上流の山岳地帯に起きた気候変動の影響で建設当時よりコウリュウの水量が増えたせいか、地下貯水池の水かさも大幅に増して、羊皮紙に書いてあった最下層へと続く正規通路は、今はどす黒い水面下に水没していた。
仕方なしに壁の凹凸を足場にして、対岸に向かって蹴り進むケイスに、ラフォスが戦闘方針を確認する。
『それでどうする娘? あの死霊術師の話では、死霊の群れの中に突入することになる。いくら斬れたとしても、攻撃はどうやって防ぐつもりだ』
生前の意識を持つレイスはまだ危険度は低いが、記憶や自我を失い本能的に生者に襲いかかるヴィロウファントムや、精神へと取り憑き肉体を奪おうとするエビルスピリット等、質の悪い死霊はいくらでもいる。
それら霊体が繰り出す攻撃に対抗するには、精神へと侵入されても抵抗しはじき出せるように体内に流れる魔力を強めるか、そもそも侵入されないように聖職者による護符や結界神術で弾く等が一般的だ。
しかしその両者ともケイスは今は保有していない。
「討伐ではなく探索メインだから直接戦闘はなるべく避け回避重視で行くつもりだが、決定は数や配置を見てからだな」
地図を信じるならば最下層は大きな柱がいくつかあるだけの広い空間となっている。
潜入するならば物陰が多い方が有利なのがセオリーだが、生体感知のできる死霊相手では意味は無い。
最高速度で突っ込んで死霊に囲まれる前に遺体を回収して即時離脱。
単純明快な方針をケイスは攻略基本ラインとしていた。
『何時もの力任せはいいが、回避しきれず攻撃を受けた場合にどうするかと聞いているのだがな。もう少し防具にも気を使うべき時期が来ているのでないか?』
当たらなければいいと返ってくると判っているが、ラフォスはケイスと出会った当初から何度も口にした苦言を再びする。
ケイスの戦闘力が物理的攻撃に限定されるが極めて高い事実は、ラフォスにも異論は無い。
だがその攻撃力に対して防御力は著しく低く、敵対者が同格や格上だった場合、攻撃を回避しきれず勝っても大怪我を負うことが多すぎる。
闘気による身体強化で常軌を逸した回復力を持ち合わせているから、何とかなっているが、それも生き残れればこそ。死んでしまえば元も子もない。
「……仕方ないだろ。お爺様以外の武器はすぐに壊れてしまうのだから」
自分の弱点や防御力を強化すべきだとはケイスも判っているが、どうしても剣が優先になる嗜好というか欲望に忠実なケイスは、すぐ壊れる武器が悪いと答える。
頑丈な大剣はヒビが入り壊れ、投擲系武器は折れ曲がり使い捨て、短剣は小枝のようにポキポキと叩き折る。
使い方が無茶なのか、剣技が苛烈すぎるのか、それとも戦闘頻度が多すぎるのか、あるいはその全部か。
なんやかんやで金が入ればそのほとんどを武具につぎ込む浪費癖と、買い集めた武具を躊躇無くたたき壊す破壊癖は度を超していた。
『欲しいと思ったからと反射的に買うのでは無く、金を貯めてもっと良い物を買うか、ひたすらに頑丈な物にしろと何時も言っているであろう』
壊してしまうならばもっと良質で頑丈な武器を手に入れればいい。
だが最上な物は、ケイスではまだ手がでないほどに高く、そしてただ頑丈なだけの武器はケイスの嗜好に合わない。
買える金額で質を優先すると、どうしても頑丈さに劣る物になる。
そしてそれらを差っ引いても、見れば買いたくなるのだから仕方ない。
今日には飢え死にするかも知れないほど貧困していたとしても、手持ちに小銭があればそれでナイフを仕入れて、獲物を狩って目一杯に食べる。
本能的狩猟生物であるケイスには、何をさておいても武器だ。
「……い、一期一会という言葉が人の世にはあるんだぞ。天才たる私が気に入る剣も稀少だし、そんな天才たる私に出会った幸運を、折れてしまったとはいえ武器達も感謝しているはずだ。それに私が買ってやらねば、ただ錆びついたり無駄に使われて、その力を出し切れ無かったかも知れないんだぞ。私は全ての武器を余すこと無く使ったと自負しているぞ」
