昨日、私が傍仕えをしている姫が城壁より転落して湖に落ち、溺れたそうだ。 本当に私が非番のときでよかったと心の底から安堵する。 あの姫のことだ、目を覚ましたらそれこそ侍女の3人や4人は首を切られるだろう。 物理的な意味で。 そんな命の心配もあって主だった侍女達は泣き崩れるばかりでまったく役に立たず、とりあえず責任追及されないであろう私が矢面に立たされた。「まったく、とばっちりで私の首が飛んだらどう責任を取ってくれるのかしら」 ぶつぶつと同僚たちへの文句を小声で言いながら、私は北の塔舎の中を歩く。 ここはあの蛮行姫が領主様に強請って立てた小宮殿。 帝都にあるヴェルエルエ宮殿を模した造りになっていて、外装も内装もこれでもかというくらい華美に装飾されている。 私の実家の年貢租銭がこんなものに費やされているのかと思うと、正直唾を吐きかけたいという衝動に駆られる。 まあそんな衝動にも、もう慣れたのだけれど。 スワジク様の寝室が見えてくると、丁度扉の前に目を真っ赤にした同僚が立っていた。 彼女の名はアニス。 昨日姫様についていた侍女の一人であり、私の親友だ。 私が近づくと、くすんと鼻を鳴らしながら眼鏡を押し上げて目尻の涙なんか拭いたりする。 うん、なんか凄く小動物っぽくって守ってあげたい。 思わず彼女の短い赤毛をくしゃくしゃと弄ってしまう。「ごめんね、ミーシャちゃん。私、もっとしっかりしなきゃって思うんだけど……」「いいのよ、アニス。あの姫の扱いには慣れてるし大丈夫だとは思う。で、今はまだ起きてない?」「ううん、さっき起きたみたい。なんかごそごそと音がしてたし」「……で、何してんの?」「待ってた、ミーシャちゃんが来るの」 恐る恐るといった風に私を上目遣いでみるアニス。 思わず砂糖を吐いてしまうほどの破壊力だが、目の前にある危機のために今いち萌えきれない。 目が覚めてすぐに朝の支度を始めないと、あの姫は暴れるのだ。 これはコブや痣の一つも覚悟しないといけないか。 深いため息をついて私はアニスを横へ押しやり、静かにドアをノックし蛮行姫の言葉を待つ。 だがさっきまでごそごそと動いていた気配がなくなり、部屋の中がしんと静まりかえる。 怒声を覚悟していただけに、少し拍子抜けである。 しばらく待っても状況に変化が見られない。 仕方が無いのでもう一度ノックをする。「えっと、どうぞ?」 私は自分の耳を疑った。 ノックの返事は罵声ではなく、何かに脅えるような可憐な少女の声なのだ。 これはまったくの想定外。 がしかし、ここで泡を食って姫の不興を買うわけには行かない。 ここで取り乱そうものなら、それこそ24時間調教フルコースが待っている。 まあ、殺されないだけマシだろうけども。 気を取り直して、私はそっとドアノブを回して扉を押し開く。「失礼いたします、姫様」 丁寧にお辞儀をしてから部屋へと1歩進む。 目の前にあるのは真っ白な白亜の部屋に鎮座するキングサイズのベッド。 そのベッドの上に、姫が蹲りながら、こっちをじっと凝視していた。 なんというか、花の蜜に誘われる蜂の様な気分で目の前の少女に引き寄せられる。 なんだろうこの姫、こんなに可愛かったっけ? そんな馬鹿なことを考えていたからだろうか、私の悪い癖が出てしまった。 まるでジゴロのように少女を見つめ、頬を優しく撫でながら顎をついっと持ち上げる。 その間、私の瞳は目の前の少女に釘付けだ。 ふるふると揺れる睫毛の重さに耐えかねたのか、ゆっくりと少女の瞼が下ろされる。 頬はうっすらと桃色に色付き、軽く開かれた瑞々しい唇からは甘い吐息が吐き出された。 何これ、喰っちゃっていいわけ? そんな駄目思考に陥っていた私を、親友のアニスが扉の向こうから必死に声を掛けて制止してくれた。「ミーシャちゃん、正気に戻って! それ色んな意味で駄目だって!!」 その声に正気を取り戻した私は、今更ながら自分が仕出かそうとした事に恐怖を覚えた。 この私が蛮行姫に心を奪われるなんて、ありえない! すっと背筋を正して、姫から1歩距離を置く。 目を閉じたままじっとしていた姫を見下ろすと、きゅっとシーツを掴んで震えている手が見えた。 くっ、どんだけ可愛いの。 蛮行姫だからって侮っていたわ。 そうよね、黙っていればこの姫は超美少女なのだ。 だが、ここで本能に流されたら試合終了だ、私の人生的に。 また吹き飛びそうになる理性をかろうじて繋ぎ止めながら、深く深呼吸をする。 目の前の少女の口から漏れる微かな失望の声にも、もうたじろがない。「あっ……」「? なんでしょうか、姫様」「い、いえ、何でもありません」 どこか残念そうな顔をしてこちらを見る姫。 何の罠なのだ。 侍女をからかうもしくは陥れる新しい方法でも開発したのか、この姫は。 一時は危うかったが、もう騙されません。「そうですか。大分お加減も良くなられたご様子ですが、念のためお医者様をお呼び致します。しばらくそのままでお待ちくださいませ」 そういって私は上気した顔を隠す意味でも、すばやく姫に背を向けてこの部屋を後にした。 廊下に出ると、ぷぅと頬を膨らませたアニスが待っていた。「ミーシャちゃん、浮気はイヤです。ううん、浮気はもうミーシャちゃんだから仕方ないと諦めたけど、あの人とだけは絶対にイヤ」「あ、あはは。馬鹿だなぁ、アニスは。姫がなんか新しい嫌がらせの方法を開発したみたいだから、ちょっと試してただけじゃまいか」「何言ってるのですか。ミーシャちゃん、頬が赤いです」「いやいやいや、これはなんというか恐怖に耐えた結果といいますか」「うそばっかり」 拗ねる親友の機嫌を取りながら、私はドクター・グェロの控え室へと向かったのだった。