少しばかり雲がかかったうっすらと暗い月明かりの元、ケイスは右手に剣を持ち自然体で立っていた。
相対するのは大英雄と呼ばれるフォールセン・シュバイツァー。
数多くの二つ名の中で、もっとも高名であり代名詞である『双剣』を体現した、長剣を二振り、フォールセンは持っている。
夜も更けてきたフォールセン邸の裏庭。昼間には孤児院の一部の者達が、剣技を習得する鍛錬所も、この時間には人気はない。
頂上の月しか観戦者がいない夜のこの場所こそが、天才達にとっての修練の場となっている。
「ケイス殿。では打ち合おうか」
息を整えたフォールセンが短く告げる。どういう形式や型で打ち込むなどの打ち合わせは必要ない。
ただ剣を打ち合わせる。それだけで自分達にとっては十分だと両者共に知るから故に。
「うむ。参る!」
フォールセンの誘いにつ頷いて、同じく短くかえしたケイスは、息を止め、低い体勢で一気に踏み込む。
フェイントは意味が無い。フォールセンの剣技を、剣筋を見極めるために、ただシンプルに、愚直に突っ込む。
引き絞った右腕を繰り出しながら、数ヶ月前の自分からすれば、児戯にも等しい速度と威力しか無くとも、今放てる最大最速の突きをただ無心に打ち込む。
空気を切り裂く切っ先が鋭い音を奏でて突き進む。
しかしフォールセンが繰り出した右手の剣によって、ケイスの打ち込んだ切っ先はあっさりと受け止められる。
それどころか、切っ先を激しく打ち合わせたはずなのに、手応えが無い。抵抗すら感じず、それなのに威力が殺される。
気づいたときには体勢が崩され、フォールセンが左手で繰り出した突きが、首筋へと向かって飛んで来ていた。
ケイスは首筋へと向かう剣に合わせ、己の剣を跳ね上げる。迫る剣に絡め打ち上げて、剣を弾き飛ばそうとするが、剣筋を乱すことはできたが、また先ほどと同様に威力がかき消されてしまう。
跳ね上げた剣の威力のままに、今度は最初の突きを受け止めたフォールセンの右手の剣が下から跳ね上がってくる。
跳ね上がってきた剣を掠めながらも身を捻って交わしつつ、一歩前へとケイスは踏み込む。
しかしフォールセンはケイスが踏み込むのが判っていたのか、ケイスが踏み込んだ時には同じ歩幅だけ下がっていた。
未だ間合いには届かず。
フォールセンの体勢を崩すために、仕方なくケイスは連撃へと移行する。
剣を立て続けに繰り出し、突き、薙ぎ、そして振り下ろす。
だがケイスの剣は、全て左右の両剣のどちらかに合わせられ、一瞬の間も置かず反対側の剣が同じ勢いと速度でケイスに返ってくる。
何とか反撃の一撃を躱し、凌ぎ、前へと進み、さらに剣戟を繰り出すが、フォールセンを斬れる間合いには届かない。
後1歩。ほんの1歩。だがそれが届かない。
一方でフォールセンは、自らは先手は打たず、ただケイスの剣を受け止め、受け止めた剣と反対側の剣を繰り出し続けるだけだ。
だから端から見れば、互いに攻撃を繰り出し合う一進一退の攻防と見えるかも知れない。
しかしケイスは気がついている。自分はフォールセンの思うままに剣を振らされているだけだと。
息づかい、目の動き、足運び、剣裁き。自分の全てが読まれている。
剣の天才たるケイスが思考の末に、ここで剣を打ち込むという機微が、全てフォールセンに読まれ、さらに誘導されている。
ならばと、わざとタイミングを遅くずらしても、普段ならば選ばない悪手を繰り出そうとも、それが全て完璧に防がれ、全てが通じない。
剣を打ち込んでも、簡単に抑えられ、剣を返され、それを何とか凌ぎ、何とか攻撃を繰り出す。その流れを延々と繰り返す。
ケイスの体力が尽きるか、老体のフォールセンがきつくなる時間が来るまで。
激しいながらも、両者の体力的に5分程度しか無い短時間の稽古。
フォールセンに剣の手ほどきを受けるケイスが行う鍛錬は、限られた時間を無駄にしないため剣を打ち合わせるだけという、単純なものだった。
日が昇る気配を察し、ケイスは意識を覚醒させる。
目を開くと同時に、既に身体に染みついている無意識の癖として周辺の気配を探る。
異常無し。そう確信してからケイスはベットから身を起こすと、眠る間左手に握っていたお守りでもある懐剣を、ベットテーブルに置いてあった鞘に仕舞う。
