Ⅰ 南の剣聖
人類世界が灰色の森に隔離されて後、人は魑魅魍魎が跋扈《ばっこ》するその世界を白道という名の新たな可能性で貫いた。
敷いた道は物品交易を活発化させ、文化交流を促進させた正の面を持つ一方で、国家間に緊張を生じる、負の一面も合わせ持っていた。
長い時が流れ、話す言葉は共通のものとなり、西の端から東の端まで、食料や物資が安定して行き交うようになっても、領土問題を発端とする争いの火種は常に世界中で燻っていた。
狂鬼という天敵に囲まれて生きる生活の中でも、やはり人間の最たる敵は同種同属だったのだ。
*
中央にそびえる大山を中心に、人類社会は四方へと繁栄していた。そのうち、東側一帯を統べる大国ムラクモの王都では、主要な執政機能を抱える水晶宮の評議室に、早朝から輝士服を纏った官吏達が詰めていた。
長卓の左右それぞれには十人ずつが座り、上座には執政の長であるグエン・ヴラドウが、副官である褐色の肌をした女性輝士、イザヤを背後に置いて鎮座していた。
平時であれば、各部署の責任者達がグエンに必要事項を伝え、淡々と指示を受けるだけに終わるこの場には、いつも以上に緊張した空気が張り詰めていた。
颯爽と部屋の扉を開け放ち、常の空気をぶち壊した張本人である、ムラクモの次期国主、サーサリア・ムラクモは、親衛隊の長であるシシジシ・アマイを帯同してグエンに堂々と向き合っていた。
「いま、なんと」
グエンは重たい声でサーサリアに問うた。
「この場に参加すると言ったの」
サーサリアは王者の風格を纏いつつ、この国で誰もが頭を落とす人物に向かってそう言い放った。
「必要ありません」
端的に告げるグエンは、昼寝に誘われる午後の一時のように、ぼんやりとサーサリアを見つめている。
「私がそれを望んでいる。国の重要な決め事をする場に、興味を持つ権利くらいはあるはず」
サーサリアは負けじと語気を強めた。
左右に居並ぶ官吏達は、皆目を見開いて突然に訪れたこの奇妙な状況に戸惑っている様子だ。
「この場は小事を片付ける場にすぎません。国の大事に関わるような決定事を話し合う場は、四石会議があります。が、殿下はその場に出る資格もお持ちではない」
グエンのこの言には、サーサリアの背後で控えていたアマイが即座に反応した。
「いいえ、サーサリア王女殿下はムラクモの名を継ぐただ一人のお方であり、ありとあらゆるものに干渉するだけの資格をお持ちです。あなたのおっしゃりようは、越権行為と受け取られても仕方のないものですよ」
アマイの挑発の籠もった言葉に、居並ぶ官吏達の視線が鋭くなった。そのうち、気の強そうな女が、グエンよりも先に不快感を表明した。
「先生、グエン様に対して越権行為だなんて……言葉がすぎるのではありませんか」
アマイはメガネを中指で押して、アゴをあげた。
「私はもうあなたの先生ではありません。そして私の言った事は何一つ間違ってはいないはずです。サーサリア様はムラクモを統べる君主となるお方。それ故に、私はあなたたちにこう言わねばならない――――いったい誰の許しを得て、殿下の御前で着座を続けているのかと」
居並ぶ者達に、一気に動揺が走った。
彼らは慌てて席を立ち、片膝をついて輝士の礼の姿勢をとった。
グエンはその様子をゆっくりと眺めた後、席を立って一人平伏した。しかし、背後に控えていた副官のイザヤはぴくりとも動こうとしない。視線はどこを見ているかわからず、額にはじんわりと汗が滲んでいる。
「副官殿は、なにか思うところあっての行動でしょうか」
アマイが指摘すると、当人に代わってグエンが応対した。
「これは先日より熱を煩っております。無理をしてこの場に連れてきたので、どうか不敬をお許しいただきたい」
アマイがこちらを窺うのを合図に、サーサリアは小さく頷いて言葉をかけた。
「許す、皆も立ちなさい」
まずグエンが立ち上がり、その他の者達もそれに続いた。
「私の席をお使いください、殿下」
アマイの言葉が効いたのか、グエンはサーサリアの要求を受け入れる姿勢を見せる。席を一つずらして、上座を勧めてきた。
グエンの副官がぎこちなく立ち位置を変えている間に、サーサリアは中央奥の席に腰を落ち着けた。
サーサリアは、しんと静まりかえる一同に言った。
「いつも通りにして」
その指示を受けて、彼らの視線は一心にグエンへと集まった。
――これが、現実……。
王女を前にして、次の行動を窺う相手はグエンなのだ。彼らのこの行動こそが、王族たる自分が置かれている状況を如実に表している。
グエンは配下の者達の視線を受けて、小さく頷きを返した。それを合図に、サーサリアの急な登場で中断していた会議が再開される。
老朽化した白道の交換を検討する話や、最近増えている失業した者への配給など、たしかにグエンの言うように、一つ一つの決め事は大事な事ではあるが、国家の命運を左右するほどのものでもなかった。
話を聞くうち、グエンがこれほど事細かな案件を、他人まかせにせずに自らの判断で裁定していたという事実に、サーサリアは驚きを隠せずにいた。
一通りの話が纏まって、僅かに生まれた沈黙を縫うように、ある一人の官吏が書簡を差し出した。グエンはそれを見て眉をひそめる。
「なんだ」
「アル・バーデン准将からの増派と予算拡大の要請です」
グエンは重い息を鼻から吐く。
「またか。時を置かずに出された同内容である嘆願は排しておけと言ったはずだ」
責めるように言われ、報告を上げた官吏はばつの悪そうな顔をつくった。
「はい、承知しております。ですが、今回は将官としての名義ではなく、〈オウド〉の代官としての要請になっていて」
オウドと聞いて、サーサリアは内心で強く反応した。そこは、自身が狂鬼に襲われて遭難をした際に、命を救ってもらった恩人である平民の青年、シュオウが新たな軍務として配属された地であると記憶していたからだ。
説明を受けたグエンは、書簡に目を通し、それを卓の上に丸めて放り投げた。
「浅知恵を……。却下する、オウド防衛は現有兵力を持って継続と――」
言いかけたグエンの言葉に、アマイが割って入る。
「なぜですか?」
官吏達の視線がアマイに注がれた。
「なぜ、とはどういう意味だ、アマイ硬輝士」
「いえ、増派の要請を蹴る理由が、私には見えなかったものですから。近衛、第一軍共に抱える余剰兵力はかなりの数が燻っているはず。それ以外にも、左右の硬軍に派遣を要請する事もたやすい。オウド防衛軍の編成は、そのほとんどが質の悪い傭兵で構成されているとか。武器を与えずに属領を守れというのは、あまりにも酷というものではありませんか」
余裕の笑みを浮かべて指摘したアマイに、グエンは心を動かした様子なく語る。
「剣も盾も、必要な分は与えてある。事実、それだけでかの地の防衛に支障はなかったのだ」
「どうにも、あなたは守る事にのみ執心のご様子ですが、敵に打撃を与える事を考慮に入れるのは極当然の事と言えるのではありませんか。おそらくバーデン准将も、突破口を欲しての要請でしょうし」
「オウド奪還を念願としている〈サンゴ〉は南山同盟の一つ。奴らは同盟を謳っているわりにはまとまりに欠けるが、ムラクモが侵攻を始めたと認識すれば、硬く手を握り合うだろう。すべての物がそうであるように、国家もまた一面の物ではない。戦となれば、失われる民と金の分、この国は無駄に痩せ細る。それだけの決定を勢いだけで出すほど私はもうろくしていない」
アマイはその言を一笑に付した。
「民に金、どちらもムラクモは潤沢に持っている。ひと思いにサンゴを落として見せれば、北方との間にある小競り合いも収まるというもの。ここは王女殿下の号令という事で、近日中に大規模な軍をオウドに派遣するのが賢明であると提案致します」
グエンはアマイに向かい、威嚇するように睨みつけた。
「一硬輝士の身分で戦の是非を語るとは、それこそが越権行為だろう。サーサリア様はまだ王位にあらず。軍の派遣に名を冠するだけの資格はない」
「では、一硬輝士ではなく親衛隊長として言わせていただきます。早々に天青石継承の儀を執り行うべきです」
アマイが力強く言い放つと、グエンはすぐには返事を用意できなかった。
アマイは皆の関心を惹いたまま、続ける。
「そもそも、天青石の所在を知る人物が、あなた一人だけというのがおかしい。あの石こそは比喩ではなく正真正銘、王の石。その扱いに関しては前女王陛下の遺言によりすべてたくされたという事になっていますが、そもそもからして、女王陛下の死に立ち会ったのが、あなたお一人だという所からして、この話は雲を掴むように不確かなものなんですよ」
がたりと椅子がなり、数人の官吏がいきり立った表情で立ち上がった。
「アマイ親衛隊長、いいかげんにしてください。あなたのおっしゃりようはまるで――」
おかしな方向へ流されつつあった空気を引き戻すため、サーサリアは咄嗟に手を叩いた。
「アマイ、もうやめて。ここへは言い争いをしにきたのではない」
アマイは命令を受けて一歩退いた。
立ち上がって興奮する者達にも落ち着くように言おうとした時、サーサリアは激しく咳き込んだ。
グエンはその様子を見て、サーサリアに手巾を差し出した。
「殿下、筆頭医官よりお体の事は聞いております」
サーサリアは長年、心を惑わせ恍惚状態に陥らせる〈リュケインの花〉に溺れていた。体を蝕んでいたその花をやめれば、すぐに健常な状態に戻れるものだと考えていたが、体は急な変化についてこられず、気分の激しい浮き沈みや、頭痛、吐き気、そして突発的におこる激しい咳などの症状に見舞われていた。
受け取った手巾を口に当て、ひとしきり咳を吐いてから、サーサリアは涙を溜めた瞳でグエンを見た。
「グエン、私は天青石の継承を急ぎたいと思っている」
グエンは渋い顔でアゴに手を当てた。
「燦光石の継承は、肉体と精神に強烈な負担を強いるのです。殿下の今のお体で、それに耐えられるとは思えませぬ。今は安静にして体調を整えられるのが、最も必要な事であると具申致します」
サーサリアは確認をとるようにアマイを見た。彼は不機嫌そうにだが、納得の意を示して頷いた。
「わかった。耐えうるだけの体を取り戻したのなら、継承を認めるのだな」
「……はッ」
サーサリアは席を立ち、出入り口へ向かった。部屋を出る間際、振り返ってこちらを見る者達に向かって柔らかく声をかけた。
「邪魔をした。けれど、今後もこうした場には時折参加したいと考えている。じっとしているだけでは、なにも変わらないから」
グエンは、立ち上がってサーサリアを凝視した。
「アデュレリアに立つ前からは別人のように思えます。なにが、あなたをそこまで変えられた」
しかしサーサリアは返事をせず、ただ薄く微笑んで見せるにとどめた。
*
「もうしわけ、ありま、せん……」
誰もいなくなった評議室の中で、イザヤは呼吸も浅く養父に謝罪した。
「かまわん。司令虫に犯された身で、意識を保っているだけで奇跡に近いのだ」
