『蜘蛛の巣』
夕陽のまぶしさに目を細めた。
夜よりも暗い鉱山の中から外へ出た瞬間、人界の世が放つ臭気に目眩を覚える。
都の名はムラクモ。人々が日常を過ごす区画からは遠く隔離された地区に、大規模な採掘場がある。そこでは交代制で休むことなく人々が働き、夜光石の採掘と切り出し作業が行われていた。
作業員達が集まる拠点では、夜時間勤務の若い作業員達が、配給された食事を手に天幕の下で小さな焚き火を囲っている。なにがそんなに楽しいのか、彼らの表情は一様に明るく、栄養はあるが決して美味いとは言えない飯を喰らいながら、上機嫌に未来の夢などを語り合っている。
そんな彼らを横目で流し見ながら思った。
あと一○年もここにいれば、疲れ果て陽の光を避けて手を翳すように、希望に満ちた新入り達の笑い声を疎ましいと思うようになるのだ、と。
彼らの姿は過去の自分であり、今の自分は彼らの未来なのだ。
足取りは頼りないし、肩は岩のように硬いし、膝は歩くたびにギシギシと軋む。
お前達もこうなるんだと心中で嘲笑う。だが一方では彼らを羨ましく思う自分がいることも自覚していた。
脳天気な喧噪を背に、市街地へと続く道を歩く。
背の高い針葉樹が夕陽を遮り、ただでさえデコボコとした道は、暗がりで尚歩きづらい。
途中、採掘場の監督官である貴族を乗せた馬車とすれ違った。
くたびれ果てた足に鞭打って、端へ避けて頭を垂れる。
かがんだ姿勢のせいで酷使した腰が悲鳴をあげた。その苦痛に思わず眉を歪めた。
馬車から漏れるぼんやりとした明かりが、排水溝の中で立派に張られた大きな蜘蛛の巣を浮かび上がらせる。
綿密に張られた巣の糸には、小さな羽虫が数匹かかっていて、どうにか逃げだそうと必死に藻掻いていた。
貴族を乗せた馬車は、じっと頭を落として待っている身の事など考えず、ゆっくりと進んでいく。
自分は朝からろくに休憩もせず働いているのに、たいした努力もなく責任者の席に座る貴族の監督官は、たまに思い出したかのようにふらりと現場にやってきては、あれをしろ、これはするな、と指示を投げて去って行くだけだ。
楽な仕事だな、と愚痴りたくもなるというものだ。
排水溝の中の巣に囚われた羽虫が、家主である蜘蛛に囚われ、腹の中へ収まっていく。その様子を眺めているうち、食べられていく羽虫の存在を自分と重ねてしまい、惨めな心地に囚われた。
捕食者たる蜘蛛の存在は、人の世の貴族そのものだ。
採掘場という名の巣をはりめぐらせ、後はそこにかかった得物に手を伸ばすだけ。
自分など、彼らを肥え太らせるためだけの存在にすぎないのだと思うと、体中に粘る糸が絡みついているような嫌悪感を感じて小さく身震いをした。
馬車が通り過ぎ、道ばたが再び暗がりに包まれると、さっきまで目の前にあった蜘蛛の巣は、もうすっかり見えなくなっていた。
王都の中央広場まで辿り着いた頃、周囲はもうすぐ夜を迎える時間帯となっていた。
家へ帰れば妻と子が迎えてくれる。
稼ぐ金のほとんどは、将来静かな田舎に土地を買うための資金として貯蓄している。普段の生活にまわせる金は僅かだが、幸いなことに家族仲は良好で、もうすぐ一○になる娘もすくすくと育っている。
歳をとり経験を積むほどに、給料の額は僅かながらにだが増えている。あと十年も働けば、地方で田畑を耕して生活していけるだけの土地建物を買えるくらいの蓄えが出来るはずだ。
年頃になった娘に健康な婿を迎えれば、老いてからの心配もいらないだろう。
人生を呪うほどの不幸を背負っているわけではない。
しかし、日々単調で疲労の溜まる仕事を繰り返していると、たまにどうしようもなく逃げ出したくなってしまう事がある。
