Ⅰ アデュレリア
色褪せた灰色で塗りつぶされた世界がある。
そこで育まれた暴力的とすらいえる生命は、絶えず生存競争という戦いを繰り返していた。
退廃を思わせる灰色の木々で覆われた世界を、人は深界と名付け、またそこで芽吹いた独自の生物たちを総称して、狂鬼と呼んだ。
凶暴なまでに増殖を続ける灰色の森に対して、人の知恵は森を退ける夜光石という石を見つけ出し、人の欲は夜光石で敷き詰められた道を世界各地へ巡らせた。
白道と呼ばれるその道を、武装した一団が列をなして亀の歩調に等しいほどゆっくりと進んでいた。
翼蛇の紋章を刻んだ銀の胸当てを装着し、軍馬に跨がる王国親衛隊輝士達の表情は険しい。
枝を蹴り飛び上がる小鳥のはばたきにさえ注意を払い、風に揺れる木々のざわめきにすら緊張に顔を強ばらせる。
長い行列の中央、周囲を厳重に警護されながら進む、一台の馬車がある。
繊細な金細工を施した当代随一の職人に作らせた馬車が乗せるのは、東方一帯を統べる大国ムラクモの王女、サーサリアである。
あまりにもゆっくりとした進行具合に苛立ちを感じ、サーサリアは自身の長く美しい黒髪に指をからめて唇を噛んだ。
馬車の中に備え付けられた呼鈴を鳴らすと、親衛隊の一人が即座に騎乗したまま窓から顔を出した。
「ここに」
「進みが遅い」
眉をひそめ、サーサリアはこれ以上ないほどの不快感を露わにした。
「はい、ですがこれ以上速度を出せば車体が揺れます。御身にも負担になりますので、どうか」
必死にこちらを宥めようとしている輝士の声が酷く耳障りだ。
サーサリアとって臣下の心遣いなど、他の多くの物事と同じく、どうでもいいことの一つでしかない。
「いいから、いそがせて」
「ですが……」
「このままで行って目的地にたどり着くまでにどれだけかかるのか。まさか、また関所砦の粗末な部屋で一晩をすごせと言うつもりなのか」
輝士を睨み付けるように言うと、相手は怯えたように視線をそらした。
「仮にここから目的地まで、できうる最大速度で向かっても、到着は早くても深夜か早朝になります。夜の深界を行く危険は避けたいので、道中の小領地に宿を用意させてあります」
「それならそれでいい。一刻も早く到着するよう対処して――あと、この馬車の内装はどうにかならなかったの」
「は……なにか、不都合でも」
サーサリアはうんざりとした表情で車内を見つめた。
あちらこちらにふっくらとした革張りの枕のような物が取り付けられていて、外から見る姿より、中は想像もできないほど狭いのだ。
「狭いし、ふかふかした物ばかりあって暑苦しいのよ……」
「殿下をお守りするために特注した物です、こればかりはどうか辛抱ください」
子供を諭すような耳障りな言い方だった。だが、抵抗したところですぐにどうにかなる問題ではない事はさすがのサーサリアも理解していたので、さっと話題を変える。
「……残りの花は?」
「木箱に半分ほど」
「それだけッ!?」
半ば怒鳴るように声を荒げたサーサリアに、輝士は恐る恐る答える。
「王都から持ち出した物の大半は、アデュレリアの領主邸に前もって届けさせておりますので」
「ならなおのこと急いで。明日は早朝から出立できるようカナリアに伝えなさい、今すぐに!」
「あ、は、はいッ、ただちに!」
離れていく馬蹄の音を耳に入れながら、サーサリアは輝士の去った後に残された、薄暗い灰色の風景に視線を落とした。
人類は山や高地といった隔絶された世界に追いやられていた弱小な存在だった。だが、深界を行き来出来る白道という移動手段を得た事で、再び世界との繋がりを得る事に成功する。しかし、一見自由を得たようでいて、深界を行くかぎり、狂鬼という化け物の存在に常に怯えを抱いている。
現在、ムラクモにおいて最も高貴な血を継ぐ希少な存在である自分。その身が乗る馬車は、外に広がる弱肉強食の世界との境界線なのかもしれない。
たくましく羽ばたく鳥たちに視線をやり、サーサリアはふと自分が檻の中に閉じ込められた囚人になったような気持ちに囚われた。
「深界は嫌い」
誰にでもなくそう言いこぼし、現実から目を背けるように視界から外の風景を追い出した。
Ⅰ アデュレリア
王都から西側に位置する領地アデュレリア。
ムラクモ王都に匹敵するほどの、広大な土地に広がる町並みを一望できる高台に建てられた、アデュレリア公爵家本邸の執務室は、そこだけ一風変わった建築方法がとられていた。
全体が頑丈な石造りで、邸というよりは城塞といったほうが適切な本邸の中にあって、執務室だけは木造で、全面の壁が引き戸になっており、それらをすべて収納すると白い砂利石を敷き詰めた美しい庭にかこまれる造りになっている。室内の床には乾燥させた長身草を精巧に編み上げた床材が敷かれ、部屋に入る際には靴を脱ぐのが決まりとなっていた。
そうした風変わりな執務室の中に、三人の人間が詰めていた。
一人は薄紫色の髪をした小柄な少女。もう一人は少女の傍らで仏頂面で正座をする壮年の男。そしてもう一人、この部屋に客人として招かれている男は、少女が座る執務机を眺めつつ、呆れたように言葉を漏らした。
「いや……それにしても見事なものですね。これではまるで机の上に雪でも積もったかのようだ」
低音にかすれた男の声が、どこか揶揄するような調子でそう言った。
「これまでほとんど人前に姿を見せなかったサーサリア王女の初めての遊学ともなればな。この機会に顔を売りたい者達の気持ちもわかるが、さすがにこれだけの量を目の当たりにすると、いちいち中を確認するのにもうんざりする」
希少輝石として知られ、所有者に膨大な力を与える燦光石。その一つ、《氷長石》を有するアデュレリアの当主アミュは、どっしりとした大きな執務机の上に積まれた封書の山を見て溜息をこぼした。
差出人はムラクモ国内の各地方の貴族達で、そのなかに、ほんのわずかながらにだが豪商らからの物も混じっている。その内容はといえば、前者は拝謁を希望する似たような文言が綴られ、後者は貢ぎ物の目録と共に、控えめな言葉で拝謁を望むという申し出が書いてある。
彼らへの対応は、表向き遊学という形で引き受ける事になったサーサリア王女の身柄を預かる身として、避けては通れない義務というものだ。
もちろん他の者にまかせてしまえる仕事ではあるが、相手への礼儀として直筆で返答を用意することに、アミュは意味を感じていた。
「ご愁傷様です」
執務机を差し挟んで向かい合う男が苦笑交じりにそう言った。
「同情心をそそられたのなら、そなたに返事を書かせてやってもよいがな」
「氷長石様の代筆という任務は大変光栄に存じますが、残念なことに一介の硬輝士であるこの身には、片付けなければならない雑務が詰まっておりますので」
「ふん」
軽口を交わし、アミュは気の抜けたように笑む男を見て、苦笑した。
口では嫌々といったふうのアミュではあったが、慣れた手練で紙に届いた書への返答を綴っていく。すべて内容は同じであり、王女滞在中のアデュレリアでの滞在を歓迎する、という文言を事務的に書き付けていくだけである。
そんな単調な作業を、淡々と茶を飲みつつ見守っている男の名はシシジシ・アマイという。
彼は古い時代に多くの名官吏を排出してきた一族の人間で、階級は硬輝士の身分にあり、所属は王轄府となっている。
元々、戦場より書庫が似合う血筋の出ということもあり、若い頃は宝玉院で教師として生徒達に教えていたのだが、ここのところはなぜか教職から退き、危険の伴う諸外国への使者としての役を請け負っているのだという。
アマイは背をしなった弓のように曲げ、まだ湯気の残る熱いミドリ茶をずるずるとすすった。
白湯気が、彼のかけた丸眼鏡を曇らせる。しだいに曇りがとれていくにつれ姿を現した、眼鏡の奥にある細長い瞳がじっとこちらを見つめていた。
作業の手をそのままに、下からちらりと視線をあげて、アミュは聞いた。
「で、今日は何用でまいった」
「以前お会いした際の約束通り、アデュレリア公爵家の墓所を見せていただきにまいりました」
「……墓、か」
アミュがアマイと最後に顔を合わせた際に、研究のためにと一族の墓を見せてほしいと頼まれた事があった。その時はたまたま機嫌が良かった事もあり、軽く了承する返事をしてしまっていたのだが、実際に見せてくれと言われると、どうにも収まりの悪い心地を覚えた。
「あのような場所を見てなんになるというのじゃ。我ら一族は死後にまで物を持とうとする性根はもちあわせておらん。置いてあるものといえば、代々の当主の名を刻んだ古い石碑と先祖を祀った小さな祠があるだけじゃ」
アミュが遠回しに、見る価値などない事を告げると、アマイはむずがゆそうに表情をゆがめた。
「それこそ、まさに私の求めている物ですから。土着の文化風習は、時間の彼方に姿を消してしまった過去の出来事を掘り起こす重要なとっかかりとなりますからね。それに、国内ではアデュレリアほど東地の伝統を重んじている地はありませんから、見せていただけるのであれば、私にとってはこれ以上ないほどの収穫が見込めるのです」
アマイはそっと視線をアミュの纏う装束に移した。
実際のところ、彼の言うとおりアデュレリアは東地元々の文化を色濃く受け継いでいる数少ない地である。アミュが故郷で過ごす際に羽織るのは、簡素な黒い軍服ではなく、氷服と呼ばれる薄紫色から青系統の微妙な色合いの生地を重ねて仕立てる独特な装束を着て過ごす事が多い。
そうした傾向は市井の者にも見られ、王都の人間達が西方式の肌着やズボン、外衣を好んで着るのに対し、アデュレリアの人々は淡い色に染めた氷服を日常生活の中で着用している。
ムラクモは、王都に近づくほどに東地独自の文化の色が薄くなっていく風変わりな国なのだが、そうなった経緯の一つとして、建国後まもなく渡来した西方諸国の貴族達が持ち込んだ文化の影響を強く受けたから、と考えられている。
そうしたなか、アデュレリアが自国の文化を色濃く現在に至るまで伝えてきたのは、ひとえに一族の血に流れる頑固さが原因に違いない、とアミュは常々考えていた。
「そうまで言うなら好きにせよ。立ち入り許可を証明する印付きの署名は渡すが、一族の者を同伴させるぞ」
アミュは手にしていた筆で手近なところにあった下書き用の簡素な紙に、一時的に墓所への立ち入り許可を与える旨をしたためた。
