関しては、とことん初心者だった。
若く、軍での経験も浅いシュオウにとっては、自力で人の信頼を得るというのは、カザヒナの元で慣れない剣術に励んでいた時より、よほど難しい試練だった。
「ちと、うちの連中の様子を見てくる。あのバカ二人が今朝も飯炊きをサボりやがって、さっぱり行方がわからねえ」
ボルジの言う二人のバカとは、シュオウの知るハリオとサブリの両名の事である。
二人は、心が蕩けてしまうほどの退屈を謳歌できたシワス砦の精神をここまで引きずっているのか、何かとサボる事ばかりに意識を注ぎ、強面の隊長であるボルジの目を盗んでは、いつも目立たない場所で愚痴愚痴と雑談を交わしていた。
「わかった。俺は戻って腹になにか入れておく」
互いに了解を告げ、シュオウはボルジと別れ、空腹を告げる腹を押さえながら兵舎を目指した。
兵舎に続く通路を歩いていると、はずれにある厩の影から楽しげな笑い声が聞こえてきた。その声に、聞き覚えを感じて様子を伺うと、案の定、藁束に寝転がって酒袋を煽る二人の男達がいた。
「こんなところに……」
声をかけると、どこからか調達してきたのであろう骨付き肉を囓りつつ、酒をあおる二人の怠け者たちが手を振って応えた。
「おう、シュオウか、いいかげんお前もつきあえ」
ハリオはへらへらと笑いながら言うが、シュオウは不快感を腹に溜めて忠告した。
「ボルジが探していた。朝の食事番をさぼったらしいな」
「ボルジぃ? ケッ、あの筋肉オヤジがなんだってんだよ。そんなこといいから、ほら、お前も飲んでけよ。シワス砦の出身者同士、とくべつに俺がおごってやる」
差し出された袋入りの酒を見つめた後、シュオウはそれを思い切りはじき飛ばした。突然の事に、ハリオとサブリの二人は酔いの冷めた顔で目を見開く。
「な、なんだよ、なにすんだよッ!」
激高したハリオは立ち上がり、シュオウの襟首を掴もうと手を伸ばすが、シュオウはその手首を掴んで動きを制した。サブリがおろおろとそれを見守っている。
「ハリオ、サブリ。二人とも今すぐ自分の隊に戻れ」
二人を呼び捨てにして命令口調で言い放つ。ハリオは口元を醜く歪めて酒臭い息でわめきちらした。
「ハリオ……だとぉ? 偉そうに呼び捨てにしやがってッ! 馬にも乗れないヘタレのくせに、ほんのすこし早く出世したからって、俺達はてめえの家来じゃねえんだぞ!」
ハリオは捕まれた腕を引こうとした。とった体勢からしてシュオウに殴りかかろうとしたのだろうが、日々体を鍛え上げてきたシュオウは、細身に見えても並の男以上に力はある。普段からなまけ体質で酒ばかりあおっているハリオが相手では、子供と対しているのと変わらない程度の手応えしかなかった。
シュオウは掴んでいたハリオの手首を放し、彼が動き出すより前にその襟首を掴み上げ、睨みつけた。
「そんなにここが嫌なら出て行けばいい。それができないなら、最低限の義務は果たせ」
ハリオは顔を紅くして怒りをあらわにしているが、強く言ったシュオウを前にそれ以上手を出してこようとはしなかった。場が沈黙して、サブリがハリオの背中に触れて言葉をかけた。
「行こうよ、ハリオ。たしかにさぼってた俺達が悪かったんだし」
ハリオはしばらくシュオウの目を睨んでいたが、サブリに言われ悪態をつきながら視線をはずした。
手をふりほどいて厩を後にする二人に、追い打ちをかけるようにシュオウは言う。
「次にまたさぼっている所を見たら、俺は、今と同じ事をする」
背中を向けたまま足を止めたハリオは、唾を吐いて去って行った。困惑しながらこちらを見るサブリの視線を受け流しつつ、シュオウは彼らが見えなくなるのを待ってどっと溜息を吐き出した。
自分の正直な気持ちとして、あの二人が何をしていようとどうでもいい事だし、説教をたれるほど自分が偉くなったとも思えない。だが、以前にジン爺に忠告されたように、部下の前で馴れ馴れしい態度で接し続けられるのは困る。それに、ボルジは横柄ではあるが隊長として、寝る時間を削りながら仕事をよくこなしている。そんな人間の影で仕事をさぼり、その都度逃げ回るあの二人の態度に辟易していたのも、また事実だ。
――めんどうな事ばかりだ。
関わる人間が増えるごとに、心の底に溜まる汚泥のような感情が降り積もっていた。
*
バ・リビが叔父と共に渦視城塞に入って、すでに二十日以上が過ぎていた。
宣戦布告を間近に控え、渦視城塞は戦支度で慌ただしく活気づいている。
深界における戦は、その土地が持つ性質上、実に単純な方法によって行われてきた。すなわち、正面からぶつかって勝敗を決する、というただそれだけである。
進軍する道は決まりきった事で、奇襲や強襲は意味をなさず、たとえ虚を突こうと不意に軍を進めたところで、物見役に報告されて簡単に露見してしまうので、これも意味がない。ならば面倒ははぶき、互いに日時を合わせて布陣し、堂々と正面から殴り合おうではないかという、原始的で単純明快な手段によって勝敗を争う事が、国家間の伝統となっていた。
搦め手によって敵と対する事が困難な深界戦においては、もっとも重要視されるのが、戦う兵の質である。とくに硬石級と区分される、彩石を有する人間によって構成される兵科の数と熟練度によって、勝敗が左右されるといっても過言ではない。
南方諸国、とくにムラクモとの間に火種を抱えているサンゴが有する硬石級兵である星君や僧兵は、その数質ともにムラクモに大きく劣っていた。
