第五話 大きすぎる牙
―――34年前。
「おぎゃあ!おぎゃあ!」
響き渡る赤子の泣き声を聞いて、ロードキア国王シャールはがばっとその身を起こした。
まるで水晶の様だとも称えられる白亜の城。燭台が煌々灯る深夜の城内に、赤子の声が響く様はどこか不気味でもある。
「生まれたか!」
王妃を溺愛することで知られるシャーヒルは、妻の出産が行われていた医室の扉に詰め寄る。
王妃は生まれつき身体が弱く、難産が予想されていた。
王は不安を抑えきれぬように荒々しく扉を叩く。
しばらくして、ばたん、と扉が開いた。
侍女の一人が顔を真っ青にしてそこに立っていた。
「おお、どうだ?妃は?無事か?子どもは?」
侍女の表情に不吉なものを感じたのか。シャーヒルは殊更に明るくそう言った。だが、侍女は言いづらそうに、しかしはっきりと聞こえる声でこう言った。
「お妃様はお隠れになられました」
シャーヒルはその言葉を聞いた瞬簡に我を失い、気が付けば侍女を殴り倒していた。静まり返った城の中で、いつまでも赤子の泣く声だけが木霊していた。
生まれたのは男児であった。
常の赤子より一回りほども大きい健康な男児。王の跡継ぎとして申し分ない。誰もがそう思ったが、シャーヒルだけはこの子どもを疎んだ。
彼にとって、赤子は愛しい妻を殺した憎き怪物であったのである。
ティガリウス、それが赤子に与えられた名前であった。その名には「大きすぎる牙」という意味の皮肉染みた古代語が使われていた。
王は次第に一人の側室にかまけ、政治を疎かにするようになった。すでに貴族の利権争いで腐敗しきっていた国政ではあるが、王の放蕩がこれを決定付ける。
これより王国は坂道を転がるように衰退していく。
「あの忌まわしい子どもを放逐されればよろしいのだわ」
閨で側室にそう囁かれ、シャーヒルは暗黒に心を決めた。
それから数日後、亡き王妃の生んだ第一子が、先天的な異常で王位を継承できないと言う報せが国中に触れだされた。
実際には、赤子は健康そのものであったが、その事は国の重臣以外には伏せられる。
ところでその頃、王国周辺の小さな国々が王国との国境で小競り合いを繰り返していた。人々は不吉な報せと戦乱の予感に、ただただ嵐が過ぎるのを待つ雲雀のように震えていた。
こうしてティガリウスは王位継承権を奪われいつの間にか表舞台から姿を消し、王は側室を王妃として迎え子を為したので、国民はいよいよ不審がるのだった。
さて、ティガリウスと名づけられた子はどうなったのか。王は王妃の面影を残す赤子を殺すのは流石に忍びなかったのか、我が子を当時ロードキア王国の辺境であったウーティン領に半ば押し付ける様に託した。
ウーティン公は温和で公平な性格で知られ、赤子を不憫に思ってこの命令を受け入れた。
「その子がそうなの?」
国王の密使から受け取った赤子を自ら抱き上げる公に夫人がにこやかに話し掛ける。すでに三人の子どもを持つウーティン公は慣れた手つきで赤子をあやしていた。
城ではあんなに泣いていた赤子は、すやすやと寝息を立てている。
「そう、今日から我々の子だ。願わくばこの子が大きくなる頃には政情が落ち着いていればいいのだが」
ウーティン公の願いはしかし冷徹な世界の理には届かず、各国の情勢は悪化の一途を辿る。
運命と言うべきか偶然と言うべきか。この年、小国の一つであったイストワルが決起し、隣国を併合する。
イストワル帝国の、これが始まりであった。
さて、義理の父母と三人の義兄姉とともに育てられたティガリウスは、勉学にも乗馬にもそして剣においても並ならぬ才能を発揮したが、どこか遠慮がちで内気な青年に成長する。
自分の出生について父母から聞いていたティガリウスは、心のどこかで彼らに引け目を持っていたのかもしれない。
だが、そんな性格とは裏腹に、その肉体は巨体に育ち武勇の才に恵まれ、16の時にはすでに領内でティガリウスに敵うものはいなくなっていた。
「父上」
「ん?どうした、ティガリウス?」
そんなある日、青年に成長したティガリウスはウーティン公に話し掛ける。公は庭に設えられた庭園の薔薇を物憂げに剪定していた。公がここ数日、難問に頭を悩ませていたことを、ティガリウスは見切っていた。
勘が鋭い子どもだった。
父の性格を受け継ぎどこか暢気な他の兄姉とちがって、ティガリウスは懐に鋭いナイフを隠し持つような鋭利な輝きを持っていた。
それでも公は義息を愛していた。
だからこそ、彼は悩んでいたのである。
「今まで大変にお世話になりました。数日の後、この領を出ようと思います」
「ティガリウス……お前!?」
「私がいなくなれば、父上は心置きなく帝国と結ぶことができましょう。もともとここは私などがいるべきところではなかった。これまでのご恩は一生涯忘れることはありません」
「ガリュウ…」
「母上」
いつの間にか、彼の義母が後ろからティガリウスを抱きしめていた。