養父の秘密を知り、体内に虫を寄生させられたイザヤは、ほどなくして意識を取り戻し、違和感を抱えつつも以前のように仕事につける程度には、この状況に慣れつつあった。
グエンの言うところによると、体を内から蝕む寄生虫を心底受け入れてしまったがために、おかしな共存関係が形成されてしまったらしい。普通であれば、虫の支配から逃れようとして自我は崩壊し、精神的な意味での死を迎えて、生ける屍としてグエンの操り人形と化していたはずなのだ。
イザヤは狂鬼と交流を持つ得体の知れない存在となってしまった養父を、それでもなお信じていた。彼のする事のすべてを受け入れられるだけの心構えが、現状を作り出したのだろうと、自身で納得を得ていた。
「私の正体を知ってなお、のこのこと側にいるとはな」
「あなたが誰であれ、私を拾って育てていただいた事実は変わりません。むしろ、始めから話していただければ、私は何も言わずにお手伝いを致しました」
グエンはめずらしく溜息をこぼした。
「幼い頃から変わらず難儀な娘だ。だが、その身に虫を宿している今、私もはじめてお前を信じる事ができる」
娘と言われ、イザヤは喜んだ。笑みをつくろうとしたが、虫との共生を始めたばかりの体では、うまく表情をつくる事ができなかった。
グエンは体をまわし、さきほどまでサーサリアが座っていた上座を見つめていた。
「王女殿下は、本当にお変わりになられましたね。何度もお近くで拝見してまいりましたが、あの方と目が合ったのは今日が初めてです」
「……ああ。だが人の本質はそう簡単には変わらない。あの娘には何か強い目的があるのだろう。でなければ、これまで何ら興味を示さなかった王位の継承を望むはずがない」
「あの男を親衛隊長に抜擢したことと関係があるのではありませんか」
グエンは鼻の穴を広げた。
「シシジシ・アマイ。面倒な男が王女の側に付いた。今後、軽はずみな手出しは難しくなるだろう。一つの失敗が次々に膨らみ、下手をすれば取り返しのつかない事態を招く事になる。最後の詰めを残すだけのこの状況で、私はどこで間違えたのだ……」
グエンは独り言のようにそう呟いた。
これまで望んでいても見る事ができなかった養父の素顔が、目の前にある。なにより恐ろしい体験をした自分が、その出来事に感謝している今が、奇妙なほどに愛おしいとイザヤは思った。
*
東地の覇者であるムラクモと国境を面する国、サンゴは、南の小国が寄せ集まって手を組んだ南山同盟国の一つである。
赤みのある褐色の肌をした人々が治めるその地は、鬼神を信仰する教義が社会の根幹をなしていた。
そのサンゴの国境守護の要である、白道に置かれた古城、渦視《うずみ》城塞には、大勢の兵士が詰め、過去にムラクモとの戦で奪われた地、オウド奪還を夢見て日夜訓練に明け暮れていた。
サンゴと同盟関係にある国〈シャノア〉の老将バ・リョウキは、二十人にも満たない数の部下を引き連れ、渦視城塞の門をくぐった。
二重に編んだ皮の間に薄い木の板を入れた軽い鎧を纏い、額から天辺まで禿げ上がった頭をつるりと光らせ、胸まで伸びた白ヒゲを撫でながら、世に知られる名剣〈岩縄〉を背負って眼光鋭く入城する。その突端、出迎えに並んでいた兵の間から歓声が上がった。
「バ・リョウキ様だ!」
「本物だ! 剣聖バ・リョウキだ!」
並んで入城した腹心の部下である、甥のバ・リビは興奮気味に声をかけてきた。
「さすがですね、叔父上」
「ふんッ、過去の名で持ち上げられているだけだ。調子に乗るな」
浮き足立つ若き同行者に、バ・リョウキは律するよう言葉をかけた。
列の伸びる先には、恰幅《かっぷく》の良い僧兵が両手を広げてこちらを出迎えている。
バ・リョウキは早々に馬を降り、礼儀を重んじて徒歩で出迎えに応じた。
「やあやあ、遠い所をわざわざ。かの老将殿にお越しいただき、まっこと感謝のいたり。私は渦視城塞総帥、黒僧将ア・ザンであります」
二重にたるんだアゴを揺らし、そう名乗った男ア・ザンは、ひらひらとした官服の上から黄金の胸当てをつけて、肩から僧兵の階級を示す〈階布〉という長布を掛けている。その色は、序列一位を表す黒色に染められていた。
「このような歓迎をいただけるとは恐縮でござる。樹将軍バ・リョウキ、シャノアよりの使者として助力役を仰せつかった。勇敢なるサンゴの兵の末席に加えていただければありがたい」
バ・リョウキがへりくだって言うと、ア・ザンは機嫌良く破顔してみせた。
「ご謙遜を。そのお歳で未だシャノアでは、あなたに並ぶ剣士はいないと聞いておりますぞ」
ア・ザンはこちらを立てての物言いだったが、しかし甥のリビはそれが不満だったようだ。
「南はもとより、世界広しといえど叔父将に敵う剣士はおりません!」
バ・リョウキは、即座に甥を諫めた。
「やめんかッ」
非礼を詫びようと、バ・リョウキはア・ザンの顔色を伺った。しかし彼は爽快に大笑いをあげた。
「若い若い! いやいや、たしかに控えめに言いすぎました。どうかお許し願いたい」
大勢の兵が見守る中で、ア・ザンはむしろ自分に非があった事を主張して頭を下げた。すると、周囲から熱の籠もった拍手が沸く。
――こすい男だ。
バ・リョウキは内心で毒突きつつも、甥の頭を押さえつつ、深く頭を垂れて謝罪した。
バ・リョウキは下位僧の家に生まれながらも、剣の腕で名を馳せ、敵対する北方の名のある輝士達を幾人も討ち取ってきた名剣士である。
数々の武勲を上げ、王の直属である〈禁軍〉の長を務めて後、南西の覇者である大国の王から爵位、領地と共に迎え入れたいとまで請われたが、バ・リョウキが忠誠を盾にこれを断ると、その事に感動を得た南西の王から、宝剣である岩縄を下賜された。この事で、知る人ぞ知る存在であったバ・リョウキの名は、英雄として世界に轟いたのだ。
名の知れた英雄を迎え、活気に湧いた兵達の歓迎を受けた後、バ・リョウキはリビを伴って応接間に腰を落ち着けていた。
茶と共に出された、透き通るような香りがする木の根を、細かく擦って生地に練り込んだ甘味を食べ終えると、ア・ザンは下唇を突き出して不満気な態度を見せた。
「バ・リョウキ殿自ら禁軍をお連れいただいたのはありがたいが、思っていたよりも数が……ちと物足りませんな。たしか、千騎に匹敵するだけの戦力をお貸しいただけるとの約束で、我が国の財庫から金の融通がなされたと記憶しておるのですが」
バ・リョウキは茶器を置いてア・ザン総帥を見据えた。
「禁軍でも有数の才を持つ十七人の星君を選んで連れて参った。それにこのバ・リョウキを加えれば、お約束に違わぬ成果を残せるものと信じてはせ参じた次第」
〈星君〉また〈星兵〉とは、西から北、東に渡って広く存在する、輝士に相当する兵科、階級である。
正直なところ、バ・リョウキは自身が連れて来た十七人の星君兵達が、千騎に相当するなどとは到底思っていなかったが、そのような本音など微塵も見せずにア・ザンの目を凝視して見せた。
「いや、まあ……たしかにバ・リョウキ殿直々においでいただけるとは思っておりませんでしたからな。おかげで士気は上々。これならにっくきムラクモ軍に打撃を加えてやれる事でしょう。今回は本国をせっついて星兵の増強もすませてあります。連中の慌てふためく顔が目に浮かびますわい!」
にやけ顔でほくそ笑むア・ザン。彼の頭の中では、きっと戦勝に沸く兵に称えられている自分でも見えているのだろう。
南山連合に属する国の多くは現実を直視するだけの脳がないのではと常々考えていた。バ・リョウキの見立てでは、サンゴとの間に頻発している争いも、ムラクモはまるで本腰を入れているようには思えなかった。
――下手な刺激にならねばよいがな。
「それにしても、シャノアはご苦労が絶えませんな」
妄想の世界から帰ってきたア・ザンは、突然にそう言った。
「人も国も、良きときと悪きときはある」
「ごもっとも。しかし〈猫睛石〉をお継ぎになられた姫は、いまだ十にも満たない幼子。守護者たる貴殿の心配は察して余りありますな。ご老体に無理を強いるとは、いやまったく」
一々かんに障る物言いをするア・ザンに対し、隣で静かに座していたリビが拳に力を込めた。バ・リョウキは甥を諫めるため、こっそりと足を踏みつけ、リビの不満げな流し目を受け止めた。
「ご心配に感謝する、総帥殿」
初対面となるア・ザンの性格は、すでに透けて見えつつあった。その態度は一見して謙遜の色が強く腰も低く見えるが、胸につけた派手な胸当てと同じく、自己顕示欲が強く、さりげない言葉によって他者を下に置くのを好む。
生粋の武官であるバ・リョウキから見れば、狡猾な官吏文官としての色が濃いこの男は不快な部類に入るが、高位にある者の中ではさしてめずらしい性格というわけでもない。
そして一連の不快な発言は、的外れなものではなかった。
自国、シャノアは前王の金使いの荒さと、長く続く不作によって借金に喘いでいた。国力は低下し、没した王の後継者として選ばれたのは、まだあどけなさしかないような幼い姫だった。他家から嫁に来た姫の生母は宮中の実権を握り、なんら力のない娘を後継者に据えた後、同盟関係にあるとはいえ、二心を胸に秘めたサンゴからあっさりと金を借り受ける決定をした。
バ・リョウキは今、少ない手勢のみを与えられて、借金の見返りとして送り出されていた。
「近いうちにムラクモとは一戦交える事になりましょう、まあ、まずは旅の疲れを癒していただきたい。その前に老将がよろしいようであれば、私自らが城塞内を案内いたしますが」
器に残った茶はすでに冷めている。席を立つには丁度良い頃合いだろう。
「ありがたく、案内をお願い致す」
総帥自らに志願したわりに、城塞の内部は取り立てて見所もなかった。だが一カ所だけ、片隅に設けられた牢獄に、ものものしい数の番兵が見張りをしているのを見て、興味を持った。
「あれは、なにごとか」
足を止めて聞くと、ア・ザンは待っていたとばかりに胸を張った。
「老将は〈ガ族〉をご存知ですかな」
「三脚を使う一族でしたな。血統は絶えて久しい」
〈三脚〉は深界で独自に進化を遂げた狂鬼の枠に属さない生物で、敏捷性に優れた二脚を駆使して深界を四六時中走り、胸の下に折りたたんだ三本目の副脚は跳躍を得意とし、悪路をものともしない。人が騎乗する生物としては馬に並ぶか、それ以上の存在だった。
小さな里を領地としていたガ族は、その三脚を手なずけて戦場に用いる術を代々受け継いできた優れた部族だったが、それが仇となり、ガ族を取り込もうとする各国の思惑に晒されるなか、最終的には全滅の運命を辿ったのである。
ア・ザンはにやりとほくそ笑んだ。
「それが生き残りがおりましてな。食べるために各国を練り歩いて裏の仕事を請け負っていたという話ですが、性格が難しく雇い主をころころと変えている間に恨みを溜めてしまい、路頭に迷いかけていたところを私が招き入れたのです」
バ・リョウキは眉をひそめた。
