左手と両足のつま先を使いゆっくりと滑り落ちるように、古井戸の壁を右手の剣でこすりながら降っていく。
上を見上げれば入ってきた入り口は、既に握り拳大ほどの大きさになっていて、日の光も届かない漆黒の闇がケイスの周囲には広がっている。
上部は荒い石積みで足場となる部分も多かったが、この辺りはなぜか表面が滑らかになっているので、油断するとすぐに足を踏み外しそうになる。
「お爺様。石が変わったか?」
自分の手さえ見えない暗闇ではさすがに触っただけでは種類までは判別は出来無いが、剣を通して、石が硬くなった気配をケイスは感じる。
『石も変わったが表面が焼かれて溶けておる。これだけの高温の炎となれば火龍であろう』
「石も溶けるほどの火龍の炎にも耐えてみせるか。ドワーフ。それも名工の手によるものだな」
なるほどそれなら滑りやすいはずだ。
ラフォスから得た情報がケイスの頭の中を駆け巡り、すぐに一つの結論へといたり、破顔一笑する。
『ドワーフか……築城に長ける氏族の作だとすれば、お前の予想通りやもしれんな」
下からは、冷たい風も微かにだが、常にあがってきている。
空気の流れがあるということは、どこかと通じている何よりの証拠だ。
「うむ。腕は立つが、金もかかるドワーフ工を、ただの井戸掘りに使うとは思えないからな」
『しかしこちらも、門と同じように魔術結界で蓋をされておったらどうする?』
フォールセン邸の敷地全体を覆う一体型結界は極めて強固なもの。
魔力が続く限り半永久的に展開が可能な結界をもちい、出入り口となる門にあたる部分は、元々穴を空けて別種の強力な魔術結界を施し、出入りの際も屋敷全体を覆う結界には何ら影響が無い仕様になっている。
「抜け道であるならば、開閉時の魔力反応で探知されやすい魔力式の装置を用いていないはずだ。敵意を持つ者に気づかれたら抜け道の意味が無い」
持って生まれた化け物じみた身体能力と記憶力にプラスして、あらゆる災厄を招き寄せる生まれ故に、踏み越えてきた修羅場は数知れず。
それらによってケイスが培ったのは、極めて理論的で、そして早い状況判断能力だ。
これがケイスが持つ大きな力の一つだと、ラフォスも認めている。
しかし問題があるとすれば……
「考えられるのがドワーフ由来の物理的な絡繰り仕掛けだ。なれば容易いとは言わんが剣で切り崩せる」
本人が常識知らずな剣術馬鹿なため、最終的に出る答えが、概ね力任せという点だろう。
『止めておけ。追っ手を絶つために石を無理に砕き抜けば、井戸ごと崩れ落ちる仕掛けもありうるだろう』
「崩れ落ちる岩場を足場にして跳びつつ、剣でひたすら突き抜ければなんとかなったぞ」
ラフォスの懸念を、剣術馬鹿はあっさりと一蹴する。
どのような状況下でも剣一本で切り抜ける事が出来ると言えば聞こえは良いが、逆に言えばそれが出来てしまうので、危機的状況を基本的に危機と思わず、自分の行動を異常とは思わない。
『既に経験済みか。油断だけはするな』
「うむ。無論だ……ん?、少し音が変わったな」
壁石の表面にこすり当てていた音が微かに変わり、軽く叩いてみると僅かに反響した音が聞こえてくる。
『崩すか?』
「ん。まだこの手応えでは遠そうだ。とりあえず風が吹き込む位置まで降ってみる。お爺様は石の配置から正確な場所を覚えていてくれ」
ラフォスに位置の記憶を頼み、ケイスはさらにするすると降っていく。
時折空洞音とおぼしきものが聞こえる箇所がいくつか出てくるが、音の反応が遠かったり、小さく、小柄なケイスでも潜り込めるだけの隙間がその向こう側に広がっている可能性は低い。
上の出入口が点ほどの大きさとなり、湿気を感じるほどに水の匂いが強くなるかなり深い位置まで降りた所で、ケイスの左足のつま先が水面に触れると同時に、大きな凹凸を捉える。
炎に焼かれ鏡面のように滑らかになっていた側壁が、急に上部の野積みされた石と同じように荒くなっていた。
