ミーシャ失踪から既に1週間が経とうとしている。 スワジクは食事に手をつけず、半分断食の様な毎日が続いていた。 彼女が好んで食べていたものや果物、あるいは彼女が作っていたお菓子など、手を変え品を変えて出してみるが駄目なのだ。 日に日に痩せ細っていく彼女の頬を見て不憫に思っても、私にはそれをどうする事も出来ない。 むしろ色々世話を焼くことで、余計に彼女に精神的な負担を強いているような気がするのだ。 無論スワジクが何か言ったわけではない。 が、こちらの期待に答えようと食べ物を口にしては吐くという事を何度も繰り返していれば、いやでも自分達のしている事が負担になっているのだと気付かざるを得なかった。 だからといって食事を出さないわけには行かないし、彼女を悲しませたまま過ごさせて良いわけではない。 そんな終わりの無い葛藤に苛まれながら、私はいつものように朝御飯を乗せたワゴンをスヴィータから受け取って部屋に入る。「やあ、おはよう、スワジク」「おはようございます、フェイ兄様」「今日の気分はどうかな?」「ええ、いつもより良いと思います」 いつもと同じ掛け声をすると、ここ数日とは少し違った反応が返ってきた。 私は不意を付かれたせいで、窓際に座ってこちらに微笑みかけている少女を呆然と見返すことしか出来ない。 スワジクは固まってる私を見て、笑いながら立ち上がってこちらへと歩いてくる。 少し足元が覚束ないようだが、それでもしっかりと自分で行動しているのだ。 この1週間、誰が何を言ってもオウム返しの人形のようだった彼女が、今久しぶりに自分の気持ちが篭った言葉で返事をしてくれた。 私はその事実に少しだけ目頭が熱くなる。「そ、そうかい。それは良かった。今日は何を食べたい?」「えっと、あんまりまだ食べれそうには無いですけど、パンとミルク、それにサラダを少しいただきますね」「分かった。直ぐに用意しよう」 そういってワゴンの上に載っているミルクのピッチャーに伸ばした私の手を、スワジクがそっと掴みにきた。 ひんやりとしたその手の感触に、私は少し驚いて彼女に振り向く。 スワジクはゆっくりと頭を振りながら、私の手を押し返す。「フェイ兄様に甘えるのも、今日までですよ。食事の準備くらいは自分で出来ますから」「あ、いや、しかし」「ワゴンをもう少しテーブルの傍に置いてもらえれば、あとは自分で食べたいものを選んで取りますから。フェイ兄様も自分の好きなものを選んで食べてくださいね」「あ、ああ、分かった」 以前の様な明るい雰囲気に、私は正直戸惑うしかなく彼女の言いなりに席に着いた。 鼻歌交じりに朝食の準備をしているスワジクを見て、その急変振りの原因について色々考えてみるが思い当たることは何も無い。 一体何が彼女をここまで変えたのか。 悪い方向に突き抜けてしまって、以前の『蛮行姫』に戻ろうとしているのだろうか? それにしては表情はさっぱりとしていて、蛮行姫だった時の薄暗い影のようなものは感じない。 じゃあ、彼女を取り巻く環境なり事件が解決した? それもありえない。 少なくとも昨日と今日で、スワジクの周囲において変わったことなど何一つ無い。 彼女自身の変化を除いては、だか。 自分で作ったパン粥を美味しそうに口にしている彼女を見て、私は一人混乱していた。 私の執務室の中、私が急遽呼び寄せた面々が揃う。 レオにヴィヴィオ、センドリックにドクター・グェロだ。 集まった面々を見渡しながら、私は今朝のスワジクの様子を彼らに告げた。 そして、昨日彼女に変わったことが無かったか尋ねる。「私の方では、特に何か外部に動きがあったという報告は受けておりません」「私もライラから何の報告もありません。いつもと変わらぬ様子だったはずです」「昨晩は私が直接姫殿下の寝室周りの警戒に当たっていましたが、いつもと同じでとても静かな夜でした」 やはりスワジクの周囲の変化は見られないようだ。 私はドクターを見て、発言を促す。 精神を急激に病んだという可能性もあるのだから、医師の見解も押さえておくべきだろう。