王都の朝の空気は、僕がいた世界のどんな朝よりも澄んでいた。 王宮の中に引きこもっている方が多かった僕には、皆で出かけたあの日以来の街の風景だ。 目的の場所までの道のりはあまりよく分からないが、とりあえず自分の部屋から見えた建物を目指して行けば良いはず。 まずは城の北側へ向かって街の路地を適当に歩く。 極力人とは出会わないように、特に衛士さん達に見つからないように、細心の注意を払いつつ移動する。 半時間くらい歩いたら、ようやく目印にしていた集合住宅が見えてきた。 塀の影から顔だけを覗かせて、周囲の状況を確認する。 住宅の入り口に厳つい体格のお兄さんが2人、家の周りを警戒している人が2人一組になってぐるぐると歩き回っていた。「ボーマン、どんだけ警戒されてるんだよ……」 そりゃ女装した変な人が、突然自分の家の屋根に毎日旗を立てに来たら怒るよね。 どうしようかなと思って思案していたら、別の路地から件の住宅を除いている変態、もといボーマンを発見した。 今日はあの赤いリボンは付けてないようだ。 そのかわりと言わんばかりに、ボーマンの短い毛を三つ編みっぽく寄り合わせ、小さいリボンでくくってある。 なんだろう、あの奇抜なヘアスタイル。 あれはボーマン一人では出来ないから、きっと誰かが悪ノリして遊んでいるように思えるんだけど。 しかし、それで出歩いているボーマンも強者と言わねばならないだろう。 ボーマンは少しの間躊躇っていたようだけれども、意を決したのか、警戒していた男の人達の隙をついて一気に集合住宅の入り口へと駆け込もうとした。 が、敵も然る者、隙を見せていたのはどうやらボーマンへの誘い水だったようで、駆け込もうとした入り口からさらに2人の男の人が踊りでる。 4人も入り口の前に立ちふさがっていたら、流石のボーマンでも手も足も出ないのではないか? 僕は声を掛けるのも忘れてボーマンを見守る。 頑張れ、ボーマン!「ちょいと、お嬢さん」「へぅっ」 急に背後から声を掛けられて、みっともない返事を返してしまう僕。 慌てて振り返ってみると、赤ら顔のおじいさんが数人の町人を連れて立っていた。 おじいさんは帽子を逆さまに持っており、その中に硬貨が割りと沢山入っているのが見える。 僕が戸惑っていると、おじいさんはニヤリと笑って帽子を僕の前に差し出す。「一口どうじゃね?」「賭けてるのですか?」「おお、そうじゃとも。あの女装の小僧が屋根に上って何分持つか、それを賭けているんじゃよ」 手にくじ札っぽいものを持った中年の太った男の人が、おじいさんを押しのけてさらに最近の結果速報を頼んでも居ないのに教えてくれた。 あれだね、皆暇なんだね……。「昨日は砂時計3回転半、一昨日が5回転旗付き、4日前が二回点半です。あ、旗付きってのは、屋根の上に旗を立てたかどうかで倍率が変わるんでさ」「さあ、お嬢さんは何回転に掛けなさる? もちろん旗付きだけのベットもありでさ」 未だ玄関口で悪戦苦闘しているボーマンを肩越しに振り返りながら思案する。 僕を励ますためと、一生懸命に頑張るボーマン。 そんな彼の一生懸命な気持ちを、無駄にしちゃいけないよね。 僕はおじいさんに向かって、短く言い放つ。「3回転の旗なしに、銀貨2枚」「お嬢ちゃんギャンブラーじゃなっ!」「褒めても何もでませんよ?」 良い笑顔でぐっと握手を交わすおじいさんと僕。 さて、門番4人をいつの間にやら抜いたボーマンは、勢い良く玄関の中に駆け込んでゆく。 途中の階段ぽいところの窓から、奥さん連中から色々と物を投げつけられている様子が見えた。 毎日こんな苦労をして屋根に上ってきていたのかと思うと、なんか少し泣けてきた。 頑張れボーマン、なんか可哀想になってきたけど、とりあえず僕の銀貨の為に、めいっぱい頑張れ! 暫く外からぼーっと集合住宅を眺めていたら、ようやくボーマンが屋根裏部屋の窓から這い出てきたのが見えた。 満身創痍という言葉がぴったりの様子のボーマンに、屋根裏部屋の住人らしき若い女性が情け容赦なく箒でボーマンの背中を叩いている。 起き抜けに押し入られて怒っているみたいだ。 激しい攻撃を受けながらも、ボーマンは僕の部屋が見えるであろう位置にまで移動し、背中に背負っていた鞄の中から旗を取り出す。 慣れた手つきでそれを組み立てていくボーマンの背後から、同じ若い女性の部屋から追っ手の男達が屋根へと這い出てくる。 