本当に美しいカーブというのは打者から見て、止まって見えるカーブだと思う。私がそういう結論に思い立ったのは、恋愛にも人間関係にも嫌気が差し始めた二年の夏休みのことだった。テレビでたまたま見つけた甲子園の中継でそれはあった。
投手がいる。変化球を多投する軟投派投手だ。ストレートに球威はなく、あるのはコントロールくらい。彼の投球フォームはお世辞にも綺麗とは言えず、ストレートとそうでないときに差が出来てしまっている。世間一般では駄目なタイプに分類される投手だ。
けれど、どうしてだか彼の投げるカーブだけは打者が空振る。投げてくるとフォームの違いで分かっているはずなのに、球速も80キロを割っているはずなのに打者は打てない。
気がつけば私はテレビの録画ボタンを押していた。そして教本で見たカーブの握りをしたまま、一日をそうやって過ごしたのだ。
蝉が五月蠅いとある夏の日。それはある意味でゆーくんとの出会いには及ばないけれど、とても重要な出会いだった。
変化球というのは150キロ超のストレートを軽々と打ち返してしまうモンスターから逃げるために生まれたボールだ。祐樹は少なくともそう考えている。ルールで示されたストライクゾーンに真っ直ぐ飛んでいくボールなど打者から見れば児戯に等しい。容易に軌道を予測し、恐怖を感じさせるスイングでスタンドに白球をたたき込む。
投手からすればまさに悪夢であり、彼らの存続意義に繋がりかねない問題だ。だから変化球が生まれた。リリースの作法、編み目への握りを工夫し、空気抵抗を武器にボールを曲げる。
あるときは横に滑るスライダー。またある時はバットの下をくぐり抜けていくフォーク。
古今東西あらゆる変化球が生み出され、打者を手玉にとり、
そして研究を重ねた打者がそれを打ち返す。
すると投手は新しい変化球を模索する。
新しい変化球は魔球と呼ばれ打者から畏怖される。
もう何十年も続くこの世界の規律にプレイヤーは翻弄され続けるのだ。
「次スライダー!」
防具を身につけ、ミットを構えた弥太郎が叫ぶ。祐樹は一つ頷き、中学になって解放したオーバースローで玉を投じた。リリースの瞬間、左手中指に力を入れると、ちょうどバッターボックスの上でボールが右打者の方向に滑った。
「へえ、曲がりだけなら僕より上手いね。投げ方を教えてよ」
投げ終わった後、マウンドの後ろで見守っていた健二が近づいてくる。彼はいつも通りの顔のパーツを線にした笑顔を浮かべ、ライバルと称する祐樹を讃えていた。
「まあこれとチェンジアップくらいしか投げられないけどな。それにピッチャーはしないって決めてるから投げれても意味はないよ」
打者としての至上の到達目標を持つ祐樹は、投手としての野球人生に微塵の興味も抱いていない。目の前で祐樹のスライダーの握りを真似している健二との対戦こそが彼の悲願だからだ。
いや、対戦というだけならもうとうの昔に叶っている。彼らは小学生のリトルリーグで出会い、エースと四番として火花を散らした。軍配は祐樹に上がったが、あれから同じ中学の野球部に所属する二人は練習という名の対戦を続けている。戦績は祐樹が未だに圧勝しているが。
祐樹が求めるのはそういった対戦ではない。日本シリーズの、決着を付けることなく散ってしまったあの打席に立つことが彼の願いだ。ある意味で押しつけ願望にも近いが、祐樹は己の努力と目標の意義を疑ったことはない。
「で、いつもならここで加奈子にチェンジなんだけど何処行ったんだあいつ?」
キャッチャーマスクを脱いだ弥太郎がマウンドに登ってきた。そう、部活が終了した日曜日の夕方。いつもの四人組は自主トレというお題目で練習を続けているのだ。普段なら祐樹の後にピッチング練習をする加奈子の姿が見えるはずだが今日は影も形もない。
「あー、彼女なら一人で練習するとか言って今日は自宅だよ。試したいことがあるんだって」