「ええ、それはもちろん。ですが、できれば同伴者はカザヒナ君をお願いしたいのですが。昔の教え子の中でもいちにを争う出世頭に挨拶もしておきたいですからね」
「ふむ。あれは……しかしな」
カザヒナの話を出され、アミュは言い淀んだ。
「そのご様子、どうやら手空きではないようですね。まあ、王女殿下来訪という一大事の直前でもありますから、彼女にはなにかと忙しい時期でしょうか」
「いや、あれには王女滞在に関する役は振ってはおらん。今は当家で預かっている客人を専属で世話させておるところじゃ」
言うと、アマイは戸惑ったように眉をあげた。
「ムラクモの次期国主を差し置いて、氷長石様の右腕を宛がうほどのお客人、ですか」
かみしめるように言うアマイに、アミュは探るように聞いた。
「気にいらんか」
「いえいえ、とんでもない。ただ、ふっと心当たりが浮かんだものですから……。もしかその人物というのは、先だっての砂国とのいざこざの当事者となった風変わりな従士なのではありませんか?」
アベンチュリンの女王が興した一連の暴走事件に関して知る者は少ない。にもかかわらず、その事をさらりと口に出したアマイに対して、アミュは不快感を露わにした。
「世の中には知らぬですませたほうがよいこともある。そなたが好奇心の塊で出来ている男であることは知っておるが、ほどほどにしておくがよいぞ」
重々しく言葉を吐きだすと、それとは対照的にアマイは素頓狂な微笑みを返してきた。
「ご忠告、ありがたく」
そう言いつつ、彼は拳を握って胸の前に置いた。その仕草がどうにもうさんくさい。
「……氷狼の長たるこの身には面倒事が待ち受けておる、用がすんだならさっさと行くがよい。カザヒナなら今頃は中庭で客人に稽古をつけておる頃であろう。本人の了承が得られれば、案内役を頼むがよい。もし叶わなければ以後はあれの指示を仰げ」
手ではらう仕草をして追い出しにかかったアミュに対し、アマイはうっかりしていたとばかりに左手の平を右手の拳で叩いて立ち上がった。
「失念しておりました。土産を持参したことを忘れていた」
言ったアマイが懐から一通の封書を差し出す。
「これは?」
アミュはそれを受け取りつつ、開く前に確認をとった。
「北方の交易都市からの交渉要請です。なんでも、あちらで春先に採れる予定だった食用の霧貝が水病で壊滅的な被害を受けたようで、その話を聞いた折に、たしかアデュレリアの湖で大層な量の水貝が養殖されていた事を思い出したのです。ということで、誠に勝手ながら個人的なよしみを利用して、少々売り込みをしてまいりました」
「で、これか――」
中を確認してみると、アマイの言うとおり、食用として水貝を大量に買い付けたい旨が書かれていた。署名されている名と印を見るに、アミュの記憶にもある北方でも名の知れた大商人一族の者であるらしい。ざっとあちらが求めている量で値段を安めに見積もってみても、相当な臨時収入になることは間違いなさそうだった。
「……それで、そなたはなにが欲しい」
直截な問いに、アマイは少し困ったように後ろ頭をかいた。
「さすがにはっきりとおっしゃいますね。では、こちらも駆け引きなしにお頼みします。私はこれから北方諸国の一つ、ターフェスタへの使者としての任務をはたさなければならないのですが、今回はそう長くはかからない予定です。そこで、帰国の折には、是非とも王女殿下に拝謁する機会を与えていただきたいのです」
――なにを言うかと思えば。
アミュとしてはやや拍子抜けした気分だった。
アマイの持ち込んだ利の良い急な商談と比べれば、造作もない頼み事といえる。
「王女にも出席を願う晩餐会の場にそなたを当家から正式に招待しよう。それでよいか」
すると、アマイは困ったような表情を見せた。
「形式的に紹介される有象無象の一つとして、殿下に拝謁したいわけではないのです。残念ながら現在の当家にはこれといった爵位もなければ地位も名誉もない。加えてなんら後ろ盾のない状態で殿下に顔をお見せしたところで、記憶の片隅にも残らないのは明白。私の望むのは殿下との一対一での謁見の場です」
「つまり、そなたの望みは王女との直接の対話というわけか」
アマイは慎重に頷いた。
たしかに、アマイの立場を考えれば王女との直接の面談などたやすく叶うものではない。ただでさえ引きこもりがちであったサーサリアは、相応の立場にある者ですら望んだからといって拝謁が叶う機会はほとんどなかったのだ。
だが、今回ばかりは事情が違う。
突然のことで公爵家当主であるアミュが責任者となり、サーサリアを遊学という形で預かり、とかく悪い噂がたちはじめていた王女の対面を取り繕うことが、滞在期間中の大きな目的だと心得ている。
そうした事情から、王女の滞在中の予定はある程度アミュの意思が通る事になっているため、ほんのわずかな労力でアマイに対して王女との個人的な謁見の場を設けてやるくらいの事は叶うはずだ。
アマイはそうした事情をあらかじめ了解したうえで、こうして交渉に来たのであろう。つまるところ、この要求こそが彼の真の目的であったと考えて間違いないだろう。
「一つ聞く。なぜ王女との対話を望むのか」
その問いに、アマイは若干の間を置いて、彼にしてはめずらしく神妙な様子で語り始めた。
「お恥ずかしい事ですが、今更ながらに出世を望んでおります」
「……つまり、王女に直接の取り立てを希望するというのか」
しれっと頷いたアマイを見て、アミュは呆れた。
「出世と一言で片付けるには語弊があるかもしれません。若い時分にわがままを通した事により、私は一族の期待を裏切って教職の道を選びました。ですが、欲深なことに年をとるにつれ、家名のための出世を捨てたことを後悔するようになりました。焦った私は今になって軍務への復帰を取り付けましたが、多方面への知識が災いし、宛がわれるのは危険が伴うだけで手柄をたてる機会に乏しい外交使者としての任務だけです」
「その状況を打破するために王女へ直談判したところで、良い方向への変化が得られると思うておるなら、将の座を夢見る子供よりも浅はかであると言わざるをえん。国軍の上位階級は、王家の人間に頭を下げたところで急に得られるほど甘いものではないでな」
アミュはアマイの願望を一刀両断するように、きつい言葉を浴びせた。
「まさしくおっしゃる通り。ですが、サーサリア王女殿下の独断によって得られる席はあります」
「……親衛隊、か」
王族付きの親衛隊の隊員は、その選定に王族個人の意思が強く反映される。代々選ばれるのは良家の中でも特に有能な者達や容貌に優れた逸材であり、将来の出世に向けての大きな足がかりにもなる名誉ある役職といえる。
だが、アミュの記憶するところによれば、本来親衛隊を選ぶべきサーサリア自身が、王女としての職務を放棄した状態にあるため、その選定は王轄府、すなわちグエンが取り仕切っているはずである。
さすがにそうしたことは、軍務にある者にとっては知っていて当然といえる程度の情報であるため、アマイが知らずに口にしているわけでないのは、言うまでもない事であった。
「良き未来への階段に、足を掛ける事すらできなかった男の戯言と笑ってください。私の用意した商談は、夢を見るための小さなクジ券のようなものなのです」
「ふむ」
アミュは渡された書面をじっと見つめた。
それが目の前に吊されたニンジンであると理解しつつも、安っぽい矜恃を楯にして断るにはあまりにもったいない話だ。
アデュレリア公爵家は多方面との商いを行っているが、そのほとんどが国内の各領地を相手にしてのこと。この商談をうまくとりまとめれば、最近羽振りが良いという噂を頻繁に耳にする北の交易都市との今後の商いの繋がりを得られる絶好の機会でもある。
「よかろう、そなたの望む場を用意する。アデュレリア一族の当主としての名と、氷長石の名に誓おう。じゃが結果までは保証せぬぞ」
「承知しております――感謝致します、閣下」
アマイは深々と頭をおとすが、下げて見えなくなった顔には、きっとしたり顔の笑みが張り付いているに違いない、と思った。彼にしてみれば、こちらが絶対に手にしたくなるような最高級の札を用意して見せたのだから。
「よく黙って聞いておれたな」
からかいを込め、アミュは傍らでじっと黙って控えていた男、クネカキ・オウガに声をかけた。
「は……御館様が客人として迎えたということでしたので」
アミュが重将として統括する左硬軍、その准将の地位にあるクネカキは、この世でもっとも苦い薬でも噛みつぶしたような仏頂面で言った。
クネカキの容姿はお伽噺の鬼のそれを彷彿とさせる。黒混じりの白髪は天をつくように堅く、顔にきざまれた無数の傷跡と深い皺。感情が高ぶると顔は紅潮し、血走った双眸は見る者を強烈に威圧する。
彼は代々アデュレリア公爵家の家臣として忠誠を誓う、由緒ある土着貴族の出である。
そのクネカキにしてみれば、先ほどまでアミュと比較的砕けた態度で接していたアマイ等は、顔面に鉄拳を数発おみまいし、泣いて謝るまで小突き回してもまだ足りないほどの不敬な人間に見えていたに違いない。
「存外、思うていたよりも度胸のある男じゃったな。鼻の穴を膨らませて睨むお前を前にしても、平気な顔で茶をすすっておった」
「所詮、荒事を避け書庫に逃げ込んだ男です、御館様が目をおくほどの価値などありますまい」
「戦ばかりが戦いの場ではない。あれも没落した家にあって、それなりに世渡りに苦労しておる口であろう」
アミュがかばうように言うと、それが面白くなかったのかクネカキは口を尖らせて反論した。
「ですが、王女に直接会わせろなどと、一介の木端役人が望んでよいこととも思いません」
「たしかに……ではあるが、最大限こちらの望む物を用意して交渉に臨むだけの気配りはできておる分、可愛げはある。あれの持ってきた土産は、王女との面会を取り付ける事の対価としては、ちと貰いすぎなほどじゃ」
アミュはアマイに渡された書状に再び視線を落とす。
「その話、お受けになりますか」
「言われるまでもない。まとまれば、近年にないほどの大きな取引相手を得られるかもしれん……お前は気にいらんか」
クネカキは声を落とし、慎重に意見を述べる。
「は、いえ、いまのところ内容に不満はありません。ただ、アデュレリアがあのような落ちぶれ貴族に借りを作るのは、どうにも収まりが悪いと感じます」
