「ケイス殿。もう目を開けても大丈夫だ」
フォールセンに目的の場所に着いたことを知らされ、目を開けたケイスの視界に映ったのは、天井に埋め込まれた魔法陣が産み出す光球の明かりに照らされた、古い書物がずらりと並んだ背の高い書棚の壁だ。
「うむ……ずいぶんと多いな。いくつくらいあるのだ?」
「記憶しておる書棚の数からして、万はいかずとも、それに近い数はあるであろうな」
「古語か。稀少な物ばかりのようだな」
共通言語や文字が世間一般で使われるようになった暗黒時代前の書物ばかりなのか、今は使われていない書式や、使い手のいなくなった消失文字で書かれている背表紙が目立つ。
「フォールセン殿。手にとってもよいか?」
「保護魔術によって保管してある。よほどの力を込めない限りは破けもせんから構わんよ」
フォールセンの許可を受け、ケイスは手近の棚から一冊の本を抜き取る。
やけにつるつるとした表紙の手触りを確かめながら、ページを捲る。
フォールセンの言う保護魔術の効果か、少しばかり文字ににじみは見えるが、古い紙の匂いも無く、頁が朽ちる心配も無さそうだ。
ただ問題は1つ。ケイスには理解出来ない言語体系で書かれているということだ。
一部の地域では、第二言語や方言として古語の類いも使われてはいるが、一般的な物では無く、生まれの複雑さ故に出自を隠していても、ケイスもまた共通文字や言語の素となったルクセライゼンの出身。古語にはさほど馴染みは無い。
祖母からの手ほどきで、東方王国系ならかろうじて簡易な文字の判別はできるが、専門的な知識は無いので、今手に取った本のように字を崩されたり、時代様式がかなり古い物となると途端に苦労する。
中身をぺらぺらと捲って図式や絵柄をみて、かろうじて判別できる字で、中身を判断するのがやっとだ。
「ん……獣と人……使役術か違うな」
手に取った本の中身の陣や読める単語から推測し、異界から呼び寄せた魔獣や魔物を使役する為の手引き書だと判断。
目的とする物では無いが、ケイスが見たことも無い魔獣が描かれているので、稀少な情報、知識なのだろう。
魔力を捨て、肉体の枷を外したことで、自分の力が遥かに落ちていること、弱くなった事をさすがのケイスも認めざる得ない。
だからこそ、弱さを埋めるための知識が重要。
通路の前後を見渡せば、ぎっしりと本がつまった高い棚が並ぶ。
ここにはケイスが読めない、判らない、知らない知識が山のようにある。
読めない文字も多いので、この中から今欲しい知識だけを探すのは骨が折れる。それにせっかく自分の知らない知識に触れた機会なのに、何もしないのは勿体ない。
となれば単純なケイスとしてはやることは1つだけ。
「ん……面倒だな。フォールセン殿。今日の鍛錬は読書にさせてもらって良いか?」
最後までめくり終えたケイスは、次の書物を取り同じようにぱらぱらと捲っていく。
「私は構わんが、ケイス殿が剣より本をとるとは珍しいな」
「ん。少し時間が掛かりそうだからな。しかし万までいかずなら、朝までにはなんとかなるだろう。夜通し戦うのと比べれば少しは楽であろう」
「古語を理解する使用人も幾人はおるので、手伝いに回そう」
「ん? 何を手伝わせるというのだ? 私が見なくては意味が無いでは無いか」
手を止めてフォールセンを見上げたケイスは、何故そんな意味の無い事を言うのだときょとんと首をかしげる。
「ケイス殿の目当てのも書物を探し当てるのに人手があった方が早いのが道理だと思うがな」
「あぁそういう事か。なら心配は無用だ。ん~とりあえず読めない文字や判らない文章が多いが、稀少だというなら、とりあえず全てを絵として覚える事にしただけだ。いつか解読できれば力になるからな。それにこうやって追うことも目の鍛錬にもなるので一石二鳥だ」
書物の頁472枚の全てを一枚一枚ごとに絵として詳細まで覚えたケイスは、書棚に戻して次の本に取りかかる。
前だったらもっと速い速度で捲って、目で追えたので万までいかないなら、2、3時間あれば全てを記憶できたが、肉体的に大きく落ちている為に、どうしても本を捲るのにも目で追うのも落ちるので、その数倍は掛かってしまう。
やはり早く己の身体を思うがままにに操れるように戻らなければ不便でならないと、ケイスは不機嫌で眉根を寄せる。
「全てを覚えるか。ケイス殿は本当に無茶をいうな」
「別に理解しようとしているのでは無いぞ、ただ覚えるだけだからな。造作もないぞ」
さすがの大英雄といえども、想定できない予想外の答えに驚きが交じった表情をフォールセンが浮かべるが、化け物はただ平然と返すだけだ。
「私が目指すべきはフォールセン殿をも上回る史上最強の剣士。フォールセン殿より強くなるのでなく、フォールセン殿も含めたこの世の全てより強くなりたいし、なると決めている。この程度で無茶だと言っていたら、いつまでも越えられぬではないか」
大英雄を前にして、ケイスは淡々とした声音で大言壮語をはき出す。
フォールセンは憧れであり目標。だがケイスの目指すべき道はさらにその先。まだ足元さえ見えぬ届かぬフォールセンを越え、さらにその上を行く事だ。
ならばこの程度は無茶でも無く、無理でもない。
「天才たる私が全能力を発揮して必死に追っても、まだ先が見えぬほどの場所に立つフォールセン殿が何を言うのだ?」
「全く……ケイス殿らしいな」
目の前に立つこの少女であり化け物、自分が辿った道を一体どのくらいで駆け抜けるつもりなのであろうか?
