出陣式に起きた事件によって大波乱の幕開けとなった、今期のロウガにおける始まりの宮。
だがあの程度は、大陸全土に広がる大迷宮【永宮未完】への入り口に隣接する迷宮都市においては、極々ありふれた日常の一コマにしかすぎない。
迷宮閉鎖期が開けて二ヶ月。
あの事件の騒ぎを忘れたかのように、今日もロウガ新市街地中央広場は、大勢の人で賑わっていた。
閉鎖期の間に大きく変貌していた迷宮内のモンスター分布や内部解析も、地図師や、迷宮学者、モンスターテイマーなどのギルドに所属する探索者達によって大まかではあるが、完成している。
ある程度のリスク管理が可能となり、目的とするモンスターの生息地が判明してきたこれからの時期が探索者家業の最盛期となる。
情報鮮度はやや古いが、格安の支部公式攻略情報を買い求める為に訪れる若手。
予想以上の難敵、高難度に複数パーティ攻略を行おうとするが、主導権を巡り腹の探り合いをする者達。
新種モンスター討伐に成功、さらにその死体から新素材発見で、情報報酬による一攫千金を引き当て、満面の笑みで引退届を手に門をくぐる者。
情報もろくに無い状況で無理をして挑んだためメンバーを迷宮に食われ、絶望の色に覆われた暗い目のまま壊滅届けを提出し、負傷した足を引きずりながら雑踏に消える者。
悲喜交々の探索者達の姿も、また迷宮隣接都市の日常の一コマ。
それ以外にも、商機を求め出入りをするギルド関係者。
迷宮外へと出て来たモンスター討伐依頼に青い顔をして駆け込んでくる村長。
かと思えば、協会支部を見物に来た単なる観光客。
大勢の人が行き交うのが、それがいつも通りの中央広場の光景。
出陣式に起きた騒ぎの痕跡は、もうほとんど残ってはいない。
唯一残った痕跡となれば、広場の真ん中にあった噴水池が修復のために完全撤去され、東方王国時代の巨大な古井戸跡が、ぽっかりと姿を見せている事だろうか。
噴水池の直径とほぼ同じほど大きさの、巨大な井戸穴は地下世界へと続いているような不気味な姿をさらす。
かつての東方王国時代には、この巨大井戸の上にはその大きさに見合う三連風車塔が立っていたそうで、そこから汲み上げられた水が狼牙城の掘や周辺水路へと供給され、往時には街の隅々まで
網羅する一大水運路が網の目のように築かれていたという話だ。
100年以上振りに姿を現したそんな古井戸は、東方王国時代の遺構としては、近年類を見ないほどに大規模かつ保存状態がよいもの。
この機会に徹底的に調査しようと判断されたのか、井戸の周辺や内部を調査する魔導技師達の姿が目立ち、再建資材はその脇に積まれているが、工事自体はあまり進んでいるようには見えなかった。
もっとも4ヶ月後に行われる次の出陣式までには、噴水池の再建は終わらせなければならないのだから、少し違った光景もあと少しだ。
見納めになる前にとばかりに立入禁止のロープと共に転落防止に張られた遮断結界の周りには物見遊山な観光客が群がり、そんな客目当ての屋台が広場にはいくつも立ち並んでいた。
一番売れ筋の土産商品は、破壊される前にあった噴水の英雄像をもした紙箱の中に収まった、古井戸をイメージした黒糖ドーナッツの詰め合わせということだ。
普通のドーナッツに比べて少し中心の穴が大きめで材料をケチっているように見えなくも無いが、穴の大きさが井戸の大きさを表しているという謳い文句を謳われてはご愛敬と受け入れるしか無いだろう。