ラフォスの説教に分が悪いと感じて少し早口になったケイスは、自分を正当化する言い訳を並び立て始める。
尊大な口調とは裏腹に見た目以上に精神的にはまだ幼い末の娘には、これ以上は苦言を呈しても拗ねるだけだ。
『ついたぞ娘。この真下あたりに下層へと続く水路があるはずだ。水面下は暗闇。気を引き締めろ』
丁度目的地の真上についたこともあって、ラフォスはこれ以上は堂々巡りになる会話を打ち切り警戒を促す。
本来の通路は水没しているうえに、入り口は頑丈な鉄扉で封鎖されているとのこと。
さすがに抵抗の強い水中ではケイスと言えど自在に剣は振るえず、水圧で重くなっている扉を開く剛力もあるはずが無い。
だがその代わりに、探している遺体が吸い込まれた旧い水路があるはずだ。
迷宮外とはいえ、水面下には何が潜んでいるか判らず、暗い水の中では上下の感覚すらすぐに失ってしまうことをラフォスは懸念する。
「むぅ。心配するな。お爺様を手にしているのだ。私が気を抜くはずがないだろう」
自分は剣士。剣を手にし戦場へと赴くのだ。油断などするわけがない。
勝ち気な笑みを浮かべたケイスは、壁を蹴ると汚れた水の中に飛び込む。
水の表面は少しぬるっとした感触とべとべとした油分の層ができていた。
薬師や錬金工房から出た廃水も混ざっているのだろうか、肌を焼くような痺れと目と鼻が麻痺しそうな刺激臭の膜を素早く通り抜けて、さらに下の水面へと潜る。
壁に手を触れながら潜っていくと、すぐに感触が変わり、大きな横穴が開いている場所を見つける。
元は鉄格子でふさがれていたのだろうが、錆びて腐り落ちたのか、枠の部分が僅かに残るばかりだ。
横穴には水が流れ込んでいて、弱いが流れが出来ている。
一度入れば、ここから戻るのは難しそうだが、古地図を見た限りいくつかの通路があったので、水没していない道もあるだろう。
冥界へと続くかのように、暗く底が見えない横穴へとケイスは躊躇無く身体を入れると、そのまま先へと進んでいく。
傾斜した横穴を流れの勢いも借りて、ケイスは手早く泳ぐ。
元々は通気口だったという横穴の壁面には今も起動する浄化術式も刻み込まれていたのか、みるみるうちに水が綺麗になって、悪臭も消え失せていた。
穴に入って5分ほど泳いで少し息が苦しくなってきた頃に、傾斜がなくなり、水流も穏やかになり並行へと変わる。
そのまままたしばらく進むとだんだんと穴が広くなってきて、底には無数の瓦礫が転がる部分へとたどり着く。
「っぷはぁ……空気は問題無く吸えるな」
上に向かって泳ぐと頭スレスレしかない水面へと顔を出し大きく息を吐き、吐いた分だけ吸う。
今の倍の時間くらいまでは息を止める事も出来るが、禄に呼吸できなくては戦闘などまともに出来るはずも無い。
体中に取り込んだ空気を送り息を整えたケイスは、真っ暗闇の先へと目を向ける。
静まりかえった暗闇の中に反響して響くのは、ケイス自身が発する呼吸音と、その長い髪から水面へとしたたり落ちる水音だけだ。
地図で覚えていた限りでは、この大きな通気口は、一度目的の大部屋の下まで沈み込んでその中央を抜ける形でなっていた。
構造的には下の大部屋に水が溢れそうな物だが、浄化術式を刻んだ辺りを抜けたくらいから水流が目に見えて衰えていたので、水流調整機能も仕込んであったのだろうか。
『いざというときは、今のように上の貯水池を全面的に水没させて隔離する仕様だったかも知れんな』
複雑に入り組んだ最上部の水路。
巨大な容積を誇る中間の貯水池。
そして魔術的措置が施された最下層の大部屋。
この巨大な構造群が、籠城戦での連絡通路や、街が制圧された際の避難所としての役割も持っている防衛設備の1つとすれば、ラフォスの推測も合点がいく話だ。