左足をその部分に乗せ、あちらこちらに動かしてみるとぐらぐらと動く部分もあるほど粗雑だ。
左手も伸ばして触ってみると、漆喰らしきもので隙間をつなぎ合わせた石を積み重ねて、水面ギリギリのあたりで封鎖しているようだが、触っただけで素人仕事と判る作りで、水面との僅かな隙間から風が流れ込んできているようだ。
右手の剣を伸ばして、水中の感触を確かめてみると、側壁の一部がこの荒い作りになっていて、他の部分は同じように滑らかになっていた。
『この様子では通路があっても大半は水没しておるな。どうする』
「ここを崩す。空気が抜けているのならば空洞が繋がっているのだろう。泳ぎ抜けるぞ」
そう宣言したケイスはラフォスの返答をまたずに、重硬化させた羽の剣を自らの足元へと突き込む。
元々劣化していたであろう石垣は、ケイスの剛剣を受けて脆くも崩れ去り、剣を捻ったことで崩れ落ちた石が、暗闇の中でも判るほどに大きく水面を揺らしながら水中へと没していく。
何度か剣を突き込み大きく穴を空けると、息を深く吸い水中へと潜りながら手探りで穴を抜ける。
抜けた先もまた暗闇だ。
上下左右も判らなくなりそうな闇の中、両手を伸ばし壁に手を触れながら左右を確かめつつケイスは先の見えない水を掻き分け進んでいく。
しばらく進むと徐々に通路があがっていったのか水かさが減っていき、ほどなく足が付くようになる。
さらにゆっくりと距離と方向を確かめながら進んでいくと、ほどなく水は途切れ乾いた石畳を足裏に捉えた。
通路の幅は大人2人が窮屈に思いながら横並びに歩ける程度だが、高さは羽の剣を頭上に伸ばしても届かないほどに高い。
「少し冷えるな。お爺様。壁面に何か文字の類いはあるか?」
濡れた身体に吹き当たる風が冷たく少し身を震わせながら、ぼろぼろになったドレスの裾を絞り水を抜きながら、自分では確かめられない周囲の詳細な様子を尋ねる。
『それらしき物は無い。この辺りも炎に焼かれたのか表面が溶けておる』
濡れて身体に纏わり付いてくる自分の髪の毛が気になったケイスは、ラフォスに周囲の状況を聞きながら、こちらも足に絡みついて邪魔だったドレスの裾を膝上辺りでバッサリと切って、一本の布状にすると無造作に髪を縛る。
「ここもか。とりあえず進んで敷地範囲外に……」
身体を動かし状態を確認していたケイスは違和感に気づき言葉を止めた。
感じ取ったのはこちらを狙う何かの気配。
だがそれは不快な物では無い。
むしろケイスにとって心落ち着く物だ。
『どうした?』
「ん。どうやらこの先は迷宮化しておるようだ。迷宮に住まう魔物の気配と匂いを感じた」
ラフォスの問いに、ケイスはたいしたことでも無いように答えつつ、暗闇の中で牙を剥く。
同じ種族であっても野生に住まう者と、迷宮に縛られる者は何もかもが違う。
向けられる敵意や戦意がケイスの心を弾ませる。
喰らい、喰らう。
原初の本能のままに煽り立てられるこの感覚が実に心地よい。
『迷宮化しておるか。資格無きお前でも入れるということは人間のいう特別区という物であろうな。繁殖期でモンスター共が多い。どうする?』
足元もおぼつかない暗闇な上に、今の装備はラフォスの宿る羽の剣のみ。
迷宮としてはもっとも下層である特別区といえど、魔物が出る場所に踏み込むには準備不足も良いところだ。
「無論決まっている。今から戻って屋敷の者に見咎められても厄介だ。なにより」
「ゲラァァゥ!?」
ラフォスの問いに答えながら、ケイスは剣を頭上に振る。
柔らかい何かを切り裂く感触と共に、通路に苦悶の声が響き渡った。
「私が気づいたということは、奴らも私に気づいたであろう。たかだか暗闇くらいで背を見せるのは性に合わん」
生臭い匂いと何かがのたうち回る音を頼りに、無造作に踏み出した足でケイスは己が斬った何かを踏みつぶす。
ぐにゃりとした感触とぬめっとした表面。
襲いかかってきたのが何かは判らないが、それが何なのかという明確な答えはケイスの中に既にある。
