「王女殿下!」
始まりの宮に共に挑む事になっていたパーティメンバーの制止を無視して、サナは駈けだしていた。
襲撃者の殺気に当てられたのか、それとも事態の展開に戸惑っていたのか?
人形のように立ちすくんでいた同期の挑戦者達を邪魔に思いながらも、何とかその間を抜ける。
翼に魔力を通して飛翔し、頭上を飛べば苦も無く抜けられたのだが、今のサナにはそこまで考える余裕は無かった。
襲撃者によって最高位の上級探索者である祖父のソウセツが弾き飛ばされ、さらにはここ数ヶ月共に鍛錬をし、志を同じくしていたセイジに向かって身の毛もよだつ殺気を込めた突きが放たれた瞬間、何もかも忘れ、ただ駆け寄ろうと飛び出ていた。
「っぁっ!?」
だが間に合わない。
襲撃者とセイジが交差し噛み殺した苦悶の叫びが上がった。
何かが両者の間からはね飛び、どす黒い鮮血が飛び散る。
身体ごと飛び込んで来た乱入者によって弾き飛ばされたセイジが、後ろに数歩分ほど弾かれ、着地と共にがくりと膝をついた。
一瞥で判るほどに、その右足の太ももが深く切り裂かれ、血が止めどなく流れ出している。
ちらりと見えた白い物はまさか骨か?
「セイジ!? 大丈夫ですか!? 誰か彼の手当をしなさい!」
サナはセイジを庇うように前に立つと、5歩ほど先で剣を取り落としてうずくまっていた襲撃者へ向けて兵仗槍を構えながら、未だ呆けていた同期の者達へと檄を飛ばす。
襲撃者を見れば深手を負いながらもセイジも反撃に出ていたのか、鞘から半分ほど抜けていた刀に血が滴り、襲撃者が押さえる左腕は、その手首から先が切断されていた。
サナと襲撃者の間には、切り落とされたやけに小さな、それこそ子供ほどの大きさしか無いほっそりした指が印象的な手が転がっている。
しかし切り落とされた手の傷口からは血が流れ出しているのに、襲撃者が押さえる左腕の生々しい傷口からは、僅かな血しか滴っていない。
闘気による肉体操作を用いて筋力を持って咄嗟に血管を塞ぎ、血の流出を最小限に抑えたのか?
手首から先を切り落とされて激痛を感じているはずなのに、即座に血を止める細やかな肉体操作をしてのける。
これだけでも目の前でひざまづいて、苦悶の声を漏らす小柄な襲撃者がかなりの手練れだと判った。
この相手は自分の手には余る。
そう判断し、本職の警備隊員達が駆け付けるまでの僅かな時間であろうとも、サナが最大限の警戒心を向ける中、うずくまっていた襲撃者が顔を上げてサナを見上げた。
襲撃者の顔をみたサナはつい呆気にとられる。
子供のような手と思ったのはある意味で間違いであった。
ようなではない。子供だ。
まだ幼い、それもフードに大半が隠れているのに、可憐な美少女だと断言できるほどに整った顔立ちをした少女が、サナの前にはいた。
予想外の、予想外過ぎるその正体に、サナは幻覚にでも捕らわれたかと一瞬己の正気を疑いそうになるが、
「っ! その武人の味方か!?」
少女の発した鋭い怒声に、一瞬で正気に返る。
可憐な愛らしい少女が浮かべるすこしつりぎみの勝ち気にみえる眼には、紛れもない憤怒の怒りが渦巻いており、その声には応え次第では斬るといわんばかりの殺気が込められていた。
嘘偽りは許さないとその怒りで燃える瞳が雄弁に物語る。
太古の王族の血を受け僅かながらも受け継ぎ、生まれたときから王女として過ごしてきたサナですら圧倒されそうになるほどの強制力を持った言霊。
怯みそうになる心を叱咤する為にサナも強く声を発する。
「そうです! 私の仲間にこれ以上の狼藉は許しません!」
サナの答えに、何故か悔しげに、そして悲しげに顔をひどく歪ませた少女は、右手で懐から何かを取り出しサナに向かって投げつけた。
見かけは少女とはいえ、乱入してきた不審人物。
そんな人物が投げつけた物だというのに、何故か警戒心がわき起こらずサナは咄嗟に受け取ってしまっていた。
それは羊皮紙の束だった。
「ならくれてやるから守、くっ!」
少女は何かを言いかけようとしたが、先ほど交わした警備隊員達が迫っていることを察すると、目の前に落ちていた大剣を拾い、切り落とされた自らの左手首に切っ先を突き刺し回収し、一足跳びに飛び下がった。
少女が飛び下がるとほぼ同時に少女がいたその場所に、複数の拘束魔術が着弾する。
「お下がりください王女! 逃がすな! 追え!」
駆け付けた隊員達によってサナは些か乱暴に後ろに追いやられる。
一瞬の邂逅で、サナが受け取ったのは謎の羊皮紙と伝わりきっていない言葉だけだった。
拘束を嫌った少女が、追い詰められたウサギのように逃亡を開始するが、広場の中心であり袋小路である噴水のほうへと瞬く間に追い込まれる。
少女は何を言おうと、伝えようとしたのか?