「東方王国の最重要港でもある”狼牙”の地下には、避難所がいくつもあったと御婆様の昔語りに聞いたことがある。だが突然の火龍の襲撃で逃げ込めたのは少数。さらに無事に脱出来た者は3桁にも満たなかったそうだ」
当時で世界最大級の規模を誇っていた狼牙の街は、今のロウガよりもさらに広い都市圏を持っていたと言われ、40万を越える人達が住んでいたという話もあるほど。
だがその狼牙に住んでいた住民や、東方王国最精鋭と謳われ狼牙兵団も龍の前には脆かった。
兵団長であるケイスの曾祖父。邑源宋雪を初めとした幹部クラスは上級探索者、それ以下の兵は全て中級探索者という屈強な狼牙兵団ですら、火龍の群れに挑み、全員が死亡している。
祖母のカヨウが最後に覚えている旧狼牙の景色は、天を埋め尽くすほどに出現した火龍の群れ。
そして次々に着弾する火球によって、紙くずのように吹き飛ばされる兵達と、炎に焼かれ狂ったように大河コウリュウへと飛び込んでいく住民達だったと、ケイスは聞いている。
数百年前に起きた惨劇とその被害者達。
ケイスが今から向かう先は、その時の思念が色濃く残っている場所だ。
『人の心身は我ら龍から見れば矮小なれど、積もれば馬鹿にはできん。努々油断するな。娘は人なれど龍。しかも我ら水龍のみならず火龍の血すらも取り込んでおる。その者達を刺激するであろう』
年月を経た霊体、死霊たちには大抵個人の意思や意識という物が摩耗して残っていない。
彼らは死ぬ直前に抱いた強い感情に支配されている。
それは怒りだったり、悲しみであったり、または恨みであったりと、いわゆる負の感情と呼ばれる物だ。
龍に殺された者達。その苛烈な魔力で焼かれた痛みや恐怖は、身体のみならず魂すら焼き、死んだくらいで消えるはずが無い。
龍の魔力をその魂魄に刻み込まれたからこそ、彼らは未もこの世に残り続けている。
そんな彷徨う魂が集う場所に、魔力を持たないとはいえ龍の血を宿すケイスが飛び込めば、死霊達が活性化するのは目に見えている。
「そうだな……少し良いことを思いついた。回避は止めだ。真正面から行くぞ」
大人しくしていろというラフォスの警告に、ケイスは明るい声で返事を返して、水面から顔を出したまま、すいすいと前に進んでいく。
一寸先も見えない暗闇の中でも、華やかな笑顔を浮かべていると判るくらいに場違いに弾んだ声だ。
確信的に、ラフォスは厭な予感を覚える。
ケイスが良いことと言う場合は、例外なく碌でもなく、そして非常識なことを思いつき、さらに助言など聞き入れずに邁進すると知るからだ。
血脈の末端に位置した末の娘ながら、その身に色濃く龍王の血を蘇らせたケイスの思考は、人の物でも、龍の物でも無い。
ケイスはケイスという概念の元に動く一個の生物とでも思った方が諦めもつくので、気分的にはまだ楽だ。
『まったく、孤独には慣れているつもりであったが、愚痴をこぼす相手がこうも欲しくなるときがくるとはな。ウェルカめ。娘の世話を押しつけおって』
ケイスが始母と呼ぶ現深海青龍王でありラフォスの娘であるウェルカ・ルクセライゼンは、時折精神世界を通じて顔を出しには来るのみだ。
封ぜられていたときと違い、ケイスといれば退屈だけはしないが、心労が日々募るラフォスは、次にウェルカが来たら来訪回数を是が非にでも増やしてやろうと心に決めた。
「広いところに出たな」
水面から顔を出していたケイスは、空気に混じる匂いが変わった事を敏感に感じる。
相変わらず先も見えないほどの暗闇だが、周囲が開けた部分に出たと、匂いや反響音が伝える。
右手の羽の剣を振るって、周囲を探ってみるが手応えがないから間違いなさそうだ。
壁面へと左手をかけ腕力のみで水面から身を引き上げたケイスは身体を震って、水を払い落とすと、もはや原型を止めていないドレスの懐に手を突っ込む。
カエル皮の小袋を取り出し、その中に入っていたキャンドルスライムの体液を太ももに縛り付けていた大腿骨にこすりつけてから火を灯す。