南側では、彩石を有する上流階級の人間に兵役の義務はない。才を持ちながら、血なまぐさい戦場を嫌い、国家のために力を尽くそうとはしない者達の数は、その対極に立つ者を遙かに凌ぐ数になる。
深界で布陣できる兵数にはかぎりがあり、道幅によってその数は大幅に変わるが、広々とした白道を埋め着くすだけの歩兵を用意したところで、晶士に代表される遠距離砲撃を得意とする硬石級兵に一網打尽に刈り取られるだけであり、自然、どこの軍でも用いる歩兵の数には制限がかかり、彼らは小さな部隊にまとめられ、騎兵として戦場を闊歩する硬石級兵の足止め程度の役割しか期待されていなかった。
主に軟石級と区分される濁石を持つ平民階層か、それ以下の者達で構成される歩兵部隊。そして硬石級に区分される輝士、星君といった貴族階層に属する者によって構成される騎兵、砲術部隊。大別して硬、軟の二種の兵において、東側一帯を統べる大国ムラクモを相手に、サンゴは劣勢な立場にあるが、長らく両者間に勃発している争いで決定的な決着はつくことがなかった。
その理由として、深界の上に敷かれた白道という、かぎられた空間での戦では、同時に展開する事のできる兵力がかぎられているため、かならずしも国力が影響するわけではないという事がある。そしてもう一つ、この戦において、ムラクモは本来余裕があるはずの硬石級兵力の投入を渋っているという説が、南方における賢人達の見立てであった。
サンゴに属する者らの前で言うには、彼らの機嫌を損なう考えではあるが、現実の話として、ムラクモはオウドの防衛を軽視しているのではないか、という意見を持つ者は多く、リビの叔父であるバ・リョウキもまた、そうした考えを持つ者の一人であった。
だがサンゴもこの膠着状態をいつまでも享受しているつもりはなかったらしい。ここに至り、彼らは本国の守備につくべき人材を多く呼び寄せたうえ、シャノアに貸しを与えて強引に援軍を引き入れた。その数は期待するだけに達していなかったかもしれないが、自画自賛ではなく、シャノアが派遣した星君は、国でも最上位に名を連ねる精鋭達だ。おまけにその腕において生ける伝説の域にまで達しているバ・リョウキ自らが参戦を予定している。
勝機はある、とリビは考えていた。シャノア軍人の力を見せつけ、サンゴの勝利に華をそえる。華々しい武勲を持って帰国の途につけば、バ族の名声はさらに輝きを増す事だろう。
日々なまっていく体を思い、リビは一人で調練場へと向かっていた。近頃、渦視に詰める兵士達の様子がおかしいのは、戦が近いからという理由だけではないように思えた。そう思う根拠は、この渦視に現れた台風とも呼べる存在、総帥の娘でありサンゴ国王の孫であるア・シャラにあった。
シャラが突如現れ、リビの顔面に蹴りをくれようとしたその日から、彼女は気まぐれに兵達に戦いを挑んでは叩きのめし、がっかりした表情で自室に引き上げていくという行為を繰り返していた。その相手は多岐にわたり、濁石を持つ一般兵から、どこぞの会派の武術を収めたと自称する僧兵などなど、多くの者達が腕を自慢しつつ、年若い公主を相手に完膚無きまでに大敗を喫した。
しだいにシャラが調練場に現れると、それなりの階位にある者らは名が落ちるのを忌避して逃げ回るようになり、腕試しに夢中になる公主に退屈を味わわせる事が、彼らの無言の抗議活動となって顕在していた。
嫌な予感がなかったわけではないが、リビが調練場に訪れると、そこには訓練用の木棒を片手に倒れ込む無数の兵達が地面に横たわり、気を失っていた。中央には美しい銅色の肌に汗を浮かべるシャラがいて、リビを見つけると悪戯を企む子供の瞳を向けて声をあげた。
「たしか、リミ……とかいったな」
「バ・リビだ!」
国は違えど、本来であれば敬意を持って接しなければならない相手に対し、リビはぶっきらぼうに答えた。
「見ろ、いい歳をした男共が、子供を相手にこの様だ。準備運動にもなりはしない」
「生まれ持った彩石の力を使って、それを持たない者をいたぶったところで、自慢にはならないぞ」
言葉によって急所を突いたつもりだったが、シャラは余裕の態度を崩さない。
「足の力は使っていない。我流で研いた円拳を使ってのみでこの結果だ」
そう自信満々に言われ、リビは二の句を次ぐ事ができなくなった。
シャラは地面に転がる一本の木剣を拾い、それをリビに投げて寄越した。
「仮にも剣聖殿の身内なのだろう」
挑発的な視線を送るシャラが、戦いに誘っているのは一目瞭然。本来乗るべきではないこの挑発に、彼女に対する鬱憤がたまっていたリビは、むしろこの状況を歓迎した。
「彩石を持って生まれた者どうしだ、手は抜かんぞ」
「あたりまえだッ」
リビは剣をかまえず、地面に転がるもう一本の木剣を拾い、二剣を構えた。どちらも本来であれば両手で扱うべき重量の物だが、リビはこれを軽々と左右で一本ずつ手に取った。
バ族が受け継いできた輝石の力は、あまりに地味で特長に欠けるもので、シャラのように突出した身体部位の強化を得たり、また自然界に存在する力を具現化して操るような便利な力でもなく、漠然と身体能力全体を強化するという、なんとも器用貧乏なものだった。
並の者より腕力が強いが、それに特化した力を持つ者には及ばず、並の者より脚力に秀でるが、シャラのような才を持つ者の前ではなにもないのと同じだった。視力や嗅覚といった五感に関する力にも多少の強化を得るが、どれも並の人間に毛が生えた程度でしかない。