末恐ろしくもあり、楽しみでもあり、頼もしすぎる弟子の言葉にフォールセンもさすがに呆れるしか無かった。
家令のメイソンが持ってきた茶器を使い、手ずから注いだ茶を入れたカップを、フォールセンは差し出しながら、対面へと座る前ロウガ女王ユイナ・ロウガに頭を下げる。
「すまんなユイナ殿。そういう次第で遅れた。試しに中身を聞いてみたら本当に覚えておってな。ついつい面白くなって色々聞いていたら、ついには来客があるのだろうと追い出されてしまったほどだ」
ケイスに驚かされ、ついつい本気で読む気かとしばらく付き合っていたため、約束の時間に遅れたフォールセンは笑いながら、失敗を再度謝った。
ベール付きの日よけ帽を脇に置いたユイナは 尊敬する大英雄よりもさらに深く一礼してからカップを受け取る。
「ふふ。フォールセン様さえ振り回しますか。船上でお目にかかった時は元気なお嬢さんだと思いましたが、まさかそこまでとは」
カップから立ち上る香りの懐かしさと共に、フォールセン邸へ向かう途中での、予想外のケイスとの出会いを思い出しユイナは微かに微笑んだ。
「ナイカ様から弱者を装えとアドバイスを頂いておりましたが、お話以上にずいぶんと変わったお方ですこと。最近噂になっておりますフォールセン様の最後のお弟子様に会えるかと思っておりましたら、まさか名乗ることを拒否なさって、地下書庫に篭もっておられるとは」
「重ね重ね申し訳ない。本来なら私が弟子として紹介すべきなのだがな。ケイス殿が今の実力ではその名に満たないと拒否するでな。偶然とはいえユイナ殿が当家に向かう途中で出会ってくれて良かったよ……驚いたかね?」
「……はい」
フォールセンの問いかけに、万感の思いを込めて静かに頷いてからユイナは茶を口にする。
口に広がるほのかな渋みとすっきりとした甘さが記憶を刺激し、在りし日の懐かしい思い出が脳裏をすぎていく。
フォールセンも同じ思いに耽っているのか、先ほどまでの談笑とは違いしばしの無言の語らいがこの場を支配する。
二人が共有するのは過去の傷であり、同時に半世紀近くが経った今も続く痛みをもたらす生乾きの傷。
本来であればそこに触れることも憚ってきた。だがケイスが現れたことで、嫌が故にも目の当たりにするしか無くなってしまった。
だがケイスがもたらしたのは痛みだけではない。
もしあの人が生きていたら、もしあの人の子が生まれていたら……
あり得なかった過去が、紡がれるはずだった未来が、色鮮やかに蘇ったような錯覚さえも覚えるほどだ。
ただそれを声高に語りはしない。過去に起きた惨劇の原因は今も続く闇の中に蠢いていると知るからだ。
「それでフォールセン様。私に頼み事とは一体何でしょうか? 私共ロウガ王家は飾り。引退した王に出来る事などたかが知れておりますが」
ユイナは半分ほどになったカップを音も無く静かに戻し、今日の本題へと入る。
ロウガを実質取り仕切っているのは管理協会ロウガ支部であり、その最上層部である評議会。
あくまでもロウガ王家は、ロウガ復興の象徴であり、この土地を治めるための大義名分でしかない。
天然の良港であり、かつての貿易都市の狼牙跡地を狙った近隣諸国の争いを起こさせぬ為の護り。
中立を保ち、支配の名目である王冠としてあるべき。
それこそがロウガ王家の役割だと、ユイナはよく判っている。
だからこそ出来る事も少なく、できたとしてもやらずにいた。
そしてフォールセンもまた同じように隠居した身として、世間から隔絶したこの屋敷でひっそりと余生を過ごしていた。
「なにケイス殿が我が弟子であると公表されるのを嫌がるのであれば、自ら出るしかない場を設けようと思ってな。その助力を頼みたいのだ。それに齢12だというのが本人の弁だが、それでは、ロウガ支部の年齢制限規定である16才に引っかかるのでな」
永宮未完はあくまでも神が作り出した迷宮であり、探索者管理協会はそこに挑む探索者の支援と統制を目的として設立された組織。
だから迷宮への挑戦を望む者を止める権利は、管理協会には無い。
かといって幼い子供や、大病を患った病人など、挑むだけの理由はあろうとも明らかに無駄死にとなる弱者を迷宮へと送り込むのは、さすがに風体が悪い。
