僕はスヴィータの横を通って、ゆっくりとその家の中に入ってゆく。 家の中は案外こざっぱりとした趣味の家具でコーディネートされていて、家主の趣味のよさが伺えた。 ただ、壁といわず家具といわず飛び散って黒く変色している血痕を除けば、という話だが。 部屋の中央の置かれているダイニングテーブルの上に行儀悪く腰を掛ける一人の男が、まず目に入る。 次に男の目の前に縛られて座らされているアニス、床に寝そべるように横たわっているボーマンが見えた。 アニスは目を真っ赤に腫らしているだけで特に問題はなさそうだけど、ボーマンは違う。 遠めだから良く分からないけれど、少なくとも一目見てボーマンと分かりづらいほど顔が腫れ上がっているし、手は変なところから曲がっているような気がする。「っ! ボーマンッ!」「迂闊には動かないほうがよろしいかと思いますよ、姫殿下」「あぅっ……」 アニスの首にぴたりと当てられているレイピアを見て、悔しいけれど僕は駆け出そうとした足を止める。 傍目に見ても分かるほどアニスの顔は青ざめていて、身体も分かるほどに震えていた。 目の前の男がシャレや冗談で言っているのではないことは、部屋の黒ずんだ血痕で理解できる。 悔しいけれど、相手の言われるがままにしかならない。「ひ、姫様……す、すいません。わ、私……姫様に……酷い事を言ってしまって」「え? あ、あぁ、あの日の事? うぅん、別に気にしていないから、変に気に病まないで。それとね、ミーシャ、元気になって帰ってきているよ。お医者さんが助けてくれたんだって」「あ……あぁ……」「脱獄って話もあったけど、ちゃんとフェイ兄に言って誘拐されたんだって話にしてもらってるんだ。だからこれが終わったら、アニスはちゃんと胸を張って帰れるから。心配しないで」「う、うぅぅぅぅぅぅぅ」 僕の話を黙って聞いていたアニスが、ボロボロと大粒の涙を止めどなく流れ落とす。 アニスの様を見て僕は少し安心した。 本当は恨まれてて罵倒されたりするんじゃないかなとか覚悟していたんだけど。 静かな室内でアニスの泣く声だけが響く中、テーブルに腰をかけていた男がおもむろにぱちぱちぱちと乾いた拍手を鳴らした。「いやぁ、中々面白いお涙頂戴物語ですね。そうやって恩を売って身近な人間から落としていったんですか?」「……なにが言いたいんだよ」「あの蛮行姫が自分より目下のものに慈悲を掛けるなんて、あまりに驚きすぎて心臓が止まるかと思ってしまいましたよ」 男はアニスに向けていたレイピアを降ろすと、今度は倒れて動かないボーマンに向ける。 刃先は人体の急所の上を滑りながら、最終的には投げ出された掌の上で留まった。 僕はいやな想像を止めることが出来なくて、思わず上ずった声で問いただす。「な、何してるんだよ。ボーマンは抵抗出来る状態じゃないじゃないか! や、止めろっ!」「くくくくくっ、それが今のあなたの地ですか。いやはや何とも不思議なものですね。人間はこんな短期間で人格を変えられるものなんでしょうかねぇ」 笑いながら男はゆっくりとレイピアの切っ先をボーマンの掌に押し込んでゆく。 皮に食い込み、少しだけ血が滲み出す。「お願いだ……、いや、お願いします。ボーマンにそれ以上酷い事をしないでください」「ん……そうですね。分かりました。ですがあれですね、姫殿下の騎士を自認する者が、臣下の礼を取ることもなく大の字で寝ているというのも、非常に無礼な話ですな。一つ私が起こしてあげましょう」「っ! 止めろっ!!」「ぎゃぁぁぁっ!」 死んだように横になっていたボーマンが、掌に突き刺されたレイピアの痛みで身体を跳ね上げた。 それが余計に傷を大きくすることになり、さらにボーマンの悲鳴が響く。 僕は考えるよりも先に駆け出して、これ以上ボーマンが暴れないようにと彼の腕と身体を押さえ込もうと試みた。 だが、鍛えたボーマンの力は弱っているとはいえ僕の力で抑え込めるはずもなく、ただ悪戯にあがくだけ。「ボーマン! じっとしてっ。 駄目だよ、暴れたら手が裂けちゃう!!」