一見してなにごとにも中途半端に思えるが、しかしバ・リョウキのように得物をあやつる術に長ける場合においては、この特性は、むしろ効果的に作用する。リビは長年その教えを元に研鑽を重ねてきた事を誇ると共に、自信としていた。
「いざ……」
と告げ、リビは二つの大剣を突き出すように構えた。
シャラは自然体で両手の平を腰にあて、左足をすりつつ前へ出した。途端、その足が強烈な蹴りとなってリビを猛襲する。リビは反射的に二剣を盾にするが、雷のような蹴りに押され上半身はいともたやすく均衡を失った。シャラは半歩足を進め、二撃目の蹴りを放つ――が、リビは弾かれた剣の重さを利用し、上半身を反って、寸前でそれを躱した。
リビの顔が直前まであった所に、猛烈な蹴りが通りすぎ、その後から鉄の鎧をガラス片でこすったような、独特な風切り音が鳴った。
バ・リョウキはシャラの才を高く買っていた。あの人にしてはめずらしく手放しで褒めるその言葉に嫉妬も感じたが、リビは今、叔父の言葉が決して大仰ではなかったと、身をもって体感している。
リビは押され気味な状況を打開すべく、中庭を全力で駆けて距離を置いた。大きな石像がある調練場の中央部分まで駆け、体勢を整えて振り返るが、ぴったりと寄り添うように追ってきたシャラの右蹴りが刹那に繰り出され、リビの握る剣のうち一本が、その一撃によって蹴り飛ばされた。
しかし、リビはこれを好機に転じる。残った剣を頭上に構え、両手で握って一撃で相手を仕留める手に打って出た。が、これが悪手となり、むしろシャラに決定的な勝機を生んだ。
予備動作なしの逆側の足を用いた一撃がリビの腹部に決まり、リビは腹を襲った痛みと嘔吐感に耐えきれず背を丸めた。その際、振り上げた剣は行き場を無くし、視界を失ったリビは、重量のある大剣を近くにあった石像に思い切り叩きつけてしまう。元々の重さとリビの腕力によって撃ち抜かれた石像は、肩から腰までぼっきりと割れてしまい、見るも無惨な壊れっぷりを露呈させていた。
壊してしまったその石像は、サンゴの建国王を奉って作られた歴史のある物で、ここ渦視に詰める兵の多くが、金剛大山とは別に、この石像に向かって手を合わせる姿を何度も目にしてきた。
リビは腹に決まった強烈な一撃による苦しみとは別に、青ざめる思いで破壊した石像を見上げた。
「なッ……なんと、いう……もうし、わけ――」
悶絶しつつ、誰にともなく謝罪を述べようとするリビを、シャラが止めた。
「無理をするな。加減したとはいえ私の蹴りをまともにくらったのだ、大人しくしておけ」
少女の前で腹を押さえて地面に膝をつく自分を、情けないと思う余裕すらなかった。敗北と失態が同時にふりかかり、リビは錯乱して意味をなしていない言葉を吐き続けた。
「落ち着け、わけのわからんことばかり口走っているぞ」
シャラに背を撫でられ、リビは少しずつ引いていく痛みと共に落ち着きを取り戻していった。
「も、申し訳ない……今すぐ総帥殿の所へいき、この件を報告して謝罪してくる」
急いで立ち上がろうとするリビを押さえ、シャラは朗らかに笑って言った。
「この世に壊れぬ物などないのだ、細かい事を気にするな。父将には私がやったと報告しておくさ。あの方は、私に流れる血には絶対に頭があがらぬからな」
「だ、だが……」
シャラはリビの肩を押さえていた手をどけ、今度は立ち上がらせるために手をさしのべた。
「侮っていた。お前の最後の一撃、出した足をしまうのが遅れていたらもらっていたかもしれない。あの判断は悪くなかった。バ・リビの名は、今日より記憶の中に刻み置こう」
一寸の汚れなく微笑むその姿。リビの双眸には、シャラの背後にさす後光が見えていた。
――シャラ、様。
心の奥底から湧いた、あってはならない言葉に、あわてて頭を振る。一回り近く歳の違う少女に抱いてしまった屈服感。リビはそれを、不思議と不快には感じていなかった。
*
晴天の空から陽光が降りそそぐ真昼の深界に、オウド、サンゴの両軍は互いの拠点を結ぶ白道の中心地点に陣取り、にらみ合いを続けていた。
いつも通り、サンゴ側の宣戦布告によって始まるこの戦で、どちらも細かな場所の指名などはしておらず、毎度の戦闘によって傷んだ白道が目印となって、言葉もないままにそこが主戦場としての舞台をなしていた。
灰色の森を退けるために置かれた広大な白い道の上では、逞しい男たちが険しい顔で、その時を待っていた。
両軍から兵を鼓舞する勇ましい陣太鼓が鳴り始める。
サンゴ国、渦視城塞総帥、黒僧将ア・ザンは、頑強な黒馬に重たい体を預け、鬼の角を模した兜を揺らしながら、列になって並ぶ将兵らの前を往復し、勇ましい言葉をかけた。
「こんどこそ、と何度諸君らに言ったか忘れたが、今日がまさしくその日であぁるぅ! 都より特級の星君が多く馳せ参じ、また我らが友人であるシャノアからは英雄が自らに駆けつけてくれた。そしてなによりも、ここには幾度も戦場を生き残った精強なる我が渦視の兵がいる!」
わざとらしく下級兵らを持ち上げるア・ザンの言葉。それでも、手の甲に濁った石しか持たない彼らはそれを聞くや、豪雨のような歓声をあげた。
「見ろ、喋るたびにアゴの肉が揺れているぞ」
ア・ザンの娘、シャラは父を指して呑気に笑みを浮かべていた。