「この様子を見るに、矛盾しておるようだが。牢に閉じ込める事を招き入れるとは言わん」
非難の意味を込めた言葉は、しかしア・ザンには届かなかった。
「なあに、ちょっとした機転を利かせましてな。酒に酔わせてその間に石を封じ、拘束したのですよ」
ア・ザンは手をこねながら、卑怯な手段を自慢気に語った。
「見てもよろしいか」
「ご随意に――お前達、老将をお通しするぞ!」
同行したがったリビを置いて、ア・ザンの案内に従った。
牢の中は換気が悪く、豚小屋のような臭いが充満していた。件のガ族の生き残りは、一番奥の暗い部屋に、両手を鎖でつるし上げられた状態で座り込んでいた。
浅黒い肌に青黒い髪。ゆっくりと持ち上がった顔には、虎のように猛々しい目が光る。すっきりとしたアゴには一点のホクロが刻まれていた。座っていて全体像は明瞭ではないが、たくましい筋骨とすらりと伸びた長い足からして、相当に背は高いだろう。本来左手にあるはずの輝石は〈石封じ〉と呼ばれる、彩石を有する者が駆使する力を弱める効力がある特別な皮手袋がはめられていた。
その男は光の届かない薄暗い部屋で、鷹揚に顔を上げて睨みをきかせ、鋭い犬歯の目立つ歯を剥き出しにして笑みを浮かべた。
「じじい、てめえが剣聖とか祭り上げられてる糞野郎かよ。見張りのやつらがさっきっから女みたいにワアワアうるせえったらねえ」
咄嗟にア・ザンは鉄格子を蹴り飛ばした。
「口に気をつけんか、貴様のような無頼の輩が軽々しく口をきける相手ではないのだぞ」
バ・リョウキはア・ザンを制し、囚われの男と正面から視線を交わした。
「ガ族の生き残りと聞いたが、まことか」
「あ? だったらなんだよ」
「ここにこうしている今が、おしいと思っただけだ。関わる人間を間違えたな、小僧」
言うと、男は口角を下げて険しさに顔を歪めた。
「わかんねえ事をいってんじゃねえよ。それより、あんたがあのバ・リョウキっていうんだろ。ガキの頃からその名前はなんども聞いた事があるぜ。剣の腕でのし上がった英雄、そして戦闘狂いだってな」
たしかめるように言われ、バ・リョウキは頷いた。
「否定はせん」
男は不敵に笑う。
「じじい、俺と戦えよ。あんたみたいなのを倒して名を上げてえんだ」
バ・リョウキは、これに即答した。
「断る」
「なんでだ! おれはつえーぞッ!」
「侮って言ってるのではない。貴様のその手、一目でわかった。剣でも槍でもない、拳を技として使う者だと」
男の両の分厚い拳は、治った後のある傷跡が無数に刻まれていた。
バ・リョウキを含め、南方の〈星術〉と呼ばれる晶気に相当する力を有する者には、その性質に肉体強化を持つ者が多い。
この男の場合、十中八九その力は腕力に関係したものであると推測できる。
男の言うように、バ・リョウキは強者との対戦を好んできた。だが、その相手に得物を使わない人間は、あえて望むほどのものでもない。
男は決闘を拒んだバ・リョウキを前に、それを嘲笑った。
「言い訳をつけて逃げてるだけじゃねえか。相手を選んで戦ってりゃその歳までのこのこ生き残ってるのも納得がいくぜ」
不意に横から棒が伸び、男の顔面を打ちのめした。
「野良犬の分際で、黙っていれば不遜な事をッ!」
刃のない槍の先で突かれ、男の顔には青紫色の痣が浮かんでいた。
バ・リョウキは棒を掴み、それを止める。
「弱者を一方的になぶるのは好かぬ」
ア・ザンより先に、囚われの男が吠えた。
「俺は弱くねえ! クソが、取り消せッ!」
鎖を引き千切らんばかりに身体を前に倒し、血走った目で闘争心を剥き出しに叫ぶその姿は、野獣のそれである。
「老将、まいりましょう。ここは英雄の立つ場所ではありませんぞ。なあに、こいつはこれから私が直接可愛がってやる予定でしてな、不遜な物言いの分は、その時にたっぷりと後悔させてやりましょう」
下卑た笑みを浮かべているア・ザンに言う。
「口を出す立場にはないが、戦士には相応しい最後を与えてやるべきであろう」
「ええ、そうしますとも。三脚の捕獲や飼育方について聞き出した後にね」
ひっきりなしに怒鳴り声をあげ、自分を煽る男の声を背に受けながら、バ・リョウキは牢獄を後にした。
口汚く自分を罵るその男よりも、バ・リョウキはア・ザンへの嫌悪を募らせていた。本人曰く、囚人への拷問を趣味としていると言う総帥が、自国の同胞でなかった事を、真剣に神に感謝していた。
*
灰色に染まる深界は、春を迎えてもなお陰鬱とした空気が支配しているが、温かくなった気候に誘われるように、商いに従事する者達が、荷をどっしりと積んだ馬車と共に、せっせと白道を進んでいた。
シュオウは、新たな任地であるオウドの地へ向かう隊商に小銭を渡し、荷を積んで揺られる馬車に便乗して目的地を目指していた。
「おい兄さん、そろそろ大山が見えるぜ」
御者の男に呼ばれ、馬車から頭を出すと、前方の遙か彼方に巨大な山がそびえ立っていた。
「でっかいな」
霞む空気の奥にある〈金剛大山〉は、山というより壁と形容したくなるほどの重厚感を持って存在している。天高くまで伸びる頂上付近は、雲に隠れてどうなっているのか確認ができないほどだ。
「冬から今くらいの季節は霞んでてぼんやりしてるけどな。夏になるともっとよく見えるようになるよ」
雲をかぶり、大地を睥睨する金剛大山を前にして、気分は高揚していた。
自分は今、見た事もない異境に、たしかに足を踏み入れたのだ。
Ⅱ つがいの輝士
初めて踏むオウドの地は、土と焦げの臭いがした。
シュオウは、活気のない粗末な露店が並ぶ市場を抜ける途中、商い人に兵舎への道順を聞いて、周辺の景色を眺めながらのんびりと歩いていた。
すれ違う人々の大半は、赤みを帯びた褐色の肌をした人々。食べ物を乗せたカゴを手に、おしゃべりを楽しみながら歩く若い女達は、シュオウを見ると途端に押し黙り、目を背けて足早に駆け出していった。
強く陽が照る時間帯。居住地区は、縦長に空に伸びる白い粘土壁の建物が並び、全開にされた窓からは巣のようにヒモが伸び、洗濯物が戦列を組む兵士のように整然と干されていた。
建物の間に落ちる日陰を歩きながら、目的の場所を目指す。よいせと背負いなおす荷物袋は、旅立ちから日を追う事に重さを増していた。
教えられた道は真っ当な経路ではなかったらしく、目印として与えられた情報を頼りにしても、どうにも進む道への自信が失われていく。
木々に隠れた坂を上り、途中に置かれていた鬼を象った小さな石像に目をやりながら汗を拭った。
坂を登り切った先に見えた建物を見て安堵する。
現れたのは巨大な建築物。その形状は独特で、邸と呼ぶには情緒に溢れ、城と呼ぶにはあまりに軟弱である。
苔蒸したような色をした門は全開にされ、門の天辺には、南方戦線本部と書かれた看板がさげられていた。
門を守る茶色い制服を着た従士達が、退屈そうに佇んでいる。
彼らに命令書を差し出して用件を告げると、あっさりと中へと促された。しかし道案内をしてくれるほどの親切心はなかったようで、空中をなぞる従士の人差し指を頼りに、自力でこの兵舎の責任者の元まで命令書を渡しにいかなくてはならなくなった。
外から見るより、中から見るこの兵舎の構造は複雑怪奇であった。門を抜けた先の正面には、開かれた大広間があり、その部屋の奥には、黒くて大きく、頭に二本の角を生やし、大きな鼻の穴を膨らませながら、尖った犬歯を剥いて口を開いた鬼神像が鎮座し、見る者を威圧するように正面を見据えている。
独特な香の臭いがきつく、猛々しい鬼神像とあいまって建物の中の異様な雰囲気を増幅させていた。
結局どこから入っていいのか、どこが部屋としての機能を持っているかもわからず、中庭を抜けてあちこちに伸びる廊下を目で追いながら、執務室を探して彷徨った。
しばらくの間敷地内をうろついた結果、シュオウは見事に道を失っていた。見回しても奇妙なほど人気はない。歩き続けながら、入口へ戻る事も検討し始めたその時、中庭の奥の日陰の中で上半身裸で乾布を手に背中を擦る男と出くわした。
「お?」
男は四十そこそこといった風貌で、ふわりと柔らかそうな栗色の髪に、もみあげからアゴまで続くヒゲをはやした、一目で軍人とわかる逞しい肉体の持ち主だった。輝石がくすんだ焦げ茶色をしている事から、この男が輝士階級にあるのはまちがいなさそうだ。
旅の装備のまま佇むシュオウを、軍人風の男は足のつまさきから、頭の天辺まで舐めるように観察した。
「道に迷ってしまって」
短く現状を伝えると、男は納得を得たりと数度頷いた。
「なるほど、たしかに迷っているという顔をしている。それで、君の目的地はどこなんだ」
「着任の挨拶のため、ここの主のいる所まで」
「ふむ、なるほどな――」
男は少し垂れ気味な目尻で、思索を巡らせるように遠くを見つめてから言った。
「――よしわかった、俺が案内しよう、着いてきたまえ」
礼を言う間もなく、男は裸の上半身に乾布をひっかけたまま、礼を言う間も与えずに歩き出してしまった。
彼の指示に従い、靴を脱いで階段をあがり、よく磨かれた木造の長い廊下を歩く。角を二つほど曲がった先に、町並みを一望できる視界の開けた廊下にさしかかって、そこから見える光景に、シュオウは思わず足を止めた。
市街地とは反対側にあたるその場所は、黄色い土に覆われた荒涼とした風景が広がっていた。そこかしこで上がる煙の元では、ボロ切れを纏って労働に従事する人々がいる。彼らは大きな焚き火の中に、細かな葉のついた枝や乾いた木材を放り投げていた。
「物珍しいという顔をしているな。このあたりじゃ当たり前の光景なんだが」
付き合って足を止めてくれた男は、共に風景に視線をやりつつアゴヒゲを撫でていた。
「あれは、なにをしているんですか」
「陶器を焼いているのだ、窯を使わんのは珍しいかもしれんがな。ここらで大量に取れる黄色い粘土質の土に、特別な石を砕いて作った粉を加えると粘りの強い良い土になる。それをこねてじっくりと焼き上げれば、煮込み料理用器の完成というわけだ。このオウドが持つ数少ない特産品の一つだな。まあもっとも、ここで作られる物のほとんどは市井の民が使う安物だ。かさばるわりに利益は少なくて、交易品としての人気はさっぱりだッ」
男は早口でまくしたて、自身の説明に気分を良くしていた。
どこへ行っても、かならずその土地で生きる人々の営みが存在している。
王都では、労働者達の大半は石を掘って糧を得ていた。アデュレリアの人々は鍛冶、精錬や漁業に従事し、ここオウドの地でのそれは、焼き物だった。
場所が変わるたび、目に入る光景も、鼻で感じる臭いも、空気の質も、なにもかもが違うという事を、シュオウは喜びとして受け止めていた。
「楽しくてしかたがない、という顔をしている」
唇を片側だけ釣り上げて、微笑みながら男が言う。
「楽しいです」
シュオウが真っ直ぐそう告げると、男は爽快に笑い声をあげた。
「この光景を前にして喜んだ奴を見たのは初めてだ。風向きによっては涙が出るほど煙たいが、まあそれはおいおい慣れるだろう」