下を見れば自分より辛い境遇の人間など掃いて捨てるほどいる。が、ふとした瞬間に上を見上げてみると、そこには多くの不公平が転がっていて、そこにいる者達は一歩ずつ前へ進む自分を見下して嘲笑っている。
左手の甲にある白く濁った石を見る度に溜息が漏れる。
生まれながら、石に色があるかないかだけで、どうしてこれほどまでに差が生まれるのだろうか。
考えたところで無意味な不満だ。が、それが一度噴き出すと、様々な後ろ向きな思考まで一緒になって引きずり出される。
自分が少しでも楽に死ねるように努力している間、石に色があるだけで貴族としての立場が約束された人間達は、綺麗で立派な邸の中で、座っているだけで出てくる上等な食べ物と美味い酒をかっくらい、夜会でくだらない噂話に花を咲かせている。
手の皮が擦りむけて痛むのも、足が棒のようになって膝がきしむのも、いつものこと。
それなのに、今日のように暗闇の迷路をさまよっているような気持ちに囚われた日は、身に降りかかるすべてが忌々しい。
乾いた空気、髪をゆらす冬の風、人々が行き交う喧噪、夕暮れ時の鳥の鳴き声、夕飯の匂い。すべてなくなってしまえばいい。
ぷっつりと糸が切れたように、広場の長椅子に腰かけた。
家族が心配する前に早く帰らねばと思いつつも、立ち上がる気力はどこからも湧いてこなかった。
「ねえ、ちょっと」
唐突に後ろから声をかけられた。
それが自分に対するものだと瞬時に判断できたのは、その時たまたま周囲に自分以外の人の姿が見えなかったからだ。
分厚い声のわりには、どこかナヨっとした喋りの声の主のほうへ振り返るが、そこにあると思っていた頭は見えず、分厚い胸板とたくましい両腕だけが見えた。
嫌な予感を感じつつ見上げてみると、厚塗りの化粧をした厳つい男の顔が、そこにあった。
「――ひッ」
思わず漏らしてしまった小さな悲鳴を聞いて、化粧をした男はにんまりと微笑む。
「ずいぶんと暇そうね。いいお店があるんだけど、よかったら寄っていかない?」
「あ、いや、あの……」
すぐに断りたいのに恐怖で舌がまわらない。
地方では、悪質なヤクザ者達が、あやしい店に無理矢理客を引っ張り込んで法外な金額を要求するという恐喝まがいの商売があるという。
もしかすると、この化粧男もそうした商売を生業とした恐い人なのではないか、という想像が一瞬で脳裏をかすめていた。
男の身でありながら、派手な化粧を塗りたくり、若い女が好むような可愛らしいエプロンをかけている人物。
一般的にオカマと呼称される人を前に、二の句を継げず、熊のような巨体を呆然と見上げる事しかできなかった。
「さ、たってたって、すぐそこだから」
強引に引っ張り上げられ、オカマの前に立たされると、自分の顔はちょうど彼の胸のあたりにくるくらい身長差がある。左右に見える腕の筋肉は、屈強な石掘りでもそうはいないというほど頑強そうだ。
本能が告げていた。いま目の前にいる存在に逆らってはならないと。
手首をつかまれ、されるがままに引っぱられていった先には〈蜘蛛の巣〉と書かれた看板をかかげた店があった。
外観は思ったよりも小綺麗で暖かみのあるものだったが、店の名前を見た瞬間、先ほど見た羽虫が蜘蛛に食われる様子が頭の中で生々しく描写され、身も凍るような恐怖が体を貫いていた。
食う者と食われる者。店の名の通り、この建物は弱者を罠にかけて捕らえる巣そのものではないのだろうか。
「あ、あ、あ、あの、あの……」
入りたくない。そう言いたいのに、どもって口を動かすのが精一杯だった。
「いいからいいから、さあ、入って。歓迎するわよ」
背中を押され、鈴を鳴らしながら扉を開くと、真っ先に出迎えたのは、キンキラと主張の激しい、鬼のような形相をした奇怪な生物の像だった。
