路地裏の薄暗闇の中、どこにでも居そうなごくごく平凡な顔つきの男が私を待っていた。 そのガラス玉の様な無機質な視線に心の底まで蹂躙されたような気がして、思わず背筋を震わせてしまう。 そんな私の怯えを見抜いたかのように、男はニタリといやらしく笑みを貼り付けた。「どうしたのですか、ルナ」「別に、どうもしませんわ」「そうですか。でも、どうして殺ってしまわなかったのですか?」「……」 男は生理的に受け付けないような笑みを浮かべながら、近寄ってくる。 この男はいつもそうだ。 普段は居るのか居ないのか分からないほどに存在が希薄なくせに、相手の弱みや悲しみなどの負の感情を感じ取ると悪魔の様な笑みを浮かべる。 命の恩人でなければ、こんな下衆な男と係わり合いになりたくも無かった。「あの教会はすでに廃屋となって長い年月が経っています。あの物置で、いや、あるいは隠し通路の中でもいいですね。短剣をこの辺りに刺し込めば、死ぬほどの苦しみを味わいながら暗闇の中でじわりじわりと死んでいくのに」 そういって男は私の右のあばら骨の一番下辺りを撫で回す。 きっとこの男の頭の中では、あの可愛らしい姫様が何度となく刺し殺されているのだろう。 粘り気のある気味の悪い笑みを見て、私はそう確信する。 それは自分の中の大切な何かを踏みにじられているような気がして吐き気がした。「命を救っていただいた事には感謝していますが、私は貴方達の手先ではありません。私が殺したいと思ったときが復讐する時です」「それはそうですが、高貴な方にも事情もあれば時間もある。いつまでも貴方を匿っていられるとは限りませんよ? ましてやあの売女の娘に顔を見せたのです。そうそう時間はかけられません」 私はこの男に助けられた。 レオ様の私邸を辞去し故郷に帰る途中、駅馬車に乗り合わせていた人達ごと闇に葬り去られるところを、この男がたまたま通りかかって助けてもらったのだ。 陰謀の全容について知らされた私は、首謀者である蛮行姫の追及の手を逃れるために男の言うままに王都に舞い戻ってきた。 姉の死に報いる為に、駅馬車に居合わせた人達の恨みのために、何より自分自身の平穏の為に。「あの娘は……、あの姫様は私を見ても驚きませんでしたわ」「?」「あの姫様は、本当にスワジク・ヴォルフ・ゴーディンなのでしょうか?」「逆に聞きますが、あの容姿を持っていて尚、彼女がそうでないと言い張るのですか?」「いえ、あれは確かに姫様でした」「ならば何を迷うのです。今更止めるのですか? レイチェル殿や駅馬車の人々の悲しみを、あの蛮行姫の悪行を許せるのですか? 許していいのですか?」「許しはしません。でも……」 煮え切らない私の態度を見て深いため息をついた男は、肩をすくめてまた無表情に戻った。 どこにでも居る有象無象へ。 私の背に圧し掛かるようにあったプレッシャーが、それだけですぅっと軽くなる。 それで私は理解することが出来た。 私はこの男が堪らなく怖いのだという事に。「まあ、いいでしょう。高貴な方からも、蛮行姫が記憶喪失だという情報が入っています。あなたの顔を見て驚かなかったところを見れば、それは正しい情報だったという事です。となれば、利はこちらにある。おそらく蛮行姫はあの出入り口を使って、今後街に出てくるに違いありません。そのチャンスを狙っていく事にしましょう。出来る限り仲良くして最後に裏切るというのも、非常にそそる殺し方ですしね」 何も答えない私を暫くじっと見つめていた男は、口の端だけを歪めて笑う。「貴女がその気になるのを気長に待つことにします。ま、もっとも高貴な方から命令があれば、貴女の都合などお構いなしになってしまいますが。そうならないように、お早めに決断をしていただけると助かります」「分かりましたわ」「あ、そうそう、もうじきお仲間が増える予定です。その方も大層蛮行姫に恨みを持っておられまして。ええ、きっと顔をあわせたらびっくりするでしょうね。今から楽しみです」 そういって男は闇に溶け込むように消えてゆく。 最初は魔法でも使っているのかと思ったが、そんな様子はない。 きっとあいつは悪魔の使徒なのだろう。 だから魔法を使わなくても、簡単に闇に溶け込めるのだ。 ということは、私は悪魔に魅入られた馬鹿な女ということなのだろうか。 仲間が増えるということは、あの悪魔に魅入られた人が増えたということ。 その人は蛮行姫にどんな仕打ちを受けたのだろうか。 