弥太郎の疑問に答えたのは意外にも健二だった。普段からは祐樹、弥太郎に比べて加奈子と交流のなさそうな彼だが、ここ最近は同じ投手のよしみでよく雑談をするらしい。
「ふーん。なら今日は三人で実践練習するか。健二ピッチャー、祐樹バッター、俺キャッチャーな」
防具を着け直し、のそのそと持ち場に戻っていく弥太郎を祐樹と健二は並んで見つめていた。ひぐらしの音と何処か遠くから聞こえてくる子供たちの声が響く夏の夕暮れだ。
診療所で出される飲み物は一年前のあの日から麦茶と決まっている。あの白昼夢のような日から祐樹は蜘蛛の巣にとらわれた蜻蛉のように、井塚の下を訪れていた。
辺りの風景が赤から濃紺に変わった頃合い、待合室で二人並んで腰掛ける。
「成る程、幼馴染みが先輩からの嫌がらせですか。大変ですね、それは」
言葉だけなら同情しているように取れるも、その口調から心底どうでもいいと言った感じで井塚は告げる。だが彼女は別に冷たい人間というわけではない。祐樹以外の人間に対してひどく無頓着なのだ。
一年前のあの日から、彼女が前世の記憶について語ることはない。もう井塚の中では夢の話だと決着がついているのか、敢えて口を噤んでいるのかは祐樹には判断しかねていた。
「本来ならあなたに向く嫉妬が加奈子ちゃんに向いている。いや、もう加奈子ちゃんの実力を考えたらそうでもないのかな?」
二人して麦茶を啜って、待合室のテレビを眺める。夕方のニュースでは本日行われていた甲子園のハイライト放送が行われていた。何でも今年注目のとあるカーブピッチャー特集らしい。最初から結論は出ないとわかり切っていた話題だったのか、祐樹も井塚もそれ以上加奈子についての話題を蒸し返すことはなかった。
結局は祐樹や健二みたいに「ぐう」の音も出ないくらいに実力的に叩きのめすか、嫌がらせを繰り返す先輩が卒業するのを待つしかないのだ。
「難しいですね、人間関係。みんな生きて必死に考えているからどうしても軋轢が生まれる。私はそういうの面倒くさくてこりごりです。あなたも気をつけた方がいいですよ。私や幼馴染みはあたなが才能だけの人ではないことを知っていますが、そうは思わない人もたくさんいます。人は無いものに憧れ、そして恨む」
説教臭くなってしまいましたね、と井塚は笑ったが祐樹は一言も笑えなかった。
何故なら彼女の指摘は、前世の祐樹そのものだったからだ。彼は己の才能と運のなさを恨み、溢れる才能でプレーする人間に嫉妬していた。今は真逆の立場にこそ立っているが、いつ自分がそちら側に落ちていくのかわからない。
ふと、栄光の端に佇む絶望を見た気がした。
それは嫌に前世で見慣れていた景色だったと言うことに、祐樹は戦慄を覚えた。
ついにこの季節が来た、と部員たちは色めき合った。
苦しい合宿に炎天下の夏を乗り切った彼らが目指しているのは関東地区大会の予選だ。県内の中学でトーナメント戦を行い勝ち残ったチームが地区大会出場の権利を獲得する。ある意味で中学野球の最終到達地点がそこにはあった。
地区大会で優勝すれば次は全国、という非常に魅力的な大会だが、もちろんレギュラーメンバーには限りがある。控え含めて野手は13人、投手は5人まで登録可能だ。三年生はもちろん、一年生を除いた全ての部員がレギュラーメンバーに滑り込むべく切磋琢磨を続けてきた。
今日はそのレギュラーメンバーを定めるべく、最終テストが行われる日だった。
校時の全てを終え、ユニフォームに着替えた部員たちがグランドを走る。ある者は白球を投げ、ある者はそれを打ち返し、ある者はそれに飛びついていた。トライアウト形式の最終テストに部員は自然と力が入る。