「すみません。イドーナッツ6個入り一つお願いします」
穴の大きさよりも、むしろそのネーミングセンスはどうなんだと何時ものように思いながらも、ルディア・タートキャスは炎天下の中10分も並ばされてようやく来た順番に辟易しながら一番小さな箱を指さす。
「はいよ! 赤毛の姉さんか。今日も来てくれたな……3日連続のお客さんにゃ少しおまけしとくよ」
転血石を用いた簡易魔具コンロの上にかかった熱々の油が入った鍋から揚がったばかりの熱々のドーナッツを箱に詰めていた恰幅のいい店主が、ルディアに気づくと少しばかり小声で囁きながら小振りの売り物にならないドーナッツを1つおまけで入れてくれた。
ルディアは元々女性にしては長身なうえに派手な赤毛で目立つのに、ここの所連日屋台を訪れている所為ですっかり顔を覚えられてしまったようだ。
しかも大の甘い物好きという、酒飲みを自称するルディア的には少しばかり不本意な称号と共に。
「どうも。共通銀貨2枚ですよね」
自分は見舞い品のお使いに来ているだけなのだが、一々それを口に出して否定するのも店主に悪い。
ルディアは曖昧な笑顔で答えながら、財布から取り出した共通銀貨を屋台の上に置いて箱を受け取ってそそくさとそこを離れ、待ち合わせをしている知り合いの元へと向かう。
その知り合い曰く、井戸穴を観察しているということ。
何故そんな物を観察しているのかは甚だ疑問だ。
大勢の観光客に紛れて探しにくいかとも思っていたが、そんな事は無くルディアはすぐに待ち合わせていたウォーギン・ザナドールを発見する。
ウォーギンは普段は掛けていない分厚い眼鏡を身につけ、井戸跡を見ながら薄ら笑いを浮かべ、やたらと分厚いノートに何かを、速記でしかも大量に書き込んでいるので、周囲から浮きまくって悪目立ちすぎる事この上なかった。
「ウォーギン。何やってるのよ?」
「みりゃ判るだろ」
声をかけたルディアの方を振り返りもせず、古井戸の壁面を見ながら右手をひたすら動かしてメモを取り続けながらウォーギンは簡潔に答える。
これだから天才という人種は……
やたらと偏った才能の持ち主に、ここの所はやけに縁があるので、この手の輩には慣れたものだ。
「判ったら聞いて無いっての」
「井戸の壁面の石壁が焼け焦げてるからぱっと見には判らんが、頑丈な古式エーグフォラン工法の壁のおかげで術式的にはまだ健在だ。ほとんど途絶えた東方術式の跡がたんまり残ってるんだよ。今時これほどの規模の古式術法のサンプルには早々お目にかかれねぇぞ」
ルディアから見ればただの古い黒焦げた石壁にしか見えないが、どうやら根っからの技術者であるウォーギンには宝の山に見えているようだ。
興奮しているのか少し早口のウォーギンの説明に、道理で井戸の中を調べている協会所属の魔導技師らしき職員が多いはずだとルディアも納得する。
「少し待ってろ。もうちょっとで書き写し終わる」
どうせ何を言っても写し終わるまでテコでも動かない。
諦めているルディアは手に提げた、ずっしり来る重さの箱に目を向ける。中からは黒糖の香ばしく甘い香りが漂ってくる。
甘いものが格段に好きでは無いルディアでも、まぁ美味そうだとは思うが、これだけ重ければ1つ食べれば十分に満足。
だが、これを毎日見舞い品として請求してくる極甘党のケイスは、6個だとものたりないからもっと買ってこいと五月蠅いくらいだ。