「ヒィィィッ!?」
不意打ちをくらった形で不気味な像と対面し、溜め込んでいた恐怖が一気に溢れた。
後退ろうとして足をとられ、尻餅をつくと背中から、クスクスと笑う声が聞こえてくる。
「大丈夫? それブッサイクでしょ。魔除けで置いてるただの置物だから気にしないでね」
無理だ、気にするにきまっている。そう思いながら、差し出された無骨な手を取った。
店の奥へ進むほどに、ほんのりと香ばしい茶の香りや、甘い香りが漂ってくる。
内装は半円を描くような形の机が中央に置かれており、半円卓の内側には台所としての機能が施され、店の人間が目の前で接客できる、洒落た造りになっている。
店内はランプで照らされてほんのりと明るく、飾られている品々や装飾品の類も家庭的な雰囲気を漂わせるものばかりだ。
すっかり怪しい雰囲気の店内を想像していたので、その点では拍子抜けの気分だった。
内の様子から見て、どうやらこの蜘蛛の巣という店は茶屋のようなところらしい。
恐る恐る椅子に座ると、巨体のオカマは、手慣れた手つきで洒落た皿とカップを並べた。
「お客さん運が良いわよ。丁度あたしの店の新商品の準備が出来たばかりの日に来るなんて」
「は、はあ……」
運が良いどころか、今日という日は思い出せるかぎり、もっとも悪運を背負った日になりそうな予感がしていた。
オカマの店主が、目の前のカップの中にさっと何かを放り込んだ。
小さな白い塊のようだが、よく目を懲らして見ても、それがなんだかわからなかった。
「ご注目」
言うなり、湯気の上がった茶器を取り出して、カップの中に薄桃色の液体を注いでいく。すると、カップの中に置かれていた白い塊は、水分を吸ってふやふやと膨らんでいく。その形が手の平のように広がった時、白い塊の正体が美しい花であるとようやく気づいた。
冬を越し、春を迎えて、硬いつぼみがゆっくりと花開くまでの様が一瞬のうちに展開される。それに思わず見とれてしまった。
「ああ……すごい」
「お茶のほうも凄いのよ。アイドリア産の花茶で質もなかなか上等。これを見つけるまでにお腹が水浸しになるくらい、お茶ばっかり飲んでたくらいなんだから」
カップに注がれたのは茶だったようだ。花茶などというものは未だかつて飲んだ経験がないが、薄桃色の茶から、ほっとするような華やかな香りが湯気とともに昇ってくる。
膨らんだ花びらを唇に感じながら花茶をすすると、すっきりとした喉越しとほっとする温かさに、強ばった肩の緊張がゆるんでいく。
かろやかに喉を通り抜けた法悦感は、腹に届いて冷たくなっていた体をほっこりと温めてくれた。
「んぅまい」
世辞ではない率直な感想が思わず口から出ていた。
店主は満足そうに微笑んだ。
「はい、これもどうぞ」
「なんですか……?」
皿に盛られた焦げ茶色をした細長い物体。質感からして食べ物なのは間違いないようだ。葉巻のように生地をくるんだ状態で、表面は硬そうな印象を受ける。
「米で作った生地で甘いジャムを包んで揚げたものよ。パリっとした香ばしい皮と甘酸っぱいジャムが美味しい、うちの一押し商品候補の一つ。召し上がれ」
随分と手の込んだ甘味のようだ。他国からわざわざ取り寄せた茶といい、冷静になるにつれ、いったいどれだけの料金を要求されるのだろうかと不安が押し寄せてきた。
財布の中身を思い出してみても、安い茶一杯分ですら払えるかわからない。
もし、払えなかったらどうなるのだろう。
この巨体を活かし、家まで押しかけてあれこれ金品を要求するのだろうか。苦労してこつこつと貯めてきた金にまで手を出されるようなことになれば、家族に申し訳がたたない。だがすべては、まんまと捕食者の罠に引っかかった自分の落ち度だ。まっすぐ家に帰っていればこんなことにはならなかったのだろうが、今更後悔しても遅い。