それぞれの顔に紅葉の跡や引っかき傷が付いているところを見るに、多分ボーマンと同じように部屋の中で違う戦いがあったようだ。 まあ余談はともかく、ボーマンがなんとか旗を組み上げた頃に、追っ手が彼を取り囲む。 僕は思わず手をぎゅっと握り締め、この次の展開をじっと見守った。 僕の横で静かに回転する砂時計。 これで丁度2回転半になる。 あともう一回この砂時計が回転するまでは、なんとか粘って欲しいところ。 屋根の上では、いつもの如き乱闘が起こっている。 人数に任せて押し包もうとする住人側と、させまいと旗を武器に近寄らせないボーマン。 そんな彼らを下から仰ぎつつ、自分達が張った山が来ると、やれ「変態今だ、落ちろ」とか、「住人の底意地を見せてみろ」といった野次が飛ぶ。 当人達はそれを気にしている余裕もなさそうだけどね。 とうとう3回転目に砂時計が入った。「ボーマン!」 僕は周りの野次に負けないように、屋根の上に向かって腹の底から声を出す。 1度目は気付いてもらえなかった。 だから僕は2度、3度とボーマンの名前を連呼する。 僕の声がようやく届いたのか、乱闘していたボーマンがちらりと僕がいる方に視線を向けた。 ここが最後の正念場とばかりに、僕はボーマンに大きく手を振って叫んだ。「ボーマン! 落ちろぉぉぉ」「何でぇぇぇ?」 僕を見て驚いたボーマンの隙を住人達が見逃すはずもなく、胴上げのように抱えあげられそのまま地面に向かって放り投げる。 落とす場所には束にした飼い葉が積み上げられており、そこに投げ落とすのがお約束になっていたようだ。 一瞬ヒヤッとしたけれど、無茶をする中にもちゃんとルールがあったようで安心した。 胸を撫で下ろしている僕の横に、おじいさんがやって来る。「知り合いじゃったのか?」「今更卑怯なんていいませんよね?」「ま、特に何か不正をしていた訳でもなし、因縁をつけるつもりはないぞい」「太っ腹ですね」「ああ、あの小僧には稼がせて貰ったからな。これが払い戻しの銀貨16枚じゃ」「有難うございます」 おじいさんはニヤリと笑って、そのまま群がる人達を引き連れて町の中へと消えてゆく。 それを見送っていたら、ようやく飼い葉の中から這い出してきたボーマンが僕のほうへとやってきた。「ひ、姫様……、なんで「落ちろ」なんですか?」 泣きそうな顔をして僕の前に這い蹲るボーマン。 僕は彼の頭にそっと手を置いて、僕は僕に出来る最高の笑みを向けた。「お陰で儲かりました」 掌の中の銀貨を見せると、ボーマンは一言「不幸だ」といってその場で伸びてしまった。 さっきの集合住宅から少し離れたところに北街のマーケット広場というものがあって、ボーマンと僕はそこのオープンカフェもどきでお茶を飲んでいた。「ボーマン、元気そうで何よりです」「有難うございます。もう王宮仕えでもない俺なんかに、会いに来ていただけるだけで光栄です」「あれだけ毎日屋根の上で暴れていたら、気にもなりますよ。ふふふ」「あの、それでですね、俺、姫様に伝えたいことがあって……」 カップの中の自分の顔を見ながら、軽く首肯して分かっていると無言でボーマンに告げる。 ボーマンも内容が内容だけに、僕の意図が分かったのか迂闊に声に出さないでくれた。「生きているって分かっただけで十分です。有難う、ボーマン」「い、いえ。実際俺は馬車を走らせただけですし。あんまり役に立っていなかったですね」「ううん。こうやってボクに知らせてくれたじゃないですか。それだけで涙が出るくらい嬉しかったです」「いや、そんな」 自分の気持ちを正直に打ち明けて微笑むと、頬を赤くしたボーマンは急にどもりながら視線を右へ左へと彷徨わせる。 僕は紅茶を少し口に含んで喉を潤した。 うん、妙に緊張しているのが自分でも分かる。「あのね、ボーマン。ボクのせいでお仕事首になってしまって、ごめんね。首になったって聞いてから、ずっと会って謝りたかったんだよ」「いえ、それはお気になさらないでください! 俺、姫様のせいだなんてこれっぽっちも思っていませんから!」「あーうー、ボーマン、あんまり姫様って大きな声で言わないで」 興奮して大声になったボーマンを宥めながら、一応自分の身分がばれない様に注意してくれるよう促す。 自分の失態に気付いたのか、ボーマンはしゅんとなって頭をかいている。「す、すいません。俺、血が上ると周りが見えなくなるんですよ。じゃあ、なんとお呼びしたら良いですか?」「以前外出したときは、お嬢様って呼ばれてた。