「金儲けに相手は選べん。蓄えはいくらあっても困ることはなく、貯め込んだ金もいつまでも同じ所にはない。この話、まとめるぞ」
「はッ、お決めになられたのであれば異存はありません。早急に影狼を使って裏をとらせます。正式な交渉はその後ということで」
自分の意見として反対はしても、やると決めてからのクネカキの行動は迅速かつ的確であり、アミュはそうした部下の一面を高く評価すると共に信頼していた。
「よい」
了承を伝えると、クネカキは立ち上がり一礼した。そのまま退室しようとした大きな背中を見ているうち、ふと不安を覚えて呼び止める。
「まて、まさかあの男を追いかけて説教する気ではあるまいな」
そう本気で聞いたが、クネカキは冗談を言われたと勘違いしたらしく一人吹き出した。
「まさか、私もそれほど若くはありません。想像の中で奴の顔面に拳をたたき込むだけで我慢しておきます」
「それほどシシジシ・アマイが気にいらんか? シュオウを紹介した折には、そこまで苛立たしげにはしておらなんだじゃろう」
アミュは自身が一時的に身柄を預かっている青年の名を口にした。
彼の態度はいつもどこか力が抜けていて、アミュに対して接するときも近所の顔見知りに挨拶でもするように気楽なところがある。
「あれには武人としての気骨のようなものが見えましたし、目上の者を前にして作り笑いも見せません。それに、御館様の人を見る目は信頼しております。でなければ、私はここにおりませんからな」
それを聞いて、こんどはアミュが吹き出した。
「ふ、たしかにそうじゃな」
今度こそ退出したクネカキを見送り、アミュは卓上に積まれた書状の山を見た。
「さて――」
終わりの見えない雑務を片付けるのにはうんざりするが、それも人より長い人生の中のほんの一瞬の事にすぎない。
サーサリア王女という大きな荷物を背負い込む寸前の、ほんの一時の静かな時間を楽しもう、とアミュは前向きに今を過ごすことにした。
激しく、上下に景色が揺れる。
必死に堪えつつも、体は縦横無尽に揺さぶられ、ついに視界に映った光景は真っ逆さまに反転した。
「いっつぅ……」
もう何度目になるか、こうして悲痛なうめき声をあげた回数も数えるのがばからしくなってきた。
積雪が片付けられた湿った土の上で尻餅をついたまま、シュオウは落馬した時にぶつけた肩を押さえつつ立ち上がった。
「無理に言うことを聞かせようとするからそうなるんですよ」
苦笑を交えたカザヒナの注意が耳に痛かった。
「だけど、この前借りた馬はこれで言う事を聞いてくれたんです」
「あの子は特別です。賢い馬は乗せた人間に気をはらいますけど、そんな名馬はそうそう手に入る物ではありませんから。この子くらい気性の激しい馬を乗りこなせたほうが、馬術としては上達が早いんですよ」
神経質に首を振って後ずさりしようとする荒馬の手綱を握りながら、カザヒナがそう説明した。
「だからって、この馬はいくらなんでも酷すぎですよ……」
覚えているだけで、すでに二十回以上は振り落とされ、後ろ足で蹴られそうになったのも片手では数えられないほどだ。
「弱音は聞き入れません。そもそも乗馬を教えてくれと頼んできたのはあなたのほうですから」
カザヒナに駄々をこねる子供をあやすように言われ、気恥ずかしさを感じた。
そう、彼女の言うとおり、頭を下げて訓練を頼んだのは自分のほうからだった。
ムラクモ王国の隣国アベンチュリン女王のお巫山戯に巻き込まれてから後、その影響でシュオウは理不尽な通告を言い渡され、無期限謹慎処分を申し渡された。
普通であれば、狭い独居房にでも監禁されかねない状況であったが、ムラクモ王国の大貴族、アデュレリア公爵の申し出により、シュオウの身柄は一時的に彼女の預かりとなっていた。
雑用係や下僕としての扱いくらいは覚悟していたのだが、シュオウに用意されていたのは、アデュレリア公爵家本邸での自由な時間と豪華な客間だった。そのうえ、公爵家当主アミュの副官であるカザヒナがシュオウの専属世話係として宛がわれ、どうにも自身では納得のいかないほどの厚遇を受けているのが今現在の状況だった。
ここへ来て、まっさきにアミュに言われたことを思い出す――
『やりたい事、見たい物、食べたい物、飲みたい物。なんでも好きなことをカザヒナに言うがよい』
そこで戸惑いつつもシュオウが要求したものの一つが自身が苦手とする乗馬の訓練であり、その他にも暇を見つけて剣の稽古や礼儀作法など、この国の貴族が学ぶような事を教えてもらえるよう頼むと、カザヒナはそれを快く了承してくれた。
まだ教えを受けてそれほど日にちは経過していないが、こうして近くで接していて、カザヒナについて分かった事がある。彼女が、決して妥協しない性格ということだ。
例えば、食事での所作を教わっているときでも、一つの事を完璧に近いほどの精度でやり遂げないかぎり、訓練終了を許してくれない。
シュオウに対しては、これまで比較的柔和な態度で接する姿ばかり見てきたため、こうして教えを乞うにあたり、どこかで彼女を舐めてかかっていたことに気づかされた。
乗馬の訓練にしても、表情ではにこやかに、優しい淑女然とした仕草は崩していないのに、休憩を求めることすらためらわせるような筆舌につくしがたい威圧感のようなものをひしひしと感じている。
「ッつう――――」
再び盛大に落馬したシュオウは、地面にぶつけた体をしならせて、無様に呻いた。
「もっと器用になんでも出来そうな印象を持っていたんですけど……どうにもこれは苦手みたいですね」
失望したというより、困りはてたという様子でカザヒナは横たわるシュオウの元へ歩み寄り膝を落とした。
首を傾げてこちらを見つめる彼女を前に、次第に申し訳なさに襲われる。きっと、今の彼女は出来の悪い生徒を前にどう教えればいいのか、心底悩んでいるのだろう。
「どうすればいいんだ……」
思わず独り言のように呟くと、自分に言われたと勘違いしたのか、カザヒナが、そうですね、と合いの手を入れた。
「あなたの場合、どうも馬に乗ること自体を怖がっているようなので、慣れるために馬の背にお腹から乗ってみるのはどうでしょう、こんなふうに――」
カザヒナは言って、体を前のめりに折り曲げて見せた。
「そのほうが危なくないですか」
「意外に安定しているものですよ。本当は幼馬に人を乗せる訓練の一環として行う方法なんですけど、人間にとっても馬に乗る恐怖心を減らすのに役立つかもしれません」
それでは、となんとなくノリで根拠の薄い訓練方法を試してみることになった。
鼻息も荒く足をばたつかせる馬を、カザヒナが押さえているうちに、シュオウはさっと飛び込む要領で強風の日の湖面のように荒れ狂う馬の背に腹から飛び込んだ。
「うわッ!?」
初めは振り落とされそうになり恐怖を感じたが、これまでのように普通に座り込んでいた時と違って、この体勢ではちょっとやそっと揺れたからといって落とされることはなかった。むしろ、手と足で馬の腹を押さえ込むことができるうえ、視界もこれまでより低い位置にくるため、カザヒナの言うとおり恐怖心がだいぶ和らいでいる。
「どうですか?」
「い、いいです!」
漠然とした手応えを感じたシュオウが元気良く叫ぶと、カザヒナも幼子のように声を弾ませて喜んだ。
「あっはっは!」
ふいに、背後から盛大な笑い声が聞こえてくる。
その瞬間、カザヒナから緊張した様子が伝わってきた。
「アマイ、先生?」
驚きを含んだカザヒナの声。どうやら来客のようだが、馬の背にしがみついたままのシュオウには声しか聞こえない。
「おひさしぶりですね、カザヒナ君」
「はい。お元気そうで安心致しました」
「かつての教え子とゆっくり挨拶を交わしたいところではありますが、とりあえず彼を下ろしてあげたほうがいいのではないですか」
「あ……」
カザヒナの両手がそっとシュオウの腰に当てられ、そのまま支えられながら地面に足をつけた。たしかな大地の感触を足の裏に感じて、ほっと人心地を得る。
「あの、はじめまして。シュオウといいます」
柔らかい表情でこちらを見つめる、丸眼鏡をかけた男を前にして、シュオウは初対面の挨拶をすると、彼もそれに即座に応えた。
「シシジシ・アマイです。さきほどはついつい笑ってしまって申し訳ありませんでしたね、どうにも聞き知っていた人物とは随分印象が異なっていたものですから」
アマイはぼりぼりと後ろ頭をかきつつ、謝罪した。
シシジシ・アマイと名乗った目の前の人物は、明るい紺色の軍服を纏っていることと、左手の甲にある輝石が濃い水色をしていることからも、輝士階級にある貴族であると容易に推察できる。それと、カザヒナを教え子と呼んだ事と合わせると、彼がどういった立ち位置にいる人物なのかなんとなく想像はつくが、自分の事を知っている風な物言いだったことが少し気になった。
「初対面、ですよね」
こちらの反応は予想していたようで、アマイは柔らかく微笑みを返してきた。
「ええ、もちろん。あなたの事は、ほんの噂程度に耳にしていまして。隣国の暴君を負かした従士がいる、と。その折に複数人の輝士を相手にして無事に戻ってきたどころか、相手を再起不能にまでしたと聞いていたもので、てっきり荒ぶる猛獣のような人物を思い描いていたんです。なので、つい」
「はあ」
軽く頭を下げるアマイに当惑していると、シュオウを助けるようにカザヒナが割って入る。
「先生、彼を困らせないでください」
「おや……なにかしくじってしまいましたか?」
「急に初対面の相手から噂話を引き合いに話しかけられたって、普通は対応に苦慮すると思います」
「なるほど、そういうものですか」
なぜだか、ふと違和感を覚えた。
自分とついさきほどまで会話していたカザヒナの様子がガラリと変わり、アマイに話しかける彼女は無表情で淡々と言葉を紡いでいるように見えたのだ。まるで、灯っていたろうそくの明かりが、音もなく消え去ってしまったかのように。
「ところで、今日はどういったご用件で当家に? かつての教え子の顔を見に来た、というのはなしにしてくださいね」
どこまでも抑揚のない声でカザヒナが言った。
「君の性格も相変わらずですね。今日の用件はまぁ、端的に言えば願望を叶えるため、といったところでしょうか」
アマイは三つ折りにした一通の飾り気のない書状を取り出して、カザヒナに渡した。