「何を言います!お前は私たちの子どもです!帝国が何と言おうと、あなたを手放すなど…」
「母上。領民のことを第一にお考えください。このままでは辺境のこの国は王国に切り捨てられます。戦略的要地ではないからです。ですが帝国に寝がえれば、帝国にとっては前線の重要な補給基地となります。無体な扱いを受けることはないでしょう」
「お前、そこまで考えて…」
「機を読むことは父上から教わったことです」
ウーティン公は温和だが暗愚な領主ではなかった。急速に力をつける帝国から領民を守る方法がティガリウスが言う方法しかないことに気付いていた。
しかし、それにはロードキアと袂を別つ必要がある。継承権を抹殺されたとは言え王国の第一子を息子に持つことが帝国に知れれば、帝国はウーティンの言葉を疑わざるを得ないだろう。
「ここまで育てていただき、そして十分に学ばさせていただきました。落ち着いたら手紙を書きます。父上、これをご恩返しとする不徳をお許し下さい。母上、どうか涙を拭いてください」
「ガリュウ…」
「ありがとう。さようなら」
3日後、目を真っ赤に泣きはらした義母を振り切り、ティガリウスはウーティン領を出奔した。そして苦難の末、傭兵として大成することとなる。
―――そして、二ヶ月前。
「傭兵、ティガリウス殿、参られました」
「そうか。通してくれ」
「はっ」
「あと、人払いを」
「はぁ?」
「彼と私を、二人きりにしてくれ」
ティガリウスは城からの再三の召集を受け、実に34年ぶりに己が生まれた王城へと参内していた。
王はすでに代替わりし、先代の王は病死している。今の王は彼の息子であり、ティガリウスにとっては三つほど年が離れた義理の弟であった。
「よく来てくれた。正直、来てはくれないものと思っていたよ」
若い王はティガリウスにきさくに話し掛ける。傭兵は肩を竦めて問いを返す。
「いいんですか?俺みたいな傭兵と二人きりになって。あなたの首をイストワルに差し出すかもしれない」
「それもいいかもな。だが、貴公はそんなことはしない。そんな気がするんだ。それに、折角の再会なのだ。兄弟水入らずでもいいだろう?」
「…ご存知であられたか」
吐き出すようなティガリウスの言葉に、王はにこりと笑って見せた。
「父王は貴公の母を失くしてから、ずっと気が触れたようになっていたのだ。政策は出鱈目で思いつきに過ぎず、諫める家臣があれば容赦なく処断した。結果回りに残ったのは政治などかけらも知らぬ母と、おべっかを使うしか能がない無能な貴族のみ。
だが、父は病で亡くなる前のほんの数日だけ、正気に戻られたようだった。寝台に寄り添う私に、貴公のことを話してくれた」
ミュートスという名のこの王は、父王が死した後自らの母親を孤塔に幽閉したことで悪名高い。
他の兄弟とも争いが絶えず、王政が安定しない一員と言われている。だが、実際には公平にものを見る稀有なる王であった。
滅び行く王国にいるのでなければ、名君として名を成したのかもしれなかった。
「父王は後悔しておられた」
「…最早、意味を持たぬことです」
「そうだな…」
父を同じくする兄弟の邂逅は、暖かな温度を持つものではなかった。一人は傭兵であり、一人は国王。
立場も違えば考え方も違うし、共通する話題などないに等しい。
やがて訪れた沈黙に苦笑し、ミュートスは「傭兵ティガリウス」と改めてその大男を呼称した。
「はい」
「貴公を”雷神”と呼ばれる第一級の傭兵と見込んで依頼したい。受けてくれるだろうか」
「…内容と、そして報酬によります」
「報酬は、私の私財が許す限り望むだけのものを与えよう。内容と言うのは他でもない。我が子のうちの一人、サラフィーナのことだ。娘を、帝国の手が及ばぬ所まで連れて行って欲しい。我が王家が受ける報いに、幼い娘を巻き込むことは忍びない」
「娘」
「エリーサ」
王がそう呼ばうと、奥の扉がガチャリと開き、小さな少女の手を引いた若く美しい女性が現れた。
「妻と、娘だ。エリーサ。ここにいるのがかの傭兵ティガリウスだ。サラフィーナを託そうと思う」
「左様でございますか。ティガリウス様」
エリーサはサラフィーナの手を引いたままティガリウスの前まで来て、そしてあろうことかその場に跪いた。
「陛下!」
ティガリウスが驚いて制止しようとしたが、王までもがそれにならって深々と頭を下げる。
「どうか。どうかこの子をお守り下さい。親の勝手とは重々承知しております。ですが、どうか…」
少女は母の常ならぬ仕草に不安そうにおろおろしている。青い綺麗な瞳は今にも泣きそうだ。
ティガリウスはそっとその小さな頭に手を置いて、不器用に髪を撫でる。少女は、きょとんとして大きな男を見上げた。
「時間が無い。10日後にはこの子を連れて国を出る。それまで別れを惜しむといい」
「ティガリウス!では…」
「10日後だ。また来る」
ティガリウスはそう言って三人に背を向ける。父と母でもある王と王妃は、礼を口にしながら我が子をひしと抱きしめた。