それを考えていたサナは気づかなかったが、 羊皮紙についていた少女の血がこぼれ落ち、サナの手のひらに落ちていた。
そして手に落ちた血は、次の瞬間には吸い込まれ、影も形も無く消失する。
同様にセイジの刀に付着していた少女の血が一滴、同じようにセイジの傷口の上に落ち、その体内へと吸い込まれていた。
誰もが気づかないほどに僅かな異変。
この時、新たなる龍殺しとなるべき定めが二つ生まれていた事を、誰もが気づかずにいた。
見誤った。
判断をしくじった。
己の不甲斐なさに怒りを覚える。
そしてあの武人の、セイジ・シドウの武を認めぬ誰かに、さらにやり場の無い怒りを抱く。
何故だ。何故判らない。
自分の、この天才たる自分の攻撃を受け止めてみせようとしたほどの気概を持つ者の才を理解してやらぬ。
才があると自分が認める。
この天才たる自分が認める。
セイジ・シドウには小細工など入らぬ。
仕組まれた栄光など必要ない。
あの武はいつか、それも遠くない未来に輝くというのに。
ここで無くすのは惜しい。
無くさせてはいけない。
だから自らの手を犠牲にした。
柄を打っていた右手で剣を掴み、左手を柄から放して前に滑らし、自ら羽根の剣を叩き下ろすという暴挙をしてまで、その命を奪うはずだった切っ先の向きを無理矢理に変えた。
しかしそこでもまた誤算が生じた。
自分の肉体ならば、刀身を打って怪我を負うとしても切断までいかないと判断していた。
だが違った。
セイジが構えた刀には、刀身強化のためにセイジの闘気が込められており切れ味が増していた。
羽の剣を打ち下ろすと同時に、構えられていた刀へと接触した左手は、闘気による肉体強化の防御限界を超えて、あっさりと切断されてしまった。
咄嗟に傷口を閉めたから血の流出は最低限に押さえたが、誤算も良いところだ。
しかもそこまでしたというのに、それでも怪我をさせてしまった。
左手一本を犠牲にしても、心臓を狙っていた切っ先をかろうじてずらすだけで、右足を深く抉ってしまった。
斬るべきで無い者を斬ってしまった。
ズキズキと痛む左手よりも、心が痛い。
自ら汚してしまった剣士としての誇りが痛い。
大声で泣きたいほどに、悔しくて、情けなくて、不甲斐ない。
だが泣いて等いられない。
自分を斬るほどの、武器へと闘気を込めれるほどの武芸者をこのまま醜悪な策謀の中心に、据え置けなかった。
だからあの一瞬で、状況を判断し、どうするべきか考え、どうすることで最良へと至るかを決意した。
故に託した。
故に自分は逃げなければならない。
故に自分の正体を知られてはいけない。
自分が逃げなくては、最悪の中の最良へとは至らない。
『どうする気だ! こちらには逃げ場など無い! 昨夜の地下水路に繋がる大井戸跡があるようだが、今は幾重にも組上げられた石の下で、ここからは潜れぬぞ』
ラフォスの言葉に判っていると怒鳴り返したくなる気持ちをケイスはグッと堪えながら、挑戦者達の間を瞬く間に駈け抜け、目の前の柵を跳び越え噴水池の中に踏み込む。
逃げようとして池を目指したのでは無い。
周囲を囲まれこちらしか逃げ道が無かっただけだ。
考えなど無い逃亡。
だからすぐに行き詰まる。
膝ほどまでしか無い水を掻き分けて進んでも、すぐに壁に追い詰められてしまう。
目の前に立つ壁の上には、英雄フォールセンが率いた英雄パーティの石像達が立ち並ぶ。
石像の足元からは、地下から汲み上げられた冷たい水があふれ出して、蒼白になったケイスの顔を映しだしていた。
この壁を飛び越えても、その先は、特設された来賓席の中央付近にでる。
もっとも警備が厳重であるべき場所には、既に警備隊員達が展開していた。
後方から迫る隊員達も含めれば、あと僅かな時間で逃げ場を完全に失う包囲網が完成する。
思わず見上げた石像の冷たい石の目が、ケイスを見下ろす。
浅はかで浅慮な自分が笑われているような錯覚をケイスは覚える。