がっくりと肩を落として考え事をしていると、店の入口のほうから来客を知らせる鈴が鳴る音が耳に届いた。
「邪魔するぞ」
「うぇ……なにこのキモイの」
「そ、そうかぁ? わ、私は悪くないと思うが」
「ありえないから……」
かしましい二人の女の声。彼女達の姿を見たとき、思わず身を竦めた。貴族階級の人間であるとすぐにわかったからだ。
「あんたたち今頃来て……招待状を出してから音沙汰ないから届いてないのかと思ったわよ」
オカマの店主は慣れ慣れしい口調で彼女達に話しかけた。その事にも驚きを感じた。
「しかたないだろ。あれこれとする事は多いんだ。気にはなっていたが、なかなか二人一緒に手空きになる機会がなかった」
凛々しい出で立ちで輝士服を纏った金髪の娘が、椅子に腰かけながら愚痴るようにそう言った。
後に続いた眠そうな表情の水色の髪の娘もまた、金髪の娘から椅子一つ分を空けて腰かけた。
「飲み物が欲しい……朝から立ちっぱなしでくたくた」
水色髪の娘は机の上にぐてんと体を預けて目をつむった。
自分から見て右側の少し離れた席に座った貴族の娘達。
普段同じ空間にいることすら希なのに、話し声が丸聞こえなほどの距離にいる事で居心地の悪さを感じつつも、内心ではその話の内容に強く興味を惹かれた。なにしろ、若い貴族の娘達の日常会話というものを聞くのは、これが初めての経験だったからだ。
「あんたは相変わらずね。ちゃんと仕事してんの?」
「ほっといて……」
水色髪の娘が気怠そうに答えると、金髪の娘が呆れた調子で言う。
「真面目どころか、放っておくと一日中家から出てこようとしないんだ。今日だって、遠回りなのに私がわざわざ起こしに行ったくらいだからな」
「頼んでないじゃん……。だるい宝玉院がやっと終わったと思ったのに、こんどはアレをやれコレをやれって、毎日違うことばっかり。もういやッ、早く結婚してずーっと家の中にいたい」
オカマの店主は二人の話に耳を傾けながら、自分にしたようにカップに白い塊を入れ、茶を注いでいく。
「へえ、面白いな、一瞬で花が咲いたみたいだ」
金髪の娘が感嘆の声をあげた。
「特別な方法で乾燥させた花を使ってるの。元々はどっかの国の儀式用に使う物らしいんだけどね。あたしの考えなんだけど、いい演出でしょ。この花茶も西方産のなかなかの一品よ」
「うん、味も香り良い。これなら店の名物になるんじゃないか?」
「うちの主力に、と思ってはいるんだけどね。問題は安定した仕入れと、儲けをだせるのかってところかしら――シトリはどう?」
聞かれた水色髪の娘は、だらんと体を前に倒したまま、行儀悪く茶をすすっていた。そして、口を離すと端的な感想を告げた。
「いいんじゃない」
「そう、よかったわ」
店主はほっとした様子で頷いていた。
喉を潤した水色髪の娘は、さらに深くぐてっと上半身を倒してアクビをした。もう一人のほうも、一見ではしゃっきりと背筋を伸ばして気丈に振る舞ってはいるが、顔色には疲れがはっきりと現れている。
「仕事、そんなにきついの?」
店主が濡れた食器を拭いながら聞いた。
「金勘定から資材や軍馬の頭数管理、その他諸々の雑務やら……毎日違う部署にまわされてこき使われているからな。忍耐はあるほうだと思っていたが、さすがに少し弱音を吐きたくなってきた」
金髪の娘は言いながら自分の肩をとんとんと叩いた。
「あんた達、一応輝士なんでしょ? そういうのって文官かなんかの仕事なんじゃないの」
