分厚いカーテンの隙間から、朝の光が部屋の中に射しているのが見えた。 昨日も結局ずいぶん遅くまでお客が帰ってくれなかったから、お城に戻ってくる頃には空が少し白じみ始めていたような気がする。 それから寝たものだから、いつもの時間に起きようと思ってもなかなか瞼が上がらない。 ベッドの中でもぞもぞと睡魔と格闘していたら、控えめなのノックと共にフェイ兄が入ってきた。「おはよう、スワジク。体の加減はどうだい?」「あ……、まだ少しだるいかな」 慌てて顔を半分だけ布団の中から出して、近寄ってくるフェイ兄のほうに顔を向けた。 フェイ兄は僕のベッドを素通りして、窓のカーテンを一つだけ開ける。 お陰でモノトーンだった部屋が、一気にその色彩を取り戻す。 僕といえば疲れていることもあって、朝の光に目を瞬かせてうーと唸ってしまう。「ほら、顔を出してごらん。少し見てあげよう」「いいですよう、みっともない顔してると思うし」「駄目だ。健康管理も王女の仕事の一つなんだ。あきらめて布団から顔を出しなさい」「ううぅ」 フェイ兄の正論に抗えず、僕はしぶしぶと布団から亀のように突き出した。 ここ最近、病気を装って部屋に引きこもっていたので、あんまり調べられて仮病がばれても困るんだけどな。 フェイ兄はベッドの縁に腰をかけて、そっと僕の顔を両手で挟み込む。 瞬間、先日のキスを反射的に思い出していまい、顔が一気に赤くなり青くなった。 「ふむ。大分疲れているようだし、熱も少しあるみたいだな。それに血の気も引いている様子。貧血気味なのかもしれないな」「あ、あはは。そうですね。そうかもしれません。もう1日寝たらましになるかも、です」 内心ドキドキさせながら、僕の顔をあれこれ調べるフェイ兄のされるがままになっていた。 うん、この胸の高鳴りは決して恋愛的なものはないと僕は主張する。 むしろ危機感というか吊橋効果というか。 いや待て、吊橋効果はまずい。 それではまるで僕がフェイ兄に恋しているみたいな話になってしまう。 色即是空、空即是色、煩悩退散、色欲退散!「やっぱりまだ調子は良くなさそうだね。朝ごはんは食べられそうかい?」「あ、はい。お野菜中心でなら食べられそうです」「そうか。では持ってこさせよう……と言いたい所だが、何故か最近誰もこの部屋に近づきたがらないんだ」「風邪がうつるからでしょうか?」 フェイ兄が困った顔をしながら、僕の頭を優しく撫でてくれる。 くそう、なんか気持ちいいんだよ、これ。 僕の一人百面相を面白そうに見下ろしながら、フェイ兄がゆっくりと首を横に振る。 「いや、どうもミーシャの霊が出るという噂があってね。夜、この部屋に近づこうとする人間の前に現れては脅かして追っ払っているらしいんだ」「ふぇ? ミーシャの霊? っていうか、ミーシャって死んでないじゃないですか」「ああ、私や君を含め一部の人間は知っているからそんな筈は無いと言い切れるんだが。こうも目撃証言が多いとね。もしかしていつのまにか帰ってきているのかと思って」「だったらボクが知らないはずはないと思うのですが……」 僕の表情をじっと見つめて、それから深いため息をつくフェイ兄。 そしておもむろに立ち上がり、部屋の中をゆっくりと見回り始めた。 まるで、どこかに潜んでいるミーシャを探しているかのように。「フェイ兄? もしかしてミーシャがこの部屋に今もいると?」「可能性は低くは無いと思う。厳戒態勢を引いている我々の目を逃れて、毎夜ここへ忍び込めるとも思えないしね」「あー、そうかもしれませんねー」 フェイ兄の言葉に、毎夜その目を掻い潜って町に行っている僕には、棒読みで返事を返すことしか出来ない。 うん、ごめんよ、フェイ兄。 フェイ兄達が無能とか、雑魚っぽいとかぜんっぜん思ってないからね! 