周囲は明るくなって見えたのは、どこまでも続く古い石組みの床と、どこまでも伸びた背後の壁。
右手には泳いできた水路にゆったりと水が流れていて、その対岸にも闇が広がっている。
前と左右、そして上に伸びた光りは、すぐに暗闇に飲み込まれて先を見通す事が出来ない。
羽の剣を一振りして、床石を力強く叩く。
反響音で空間の広さを測ろうとするが、音は広がっていくのみで返ってこない。
とてつもなく広いか、それとも音吸収の仕掛けでもしてあるのか。
広さも判らない暗闇の中から死骸を探すのは、難儀かも知れないが、死体が流れ込んだ水路という目印がある。
動き出したら迷いなど無いケイスは意気揚々と一歩を踏み出そうとするが、
「ん……早速出たか」
すぐに立ち止まり、空気が変わった周囲を警戒する。
空間が軋む音が周囲に鳴り響き、うっすらとした靄が床や壁面、水路、至る所からわき出し始めた。
重なり合っているのでただの霧状にも見えるが、僅かな濃淡を目安によく見れば、それぞれが人の形をしているようにも見えなくもない。
これでは死霊を回避するという選択肢なんてとても取れた物ではない。
視界の全てをその靄が覆っている。
『多いとは聞いていたが、この数は……娘。厭な予感が当たったぞ。少なくとも私が感じられる範囲の全てに死霊共がわき出てきておる』
ゆらゆらとうごめく霧は周囲の熱を奪っていくのか、寒気を覚えるほどに急激に体感温度が下がり始める。
周囲に鳴り響いていた軋む音は徐々に音程を変え、無数の怨嗟の声が篭もった物へと変わり、痛みや悲しみ、怒り、様々な感情が精神に直接響いていく。
気の弱い者であれば発狂しかねないほどの暗く重い感情。
その数は、千や二千という生ぬるい数ではない。
ラフォスの懸念は当たる。
ケイスの中に眠る赤龍の力を感じた死霊達は、その力を強め、こうして物理的な力として感じられるほど濃密な気配と音を生み出し始めていた。
嘘偽りない大都市1つ分の魂達の怨嗟が、この地下の中にはあふれかえっている。
「ん。強く残っているな。よいな……ではお爺様行くぞ!」
だがその数十万人が残した強い怨嗟を前に、たった一人の狂人は力強く笑ってみせる。
炎に照らし出されたその顔に浮かぶのは、この状況に似つかわしくないにもほどがある大輪の笑顔。
その感情が現す。
嬉しくて嬉しくてたまらない驚喜であり狂喜にして狂気を。
やはり自分の思いつきはよいことだ。
こうして死してもなお残った者達がいるならば、その思いは継がねばならない。
かつて存在した東方王国のことをケイスは詳しく知らない。
それはケイスだけではない。
今生の者の大半は数百年前に滅んだ国を知らず、知らぬとも困らない。
ただそこにあったと知識として知るだけだ。
祖母であるカヨウ・レディアス。
いや邑源華陽は知っているが、滅多に口にはせず、時折昔話で少しだけ語ってくれるのも平和な時代、龍が襲来する前の話がほとんどだった。
だからケイスは知らない。
死んでしまった人々の心を、残した無念を。
残された、生き残った祖母達が強く願い、抱いた思いを。
死者が残し、生者が積み上げてきた物の真髄を。
ケイスがこの世でもっとも素直に、もっとも誠実であろうとする物は剣でありその剣技。
自分は剣士であり、剣である。
ならば知らねばならない。
是が非でも知りたい。
己の源流たる剣技の心を。
剣技を生みだした死者達の心を、積み上げた祖母達の思いを。
「龍に破れ! 龍に屈し! だが死してもなお龍に対する抱くのは闘争心! さすが我が血と剣技の源流たる先達達だ!」
死霊達に人の言葉を理解するだけの意識はないかもしれない。
だがそれでもケイスは声を張り上げる。
意識無くともその存在に、魂に刻むために。
ラフォスの忠告の真逆をケイスは行く。
心臓に意識を集中。