以前の事件の際に、鎖が千切れて壊れてしまったが、フォールセンがわざわざ古式細工に詳しい銀細工職人に修理を依頼してくれて、つい先日手元に戻ってきたばかりだ。
銀製の懐剣は、短くて脆いので心許ないが、剣の一本でもあると無いとでは、寝付きが違う。
剣があるとやはりゆっくりと熟睡できる。
「ん……お爺様。おはようだ」
短剣を首に掛けてベットを出たケイスは伸びをして体調を確かめてから、壁に掛けてある愛剣である羽の剣を手に取り、剣に宿る意思であるラフォスへと朝の挨拶をする。
『……』
だがラフォスからの返事は無い。それは当然だ。今ラフォスの意思は深い眠りについている。
それを示すように、ケイスの手の中にあっても、羽の剣は柳の枝のようにだらりと垂れ下がり、重さもほとんど感じさせない素体状態のまま。
羽の剣は使用者の闘気を受け、その能力を覚醒させる闘気剣。
だが今のケイスには、剣へと闘気を送るどころか、日常生活を行うだけの基礎的な闘気を生み出すだけが精々。ラフォスの意識を発現させるには到底足りていなかった。
前期の出陣式の日以来、ケイスはラフォスと意思の疎通をする事ができずにいる。
少し口うるさいが、紛れも無い自分の祖の一人であり、何より剣士たる自分の愛剣。
返事を返してくれないことが、喋れない事が少し寂しいが、それでも朝の挨拶を止める気は無い。
自分だったら例え喋れずとも、眠っていようとも、誰かが声をかけてくれたら嬉しい。だから続けるだけだ。
羽の剣を壁掛けへと戻したケイスは、動きやすい服に着替えてから、長い黒髪を無造作に後ろでまとめて縛る。
手早く身支度を調えたケイスは、最近始めた日課を行うために、自然体で立ち、ゆっくりと息を吸う。
以前ならば何の気にもせず自然と行っていた丹田を用いた闘気変換を行うために、極々少量の生命力を丹田へと送っていく。
しかし少しだけ力を回した瞬間、全身に鈍い痛みがはしり、皮膚が毛羽立つ。このまま続ければあの時の二の舞になるのは考えるまでも無い。
すぐさまに遮断し、大きく息を吐いて力を抜く。
ほんの一瞬だったのに全身に広がる鈍痛と噴き出す冷たい汗。
この様では、到底闘気による肉体強化など出来るはずも無い。
頬を伝わり落ちて来る汗を右手でぬぐおうとして、
「っぅ……むぅ。やはりまだダメか」
上げた腕にも痛みを感じるのでそこを見てみれば、僅かだが血管が切れたのか、二の腕の辺りが、皮膚下で内出血し青黒く染まっていた。
もう少し力を入れていれば、皮膚が裂け、流血していたのは間違いない。
御せない力が自分の中にあるのは実に気にくわない。だが、天才たる自分でも御せないほどの力があるのは僥倖とケイスは思うことにする。
闘気による肉体強化とは加算では無く倍掛け。素の力が強ければ、強いほど、同量の闘気で強化できる力は上がる。
今は身体に眠る異なる龍種の血が暴れる影響で、闘気を練ることは出来無いが、いつかはその力を完全に取り戻すと決めている。なら力を取り戻すその日まで、鍛錬あるのみだ。
「ではお爺様。鍛錬にいってくるぞ」
部屋を出る前に羽の剣へと向かって挨拶をしてから、早朝鍛錬を始めるためにケイスは部屋を出て行った。
居候させてもらっているレイソン邸の前庭へと出たケイスは、日課の早朝稽古を開始する。
右手に細身の刺突剣。左手にはナックルガード付きの凹凸の刃を持つ短いソードブレイカーナイフ。
両手に剣を構えたケイスはゆっくりとした動作で剣を動かし型の練習をする。練習用に刃引きして潰してあるとはいえ、剣自体は本物。今の力が落ちたケイスには些か重い。
さらにいえば一度切断して、再生した左手の握力は、まだ素の力さえ完全には戻っておらず、右手に比べかなり弱くなっている。
剣を取り落とさないようにするだけでも一苦労だ。
攻めに意識を2。防御に8。一方的に攻撃を受けていると仮定し、相手の攻撃を左手のソードブレイカーで絡め取り凌ぎながら、右手の刺突剣エストックを鎧の隙間を狙い突き立てる。
相手の打ち込みを受け止め、突き込む。単調なその流れを飽きること無く繰り返す。
稽古を始めて10分ほどしか経っていないが、既に全身から汗が出て、筋肉が痙攣を始めている。肉体的に幼いケイスにはきつい、だがきついからこそ鍛錬となる。
しかし怠くなってきた腕では、太刀筋を維持するのさえ精一杯だ。
「むぅ……もう一度だな」