なぜならここが迷宮であるなら。ケイスにとって全ては餌だからだ。
己をより強く、より高めるための。
ならば答えは一つ。
「行くぞ! お爺様!」
ひさしぶりの戦闘に滾る戦闘本能のままに、ケイスは暗闇の通路をその目で睨み付け、意気揚々と未知の地下通路へと駆け出し始める。
出口へと通じる細い支道から、主道となる地下水路と並行する地下空間へと。
軽やかに響く足音と共に、広々とした空間に躍り出たケイスは水路脇の石畳を蹴りながら、暗闇の中でも発揮できる方向感覚を用い、ロウガ新市街へと向かうであろう方向へと駆け出す。
極上の餌であるケイスの気配を感じ取ったのか、静かだった地下水路のあちらこちらから、甲高い叫び声、何かが這いずる音。打ち鳴らされた牙の威嚇音が反響して響きはじめた。
「いいぞ! ははっ! いいぞおまえら! かかってこい! 私はここだ!」
急激に膨らむ殺意、敵意に負けぬように、声を発しながらケイスは勘に任せて剣を振る。
振るった剣が何かを捉え、踏み出した足が食らいつこうとしたモノを蹴り飛ばし、踏み砕く。
今剣が捉えたのは羽音からして蝙蝠か。
蹴り飛ばしたのは、分厚い毛皮を持つ小動物。
踏み砕いたのは、蛇か蜥蜴か。
先の見えぬ闇は人に恐怖をもたらす。
だがケイスには通用しない。
光届かぬ闇であろうが、化け物共に囲まれた地獄であろうが、剣を振るえるならそこはケイスにとって極々当たり前の慣れ親しんだ世界。
圧倒的な暴虐の嵐と化したケイスは歩みを止める事無く、無尽蔵に剣を振るいながら、声を発しその反響音を手がかりに、出口の見えない大通路をひたすらに真っ直ぐ進んでいく。
『背後! 大物が来るぞ!』
「承知!」
ラフォスの警告に答えながら倒れるように横に跳び、壁に張り付く。
肌を焼く強烈な熱風と鼻につく腐臭とともに巨大な炎弾が、ケイスが駆け抜けていた位置を焼き払う。
壁に着弾した炎弾の炎が跳びちり、壁面や天井に張り付いて火をくすぶらせる。
急に明るく照らし出された明かりに眩まされないように目を細めながら、ケイスは後方を確認する。
濁った不定形の身体を持つ巨大スライムが不気味に蠢きながら、身体の至る所を触手状にして周囲に伸ばしている。
その触手の先には、今ケイスが斬り倒したり蹴り飛ばした小型モンスター達が半死半生のまま捕まっていた。
身体の中をよくよく見れば、消化されて溶けかかった肉片や無数の骨が散乱している。
『粘着性の炎弾だ。獣脂を己の体液に練り込んで、頭骨で火をつけておるな』
ラフォスが指摘する間も、白濁した触手の一部に埋め込まれていた頭蓋骨の歯を高速で打ち合わせたり、こすり合わせて、火花が生み出されている。
どうやら獣脂を混ぜ合わせた身体の一部を触手の先端に集め、取り込んだ頭骨の牙を火種として着火。
触手を振る勢いで、火の付いた部分を切り離して攻撃してきたようだ。
「キャンドルスライムか。明かり代わりに良いな! 狩るぞ!」
投擲された火を纏う頭骨入りの炎弾にケイスは目を輝かせながら、あえて足を止める。
『まったく……剣一本で不定形生物に挑むのは無謀というものだが、お主には今更だな』
足を止めたケイスをみて、スライムは好機と思ったのか、一気に四つの炎弾を投げつけた。
迫り来る炎を纏う頭蓋骨に狙いを定めケイスは、大剣の形状を波打つように変化させながら振るう。
ケイスの意思を受けて変化した羽の剣は、僅かな衝撃で崩れる炎弾をふんわりと受け止めその形のまま掴み取る。
「返すぞ!」
さらに体捌きと剣技を用い、投げつけられた炎弾を、そのままスライムに向かって立て続けに投げ返し、最後の一個だけを頭上に向かって放り投げた。
まさか打ち返されると思っていなかったのか、それともそこまでの知能は無いのか、回避行動を取ることも出来無いスライムの身体に当たって炎弾が弾けた。