丹田から生み出した闘気を注ぎ、心臓を熱く焼けるほどに活発化させ、膨大な龍の魔力を生み出すための器官を、龍の闘気を生み出すための器官へと変化してのける。
龍殺しの血を引き、赤と青、異なる龍種の血を引き、通常であれば反発し合う異種の力を押さえつけ、取り込み、我が物とする。
龍の中の龍たる龍王の精神を持って、この世の全てを喰らうために力を解放していく。
ケイスの中の龍の力が、巨大に、獰猛になる度に、反応した死霊達も大きく揺れ、さらに数と濃さを増していく。
それは霧というあやふやな物では無く、既に純白の壁と言って良いほどに集い濃くなっている。
一人対数十万。
それは常識であれば無謀の極みだ。
どのような強者であろうと、それだけの数を跳ね返せるわけがない。
だがケイスは違う。
むしろケイスに”たった”数十万の心で挑むなど無謀の極みだ。
未だ力は幼く弱くとも、その心は出来上がっている。
己の意思を通すためならば、何者でも敵に回す馬鹿者は、やがては世界の全てを敵に回し、それでも己を貫く事が出来る化け物なのだから。
「ならば褒美にもう一度龍と相対する機会をくれてやろう! そして残していけ! その情念を! 何よりその武技を! 貴殿達の心を刻み! 剣を紡ぎ私はもっと強くなる! 私が強くなるために貴殿達はこの時代まで残ったのだ! 故に誇れ! 貴殿達が残し物を糧に私はいつか世界最強へとなるのだから!」
全身が滾るほどに闘気が駆け巡り熱を帯びたケイスが吠えると同時に、白い壁は崩れ、大波となってケイスに一斉に群がる。
「ぐっ! がっ! っ!」
数十万もの霊達がケイスに重なり、その心に身体に入り込んでいく。
一柱が中に入る度にケイスが感じるのは、霊達が死ぬ直前に感じた痛みや絶望。
気がつけばケイスは、火炎の渦がいくつも立ち上る古代の街である狼牙にいた。
その街中でケイスは火龍の炎に直撃を受けて死亡した。
別のケイスは、火龍の尾によって身体がばらばらに砕け散った。
また別のケイスは幼い我が子を連れ逃げようとした最中に、龍にむさぼり食われた。
それは幻。だがかつてあった過去。
一柱一柱ごとに違う最後が残した、幻の痛みが、ケイスを殺そうと襲いかかる。
消えない炎の中で、肺が空気を求めようとして大きくあえぐ。
両足が砕かれ立ってられなくなり、身体が倒れ伏す。
両目が焼かれ、視界が暗闇に染まる。
全身を無数の裂傷が走り、血管の中にまで入り込んだ火龍の炎が全身を余すことなく焼き尽くす。
心の中で、ケイスは無限の死を体験する。
全てが同時に、そして何度も繰り返されていく。
常人ならばとうに狂死するほどの痛みと絶望。
だがケイスはそれらを全て喰らう。
耐えるのでは無い。
耐えて、すぎるのを待つのでは無い。
全ての幻の死と、かつてあった無念をケイスは受け止め、さらに先へと進む。
炎を吐こうとする火龍ののど仏を切り裂く。
迫る尾に剣をぶつけ、はじき返す。
自ら口蓋へと飛び込み、火龍の腹を食い破り飛び出る。
無限の死の一つ一つへと己の剣技を、まだ至らずともいつかは到達するであろう己の剣技をぶつけていく。
ケイスが示すのはただ剣を振ることだけ。
死者が抱く無念に宿る死の形を、龍という暴虐の固まりを、それ以上の暴虐で塗り替え、喰らっていく。
「行く……ぞ……おじいさま! お、邑源一刀……流……さ、逆手……ぐっ……双刺……突!」
その戦いは心の中だけで無い。
現実のケイスも戦いを始める。
羽の剣を握り、その身に宿る剣技を振るい始める。
それは力も入っておらず、型も崩れた剣技と呼ぶことも出来ない無様な物。
だがそれでも剣を振るう。
剣士である自分が出来る戦いは剣を振ることだけだからと知るからだ。
『しっかりしろ娘! 赤龍王ならともかく火龍の雑兵程度に負ければ、我が青龍の名が地に落ちるであろうが!』
本当に碌でもない事しか考えない。