「それにしてもあのバカ。病み上がりなのにこんなに甘いのばかり食べて身体は大丈夫なんでしょうね」
匂いだけでもお腹が一杯になってくるような甘さに、ルディアはそこはかとない不安を抱く。
別にルディアとて暇で、レイソン邸で療養するケイスを毎日、尋ねているわけでは無い。
ケイスが今現在、服用している特別な薬が劣化が早く保存が利かない類いの物で、ルディアが世話になっている老薬師フォーリアに毎朝調合して貰い、それを届ける必要があるからだ。
フォーリアの店からレイソン邸に向かう途中でたまたま見かけた新名物の揚げ菓子を見舞いとして持っていったら、それに味を占めたのか、苦い薬より菓子の方をせがんできたというわけだ。
ルディアにとってそんなケイスの我が儘は、渡りに船と言えばいえた。
今ルディアの手元には、カンナビスでの騒動の最後に、ケイスが残していった金貨がある。
あの馬鹿は未だにカンナビスで、ルディア達にあった事が無いと言い張っているので、金貨を返せずにいたのだが、こうやって並ぶのが少し面倒ではあるが、僅かでも使う当てができたので良しとするべきだろう。
……と思っていたのはこの時までだった。
少しばかり緊張しているようだと、自分の状態をソウセツは判断する。
フォールセン邸の来客室。
翼人用の背もたれの部分が大きく開いたソファーに背を預けるソウセツは険しい表情を浮かべていた。
二月前に起きた出陣式襲撃事件に関連し、大きく進展したロウガ支部内の不祥事の対応と後始末に奔走していたせいで、フォールセンと直接に顔を合わせるのはあの事件の日以来。
一応の名目は最高警備責任者として、来賓として招かれていたフォールセンへ事件の調査報告という形だが、とりあえずもいいところ。
公式には身元不明のまま行方不明として処理された襲撃者の少女の正体を含め、あの事件の本質にはフォールセンの方が真実に近いはずだとソウセツは確信していた。
「失礼しますソウタさん。旦那様はご用意にもう少しお時間がかかるそうですので、その間にお茶はいかがですか」
ノックの後に部屋に入ってきたフォールセン邸の老家令メイソンは炉のついた茶器セットをみせる
昔馴染みの誘いに、喉の渇きを覚えていたソウセツはありがたく思い頷く。
「あぁ、もらおう。メイソンの茶は久しぶりだな」
「最近は若い者の仕事と入れさせてもらえませんし、安い葉なので身内にしかお入れできませんから私も久しぶりですよ」
メイソンは小振りの炉に炭火を起こすと焙烙に茎の部分が多い安めの茶葉を入れ、慣れた手つきで茶を焙じていく。
室内に広がっていく香ばしい茶の香りは、ソウセツ・オウゲンの古い記憶を強烈に呼び覚ます物だった。
若い頃はソウセツはフォールセン邸を実家と呼んでいたが、十数年ぶりに訪れた所為か、どうにも他家という印象を抱いてしまっていた。
だが茶を焙じる香りは、実家と呼んでいた頃となんら変わらなかった。
「懐かしい香りだな」
「ユキさん直伝ですからね。私の技法は」
「義母……お袋の事だ。相当に厳しかっただろ。茶の入れ方1つとっても」
不老長寿の上級探索者となったことで見かけの年齢は逆転してしまったが、年下の弟分だった老人の浮かべる誇らしげな顔に釣られたのか、ソウセツも少しだけ表情を和らげ、口調を緩める。
義母のことを思い出すと、どうしても最初に浮かぶのは苦しげな死の間際の表情。
しかし胸を貫く痛みを少しだけ我慢すれば、様々な表情と数多くの思い出へと行き着く。