「墓所への立ち入り許可証……ですか。先生のほうこそ、相変わらずですね」
カザヒナにそう言われ、なにが嬉しいのかと思うほどアマイは破顔一笑した。
「まったくです。氷長石様には同行者を連れて行くよう言われているので、よければ案内役をお願いしたいのですが」
「これからですか……私はご当主様の命令で彼の世話役としての任務についているので、一存で離れるわけには」
そこでカザヒナとアマイの視線がシュオウに集まった。
「それなら、俺も一緒に行けば、全員の目的に沿うんじゃないんですか。その墓所という場所へ自分が入ってもいいのなら、ですけど」
そう提案すると、今度はアマイとシュオウの視線がカザヒナに集中する。
「と、彼は言ってくれていますが、どうでしょうね」
「シュオウ君であれば立ち入りに問題はないと思います――」
そうカザヒナはあっさり許可を出した。ただ、その後に続く言葉を聞いたとき、シュオウは顔面から血の気が引いていくのを感じていた。
「――あ、そうだッ、ついでですから馬の訓練をしながら向かいましょうか」
整えられているとは言い難い山道を登りながら、シュオウは安堵していた。
今、自身が跨がっている馬は、子供を守る母熊のように荒れ狂う暴れ馬ではない。アデュレリアが所有する厩舎の中でも、有数のおとなしい雌馬に跨がって、手綱はアマイが引いてくれている。
乗馬に不慣れなシュオウを暴れ馬に乗せて連れて行こうとしたカザヒナに対し、アマイが諭してくれたのだ。
「それにしても、乗馬を習い始めたばかりの人間に、あの馬はあんまりでしょう。いったいどこから連れて来たんですか?」
呆れつつのアマイの問いに、カザヒナは淡々と回答した。
「場末の居酒屋です。暴れ馬を乗りこなす演し物として使われていたのを買い取りました。気まぐれに挑戦した常連を蹴り殺したとかで処分に困っていたので、格安で手に入ったんです」
それを聞いてシュオウは呻くように呟いた。
「殺した……」
アマイは一度天を仰いで大仰に肩を竦めた。
「殺処分されてしかるべき駄馬に初心者を乗せたのですか……君は教師に向いてないのかもしれませんね」
じっとりと湿った二人分の視線を受けたカザヒナは、気まずそうに視線を反らした。
「いい考えだと思ったんです」
「やれやれ、まあ人には向き不向きというものがありますからね――」
アマイは教え子から視線をシュオウに移した。
「――馬に乗るということを難しく考える必要はありません。訓練された馬であれば、乗って走らせるだけなら初心者でもそれほど大変な事ではない。排除すべきなのはまず、緊張と怯えですね」
「緊張、ですか」
「そう、今の君の状況こそまさにそうですね。体が硬くなりすぎていて、乗せている馬にとっては重たい石塊でも背負っているような気分でしょう。それに馬は感情に敏感な動物です。人間だって、側にいるのは怖がっていたり、悲しそうな相手より、楽しそうな人の側にいたいと思うものではありませんか」
「……そう、ですよね」
見ると、自分を乗せる馬の首にはじんわりと汗が浮かんでいた。
怯え不安が伝わるのだとすれば、この馬は今さぞかし不快な心地を味わっているのかもしれない。
――わるかった。
気持ちを切り替えるため、心中でそう呟き、意識して肩の力を抜いた。
不思議なもので、そうすると馬の歩調から生ずる心地良い振動に全身が包まれる。心構え一つでこれほど違うものか、と感心せずにはいられなかった。
向上心というものも、かならず良い方向へ作用するものではないらしい。なにかを新しく身につけようとして、過剰に覚える事、得る事を意識しすぎていたのかもしれない。場合によっては捨てる事も重要であることを、遠回しにアマイから教わった気分だった。
さきほどよりもずっと落ち着いたシュオウの様子を見て、アマイはご機嫌に高い声をあげる。
「そうそう、素晴らしく覚えが良い」
調子の良いアマイの褒め言葉は少々大袈裟だと思ったが、けっして悪い気分はしなかった。
高所へ登っていくにつれ、山道はより細く、険しさを増していった。
太陽光を阻むほど密集して生い茂った針葉樹林の中を進んでいると、木々の連なりが途切れる崖っぷちが見えてきた。目的の場所に行くには少し遠回りとなるが、カザヒナに誘導されて向かうと、そこはアデュレリアの街並みが一望できる絶好の場所だった。
「これはこれは……」
アマイは感嘆の溜息を漏らした。
「絶景ですね」
シュオウもまた、眼下に広がる光景に心を奪われた。
「ここほど街全体を視界に納める事のできる場所はありません。子供の頃から私のお気に入りの場所だったんです」
カザヒナは少しだけ得意げに説明した。
アデュレリアの街並みは、背の低い建物が多く密集した形で立ち並んでいて、造りは丈夫な草を砕いて泥と混ぜた壁材で造られ、屋根は藁束を被せて斜線に削ったものがほとんどだった。
等間隔で石造りの建築様式が多く建ち並ぶ王都とはまるで違う光景が、目の前に広がっている。
「同じ国なのに、王都とはまるで様子が違う」
独り言のようにシュオウが漏らすと、アマイは目を見開いてシュオウに同調した。
「そう! よくぞ指摘してくれましたッ」
「えッ?」
流れるような所作でシュオウににじり寄り、手をつかんでじっとこちらを見つめてくるアマイに戸惑っていると、側にいたカザヒナが眉をしかめるような表情を作った。一瞬の事だったが、シュオウの左目が捕らえた彼女の顔は、しまった――と言っているように見えた。
「我々人類は灰色の森とそこに巣くう狂鬼に追いやられて以来、多くの時間を孤立した世界の中で過ごしてきたのは知っているでしょう?」
まくしたてるアマイの勢いに押されつつ、シュオウはコクコクと頷いた。
「隔絶された人類社会は、他とは一線を画するような文化を育みました。特に顕著なものが、料理や衣類、建築や風習などで、我々の暮らす東地においても、隣り合う領地の民でまるで真逆の価値観を持っていたりする事もあるくらいでしてね。そうした文化の違いから往々にして国家間の争い事の火種となることも少なくはありませんでした」
アマイは一呼吸おいて、視線をシュオウから眼下に広がる街並みへと移した。
「アデュレリアの人々は、氷型や氷服という青系色の染め物をした着物を好んで着用します。それに比べて王都の民は西方文化の色が濃い簡素な無地の衣類を好む……おかしいとは思いませんか?」
自身に問いかけるようにアマイはそうこぼした。その視線の先には、豆粒ほどの大きさに見える人々が日常生活を営む姿が見える。
「それは、西から渡ってきた貴族階級の人々からの影響が強く及んだからではないのですか」
カザヒナの回答にアマイは首を横に振った。
「通説ではそうです、そしておそらく事実でしょう。ですが、それはきっかけに過ぎない。我が国の自国文化への愛着のなさは異常です。ここアデュレリアなど、一部の領地を除いては多くの領地が王都から伝播する西方文化を容易く受け入れている。ムラクモ刀を用いた東地独自の武芸の伝達も、それを伝える者の数は大幅に減少しています。あらゆる国家が宗教的思想を掲げ神を信仰しているにもかかわらず、ムラクモは宗教はもとより、信仰心という概念すら存在しない。これは違和感などという言葉では片付けられません。にもかかわらず考えようとする者は少なく、そもそも興味すら持たれていない」
やり場のない怒りを溜めたように、苛立たしげに唇の皮を噛みながら、アマイは眉に力を込めた。
唐突に歴史に埋もれた謎を聞かされたシュオウとしては、なるほど、という感想以外出せようがない。そもそも、一般的に知っていて当然とされるような知識ですら、把握していない事が多くあるくらいなのだから。
「先生、そろそろ動かなければ。夜道を歩く支度はしてきていないので」
カザヒナに促され、アマイは我に返ったように表情を和らげた。
「ああ……また悪い癖が出てしまったようだ。では続きは歩きながらということで」
そう聞かされ、目だけで天を仰ぎ見たときのカザヒナの表情がおかしく、シュオウはしばらく笑いをこらえるのに苦労した。
アデュレリアの墓所へ向かう道中は、先へ進むほどにその険しさを増していった。
乗っていた馬を気遣ってしまうほどの急な道が続くようになり、馬を下りて手綱を引くことにした。
その間もアマイは自身の考えを話し続け、シュオウは度々相づちを打つ役割を無難にこなした。カザヒナは過去に同じようなめにあった経験でもあるのか、巧みにアマイの語り解説を聞き流していた。
彼の話す事の多くは、シュオウにとって縁遠い話ばかりだったが、唐突に身に覚えのある話をふられ強く興味を惹かれた。
「私も教鞭をとっていた事がある宝玉院、その卒業試験は知っているでしょう」
知っているどころか、参加者であったシュオウにとっては、今でもありありと思い出せるほど強く印象に残っている思い出である。
「知っています」
「文化、というものに因習はつきものです。合理性に欠いた風習や行いはどこにでも一つや二つあるものですが、ムラクモは自国文化への執着を捨てるのと同時に、各地方に伝わる祭や風習も排除してきた痕跡が見受けられる。我が国の強さは他国にはないそうした合理性にこそあると言えなくもないのですが、そうした事を鑑みた後に改めて見てみると、成人の儀もかねたあの卒業試験という愚行が抱える矛盾が顕著にその姿を晒す事に気がつきませんか」
その言葉に、シュオウはかつて共に深界を旅した仲間の言っていた事を思い出していた。
「国を守るための人材を、わざわざ意味もなく危険な場所へ送る……そういうことですか」
「まさしく、的確な解答です。国家防衛の要となる輝士や晶士の候補生達。彼らの育成には莫大な予算がつぎ込まれ、我が国の輝士の質は他国と比べても見劣りしないどころか、とても優秀な部類に入ります。その貴重な命を、指揮官としての適正を見るという名目で死地へ送る矛盾。これには多くの者達が疑念を抱いていながらも、長年なんら是正はされていません……なぜなら、卒業試験を強行に推し進めている人物が世界有数の長寿を誇る大人物だからです」
シュオウは場の空気が緊張を帯びていくのを感じ取っていた。
これまで我関せずを通していたカザヒナは足を止めて振り返った。
「なにをおっしゃるつもりですか」