だから大抵の支部では、始まりの宮前に行う管理協会主催の初心者講習会を開催しており、その講習会履修者にのみ管理協会が支援するという方式をとっている。
大陸全土に力を持つ管理協会の支援を受けずに、迷宮に挑むのは無謀であり、ほぼ不可能といっていい。
そうすることで年齢制限を設け低年齢者や、履修不可能な弱者を弾くというシステムが出来上がっている。
だが世の中にはいくつも例外がある。
領地の継承には探索者資格がいるが、その継承者がまだ制限年齢にみたず、しかし早急に継承しなければ他家に領地を与えられてしまうなどの緊急を有する場合。
大病を患っていようともそれを遥かに凌駕するだけの才能を持ち、探索者となる事で完治や病状の緩和が望める者等。
そういった例外のために、推薦枠という物が用意されていた。
もっとも講習会で講師が、迷宮に挑むに満たないと判断すれば、即時で未履修となるので、絶対に始まりの宮に挑めるというわけでは無いので、あくまでも非常手段……だがそれは昔の話だ。
「なるほど……しかしケイス殿の性格を聞いた限りでは、フォールセン様の推薦を嫌がるのでは? 自らの力を示すことに誇りをお持ちのご様子ですので」
最上位の探索者である上級探索者が推薦することで、あらゆる条件を免除して、初心者講習会に参加する事が出来るが、強情そうなケイスの性格に、ユイナは無理ではと疑問を口にする。
「そうであろうな。だからケイス殿が望む筋書を立てようと思う。当家で預かっておる子達には親が探索者であり同じように目指している者もおり、1日でも早く名を馳せたいと背伸びする子も多い。だから齢15を制限として、他の支部に習い武闘大会を開いてみようと考えておる。覇者には、私がロウガ支部へと推薦するという優勝賞品をもうけてな」
これならばケイスは嫌がらないであろう。むしろ名誉と思い望んで参加するであろう道をフォールセンは提示する。
「なるほど、最近他の街で話題となっていました武闘大会ですか」
フォールセンの提案にユイナがしばし思案する。
寂れた地元支部を盛り上げようと商売っ気のある上級探索者による推薦枠を使った武闘会が開かれ大盛況を治めたという事が少し前にあり、最近では同じように所属探索者の減少に悩むあちらこちらの支部で開かれ始めていた。
しかしロウガは元々この地方で最も大きい街であり、資金力でも群を抜く大手支部。
だからこのような奇策である起爆剤を行わずとも、十分に希望者が集まり、十分な初級探索者が常に増えているからと、この手の催しは行っていない。
推薦人たるロウガ支部所属上級探索者もいることはいるが、フォールセンを筆頭に見せ物となることを嫌がる者も多かった。
「フォールセン様の名の下に行うとなりますと、色々と嘴を突っ込もうとする者も増えるでしょうね。ですから私にお声をかけたと」
フォールセンが、大英雄が動く。
その名声が未だに健在なのは、前回の出陣式での盛り上がりを見れば疑いようも無い。そのフォールセンが武道大会を開こうというのだ、そこに関わり利を求めた、水面下の争いが起きるのは簡単に想像できる。
だからこそ自分に、中立たるロウガ王家に声をかけたのだとユイナは納得し頷く。
「最近の街は少し騒がしいのでな。この老いぼれの名を使い、主流派と改革派の両勢力に益をもたらし少しでも融和を果たす役割となれるならば良しとしよう。ただ私が直接に出ると騒がしくなりすぎるでな、名代をユイナ殿にお願いしたい」
今までならば無気力故に見過ごしていたが、ケイスに触れたことで活力を取り戻しつつあったフォールセンは、自分が作り上げた街で起きる対立に対する憂慮を静かに口に出すと、静かにテーブルに額が着くほどに深く頭を下げた。
「中立であるロウガ王家が仕切りをするとなれば双方の勢力とも文句は出せませんでしょう。……王城の野外鍛錬所を即席の闘技場として開放し、両勢力に均等に益がいきますよう、名代として大役を取り計らわせていただきます」
さて自分の夫でもあるソウセツにどこから話すべきだろうと考えつつも、フォールセンの頼みにユイナは快く返事を返していた。