「こちらに伺う前に、姫様の健康診断をしに行ってまいりました」「で、どうだ。先日ドクターはスワジクが心を病みつつあると言っていた、それが悪化したのだろうか?」「いえ、それはありません。受け答えもしっかりとなさっていて、目にも力がありました。心の病という点では、もう心配は要らぬかもしれません」「病状は改善したのだな?」「依然栄養状態はよろしくないようですが、今朝は自分から食事を少しとはいえ採られたのであれば、そちらの問題も時間が解決してくれましょう」「ドクター、彼女が回復した原因というのは一体なんだと思うか」「一般的に言えば、心を抑圧していた問題が解決された、と見るべきでしょうな」「何一つ彼女を取り巻く環境は変わっていないのにか?」「心の開放と現実の環境の変化というものは、必ずしも一致するとは限りません。状況は変わらなくても、考え方を変えるだけで気の病というものは治ったりするものです」「では、スワジクがミーシャの死について割り切れたということか?」「あるいは、そうかもしれませぬ。今日のところはそこまで突っ込んだ問診をしたわけではありませんので、確実にそうとは言い切れませんが」「そうか、ありがとう」 つまりはミーシャの死に対する彼女の気持ちの整理が付いた、ということだろうか。 それにしても、そんな一晩で急にころっと気持ちを切り替えられるものなのかと不思議に思う。 自分ならどうだろう。 もし今のスワジクが暗殺されたとして、ある日突然綺麗さっぱりと忘れ去ることが出来るか? 一生懸命想像してみるも実感が湧かず、そんな事になったらきっと普通ではいられないのではないかと漠然と感じるくらいが関の山。 貧困な自分の想像力にため息を思わずついてしまう。 さて、結局集まってもらったものの有用な情報も意見も無かった。いつまでもこうしていても埒が明かない。 とりあえずは彼女の様子を見守るくらいしか、今の私に出来ることは無い。 私は皆を下がらせてから、溜まっている日常業務に取り掛かることにした。 私たちが頭を悩ませている頃、スワジクの寝室では彼女が一人窓の外をみて涙を流しながら笑っていたのだが、神の身でもない私たちには知る由もなかった。 さらにその同時刻、とある集合住宅の屋根の上ではひとりの変態メイド赤リボン騎士が乱闘騒ぎを起こしていたりするのだが、それも人の身である私たちには知る術は無い。 ここ数日決まって朝のこの時間に、メイド騎士ボーマンは私の部屋の窓から良く見える屋根に上っては僕を笑わせてくれる。 多分本人にはそのつもりが無いのかもしれないけれど、……いや、つもりが無いならあんな馬鹿っぽいリボンなんか付けてこないか。 ていうか、なんで毎日屋根に上ってくるのかな? 変な趣味にでも目覚めたの? 今日も今日とて、集合住宅の住民に袋叩きにあっている変態メイド騎士ボーマン。 窓枠に頬杖を突いて、彼の悪戦苦闘ぶり見守る僕。 こっちから何度か手を振ってみたこともあるけれど、乱闘に忙しいのか気付いてくれたためしがない。 僕が気付いてるって分かったら、きっとボーマンもあんな馬鹿なことしなくていいのに。 それにあんまり僕に付きまとっていると、きっと良いことなんて何も起こらない。 むしろ外の人を疎む人達から目を付けられるだけだ。 早くあの馬鹿騒ぎを止めないといけないんだろうけど、あの姿をみると真面目に彼の身を案じていることすら出来ない。 なんていうか全身の力というか、やる気が抜ける。「とはいうものの早くアレを止めないと、今度はボーマンの身に何かあっても困るしねぇ」 あ、ボーマンが屋根から蹴落とされたのが見えた。 うーん、あの高さから落ちて大丈夫なんだろうか? 少し心配になったが、屋根から下を指差して高笑いしている住人達を見る限りでは、多分そんな深刻な事態にはなっていないんだろう。 頑丈だな、ボーマン。 なんていうか、僕が彼を心配してあげる事もないんじゃないだろうかと思ってしまう。 ま、冗談はさて置き、本当にボーマンのアレをなんとかやめさせないと駄目だ。 その為には、やっぱり外に出て行かないと駄目か。 