「事実ですよ。多大な権力を有していながら私欲を貪ることをせず、民草をいたわり、王不在の状態で国家の安寧を維持する治世を行うだけの力量を有していながら、いたずらに未熟な若人の命を奪う行事に固執する……多くの謎と共に、時にその行動に誰が見てもおかしいと思うような矛盾を抱えたグエン・ヴラドウという人物に関して、彼がどのような印象を抱いているのか、聞いてみたいと思いましてね」
言いながらこちらを見つめるアマイに対して、シュオウは戸惑った。
シュオウをかばうようにカザヒナが堅い声でアマイに釘を刺す。
「この国で、かの人物を批判する事の危険はご存知のはずです。話す相手、場所によっては家名と共に命すら失うほどの覚悟が必要だということも」
「相手や場所は選んで言っているつもりですよ――」
アマイは改めてシュオウと視線を合わせた。
「――あなたは当事者として、グエン公の不可思議な言動を目の当たりにしたはずです。実質的に属国の地位にあるアベンチュリン女王に対してのそれに、違和感は感じませんでしたか?」
アマイの言わんとしているところを理解できぬまま、シュオウはアベンチュリン女王を中心とした一連の出来事に思いを巡らせた。
「政とか、難しいことはわからないけど、あの女王がしたことに対しての、あの人の対応は少し優しすぎるとは……思いました」
どうやら求めていた答えが得られたらしく、アマイは数度小気味よく頷いた。
「ほっとしましたよ、この国にいるとこうした違和感に曝されているのが自分だけなのかという錯覚に囚われてしまうのでね」
さきほどからアマイが言わんとしている所が見えてこないシュオウは、少なからず苛立ちを持ちながら問う。
「結局、なにが言いたかったんですか」
「私が言っていることは、先ほどから一環して同じことですよ。違和感や矛盾といった言葉でくくることができる、この国の歪な部分へ通じる糸をたぐりよせてみると、その先のほとんどが件の人物へ行き当たる。そして、ここ最近でそうした傾向が二つの事象として顕著に現れた。一つは君がその身をもって経験したアベンチュリンへの処遇です。ムラクモの軍属を騙し討ちの形で拉致監禁するという暴挙は、長年過去の約定を理由にその存在を認められてきたアベンチュリンという国家を併呑するまたとない好機となっていても不思議ではありませんでした。この国の益、また東地という地方全体として見た場合でも、ムラクモがアベンチュリンを飲み込むことは理にかなっています。学生にすらわかりそうなそうした事情をあの方がわからないわけがない。ですが、とられた処断は相手方の要求を受け入れ、事を一切表沙汰にしないという産湯にすら満たない生ぬるいものでした」
話を遮るように、カザヒナが異を唱えた。
「ですが、国家間での約定はおいそれと放棄できるものではありません。相手が王とはいえ、たった一人の暴挙によって即座に戦を始めるようでは、今後ムラクモの言葉に信がおかれなくなる不利益が生じるということを、先生は無視されていると思います」
カザヒナのアマイへの言葉には、これまで同様に感情の色彩に乏しかったが、その中にほんの僅かに避難と軽蔑の色が混ざっていることに、シュオウは気がついていた。
――いづらい。
ほんの一瞬、カザヒナとアマイ両者の間に流れた沈黙が、そう思わせる。
風が通り抜ける音ですら耳障りに感じるほどの静寂。
気まずい空気が流れ始めたなかでも、アマイは柔和な笑みを浮かべ、落ち着きを維持したままに口を開く。
「そうした事が重要であることは否定しません。辛苦の中にあって、律儀に約束をはたすことが、後々に大きな意味をもたらすことがあることも理解しています」
だったら、と言いかけたカザヒナを、あくまでも冷静な所作でアマイは遮った。
「それらをすべて踏まえたうえで言っているのです。私としてもこれまではいくつかの違和感をかかえつつも、なにかしらの理由を思い描いて自身を納得させてきた。しかし、シュオウ君が当事者として関わった砂国との事件を発端とした、サーサリア王女殿下の王都外への遊学をグエン元帥の一存で決めたことを知った時には、さすがにおかしいと思いましたよ」
「王女殿下が臣下の領地へ遊学することがそれほどおかしいことでしょうか」
カザヒナの問いに、アマイはこれまで見せていた柔和な表情を引き締めた。
シュオウは誰にも気づかれないほど僅かに後ずさった。なぜなら、丸いメガネの奥から見えたアマイの双眸に、これまでの彼の態度からは想像がつかないほど暗く濁った感情の色を感じ取ったからだ。
「それをおかしくないと思う人間は、おそらく王家への忠誠を持たない人物でしょう。サーサリア様は、たった一人残された純血なるムラクモ王家の血を継ぐ東地で随一の高貴なお方です。なのになぜ、わざわざ安全な王都を出て深界を行く危険を冒してまで外へ出る必要があるというのです。それがいかに殿下の悪評への対策のためとはいえ、万が一が起こった際のムラクモが失うものの大きさを考えれば、この度の遊学という選択肢はまったくの論外であると、私は言い切ることができる。そして、同時に私はある疑念を抱かざるをえなくなる。すなわち、グエン・ヴラドウなる人物は王家を、そしてムラクモという国家を軽んじているのではないかと」
「それは――」
反論するためのとっかかりを咄嗟に用意することができなかったのか、カザヒナはそれきり言葉を失ってしまった。
沈黙の中、その原因となった男は、自身の不始末を取り戻すために不自然なほど明るい声をあげた。
「出口のない話をして教え子を困らせるのはここまでにしておきましょう。ですが、私がこの場でこんな話をした理由についてはご理解をいただきたい」
そう話すアマイの瞳は、まっすぐにシュオウを捉えていた。
「俺、ですか?」
アマイはじっくりと頷いた。
「俺はただの従士です。偶然関わることがあったからといって、雲の上にいる人間達の話を聞かされても、なにも思うところはありませんよ」
「アデュレリア公爵直々に客人として本邸に迎え入れられるただの従士が、いったい他にどれほどいるのか興味深いところではありますが、まあ調べたところで結果は見えているでしょう。公爵閣下の君への処遇は、従士としてではなく、シュオウという人物の値打ちを証明しているのです。君にはなにか特別なものがあって、そしてその証拠となるいくつかの結果もすでにある。彩石を持たない従士の身でありながら、奸計を胸に秘めた一国の女王を相手にして平然と戻ってきたシュオウという名の若者に、私は期待せざるを得ないのですよ。さきほどしたような話や意見を、互いに交わせる日がくるのではないのか、とね」
「ひどく買い被りすぎだと思いますよ」
「それを決めるのは先にとっておきましょう。今日の事は、私の種まきだと思って軽く受け流しておいてください。人の世は繋がりで出来ている。いつかこの日の繋がりが、互いにとって有益なものとなることを祈っておきましょう」
言いたいことをすべて吐き出したアマイは、呆然とするシュオウを前にして一人で墓所への道を進み始めてしまった。
その背に氷のように冷たい視線を送る、初めて見るカザヒナの姿にゾっとするものを感じながら、シュオウは先を行くアマイの後を追いかけた。
「まるで世界を睥睨するかのように高所に設けられた墓所、まさしくここは王者の墓ですね」
心底感心したように呟いたアマイの言葉が、周囲を巨大で無骨な石柱でかこまれたアデュレリア公爵家の墓所に木霊した。
柱を並べたかのように、しかし不規則な置き方で、人工的に切り出した長方形の石柱が突き立てられている墓所は、周辺を木々で囲まれてかろうじて光が届く程度の薄暗い場所だった。
雰囲気は陰気で、あまり丁寧に管理されている形跡もない。ここがアデュレリア一族の墓だとすれば、彼らがどれほど死に対して興味を持っていないのかがありありと想像できるというものだ。
墓というよりはむしろ遺跡や神殿といったほうが適切な雰囲気を帯びたここへ到着してからは、アマイはまるで十歳の子供に戻ってしまったかのようにはしゃいでいた。
各所に置かれた石の材質を調べ、また雪の下にある土をすくって容器に入れるなど、研究者としての彼の血を沸き立たせるのに、このアデュレリア一族の墓所は十分すぎるほどの価値があったらしい。
「そんなに面白いものですか」
少々呆れ気味にシュオウが聞くと、アマイは即座に返答した。
「私のような人間にとっては面白いという言葉ですら足りない、これは至福の時間ですよ」
我を失う勢いではしゃぐアマイに、冷静なカザヒナの声が水をさした。
「私たち一族は死後になにかを期待していません。墓所は歴代の当主達の石碑をその証として残していくだけで、ここには砕かれた輝石の一欠片も埋葬されていませんよ」
「古い、というだけで私のような人間には積み上げられた金塊よりも高価値に見えるものなのですよ。それにここは美観を気にして管理されている形跡もなく、原初の雰囲気を維持している。この墓所の価値は、見るものが見れば涎をふくのも忘れるほどの場所といって大袈裟ではない。いや、しかし……これは……」
アマイがとある石碑に刻まれた文字に目を通しながら、大きく首を傾げた。
「どうしたんですか」
「いえ、なにかの碑文が書かれた物のようで、これだけは他のものとは違い墓としての意味合いはないようですね。古文字でなにか文章が掘られているようですが、ほとんどが削れてしまって読むことができません。いや、所々は繋がりを意識すれば読める部分もあるようだ……」
説明していたはずのアマイの口調が、しだいに独り言に変わっていく。彼は書かれた文字を必死に読み解き始めた。
「我ら……燃ゆる……静か……真なる……に…………だめですね、重要な部分はほとんど形すら残っていない」
「見えない部分を想像することはできないんですか?」
試みにそう聞いてみたが、アマイはゆっくりと首を横に振った。
「無駄でしょうね。さきほど読んだ部分でさえ、ほとんど意味をなしていない文をなんとなく補填して読んだにすぎません……ですが、ここ、この部分だけは辛うじて単語として読み取ることのできる文字が残っている」
アマイが必死に指さす部分に視線をやると、たしかに彼の言うとおりその部分だけが文字としての形状をギリギリのところで保っていた。
「なんて書いてあるんですか」
「これは…………シン、ゾウ?」
「え?」
「心臓、ですね。間違いなく」
「心臓って、あの?」