それはソウセツにとってどれもが大切であり、掛け替えのない物であった。
「はい。何度焦がしすぎと注意され、旦那様にお入れするにはまだまだと叱られましたか。あの頃から今もお屋敷にご奉公させていただいている者達も、たまに叱られた頃を思い出すそうですよ」
「説教好きがすぎたからな。一国の皇子のフィオ相手だろうが、とろとろしているなとケツを蹴り飛ばすなんて事もあったな」
武人として尊敬し、家族として敬愛している。
亡くなってしまっても、いや亡くなってしまったからこそ、その思いは強くなっている。
だがどうしても昔馴染みの前では憎まれ口を叩いてしまうのは、その気持ちを最後まで素直に伝えてられなかった所為だろうか。
「面倒見がいいんですよ。正体を知らなかった院生の子供達にも好かれていましたからユキさんは」
あまり焙じすぎると後味が苦くなるので、茶葉の芯がふっくらと丸くなってきたのを見計らい、メイソンは焙烙を火から離して、急須へと焙じたばかりの茶葉を移し入れ熱めの熱湯を注ぐ。
「……そうだったな」
ロウガの街の現状について思うことは多々あれど、妻や子、孫達と過ごせる今が不幸だとはソウセツも思ってはいない。
ただどうしてもたまに考えてしまう。
もし今も義母が生きていたら、どうしていただろうと。
子供好きだから、孫やひ孫に囲まれてゆったりとした老後を過ごしていたのだろうか。
それとも根っからの武芸者でもあったので、今も迷宮に挑み、共に戦う自分の子孫達を叱咤激励して駆け抜けていたか。
はたまたおっせかいが過ぎて一介の市民だと言い張りながら、頼れる街の顔役となっていたか。
少なくとも大勢の人間に囲まれ慕われていたはずだ。
だがそれはあり得ない想像。
外れてしまった未来。
義母が愛したこの街を守る。
それだけが、それだけしか、義母から受けた一生を掛けても返せない愛情や恩に報いる道となってしまった。
だからこそソウタ・オウゲンは、ソウセツ・オウゲンとなった。
義母から託された、東方王国時代の狼牙から続く、ロウガ守護者たる者が名乗る名という重い重責を背負うと決めていた。
感慨に耽るソウセツの内心を察したのか、メイソンは無言で、ただ静かに茶を注ぎ湯飲みを差し出す。
琥珀色の茶を受け取ったソウセツも無言で受け取ると、その香りを懐かしみながら熱い茶を少しずつ口に含み喉を潤していく。
そのまま互いに無言の茶会を続け、2杯目を飲み干そうかというときになって、ようやく屋敷の主フォールセンが姿を見せる。
「すまんソウタ待たせたな。あの日以来この年寄りを担ぎ出そうとする輩が多くてな」
ソウセツの対面に腰掛けたフォールセンは、メイソンが出した茶を飲んで一息をついてから、煩わしそうに苦笑を浮かべる。
数十年ぶりに公の場に姿を現したフォールセンの元には、以前よりも遥かに多くの講演依頼や、有力者からの信書が届いており、その手の対応に慣れているはずのフォールセンもあまりの量の多さに辟易しているようだ。
「いえ、私の方こそお忙しい中でお時間を裂いていただき申し訳ありません。ご報告が遅れましたが今回の襲撃事件の調査報告をさせていただきます」
立ち上がったソウセツは、かつて爺ちゃんと気軽に呼んでいたフォールセンへと深く頭を下げながら、まずは建前の報告から初めることにする。
あの少女は何者なのか?
何故あの場に現れたのか?
生死不明となったが、今はどうしているのか?