剣しか頭になく、剣を通してでしか世界を見ない剣術馬鹿の思考に、ラフォスは呆れかえるしか無い。
だが剣術馬鹿の思考であるが故に、今は剣であるラフォスには判る。
ケイスが如何に本気か。
そして単純かつ真剣かと。
叱咤激励しながら、ケイスの望みに合わせ、形を変え、重さを変化させ、現実でも幾度も剣を振るっていく。
無数の死を辿り、巡りながら、ケイスはその死を斬り殺していく。
数十合、数百合、剣を打ち合わせ、己の死を、赤龍の死へ塗り替えていく。
だが強固にして暴虐なる龍は強く、ケイスは幾度も負け続ける。
何度も倒れ、喰らわれ、焼かれ、無限の死を迎える。
それでもケイスは、もう一度最初から立ち上がり、現実と幻の中で剣を振るい続ける。
勝てない、自分が死ぬ、殺されるという強固なイメージと、なにも出来無かった無念を抱く死霊達の前を行く為に剣を振る。
ケイスが振るう剣は邑源一刀流。
かつて東方最強と呼ばれた武家『邑源』に伝わる剣技にして、狼牙の守護者と呼ばれた邑源宋雪の振るった剣。
その剣は、意識も記憶も失い、ただ存在するだけだった死霊達の心を強く揺さぶる。
この剣を振るう者の元にかつて彼らは集った。
戦い続けてきた。
全ては国を、民を守るため。
東方王国という自分達の祖国を守るために。
命を失い、国が滅び、それら全てが遠い過去の物となっても、この剣を振るう者がそこにいるならば、彼らは再び立ち上がる。
ケイスの死角から迫って来た火球が、魔術攻撃によって打ち落とされる。
傷つき倒れ伏したケイスの身体に、即効回復神術が施される。
剣を打ち合わせ龍を足止めするケイスにあわせて、巨大な鉄槌が振るわれる。
ケイスを組伏していた龍が、長大な紅剣によって真っ二つに切り裂かれる。
無数の死の中で敗北を続けるケイスの横に、次々に古風な鎧武者達が現れ加勢していく。
「がっぁぁっぁぁっぁ!」
その加勢を受けケイスは吠える。
全ては幻。通り過ぎた過去。
だが剣を振るう以上、これはケイスの戦い。
ならばいつも通り勝つだけだ。
一気に世界が広がる。
無数の死が統合され、1つの巨大な世界が作り上げられる。
崩れ落ちた城塞。
天を埋め尽くす火龍の群れ。
渦巻く火災旋風が街を焼け野原へと変えていく。
それはケイスが知らないが、かつて狼牙に起きた現実の出来事。
ただそこには現実とは違う者達が存在した。
不意打ちを受け、集合もままならず、各個撃破され、無残にも崩れ落ちた最強の兵達が。
地上から天を見上げ吠えるケイスの横に、一人の壮年武者が歩み寄る。
その手には剣と呼ぶには長大すぎる刀身を持つ赤い長巻と、穂先まで黒一色で塗られた異形の直槍。
一剣一槍を携えた武者はケイスを一瞥もせず、ケイスの一歩前に出て、ただ同じように天を見上げる。
その目に宿るのは無限の闘志であり、その背が無言でケイスに語る。
自分達の最後をよく見ておけと。
『勇敢なる我が同胞よ! 唱えよ! 我らを奮い立たせ、戦場へと再び導いた剣士へと残すべき思いを! 見せよ! 我らが培ってきた技を!』
爆音が響き、火龍の怒号で覆われる戦場、だがそれでも明朗に響き渡る声が轟く。
その号令に合わせ背後の武者達が一斉に己の武具を構える。
『『『『『『『『応! 帝御前我等御剣也!!!』』』』』』』
武者達は異口同音で同じ言葉を唱える。
戦場の喧噪を破るほどの声と天さえ割るような気迫に、ケイスの全身が歓喜で震える。
それはケイスが宿す言葉。
背に主を守るときの気持ちを持って、いかなる苦境であっても全力を出し不敗であろうとする武者達の誓い。
ケイスが理想とし、目指すべき道を進んだ先達の思いは、この短い言葉の中に全てが集約されていた。
『一番槍参る! 狼牙兵団先駆け衆筆頭! 小佐井尚武! 邑源槍術小佐井流! 石垣崩し!』
先陣を切って一騎駈けした巨体の武者が骨がミシリと軋むほどまでに腕に力を込めて、膨大な闘気を込めた槍を宙へと放つ。
