それは些細な変化。
微かな風音。
空気に混ざる微量の臭い。
そして息を潜める虫の音。
それは一つ一つは極々僅かな変化。
だがそれらが積み重なり、ケイスの獣じみた警戒本能を最大までに刺激する。
「……っぁ……ぅっく」
起き上がろうとよじった身体が軋み、完全にはふさがっていない傷が酷く痛む。
頭の中で虫が飛び回っているかのように耳鳴りがして視界が歪む。
意識を失う前と変わらず、重く痛みが響く下腹部のせいで闘気が練れない。
覚醒したケイスがまず感じたのは、己が絶不調であるという自覚だ。
まともに戦えるような体調では無い。
だがケイスの勘が、敵が近づいていることを知らせる。
寝かされていたベットからずるりと抜け出したケイスは、全身の苦痛を必死に押さえ込み立ち上がる。
身の危険を感じて感覚が鋭くなっているのか、素足に伝わる床が凍るように冷たく痛い。
だがその冷たさと痛みが、今はありがたい。
少なくとも地に足をつけている感覚だけは保てる。
「っ…………っ」
室内を見渡す。
最低限の家具はあるが、私物らしき物は見えず生活感が少ないどこかの民家もしくは宿の客室だろうか。
自分が着ていたはずの旅装束も持ち歩いていた羽の剣を初めとする武具も見当たらない。
詳しい状況は判らないが、知らない、だが懐かしくも感じた誰かに看病をしてもらったおぼろげな記憶がある。
実際自分が着ている服は下ろしたての清潔な物で、傷も丁寧に治療されている。
だがその治療をしてくれたであろう人物の姿は室内には見えない。
部屋の外か? それとも屋外か?
まともに働かない感覚の所為で、気配を感じ取れない。
ただ敵意を、命の危機を感じる。
勘に従い、武器となる物を探したケイスはベットにかかっていたシーツを引き抜いて、机の上にあった小さなペーパーウェイトを端に入れて縛り上げる。
力も禄にはいらない状況でこんな布きれ一枚と、片手で持てるペーパーウェイトでは期待は出来ないが、視界を塞いだり、相手の四肢を絡めることくらいは出来るだろう。
足音をたてぬようにそろりと忍び足で壁際によったケイスは、外から見られぬように身体を隠しながら、窓からそっと外を覗き見る。
換気のためか少しだけ開いていた窓から見えたのは、宵闇に沈んだ町並みと、ケイスがいる建物に隣接した小さな家庭菜園兼前庭。
月が雲で隠れているのか、非常に薄暗く、おぼろげな外観が判る程度だ。
漂ってくる街の香りにまざり、少しばかり水と魚の匂いがする。
微かに吹く風に揺れる木々のざわめき。しかし虫の音はしない。
息を潜め、ケイスはただ眼下の前庭の暗闇を見据える。
目が慣れてきたのか、それとも敵を感じ取って身体の不調を闘争本能が凌駕したのか、暗闇の中を動く人影をケイスの目は捉える。
1つ……2つ……3つ……
音を殺し、影に潜む者達は、路地へと続く門扉を音も無く飛び越えて、前庭へと侵入を果たす。
闇を渡る動きから見るに素人では無いが、不調のケイスでも気づいたのだから暗殺者といった玄人でもない。
物音を立てず、密やかに進む動きは探索者の物だろうか。
侵入者の狙いは自分か、それとも別か?
現時点ではケイスには判らない。
だがその息を潜める行動に、明らかな悪意、敵意をケイスの勘は捉える。
侵入者達の身のこなしを見るからに、少なくとも今の体調では、一人相手でも厳しい技量をもっているだろう。
ケイスが気づいたことが発覚するまえに逃げるという選択肢もある。
……だが!
「……」
タイミングを計ったケイスは窓枠を大きく開け、身体を傾け転がるように外に躍り出る。
強く地を蹴って飛ぶことは出来ないが、落下するだけなら力はいらない。
先頭を進んでいた不審人物の真上に落下したケイスは身体を丸め、首元へと全体重をかけた肘を打ち込む体勢を作りつつ、残り二人へとむかって、ペーパーウェイトを重りにしたシーツを投げつけ、視界を防ぎ絡みつかせる。
「がっ!?」
ごきりと太い枝が折れたような音がなり首を叩き折られた不審人物と共に、ケイスは地面に落下した。
全身を強かに打ち付け意識が飛びそうになる。
「っぐぅ!」
激痛で思わず息を大きくはき出してしまう。
痛みに耐えながら、倒した侵入者の身体に触れ、慣れしたんだ感触をすぐに探り当て、それをしっかりと掴む。
奪い取ったのは使い込まれたショートソード。
普段なら小枝のように軽い剣が今は石の塊のように重い。
「ク!? ワナカッ!?」
いきなりの襲撃に思わず声をあげてしまったらしき侵入者の独特のイントネーション。
それはケイスに聞き覚えがある口調。
討伐しようとしたが、逆に返り討ちに遭い無様に逃げる羽目になった探索者の一人。水棲人種魚人の声だ。
どうやったかまでは今は判らないが、ケイスを追跡し、奪い取られた依頼書を取り戻しにきたのだろう。
「……ぁぁっ!!」
何とか立ち上がったケイスは男達がシーツに絡まっている間に即座に追撃に移る。
剣を持ち上げて振り回すだけの筋力を生み出せない。
だが力が入らなくとも、己は剣士。
剣士は剣を操ってこそ剣士。
剣を振り始めたばかりの初心者がやってしまうように、わざと剣の重さに振り回される。
中途半端に持ち上げた剣の重さに負けて体勢を崩し倒れ込みながらも、剣を敵に向かって突き出す。