獣脂を多分に含んでいたスライムの身体は、一気に燃えはじめ通路を塞ぐ炎が吹き上がる。
「うむ。お爺様は刀身が自在だから一刀でもやりやすいな」
打ち返せた火炎弾の数とその位置に満足げに笑いながら、風上に立つケイスは羽の剣を頭上に伸ばして、最後に打ち上げた火炎弾を剣で掴みとると、そのまま脇の水路につけて表面の炎を一度消した。
『娘の腕があってこそだ。それよりその粘液をどうするつもりだ。我を明かりの棒代わりに使う気ならば断るぞ』
火は消えたがどろっと滑り落ちる腐臭を放つ粘液に、ラフォスは嫌そうな声で牽制する。
弾く、斬るならばまだ剣としての矜持として我慢も出来ようが、棒代わりとなればラフォスの誇りが許さない。
「そんな勿体ないことをするか。これはこうする」
頭骨を含んだ粘液を一度石畳の上に置いたケイスは、スライムに取り込まれていなかった小型犬ほどの大きさのガエルモンスターの死骸に近づき、水掻きの付いた後ろ足を掴んだかと思うと、身体を踏みつけて太ももの部分から力任せにもぎ取る。
さらに剣を振って腹の皮の一部をはぎ取り、もぎ取った足のほうは足首から切り落として皮を剥いていく。
「ほら即席の油いれと手持ちの明かり棒だ。この手の水棲モンスターの皮は不燃性で液体を通さないから持ち運びに便利なんだ。あとは太ももの骨を抜いて先ほどの油をつけて火を灯せばよい。それにカエル肉の後ろ足の太ももは美味いから最高だ」
モンスターの死骸から器用に即席道具を作るケイスの手際は見事な物だが、普通の人間がこの光景を見たらどう思うだろうか?
ましてや生のカエル肉をみて、舌なめずりして喉を鳴らす様となれば、その持って生まれた美貌を持ってしても、地下水路に住まう怪奇生物以外の何物でも無いだろう。
『……今回は火があるのだから、せめて火を通せ』
龍である自分が、人間世間の目を気にするようになるとは……
はぎ取ったカエル肉を今にも生で食しそうになっている末娘に対して、ラフォスは既に何度目か数えるのも馬鹿らしい苦言を宣う。
「うむ。焼いたのも油がしたたって美味しいからな。じゃああとそこの蛇と鼠の肉も少し持っていくとするか……ん?」
ばらばらになった周りのモンスターを見て舌なめずりしていたケイスは、半分に引き裂かれた鼠モンスターの近くで、炎に当てられ何かが光っていることに気づき、とことこと近づく。
それは鼠に食われたのか消化されて半分くらい溶けかかっていたが、
「これは……人の指と指輪だな」
なにかの印章を施した大ぶりの指輪をつけた人の指だった。
緊急
クエスト『鎮魂の指輪』因子欠乏状態発生確率増大
原因……次期メインクエスト最重要因子『赤龍』迷宮内に侵入による事象歪曲
対処……事象改変による因子補充
突発補填クエスト『地下墓地の主』を緊急作成
結果予測……両クエスト共に『赤龍』の歪みをさらに強固な物とする可能性大
シナリオ改変……承諾
賽子が転がる。
賽子の外側で無数の賽子が転がる。
無数の賽子の外側でさらに無数の賽子が転がる。
賽子が転がる。
世界を丸々ひとつ埋め尽くす膨大な数の賽子が転がる。
神々の退屈を紛らわすために。
神々の熱狂を呼び起こすために。
神々の嗜虐を満たすために。
賽子が転がる。
迷宮という名の舞台を廻すために転がり続ける。
賽子の名前はミノトス。
人々に対しては迷宮を司る神。
神々に対しては物語を司る神。
迷宮神ミノトスは休むことなく迷宮にまつわる物語を紡ぎ続けていく。
全ては物語を紡ぐため。
全ては正しき賽の目で現すため。
この世界にいかさまを持って干渉する他神を討ち滅ぼすため。
神を殺す者を生み出すため。
賽の目を覆す行動を討つために、あえて賽の目を乱すモノを生み出すため。
運命を歪め、才をもって差異を生みだし賽を存在しない答えに導くため。
神聖なる絶対を守る、神聖なる絶対を汚す行為に、己が手を染める事への、怒りと歓喜を覚えながら、ミノトスは猛るように賽子を転がし始める。