「どうでしょう、実はこの心臓という言葉、見るのはこれが初めてではないのです。東地の各所、とくに歴史ある場所を見てまわった際に、なにかしらの形でこれと似た石碑のようなものを見ることがありました。ほとんどがこれと同じように内容の把握が難しいほど劣化し傷ついていましたが、時折読み取れる部分を解読してみたさいに、同じく"心臓"という単語がでてきたことがあったのです。もちろん心臓といえば人体の重要な臓器の一つを思い浮かべますが、我々にはもう一つ第二の心臓といっていい重要な器官があることも忘れてはなりません」
「輝石、ですよね」
「そう、正確には輝石の中にある命核という部分です。傷つくことで存在ごと消滅してしまう我々にとってもう一つの命ともいえるそれを、第二の心臓として見る考え方は世界で共通して見られる。そして、北から西に大きく広まっている宗教では、我々の持つ輝石を神からの賜り物であるとする教義が一般常識として流布されている。そして、彼らは輝石の事を、時にこう呼ぶのです――ラピスの心臓、と」
「ラ、ピ、ス……の心臓……」
聞き慣れない言葉を耳にして、シュオウは首を傾げた。
「ラピスとは神世の時代の言語で石を意味する単語であるという説、また神の名であるという説等、諸説語られています。これが東地各所にある石碑に散見される心臓という単語になにかしら由来する事なのか、判断するには材料に乏しすぎますが、ひょっとすると東地にかつてあったかもしれない何かしらの信仰をしめす面影なのかもしれませんね」
墓所を離れ、本邸に戻った頃には茜色に空が染まる夕暮れ時となっていた。
「疲れましたか?」
肩を押さえながら腕をぐるぐると回すシュオウを見て、カザヒナがそう聞いた。
「はい、馬術の訓練よりずっと」
少し戯けて言うと、カザヒナはさきほどまでとはまったく別人のような朗らかな笑顔でくすくすと笑った。
本邸に到着して後、カザヒナはアマイに夕食をどうかと誘ったが、それが社交辞令にすぎないことはシュオウにもすぐにわかった。そんなことを知ってか知らずか、アマイは早々に仕事があるからと断りをいれ、現れた時と同様にいつのまにか邸を後にしていた。
一見して柔和そうな表情と話し方に騙されてしまいそうになるが、突然顔を出し、言いたいことを吐き出して、見たいものを堪能し、終始自分の調子を貫ききった態度からして、初対面の時に抱いた感想は改めるべきなのかもしれない。
ともかく、上流の人間に漂う独特な横柄さは感じなかったものの、シシジシ・アマイという男が側にいて、心地良いとは思わない種の人間であることは、カザヒナの彼に対する態度からしても間違った分析ではないだろう。
「アマイ先生が、教師としてはとても優秀な方だったのは間違いありません。ですが、思想に関しては少し極端なところがあって。たまにそれを披露する悪い癖があるのが困りものだったんですけれど、今もそれは変わっていなかったみたいです」
「思想ですか。あの王女がどうとか言っていたことですよね」
「ええ。先生が言っていたように、グエン様はとても有能で希有な才覚をお持ちの大人物です。そんな方ですから、貴族の中でもあの方に傾倒している人間は多い。ですが、王家に絶対の忠誠を誓う貴族家の中には、少なからずそうした状況に不満を抱いている者もいるのです」
「それが、あの人のような?」
「はい。この国で、もはやグエン様に直言できるような人間は片手で数えられるほどです。ですから、不満を抱いていたとしても表だってそれを口にする者なんて、普通はいないのですけどね」
それはつまり、アマイという人物が相当な変わり者であるという事でもあるのだろう。シュオウのような一平民を捕まえて、長々と持論を述べてみせるあたり、それは間違いないのだろうが。
夕食の時間になり、シュオウはそこで居合わせた者達を見て、二度驚いた。
まず一つ、食堂に料理を運んできた男二人が、見知った顔であったことだ。
「いたんですか」
思わずそう呟いてしまったのは、つい最近までシュオウの任務地であった、シワス砦の先任従士であるサブリとハリオの二人が目の前に現れたからだ。
「いたよ! お前がここに来る前からな!!」
目尻を尖らせて喚くのは、長身で細身、地味な顔立ちの男でハリオという。
「俺たち、公爵様に気に入られて領地で働かないかって声かけられたんだよ」
そんなことをしれっと言った男は、小太りで、意志薄弱そうな雰囲気をしているサブリという男だ。
二人とも、大変な時に助けてもらった恩人とも呼べる相手である。だがまさかこんな場所でこんな再会をするとは少しも考えていなかった。
「本人を目の前にして嘘を言うでない阿呆共! こやつらはな、我が長年をかけて贈答用に溜め込んでいた酒蔵を荒らしたのじゃ。しかもよりによって高価なものばかりをたいらげおった……。罰として軍務から退かせ、その身をもって代価を支払わせておるところじゃ」
相手を射殺してしまいそうなほど鋭い眼差しで、アミュは酒泥棒二人を睨み付けた。
「それって、働いて返せる額なんですか」
気になった事をそのまま聞くと、アミュは遠くを見つめて、そうじゃな、続けた。
「――子孫三代にわたってここで働いて貰うことになるであろうな」
「鬼!」
泣き出しそうな顔で、命知らずにもハリオが怒鳴り、手にしていた汁物の中身を床にこぼした。
「黙れ! 極刑に値する不敬をこの程度で許されている幸運を喜べぬとは、正真正銘の阿呆共じゃ!!」
「ひ、ひぃッ……」
見た目、十にも満たないような少女に怒鳴られて、ぶるぶると震える男達の姿が、そこにあった。
「わかったらさっさと給仕をすませて出て行くがよい。もちろん床にこぼした汁はきちんと掃除していけよッ」
二人は渋々といった様子で運んできた食事を並べ、こぼした汁を拭くために布巾を持って床に這いつくばった。
「俺らより後から軍に入ったお前が客扱いされて、俺たちは床に這いつくばって雑巾がけかよ……これが人生というものかッ……」
ハリオの小声で呟くような怨嗟の声が聞こえてきた。
あまりにも小さな声だったので、聞こえなかったふりをしようとしたのだが、彼らの現在の雇い主である公爵の耳にも、それはしっかりと届いていたらしい。
「庭に飾る氷像になりたいか?」
冗談抜きにそれを実行できる彼女の言葉はさすがに重かった。
だるそうに仕事をしていた二人の手は、地面に落ちた小銭を拾うかの如く機敏になり、さっさと仕事を終えて小走りで食堂を後にした。
そんな二人の背に視線をやると、これまであえて視界に入れないようにしてきた、シュオウを驚かせた二つ目の原因が嫌でも目に入る。
食堂の長卓に並びに並んだ少女達の顔、顔、顔。
皆カザヒナやアミュのそれとよく似た面立ちをしていて、左手の甲には全員似たような薄い紫色の輝石がある。数にして八人もの似たような雰囲気の少女達の瞳は、退屈そうに四方を眺めていた。
「あの、彼女達は?」
たまらず聞くと、アミュは今思い出したかのように答えた。
「ああ、あの阿呆共のせいで失念しておった。皆一族の年若い女達じゃ。普段は宝玉院の宿舎で過ごしておるが、今回サーサリア王女を迎えるにあたって、信頼の出来るものを警護と世話役に当てるために特別に呼び寄せた。王女も無骨な男達に近くをうろつかれるよりは、このほうがくつろげるかもしれぬと思ってな」
シュオウは、そうですか、と相づちを打ち、一応の礼儀として立ち上がり、頭を下げた。
「シュオウ、といいます」
しかし、初対面の挨拶をしても彼女達からの反応はいっこうにない。
シュオウは見た目ですぐにわかる通り、貴族ではない。手の甲にある石は白濁していて、表向きはどこにでもいる平民の一人として分類される種類の人間だ。アミュやカザヒナの態度のせいで勘違いしてしまいそうになるが、本来自分のような人間に興味を持たない彼女達のような貴族のほうが、圧倒的に多いのであろう。
気まずい空気をどう処理しようか、考え始めた矢先、カザヒナの重く低い一言が食堂に響いた。
「ご当主様直々のお招きによる賓客ですよ」
その途端、即座に立ち上がり、深々と頭をたれた少女達は、いっせいに歓迎を意を表す言葉を口にした。
急変した彼女らの態度に戸惑う余裕すらないままに、カザヒナが順に紹介をしていく。そして名前を呼ばれた者が、その度に一人ずつ顔をあげていった。
「左から、アシユ、アカリ、アサカ。キユリ、トヤト、ナツヒ、レンカ。最後に――」
最後に残された少女は、カザヒナが名を呼ぶ前に顔をあげた。
くりんと大きな瞳が特徴的な少女の放つ、独特な涼やかな雰囲気に、一瞬目を奪われる。
「――私の妹のユウヒナです」
「カザヒナさんの妹……」
妹である、と紹介されたことに驚きを感じつつ、シュオウはカザヒナの面影を強く感じる少女と、少しの間視線を交わした。
時折吹く強い風が、窓枠を振るわせる。
外は極寒に包まれる夜の世界となっていた。
だが、シュオウのいる本邸の客室は、大きな暖炉に灯された炎と、純度の高い夜光石を用いた照明のおかげで、朝方と同じくらいの明るさに照らされていた。
夜光石の放つ青白い光の下、書庫から借りてきた本に目を通すのが、ここへ来てからの就寝前の日課となりつつある。
本の種類は多岐にわたり、物語、歴史から地理。馬術から剣術など多彩なものを用意してもらっている。
子供の頃、師であるアマネと共に深界で暮らすようになってから、大人になるまでの間。かたよった状況と知識の中に置かれていたシュオウにとって、本から得られる何気ない情報の一つ一つが、ありがたいものであり、有益なものでもあった。
――アデュレリア、か。
ふと雑念に囚われ、本を片隅に置いて大きなベッドの上に寝そべった。
夕食の席で藪から棒に紹介されたアデュレリア一族の少女達は、初め自分になんら興味を抱いてはいないようだったが、当主であるアミュの直々の招きであると聞かされた途端、彼女達の強い関心をいただいてしまったらしく、食事中、隙をみてはじろじろと視線を向けられるという、なんとも居心地の悪い思いをした。
――無理もないな。
高貴な身分にない自分が、客として公爵家に招かれ、毎日の豪華な食事と、街中で大枚をはたいたところで得られないであろう豪勢な部屋を与えられ、軍では重将という地位にあるアミュの副官が、自分の専属の世話役として当てられている今の状況は、尋常な事ではない。