秘密の地下道を作っていた前スワジク姫が、フェイ兄達よりも1枚上手だったというだけだから!「ん? 妙だな……」「はえ?」 暖炉の辺りで急にフェイ兄がしゃがみ込み、なにやら絨毯を観察し始めた。 秘密の扉の前辺りを丹念に調べてから、その他の壁と床を見比べている。 まずい、気付かれたのかな。 僕は思わず焦ってベッドから這い出ようとフェイ兄から視線を外した瞬間、何か蛙を踏み潰したような悲鳴が聞こえた。「フェイ兄! どうしたの?」 僕は慌ててフェイ兄のほうを振り返ると、そこには床に見っともない格好で伸びているフェイ兄と、どこから現れたのか鈍器を片手に持ったミーシャが立っていた。 あまりの光景に唖然としている僕を尻目に伸びているフェイ兄を片手でつまみ上げると、そのまま扉の外へ放り出す。 ちょっと部屋にあったゴミを捨ててきましたといわんばかりな涼しげなミーシャに、僕はなんと突っ込んでいいのか分からずただ呆れるしかない。「ミーシャ……」「……」「フェイ兄は生ゴミじゃないんだよ?」「なんとなくそうしなければいけない様な気がしたもので。ご気分を害したのであれば申し訳ございません」「いや、そこは嘘でもフェイ兄に謝っておこうよ」 そういって嗜める僕の言葉を、多分ミーシャは聞いていないんだろうなと思う。 だって思いっきり明後日の方向に顔を向けているし。 でもやっぱりフェイ兄へのあの仕打ちはあんまりだったので、じっと睨み続ける僕。 僕の無言の抗議に流石にバツの悪そうな顔をしながら、ミーシャは無言でベッドサイドに佇む。 5分くらいずっと睨み続けていたら流石のミーシャも諦めたのか、ほんっとうに嫌そうにしぶしぶ頭を下げた。「分かりました。事態が落ち着いた頃を見計らって、殿下には謝罪いたしたいと思います」「なんでそんなにフェイ兄にだけ意地悪するのかな、ミーシャは」「……」 再び明後日の方向を見るミーシャ。 まるで悪戯を怒られている子供みたいだ。 僕はそんな彼女の手を引いて手繰り寄せ、ぎゅっとミーシャを抱きしめた。「とにかく今はお帰りなさい、だね。ミーシャ」「……はい、ご心配をお掛けいたしまして申し訳ございません、姫様」「ううん、ボクのせいで怖い目に合わせちゃったね」「もったいないお言葉です」「んー、ミーシャってなんか体硬くなった?」 何かがちがちに体を固めているかのような感触に、思わず怪訝な顔をしてしまう僕。 ミーシャは慌てて飛びのくと、引きつった笑みを浮かべながら弁解を始める。「いえ、コルセットなどで体を締めているものですから、硬くお感じになられたのです」「そう? なんかそういうのとは別物のような感じがしたのだけれど……」「そ、それよりもです、姫様。もしかしたら近くアニスの潜伏先が分かるかもしれません」 何やら無理やり話題を変えられた気がするけど、それよりもアニスの事のほうが大事だから気にしないでおこう。 そんな僕の気持ちを知ってか、ミーシャは満足げに話を続ける。 「ドクター・グェロが協力してくださっていて、2、3日中には確実な情報が入るのではないかとおっしゃっていました」「僕の方も北町の会長さんとか町の人達が皆協力してくれてるんだ。この調子ならアニスを見つけるのも時間の問題かな」「ええ、必ず見つけてみせます。ですので、姫様はあまり出歩かれないほうが良いかと」「ボクだけ何もしないっていうのは、我慢出来ないよ」 ミーシャが驚いた顔をして僕を見ている。 僕はミーシャの手を取って、強く握り締めて自分の思いを吐露する。「もう、ボクのために誰かが傷つくのはイヤなんだ」「姫様……」「原因を作ったのはボクじゃないんだけどね。でもこの体でいる限りは付いて回ってくる事でしょ? 今まではどこか傍観者っぽく考えていたけど、もう他人事じゃないんだよね」 僕の想いに声を無くしてしまったかのように押し黙るミーシャ。 