「あがぁぁぁぁ」「ボーマン! ボーマン!! その剣どけろよっ! ボーマンが痛がってるじゃないか! ボーマン、動くなって!」「くはははははっ」 男は僕とボーマンを見下しながら狂ったように高笑いを続け、レイピアを引いてくれる様子は無い。 僕は暴れるボーマンを押さえ込むのを諦めて、元凶のレイピアに縋り付いて刀身を引き抜こうと両手で握り締めた。 上へ引き上げようとするよりも早く、男がレイピアを引き抜く。 引き抜くついでと言わんばかりに、レイピアは僕の胸から肩口に掛けての服を切り裂いていった。「っ!」「いくら刺突用で刃が無いとは言え、スピードに乗せればその程度の服や肉でもある程度は切れるんですよ?」 僕は破られた服の下からじわりと滲み出る血を感じながら、目の前の男から視線を外さない。 アニスは今の混乱に乗じてボーマンの足元、僕の背中側に逃げてきている。 この状況なら僕を無視して二人に危害を加えるってことは出来ないはず。「なんでこんな酷いことを……」「酷い事? 国賊に媚びへつらう人間など、今のこの王国には必要ないんですよ。ましてやこんな状況、あなたがしてきたことに比べたら可愛いものだと思うのですがね?」 男は座っていたテーブルから立ち上がり、レイピアの切っ先で僕の胸の間、心臓の上に狙いを定める。 刃物を突きつけられるという行為に、僕の身体が恐怖で固くなるのが分かった。 まるで見えない大きな手で締め付けられているかのよう。「以前にどんな酷い事をあなたにしたのか、今のボクには分からない。でも、それでもアニスやボーマンは関係ないだろ? このまま開放してあげて欲しい。もし、ボクの願いを聞いてくれるなら、あんたの言う通りなんだってしてみせるから」「なんでも……ですか。ではお言葉に甘えて、私の主君であったカヌプルト・ドルマン男爵の地位と名誉の回復と、男爵様の失われた命をお返し願えますか?」「っ! い、命……。そ、それは……」「ふふふ、無理でしょう? あらぬ罪を着せられ刑死た男爵様を生き返らせることなど。だからこそ、あなたには絶望と後悔と恐怖をとことんまで味わってもらいたいと思っています。後の2人にもご協力をお願いしたいと思っているくらいですから」 まるで悪魔のような邪悪な笑みを浮かべて僕達3人を見下ろす男。 だけど、まだこれくらいは想定内。 日記にもミーシャから聞いた話でも、これくらいに恨んでいる人がいるのは分かっていたこと。 だから怯まない。「お願いします。2人をどうか助けてください」「っ! ひ、姫様!」 僕は2人を背に、目の前の男の足元に額をつける。 所謂土下座だ。 後でアニスが焦っているのが良く分かるけど、今はそんな些細なことにはかまっていられない。 この男の気分次第で僕達の命の行方が決められてしまうのだから。 少しでも時間を稼ぐことが僕がしなくちゃいけないこと。 あと少し。 あともう少しで、きっとフェイ兄が助けに乗り込んできてくれるはず。 なぜなら北町の会長さんに頼んでフェイ兄に助けに来て欲しいって手紙を届けに行ってもらったのだ。 だからフェイ兄が来るそれまでの間に2人を何とか逃がさないと……。 「なんだか拍子抜けですね……。まるでそこいらの街娘をいたぶっているような気になってしまいます」 男は複雑な表情で僕を見下ろしながら、レイピアを鞘に収めた。 どうやら一つ難関をクリアしたようだ。 この分だと僕さえこいつのいう通りにしていれば2人は逃がせそう。 僕はそう確信して、ただじっと男の次の言葉を土下座したまま待つ。 男は僕の前に片膝を付くと、血の匂いが染み付いたグローブをつけた手で僕の顎を掴み顔を上げさせる。「たかが地方領主の息子と伯爵家のどうでもよさそうな娘相手に、あなたが首を垂れるなどにわかには信じられませんねぇ。まあ、嘘にしろ本心にしろどっちにしても私にとってやることは変わりませんけど」「お願いします。2人を開放してください」 じっと男の細目を見つめて嘆願する。 この非道な男の情に縋るしかないのが業腹だけど、それでも僕に出来る戦い方はこれくらい。 