だからそう呼んでくれたら、分かりやすいかも」「はい、分かりました、お嬢さま」 さて、最初の用件を切り出そうか。 僕はポケットに入れていた小さな宝石箱を、ボーマンの前にすっと差し出す。 きょとんとしているボーマンに、僕は箱の中身を説明する。「あのね、この中に指輪が入っているんだよ。これ持っていって欲しいんだ」「はい? 指輪? お、お、お嬢様が、お、お、お、俺に、指輪???」「ああ、違う違う。これは、その服の持ち主に渡して欲しいんだ。多分これから色々と物入りになるだろうし、実家にもおいそれと帰れなくなるだろうし」「あ、ああ、なるほど……」 何故かしょぼーんと肩を落とすボーマンに、僕は自分の配慮の無さに気がついた。 慌てて色々と体中を探ってみるけれど、あの指輪ほど高価そうなものは身に着けていない。 せいぜいがこのイヤリングくらいか。 それでもないよりはマシかもしれないので、慌ててイヤリングを外してボーマンの前に置いた。「ご、ごめんね、気がつかなくて。今、手持ちにこれしかないのね。こんなものでよかったら貰ってくれると嬉しいかな」 ボーマンは差し出されたイヤリングをじっと見て、片方だけ手に握り締め、もう片方を僕に返してきた。 いや、イヤリング片方だけ返されてもどうしようもないんですけど?「別に褒美が欲しくてこんな真似してた訳ではありません。僕は貴女の力になれることが嬉しいんです」「え? あ、ありがと……」「でも折角ですから一個だけ貰います。あ、あ、後の一個は、ひ、ひめ、あ、いや、お嬢様が大事にしてくれたら嬉しいなぁと思ったりするんですが、どうでしょうか?」 茹で上がったように真っ赤な顔をしているボーマン。 案外ロマンチストなところがある奴だな、と少し微笑ましく思う。 僕も中学生のころは好きな女の子に告白するときは、こんな感じに茹で上がっていたんだろうなぁ。「分かりました。じゃあ、もう半分は私が大事に持っておきますね。あとそちらの指輪もきちんとあの人に渡してください」「それはもちろんです」「それともう一つ、あの人に伝言をお願いしたいのです」「はい、なんでしょうか」 緊張で上手く呂律が回らなくて、僕は少しお茶を飲んで心を落ち着かせる。 こんな嫌な伝言をボーマンに頼むのは凄く気が引けるんだけれど、でもやっぱりこれだけはちゃんと言っておかないと駄目だから。 どんなに嫌われても、それが僕の責任だと思うから。「あのね、その指輪を渡すときに、私がごめんなさいって謝っていたって伝えて欲しいんです。あと、もう王都には近づかないほうがいいって事も。その指輪を売れば、多分10年くらいは遊んで暮らせるお金になるはずだから、どこか長閑な町でも見つけて静かに暮らして欲しいって」「……」「本当はいろんな問題をボクが解決できたら良いんだろうけど、正直ボクにはどうしていいのかも分からない。だから、一番いいのはボクに二度と近づかないことだと思うから。だから、さよなら、だねって」 ボーマンはじっと自分の前に置かれたコーヒーを睨みながら、静かに肩を震わせている。 うん、多分僕の言い分に腹を立てているんだろう。 あんまりな僕の話に、さらにそれを僕が直接言わずに他人に言わせるという卑劣振り。 ボーマンは一本気なところがあるから、こんな卑怯な僕に愛想を付かせて怒ってどっかにいってしまうかもしれない。 まあ、そうなればそうなったで彼を傷つけずにすむので、僕的には少しだけ気が楽になる。 僕はじっと彼が爆発するのを待つ。 でも、いつまで待ってもボーマンは怒ることも、蔑むような目で見てくるような事もしなかった。 ただ俯いたまま、僕に向かって呟いた。「分かりました。その伝言、俺が責任をもって彼女に届けておきます」「あ、あの……」「大丈夫です。心配しないでください。貴女が精一杯考えて出した答えなのでしょう? でしたら、それは俺の判断で聞かなかったことにしていい話じゃない」「あ、ありがとう、ボーマン」 微動だにしないボーマンに少し不安を覚えるも、彼が返してくれた答えは僕が望むとおりのもの。 それについて僕が文句をいうのも可笑しいのだが、なんとなく彼の態度に違和感を覚えた。 望んだ答えなのに、ボーマンらしくない。 でもそのボーマンらしくない答えを強要していたのは、他ならぬ自分自身。 僕はいったい彼に何を望んでいたというのだろう?「あ、あとね、そのボーマンも、もうボクと関わるのは止めた方がいいと思う」「……理由をお聞きしてよろしいでしょうか?」