自身が思い望む理想とはかけ離れた剣筋に、ケイスは眉根をしかめる。
受け止めようとしても、想定する相手の力が強ければ、すぐに体勢が崩される。
崩れた体勢のままに打ち込む突きでは、装甲の薄い関節部すらも貫く事は出来無い。
しかも今はやっていないが無理矢理突き込むために体勢を崩しているので、その後に繋がらない。
これはケイスの望む剣では無い。だがこれこそがケイスの今の剣だ。
闘気による肉体強化が不可能となり、いくつもの力を失ったことで、戦い方を変更することを、ケイスは余儀なくされていた。
今までならば、闘気による力任せの強化で、己の持つ最大の剣技を繰り出し、いくら怪我をしようが獣人にも匹敵するほどの治癒能力で、戦闘後に身体を癒やせばいいという無謀すぎる戦法。
しかし今のケイスにはこの戦法は使えない。特に治癒能力が大幅に低下しているのが痛い。
今までの肉を、骨も切らせてでも、命を絶つという戦い方では、己は敗北するだけだとケイス自身が誰よりも理解している。
己が習得する流派のうち、最大の攻撃力を持つが、闘気による肉体強化を前提とし、ケイス自身への負荷も強い邑源一刀流は当面の間は封印するしかない。
もう一つの剣技であるレディアス二刀流であれば、そこまで肉体負荷は強くないが、どうしても己の系譜や出自を探られる上に、二刀で長時間の戦闘をこなすにはある程度の筋力や持久力を必要とする。
だからこちらも短期決戦ならばともかく、多様は出来無い。
やはりそうなると求めるべきは、レディアス二刀流の源流ともいうべき、大英雄が生み出したフォールセン二刀流。
昨夜の鍛錬を思い出し、型を再開しながら、ケイスは思考する。
打ち込んだ剣が全て同威力で返ってくるという体験は、ケイスをしても初めての物だ。
フォールセンの従者でもあった祖母のカヨウが生み出したレディアス二刀流にも、相手の剣を返す同様の闘法はあるが、その次元が違いすぎる。
フォールセンの闘法とは、極論でいってしまえば相手の全てを、自分の意のままに操り、相手の攻撃の威力を己の物とし、最小限の力で、最大限の効率を発揮する戦闘剣技。
その理屈は判るが、自他共に剣の天才と呼べるケイスをもってしても、フォールセンの闘法を模倣するのは、かなりの難度だ。
形だけは真似できても、天才たるからこそ判る真髄が遠い。今の段階では利用できる相手の打ち込みは一定の型に限られ、しかも一対一という状況。
だがフォールセン二刀流の真の形は、この闘法を1対多で使用できることにある。
戦場全てを己の剣の支配下に置き、全ての敵を屠り必ず生き残る攻防一体であり最小の力で最大の威力を出せる剣技は、力を失ったケイスが今求める理想の形といえる。
しかしその入り口はフォールセンに手を引いて貰う事で、ようやくおぼろげだが見え始めたばかり。先は長く、その終着点を今のケイスでは見通す事も出来無い。
だがそれも当然。開祖たるフォールセンとて何千、何万もの戦場を越える中で生み出した剣技。
しかもフォールセンの才覚は、天才を自負するケイスさえ上回るかもしれないほどの才。そう簡単に真似などできるわけが無い。
故にフォールセンが使う闘法の一部の理屈理論を受け継いだ流派はあれど、完全な意味での後継者は、いまだ誰もいない。
それほどの天才が生み出した剣技。唯一無二かも知れない剣。
だが、ならばこそ、自分が受け継ぐ。
天才が生み出した剣技を、天才たる自分が受け継ぐ。
自分が憧れ、そして実際に出会い、さらに敬愛を強めた大英雄の剣技を全て喰らい尽くす。
自らの強さを求め続ける傲慢にして貪欲な化け物たるケイスにとって、大英雄フォールセンの剣技とは、この世で最上の餌以外の何物でもない。
飽きること無く1つの型で剣を振り続ける早朝稽古をケイスが延々と続けていると、
「ケイちゃんおはよう! 朝ご飯ができたから運ぶのお願いね」
前庭に面したキッチンの窓が開けられ、そこから顔を覗かせた女医のレイネが、朝の挨拶と共に朝食の準備が出来た事を伝える。
香草や焼いた肉の匂いがキッチンからは漂ってきて、ケイスのお腹が小さくなって空腹を訴えた。
「ラスト! ……うん。おはようだレイネ先生。すぐにいく」
最後に渾身の力を込めて剣を振り切ったケイスは、笑顔で挨拶を返すと剣を下ろして、早朝稽古を終了した。