「つつしまれよ、ここは命をやりとりする神聖なる場ですぞ」
シャノアからの援軍としてこの場に在るバ・リョウキは、皺だらけの厳つい顔で、まるで緊張感のないシャラを戒めた。
「だが剣聖殿よ、馬に乗ってピグピグと鳴く豚を見て、笑うなとは酷な話だろう」
ア・ザンの持つ雰囲気を的確に言い表したシャラの言葉に、隣にいたリビは思わず吹き出していた。途端、シャラを挟んだ先にいるバ・リョウキの怒気を帯びた視線が突き刺さり、リビは慌てて取り繕う。
「シャラさ――殿、父君に対していう言葉ではないだろう」
シャラは笑っておいてどの口が言うのか、とでも言いたそうに半眼でリビを睨んだ。
「勘違いするな、私は父将を敬愛している。自分より下と思った相手にはとことん見下して接するが、少しでも上と見た相手に対しては、それが娘でも平気で地に頭をこすりつける。矮小な性根の持ち主だが、卑屈さも極まれば勇気だ。野生動物並に序列に敏感な所は、私には到底真似ができぬ」
褒めているのか、けなしているのか。リビは一瞬で判断がつかず、ひそかに首を捻った。
バ・リョウキ率いるシャノアの星君達と、急な決定で預かる事となった初陣のシャラを含めた部隊は、サンゴが布陣する軍の第一列左翼側の後方に席をとっていた。
騎乗する馬が不安に嘶く。リビは汗を浮かべたその首を撫でつつ、サンゴ軍の陣容を眺めた。
第一列の最前に並ぶ歩兵隊は、一般的な両刃の剣を腰に下げ、投げて使う事もできる短槍を手に持ち、反対の手では円系で革張りの木製盾を構えている。第一列後方から第二列前面に並ぶのは、彩石を持った星君や僧兵達で、彼らは皆騎乗し、各々に個性のある武器を手に、興奮する馬を慣れた手練で宥めていた。
最後尾である第三列には遠距離砲撃を得意とする硬石級兵らで構成されているが、聞いたところ、そこに並ぶ者の数は以前に比べて三倍にも及ぶ増強がされているらしい。騎乗する者達の中にも、紫色の階布を肩からさげた、王直属の親衛隊〈禁軍〉の僧兵達の姿があり、異彩を放っていた。これにバ・リョウキ率いるシャノアの精鋭も加わる陣容を見るに、サンゴがこの戦にかけた意気込みと金は、相当なものであるのは間違いない。
耳でのみ知るムラクモ、オウドの軍は、その構成人員のほとんどが雇われ傭兵であると聞いている。愛国心も守るべきものもない兵に負ける気はしなかった。
まだ片手で数えられる程度にしか戦場に出たことがないリビは、落ち着きはらった態度で虚空を見つめる叔父のように、達観した態度でこの場に在る事ができずにいた。命を賭けた戦いを前にした人々が放つ空気にあてられ、口の中が乾き、心臓が激しく脈打って、手綱を握る手は汗を滲ませて小さく震えている。そうした所をシャラに見透かされたのか、初めての戦を前にした若き少女は、リビにそっと声をかけた。
「案ずるな、弱者が死に、強者が生き残る。ただそれだけのことだ」
道端の闘鶏の結果を予想するような軽い調子で言うシャラを見て、彼女が本当は燦光石の持ち主であり、見た目に幼くとも老婆の如き人生を送ってきたのではないか、とリビは邪推した。というよりも、ずっと年上のはずの自分より平静さを保っている彼女の態度をみて、そうであってほしいと思ってしまったのだ。
*
ムラクモ側の陣営では、勇ましく馬を駆る司令官のアル・バーデン准将が、のっぺりとした調子で並んだ兵士達に声をかけていた。
「何度目だ、と書いた書簡をこの戦を終えた後に送りつけてやろうと思う」
アル・バーデンが眉を上げてそう言うと、乾いた笑いがおこった。
「輝士、晶士の諸君らは、国を想ってその力を存分に活かしてくれ。ヒヨッコとそうでない従士諸君は故郷を守る戦いだと心得ろ。傭兵としてここにいる諸君らは何も考えずに敵を殺せ。殺したぶんだけ金が出る」
輝士達は馬上から表向き涼しい顔で話を聞き、箔付けのためにきている若い従士達は青ざめた顔で下を向き、傭兵達は険しい戦士の顔つきで、隣り合う者らと武器をぶつけて咆哮をあげていた。
第一列の左翼側に陣取るシュオウ率いる五十五番隊の面々は、皆落ち着いたものである。従士のジン爺は細腕に錆び付いた剣を握り、ブツブツとなにかの呪文のような言葉を呟いている。サンジを筆頭とする傭兵達は斧やら棍棒やら、バラバラの武器や防具を身につけて、渋い顔で打ち合わせを行っていた。
シュオウは軽くて頼りない胸当てのみを身につけ、アデュレリア公爵に貰った剣を一本だけ片手に握り、深い呼吸を繰り返していた。
向かい合って陣を構えるサンゴの兵らは、皆同じ装備を身につけ、まとまりがあるが、大半を傭兵で占める自陣側にならぶ兵らは、まるで統一性のないちぐはぐな装備で身を固めた者達で構成されていた。金がないとは聞いていたが、シュオウが長らく想像の中で思い描いてきた軍隊という組織の様相としては、ムラクモ側のそれはあまりにみすぼらしく、期待はずれなものだった。
左となりにいる部隊では、シュオウより一つ二つ年下に見える青年が、冬を前にして博打で全財産をすったかのように、この世に絶望した顔をして震えている。右となりにいる部隊を率いる者も、また同じような様子だった。
一方、彼らと同様に初陣を飾るシュオウの落ち着きようは浮いて見えるほどである。肩の力は抜け、心も静かだ。
命を危険にさらすとはいえ、敵を倒すという単純明快な状況にあって迷いもなく、ただあたえられた役割をはたすだけでいいここで、緊張を覚える事もない。