笑われて当然だ。
自分はつい先ほどまでセイジ・シドウを斬る事しか考えていなかった。
後の事など考えていなかった。
ただ斬る。
それだけだ。
だから使ってしまった。
自分がもっとも好み、だがそれ故に奥の手であり、生命力のほとんどをつぎ込む大技『逆手蹂躙』を。
その所為で残った生命力はあと僅か。
ただでさえこの広場にいるのはケイスよりも遥かに格上の手練ればかりだというのに、今の状態では、その包囲網を破れるほどの力などない。
しかも不本意ながら、ソウセツまで一時的に退けてしまったことで、必要以上に警戒させてしまったのか、パッと見でも隙が見当たらない包囲網が瞬く間に作られている。
術者たちの簡易詠唱を聞き分け、浮かぶ魔法陣から種別を判断。
噴水周囲を幾重にも囲むのは逃亡を阻止するための遮断結界。
待機状態で生み出されるのは多種属性の捕縛魔術。
さらには既に魔具はその力を失っているというのに、それを知らぬ隊員達は対空間転移用の時空妨害魔術まで展開しようとしていた。
絶体絶命の状況下にケイスの頭脳が最大効率で稼働を開始する。
激しく動き出す脳を駆け巡る血によって顔が紅色し瞳孔が開く。
血の躍動に合わせ、己が精神に剣を振り切り、思考を増やす。
一を二に。
二を四に。
四を八に。
幾重にも斬り重ね増殖していく並列思考を持って、刹那を秒に、数秒を数十秒に、その数十秒をさらに数百秒に引き延ばす。
ケイスが持ついくつ物の特殊能力のうちでもっとも高度であり、そしてもっとも異常である思考能力が、砂時計の一粒の砂を、大砂漠へと変える。
人の身でありながら、複雑怪奇な龍魔術を理解し用いることが可能になるほどの高速並列思考こそがケイスの最大の力であり、最後の武器。
それは魔力を捨てた今でも変わらない。
一瞬の攻防に数千もの思考を行い、天賦の才を重ねることで、ケイスは近接戦闘の天才として成り立つ。
世の魔術師がケイスの力を知れば、嘆き、悲しみ、そして怨嗟の呪怨を発するだろう。
なんという無駄を。
なんという馬鹿なことを。
この力があれば、魔力さえ持つならば数千、数万の魔術を同時に使用することもできるというのにと、嘆き悲しみ、これが我が力ならばと血涙を流すだろう。
この力を手に入れられるならば、聖人や賢者であっても、己の魂を、それでも足らなければ己の血に連なるもの全ての魂を贄としても捧げてもいいと望むほどの異常なる能力。
それほどまでの力を、ケイスは唯々思考する為に用いる。
その分裂した思考であっても全てがケイスであり、その思いは変わらない。
自分は逃げなければならない。
ここで捕まるわけにはいかない理由が生まれてしまった。
自分は不本意ながらも、ソウセツの過失もあって一時的にとはいえ打ち負かしてしまった。
これはダメだ。
これだけはいけない。
ソウセツの力、高名がなくしては、セイジ・シドウを守れない。
自分が傷つけてしまったせめてもの詫びに、あの武人をこの謀略から救わなければならない。
それしか今のケイスには出来無い。
それ以前に許せない。
許してはいけない。
自分のようなまだまだ未熟な小娘が、敬愛し、そして今は大嫌いになっている叔父の名誉を汚すなど、絶対に許せない。
これだけは譲ってはいけない。
だから考える。必死に考える。
何十、何百ものケイスが考えた逃亡案が脳裏をよぎる。
何百、何千ものケイスが理由をあげその案を却下する。
手が無い。
これ以上は手が無い。
今の力ではどうすることも出来無い。
考えても考えても答えは出ない。
当然だ。元々無い答えなど導き出せないのだから。
だがそれでも考える。
譲れない物があるからだ。
その時、水鏡に映った己の黒檀色の瞳が光の反射か、一瞬透き通る水色に染まったようにみえた。
それは魔力を生みだし、魔術を自在に扱えた幼き時のケイスの瞳の色だった。
その幻想を見たせいだろうか?