聞きたい事がありすぎて、何から聞くべきか。
建前の時間が実に貴重な思案をする時間となっていた。
「ケイちゃんは自分が怪我人って自覚はあるのかな? 先生は治す気があるのか疑いたくなるなぁ」
「ゃぁ! あ、あるから! あぅ! ある! だ、だがら! もう叩くのひゃ!!」
ここの所毎日訪れていたレイソン邸に訪れたルディアが居間に入った途端に目に飛び込んできたのは、ここ二週間で何度も見た光景だった。
いつも通りの優しげな笑顔と少しのんびりした口調ながらよくよく見れば目が怒っているレイネ。
そして椅子に座るレイネの膝の上に抱きかかえられ、寝間着を捲られたのみならず、下着を膝まで下ろされ、大きな音をたてる強い平手打ちで尻を叩かれる度に悲鳴をあげ泣くケイスの姿だった。
その磁器のような白い肌の尻全体が既に真っ赤に染まっているので、相当な時間お仕置きされているようだが、レイネが振り下ろす手が止む様子は見えなかった。
「ルーちゃんにギン君いらっしゃい。ごめんなさいねバタバタしていて」
フォールセンの孤児院にいたときは年少者の監督役も務めていたというレイネは叱り慣れているのか、訪れたルディア達をにこやかに迎えながらも、その右手はテンポ良くケイスの左右の尻へと振り下ろされている。
「やっ!? ま、待てレイネ先生! お、きゃく! はちゃんと迎えにゃあ! うぅぐ! っあ!? うぁ!?」
あわよくば今の瞬間でも止まると思ったのかケイスが制止の声をあげるが、その必死の訴えは、より強くなった平手の音ですぐに意味のなさない悲鳴へと変わる。
ケイスは逃げようと手足をじたばたさせるが、レイネにがっつりと抑えられているので無駄に終わる。
「逃げようとするんだ……まだケイちゃんは反省した方が良いかな。二人とも、もうちょっと待っててね」
「ケイス。余計なこといって誤魔化したり、逃げようとするなって。ちょっとが相当長くなるぞ。レイネ。先に上いって頼まれてた作業してるぞ」
幼馴染みであり同じ院卒のウォーギンは、レイネが年下の連中に慕われつつも恐れられていたのをよく知っているので、大人しく怒られておけとあきれ顔で忠告をしてから、工具の入った鞄を持って、ケイスが病室として使っている部屋のある2階へと上がっていた。
フォールセン邸の古井戸に落ちたとかで大怪我をしたケイスが、意識不明で何度も心臓が止まるほどの生死の境をさまよっていたのはもう二ヶ月前の事。
全身の皮膚が深く裂けるほどに損傷し、左手に至っては手首から先を失うほどの大怪我。
レイネによる高位神術による肉体再生まで用いた神術治療で傷口がふさがった後も、意識不明の状態が一月近く続いていた。
何とか意識が戻った後も、2週間ほど寝たきりで時折高熱が出て意識を失う、紛れもない重症患者。
だがようやく先々週くらいからその不安定期も過ぎて、ある程度はまともに動けるようになっていた。
いた。いたのだが、なるべく安静にしていろという、レイネの医者としての指示を、この行動派のバカが大人しく守るはずも無い。
すぐにケイスらしいバカなことをしだしたので、こうやって小さな子供のように、レイネに叱られるのがお約束となっていた。
もっともルディアはその怪我の理由に関しては、大きく疑っている。
この化け物が井戸に落ちたくらいで左手を失うほどの大怪我をするわけがない。
その前に巻き込まれていた案件も含んで、どうせまたとんでもない事をしでかしたのだろう。
そんなおそらく正解に限りなく近い推測は余裕でできるが、推測するだけで自分の精神安定上の理由で真相を聞くのは止めている。
ケイスが怪我がしたという日の、ロウガ中央広場で行われていた出陣式での大騒ぎについては、むしろなるべくなら、見たくも、聞きたくないので、翌日に出た号外速報はそのまま暖炉の中に消えたほどだ。
ただ怪我の原因はともかくとしても、その経過はさすがに気にしないわけにはいかない辺りが、この美少女風化け物に関わってしまった代償だった。
「……今度は何やったんですかそのバカ」
一昨日のお仕置き理由は、屋根にいた近所の猫を何故か捕まえようとして屋根に登っていて。
その3日前は、真夜中に病室となった2階の部屋を抜け出して、鍛錬にいこうとしていたのを見つかったとのこと。
最初は叩くにしても怪我人であるケイスに配慮した可愛い物であったが、あまりの反省の無さと、こりなさに、日ごとに叩く力が強くなっている。
主治医であるレイネはさすがにケイスの体調も考慮して叱っている。
だから普通に見ても相当厳しいお仕置きも、結果的にケイスが回復している証と考えても良いのだろうか?