それを証明するように、邸で働く使用人達や警護役の人々がシュオウに送る視線は、ひかえめにいっても、珍獣でも見つけた子供のように無遠慮な好奇心を投げかけてくる。
それはアミュやカザヒナ以外のアデュレリア一族の人々にとっても同じらしく、どうやらアミュはシュオウに対する厚遇の理由を、周囲に細かく説明はしていないらしい。
もっとも、その恩恵にあずかっている自分自身が、なぜここまで良くしてくれるのかという理由について、正確なところを把握していないのだから頼りない。
そんなことを考えていると、扉を控えめに叩く音が、現実へと引き戻した。こんな時間に自分の部屋を訪ねてくる人間などかぎられているため、シュオウは確認もせずに入室を促す。
「どうぞ――」
失礼します、と言いながら入ってきたのは、ふわふわとした白い寝間着に身を包んだカザヒナだった。
「――どうしたんですか、こんな遅くに」
起き上がろうとしたシュオウに、カザヒナは手の平を見せてそれを制した。
「疲れているでしょうし、そのままでいてください」
カザヒナは横になったままのシュオウに薄い毛布と羽毛布団をかぶせ、自身はベッドの片隅に腰掛けた。
「明日になってしまう前に少し、謝っておきたいことがあったので」
カザヒナは視線をはずし、そう呟いた。
「こんなによくしてもらっていて、別になにも……」
「そんなことはないんですよ。特に妹たちがあなたにとった態度は、とても失礼なものでしたから」
「ああ。いいんですよ、慣れてますから」
奇異の目を向けられる事には慣れている。それはまったく嘘のない言葉だった。
浮浪子として街中をさまよっていた頃は、顔面の右半分近くにも広がる大きな火傷の跡が原因で煙たがられ、大人になり再び街に戻ってからは、大きな眼帯と東地では珍しい灰がかった銀髪のおかげで、やはり人々の視線を受ける事が多いのだから。
「よくはありません。アデュレリア一族の名を負う者としても、また未来を担う輝士候補生としても恥ずべき態度でした。申し訳ありません。何度その場で叱ろうかと考えたか思い出せないくらいですが、場の雰囲気を壊してしまっては、かえって失礼だと思って見逃してしまいました」
神妙に謝罪するカザヒナに、シュオウは慰めるように声をかけた。
「本当に気にしてないですから」
「そう言っていただけると楽になります。でも、一応のケジメとして、あの子達には十年は忘れられないくらいのお説教をしておきましたので、それでどうか納めてください」
ぱっと花が咲いたような笑顔でそう言ったカザヒナに対し、シュオウの頬に一筋の汗が流れた。
これがごく普通の優しげな女性が言ったのであれば、冗談に聞こえる部類の発言なのだが、カザヒナの場合、以前にも何度か別人のように恐ろしい態度で部下や他人に怒鳴りつけている姿を目の当たりにしたことがある。
十年の間忘れられないほどの説教がどれほど恐ろしいものか、考えたくはないが、自分のためにそのような体験をした少女達に、同情すると共に謝罪したい心地がした。
そんな事を考えながら、カザヒナと視線が重なる。
朗らかに笑む彼女を見て、唐突に気になっていたことをぶつけていた。
「カザヒナさんは、たまに別人のようになるんですね」
「え?」
脈絡もなく聞いたせいか、カザヒナは驚いたように眉をあげる。
「気になっていたんです。俺と話しているときのあなたは、すごく穏やかで優しいのに、接する相手によっては突然人が変わってしまったように態度が変わるから」
カザヒナはなぜか、自嘲気味に微笑を浮かべてみせた。
「私の癖、というべきでしょうか……子供の頃からこうなんです。ある人に対してはとてもおとなしくて口数も少ない子供であり、また別の人の前では快活でおしゃべりな子としての姿を見せる。あまりにも相手によって態度が豹変するので、同世代の子供達の間では不気味がられてしまって、あまり楽しい思い出もありません」
「それって、人によって自分を演じ分けている、ということなんですか」
「いいえ、私自身は決して演じていたり、嘘の自分を作り上げるようなことなどしているつもりはありません。ただ意識せずに、相手と状況次第で別人のように態度を変えてしまうんです」
そう聞かされて、シュオウは今日の昼間の出来事を思い出していた。
あのシシジシ・アマイという男が現れてからのカザヒナの態度は、これまで見たこともないような寡黙で凍えるように素っ気ない人間のように振る舞っていた。
それが意図的なものであると思って疑いはしていなかったので、僅かな違和感を覚えながらもそこまでおかしいとは思っていなかったのだが、カザヒナの話を聞いてから考えると、たしかにあの場にいたカザヒナという人物は、シュオウの知っている彼女とは根本からなにかが違っていたような気もする。
「カザヒナさんの生まれ持っての特性、のようなものなんでしょうか」
人には良いものであれ、悪いものであれ、先天的に持って生まれる資質や欠点があるものだ。シュオウにとってのそれは、時が止まっていると錯覚するほどずば抜けた動体視力を有する眼であり、カザヒナにとってのそれは、相手によって器用に人格を変えてしまう癖なのかもしれない。
「そうかもしれません。こんな私ですから、親しい友人もめったに出来ないし、一族の中でも変わり者として見られていたんですけど、アミュ様だけは随分と私のこの癖を気に入ってくださいました――お前はまるでお伽噺に出てくる魔鏡のようだ。その生まれついての悪癖は、向き合った相手の臨む姿を映し出す。側に置いておけば、自分自身を俯瞰するための良い材料となる――そうおっしゃって」
「そう、だったんですか」
カザヒナがアミュの副官として置かれている理由の一端に触れ、シュオウは素直に感心していた。もっとも、アミュが彼女を側に置いている理由が、それだけだとは当然考えなかったが。
「さて、お話はこれくらいにして、そろそろ眠ってください。明日からは少し、騒がしくなるとおもいますから」
カザヒナは立ち上がり、水に浸された夜光石を専用の器具で取り出して、厚手の布でくるんだ。
強く青白い光が消え、残された淡くほんのりと温かい炎の明かりが部屋を照らし、壁にカザヒナのほっそりとした影がおとされる。
「この国の王女が来るんですよね」
カザヒナは頷き、表情を引き締めた。
「今回の件は事情もあって市井の人々には知らされていません。そのため裏道を使っての本邸への来訪になりますが、最上級の要人を迎えるにあたって、邸の者全員で出迎える事になっていますので、申し訳ないのですが、シュオウ君にもその場に出席してもらう事になるとおもいます」
「これだけ世話になってますから、それくらい」
言葉通り、自身が受けている待遇を思えば、敷地内すべてを一人で掃除しろと命令されたところで払いきれないほどのものを貰っている。王女の出迎えの一人として、片隅に佇んでいることくらいなんら苦労の内に入りはしないというものだ。
それに、一度だけ遠目に見たことがある陶器のように生気がなく、しかし美しかった王女を間近で観察できる機会は、そう得られるものではない。
このぬるま湯の風呂につかるような生活に投じる、一石の好奇心としては贅沢すぎる日になりそうな予感がしていた。
感謝を述べるカザヒナが退出しかけたその一瞬、根拠もなく感じた違和感を頼りに彼女を呼び止めた。
「ちょっと待ってください」
カザヒナは立ち止まる、がなぜか振り向こうとはしない。
「な、なにか」
急ぎ周囲を観察して違和感の正体を探る。
「ない」
「な、なにが?」
「今日一日履いていた靴下です……」
「へ、へえ……」
カザヒナの声は震えていた。
「あの、振り向いてもらえますか」
がっくりと肩を落としたカザヒナは、観念したのか、あっさりとこちらを向いた。その手にはしっかりと、シュオウが履き汚した靴下が抱えられている。
「せ、洗濯場に持っていこうと思って」
「明日、自分で持って行きます」
「で、でも……」
シュオウは強い意志を込めて視線を送る。さあ、それを手放せ今すぐに、と。
そもそも、洗濯物を持って行かれるくらいなんでもないのだが、相手がカザヒナともなると事情は変わってくる。彼女がこうした行動に出た目的が薄々想像できるせいで、あの汚れた靴下がどういう目的でここから持ち出されるのかを想うと、全身をくすぐられているような羞恥心を覚えるのだ。
「さあ」
シュオウはこちらへ放ってくれと言わんばかりに手を差し出した。
だがカザヒナは挙動不審に目を泳がせてあたふたするばかりである。よく見ると目にうっすらと涙が貯まっていた。
「い、いいじゃないですかこれくらいッ!」
「……え?」
きょとんとするシュオウを置いて、カザヒナは猛烈な勢いで走り去ってしまった。もちろん、例のブツを手にしたままに。
――色々と台無しです、カザヒナさん。
溜息を落としつつ、シュオウはあきらめてそっと目を閉じた。
嬉しい事でもないが、追いかけて奪い取るほど嫌というわけでもない。だが、今度から身近な衣類の処理などには注意しようと決意した。
元々疲れていたせいもあり、それから深い眠りに落ちるのに、そう時間はかからなかった。
王女、サーサリアを守護する親衛隊。その隊長を務める女輝士カナリア・フェースは、呼吸も忘れるほどの緊張感と共に、部隊を率いて仄暗い深界を進んでいた。
王女の突然のわがままにより、急遽滞在していた宿を後にして、予定よりも随分と早くアデュレリアへの旅程を再開することになったのは、ほんの数刻前の事。
ほんのりと赤みの入った金色の前髪が目にかかっても、整える心の余裕すらない。後方では王女を乗せた馬車と、隊列を組んだ輝士達が、通常ではありえないほどの速度で自分の後をついてきている。
馬蹄が白道を叩く音の他に、深夜の深界からは時折、獣の咆哮や巨大な虫の狂鬼が木々の間を通り抜けて行くざわめきが聞こえる。その度、体の芯から底冷えするような恐怖心にゾっとする思いがした。
「今更ですけど、戻るべきではありませんか。借金背負って儲けを焦る若い商人達ですら、じっとおとなしくしてる時間ですよ」
併走している年若い隊員が、カナリアにそう声をかけた。
「本当に今更だな。正直なところ私もそうしたい気分だけど、これ以上殿下のご機嫌を損ねるようなことはしたくない」
ムラクモの王女、サーサリアという人物に関して、カナリアはよく知らない。