長い廊下の角を三度曲がった先に、目的の部屋はあった。部屋の前で佇む警備兵は、乾布を肩にかけた男を見ると敬礼して声をあげた。
「アル・バーデン准将閣下ッ、ケイシア重輝士が中でお待ちです」
「おう」
一言で応える男を見ても、特に驚きはしなかった。道中薄々そうではないかと考えがよぎったのだ。なにしろ、この男の堂々とした振る舞いを見るに、並の者にはない風格があったからだ。
シュオウが目当てとしていたこの地の責任者である、アル・バーデン准将は、なにかを期待するようにチラチラとこちらに視線を送っている。
――驚いたほうがよかった、か。
反応に迷っていると、中年の准将はがっくりと肩を落としていた。
背中越しに手招きをされ、入室するアル・バーデンに続くと、広々とした部屋の中央に置かれた執務机に腰かける女の輝士がいた。
ほっそりとした体に見慣れた黒の軍服。亜麻色の結い上げた髪は几帳面に整えられ、気の強そうな細い瞳には、軍人特有の鋭さがあった。彼女はアル・バーデンの姿を見ると一瞬破顔したが、シュオウの存在に気づくと、咄嗟に表情を引き締めて感情を隠した。
女は椅子から腰を上げ、軽く敬礼した。
「おかえりなさいませ、閣下。お姿をお見かけ致しませんでしたが」
「庭で体を温めていたら、新任の従士が道に迷って現れてな。ついでだから連れてきた」
「新任って……まさかたった一人? 他に一緒に来た人間は!?」
必死な形相で女輝士に聞かれ、シュオウは首を振った。
「俺はアデュレリアで命令を受けて、そこから一人でここまで来ただけなので」
アル・バーデンは笑う。
「ケイシア、気にしすぎだ。心配しなくても最低限の補充兵くらいは送られてくるだろうさ」
ケイシアと呼ばれた女は、視線を落として頷く。
「ええ、そうですね」
アル・バーデンはケイシアが座っていた執務机に腰を落ち着け、肌着に腕を通した。
「いまさらだが言っておこう。アル・バーデンだ。ここの司令官兼オウド代官を務めている。この女はケイシア・バーデン、俺の忠実な副官兼、嫁さんだ」
アル・バーデンは、言ってケイシアの尻をぱしんとはたいた。
「ちょっと!」
ケイシアは一応は怒ってみせるが、夫婦というだけあってどこかこなれた様子だ。
「夫婦、ですか」
唐突なその紹介にシュオウが目を丸くしていると、アル・バーデンはそれを嬉しそうに眺めていた。
「めずらしい、という顔をしているな、いいぞ。たしかにムラクモ王国軍の中でも、夫婦で上官と部下という関係はめずらしいだろうさ」
ゲラゲラと笑うアル・バーデンを、ケイシアが呆れた顔でたしなめていた。
ケイシアは取り繕うように咳払いをして、軍人然とした強い視線をシュオウに向けた。
「配属命令書を渡されているのなら、それを早く見せなさい」
言われ、軍での経歴を記した紙と、オウドへの配置を指示する書簡を手渡した。
ケイシアは糸のような双眸をより細めて、紙とシュオウの顔を交互に見合わせた。
「名前は、シュオウ……従士曹?」
それを聞いて、アル・バーデンが声をあげる。
「ほお、若く見えるが、その歳で昇任されているとは、やるじゃないか」
単純そうな夫とは違い、ケイシアの方は何か引っかかりを感じているようだった。彼女は紙の上の情報を読み取った後、配置命令書を手元に残して、身分を証明する用紙のほうをシュオウに返却した。
「一通り把握したわ。ごくろうさま、と言っておきましょう。オウドへようこそ。階級からいっても、一部隊をまかせるのが妥当でしょう。人手不足だったから、正直に言って心の底から歓迎するわ」
シュオウは軽く会釈を返した。
「よろしくお願いします」
形式的に挨拶をすませると、ケイシアは卓の上に置かれていた紙を一枚差し出した。
「寝泊まりの場として、すぐ近くに兵舎を設けてあります。案内の者をつけるので、この命令書を持って隊に合流しなさい」
新たな命令書を受け取って、シュオウは執務室を後にした。
*
扉が閉まったのを確認して、ケイシアは顔の緊張をほどいて夫のアルに向き直った。
「気づいていて案内役を買って出たのでしょ」
ケイシアは言って、腰のあたりをぽんと叩く。
「当然だ。あれほどの一品、見逃すはずがない」
というのも、着任の挨拶に訪れたシュオウという名の従士の腰にあった、一対の剣を指しての話である。それは一目でそうとわかる特注品だった。それだけなら一瞬の注意は惹かれてもそこで話は終わりだが、問題はその剣に氷狼の紋章が刻まれていたという事だ。
「剣に紋章を刻む事が許されるのは、高位の貴族家でも序列の高い人間にかぎられる。あれを譲り受けたのだとしたら、アデュレリアに相当近しい人間ということになるわ」
「アデュレリアから来たと言っていたのは、そういう意味だったのか?」
「アデュレリアには謹慎処分中で滞在していたとあった。その前は採用試験を経て、シワス砦での任務についていたとも」
「シワス!?」
アルは目をむいて大声で驚きの声をあげた。
「シワス砦といえば、田舎者が指を差して笑うこのオウドを遙かに凌ぐ僻地ではないか。東の端からアデュレリアのような都市を経てこんなところまで来たのか。それも氷狼の紋をつけた剣を携えて――わけがわからんな」
「そのうえ、謹慎処分が明けるのと同時に従曹への昇級が言い渡されている」
ケイシアが言うと、アルは大仰に天井を仰いだ。
「よけいにわからん。何者だ、ありゃ」
突然に現れた謎多き人物について、ケイシアには薄々ではあるが、答えの糸口を掴みつつあった。
「最近、王都から訪れた触れ人が言っていた事を覚えている?」
「サーサリア様の遭難事件だろう。うちで詰めてる連中の間じゃ未だにその話が酒の肴だ」
「そう。殿下は無事に救出されたという話だったけど、その時に現場に居合わせた平民の力添えによって、生還が叶ったともいっていた」
もっとも、その情報を信じる者は誰もいなかったのだが。
アルはアゴに手を当てて、したり顔をしてみせた。
「わかったぞ、そのときの平民とやらが、いまの従士というわけか」
ケイシアは微かに頷いた。
「だとしたら筋は通る。まあ、本人に聞くのが一番てっとり早いのだけど、それで調子づかせて、こちらに特別な待遇を求められるのも面白くはないわ」
アルは意外そうに眉を上げた。
「特別扱いせんのか? 平民とはいえアデュレリアから剣を下賜されるほどの人間だ、機嫌を取れば氷長石様との繋がりを得られるかもしれんぞ」
「だから、あなたは甘いといつも言ってるの。あの方は気に入った相手にはたっぷりと蜜を与えるけど、そうでない相手には正面から剣先を突きつけるような人。勝手な想像を元に不用意な事をして怒らせたら、私たちはそれまでよ。下手をすれば、このオウドで一生を終える事になる」
アルとケイシアは、両名ともに下級貴族の出だった。わずかばかりの財産と爵位を継ぐのは兄姉達であり、欲しい物はすべて自力で手に入れなければならないのだ。
軍においてはそれなりに腕の立つ輝士であったアルと、その時々で冷静な状況判断ができるケイシアの二人の協力により、武勲を上げて比較的早く出世の道を駆け上がったが、しかし思わぬところに落とし穴は開いていた。豪放磊落《ごうほうらいらく》な性格であるアルが、近衛軍での上官にあたる人物から不興を買ってしまい、嫌がらせとして誰もが着任を渋るオウドという土地へ送られてしまったのだ。
着任において、司令官としての体裁を整えるために准将の階位を与えられ、代官という役職もおまけとしてついてきたが、その実は経済活動への介入すら許されていない名ばかりの名誉職であった。
攻めるな、守れ、なにもするな。この三つを固く厳命したのが、一昔前にこのオウドを陥落させた張本人である、王国軍最高権力者グエン元帥だったのだから、逆らいようも、苦情を申請する機会もない。
宝玉院の卒業試験以来ずっと共に在り続ける、アルとケイシアの二人にできる事といえば、少ない予算の拡大を求めつつ、手持ちの貧弱な手駒を駆使して属領の防衛をしなければならない、という事だけだった。
それは小さな額縁のなかで、一欠片の木炭を使って壮大な絵画を描けと言われたに等しい、難事である。
アルは盛り上がっていた心を静め、視線を落とした。
「……寒くなってきた」
「名誉を得られない戦しかできない中で、輝士達の士気は低い。そのうえ抱える雑兵は、金銭の多寡でしか物事を見ない連中ばかり。アル、今が私たちの踏ん張りどころよ。このオウドでの任務を無事にやり遂げれば、きっとまた中央に呼び戻される機会はある。私たちの子に、爵位と領地を与えてちょうだい」
自身の下腹部にそっと手を当て、ケイシアは願いを込めてアルに訴えた。
「そうだった。何事にも近道はないか。引き締めてかかろう」
子供のように口元を引き締めて言う夫を、単純だが愛しいとケイシアは思った。
「それでこそ、私が選んだあなただわ」
めずらしく褒められて喜ぶアルは、人差し指を立てて片眼を閉じて言う。
「褒美に夜の酒を一本増やしてくれ」
ケイシアは途端に真顔になり、顔をそむけた。
「それはだめ、質素倹約が私たちにとっての最大目標である事を忘れないでちょうだい」
「……はい」
アルは項垂れて子犬のような鳴き声をもらした。
*
ラ・ジンと名乗った褐色肌の老人は、痩せた体にぼろぼろの従士服を着込んで、ついてこいと短く言った。
尖った大きな丸太を繋げて地面に突き刺した壁に覆われる宿舎は、酷く不潔な空間だった。
皮を剥いだ鳥や兎が無造作に干され、大量に湧いた蝿がたかっている。食べ散らかした骨や残飯が散乱する地面には、薄汚れた男達が座り込んで明るい時間から酒をあおっていた。
「ラジンさん」
黙々と奥へ進む老人に声をかけると、彼は足を止めた。
「ラ、ジンだ。ラジンじゃねえ。ラは族名でジンが親からもらった名前だ。このあたりじゃジン爺と呼ばれてる」
ジン爺はいがらっぽい声でそう言うと、再び足を前に進めだした。
「ここは長いんですか」
「さあな。ここで軍人を始めた頃は髪はたんまり歯も残ってたが、今はどっちもない。そのくらいはここにいる」
泥で汚れた天幕の間をすり抜けながら、シュオウは少しでも情報を引き出そうと努めた。
「五十五番隊の人数は?」
渡された紙に記されていた、自分が預かる事になった隊を指して聞いた。
「糞みてえな傭兵が四人、それにワシを加えて計五人だ。いっとくが綺麗な姉ちゃんがいるなんて期待するな。どいつもこいつも干した豚みてえな面してやがる。臭いも負けず劣らずだ!」
反吐を吐かんばかりに、ジン爺はそう吐き捨てた。彼はところで、と言葉を繋げた。
「あんた、何してその若さで従曹になんぞなれた」
「なにって……」
「言いたくないなら別にかまわんがな。どうせあんたも記念で来てる口だろう」
記念とはどういう意味か、と聞きかけた時、ジン爺は目的の場所に到着した事を告げた。