ちなみにウォーギンが今日ルディアと一緒に訪れた理由は、夜中にケイスが抜け出さないように、部屋の窓や扉に結界魔具を設置するためだったりする。
放っておくと何をしでかすか判らない相変わらずの無茶と無理の固まりだが、今日は一体何をしでかしたのやら……
「ほらケイちゃんって怪我の前はよく食べたでしょ。だからルーちゃんがお見舞いに持ってきてくれたお菓子も、食欲があるなら良いかなと思ってたんだけどね」
困り顔を浮かべているが、相当に怒っているのがよく判る強烈な平手打ちの音は容赦無く響く。
「でもやっぱり闘気による内臓強化が出来無くて前より食べられなくなってたみたい。だけどお菓子が食べたいからって、昨日から治療用の薬膳料理をこっそり窓から捨てて、ご近所の猫に食べさせてたのを見つけたの。だからそのお仕置き」
「だ、だって、に、にぎゃ! いから! お、美味しいほうが! 身体にぃぎゃ!」
苦くてまずい物より、美味しくて甘い物を食べていた方が身体にいいと言いたそうなケイスの妄言は、鋭さを増したレイネの平手で途中でかき消される。
二日前に猫を捕まえようとしたのは菓子を自分が食べるために、生け贄を求めていたからのようだ。
「ケイス。あんたって子は……内臓強化の闘気は最低限確保しているとか大嘘ついてんじゃないわよ。ほんとこのバカは」
冷静に考えれば、つい数週間前まで寝たきりで胃腸の弱まっていた大怪我人が、大きなドーナッツ6個を食べた上に食事を食べれる食欲を発揮するわけがない。
なんであんな嘘に簡単に騙されたんだと、ルディアは自分自身のバカさ加減を呪いたくなる。
だがそれも仕方が無いだろう。
ルディアの知るケイスとは、はっきり言って化け物。
常人離れした肉体能力をもつ人外といっても、一切の誇張表現が無いほどの印象があまりにも強すぎたからだ。
だから常人ではあり得ない事も、ケイスがあまりに言い張るのであるかも知れないと思ってしまったのが失敗だった。
元々高い肉体能力は持ってはいるが、ケイスを真の意味で常識外の化け物としていたのは、闘気による肉体強化。
少女らしいほっそりした体格で、大の大人さえ凌ぐ馬鹿げた膂力。
軽い切り傷程度ならば、1時間もあれば完治する獣人並みの回復力。
食べた物を10分でほぼ吸収できるから、トイレもあまり必要ないという巫山戯た消化能力。
それ以外にも攻撃に対して瞬時に皮膚を硬化させ防御力を上げたり、傷の痛みを意識的に麻痺させたり、疾風のごとく駈ける脚力。
それらケイスをケイスたらしめる化け物じみた能力を支える物の原点こそが、丹田から生み出す闘気による肉体強化。
だが大怪我を負ったケイスは、レイネの診断によれば、闘気の流れを司る気血榮衛の経絡が、大きく乱れた上に損傷しており、それこそ生きているのが信じられないぐらいにぼろぼろになっていたとのこと。
フォールセンの好意によって治療費を工面してもらい、稀少な魔術薬や一角獣の角などの神術再生触媒を用いた、レイネの懸命な治療神術で、何とか基礎代謝が可能な状態にまで改善しているが、それ以外の人外的能力を全て失っていた。
もっとも力を失ったことで、ショックを受けたり、人生を悲観したならまだ可愛げがあるのだろうが、当の本人が、多少マシになった途端に治療そっちのけで菓子優先と平常運転バカとなれば、レイネが激怒するのも当然といえるだろう。
「うぅっ。ルディ! た、助けてくぎゃう!?」
耐久力や防御力が落ちて、さすがのケイスも耐えかねているのか大粒の涙をぼろぼろこぼしながらルディアに救援を求めてくる。