「一応は余計だ――ムラクモは武官文官の境界があいまいだからな。この国で貴族階級でいるためにはかならず軍に属さなくてはならないし、そのせいで宝玉院を卒業した新人達は、この時期各適性をみるためにあちこちに飛ばされるんだ。私とシトリの場合、卒業試験に合格してしまったから、まわされる部署の種類も多岐に渡っているし責任も重い。将来の国の重職や将の候補者として、できるだけ多くの経験を積まされるんだ」
「めんどくさい……」
水色髪の娘が目をつむったままこぼした。
「今の時点で根を上げていたらこれからが大変だぞ。特使やらの危険な任務をまかされる可能性もあるし、諸外国との情勢によっては前線に配置させられるかもしれない」
「そのときはアイセ一人でどうぞ」
「お前は……。国を守るのは貴族たる者の最低限の使命だ。辛くても面倒でも危なくても、軍にいて給料を貰っている以上、逃げる事は許されないんだからな」
彼女達の会話に耳を傾けていた店主がしみじみと言った。
「貴族も色々大変なのね」
その言に、こっそりと心中で同意していた。
貴族というものは、生きているだけで恵まれた地位や財産が約束された人生を送っているものだと思い込んでいたが、聞いているかぎり、彼らにも相応の責任や苦労はあるらしい。
「私としては輝士として一隊を預かるか、宝玉院で馬術の教官でもやれれば、と思っていた。けど、試験の合格者という椅子に座ってしまったということもあって、一○年やそこらでぽんぽんと階級が引き上げられているかもしれない。実際、今の王家親衛隊の隊長は試験の合格者で、若くして重輝士の階級に抜擢されているし」
「そうなると、あんたって偉くなるのかもしれないのね」
「どうだかな。あくまでも予定だし、そのあたりの事も含めて、上から色々と値踏みされる時期ではあるのだが」
金髪の娘は遠くを見るように目を細めて言った。
会話が途切れたほんの一時の事。二人の娘がほとんど同時に深い溜息を吐き出した。その種類は温かい飲み物で一息ついたというより、どこか憂いの色を帯びていた。
「なによ二人して。仕事で嫌なことでもあったの?」
店主の問いかけに、金髪の娘がぽつぽつと答える。
「ある場所へ荷の配達を頼んだんだがな、受取人がいないからと返ってきてしまったんだ。それも二回もだぞ。拒絶されているのかもしれないと思うと……」
「――アイセも?」
「も、て……シトリお前まさか」
しまった、というような表情で水色髪の娘が視線を逸らす。
「あんた達、まさかまたシュオウに何か送りつけてたんじゃないでしょうね」
店主の指摘に金髪の娘は狼狽した。
「わ、悪いかッ。地方じゃろくな物は手に入らないと思って、これでも気をつかってだな――」
あわてて取り繕うように説明する金髪の娘に、オカマの店主は母親が娘に言い聞かせるような口調で説教を始めた。
「あんたね……シュオウはただでさえ目立つんだから、余計な注目を浴びるような真似は彼にとっては迷惑でしかないのよ? 贈り物だって、受け取る側の事を考えないのはただの自己満足なんだから」
叱られた形になった金髪の娘は不満気に唇を尖らせて俯いた。
それにしても、この店主はいったい何者なのだろうか。輝士である彼女達を前にして堂々たる振る舞いだけでも驚きに値するというのに、平然と叱りつけるような事までして無事ですんでいる。
オカマの厚化粧と筋肉には、生まれながらの立場の差を埋めてしまうだけの魔力でもあるのだろうか。
「シトリ、あんたもよ。自分の事じゃないみたいな態度はやめなさい」
他人事のようにそっぽ向いていた水色髪の娘は、小さく抗議するように呟いた。
「だって……どこかで繋がってないと不安……」
こっそりと彼女の顔を覗くと、眠たそうな目の奥がうっすらと濡れているのが見えた。