ぞっとするような汚さの天幕には、やたらに足の長い蜘蛛が無数に蠢いていて、油やら泥水やらにまみれて元の色がわからないほどの不潔さだった。
促されてくぐったその先には、布地に透けるぼんやりとした陽光の元で小さな卓を囲む、体格の良い四人の男達がいた。全員が黒髪に乳白色の肌をした東地出身者と思しき人間達だ。
「てめえら、新しい隊長のご到着だ。挨拶しろ」
ジン爺が声をかけると、四人の男達は一斉に振り向いてシュオウに視線を送った。その直後、彼らは盛大に溜息を吐いた。
「ああ、くそ、またハズレじゃねえか」
背の高い男が言うと、他の三人も興味を失ったようでブツブツと愚痴をこぼしながら卓の上に並んだカードに視線を戻す。
「……お――」
そんな彼らの注意を引き戻そうとした時、ジン爺が手を振って止めに入った。
「やめておけ、無駄に疲れるだけだ。寝床に案内するからさっさと着いてこい」
「ここじゃないんですか」
天幕を出るジン爺の後を追いながら聞くと、大きな声が返ってきた。
「豚小屋で寝たいならとめんがな。従士には馬小屋程度にはましな宿舎が用意されとる」
なるほど、と頷いたシュオウは、次いで気になった事を聞いた。
「ハズレって、どういう意味ですか」
ジン爺は足を止め、不機嫌そうに溜息を吐いた。
「あんたも質問が多いな……あれを見ろ」
皺だらけの指が伸びる方を見ると、小太りの若い男が、屈強な傭兵風の男にあれこれと指示をされて、へこへこと頭を下げている光景があった。
「あれがアタリだ。平民の出でも、そこそこうまくやってる商い人の倅どもが、箔をつけるために軍に入って、ほんのちょっと戦に顔を出して帰っていきやがる。大抵がどうしようもない糞ヘタレ共だが、金だけはそこそこ持ってるってんで、傭兵共が隊長としてやってきたガキに金をせびる。うまい酒と飯でもおごってやりゃ、連中だって馬鹿じゃないからな、戦になればガキ共のお守りくらいはするって寸法だ」
「それで……俺がハズレか」
シュオウは自身が受け持つことになった部隊の者達に、貧乏人だと思われたのだろう。それもそのはず、顔に眼帯をした灰色の髪を持つ人間が、東地において裕福な家の出には到底見えないだろうし、その見立てに間違いはない。
「あんたらはな、隊長ですって面でただいればそれでいいんだ。戦に出て生き残ろうが死のうがワシにはどうでもいい。年寄りの戯れ言として一言だけ言っておくが、うちの隊の連中に言うこと聞かせようなんざ考えるなよ。あいつらが信じるのは金と酒と油まみれの肉だけだ」
一方的にまくしたてるジン爺の話は、忠告というより途中から愚痴へと変わっていたが、言葉の中から多くの有益な情報を拾うことができ、それなりに収穫はあった。
従士専用の宿舎である木造建ての建物の一室は、傭兵達が寝泊まりをしている天幕よりも遙かにまともな、居住空間として最低限の体裁は整えていた。
たしかに、あの老人の言うように外の天幕を豚小屋と評するならば、ここは馬小屋か安宿程度の質は保っている。
シュオウには小さな個室が与えられた。とはいえ、寝台一つを置いて足の踏み場もないような狭い場所だったので、つい最近まで寝泊まりしていたアデュレリア邸の部屋とは比べるのも馬鹿らしかった。
去って行くジン爺に礼を言って、シュオウは部屋に入って寝台に体を預けた。
突然に降って湧いた従曹という立場にある今、しかしその実感はなにもない。
ジン爺を含む隊の人間達への対応をどうすべきか悩む中、ある程度の参考としてまっさきに頭に浮かんだのは、シワス砦で従士達をまとめ上げていたヒノカジ従曹の背中であった。
*
「なんでだよおおおおおおおお!」
長身で細身の男、ハリオは目の前に広がる惨憺たる光景を前にして、雄叫びにも似た悲鳴をあげた。
「ハリオぉ、これって夢じゃないんだよね……つねってくれよ」
そう願った小太りの男、サブリの柔らかい腹を、ハリオはおもいきりつねり上げた。
「いったッ! 腹じゃないよ、ほっぺただよ!」
抗議する言葉も、ハリオには届いていない。放心状態で呆然と立ち尽くしている。
サブリもまた似たような思いを抱きつつ、子汚い傭兵達でごったがえす宿舎を凝視していた。
真っ茶色に汚れた天幕が所狭しと並び、どこからともなく運ばれてくる汚臭に鼻が曲がりそうになる。
なんやかんやと愚痴りながら働いていたアデュレリア公爵邸は、ここと比べれば高級な宿場街にも等しかった、とサブリは過去をなつかしんだ。仕事はきつかったが、あの邸には眉目の良い若い女の使用人達が大勢働いていたからだ。
それに比べてここはどうだろう。あるのは筋骨たくましい、一年中風呂にも入らないような中年の男達の姿だけだ。
幸いにも、従士に与えられる宿舎は別にあるという情報を仕入れた二人は、そこへ向かう道すがらにぺらぺらとお喋りを続けていた。
「どうにもおかしいんだよ。よりにもよって、一番来たくないと思ってた所に俺達はいるんだ」
生気の抜けた虚ろな目で、ハリオがそうつぶやいた。
「南の戦線には絶対に行きたくないって、何度も言ってたもんね」
「それもこれも、全部あいつのせいだ」
「あいつって、シュオウの事だろ」
ハリオは数度頷いた。
「なにが動向を知らせろ、だ! 氷姫の野郎、俺達が平民だからってめんどうな仕事ばっかりやらせやがって」
「おい、野郎なんて言ったことが聞かれたら……」
「うるせえ、かまうもんかッ。俺達だって人間なんだ、やりたくない事くらいあるんだよ、ちくしょうが。誰が好きこのんで殺し合いの最前線になんて来るもんか」
元はと言えば自業自得だ。アデュレリア公爵に繋がりを持っていたシュオウを助け、その褒美に遙か雲の上にいるようなアデュレリア公爵の別邸で食事を振る舞われ、調子に乗ったハリオが酒の盗み飲みを提案し、流されやすいサブリがそれにのって、あっさりとバレて公爵の怒りを買ってしまったのだ。
「まあまあ、これで酒代をなしにしてくれるっていうんだから。俺達が一生稼いだって払えない額だったんだし」
サブリが落ち着いた調子で言うと、ハリオもようやく現実を受け入れたのか、溜息を一つ零して押し黙った。
そこそこまともな従士用の兵舎に到着し、指示を受けた隊への合流を求めて叫んだ瞬間、丸太のように太くて固い腕が、サブリとハリオの首にゴキリと巻きついた。その瞬間、酒の臭いがぷわんと漂う。
「ようやくまともな補充の従士が来やがった」
大蛇のように太い腕が巻きついた首をどうにか捻りながら顔を上げ、横目で見る声の主は、外でうろついていた小汚い傭兵に負けず劣らずの風貌をした強面の男だった。
「あ、あの、あなたは……」
自分より強いと思った相手にはすぐに腰が引けるハリオは、おどおどとした声で尋ねる。
「七十番隊、隊長のボルジだ。今日からてめえらの上官になる。さっそく他の連中と一緒にしごいてやるからその小綺麗な服を全部脱いでこい」
首を押さえられて引きずられながら、サブリは、もうどうにでもなれという心境でいた。横目で見るハリオの小さな双眸は、死んだ魚のように濁っていた。
*
オウドに着任してから一夜が明け、シュオウは目覚めと共に部下となった傭兵達の元に向かった。
共に戦場に行く身として、彼らと最低限の会話くらいはしておきたい。だがそうした思いも、もぬけの殻となっていた五十五番隊の天幕を覗いた瞬間に意気は萎れてしまった。
近場にいる者達に彼らの行き先をたずねても、自分の従士服と階級章を見た途端、彼らは不機嫌そうに押し黙った。
この状況で唯一頼りになりそうなジン爺は、朝早くにどこかへ出かけていってしまったらしく、やはりその行方も霧の中である。
――ひどいものだ。
当たり前のように人を御していた、アデュレリア公爵やその副官のカザヒナ重輝士、そしてシワス砦のあの老いた従曹を思えば、部下の一人とて、その居場所すら把握できていない今の自分が情けなかった。
愚痴を聞いてくれる相手は誰もいない。中途半端に与えられた責任を、どう処理すればよいのか、その答えを得ることができない。
兵舎の中には、ひどく怠惰な者達がいる一方で、木剣を片手に訓練に勤しむ隊の姿もあった。観察してみるに、そうした隊にはかならず、それを監督している強面で恰幅の良い仕切り役がいて、怒鳴り声をあげながら訓練を促している。
人を御すという行為は苦手だ。上に立ち、あれこれと指図をして相手に言うことを聞かせなければならない。しかし、自分はここまでの歩みの中で、それに近い事もしてきた。頭の固い貴族の娘達を説得し、命すら狙ってきたこの国の王女にすら、最後には自分の意思を通して囮役までやらせてきたのだ。
やってやる、という気持ちはまだ死んではいなかったが、しかし今のところ部下達の居所に関する手がかりはなにもない。時間を無駄にしているような気がして、シュオウは周辺の地理の把握に努めた。
兵舎から街への、いくつか存在する道順を調べ、複雑怪奇な小道がどこへ繋がっているのかを把握しながら、一つ一つを頭に入れていく。その課程で、山の小高い場所へと伸びる一本の細道を見つけ、小さな丸太で簡単に作られている階段を昇って、その先がどうなっているのかをたしかめに向かった。
険しいと言い切れるほどの傾斜。階段は高さも歪で、丸太が腐り落ちて欠けてしまった部分もある。
どうにか昇りきった先には、小振りの祠のような建造物があって、その先に辺りを一望できる崖のように突き出した地形があった。そこに、見覚えのある人物の背中を見つける。
――准将。
一人佇んでいたこの地の最高責任者であるアル・バーデンは、すぐにシュオウの存在に気づくと破顔して近寄ってきた。
「よく会うな、という顔をしている。俺も同感だ」
よく通る野太い声が、周辺に反響した。
「本当に」
彼はシュオウに手招きをして、柵が設けてある崖っぷちへと誘導した。
広がる景色は見事なものだった。
なだらかに傾斜を形成する黄色い山の先には、ぼんやりと霞んで深界の森が見える。大きな鳥達が永遠に続く青の世界を飛び、春のほがらかな日射がこの世界全体に彩りを与えていた。見上げれば、壁にも等しい大きさの金剛大山がどっかりと世界を睥睨し、稜線をこするように流れていく雲が、その山の雄大さをさらに際立たせている。
オウドの山肌では、労働者達が岩壁を削っていたり、焼き物を並べて焚き火の支度をしている。彼らの中には大山のほうを向いて、必死に手を合わせて拝む者達がいた。
「このオウドに暮らす住民達のほとんどが〈クオウ教〉の熱心な信者だ。大山の頂上にいるとされる鬼神を崇め、ああやって頻繁に手を合わせている」
アル・バーデンの説明を受けて、シュオウはぼんやりと呟いた。
「クオウ教……」
「君は北方の出身か?」
「いえ、ムラクモの王都です」
そう答えるとアル・バーデンは意外そうに眉をあげた。