「さっき言ったのと同じ理由。ボクに関わったら、多分、ボーマンに迷惑が掛かるから。それも命に関わるような、ね。だから友達は選ばないと、長生きできないかなって」「俺は、貴女のことを友達などとは一瞬たりとも思ったことはありません」「あ、う、うん。そうだね。ごめん」「いえ……」 気まずい雰囲気が二人の間を埋め尽くす。 ちょっとショックだったかな。 ボーマンとはお友達になっていたつもりだったんだけど。 こうもはっきりと否定されると割ときついもんだな。「貴女の気持ちや考えていることは分かりました。それでは俺は、早速その人のところへ行ってきます」「うん。ありがとう。ボーマンには色々迷惑掛けっぱなしだけどね」「いえ、お気になさらずに。それでは」 席を立つと、くるりと僕に背を向けて出て行こうとするボーマン。 終始俯いたままだったので、どんな顔をしているのか、何を考えているのかわからない。 その後姿を見て、僕は何かに急かされるように声を掛けてしまった。「ボーマン!」 彼の足がぴたりと止まるが、振り向きはしない。 僕はこの世界に来て出来た、自分だけの片思いだけれども、友達に、万感の思いをこめてさよならを告げる。「ありがとう。ボク、ミーシャやボーマンに会えて、本当に嬉しかったよ」 僕は一人、マーケット広場の中を歩いてゆく。すれ違う人々は朝市で買ったのか、いろんな果物や野菜を抱えて笑顔で歩いている。 その笑顔も朝の空気のようにとても澄んでいて、沈みがちだった僕の心はそれだけでとても洗われたように思う。 でも仲の良さ気な家族や友達連れとすれ違うと、とても切なくなる。 フェイ兄やミーシャ達と一緒に出かけた日のことが、ボーマン達と無邪気にお茶をしていたことが、本当に楽しい思い出として頭の中にあるから涙が出そうになるのだ。 どうしてこんな風になったんだろうか。 繰り返し繰り返し考えたその問に、やっぱり僕は答えを見つけられない。 僕はただ皆と一緒に笑っていたかっただけなのに。 目尻に浮かんできた涙をそっと袖に含ませて、僕は空を見上げた。 こうすれば涙も零れないんじゃないかと思って。「お姉ちゃん、どうしたの?」 視線を下げると、5歳くらいの綺麗な金髪の可愛い女の子が手に赤いりんごの様な果物を持って、不思議そうに僕を見ていた。 なんとか自然に見える笑顔を作り、僕は木箱から降りて女の子の前にしゃがむ。「何かご用かな?」「ううん。なんかお姉ちゃん泣いてるみたいだったから、どうしたのかなって」「あ、あはは。みっともないところ見られちゃったね」「あのね、これあげる」 女の子は手に持っていた果物を僕に差し出して、頬を赤くしながらはにかんでいた。 一瞬どうしてそうなるのか分からなくてぼんやりしていたら、女の子が僕の胸に果物を押し付けて来た。 仕方なくそれを受け取ると、女の子は嬉しそうに笑いながら一歩後ろに下がる。「あのね、フレンダも泣き虫なんだけど、これ食べたら元気になるわけ。だからお姉ちゃんもこれ食べて元気になってね?」「あ……」 小さな女の子の何の打算も無い優しさに、僕はありがとうの言葉すら口から出すことが出来なかった。 ただぎゅっと果物を胸に抱いて俯いてしまう。 声を出したら、前を向いたら、色々と駄目になる気がして、ただ僕は漏れ落ちる嗚咽を堪えるのに必死だった。 そんな僕の背中を、小さな手がゆっくりとぎこちなく撫でてくれている。「ご、ごめんね。お姉ちゃん、みっともないよね」「ううん、フレンダも良く泣くから。それでね、いつもこんな風にお姉ちゃんが撫でてくれるの」「そっか。優しいお姉ちゃんだね」「うん。怖いけど大好き!」 僕は涙でくしゃくしゃになった顔を袖で拭いながら、もう片方の手で女の子の頭を撫でてあげる。 往来で号泣とかありえないとは思うものの、この不意打ちはなんか効いた。 道の向こうで女の子の両親と思しき人達がこっちをみて微笑んでいる。 恥ずかしかったけど、会釈をしてから女の子を親元へと送り出す。「ほら、お母さん達が待ってるよ? もう行かなきゃね」「うん。お姉ちゃんも泣いてばっかりいたら、おなかが痛くなるワケよ。だからもう泣いちゃ駄目だよ?」「うん、元気でた。これ、ありがとうね」「うん。バイバイ、お姉ちゃん」 女の子が両親の元へ走って戻っていくのを、僕は泣きはらした笑顔で見送る。 それがとても羨ましくて、切なくて、だからまた目尻から熱いものが落ちていった。