アル・バーデン准将は話を終え、勇ましく鬨の声を上げてから本陣へと戻っていった。それを合図に、陣太鼓が小刻みに鳴り始め、サンゴ側からも応じるようにドッドッドと細かく太鼓を叩く音が伝わってきた。それは互いに準備を整えた事を告げる、最後の儀式である。
シュオウは、背後でぶつくさと言い合いをしているサンジに声をかけた。
「サンジ」
「ん? どうしたよ、今さら怖じ気づいたのか」
ちゃかす言葉を相手にせず、端的に告げる。
「始まったら、隊への指示をまかせる、細かい事はわからないからな」
「はあ? さんざ隊長面しといて、いまさらなんだよ」
「だから、隊長として命令している」
サンジは苦い顔をしつつも、すぐに納得した様子で首を縦に振った。実際、肌で戦を知らない自分があれこれと言うよりも、何度も経験をしてきたサンジのような男が仕切ったほうが面倒がないだろう。立場を考えればジン爺にまかせるべきだが、彼は傭兵達とからむ事を嫌うので、論外である。
両軍がどちらからともなく太鼓を止めた。ムラクモ軍の後方から、突撃を命令するラッパが鳴り、第一列の左翼を監督する老齢の従士長、が剣を掲げて進軍を告げる叫びを上げた。
唸るような男達の轟声が深界を埋め尽くす。
土埃が舞い、オウドを守る兵達は小走りで前進を開始した。
サンゴの歩兵達は、規則正しく叩かれる陣太鼓が奏でる律動に従い、小気味良く足を進めてそのたびに、ホッホと声をそろえた。
やがて、ずたずたに傷を負った白道の上に、両軍の先端が差しかかり、深界の戦場に白熱する摩擦が生じた。
無味乾燥した世界を、人の波がぶつかる音が溶かしていく。
足音、嘶く馬、男達の怒号。なにひとつまとまりのない不協和音が鼓膜を埋め尽くしていく中、シュオウは片手に剣を構えて敵との遭遇の瞬間を冷静に観察していた。
一瞬ですぎてゆく音の洪水は、左目が捉えるゆるやかな光景を置き去りにした。シュオウの眼は、必死の形相で衝突の瞬間を待つサンゴの兵士達の表情に釘付けになっていた。勇ましい戦士としての顔。その奥に見える、怯え。盾と矛を構え、纏う鎧で身を守っていても、心に立てる盾はなく、人の眼に見えぬそこは、いつだって無防備だ。
シュオウは併走して進む一団の中で、一人抜け出して先行した。背後から自分を止める声がした気もするが、混ざり合う騒音によって、一瞬でかき消される。
前方で列をなしていたサンゴ兵達が、4人一組に纏まって歩みを早めた。一人抜け出したシュオウは誰よりも早く敵に斬りかかった。最前列にいた二人の男達は短槍を突き出して迎え撃つが、シュオウは軽やかな所作で小幅に飛んでこれを躱し、右手に構えた剣の刃がない横面で、もっとも近くにいた兵士の顔を思い切り殴りつけた。糸が切れたかのように崩れ去るその男を見て、他の仲間達が慌てて短槍を突き出すが、そのすべてがシュオウに届く事なくむなしく虚空を貫いた。
シュオウの動作は徹頭徹尾無駄を排し、洗練されていた。敵の攻撃を最短の動作で避け、次の反撃に繋がる最適な位置取りを常に維持する。その結果、枯れ葉が地面に落ちる程の時間もかからずに、先陣に立つ勇敢な四人の男の体が白道に横たわった。
落ち着きはらった態度で立つシュオウの姿に、周囲にいる敵兵達は動揺して足を止めた。そこに、遅れてやってきたオウドの傭兵達が襲いかかる。注意を散らしていたサンゴ兵達は、筋骨逞しい男達の波に襲われ、右往左往しつつ必死に応戦していた。
後から付いてくるはずの五十五番隊の姿がどこにもない。見れば、自身の部下である傭兵達は、シュオウが倒した敵兵の手首を、まだ意識があるにもかかわらずノコギリ状の刃をつけた短剣で切り落としている真っ最中だった。三人の男達が一人を押さえ、サンジが左手首をぎこぎこと斬り落としていく。意識を取り戻し、血飛沫をあげながらそれに耐える敵兵の痛々しい悲鳴に、心臓が鷲掴みにされた。
見渡せば、そうした光景は少なからず見られる。殺すか、動けなくなった敵兵にむらがり、左手首を斬り落とす男達の背中を見て、シュオウは改めて彼らの立つ場所がどういう所であるのかを痛感していた。彼らの目的は徹頭徹尾、勝利ではなく殺す事で得られる金銭なのだ。敵の中に身をさらしつつ、危険もかえりみずに手首に執着する姿を見て、そう強く認識する。
だが、それに見入っている場合ではない。すぐ側では、敵兵に追い詰められたジン爺が、尻をついて逃げ惑っていた。シュオウは駆けだし、この瞬間にも槍を突き出そうとしていたサンゴ兵に向けて剣を繰り出した。横に寝かせた剣腹が相手の顔を打ち叩く寸前、脳裏に生きたままに腕を切り取られた男の悲鳴がよぎった。刹那、シュオウは剣を寝かせ、剥き出しの刃で相手の喉を切り裂いた。吹き上がる血飛沫をかぶらないように体を避けて、首をかきむしるように崩れ落ちた相手の姿を確認した後、動きを止めていたジン爺に手を差し出す。
「大丈夫かッ」
「あ、ああ……あんた、やっぱただもんじゃねえな――」
言いつつシュオウの手を握って体を起こした老兵は、突然上空を見上げて叫びをあげた。
「――くるぞおおお!」
突如、シュオウの体は日陰の中に落ちた。ゴウ、という風切り音がして、誘われるように見上げると、巨大な赤黒い色をした岩石が、今まさに目の前にまで迫り来ていた。あまりにも急な出来事に体は硬直する。反射的に腕で顔を覆った途端、岩は轟音をあげて、シュオウの手を握ったまま立ち尽くしていたジン爺のほぼ真横を転がった。