「なるほど。だがそれなら君も信じる神は持っていないだろう。宗教を持たない東地の人間から見れば、大山はただのでかい山だが、南のクオウ、北の〈リシア〉は、どちらもあの山の頂上に自分達の信じる神がいると主張している。どちらが先に頂上への踏破を果たすか、なんて競争で互いに血みどろの戦争を繰り返してきた。だがな、俺達ムラクモの人間からすれば、山の天辺にいるかどうかもわからんモノが、白か黒かなんてどうでもいい事だ。人間の生きるための欲求は神の存在をたしかめる事ではなく、日々の糧をどう得るのかに終始しているからな」
遠目に大山を眺めるアル・バーデンの横顔には、不思議と憂いの色があった。粗野な質を持った人間かとも思っていたが、今の彼の顔を伺うかぎり、そうした印象はすべて霧消していた。
「大山の先にあるもの以外にも、この世界には数多謎がひしめいている。上を気にする者がいる一方で〈世界の溝〉という大穴の底に鬼達の世界が存在すると主張する一派が、最近クオウの中で膨らんでいるとも聞く。君はそういう事が気になる人間か?」
シュオウは遠くそびえ立つ大山を視界に収めながらに言った。
「考えれば、正直興味をそそられます。だけど、今は手持ちのもので精一杯なので」
「なるほど、良い心がけだ。預かった隊の連中とはうまくやっているか」
力強く問うアル・バーデンに、シュオウは眉根に力を込めて笑って見せた。
「はい。うまく、やってみせます」
力強く言うシュオウを、アル・バーデンは満足気に見て、頷いた。
「よし、よく言った。近頃、渦視城塞に動きがあると報告が上がっている。近いうちにここで待機している連中にも深界の砦に詰めてもらう事になるだろう。いつでも動けるように、支度だけはしておくといい」
「ここでおこる戦の頻度は他に類がないと聞きました。相手は、よっぽどここが欲しいみたいですね」
「このオウドに土地としての価値はあまりないのだがな。資源には乏しいし、特別な技術があるわけでもない。しかし、宗教的な見地で考えると途端に話は変わるらしい。昨日君を案内した本部兵舎は、元々クオウの寺院でな、占領後にムラクモ王国軍の施設として接収したらしいが、土着民達の感情を考えて中にはなるべく手を加えず、未だにクオウの僧侶どもの祈祷を許しているんだが……とにかくサンゴにとっては、ここは意味のある地というわけだ」
「いっそ、相手に攻め込んで黙らせてやれば、面倒を減らせると思います」
シュオウは思ったままを口にした。ただ黙ってやられていては、相手が調子に乗ると思うのは至極当然の事だ。
アル・バーデンは横目にこちらを見て乾いた笑みを浮かべた。
「それができればとっくにそうしている。渦視を落として見せれば俺の名もあがるんだがな、それにはなにより金も人も、何もかもが足りない。まあ、どのみち金があったところで上からの命令は破れない。地に根を生やして負けない事。それがオウドに勤める俺達の仕事というわけだ」
アル・バーデンは、目の前に答えがぶらさがっているのに、それに手を伸ばすことができない、というようなむず痒い顔をしていた。
「はがゆいですね、軍というのは」
「……まったくだ」
風に漂う焚き火の香りを吸い込みながら、シュオウは本来遙か彼方の存在であるこの地の司令官と肩を並べて、しばらく、共に景色を眺めていた。
Ⅲ 掃き溜め
早朝、誰よりも早く起きたつもりでいたが、傭兵達がいるはずの天幕に、その姿を見つける事はできなかった。
地面に転がる樽や、食べかけの食事など、昨日見たときから中の様子はそのままで、なに一つ変わった様子がない。
――帰らなかったのか。
シュオウは踵を返し、従士用の兵舎にいるはずのジン爺を探した。
一般の従士達に与えられている部屋は仕切りもなく、一部屋に五人から六人ほどが雑魚寝をするだけの簡素な空間で、歳のいった傭兵達とは真逆に、まだ若く、シュオウと大差ない年齢の青年達が、心細そうに体を丸めて眠っている。
ジン爺は兵舎の一番奥にある部屋の中で、片隅に置いた荷物を枕にして、慣れた様子で大の字に眠っていた。
骨張った肩を揺さぶって彼を起こすと、目にクマを溜めた気怠い瞳がシュオウを見た。
「……なんでい」
くちゃくちゃと開いた口から饐えた酒の臭いが漂う。
「飲んでたんですか」
「自分の金で飲んでなにがわるいってんだ――」
ジン爺は体を起こし、窓の外を見て不機嫌そうに唸った。
「――まだ真っ暗じゃねえか。なんで起こしやがった」
「隊の人間の姿が昨日から見えないので、居場所に心当たりはありませんか」
「あいつらが行くとこなんざ決まっとるわぃ、飲み屋だ」
「だけど、昨日から一度も帰った様子がなくて」
ジン爺は天井を仰いで大あくびをかました。
「連中にとっちゃ向こうが住処みたいなもんだ。心配するな、仕事が入れば稼ぐために、来るなといったってあっちから戻ってくる」
言って再び寝に戻ろうとするが、シュオウはそれを止めた。
「その店まで行きたいんですけど」
シュオウの言葉に、ジン爺はゆるんでいた瞳を大きく開いた。
「行ってどうする」
「連れ戻します」
暗闇の中を歩いて辿り着いた街の片隅にある小さな酒場の入口には〈掃き溜め〉と書かれた看板が下がっている。自虐的なその名前に首を傾げたくなったが、よく見ると、看板には元々書かれていた名の断片があり、うっすらとかつての面影を残していた。
「連中は中にいるはずだ。おれは入らねえぞ、くせえからな」
そう宣言して入口で足を止めたジン爺を置いて、シュオウは一人で店の両開きの戸を押した。
たしかに、店の中は強い酒臭と獣小屋のような臭いが充満していた。だが、幼少期を汚水溜めのような場所ですごしていた自分にとっては、だからどうした、という程度の問題である。
店内には丸い卓がいくつか置かれ、こんな時間だというのに、中央の卓には男達が集まってわいわいとカード遊びに興じていた。
彼らの背中に向けて、シュオウは声をかけた。
「五十五番隊の人間はいるか」
喧噪が止み、男達の視線がこちらへ集まる。うち一人が威嚇するように唸った。
「ああ?」
見覚えのあるその顔は、ジン爺から紹介を受けた際に、自分をハズレと評したあの傭兵の男だった。
視線の重なったその男に、落ち着いた声音で言う。
「兵舎に戻ってほしい」
しんと静まった店内に、男の重々しい声が返ってきた。
「戻ってどうするんだよ」
「訓練をする」
一瞬の間を置いて、男達から爆笑が巻き起こった。
「おもしれえが笑えねえな。普段なら一発かましてるとこだが、今日は勝ち続きで気分がいいんだ、聞かなかった事にしてやるから出ていきな」
そういうと、傭兵の男は再び卓に注意を戻した。賭けで得たのであろう金をじゃらじゃら弄んで談笑を始める。
他の男達は、出来の悪い子供を見る親のような顔でこちらを見やり、嘲笑っていた。
ここで引き下がれるはずもなく、次の言葉を言ってやろうとした、その時――
「んお? おい、お前! シュオウじゃねえか」
片隅の卓で前のめりに眠りこけていた細身の男が立ち上がり、歩み寄ってきてバシバシとシュオウの肩を叩いた。
「ハリオ、さん?」
ハリオの後からよろよろと寄ってきたもう一人の見知った人物、サブリはしゃっくりをしながら、にへらと笑った。
「おまへのせいでひどいめにあってるんだぞ!」
「そうだそうだ、なのにひとりだけ出世なんてしやがってよぉ」
相槌を打ったハリオ共々、目が座り、頭が落ち着きなく揺れて、泥酔一歩手前の状態だ。
ハリオは、自分達が助けてやらなければ今頃お前はどうなっていたか、等と力説しながら、酒に付き合えとしつこくからんでくる。
サブリが別の店へ行こうとシュオウを引きずり、ハリオもまたお前のおごりだと言ってシュオウの腕を掴んだ。
思いがけない顔見知りとの遭遇により、気持ちの持って行き場を失ったシュオウは、きちんと断る事もできないまま、彼らの思惑通りに店外へ引っぱられていく。さきほどまで自分を笑っていた男達は冷めた視線寄越して、興味を失ったように、ほとんどの者が見向きもしなくなっていた。
「ちょっと、待って!」
店の外に出て、シュオウはようやく落ち着きをとりもどし、両腕にからみつく酒臭い二人の先輩従士をふりほどいた。
「なんらよ」
赤ら顔で睨むハリオに、シュオウは向き合った。
「まだやらないといけない事があるので、話はまたこんど」
「あ、おいッ」
シュオウは二人を置き去りにして、元いた店へと駆け出した。後ろからぶつくさと文句をたれる二人の声が聞こえるが、かまってなどいられない。
すぐに〈掃き溜め〉まで戻ると、ジン爺が店の前に置かれたぼろぼろの長椅子に、一人ぽつんと腰かけていた。
「なんだ、戻って来やがったのか……まだやる気か」
「やりますッ、絶対に連れて戻る」
ジン爺は長い溜息を吐いた。
「あのなあ、さっきのあの二人が、あんたとどういう関係かは知らねえけどよ、ありゃだめだろ。下の階級のやつにヘコヘコしてるようなやつの言うことを、荒くれどもが聞くわけがねえ。俺に対しても随分丁寧に言葉をかけてくれるがな、いくら年に差があろうが、軍じゃ階級がすべてだ、人の上に立ってそいつらを従わせようってんなら、お坊ちゃんみたいに丁寧に話しかけてたって埒があかねえ。さっきのあれで、連中の中でのあんたの格付けはもうすんだ。いいかげん諦めて帰るんだな」
諭すように言われても、シュオウはまったく意に介してはいなかった。諦めるどころか、逆に突破口を見せてもらったような気がする。
深く息を吸って、背筋を伸ばして胸をふくらませた。
「そうだな……その通りだ」
シュオウの頭の中に、シワス砦を切り盛りしていたヒノカジ従曹の怒鳴り声が轟き、残響していた。あそこで働く従士達の、あの老兵を見る目には親愛と共に畏怖の色も同時にあった。幾度か横暴に見えるような振る舞いも見かけたが、今はそれが意味のある行動だったのではないかと思える。
「おいッ!」
引き留めようとする声を無視して、シュオウは再び店内に飛び込み、腹の底から声を張り上げた。
「五十五番隊の人間は今すぐ兵舎に戻れ! これは命令だッ」
一瞬で店内が静まり、苛立ちを抱えた顔で振り返った先ほどの男が睨みをきかせてきた。傷だらけの顔にギラつく二つの瞳は、今すぐここから出て行け、と無言の圧力をかけている。
中央の丸卓まで歩み寄り、座ったままの男を見下ろす。一瞬たりとも視線をはずさず、向けられるすべての感情を真っ正面から受け止めた。
男は黙ったまま、同様に視線をはずそうとはしない。しだいに顔面の筋肉がぴくぴくと痙攣をはじめるが、怒りに我を失わず、いまだ手をだそうとしてこないあたりに、まだ対話の余地があるとシュオウは考えた。
「何度も言わせるな、その椅子から立ち上がって兵舎に戻れ」
男はどう猛な肉食獣のように歯を剥いて大声をあげた。
「何度も言わせるなってな、それは俺の言葉だ! ここはな、俺達の唯一の休息所なんだよ。昨日今日来たような糞ガキが、俺達の流儀もわからないで隊長ごっこか? ざけんじゃねえぞ。てめえの言う訓練ってやつで遊びたいならな、一人で勝手にやっとけ、ボケ」