枯れかけた花のような二人を見て毒気が抜かれたのか、店主はやれやれといった調子で言った。
「まあ、その気持ちもわからないでもないけどね。――ほらほら、二人ともしゃきっとしなさい、今良い物あげるから」
そう言って、店主は封書のようなものを二つ差し出した。
「なんだこれ?」
彼女達は出された物を不思議そうに見つめている。
「シュオウから、あんた達によ」
店主が言った途端、二人の手が目にも止まらぬ早さで伸びた。
「来てたの? いつ?」
だるそうにしていた水色髪の娘は、すっくと起き上がり、必死の形相で店主を問い詰める。これまでとはまるで別人のように、目に力が宿っていた。
「あんた達に招待状出した翌日くらいかしらね。その数日前に一度前の広場で見かけて声はかけたんだけど、なにか急いでたみたいでさっさと行っちゃって。それから何日後かに落ち着いた様子でひょっこり店に寄ってくれてね。配置換えされるからって言ってたけど、どうしてって聞いても詳しくは言えないって。――帰り際にそれを二人に会ったら渡してくれって言ってたわ」
店主の説明もろくに耳に届いていない様子で、二人は中に収められていた文を取り出し、かじり付くように読み進めていた。
その様子を見ているだけで、彼女達にとって手紙の送り主がどういう存在か、透けて見えるというものだ。
「なんて書いてあるの?」
店主の問いに、金髪の娘がやや暗い声色で答える。
「贈り物への礼が書いてある……それと、当分何もいらない、とも――」
そう聞くと、店主は、ほらみたことか、といわんばかりの表情で苦笑いした。
「――しばらくの間、アデュレリア公爵の世話になるとも書いてあるな……どういうことなんだ。そっちはどうだ?」
聞かれた水色髪の娘は渋い顔で頷いた。
「同じ。理由は書いてない」
「あの氷姫のところに、ねえ……きっとまた何かあったんでしょうね」
先ほどからいったいなんの話をしているのかわからなかった。シュオウと呼ばれている人物が何か奇妙な状況に置かれているらしい。いったいこのオカマと貴族の娘達と件の人物との間にどんな関係があるのか、想像するほどに気になってしかたがない。
「ん? まだ何か入ってるみたいだ――」
金髪の娘が封書の中を覗き込み、トントンと手の平に中身を落とす。
「――指輪だ」
思わず手に入った贈り物に、金髪の娘は目を輝かせていた。
その様子を伺っていた水色髪の娘も、あわてて封書を逆さに振る。が――
「指輪………………じゃないッ」
彼女の手に落ちたのは、上品な青い石で飾られた首飾りだった。それを確認するなり、金髪の娘の指輪と自分の手の中にある物を、何度も複雑な表情で見比べている。
「あらまあ良かったじゃない」
そんな二人を見ながら店主は微笑んだ。
「私たちの輝石の色に合わせて選んでくれたみたいだな――」
金髪の娘が、うっとりと指輪を眺めて呟いた、その時だった。蛇が獲物に牙を立てて襲いかかるように鋭く、彼女の手の中にある指輪にするりとか細い手が伸びた。
不意の攻撃を受けた金髪の娘は、害敵に襲われた貝のように硬く手を握り、指輪を華麗に死守する。
僅か一瞬の間に展開された人間離れした攻防。
店内に緊張した空気が漂い始め、こっそりと固唾を飲み込んだ。
「なにをするんだッ」
「それ、欲しい」
水色髪の娘の率直な要求に、金髪の娘は呆れかえった。
「ほし……って、ダメにきまってるだろ。シュオウは私にくれたんだ」
「間違えたのかも」
「そんなわけないだろ! てこら、だから取ろうとするなってッ。交換する気はないからな!」
「交換するなんて一言もいってない。彼から貰った物を手放すわけないでしょ」
「お前……あいつの事になると人間変わってないか!?」