譲れないならば、開放するしか無い。
何千何万何億にも分裂した思考の中の一人のケイスが不意に告げた。
禁忌を。
譲ってはいけない物を、譲れないものために譲ってしまえと。
一人のケイスが発する。
自分の力ならば、本来の生まれ持った魔力ならば、この程度の事など造作も無い。
一人のケイスが導き出す。
魔術があれば低位の探索者が幾人集まろうとも物の数では無い。
一人のケイスが判断する。
龍の魔術であれば高位の探索者であろうとも互角以上に渡り合える。
一人のケイスが断言する。
残り僅かな生命力であろうとも、本来の魔力変換に用いれば、この街を一瞬で灰燼へと焼き払うほどの大魔術を行使が出来る。
一人のケイスが思い出す。
自分の頭脳は数千、数万、数億の魔術を同時行使出来るだけの思考を可能とする。
一人のケイスが提案する。
私の心臓は数千、数万、数億の魔術を放ち続ける無限の魔力を生み出せる。
一人のケイスが確信する。
それこそが私の本来の力だ。
瞬く間に無限のケイスが魔力を取り戻せば、この窮地を凌げると答えを導き出す。
世界の全ての存在を敵に回しても、それでも凌駕できる。
それこそがあるべき姿だ。
そうすればこの困難さえも乗り切れる。
いや困難などでは無い。
児戯だ。
戯れだ。
片手間で済むほどの小事だ。
禁忌のはずの答えがケイスの中にあふれ出す。
今までにはあり得ないほどの誘惑がケイスの心を占める。
ケイスは分かれたまま思考する。
何故か?
何故だ?
思考する。
ここの所その兆候は増えていたと気づく。
思い出す。
愛剣である羽の剣を。
過去のロウガの街を覆う赤龍の群れを。
その記憶を元に試行する。
そしてなるほどと納得する。
ラフォスに触れてから、共に過ごすようになってから、龍の力への誘惑に捕らわれる傾向は増えていた。
だがそれでも押さえられた。
まだ禁忌が強かった。
しかし今はさらに強く、抗い難くなってしまっている。
そうなってしまった決め手は昨夜だ。
自分は赤龍の残した力に触れた。
魔力に触れた。
己の中に眠る二つの異なる龍種の血が、ラフォスと赤龍の魔力に触れたことでそれぞれにより活性化しはじめている。
異なる龍が共に喰らいたがっている。
戦いを始めようとしている。
今までその衝動を、類い希なる強靱な精神力で押さえてきたからこそ、自分は無事でいた。
兄のように相反する龍の血に苦しむことも無く、フォールセンのように戦えなくなる事も無く、押さえて来られた。
だがケイスの中に眠る龍の、龍王の血は、もはやそれでは押さえきれないほどに強まっている。
自分が強くなることで、中に眠る血もまた強くなっていた。
溢れんばかりに高まっているところに、二つの楔が打ち込まれたのだ。
もはや押さえる限界が来ている。
開放しろと盛んに騒ぎ立てている。
取り戻せと血が叫んでいる。
故に我を忘れ怒りに縛られた。
龍の血は激情を呼び起こす。
禁忌を開放すれば戦える。
まだ戦える。
龍の力を持つ自分であれば、敬愛し大嫌いなソウセツとてその名誉は汚れない。
それほどまでに圧倒的な力だ。
ならば開放すべきだ。
青い目を、魔力を取り戻すべきだ。
9割9分9厘9毛のケイスが開放を望む。
しかし、しかしだ。
ただ一人。最初のケイスだけはどうしても思う。
だから最初のケイスは、無限に分かれた己に告げる。
【だがそこに剣は無いぞ】
その瞬間全ての分裂したケイスが一斉に謳い、心よりの叫びを求め始める。
困難を打ち砕く剣が欲しい。
難敵を斬り倒す剣が欲しい。
守る為の剣が欲しい。