長年戦場に身を置いているだけあり、脅しをかけてくる男の態度には相応の迫力があった。新任の若い従士であれば震え上がっていたかもしれないが、ある意味そうした枠の外にいる自分には、男の脅し文句は子犬の遠吠え程度にしか響かない。
「遊んでいるのはお前のほうだ。雇われの身で酒場に入り浸っている人間に罵倒されるいわれはない」
男はシュオウを鼻で笑った。
「雇われてる、だ? なるほどな、ものを知らないからこんなあほな真似が出来るってわけか」
男は咄嗟に腰に差した短剣を抜いた。シュオウは警戒して身構えたが、引き抜かれた短剣は真っ直ぐ木製の丸卓に突き刺された。突き立てられたその短剣は、刃にギザギザとした加工が施された見慣れない妙な形をしている。
「軍のお抱えで、いるだけで金が入るおまえらと違ってな、おれたちは、殺した敵の手首一つと交換で飯を食ってるんだ。この剣も服も靴も酒代も、それを買うために人一人を命がけで殺した見返りに受け取ってるんだよ。だからな、あの糞みてえな場所でごっこ遊びをする分までの金は、そもそも勘定に入ってねえ」
この言い分には、すぐにうまい言葉を返せなかった。心のどこかで納得をしてしまったのだ。他人に雇われて生活を送る人間は、労働の見返りとして糧を得ている。その当たり前の構図も、しかし傭兵という立場にある彼らには完全に当てはまるわけではないのだろう。
「わかった……なら、そのための金さえ受け取れば、大人しく訓練に参加するんだな」
少し熱の下がった声で言うと、傭兵の男とその取り巻き達は、なにを言い出すのだという顔をした。
シュオウは腰に下げていた銭袋を取り出して、丸卓の上にすべてぶちまけた。
アデュレリアから持参した真新しい銀貨が、盛大な音を立てて卓の上に広がっていく。一通り袋の中身をすべて出し切り、沈黙する男達に言う。
「お前達を俺が雇う、それで文句はないな」
沈黙。
空気の流れすら止まってしまったかと錯覚するほど、男達はすべての動きを止めて卓の上の銀貨に視線を釘付けにしている。
背後から突然、店の扉を開く音がしたその瞬間、男達は大声をあげながら一斉に銀貨に飛びついた。
互いに罵りながら奪い合い、殴る蹴るの大乱闘を繰り広げた後、すべての男達をのして一人銀貨を手中におさめたのは、シュオウと対していたあの男だった。
男はちらばった銀貨を拾い集め、両手で抱えこみ、顔に青あざをうかべて鼻血をたらしながら、シュオウを見て笑みを見せた。
「あんたも人がわりいな、金を持ってるなら最初から言えばいいんだ。だがまあ、話に乗ったぜ、今からあんたに雇われてやる」
あまりにも急な態度の変わりように呆れつつ、シュオウは忠告した。
「それは一人分として渡したんじゃない」
「わかってるさ、こいつらは俺が仕切ってんだ。ちゃんと取り分を決めて分けるから心配すんな」
男は銀貨を抱えたまま、床で気絶した男達に向けてあごをしゃくった。
たしかに、観察していたかぎり、この男より前へ出ようとする者は、これまで誰一人いなかった。彼らを仕切っているという言葉に偽りはないのだろう。
「わかった。昼までに全員を起こして兵舎へ戻れ。準備ができしだい、今日から全員で訓練を始める」
男はぎこちなく頭を下げる。
「あいよ、隊長どの。俺はサンジってんだ、いまさらだが、雇い主の名前くらいは聞いておきてえな」
シュオウは去り際、背中を向けたままそれに答えた。
「シュオウだ」
店の入口で様子を伺っていたジン爺を連れて、シュオウは兵舎へ戻る道をのんびりと歩いた。
「あんたやるじゃねえか。札付きの男共を前に一歩も引き下がらんとはな。しかし、奴の言いようはもっともだ、金があるなら最初からそうと言やあいんだ」
ジン爺はシュオウの背中をぽんと叩いて小気味良く賞賛を述べた。
「そうだな。でも、出来れば自分の力だけで言うことを聞かせたかった」
金の力を借りてサンジを屈服させたシュオウとしては、いまいちすっきりとしない。
「金だって立派な力だろうが。お高い貴族様だってそれがなきゃ、ただ石に色がついた人間でしかねえんだ――それで、どうやってあんだけの金を手に入れた? うまい話があるなら噛ませてくれや」
ジン爺は指でわっかをつくり、目を輝かせた。
「別に……ちょっとした仕事の……報酬で」
あの金を手に入れる事になった切っ掛けは、あまり愉快な出来事とはいえない。雪山の中で一人の人間を看取った、あの時の苦い気持ちがよみがえり、ちくりと胸に突き刺さった。
しつこく話をねだる老人をごまかしの態度で躱しながら、シュオウはそっと奥歯を噛みしめた。経緯はどうであれ、隊長としての仕事を、これでようやく始める事ができるだろう。
少し小腹が減る午後の一時。
分厚い従士服を脱いで薄手の短衣を纏ったシュオウは、木剣を肩に担ぎながら練兵所に赴いた。
予めジン爺には指示を伝え、ふらふらの体で兵舎に戻ったサンジ率いる傭兵達と共に練兵所に向かうように指示は出してある。
練兵所と言っても、そこは大袈裟な場所ではなく、ただ単純な囲いが設けてあり、丸太にボロ布を巻いた稽古用の人形が二、三個置いてある程度の場所である。ただそこは、汚れた天幕でごったがえす狭い兵舎の敷地の中でも、他に気兼ねなく体を動かせる場所という意味では貴重な空間だった。
目的地に辿り着くと、なにやら物騒な掛け合いが耳に触った。見れば入口にむさくるしい男達がごったがえし、口汚く罵り合っている。外側から怒鳴り声をあげているのは、自身が率いる五十五番隊の人間達だった。
「どうした?」
聞くと、狂犬の如く吠えていたサンジが地面に唾を吐いた。
「こいつらが縄張りだとかほざいて中に入れねえんだよ」
血走った眼で戸を閉ざす男達を見るサンジは、どうみても交渉役としては向いていない。シュオウは彼の肩を叩き、代わって落ち着いた声で相手に質問を投げた。
「俺がこの隊を預かっている。出来れば、ここを使いたいんだが」
相手方の男達も、サンジ達と同様にあきらかに従士ではなく傭兵として雇われている風体だが、問いかけてみるに、彼らは意外にも冷静さを保っているとわかった。むしろ、なにかに怯えて縮こまっているようにすら見える。
入口を塞いでいる男は、困り果てた様子でシュオウに応じた。
「悪いけどな、ここは通せないんだ」
「ここの使用に、なにか取り決めでもあるのか」
「いや……ただ、俺達も隊長にここを死守しろといわれてんだ。察してくれよ」
「死守って――」
さらに掘り下げて聞こうとしたその時、よく通る野太い声が背中から聞こえた。
「おい、なにしてやがる」
その声がした途端、入口を守る男達は肩を竦めて頭を下げた。なかには小さく悲鳴を上げている者までいる。
「か、頭……すんません、こいつらがどしても中に入れろって」
突如現れた男は部下から事情を聞き、怒気を孕んだ唸り声を上げた。のしのしと肩を怒らせて向かってくる男に目を合わせた途端、怒りに歪んでいた男の顔が、突如柔らかくほぐれた。
「おまッ、シュオウ……か?」
名を呼ばれ、シュオウも目の前にいる見覚えのある顔を見て、声をあげた。
「ボルジ?」
深界の踏破試験中に、シュオウが自らその身をかついで歩いた男、傭兵あがりで後にムラクモの従士となったボルジは、大声で笑いながらシュオウの肩に両手を乗せて歓喜の声をあげた。
「会いたいとは思ってたが、まさかこんなところで顔を見るとは思わなかったぜ」
屈託のないその顔を見て、シュオウも微笑んだ。
「元気そうだな」
「ああ、この通りだよ。お前のおかげで嫁も持てたんだ。その報告がしたくてな、自分なりに行き先を調べては見たんだがさっぱりわからなくてよ。てっきり軍を辞めて旅にでも出たのかと思ってたぜ」
結婚を報告するボルジは、照れくさそうに頭をかいていた。
「おめでとう。でもいいのか、こんな所まで……」
「ああ、俺は志願して来てるんだ。嫁さんが自分の店持ちたいっていうんだが、深界踏破で貰った金はガキが出来たときの蓄えに残しておきたかったんでな。それでまあ、出稼ぎがてらにここにいるっつうわけだ。ここは危険で働きたがるやつも少ないってんで、平の従士でもそれなりに金がでるんだ――ところでよ、お前はこんなとこで何してたんだよ」
シュオウは問われ、おおまかに事情を説明した。するとボルジは形相を変え、戸を押さえつけていた男達を思い切り蹴り飛ばした。
「てめえらッ、俺の恩人をよくも閉め出してくれやがったな」
地面に背中から転がった男達の一人が、抗議の声を漏らした。
「そんなあ、あんたが誰も通すなって――」
ボルジはそれを遮って怒鳴り声をあげた。
「うるせ! どんなことにも例外はあるんだよ」
「そりゃねえよ……」
ボルジは入口に転がる男達を足でどけ、シュオウに手招きをした。
「ささ、好きなだけ使ってくれ」
状況に今だ戸惑ったままのジン爺やサンジ達を促し、シュオウは練兵所の土を踏んだ。それを確認して、部下達を引き連れて外に出ようとするボルジを止める。
「どうした?」
「広く使えるほうが都合がいいだろ。俺は他に適当な場所でも見つけるから、ここは気にせず使ってくれや」
「全員が使えるだけの広さは十分ある。一緒に使えばいい」
「……そうかい。なら合同訓練といかせてもらうか。しっかしよ、もう隊を一つまかされるなんざ、さすがだな」
「そっちも同じだろ」
「俺は経験を買われただけだ。クズ共のお守りには慣れてたからな。でもな、入ったばかりの新入りには初日から逃げられちまうし、胸を張って隊長やってますとも言えねえよ」
ボルジは苦笑いを浮かべつつ、シュオウの後ろで所在なく佇む男達を見やった。
「お前のとこの隊の人間はこれで全部か?」
ボルジは五十五番隊の男達をなめるように見渡してから、サンジの前に立った。
「な、なんだよ」
ついさっきまで怒鳴りあいを演じていたサンジも、強面で体格に優れるボルジを前にして、蛇に睨まれたカエルのように大人しくなっていた。彼のほうからは決して目を合わせようとしない所を見ても、シュオウも気づかないうちに互いの格付けがすまされているらしい。
「てめえが頭だな、他のやつらの目を見ればすぐにわかるぜ」
ボルジはサンジの肩を握り、しだいにその力を強めていった。
「俺も傭兵あがりだ、てめえらの考えてる事はよくわかるし、似たような苦労もしてきた。だが調子に乗るなよ、お前らの隊長は若いが並の男じゃねえ。それになにより俺の命の恩人だ。こいつになめた真似したらただじゃおかねえからな、よく覚えとけ」
地響きを起こしそうなボルジの声は、それを聞く者達を恐怖させるだけの効力を十分に発揮していた。
サンジは小さな声で理解した事を告げ、背中を丸めて媚びた笑いを浮かべていた。
荒くれ者達を完璧に手玉にとるボルジの初めて見る一面に関心しつつ、シュオウはその方法を一つの手本として観察していた。それと同時に、やはり人の上に立つ事の難しさも実感する。自分はまだ、上官という立場をうまく使いこなす事が出来ていなかった。
*