なんだか熱いことを語ってしまって気恥ずかしくなってきた。 あまりの恥かしさに、僕は真っ赤な顔して早口で話を続ける。「ま、まあ兎に角、今はアニスを悪い奴らから助け出すのが最優先だと思う。第1軍の人達より先に見つけないと、大変なことになってしまうような気がするし」「分かりました。何か情報が入れば必ず姫様にお知らせいたします」「うん、お願いするね。ボクはまた今晩酒場に行って情報収集に勤しむから」 話も纏まったところで、そろそろフェイ兄を何とかしてあげようと僕は廊下へと向かう。 もちろん嫌がるミーシャの手を引いて、である。 だって今のこの体では男の人を担ぐなんて事、出来るはずも無いのだから。 扉を開けると、依然気を失ったまま倒れこんでいるフェイ兄。 うん、こんな格好誰かに見られたら大問題だよ。「さ、フェイ兄をベッドまで運んでもらおうかな?」「え゛?」 もの凄く嫌そうな顔をするミーシャ。 なんでそんなこの世の終わりみたいな顔をするのかな、この人は。 そんなミーシャの背中を押して、フェイ兄を抱えてもらう。 最初こそ嫌がっていたようだけど、僕が本気だと分かるとしぶしぶお願いを聞いてくれた。「そんなに不貞腐れない! フェイ兄があのまま起きて困るのはミーシャなんだよ? いいの? ボク付のメイドを首になって」「それはイヤです!」「なら、ちゃんとフェイ兄をベッドに連れて行ってあげて!」「し、しかし、姫様のベッドに男性を寝かせるのは……。せ、せめて侍女の控え室にある仮眠用ベッドでは駄目なのですか?」「今外に出てミーシャの姿を見られるのは、いろいろと不味いんじゃないの?」「ぐっ」「ほら、さっさとしないとフェイ兄の眼が覚めてしまうよ。たかがベッドに寝かせるだけじゃない」「ぐぐぐ……」 まるで血涙を流すかのような葛藤をしつつ、ミーシャはフェイ兄をベッドの上に寝かせる。 意識の無い男の人を苦も無く抱えるミーシャはやっぱり力持ちなんだなぁ、と変なことに感心する。 これでようやく落ち着けるかと思ったら、急に眠気が襲ってきた。 そりゃそうか、まだ数時間しか寝ていないもんな。「それじゃあボクはもうひと寝入りするから、ミーシャもあまり無理をしないように……ってなんでそんな驚いた顔をしているの?」「寝るのですか? 殿下が寝ておられるそのベッドで?」「そうだけど、何か不味い? ……そりゃ男と女じゃ不味いだろうけど、兄妹だし、問題ないんじゃないの?」「……い、いえ、姫様がそれでいいなら。ですが! 絶対に過ちを犯してはいけませんよ?」「むしろそれはミーシャ相手にこそ、気をつけなければいけない事なのじゃないかな」 僕の一言で、凄く泣きそうな顔になるミーシャ。 だけどそれは普段の行いってヤツだから、同情はしてやらない。何かに負けたミーシャは、背中を煤けさせながら秘密の通路を開ける。 僕は泣く泣く部屋を後にするミーシャを見送った後、フェイ兄が眠るベッドへと向かう。 ミーシャがいらん事を吹き込むから少しだけ意識してしまう。けど、兄妹ってのもあるし中身が元男ってこともあるので、まあ一緒に寝るのにはあまり抵抗感はない。 むしろ今は睡魔に抗えない感じだ。 僕は、少しだけフェイ兄から距離をとって布団に入る(キングサイズはこういうとき有難いよね)と、すぐに深い眠りに落ちた。 帝都の富裕層が住む町の一角に、ごくごく平凡的な戸建ての家がある。 20年ほど前に帝都から移民してきた老夫婦の家だ。 近所付き合いも良く、かといって何か特筆するようなものがあるという訳でもない、ごくごく平凡な夫婦である。 ただこの1カ月くらいは、ラムザスにいたと言う親戚が遊びに来て賑やかではあるのだが。 もちろんそれは巧妙な偽装であり、ラムザスが長い年月をかけて作った諜報網の一つである。 老夫婦もその親戚も、全てが偽りであった。 