「なら貸して。ちょっと見るだけならいいでしょ」
「嘘だ、手に入れたら二度と返さないって顔に書いてあるぞ!」
幼い姉妹が喧嘩をしているような幼稚なやり取りが続き、両者は指輪の所有権を争ってついには椅子から転げ落ちてしまった。
水色髪の娘はもう一方の上に跨り、服を腹からめくって顔をうずめる。両手は生々しい動きでワキや横っ腹に這わされた。
「あッちょっとこら! くすぐるなって――あひッアハハ――ヘソに空気を送るな、バカッ!」
「そろそろ諦めたら?」
眉目麗しい貴族の娘達。二人がもつれあう姿は妙に色気があり、恥ずかしくなって思わず目線を逸らしてしまった。
収拾が付かなくなってきた時、大きな雷が落ちた。
「あんた達いい加減にしなさいよ!! 他にお客さんだっているんだからね」
オカマの店主は素早く彼女達の元へ駆け寄り、猫にでもするように服の襟を掴み上げた。
「ごめんなさいね、この子達、バカ、だから」
オホホと上品に笑って、店主がこちらへ頭を下げる。
「い、いえ、いいんです」
貴族を一喝する威風堂々とした姿に、恐怖を越して畏敬の念すら感じていた。テカるつるつる頭の後ろから後光が差しているように見える。今なら有り金を出せと言われても、ためらいなく差し出してしまえるかもしれない。
「もう、あんた達そろそろ帰りなさい。明日も早いんでしょ」
店主はぜいぜいと息を切らせて睨み合う二人の娘達に退店を促した。
「そ……そうだな……明日は王轄府でシュオウの事を聞かねばならないし」
金髪の娘は言って、ふらふらと出口へ向かった。もう一方の娘のほうは、そんな彼女の背中に強い視線を送っていた。どうやらまだ諦めてはいないようだ。
「あ――すまない、支払いを忘れていた」
金髪の娘は慌てて財布を取り出した。
「あら、気をつかわなくったっていいのに」
店主はそれでもちゃっかりと両手の平を差し出していた。
貴族の娘がさらりと取り出したのは一枚の金貨だった。
「ちょっと……いくらなんでも、こんなの出されてぱっとお釣りなんて用意できないわよ」
「とっておいてくれ。本当なら祝いになにか用意しなくてはならないのだろうが、正直言ってどんなものが喜ばれるかまったくわからないんだ。けして財をひけらかしているわけじゃない。家の金ではなく、自分で働いて得た金だからな」
店主はしばし考えた後、表情を引き締めて金貨を受け取った。
「ありがたく、いただいておくわね」
「わたしの分もアイセと一緒ってことにして」
水色髪の娘がしたたかに便乗する。
「お前な、茶代くらいは払えるだろ」
「アイセが無理矢理起こして家から引っ張り出したんでしょ。お金を持ち出す余裕なんてなかった」
「ううん……なら貸しにしとくか」
貴族の娘達は、店主にまた来るように念を押され、ぶつくさと言い合いながら店を後にした。
店内が静けさに包まれる。
まるで嵐が去ったようだ。
思わぬ形で訪れた、若い貴族の娘達を身近で観察するという貴重な時間を過ごしているうち、結構な時間が過ぎていたらしい。
小さな窓から見える外の様子はすっかり暗くなり、気温も一段と冷え込んでいる。さすがにこれ以上遅くなっては、そろそろ家族が心配する頃だ。
「あ、あのそろそろ……」
「あら……そうね、もういい時間かしら。だけどお客さん、お菓子に手つけてないのね。一口だけでも食べていったら?」
出されたまま、貴族の娘達に気を取られてすっかり忘れていた菓子を、店主は一つつまんで、こちらの口元まで差し出した。
特別食べたいとも思っていなかったが、こうまでされて断る勇気など、もちろんない。
丸太のような腕で差し出される細長い菓子にかじりついた。