甥のリビを連れ立って、シャノアの老将バ・リョウキは、渦視城塞の中庭にある広々とした調練場を訪れていた。
ア・ザン総帥の申し出により、サンゴの兵士達の慰問をかねての事だったが、個人的にも技を磨く若者達を見るのは嫌いではない。
バ・リョウキの訪れを知るや、調練に励んでいた兵達の浮き足立ちっぷりは凄まじい。緊張した面持ちで武器を握る彼らの振るまいをじっくりと眺めた。
「これといって見所はありませんね」
帯同しているリビが小声で言った。
「たしかに、全体としての練度も並といった様子ではある」
バ・リョウキは全としてよりも、むしろ個に対しての期待を秘めていた。世界は広く、未だ世には名も知らぬの猛者達が燻っている。多くの強者と対してきたバ・リョウキは、そうした相手を的確に察知する鋭い嗅覚を備えていると自負していた。しかしそれは決して高尚なものではなく、むしろ即物的であり、低俗な欲望を満たすための行為に近かった。
「戻りましょう、これ以上は時間の無駄です」
年若いリビは、早々に飽きてこの場を去りたがった。平素と変わらぬ退屈な空気にそう思ったのも無理はない。が、バ・リョウキはこの場で一人、周囲の空気が一変した事に気づいていた。
「濃厚なる殺気――」
一言漏らすと、リビは戸惑いに声をあげた。
「え?」
それは一陣の突風を思わせる鋭敏な圧力であった。目の前に猛烈な勢いで突き出された足は、その標的をリビに定めている。狙いはアゴであり、当たれば命を危険にさらすほどの勢いがあると、経験を元に積み上げてきた直感は告げていた。
バ・リョウキは掌底を繰り出して足の軌道をずらした。強烈な蹴撃に当てた手から伝わる衝撃は、その威力が並の人間に許された範囲を逸脱している事を示唆していた。
闇討ちの主が足を引いたことを確認し、背に負った宝剣岩縄を抜きはなつ。
バ・リョウキは切っ先を向けた先にある姿を確認して、二の足を踏んだ。
薄桃色の髪を左右に結い、艶やかな銅色の肌が眩しい顔にある黒光りする双眸が、武人としての強い力を持って一点にこちらを見つめている。見た目にまだあどけなさがある小柄な肢体は成人にはほど遠く、しかし胸や尻といった女を強調する部位の発育は著しい。にもかかわらず、この女の放つ気迫は熟達した武芸者のそれに匹敵する圧力があった。
あらゆる意味でちぐはぐなその人物は、バ・リョウキとリビを視界に捉えつつ、吠えた。
「戦場を前にしてその油断、惰弱の一言につきる!」
よく通るその声は、はっきりとリビに向けて言われていた。
「なッ――」
大怪我を負う寸前だった甥は、未だ混乱の中にあってろくに頭が回っていない様子である。
女は早々にリビへの興味を捨て、バ・リョウキに目を向けた。
「シャノアの将、バ・リョウキ殿か」
バ・リョウキは構えた岩縄を微動だにさせぬまま、答えた。
「いかにも。そのほう、いずこかの刺客であるか」
年若の女は笑い、ふくよかな胸を張り上げて名乗りをあげる。
「連山武館、夏蜂会師範代、およびサンゴ国現王が孫にして破戒僧ア・ザンの娘、ア・シャラである!」
その宣言に、この事態を傍観していた周囲の兵達の間にどよめきが走り、彼らは波をうつように膝を折り始めた。
「公主様であられたか……」
バ・リョウキが岩縄を収めると同時に、背後から怒声が響いた。
「だれが破戒僧だあああ!」
ふくよかな贅肉を揺らしながら駆けてきたア・ザンを見ると、シャラは無表情に視線を逸らした。
ア・ザンは息を切らせながらシャラの前に立ち、バ・リョウキに向かって頭を下げた。
「いや、申し訳ない、本ッ当に申し訳ない! ひょっこり顔を出した娘に、リビ殿と話をしてみてはどうだと言ったのだが、まさかいきなり襲いかかるとは」
謝罪する父を前に、シャラは目を尖らせて怒声をあげた。
「父将よッ、このリビという男、見合いの相手としては論外であるぞ。井戸端で話にふけるばば達よりも呑気だ!」
あしざまに言われ、リビは激高した。
「なん、だとッ」
バ・リョウキは前へ出ようと試みた甥の足を転ばせ、地面に頭を押さえつけた。
「公主様を前に剣を向けた事、まこと恥じ入る思い。この愚かな甥共々お許し頂きたい」
謝罪して低頭すると、ア・ザンが慌てふためいてバ・リョウキの肩を持ち上げた。
「なにをおっしゃるか、老将殿はただ身を守ろうとなさっただけではありませんか」
事を始めた張本人であるシャラは、父親の背にあってそれに同調した。
「その通りだ。バ・リョウキ殿の身のこなし、あの一瞬の判断は見事であったぞ。英雄としてのその名が、幻ではなかったのだと教えてもらった思いがする」
特有の猛々しい物言いに、ア・ザンは額に汗をためながら娘を諫めていた。
「お褒めにあずかり、光栄の至り。しかし先ほどのお言葉は聞き捨てできませぬ。リビとの見合いなどという話は、私が呆けたのでなければ今初めて聞いた事」
これにも、ア・ザンは慌てた様子で受け答えた。
「いやいや、ごもっとも。こちらも思いつきの話を娘に伝えたばかりでの、これでして。まま、ここではなんですから、話は中で――」
促されるまま、バ・リョウキ一行はシャラと共に城の中へと移動した。
派手な装飾品を並べる総帥の私室に通され、くつろぐ事のできる長卓に腰かける。ア・ザンは自らに高価な茶器を並べ、最高級の茶葉を湯で蒸して振る舞いながら、事情を説明し始めた。
「妻は王陛下の娘、つまりは王族の身分でありましてな。娘のシャラは世に落ちた瞬間から第六位継承権を与えられております」
「でありましたか……ご事情は理解いたした」
同時に、この男がこれほどの高位にある理由にも薄々予想がついた。
「しかしまあ、神のきまぐれでもないかぎり、シャラが玉座に座ることはまずありますまい。しからば相応の相手へ嫁ぎ、国家安寧の礎となるのが上策というもの」
「その相手にリビを、ということにござるか」
深く頷くア・ザンを見て、バ・リョウキはそれを悪い話ではないと思っていた。サンゴとシャノアが関係を深めるには、サンゴで公主という身分にあるシャラと、シャノアで軍権を預かる自分の後継者であるリビが結ばれるのは、両国の関係を強める良い材料になるかもしれない。
しかし人と人の間に生じる感情は、外の人間が望んだからといって簡単に結ばれるものではない。形だけの結婚を整えたところで、両者の間に子が生まれなければ結局は無意味に終わるのだ。そしてバ・リョウキの見立てによれば、シャラとリビの関係には、すでに埋めがたい溝が生じているように思えた。
大衆の面前で醜態を晒す結果となったリビは、口では黙っていても正面に座るシャラを睨みつけ、鼻の穴を広げて血走った視線を送っている。一方の公主のほうはといえば、涼しい顔で茶をすすり、向けられる敵意をそよ風のように受け止めていた。
「失礼だが、公主様はおいくつになられる」
「今年で十四になった」
年齢を聞き、リビが驚きに声を漏らした。
「じゅう、し……」
シャラは驚くリビを前に、満足気に言葉を繋ぐ。
「十を迎える前に、葉山、三叉会の円拳を習得。後三年で連山、夏蜂会で皆伝を受けた」
誇らしく言う若き公主が、まさしく誇るに足りるだけの才を有しているのは、先ほどの身のこなしを見れば間違いないのだと確信できる。
その腕が長き経験を積み上げ、修羅場を潜ってきた自分に届くほどではないにしろ、年齢を思えば驚異的な才といえるだろう。
そしてシャラが体得したという円拳は、足運びを重視した体術であり、連山で広く伝わる蹴術は、軽快な足技を主体とした戦い方を信条としている。おそらく彼女の左手の甲に光る小豆色の輝石は、脚力の強化を果たす力を持っていると見て間違いない。その生まれ持った特性をこれ以上なく活かすための道筋を考えたうえで、各流派を収めてきたのだろう。
彼女が男であり、そしてア・ザンの娘ではなく自身の血統に連なる者であったならば、バ・リョウキは早々に跡目を譲って隠居していただろう。
バ・リョウキがシャラを見る目には、惜しいという思いと同時に、羨望の色が隠されていた。
「父将よ、私は行くぞ。じっとしても退屈だ、ここの男共の腕をためしてくる」
シャラは飲み干した茶を置いて、立ち上がった。
「お、おい――」
引き留めようとするア・ザンにシャラは服の内から美しい髪留めを取り出して、放り投げてみせた。
「こ、これは……」
「ここへ来てすぐこの部屋で見つけた。色使いが派手すぎるゆえ、どうみても母君たのめに用意したものではないな」
ア・ザンは途端に顔色を青く染めた。存外、正直な男である。
「あ、いや、それはだな――」
「慌てなさるな、黙っているさ。その代わり直近の戦での、私の席を用意していただきたい」
「おまえ、なにを言い出す!?」
「十四年生き、それなりに武を収めたと自負しているが、そろそろ殺し合いの空気を肌で感じておきたいのだ。女人であるこの身には僧兵への道は閉ざされているし、今更、星君として生きるのも窮屈だ。だが父将であれば人一人のためにそのくらいの融通は利かせられるだろう」
ア・ザンは血なまぐさい戦への参加を望む娘を必死に諫めた。
「突然来たと思ったら、そんなことを目当てにしていたのか。だめだだめだ! 女である前に、おまえはまだ子供だぞ」
シャラは不敵に笑みを浮かべる。
「わかりました。しかし、渦視から早馬が出て、事の子細を母君が知って後も総帥の座についていられるかどうか、今のうちにたっぷりと妄想されるがいい」
その脅し文句が決定打となり、ア・ザンは降伏を表明する言葉を連呼した。
「まさか実の娘に地位を脅かされるとは……我ながら情けない」
なにを思ったか、ア・ザンはバ・リョウキに顔を向けて両手を合わせて拝み始めた。
「どうか! シャラを老将殿の部隊に加えていただきたいッ」
「なにを――」
「あなたほどの武人であれば、安心して娘を預ける事ができる。この場に居合わせた縁と思い、ここはどうか……」
前に立つシャラも、戯けた表情で片眼を開けながら、こちらに手を合わせている。
この渦視ではあくまでも客人であり、そして互いの国はそれぞれに金を貸している側と借り受けている側である。後者の立場におかれているバ・リョウキとしては、この非常識な申し出をおいそれと断ることはできなかった。
「……承知、いたした」
シャラは歓声を上げて喜び、足をはずませながら部屋の扉に手をかける。
「感謝するぞ剣聖殿。去る前に言っておくが、さきほどの父将の戯言はなかったことにしてもらおう。見よ――」
シャラは服の上から自身の胸を肩腕で持ち上げて、瞳を半眼に、科を作って妖艶に微笑んだ。
「――十四にしてこれだ、私は良い女になる。そこのリビとかいう名の小物に、この体はもったいないだろう」
「こいつ、いいかげんにしろッ!」
怒りに立ち上がるリビに背を向け、シャラはかっかと笑って部屋を後にした。
汗のしたたる禿頭をこすって平謝りするア・ザンを慰めながら、バ・リョウキはア・シャラという面倒を背負い込んだ事を後悔していた。