僅かなずれで落としていたかもしれない命を思い、シュオウは転がった岩を見て固唾を飲み込んだ。
「晶士の射程に入った、こっからが本番だぞ」
ジン爺の言うとおり、両陣営の最後尾から、巨大な土塊や岩石、水球が打ち上げられる。それらは中央で衝突を繰り返す歩兵の集団に降り注ぎ、まとまって行動していた部隊丸ごとに次々と圧殺していった。
散れ、という声がどこからともなくあがり、ごちゃまぜに群がっていた一団の中に隙間が生まれていく。
シュオウはようやくひとまとまりになった五十五番隊と共に、天空から降り注ぐ攻撃に備え、足を止めた。
「おい、おかしくねえかッ」
空を見上げ、舞い落ちる巨大な石塊を見つめながら、サンジが叫んだ。
ざわめく戦場に声を消されぬよう、シュオウは声をはる。
「どうした!?」
「砲撃戦じゃずっとこっちが圧倒してたんだよ、なのに南軍から飛んでるくる攻撃の量がいつもの倍なんてもんじゃねえ」
ジン爺がサンジの言に同調した。
「ああ、それにそれだけじゃねえ、腕も今までのとはダンチだッ」
周囲を固めるオウドの兵達が、次々に降り注ぐ攻撃の餌食となり、押しつぶされて無残な姿と化していく。だがしだいにその砲撃も間隔が開くようになり、上空は再びなにもない青空だけが取り残された。
高い威力と大きさを誇る晶士の一撃は、たしかに強力ではあるが、その分持続力には欠けている。両軍ともに息切れをおこした戦場は、しかし一時の休息も許すことなく、次なる段階へと駒を進めた。
馬蹄を鳴り響かせ、戦場を蠢く歩兵達の間を、騎乗した輝士、星君達が駆け抜けてゆく。長剣を突き出して三人一組で突撃をするムラクモの輝士達は、具現化した晶気を弓矢のように撃ち放っては、次々と敵を殲滅していく。対するサンゴの星君達は、人の身に余る巨大な斧や剣、打棒などを肩に担ぎ、一振りで群がる傭兵達を薙ぎ払っていた。
両軍共に主力が投入され、力と力がぶつかりあう本格的な殴り合いが始まった。
シュオウは隊の仲間達に背中を預け、目の前に立ちふさがる敵の喉首を次々と切り裂いた。剣先から、紅く濁った血液がしたたりおちる。
一度動き出せば、一瞬のうちに四、五人が喉から鮮血を吹き上げて絶命する。その並外れた働きに、敵味方問わず、周囲にいる者らの視線がシュオウに集まりつつあった。だがそれが災いし、馬上で巨斧を振り回していた僧兵の一人がシュオウに眼をつける。馬の腹を蹴り、当たれば一太刀で真っ二つにされてしまうであろう、巨大な得物を振りかぶった。それはただ威力があるだけでなく、速度までもが常識を逸している。
――当たらなければッ。
すべての意識を、視るという行為に集約する。威力もある、速度もある、狙いも間違いなく、なにより洗練された一振りだが直線的な攻撃で、それはあらゆる意味で狂鬼のそれに劣っていた。上を知るシュオウにとって、これを避けて見せる事は児戯にも等しい。
「ふッ」
短く息を吐き、シュオウは袈裟懸けに振り下ろされた斧を躱した。無様に白道に食い込んだ斧を蹴って、その身を空中に躍らせる。剣柄の尻を掴み、間合いを伸ばし、体をよじって回転をくわえた一撃で僧兵の喉を切りつける。精度と共に回転による威力まで重ねたその一撃は、喉の奥深くまでを一文字に引き裂いた。
もがく事すらできず、僧兵は武器を手に掴んだまま、鮮血をまき散らして落馬した。その一瞬、周囲の空気が凍り付く。
動き出したのは味方である傭兵達であった。彼らは我先にと僧兵の死体に群れ集まり、片手に短剣を握って周囲の事などおかまいなしに手首を斬り落としにかかる。うち体格の良い一人の男が、取り合いに勝利して鶯色の輝石のついた手首を斬り落とす事に成功し、周囲の者らが伸ばす手から逃れて雄叫びをあげた。
「やったぞおお!! これで当分の間喰うにはこまら――」
戦場のど真ん中で、僧兵の手首を掲げて叫んでいた男の後ろを、敵の僧兵が通り抜けた瞬間、男の首が地面をごろんと転がった。
前面から倒れ込んだ首無しのその体に、取り合いに敗れた傭兵達が群がり、最初に飛びついた男がしたり顔で彩石の付いた手首を懐にしまい込む。
反吐が出そうなおぞましい欲望のぶつかり合いを目の当たりにし、シュオウは胃の奥に重くのしかかる不快感に気分を悪くした。
「お、おい、押すな!」
背後からそう叫ぶサンジの声がして、見ると傭兵達の集団が作る人の波が、シュオウを目掛けて押しつぶさんがばかりの勢いで押し寄せている。その濁った瞳は、すべて一心に自分に集まっていた。
「こいつら、漁夫の利を狙って群れてきやがったッ」
逃げ場がないどころか、人の波はより圧力を増してのし掛かる。前方は殺気を帯びた男達でごったがえし、後方からは楽に手に入る利を求めて味方が前進を促してくる。その群れの中からひょっこりと顔を見せたボルジが、怯えた様子のサブリやハリオ達を連れてシュオウの前まで現れた。
「シュオウ! まずいぞ、ここだけ前に出すぎだッ」
「わかってるッ、だけど――」
背中から押し寄せる集団の力に押され、五十五番隊を先頭とした一団だけが敵陣深く食い込んでいく。シュオウは襲いかかる兵士らを一刀の下に斬り伏せてゆき、後から押し上げてくる者らは、シュオウが斬り殺した死体に群がった。その光景は、道端に転がる腐肉にむらがる蝿と、なにもかわらなかった。