轟音を奏で天を駆け上がった槍が一体の龍をあっさりと貫く。
それだけではなく槍に込められた闘気が龍の内部で膨れあがり、その身体を爆散させる。
極めて固く頑丈な龍骨が飛び散り、無数の散弾となって周囲の龍達へと襲いかかり陣形を崩した。
『弓衆筆頭! 萩野宗森! 続かせてもらいます! 邑源双弓流! 黒鶫!』
2つの弦を持つ特殊な形の弓を構えた長身の武者が飛び出て、黒く塗られた2つの矢を打ち放つ。
高速で飛翔する二対の矢。しかし空気を切り裂くはずの飛来音は一切鳴り響いていない。
魔術であれば消音方などいくらでも存在するが、術を使ったような形跡は見られなかった。
「ひいお爺様。あれは魔術か?」
判らないならば聞けば良い。ケイスは矢を見つめながら前に立つ武者へと問いかける。
死霊達を己の体に迎え入れたことでケイスが彼らを知ったように、死霊であった彼らも理性を取り戻したことと、ケイスと重なった事で、その生い立ちやここまでの道のりを理解することが可能となっていた。
だからケイスは名を聞かずとも目の前に立つのが誰か判っていた。
ケイスにとって曾祖父に当たる当時の邑源宋雪だと。
『……二対の矢でそれぞれの音を相殺させ消す無音技だ。投擲術にも応用は利くが、コツが難しく出来る者は少ない。我が娘のどちらも出来ずにいたが、どうやら失伝しておるようだな』
ひ孫の問いかけに宋雪は天を見上げたまま感慨深げに答える。
自分が死して数百年もの年月が過ぎ、今生まで伝わらなかった技を、伝えられなかった思いを、今になって継ぐ者が現れようとは。
しかもそれが自分の血を引く末裔。
「要は角度、速度、闘気量だな。御婆様やその師であった大伯母様は、時間も無く剣術と、槍術の一部、あと魔術しか身につけられなかったと聞いている。だが安心しろひいお爺様。私に見せておけば万事解決だ。私は魔術は使えぬが、技術体系は後世に伝えてやるぞ」
自分の祖先であろうと何時もと変わらぬ傲岸不遜さを発揮したケイスは、息を整えると剣を納めて天を見上げる。
その目は1つたりとも取りこぼしてなる物かと真剣だ。
そんなケイスの目の前で次々に名乗りを上げながら飛び出る武者達は、ケイスの知らない技や、口伝で伝え聞くだけで詳細の知らなかった技を使い、龍達を打ち落としていく。
彼らはただ見せ、そして技で語る。
自分達が残せなかった、伝えられなかった思いを。
全ての龍が狼牙の天から消えるまで、そのありえなかった宴は力強く行われていた。
「ん。よしひいお爺様にその部下である先達の方々よ。貴殿らの思いと武技は全て私が受け取った。狼牙の人々も全ての龍を殺してやったのだから落ち着けるはずだ。だから後は私に任せて安らかに眠れ」
全てを見終え、食らいつくしたケイスは振り返ると極上の笑みを浮かべて居並ぶ武者達を見回し強く頷いた。
数百年前に死亡した彼らをこの世に押しとどめていたのは、その深い怨嗟の感情と龍の魔力。
だがその根の深い問題を、自らの力を強くし彼らを鼓舞し意識を取り戻させ、さらには残っていた魔力を龍という形にして潰すことで力尽くで解決するという力技だ。
もはや彼らに残された時間は無く、ただ消え去るのみだ。
しかしその技や思いは、目の前の小さな美少女風化け物が全て喰らいつくしている。
『華陽の孫か……あの小さかった娘が無事に生き残ってくれたばかりか、我等の敵もとり、孫まで生まれていようとはな』
残した娘達が、あの状況下でも無事に生き残ってくれたことに喜びを覚える。
しかし死後数百年以上経ってから、死霊としての楔を解き放たれ、その元凶であるひ孫と出会ったことはさすがに驚きだった。
何ともいえない不可思議な現象に、宋雪は戸惑いを覚えながら、大輪の笑顔を浮かべるケイスをまじまじと見る。
確かに容姿を見れば上の娘の小さな頃にそっくりだ。
もしケイスと重なっていなくとも、血族だと名乗られれば信じるほどに似通っている。