殺す為の剣が欲しい。
突き進む為の剣が欲しい。
譲らぬ為の剣が欲しい。
己を全て捧げられる剣が欲しい。
己に全てを捧げてくれる剣が欲しい。
獣を切り裂く剣が欲しい。
人を貫く剣が欲しい。
魔獣を抉る剣が欲しい。
龍さえ刻む剣が欲しい。
自らの技に答える剣が欲しい。
自らを証明する為の剣が欲しい。
世界でもっとも切れる剣が欲しい。
世界でもっとも鋭い剣が欲しい。
世界でもっとも頑丈な剣が欲しい。
運命を切り開く剣が欲しい。
運命を正す剣が欲しい。
神さえも斬り殺す剣が欲しい。
剣さえあれば自分は負けない。
魔術師が己の全てを捧げ望むほどの能力。高速並列思考。
だがその超常の力よりもケイスは、ただ剣を望む。
何故か?
答えは簡単だ。ケイスは剣士だ。
それだけのこと。
だが故に唯一無二。
それ故に完全無欠。
原初なる絶対法則。
ならばどうする?
決まっている。
剣だ。剣を持って龍の血を制す。
押さえてきた龍の血がもはや押さえきれないならば、開放すればいい。
その上で剣に託す。
託せば、昨夜受け取った技が使える。
そうなればこの窮地を脱出できる。
つまりはいつも通り。
剣をもって全てを越えてみせるだけだ。
無数に分裂したケイスの思考は、唯一無二にして完全無欠の絶対法則によって統合され、この窮地を脱するべきあり得ないはずの答えを導き出す。
「ふむ」
我に返る。
水が作り出す己の写し姿をみれば、その瞳は自慢の髪と同じく母譲りの黒檀色の瞳をしていた。
それを確認したケイスは尊敬する英雄達の石像に背を向け振り返る。
周囲の状況や展開した魔法陣をみるに、包囲完成まではあと3秒ほどしかない。
すると今回は5秒以上も考えてしまっていたようだ。
決まりきったはずの結論を出すまでの時間が情けない。
自分はとうの昔に剣だけを選んで覚悟を決めていたはずだというのに。
『お爺様。かなりの無茶をするぞ。この下には井戸の跡があるのだろう』
先ほど答えられなかったラフォスの問いに心で答えたケイスは、頭の中でその案を明かす。
しかしそれは無茶という類いではない。
無理というものだ。
『待て! 確かにこの直下には空洞があるとはいったが、いくら何でも無理がすぎる! 娘とて死ぬぞ!』
ラフォスが慌てて制止する声が響くが、ケイスは無視して羽の剣を横構えに構え、その切っ先に刺さった己の左手を、左の二の腕で抱え込むように引き抜く。
完成した包囲網を形成する遮断結界が発動すると同時に、ケイスは誓いを口にする。
『帝御前我御剣也』
かつてこの地にあった古き国の言葉。
守護の言葉。
ケイスが人として歩むための言葉。
そして昨夜この言葉には新たな意味が加わった。
死してなおも蘇ってみせた先達達の思いと技を受け継ぐ意思を表す誓い言葉。
彼らは龍を屠ってみせた。
ならば自分も負けるわけが無い。
負けるわけにはいかない。
己の中に眠る龍王の血に負けてなるものか。
丹田と心臓を意識し、普段は無意識に押さえ込んでいる枷を自ら破壊。
生まれてからずっと抑え制御してきた龍王の血を初めて全開で呼び覚ます。
その瞬間、全身が燃え盛るような熱さと、骨身が凍りつくような寒さという、相反する二つの激痛がケイスの全身を駆け巡り始めた。
「!?」
全身から無数の焼けた釘が飛び出し、駈け巡る血にざらついたみぞれが交じって身体を内側から削られるような激痛。
予想以上の激痛に意識が飛びかけるが、その直後に続いた激痛の第二波が無理矢理に意識を呼び覚ます。
龍の力は現実をねじ曲げる。
ケイスがそう感じたからなのか?