*
最後列にあり、副官であり妻であるケイシアと共に戦況を見守っていたアル・バーデンは、次々と入る不利を伝える報に、苛立ちを隠せずにいた。
「どうなっているッ、まともな報告が一つもあがってこないぞ」
そうやって愚痴っている間にも、右翼から展開していたいくつかの輝士隊が壊滅したとの報が入った。肉眼で確認ができる範囲だけでも、自軍が劣勢に立たされていることは一目でわかる。
輝士隊が破られ、数で圧倒されてしまえば、あとに残された歩兵部隊は敵に好きなようになぶられるだけだ。むしろ、これまでの戦闘では自軍側がその状況に敵を追い込み、勝利を得てきた。今のこの状況は、まるでいつもと逆である。
肩から多量に出血した輝士が現れ、馬を降りてケイシアの耳元でなにかを囁いた。ケイシアは報告を受けて苦い顔で頷き、アルを見た。
「閣下、強行偵察隊からの報告で、かなりの数の敵硬石級の増強が確認されました」
「まさか――やつらにまだ余力があったというのか」
ケイシアは神妙に頷いた。
「見慣れぬ軍旗を掲げた部隊を見たという報告もあります。他国からの支援も入ったと見て、間違いはないでしょう」
アルは歯ぎしりをしてその報告を聞いた。
「中央には何度忠告したかわからんぞッ、やつらは形だけの同盟に怯える必要はないとほざいたが、この有様を見せてやりたい!」
怒りにまかせ怒鳴り声をあげると、アルを乗せる愛馬が怯えて首を激しく振った。
新たな一報を届ける伝令兵が駆け寄る。その顔は、聞くまでもなく朗報ではないことを告げていた。
「敵軍、先鋒が我が軍の第二列まで食い込みました!」
それは、この戦場において大半の勝機が失われた事を示唆する報告だった。第二列は、晶士や本陣を抱える第三列を守る最後の壁である。そこに敵の矛が入ったという事は、第一列が壊滅状態にあり、数と力の両面ですでに大差をつけられたという証明でもあった。
ケイシアは、アルが頭から排除していたその言葉を口にした。
「閣下、撤退命令をお出しください」
アルは副官を強く睨みつけた。
「馬鹿を言うな! まだいける、散らばった輝士隊を集結させ、俺が自ら率いて敵中を突破する。中からかき乱してやれば、第二、第三列を押し上げて敵陣奥深くに砲火を降らせる事だって――」
自分を気の抜けた顔で見る妻を前に、アルは途中で口を閉ざした。なにひとつ保証のない急場の作戦によって招かれる結果は、火を見るよりも明らかだ。
「被害が砲術隊にまで及べば、サク砦はおろか、オウドの防衛すら危うくなる。アル、引き時を誤れば、私たちの運命はここで潰えてしまうわ……」
泣き出しそうな顔で、腹を押さえて訴えるその姿に、アル・バーデンは沸き立っていた頭の血を下げて、瞳を閉じて空を仰いだ。
「………………速やかに撤退行動をとる。第三列を先頭に、残存する輝士隊を護衛につけて後退を始めさせろ」
苦渋の顔で奥歯を噛みしめていったアルの言葉に、ケイシアは心痛な面持ちで応えた。
「ただちに、実行に移します」
*
シャラは馬上で交差するムラクモの輝士の頭を、すれ違い様に蹴り飛ばし、落馬して絶命したその姿を不満げに見つめた。
「歯ごたえのない。こんなものか」
戦が始まる前までまっさらだった軍靴は、血に汚れて元の色がわからなくなっていた。
保護者として、この肝の据わりきった姫を預かるバ・リョウキは、巧みな馬術でムラクモ輝士が放った晶気を躱し、間合いを詰めて急ごしらえの晶壁ごと、その体を貫いた。
「侮られるな、個々の力は対するまでわからぬ」
晶気の扱いに長けるムラクモの輝士は、その質が高いことに違いはないが、彼らの本分は中距離からの遠隔射撃である。近接戦闘に長ける南軍兵にとっては、懐にさえ入ってしまえば高い割合で勝利を得られるが、身体強化の能力を有する南方の星君は、弓矢を防ぐ程度の晶壁を張ることはできるが、強力な輝士の一撃を防ぎきるほどの強度にまで洗練させる事は苦手としていた。その不足を補うため、バ・リョウキは自身が引き連れる精鋭達を厚みのある縦列で束ねて相手の狙いを分散させつつ、三人一組での行動を主戦術とするムラクモの輝士達を数で圧倒した。
戦況はサンゴ側に有利に動いている。すでにムラクモ側の第一列に並ぶ兵達は、持ち場を捨てて逃げ惑う姿も珍しくなくなっていた。
「よし、我々はこのまま――」
次の指示を与えようと声を上げたとき、視線の先に妙な光景を捉えて、バ・リョウキは言葉を止めた。
ほとんどの部隊が壊滅状態で、奥へと押し込まれている中、敵の左翼側にある一団だけがサンゴ側に深く食い込み、今もなお、前進を続けている。その先頭では、灰色髪をした独眼の男が、縦横無尽に剣を振るい、星君や僧兵を薙ぎ払い、難無く落馬させて突き進む姿があった。そのあまりに卓越した手練を見て、バ・リョウキは息を飲んだ。
「まごうことなき真の手練れッ! リビ!」
背を向けたまま、帯同する甥を呼ぶ。
「は、はいッ」
ゆっくりと振り返ったバ・リョウキの顔を見て、リビやシャラ、その他の星君達は恐怖に身を縮めた。老いた顔に浮かぶ鬼神像の如き微笑。歯を剥き出し、口端からよだれを垂らすその姿に、剣聖として名高い男の風格は、微塵も残っていなかった。
「後をまかせる。遊撃に徹して輝士を狩れ」
バ・リョウキは一言そう残し、単騎で駆け出していってしまった。
「見たか、あの剣聖殿の顔を……」