こんな茨の道を歩まないように、なんとか守ってあげたいと思う。 ふと幸せな頃の姉の顔が、声が浮かんでは消える。 あの頃はただ、姉に守られて日々を過ごすだけでよかったのに。 一体私の人生は何処で狂ってしまったのだろう。 どこかに私を救ってくれる人はいるのだろうか。 やるせなさに沈んでしまいそうになる気持ちを、姉の笑顔や駅馬車にたまたま乗っていた人達の死に様を思い起こす事で奮い立たせる。 今は落ち込んでいる場合ではない。 この復讐はきっとこの国にとっても『いい事』なのだから。 だから、私は『悪い人』になろうと決めたのだ。 所は変わって、王宮にある近衛隊舎の一室。 机の上に置かれているのは、近衛隊の証である白銀の剣。 特殊な製法でつくっていて、普通の剣とは違い刀身が輝くような銀色をしていることから、その通り名がついた剣である。 その輝かしい剣の向こう側に座っているのは、近衛隊のコワルスキー、筋肉マッチョのおっさんだ。 俺とおっさんは、こうやって小一時間ほどにらみ合っている。 なんでかというと俺が近衛隊に入るのではなくて、姫様の騎士として認めてもらえるようにお願いしたからだ。 で、ヴィヴィオさんが姫様の意思を確認しに、北の塔舎へと行ってもらっている。 その結果待ちの為に、本当に仕方なくこの場にとどまっているのだ。 本心を言えば、今すぐにでも姫様の元へ行って、警護に当たりたいくらいなのである。 それを乏しい自制心をフル稼働させて、現状を耐えているのだ。 うん、騎士の鑑だと自分で自賛しておこうか。「なんで、近衛じゃねぇんだ?」「俺は姫様の為に戻ってきたんだよ! 姫様以外の為に剣を振るうつもりはない」 さっきから何度も繰り返されている問答だ。 おっさんは俺が姫様の騎士になることを嫌がっているようだが、こればっかりは譲れねぇ。 それにあんな首の切り方をされて、また頭を下げて働く気にもなれないしな。 沈黙が支配する部屋の扉が、ようやく静かに開け放たれた。 俺もおっさんも、入ってきたヴィヴィオさんに視線を向ける。 「どうだった?」 おっさんがヴィヴィオさんに声を掛ける。 彼女は疲れた顔をして首を横に振った。 「姫様は騎士など要らないと。自分のことは自分で出来るから放って置いて欲しいとも」「ま、最近の姫様の行動をみてりゃ予想は出来たけどな」 別段落胆した様子もない2人に対して、俺は逆に激しくショックを受けていた。 確かにいきなり騎士にしてくれなどと言って、すぐに良い返事が返ってくるとは思ってもいなかったが、まさか会っても貰えないなどとは夢にも思ってもいなかったのだ。 そこまで姫様は自分を追い込んでいるのかと思うと、居ても経っても居られなくなる。 思わず腰を浮かせかけた俺に、ヴィヴィオさんが質問をしてきた。「ボーマン、君は姫様に『貴女のことは友達と思ったことなどない』と言ったかしら?」「あ? え、ええ、確かに言いました。迷惑は掛けられない、友達は選べというようなことを言われたので、それは違うだろうと」「……なるほど」 ヴィヴィオさんがこめかみを押さえて、なにやら痛みを耐えるような仕草をしている。 俺はあまり意味がよく分からなくて、おっさんの方を見た。 おっさんにはなにか思い当たる節があるのか、とても残念そうな表情だ。「えと、何か拙かったですかね?」 恐る恐るヴィヴィオさんに声を掛けてみた。 彼女はどういって良いのか迷った挙句、とんでもないことを口出す。「ボーマン、あなた女の子と付き合ったことないでしょう?」「はぐぅあっ。そ、そんな胸を突き刺すような一言を、何故今言われないといけないのですか?」「まあ、なんとなくお前さんの考えていた事は、騎士としては理解できるぜ。騎士と主の関係をそこいらの友達関係と一緒にされちゃ、そら堪らんわな」「で、ですよね!?」 さっきまでの険悪なおっさんとの関係をかなぐり捨てて、その援護射撃に最大級の尊敬の眼差しを送る。 だがその援軍もあっさりと敵に寝返った。「だがよ、友達とは思ったこともない、で話をぶった切ったら、そりゃ姫様も傷つくわな」「え? え?」「言葉が圧倒的に足りないのですよ、ボーマン君」「いや、ヴィヴィオ、俺なら一言で済ますぜ? 俺に任せろってな具合で」「あなたにはムードがないのですよ。それでよくあんな良い奥さんを貰えたものですね? 