そうした熱気にまみれた一段の中で一際異彩を放つグループがあった。エースナンバーの1を背負い、マウンドでバッターボックスを見つめる少年と、彼にサインを送り続け最善のリードを模索する少年だ。そんな彼らに相対するのは10番の背番号を身につけたやや長身の少年だった。
整った顔立ちと細い身なりからは少年の実力を窺い知ることは出来ない。だがバッテリーの配球の慎重さが彼の実力の一端を教えてくれる。失投など論外、いくらベストピッチを投げこもうともコースを数ミリずらせばスタンドに運ばれてしまうと、彼らは慎重に慎重を喫していた。
ピッチャーの少年はおのが才能である剛球を投げ込んだ。うなりを上げたストレートは中学生離れした魔球だ。だがバットを水平に構えた特徴的フォームを持つ少年はいとも簡単にそれに食らいつく。ボールはフェアゾーンぎりぎりに落ちて、少年に2ベースヒットを与えてしまった。
「はあ、ますます仕上げて来てるね、彼。今のを打たれるか」
「くっそ、最近化け物染みてるなあいつ。この前も他校との練習試合で2ホーマーだぜ。たしかアベレージ6割超えてる」
「これでも僕はここらへんの投手4冠なんだけどね。ちょっとこれはやってられないなー」
はあ、とため息をつく二人。彼らはバッターの少年、祐樹に敗北したがそれ以外では負けなしの黄金バッテリーだった。今回の地区大会予選でのレギュラーがほぼ確定している二人組である。もちろん祐樹は言わずもがなだ。
「ま、いつものことだから気にしても仕方ねえよ。ところで俺たちのお姫様はどうした?」
「ん? 佐久間さんのことかい? 彼女なら向こうでおもしろいことになってるよ」
「おもしろいこと?」
怪訝な表情を貼り付けたまま弥太郎はフリーバッティングスペースを睨んだ。そこでは上級生を相手にピッチングを続ける加奈子の姿もあった。バッターボックスでメットとグローブを外した祐樹が二人に合流する。9月になり、指すような日差しもなりを潜め始めた頃、三人は静かに仲間のピッチングを見つめた。
ストレートに球威も球速もない。
あるのは誰にも負けないコントロール。
でも女だから、非力だから、といよいよ体格差の出始めた男子プレイヤーに負けを重ねていた。
最初は大好きな男の子を追いかけるために野球を始めた。根本では今もそれは変わらないかもしれない。でも、ここ最近の苛つきは、モヤモヤは、こうして振りかぶって白球を投じたときなぜか忘れられる。
本当に不思議な感覚だった。いつもはいつ打たれるか恐怖しながら、先輩たちへの恨み辛みを込めながら投げていたのに、今は何も考えず自然と力を抜いて投げることが出来る。以前はヘナチョコと馬鹿にされていたカーブも面白いくらい抜くことが出来て三振を築くことが出来た。
加奈子は休みの殆どを、カーブの握りを続けたまま一日を過ごすことに当てていた。
それは何もやる気が起きない、何もしたくは無いという脱力感の証明でもあったが、彼女に自然な感触での握りを約束させた。
ずっとずっと連敗続きだった恋愛も野球も、一度無気力になることで全て忘れてしまいたかったのかもしれない。あれほど好きでいたのに横から幼馴染みをかっ攫われそうになる危機感、野球が上手く出来ず置いてけぼりにされてしまうと言う恐怖感、全てが彼女を力ませていたが、小さな体に宿した虚無感で全てをリセットした。
祐樹と触れあわない日々が何日も続いた。四人の練習に参加しない日々もずっと続いた。でもそれは一つの充電期間だった。
誰にも負けないなんてたいそうな決意は固められない。決して彼女は特別な存在では無い。
それでも前に進みたいから、すこしでも祐樹を好きでいたいから彼女は努力を続ける。
「指はそえるだけ!」
彼女の投じたカーブは円を描いてキャッチャーのミットに収まる。それは直球勝負を諦めた、されど不退転の意思を持ち続ける彼女の意思そのものだった。
小さく突き上げられた拳は女の子らしからぬマメが沢山出来ていた。