だから躊躇わないし、迷わない。「いいでしょう」「え?」「いい、と言ったんです。2人は助けましょう」 男はそういうと壁際でじっと佇んでいたスヴィータに合図を送った。 スヴィータはその指示にしぶしぶといった感じで動き出し、アニスの縄をナイフで切り落とす。 僕は振り返ってアニスにボーマンを介抱するように目でお願いする。 その意を汲み取ったアニスは、黙ってひとつ頷くとボーマンの元に寄り添って傷の具合を確め始めた。 「そこの自称あなたの騎士ですがね、我々に投降した振りをして内部に潜入してそこの侍女を助け出すつもりだったようでしてね。暴れようとしたから、少し遊んであげたんですよ。まあ、もっとも生きて帰ったとしても、二度と剣は持てない体でしょうけどねぇ、ククク」「きっさまぁっ!」 カッとなって掴みかかろうとしたところを、逆に抱きしめられて動きを封じられてしまう。 男の視線が、息が、こんなに気持ち悪いものだとは知らなかった。 僕は闇雲に男の腕の中から逃げ出そうともがくが、いかんせん非力な僕が敵う相手でもない。「やはり、間近でみても美しい。男爵様が貴様を求めたのも頷けるな」「ひっ、姫様から離れて!」 アニスが男に飛びかかろうとして、逆に後にいたスヴィータに羽交い絞めにされてもがく羽目になっている。 その間も、男の手はいやらしく僕の身体の上を撫で回していた。「……んっ! くぅ……っ! ボクをどうにかする前に、早く2人を解放させて欲しい。せめて扉の外にまで、そこまででいいから」「ふん、いいでしょう。あなたとそこの侍女の2人で運べばいいでしょう?」「あ、ありがとう!」 思わず破顔してお礼を述べてしまう辺り、日本人の習性って怖いなって思った。 ……僕のそれをそのまま全日本人に当てはめて良いかどうかは良く分からないけれども。 男は僕の謝意に面食らったようで、少し苦笑しながら僕を解放してくれる。 もしかしたら、ちゃんと誠心誠意話し合えば分かり合えるんじゃないだろうか? 淡い期待を胸に、僕はアニスと共にボーマンに肩を貸しながら扉を目指す。 あと10歩、……あと5歩。 気絶している人を運ぶのがこんなに重労働だとは知らなかった。 だけどあと少し、もう少しで扉だ。 その先にはミーシャが、会長さん達が待ってくれている。 そんな気の緩みが、後の男の動きに気付くタイミングを遅くさせてしまう。 耳元で突然響く絶叫。 顔に降りかかる血潮。 全てがスローモーションで、でも目の前の全ての出来事が僕には理解できなくて、ただ痛みに悲鳴を上げるボーマンを眺めることしか出来ない。「うがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」「あっ、ちょっ! きゃぁぁっ!!」 痛みに暴れだしたボーマンに、アニスが弾き飛ばされ僕も振り払われてしまう。 床に仰向けに倒れこんだボーマンの胸からじわりじわりと流れ出す赤色。 そして狂ったように僕を見て笑い続ける悪魔のような男。 スヴィータは、壁際にたって全ての出来事を傍観している。「ふはははは、そうだ! その顔だ! 私はお前のそんな絶望に染まった顔が見たかったんだっ!」「ボーマンっ!!」 僕は慌ててボーマンの身体に覆いかぶさり、傷口を塞ぐように手を押し当てて流れ出てくる血を止めようとする。 何も聞こえないし、視界にある全ては意味が無い。 ただボーマンを助けたい。 身体の芯から放射される熱に浮かされたように、僕はただボーマンの傷をどうにかしなければともがく。 その直ぐ後に扉が蹴破られてミーシャが乱入してきたことも、僕の首にスヴィータがナイフを当てて誰かを威嚇していることも、まるで別世界の出来事のように感じていた。 ただ僕は願った。 ひたすらに願った。 瞬間、身体の中にくすぶっていた熱が大きくうねって爆発したように感じた。 その何かの奔流が僕の腕の中を流れ掌に集まり白く光りだす。「死んじゃ駄目だ! ボーマンっ!」 その瞬間、光が爆ぜた。