その年老いた諜報活動員の頭を悩ます問題が一つある。 裏繋がりで抱え込んだ、蛮行姫の元侍女という赤毛の女だ。 話では蛮行姫の暗殺に協力してくれるだろうという触れ込みだったのに、家に入れてみればそれは全くのデマ。 当の本人には寝返る素振りも無く、ただ自分達に怯えて泣いているだけ。 今は地下の隠し部屋に閉じ込めているが、いずれ処分せねばならない。 この20年間無難に諜報活動を行ってきたというのに、こんなところで妙なケチが付いてしまった。 ケチと言う物は一旦付き始めると、ドミノ倒しのようになって襲い掛かってくるという。 長い年月の経験からそれを理解している老夫婦は、いつも以上に神経を尖らせて周囲を警戒していた。 そして程なくして家の周囲を探るようにしてうろついている男が数人。 仕草や目つきから言って、全うな商売についている者とは思えない。 王国の諜報関係者か、ただのならず者か。 老夫婦を狙った強盗という線もあるかもしれないが、どちらにせよ歓迎していい状況ではない。「おい、この家を見ている男達が数人いる。どうするんだ?」「……」 居間で寛いでいる「ラムザスから戻ってきたという親戚」に向かって、老紳士が苛立ちを含んだ声で尋ねる。 が、どこにでも居そうな顔の男『名無し』は、聞こえているのかいないのか、ただ目の前の紅茶をゆっくりと楽しんでいる。 その余裕に余計に苛立ちを募らせる老紳士。「おい、聞こえているのか!」「……あまり、声を荒げるのは得策じゃありませんね。ご近所さんが不振がります」「今の状況がすでに危機的状況だといっているんだ! まったく余計なお荷物を背負い込ませおって」「では一芝居打つとしましょうか?」「一芝居、だと?」 にやりと不気味に笑う男に、老紳士は背筋を凍らせるしかなかった。 老紳士の家を監視している男達は、根気強くあの老夫婦達の動きを探っていた。 北町の会長からの指示で不振な家の洗い出しをしていたら、この家に辿り着いたのだ。 浮浪者の一人が、夜遅くに赤毛の女が数人の男達に囲まれてこの家に連れ込まれるのを目撃したという。 お高く留まった衛士や騎士団では、彼らからの情報など得られはしない。 万一耳に入ったとしても、一顧だにしないだろう。 まさにこの町の暗部を司る自分達だから、誰よりも早くこの場所に辿り着けたのだ。 だが、相手もこちらに気付いているのかなかなか隙を見せてくれない。 まあ、懐に危険物を抱え込んで暢気に外出するなど、有り得ないとは思っていたが。 その内痺れを切らした会長に、ならず者を装ってあの家に踏み込めという指示が来るのは目に見えている。 自分達はただ、その命令を待っているだけ。 荒ぶる感情を宥め賺しつつ、じっとチャンスを伺う。 すると、凄い形相で窓枠にしがみ付く老人の顔が見えた。 恐怖に染まったその顔は血にまみれ、一瞬で異常事態が発生したのだと理解する。 男は傍に控えるもう一人の顔を見る。 相棒であるその男もその様子を食い入るように観察し、男に頷いて見せた。「行こう。今なら押し入ったこともなんとでも言い訳が出来る」「だな。会長は短気だからな。早いとこいい結果を持って帰るか」 二人は肯き合って、すばやく問題の家へと突入した。 もちろん何かあったとき用に武器を手に持って、である。 暫くして家の中から出てきたのは、彼らではなく服を着替えた『名無し』だった。 青空を仰いで、晴れやかな表情で彼は呟く。「全く予定外の事ばかりですね、困ったものだ。本当はもう少しあの姫を精神的に揺さぶって、以前のように自殺に追い込めればと思ったのですが。少し計画を変更して、強引に行かざるを得ませんか」 まるで天候の話をするかのように物騒な独り言を呟く『名無し』。 彼が後にした家の中は、不気味な沈黙と血の臭いで充満していた