完膚無きまでに自業自得だとルディアも思うが、ケイスの嘘に騙されたとはいえ菓子を買ってきた自分にも多少の責任はあるだろうか。
「レイネ先生。お怒りは判りますけどさすがに懲りて反省していると思いますよ」
「し、してる! してるぞ!」
ルディアが仲裁に入ったおかげでようやくレイネの手が止まり、この気を逃してなる物かと、赤い目をこすりながらケイス何度もうなづいてみせる。
「このバカもこう言って反省してますから、今日の所はこのくらいで勘弁してあげてください。この子に薬も飲まさ…………」
だがルディアは手に持っていた薬を掲げて、飲ませなきゃいけない時間だからと言いかけたところで、はたと気づく。
レイネ特製の薬膳料理。
そして老薬師フォーリア特製生薬。
料理と薬という違いはあるが、その両者はどちらとも体内に流れる気血榮衛の経絡を整える目的にした古式療法の医食同源の考えを元にしている。
それらは料理にしろ薬にしろ、治療目的が同じなのだから、素材は似通った物で、身体にはいいがお世辞にも美味しいと呼ぶのは難しい味が多い。
そして今の療養食や薬は、大の甘党のケイスが好きではない苦みや渋みが主な物となっている。
苦い物より甘い物の方が身体にいいと宣うこの馬鹿が、料理を残しただけで終わるだろうか?
「ケイス…………あんた三食後にちゃんと薬を飲んでる?」
「……ぅ」
ルディアの疑いの眼差しに、引きつらせた表情のケイスは言葉に詰まってしまう。
「ケイちゃん」
「の、飲んでるぞ! ベットの下なんかに無いぞ!」
いぶかしんだレイネの追求に、ケイスは慌てて答えるがうっかり口を滑らせ物の見事に墓穴を掘る。
隠し場所までしっかり告白するあたりは根が素直というか、バカ正直と言おうか。
だがどちらにしろ、苦労して作ってる薬を無駄にされたのは間違いない。
一切同情する気が失せたルディアはさわやかな笑顔で青筋を立てながら、ケイスへの死刑宣告を降すことにする。
「じゃあレイネ先生。この”バカ”がどれだけ飲んでいないか調べてきますので、私が戻ってくるまでの間はこの”バカ”をたっぷりと懲らしめてください。ベットの下以外を”重点的”に探してくるので時間がかかると思いますけど」
「そうね。1時間くらいは探さないと見つからないかな。それとも2時間かしら。ごめんなさいも出来無いで嘘もつく子は隠し場所も判りにくそうだしね」
すでに腫れ上がった尻を、さらにしばらくの間は叩かれる事が確定され、ケイスの顔から血の気が一気に引いて青く染まる。
まるでこの世の終わりのような絶望的な表情。
何時もの強気一辺倒で傲岸不遜さが一切無い、ルディアが初めてみるケイスが心底恐怖を感じている極めて珍しい表情だった。
巨大なサンドワームやら、伝説のゴーレム相手だろうが、一歩も引く様子を見せなかったあのケイスが本当に怖がっているようだ。
しかしモンスターよりも、レイネに怒られる方が怖いとは……
珍しい物が見られたのが唯一の報酬だったかと頭痛を覚える額を抑えながら、ルディアは2階へと向かう。
「ま、待てルディふぎゃ! べ、ベット! 下! 下からっ! ひぁっ!」
再開した平手打ちのまた鋭くなった音と共にルディアを呼び止めるケイスの声が響く。
その内容から見てもあまり反省はしていない様子なので、この悲鳴をケイスはもう少しあげることになるだろう。
膂力が落ちているので、レイネにしっかり抑えられていて逃げられず、痛覚遮断や皮膚の硬化ができず、生の痛みに悲鳴をあげる一人の子供。
今のケイスは見た目通りの、見目麗しい年相応のバカな美少女(多少傲岸不遜)となっていた。