だがそれ故にケイスが何者であるかと知っていても、宋雪には信じがたい。
『龍殺したる我等一族の末に生まれた娘が、龍その物でありながら魔力を拒否する剣士とはな』
『しかも才覚は雪姫様や華陽姫様も越える逸材ですよ。もし同時代に生きていたならば女性初の総大将もあり得ましたね』
『そんなもんで収まる器か? あの頭のおかしい啖呵といい、我等の死を全て受け入れて覆そうとする胆力といい、どんだけ化け物ですか大将の末……』
『そこはさすが大将のひ孫様って所で……』
聞き慣れたはずの部下達の声が徐々にかすれて判らなくなっていく。
見れば既に幾人かの者は、この幻の狼牙から消えてしまっていた。
自分もすぐにいくであろうという間違いの無い予感を覚えながら、宋雪は最後にするべき問いかけを思い出し、ケイスを見る。
『最後に聞かせてもらいたい。何故あのような無茶を? 我等を救うためか』
ケイスがしたのは下手をすれば、いや十中八九死ぬであろう無茶だ。
たった一人で、数十万もの死を受け入れ、幻とはいえ覆そうというのだから。
もし自分達の意識が戻らなければ、ケイスは今も勝ち目のない戦いを続けていたであろう。
途中でケイスの心が折れたときは、死ぬという定めの下に。
「なんだひいお爺様は存外に鈍いな。最初にいったであろう。私が強くなるためだ。だから今回の経験は値千金といえる物だ。それに無茶なんてしていないぞ。私は天才だぞ。できるに決まっているであろう」
そのケイスらしい発言に、宋雪は呆気にとられ、次いで笑うしかなかった。
ケイスは失敗を恐れないのではない。
誰もが無理だと思うような難事を失敗をするとさえ思っておらず、勝利が当然だと言いきるだけの、単純な馬鹿であり、同時にその戯れ言を実行するだけの強き心を兼ね備えた傑物なのだと。
「まったく祖父とは孫達には勝てない物とよく言っ…………」
邑源宋雪が幾度もくぐり抜けた戦いの果て。
死してなおも降り立った最後の戦場で出会った、最強最後の敵に、消えゆく宋雪は諸手を挙げて降参するしかなかった。
「ん…………はぁっ……すこし、きつかったか」
羽の剣を握る右手は、強く握り締めすぎて変色していた。
全身からビッショリと汗が流れ出るなか、息を整えながらケイスはぺたんと尻餅をつき、さらには大の字に寝転がる。
冷たい石の感触がとても心地よい。
この心地よさは満足できる鍛錬を積んだ後と近い物がある。
『全く何時もながら、滅茶苦茶な事をするな娘よ。周りに死霊はいなくなったからよいが、敵がいれば今のお前では負けるぞ』
まさかその気合いと精神力で、弱っているとはいえ数十万も積み重なった死霊を全て消し去るとは。
常識外をいくケイスには何時も驚き、そしてそれ以上に呆れさせられるラフォスは、精根尽き果てているケイスに変わり周囲を警戒していた。
「そう言うな。存分な収穫もあったのだからな……これで私はさらに強くなるぞ」
精神世界で振るった剣を、見た武技をケイスは刻み込んでいる。
体力や技量の問題もあるので、その全てを今からやれるというわけではないが、それでも進むべき道は見えた。
懐のガラス瓶を取りだし密封されていた蓋を開けて、角砂糖口の中に放り込んだケイスはボリボリとかみ砕く。
甘みが疲れた身体や脳に染み渡り心地よい。
しばらくして息も整えたケイスは反動をつけて起き上がると、床に落ちていたカエル燭台を手に取り、静かになった暗闇を見据える。
「よしではいくぞお爺様。亡骸を早く見つけて帰してやらねばならんからな」
ありとあらゆる事象を引き寄せ巻き込むケイスにとっては、数十万の死霊であろうと、亡き曾祖父であろうと、顔も知らぬ亡骸であろうとも等しく変わらない。
自分の力は困っている人のためにある。
だから何時ものことだ。
お人好しで、幼い精神を持つ美少女風怪物は、最強へとむけ着実に進化を続けていた。