さて、どうやって外に出よう? 抜け出すなら夜だけど、ボーマンは朝にいつもの屋根にやって来る。 夜のうちに抜け出してあの場所の近くで待つのが、一番賢いやり方なんだろうけど。 でも朝はフェイ兄がいつも心配してやって来るから、朝に部屋に居ないというのも問題がありそうだ。 あとは朝食後部屋を抜け出して、そのまま外へと逃げ出すくらいしか方法を思いつけない。「こう、なんか秘密の通路とかがあって、そこからすっと逃げ出せたりしたらいいのになぁ」 そういえば僕が生まれる前のアニメには、リ○ンの騎士とかいう牢獄に囚われたお姫様が活躍する話なんかもあったなぁと思い出す。 まあ内容はよく知らないんだけどね。 カ○オストロ伯爵の屋敷にだっていろいろ仕掛けがあったんだから、本物の王宮にあるこの部屋にもあって当然じゃなかろうか? そう思って部屋の壁や装飾品、あるいは床の敷物の下など手当たり次第に調べて回る。 半日ほどいろいろと調べていたけれど、なんにも見つからなかった。 よく考えたら僕程度の人間に見つけられるくらいなら、そんなの秘密の通路とはいえないんじゃないかな。 ただでさえ体力が落ちているのに無駄な労力を使って、フルマラソンを走りきった後の様な状態になっている僕。 結局王宮脱走計画は、朝食後さりげなく城から脱出するということにした。 次の日の朝、僕はフェイ兄との朝食を終えて直ぐ、いつぞやの変装用令嬢衣装を引っ張り出してきた。 王宮内で用意されているドレスは、やっぱり外に出て行くには少し派手すぎる。 姿見でおかしなところが無いかちゃんとチェックして、僕は静かに寝室のドアに身を寄せた。 耳をドアに当てて外の音を聞くが、これといって気になるような音は聞こえない。 そっとドアを少しだけ引いて、頭だけそろりと廊下に出してみた。 右を見て、左を見る。「うん、誰も居ない」 今日の朝食はいつもより早めに持ってきてもらったので、王宮内で活動している人はまだそれほど多くは無い。 抜き足、差し足、忍び足。 そういえばいつぞやも、こんなスニーキングな事してたような気がするなぁ。 階段までくると、下からライラとスヴィータが何かを話しながら上がってくるのが見える。 僕はすかさず階段横にある部屋の中に身を潜め、スヴィータ達が行過ぎるのをじっと待つ。 徐々に声が大きくなって、そして遠ざかってゆく。 そっと外を覗いてみると、丁度廊下の角を二人が曲がって消えてゆく所だった。 もう一度階段を覗いて、誰も上がってこないことを確認する。 周りに細心の注意を払いながら、人気の無いロビーへと出た。 「ふう、ここを過ぎて外に出れば、この格好ならある程度ごまかしは利くかな?」 僕は足早にロビーを駆け抜け、王宮の内広場へと出る。 流石にここまで来れば、いくつか人影のあることを確認できた。 もっとも彼らは侍女や下働きの下男下女達で、朝の支度で忙しそうに動き回っている。 誰もこちらを不審がって見ていないようなので、僕はそそくさと正門へと向かって堂々と歩いてゆく。 こういうのって下手にオドオドした方が不審がられるものなのだ。 という何の根拠も無い自信を盾に、僕は正門の衛士の傍を通り抜ける。「お早いお出かけですね?」「ええ、ちょっと朝市場に姫様の果物を買いに」 衛士の一人が僕を見て、笑顔でそう声を掛けてくる。 一瞬焦るが、なるべく平静を保ちつつ、軽くお嬢様っぽく会釈をしながら返答を返す。 これで騙されてくれたらいいんだけれど、と祈りつつあくまで慌てず騒がず場外を目指す。 そんな僕の内心には気付かずに、衛士は笑顔でお気をつけてと送り出してくれた。 振り返りたくなる衝動を抑えながら、僕は跳ね橋を渡って町の中に紛れ込んだところでようやく緊張を解いた。「ふはー、心臓に悪いや。とはいうものの、上手く城外へ出れたな。あとはボーマンがやって来る前にあの場所に先回りしておかなきゃ」 僕は町の北側に向かって、よく知らない町の中へ踏み込んでいった。 ボーマンに会って、もう僕に二度と関わらないようにと言い聞かせるために。