実際に皮膚が内側から何かが飛びだしてきたかのように裂け、ブチブチと音をたてて血管が切れて、全身が青黒く染まりながらどくどくと血が流れ始める。
瞬く間に足をつけていた池の水が瞬く間に赤く染まっていく。
治りきっていない傷口や切り落としたばかりの左手首の傷が不自然に収縮し、さらにはとっくに完治したはずの古傷が浮かび上がり全身を引き裂こうと筋肉が暴走する。
二つの龍種の血がケイスの中で激しい争いを始めていた。
これは制御は出来無い。
未来は判らないが少なくとも今は出来無い。
この暴虐の力に抗うほどの力をケイスは持たない。
常人ならば正気を失う絶望のような痛みの中、狂人たるケイスは唯一の喜びを見つけ何とか正気を保とうとする。
なるほどこれか。これが兄様の痛みか。
ケイスは初めて兄の抱える痛みを体感しているのだと気づく。
故にますます兄が好きになる。
これほどの痛みをずっと我慢してきたのか。
これほどの痛みを常に抱えながらも、自分に笑いかけてくれたのか。
自分に構ってくれたのか。
これほどの痛みに耐える強い精神をもち、それでも優しさを失わない兄をケイスは誇りに思う。
だから兄を皇帝とする。
痛みを知りながらも、優しさを持ち続ける兄こそが、民を統べる皇帝にふさわしい。
自分が兄の剣となって、兄を守る。
その為にはこんな所で、力尽きるわけにはいかない。
制御が出来無いとしても、己は己のままで突き進むだけだ。
燃えるような赤龍の灼熱の血を宿す闘気を、左の手へと。
凍えるような青龍の極寒の血を宿す闘気を、羽の剣へと。
暴走し駈け巡る闘気を必死で操り、二つの種類へと無理矢理により分ける。
己の身一つで属性の異なる多重の闘気を生み出せるケイスだからこそ可能な神業をもって、この窮地を脱する剣技を放つための準備を命がけで敢行しはじめる。
制御はできずとも、一瞬の波を見つけ、その瞬間に合わせる。
天才たる己の才覚を持って、制御出来無い波の中で技を放つ機会を窺っていた。
「っ! ゅぁっ!!!!!」
悲鳴とも雄叫びともつかない声と共に、追い込まれたはずの襲撃者が異様な気配を発する。
全身を覆うローブの下の肉体が不規則に蠢き、さらに全身から血が吹き出し、池の水を赤黒く染めていた。
あまりにも異常な雰囲気。あまりにも異様な状態。
迷宮に挑み数多の化け物を屠ってきたやり手の探索者達で構成されている隊員達ですらも、思わず詠唱を止め、包囲が崩れると知りながらも後ずさるほどの圧力をもった気配が生まれていた。
歴戦の強者である探索者達ですらその有様だ。
広場に詰めかけていた一般の群衆は、異様な気配を発する襲撃者とは大分離れているのに、腰が抜け倒れる者や、苦しげに心臓を押さえ嘔吐し出す者が続出している。
しかしまるで地獄絵図のような状況なのに誰も逃げようとしない。
いや違う。逃げられないのだ。
その気配の名を、襲撃者が放つ気配の正体を知る者はこの広場にはごく少数しかいないが、知らずとも誰もが理解してしまう。
萎縮し、恐怖し、拒絶するべき忌むべき気配だと。
この気配の前に人は絶望し、逃げる力さえも無くすと。
「……龍王」
負傷し治療のため一時的に後退しているソウセツに変わり陣頭指揮を執っていたナイカは、苦悶の声をあげるケイスを見て我知らず声を震わせ、小さくつぶやく。
かつてロウガ開放戦の折に遠目に感じ取った赤龍王の気配とは比べものにならないほどに弱いが、それでも間違いない。
この身の毛もよだつ悪寒と、拒否感を伴う気配を放つ存在はこの世に一つだけ。
すなわち全生命の天敵。絶対たる暴虐なる龍の中の龍。龍王が放つ気配に他ならない。
ケイスよりもさらに強い気配を放っていた龍王を知っていたからこそ、ナイカはまだとっさに動けた。
だがそれでもこれは予想外だ。予想外にもほどがあり過ぎた。
捕縛では無く、殲滅を考えるべきだったかと、その胸に後悔が過ぎり、気がつけば愛用の弓をその手に掴んでいた。
何をしでかす気かは判らぬが……今ならばその心臓を射抜けるのではないか?