そもそも主君を一個人として見る事は、輝士として褒められた行いとは言い難い。仕える相手の過去を知り、心根を分析するような真似は、上下関係を忘れさせ結果的に越えてはならない線に足を踏み込んでしまう愚行である、とカナリアは認識していた。
身近にあって、その身を守る者として必要な情報といえば、サーサリア王女が、とても気性が荒く、精神状態が常に不安定であるというくらいのことで、実際カナリアの仕事といえば、王女の機嫌を損ねないように努める、という親衛隊としての存在意義を失いかねないほど低俗なものなのだ。
「実際、もしここで王女殿下になにかあったとしたら、自分達はどうなるんでしょうね」
「もしもの話でいうのなら、私も含めた親衛隊は全員死罪のうえ、家は取り潰しになるくらいは当然でしょうね」
カナリアは軽口のつもりで答えたのだが、話をふった隊員は真剣に青ざめた様子で声を震わせた。
「家名まで失うなんて……」
「心配するな。狂鬼の一匹や二匹、撃退できるくらいの戦力はある。私たちが誇りあるムラクモ王国軍の中でも精鋭を集めた集団である事を忘れないで」
「は、はい……そう、ですよね」
カナリアの励ましに、若い隊員は多少自信を取り戻したようだった。顔をあげ、周囲の警戒に一層力を入れている。
――だけど。
カナリアは一人、不安を拭えないままに固唾を飲み込んだ。
突如、理由も聞かされないままに、サーサリア王女が王都を出て、アデュレリアで滞在するという話を聞かされた時には、本当に困惑したことを覚えてる。
現在、王家の血を継ぐ最後の一人となっているサーサリア王女を、あえて危険な旅路に送り出す理由も納得に至るほどのものを得る事はできなかったが、現状で王女が王族としての役割を放棄しているため、最終的な意思決定権が王轄府を統括しているグエンにゆだねられているという理由から、隊長としての立場にあるカナリアにも、王女遊学に関する是非すら問われなかったという経緯がある。
部下への軽口として、王女の身に万が一があれば、自身の命と家名を失うと脅かしたが、実際にそうなった場合、その程度ですめばまだましなほうだといえるだろう。
王家という象徴を失った国がどうなるか。ムラクモには実質的に政の長として振る舞うグエンという人物が存在しているが、すべての貴族家が件の男に心底付き従っているわけではない。国家の傘の下に集う貴族達の多くは、王家への忠誠を誓う者達であり、その彼らが唯一残された王の血統たる姫の命が失われた事を知れば、国は混沌とした内戦状態を迎える事になる、という予想を立てるのは飛躍した考えと一笑に付すこともできない。
そうなったとき、これまでは小競り合いですんできた他国とのいざこざも、時期が良いとみて一斉に攻め込まれる危険にまで曝されることになるのだ。
背負っている物の責任があまりに重いという事実。それを自覚している隊員がどれほどいるのか、と考えずにはいられなかった。
「隊長!」
伝令役の隊員が慌てた様子で自分を呼びに来た。
どうした、と聞き返すが、実のところ、彼が何を言いに来たのかは予想がついている。こうしたことは一度や二度ではないからだ。
「殿下がお呼びです。いそげ、と」
「やれやれ、今度はどんな無茶を聞かされるのかしら――」
カナリアは馬の手綱を引き、速度を緩め、命令を出す。
「――全隊へ通達。部隊を一時停止状態とする。隊列を重警護の形とし、周囲警戒を厳に行え」
「カナリア、参りました」
王女を乗せた馬車に向かい、カナリアは馬上から頭だけで礼をして話しかける。すぐに窓が開かれ、中から額に汗を浮かべた、しかめっ面のサーサリアと目が合った。
「急ぎすぎよ。馬車が揺れて気分が悪いわ……」
「は、ですが少しでも早く着けるようにとのご命令でしたので」
「だからといって限度があるでしょ。そもそも、きちんと花が届いていなかったお前の失態が原因でこうなっているというのに、その態度はなに……」
これについては、カナリアの失敗であることに間違いなかった。
王女が嗜む幻覚作用のあるリュケインという花がある。サーサリアにとってはそれが水や食べ物よりも大切なようで、定期的に摂取しなければ体調の悪化を招く事もあるらしい。
そのことも重々承知していたカナリアは、事前に滞在予定先にいくつもの樽いっぱいに用意した花を届けさせていたのだが、手違いがあり、花は一足早くアデュレリア公爵邸に届けられてしまったのだ。
僅かな携帯用として用意していた物は、休憩のために立ち寄った滞在先で二時間ともたずに消費されてしまい、それでは到底満たされなかった王女は、花をもとめて少しでも早くアデュレリアを目指すようにカナリアに命令をくだした。その結果、日の出を待たずしての出立となってしまったという顛末だった。
「はい……申し訳ありません。部隊に速度をゆるめるよう伝えます」
「そうしなさい」
言いたいことを伝えた王女が窓を閉めようと手をかけたとき、カナリアは思わず呼び止めていた。
辛そうに玉の汗を浮かべる王女を気遣って、ハンカチを差し出すと、不機嫌な態度を隠そうともしないサーサリアは奪い取るようにして、それを受け取った。
王女が窓を閉めたのを確認し、カナリアは即座に部下に命令を与えていく。なかでも特に重要なのが、アデュレリアへの通達だった。
「一名を選び、アデュレリアへ報告を。修正した到着予定時間を伝えて」
王女の体調を気遣い、速度を落とさなければならなくなったため、休憩地を出立した頃に早馬で出した使者の情報を上書きする必要があるのだ。
アデュレリアは王女から見て臣下にあたるとはいえ、決して軽んじてよい相手ではない。現アデュレリア公爵は、グエンとも肩を並べて意見を述べる事ができる大貴族である。王女出迎えの支度をしているであろう先方に、待ちぼうけをさせるわけにはいかないのだ。
ここへ来るまでにかなりを速度で進んでいただけあり、アデュレリアへ通じる関所砦まではそう遠くない所まで来てる。
――あと少し。
自分に言い聞かせるように呟いて、カナリアは再び部隊の先頭を走り出した。
早朝のアデュレリアは全体を浅い霧に覆われていた。
霧は、春の到来を予感させるこの時期に多い気象状況で、時には数歩先すら見渡せなくなるほどの濃霧に覆われる時もある。
ちょうど陽が昇り始め、うっすらと景色が明かりを帯び始める頃。市街地では市場が賑わいを見せ始める時間帯になって、ムラクモ王国の次期女王となる、サーサリア・ムラクモを乗せた馬車隊が、裏道を経由してアデュレリア本邸の前門へと到着していた。
門から敷地内へ続く中庭には、邸内のすべての使用人、警護役の従士達、公爵家の私兵、そしてアデュレリア一族とその眷族達が、王女を出迎えるためにずらりと居並んで待機していた。
シュオウもまた、そのなかの一人となり、中庭から本邸の表玄関へと続く階段の下、右脇で待機していた。この位置は、階段の上で待機しているアデュレリア一族に近い位置にあり、自分の他にすぐ側に並んでいるのは、いずれも公爵家の重鎮とも呼べる使用人や軍人達だった。
周辺から、静かなざわめきが広がった。
門をくぐって入ってきた、美しい銀の鎧を纏った輝士達が見え、その後を亡霊のように心もとない足取りでふらふらとついてきたのは、まごうことなきこの国の王女、サーサリアである。
派手な音楽もなければ、来訪を知らせる声をあげる者もいない。
葬式かと思うほど静まりかえった邸内で、サーサリアは頭を垂れる使用人達の間を、まるで見えない鎖に引きずられているかのような足取りで進んでいく。
シュオウにとってひさしぶり、二度目になる今回の王女の姿を見て、やはりその群を抜いた美しさに目を奪われた。
絹糸のような黒髪と、深く透き通った青い瞳。生者であることを忘れさせるほど白く濁りのない肌は、朝日に照らされて煌めいているようにすら見える。
左手の輝石は、水底に沈んだ真蒼の宝石のようで、石の放つ圧倒的なまでの高貴な輝きが、それを持つ者の身分を真実偽りなく証明していた。
ほっそりとした純白のドレスに青い毛皮の外套を羽織って、左手には儀式用の黒い短杖を握り、右手にはなぜか、場違いな一枚のハンカチを握っていた。
王女が自分に近づいてくるにつれ、シュオウは自身が彼女に対して感じていた事が、やはり間違ってはいないことを自覚していた。
定まらない視線と、力なくおとされた肩。足取りは街中で見かけるよぼついた足取りの老人のほうがまだたしかに大地を踏んでいると確信できるほど頼りない。
そんなサーサリアの行進を眺めているうち、シュオウは生気のない人形が引っ張られて歩いている様を思い描いていた。
サーサリアがちょうど自分の前を通る頃になり、シュオウとその周囲の者達は一斉に頭を下ろした。
「――?」
サーサリアが最初の階段の前まで来た時、なにかのはずみか、さきほどまで彼女が握っていたはずのハンカチが、ひらひらと目の前に落ちてきたのだ。
頭で考える余裕すら持たないままに、シュオウは反射的にかがんでそのハンカチへ手を伸ばしていた。だが、その瞬間――
「どきなさいッ!」
一瞬、なにが起こったか理解に苦しんだ。
人並み外れた動体視力が、ほんの一瞬で捉えた姿は、王女が左手で握っていたあの黒くて頑丈そうな短杖である。
――避けないと。
思考は反射的にそう命じるが、まるで無防備でいたこの状況で、それを実行に移すだけの余裕はすでにない。
ガコン、という鈍い音がして、シュオウは顔を押さえてふらふらと後ずさる。猛火に当てられたように顔がひりついて、鼻からは一条の鮮血がこぼれ落ちた。
周囲にどよめきがおこるが、サーサリアは何事もなかったかのように、ハンカチを踏みつけて階段を登りだした。
離れた場所から、アデュレリア公爵が王女を歓迎する言葉をちらほらとかけているのが聞こえた。
周囲の刺すような視線に曝されながら、シュオウは起こった事の整理がつかないままに鼻の根元を強く押さえつける。
ツンとした痛みが脳天を突き抜け、しだいに自分がとても理不尽な目にあったということを、いまさらながらに自覚しつつあった。
アデュレリアに来てからの、ぬるま湯の中でたゆたうような安穏とした日々は、しかしサーサリア王女という熱湯が注がれた事でいともたやすく終わりを迎えたのかもしれない。
地面に貯まった小さな血だまりを眺めながら、そんなことを考えていた。