王宮七不思議のひとつです」「おめぇ、女ってのはな、無理やり引っ張って貰いたいって願望があってだな、多少強引な方がいいんだよ」「全部が全部、そんな女性ばかりだと思われているのも不愉快なのですが?」「そんなツンケンしてるから婚期を逃しそうになってるんじゃねぇか」 瞬間、部屋の空気が5度は下がったように俺には感じれた。 これが圧倒的な死の恐怖というものなのだろう。 そのプレッシャーに、さすが歴戦の勇士であるおっさんはたじろぎもしていなかった。 だが恐怖の女王は、さらにその上を行った。 机の上にあった剣を手にすると、無言でそれを鞘つきのまま振りぬく。 俺も騎士を目指す者の端くれだ。 女性が振る剣筋など容易に見切れると思っていた。 いわんや歴戦の勇士ともなるおっさんであれば、それは確信としてあったはず。 だが、そんな俺たちの予想をはるかに上回る斬撃に、おっさんは頬を張られて首がおかしな方向に傾いていた。「誰が行き遅れですって?」 鼻からぼたぼた血を垂らしながら、兎のように震えているおっさん。 だが、そんなおっさんを俺は笑えなかった。 なぜならヴィヴィオさんの形相に、俺は本気でちびりそうなのだから。 だが、獅子は兎を狩るのにも全力を持って当たるという。 静かに振り上げられる2撃目を、後悔の眼差しをもって見つめ続けるおっさん。 すまねぇ、俺にはあんたを助ける力などない。 迷わず成仏してくれ! おっさんの最後を見る前に、俺はその場から逃げる。 とりあえずおっさんからヒントは得た。 彼の遺言となった言葉を実行するため、俺はひたすら北の塔舎を目指す。 べ、別に背後から般若のようなヴィヴィオさんが追いかけてきそうだからとか、そういった理由じゃないんだからね! ふと空を見上げると昼だというのに、一粒の星が煌いていた。 ああ、おっさん、あんたの貴い犠牲は明日くらいまでは覚えておくことにするよ。 俺の背後で3回くらい鈍い打撃音が聞こえてきたが、全身全霊を持って聞こえなかった振りをした。 俺は北の塔舎に入ると全速力で3階へと駆け上がる。 途中ライラさんに出会ったから、姫様が寝室に居る事もちゃんと確認済みだ。 頭の中で、何を言うかもきちんと整理しておく。 とりあえずは、言葉足らずで傷つけた件は平謝りだな。 それで、ちゃんと俺は姫様を守ってやりたいんだと大声で言えば、きっと頷いてくれるはず。 なんか都合よすぎかもしれないけれど、虚仮の一念岩をも通す、だ! 俺は姫様の部屋の前にたどり着くと、ノックももどかしく中に踊りこむ。 俺の目の前にあるのは、部屋の中央に置かれた大きなベッド。 ベッドから少し離れた場所にはダイニングテーブル。 そのテーブルの上には色とりどりのドレスが置かれており、その傍に姫様が一糸纏わぬ格好で立ち尽くしていた。 初雪のように真っ白な肌に、さらりとかかる透明感のある銀色の髪。 その様がとても幻想的で美しく、来る途中に考えていた科白が全部頭から消えてしまった。「ひぅっ! ぼ、ボーマン? なんで?」「あ、うあ、えー?」 慌てて手にしていた小さい布で体を隠そうとしているようだが、あれは多分パンツだから体を隠すには圧倒的に面積が足りないはず。 顔を真っ赤にして慌てている姫様を、なぜが妙に冷静な頭が克明に記憶領域へと記録してゆく。 「ちょ、ボーマン、何しにきたのさっ!!」「あ、は、はい! ひ、姫様、お、お、俺、(友達じゃないなんて言って)すいません! 俺は貴女を(守って)やりたいんです!」「ちょ、お、落ち着け、ボーマン! いくら年頃だからって、こんな無理やりなんてっ」「俺、貴女を見たら(苦しんでいる姿を)、もう我慢出来ないんです!」「ふぎゃぁぁぁぁぁ」 そういって、姫様の肩に手を置いてがっちりホールドした。 うん、今考えても俺は死ぬほどテンパっていたんだと思う。 なるほど、ヴィヴィオさんが言葉足らずだという訳だ。 まあ、この反省は鳥の冠亭に帰ってから気付いたことではあるのだけれども。 そんな俺に、姫様は錯乱しながらも金的攻撃を敢行してきた。 テンパっている俺には当然防げるわけもなく、一発で悶絶し部屋の外へと放り出される。 そこへ隊舎から追いかけてきたヴィヴィオさんがやってきて、部屋の中にいた姫様と2、3言葉を交わした後、汚物を扱うような感じで城外へ放り出された。 もちろん騎士にも成れなかったし、今後王宮にも近づくなと釘をさされるオマケつきだ。 ……どうしてこうなった?