ケイスを生きたまま捕縛するはずが、何故かそんな誘惑に駆られたナイカは、次の瞬間には無意識に矢をつがえていた。
そのナイカの行動が運命を後押しする。
ケイスを死なせない為に世界が動く。
まだ目覚めきってない龍王を守るために、世界は回る。
不意にわき起こった強烈な殺気をうけて、ケイスの感覚が最大まで研ぎ澄まされる。
極限の感覚が荒れ狂う波の中で一瞬みせる凪を捉えた。
「邑源一刀流!」
その瞬間、抱えていた己の左手を水面に落として、両足に力を込めてケイスは高く垂直に跳び上がる。
跳躍の頂点でクルリと回りながら空中で体勢を作り、右手で持った羽の剣を投げ槍のように構え、赤く染まった池の中心部に浮かぶ己の左手へと狙いを定める。
心の中で見た荒武者のその動き、闘気の操作を思い出し、模倣してのける。
「派生石垣崩し!」
呼気と共に右手を力強くふって青龍の闘気を宿した羽の剣を最大加重状態で、切断された自分の左手へと、赤龍の闘気をたらふく含んだ標的に向かって投げつけた。
雷光のような速さで飛翔した羽の剣が、ケイスの左手だった物を貫きさらにその破壊的な自重をもって池の底石をたたき割りその内部まで深く沈み込む。
次の瞬間、底石に沈み込んだ剣の中の闘気と、手の中の闘気が反発しあい膨れあがり、大きく弾けた。
頑強な龍の肉体さえも粉々に弾け砕く技の前では、底面にしかれた石はひとたまりも無い。
一瞬で池の水が蒸発するほどの熱量によって巨大な蒸気の熱風がわき起こり、細かく砕けた石片を巻き上がった。
火山で起きるような水蒸気爆発が、池の底を粉々に砕くが、ケイスを逃がさないために池の中心部周辺に展開していた遮断結界が、内部から全ての存在が外に出ることを防ぎ、かろうじて被害を最小限に留める。
粉々に砕いた池の直下に現れた底の見えない大穴を、空中のケイスの目が捉えた。
それはかつてこの場所にあった狼牙城の大井戸跡。
新市街地が整備されたときにはあまりの深さと大きさによって埋め立てることができず、さらには英雄達が地下へと潜った由緒ある場所だったために、その上に英雄達の石像を置いた噴水広場として作られたのは有名な話だ。
石の下に隠されていたその井戸が、ケイスの放った大技によって百年以上振りにその姿を現していた。
その大穴の中へと吸い込まれるようにケイスは落ちていく。
深い暗闇の壁が高速で目の前を通り過ぎていく。
底まで墜ちる前に着地するために体勢を立て直さなければならないが、力を使い果たし激しく傷ついたケイスの身体はもはや指一本さえ動かず、意識さえ定かでは無くなる。
あまりの無茶と無理の反動で、ケイスはほぼ死にかけていた。
身体を動かすための闘気の流れは無茶苦茶に入り乱れ、いつ心臓が止まってもおかしくないほどだ。
失いかける意識の中、底を流れる水音だけが聞こえてきた。
(これだけ…水の音が聞こえるならば、身体は自然と流さ……)
「まさかここにまた命がけで飛び込むことになるとはな」
水音とは違う何かがすぐ側で聞こえ、身体を受け止められたような感覚を最後に、ケイスの意識は周囲の暗闇よりもさらに深い闇へと沈んでいった。