パリパリという音と、サクサクとした食感。香ばしさが鼻孔一杯に広がったかと思えば、鮮烈な甘酸っぱさが口の中いっぱいに広がり、頬が美味でとろけそうになる。
「ふまひ」
飲み込むのすら待てず、そう感想を述べていた。
「でっしょう? 作ったのはあたしじゃないけどね」
店主はかっかと笑った。
すべてを飲み込んだとき、満足感と共に不安も残っていた。
いったいいくら要求されるのだろうか。
「あの、勘定なんですけど……」
持ち合わせがほとんどないことを告げようとした時、店主は首を振って言った。
「いいのいいの。あたしが無理矢理連れてきたんだから」
「え、あ? いや、でも――」
咄嗟に舌がうまく回らず、どうして、と聞くのが精一杯だった。
「そりゃさ、この世に未練なんてありません、てな顔で座り込んでる姿を見ちゃったら放っておけないわよ」
「……そんな顔、してましたか」
自分の顔に思わず触れていた。
「生きてれば色んな事があるわ。嫌なことがあったなら誰かに話せば楽になるし、疲れたら温かい飲み物と、甘い物でも食べて一休みすればいいのよ。あたしの店ならどっちも出来る。だから、仕事帰りにちょっと疲れを癒したいってときは寄っていってちょうだい――って、これじゃ宣伝のために引き込んだみたいよね」
店主は朗らかに笑った。
落ち着いた心でよくよくその顔を見てみれば、けばけばしい化粧の奥にも暖かな眼差しが伺える。
輝石の色で区別される人間社会と同じように、自分もまた、見た目が変わっているからという理由で始めからこの人を区別していたのかもしれない。
そう考えると、勝手に想像を膨らませて怯えてすごしていたこれまでの時間が、どうしようもなくもったいないと思えてきた。
もう一度店内を見回してみると、内装や使われている食器等、入口の置物を除けば、どれも趣味が良い。酒場のような粗野な雰囲気は皆無で、これなら安心して家族を連れてくることもできそうだ。
「あの、図々しいお願いなんですが」
「なあに?」
「さっきの菓子、残ったのを貰っていってもいいでしょうか。娘にも食わしてやりたいんです」
「もちろん、おやすいご用よ。余らせたって仕方ないしね」
店主は残った菓子を綺麗な布でくるんで渡してくれた。
「ありがとうございます……また、今度は家族と一緒におじゃまします」
深々と頭を下げ、店を後にする。
振り返ると、店主が大きな手をこちらに向けて振っていた。
胸の辺りにじんわりと温かいものを感じつつ、手を振り返して家路についた。
頬に当たる風は痛いくらい冷たいし、体中の節々は相変わらず痛いままだ。なのに、不思議と足が軽い。
歩調を早め、駆け足で家へ急いだ。
一刻も早く、家族の顔が見たい。
_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/
●あとがきのようなもの
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
感想や誤字報告などにもいつも本当に感謝しています。
今回はひさしぶりの息抜き編になります。
ささやかなものですが、無名編で登場した仲間の人生のほんの一欠片を、普段関わりのない人物からの視点で書いてみました。
このお話の中での登場時間は本当に短かったですが、今回出てきた3人はもちろん、カエルさんオッさんの二人も、話が進んでいくほどに主人公との関わりも再び増えてくると思います。
次回からの謹慎編の準備は順調なのですが、投稿予定などはまだまだ宣言できる状態ではないです。
スタートしてから更新が滞らないようにある程度書き溜めをしてみようかと思っているので、もうしばらくお時間をください。
それでは、また次回。