めずらしく張りのない声で言ったシャラに、リビは頷いた。
「ああ……叔父上のあんな顔を見るのは初めてだ」
「うらやましい――――あれほどの御仁に、童のような顔をさせる者がいるのか」
憧れを抱く少女の顔で、シャラは呆けながら言った。
「シャラ殿、そんな事を言っている場合ではッ」
ざっと見ただけで、戦況が優位である事に違いないが、戦はまだ続いている。
「わかっている。このまま前進し、敵陣を蹂躙するぞ、雑魚にかまわず私につづけ!」
馬上で拳をふりあげて、シャラは先行して馬を駆った。シャノアの星君達がそれに応じて後に続く。
「こ、こらッ、お前達! だれの命令にしたがっている?!」
本来先頭に立つべきリビは置き去りにされ、彼らの後を追いかけた。
*
未だ、欲に駆られた集団に押され続けているシュオウは、自軍の状況も掴めぬまま、ひたすら目の前の敵兵に剣を振るっていた。
集団で固まっていれば、当然のように砲撃の餌食にされる。散発的に降りそそぐ石塊などを受け、一団は相当な数を減らしていたが、未だ肉の壁としての役割だけは律儀にはたしていた。彼らはシュオウが星君や僧兵らを屠る度に歓声を上げ、その死体にむらがった。
自分達を取り囲む敵軍の厚みが、時を追う事に増しているような気がした。
一人を先頭にして後にわらわらと続く、この異様な集団に、しだいに近づく者は減ってゆき、かわりに放射状に陣取った雑兵らが槍を構えて壁を作り、距離を置いて前進を阻む。その人垣の奥から、突如馬を跳躍させて、一人の星君兵らしき老人が現れた。その男はシュオウと眼を合わせたかと思うと、途端に馬を捨て、俊足で駆け出しながら太刀を振りかざし、勇ましく名乗りをあげる。
「我が名はバ・リョウキ! いざッ勝負!」
血走った眼を見開きながら、口元に笑みを浮かべるその威容に、背後にいた仲間達が後退った。
瞬きをする間も与えぬ速度で飛び込んできた老兵は、シュオウの肩を狙ったであろう一撃を放つ。軸足をずらして、いつも通りに避けようと試みるが、積み上げてきた経験が、それでは足りぬと警鐘を鳴らした。不足分を補うため、シュオウは相手の剣が描く軌道に自身の持つ剣を障害として置き、その分の余裕を作り出す。数瞬後にぶつかった相手の一撃は、想像を遙かに超える圧力があった。
「くッ――」
受けた剣がへし折れたのでは、と錯覚するほどの衝撃。すかさず間合いを詰めてきた老兵は、突きから薙ぎ払いの繋ぎ技を披露し、シュオウはそのすべてを剣を盾とする事でかろうじて防ぎきった。その動き、鋭さ、剣撃の放つ重厚感。この老兵の剣術は、間違いなく達人の域にある。
ここへ来て、シュオウの額から初めて汗がこぼれおちた。
刹那に繰り出された三度の剣撃をどうにかいなした後、老兵は距離を置いて興奮した様子で声を上げた。
「よくぞ……その若さでそれだけの武を修めたか。なんたる僥倖、なんたる縁! この歳で、未だこれほどの強者と出会えるか」
老人は一人で勝手に感極まっているが、しかしこの場の熱を冷ます、まのぬけた太鼓の音が、周囲の空気を一変させた。
「撤退だと……くそ、まじかよッ」
背後からそう吐き捨てたサンジの声が聞こえ、間隔を開いて二度ずつ鳴るこの音が撤退を意味する合図なのだと悟る。
シュオウの後ろから一塊についてきた一団は、すでに完全に包囲された状態で矛先を突きつけられていた。この状況で味方が敗走したとなれば、つまり自分達は敵陣のど真ん中に取り残されてしまったということだ。
一人、また一人と武器を放り投げ、降伏の意を示していく。一団の中に巻き込まれてしまったボルジ達の部隊と五十五番隊の面々も、同様に武器を手放した。
円系に自分達を取り囲む人の輪の中に、しだいに大勢の星君や僧兵までもが加わっていくのを見て、シュオウも手にしていた剣と、腰に差していたもう一本を放り投げた。
老兵はその様子を渋い顔で見守り、やがてなにかしらの報告を耳打ちされると、怒気に眉を怒らせた。
「なんだとッ――」
吐き出し先を失った何かを溜め込むように、耐えるような表情をこちらに向ける老兵は、一言残して運ばれてきた馬に騎乗した。
「――この勝負、あずけさせてもらおう」
去っていく老いた背中は、卓越した武人としての気概を漂わせている。彼が特別な人物であることは、周囲を固めるサンゴ兵達が彼を見る、敬愛を帯びた眼差しが証明していた。
シュオウは取り残された仲間達と共に後ろ手に縄で縛られ、自由を失った。
自身の駆けてきた道の後には、左手首を失った死体が、氾濫した河のように散乱している。それはなにより惨く、穢れた光景に見えた。
自身のもたらした結果を他人事のように眺めるシュオウの顔に、脱力の色が浮かぶ。
なに一つ実らぬ結果を迎え、シュオウの初陣は、ここに幕を引いた。
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今回も最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
話も進んで、次回からは主人公も(また)難儀な状況に身を置く事になりますが
来週からしばらく、書くための時間の確保が難しくなるので
次の投稿は、10月の第一週から再開し、その後は初陣編完結まで週1更新に戻ります。
少し間があきますが、毎日少しずつでも書きためていけるようにがんばります。
それでは、また。