斬撃を使うだけの力は無くとも、突きならば己の体重と勢いを重ねればなんとか使える。
シーツ越しに繰り出した切っ先が、その向こうにいる魚人の身体のどこかを抉った。
だが浅い。
刃が触れた感触は一瞬。
外したのか、外されたのか、そのどちらかを判断する間もなく、
「ナメルナ!」
殺意が篭もった声が響き、シーツを突き破り雨粒大の散弾が寒気の奔る音と共にケイスの頭上スレスレを通り過ぎる。
水棲種族が得意とする水系初歩攻撃魔術だが、下手な刺突よりもその刃は鋭く、通り過ぎた水弾は、大きな音をたててて石壁に穿孔を穿った。
まともに食らえば致命的な攻撃。
それをケイスは回避したのではない。
足の踏ん張りが利かず立っていることが出来無ず、前のめりに倒れ込んだだけだ。
それが幸いした。
しかし今の一撃で決められなかったことで、より窮地に追い込まれる。
ずたずたに引き裂かれたシーツが、地面に倒れたケイスの上にまるで投網のように覆い被さってくる。
とっさに地面を転がって避けようとしたが、
「ぐっ!?」
体重のかかった右肩に激痛が奔り動きが止まった。
無理矢理に引き抜いた矢傷が治りきっていない所で、剣を振った上に体重がかかった所為で、激痛と共に傷口が開いてしまったようだ。
だらりと傷から血があふれ出て、肩口を生暖かく染め、柄を握っていた右手に力が入らなくなる。
さらに動きの止まったケイスの肩口に魚人が体重を乗せ足を踏み下ろす。
「っぎゃ! ぐっ……っぁ……ぐぅ……」
侵入者達は暗視魔術を使っていたのか宵闇の中でも、怪我を負っているケイスの肩を狙ってなんども足が踏み下ろされた。
傷口を踏みにじられあまりの痛みに絶叫をあげかけるが、歯を食いしばりケイスは堪える。
今息を全て吐きだしてしまえば、呼気が足りず、次の一撃が繰り出せないかもしれない。
踏みつぶされた蛙のように地面に横たわっていようとも、ケイスの心はまだ折れていなかった。
「シネ! ガギガ! ヨクモナカマヲ!」
だが心は折れずとも、身体はそうはいかない。
仲間を殺された恨みを口にした魚人が執拗にケイスに蹴りを叩き込む。
肺が潰れ息が抜ける。力を込めようにも激痛が邪魔をする。
幼いながらも鍛えていた肉体の強度が蹴りに耐えて絶命を拒むが、逆に言えば耐えるだけしか出来無い。
「落ち着け。騒ぎになる前にそのガキ持ってずらかるぞ」
ケイスが最初に倒した仲間を肩に担ぎ上げたもう一人の男が、激高している魚人を止めると撤退を指示する。
さきほどの水弾や今の戦闘音で近所も異変に気づいたのか、盛んに吠えたてる犬の声や、窓に明かりが点る家がちらほらと見受けられる。
「ワカッテル! イライショハドウスル」
魚人の蹴りが止まった。
ケイスが虫の息でもう反撃できないと思ったのか、その憎悪に染まった視線が外れる。 その一瞬の勝機に、はんば気を失いそうになりながらも、闘争本能に身をゆだねるケイスは剣を握ったままの右手に何とか力を込めようと藻掻く。
「探す暇はねえよ。反応のあるこの家ごと焼き払うしかねぇだろ。くそ。このガキの所為で、俺らの命もあぶねぇってのに」
忌々しげに舌打ちをした男は懐から魔術杖を取り出す。
杖の先に埋まる燃えるように赤いルビーに刻み込まれた魔法陣は、精霊召喚の陣。
火の精霊でも呼び出してこの家を一気に焼き払うつもりのようだ
「ふん。や、やら……」
せめて杖だけでも破壊する。
朦朧とした意識の中でも残り滓といえど全身全霊を振り絞った一撃を繰りだそうとし、
「お前は寝てろ」
怒気を込めた低い声が響き、すぐ横の植え込みから大男が飛び出してきた。
ケイスも、侵入者達も気づかなかったが、いつの間にやら、近づいていた禿頭で筋肉質の山賊と見間違えるかのよう大柄の男は、その巨体には似つかわしくない流れるような動きで侵入者へと襲いかかる。
不意を突かれて動けなかった魚人と魔術師の顎先に、男は鋭い掌底を打ち放った。
どさりと音をたてて侵入者達は、糸が切れた人形のように庭へと倒れこんだ。
今の一撃できっかりと意識を断ち、昏睡させたようだ。
強者を見慣れたケイスの目から見てもそれは鮮やかな手並み。
侵入者達より遥かに格上の実力を感じさせるものだ。
「ったく。人んち壁に穴開けただけじゃなくて、燃やそうなんぞいい度胸だな。にしてもだ……」
男は光球を打ち上げると壁に空いた穴、魔術師の落とした杖。そして最後に反撃に出ようとした体勢のままで問い待っているケイスを見て大きく息を吐く。
何とも言いがたい頭痛を堪えるような表情を浮かべた男は、家の玄関口へと顔を向け、
「てめぇギン坊! どうなってんだよ! なんで餌が勝手に反撃にでてんだよ!」
近所迷惑を考えないのか、それとも元々地声が大きいのか、はたまた怒鳴り慣れているのか、やたらと響く声で呼びかけると、
「んなもん俺に言うなって、さすがに目を覚まして仕掛けるなんて予想外過ぎてこっちもあせったんだからよ。それに言っただろ。ケイスは計算外な行動する奴だって」
玄関扉が開いて、無精髭を生やした男が頭を掻きながら出てくるとばつの悪そうな顔を浮かべる。
その顔はケイスの身知った人物。
一年ほど前に知り合った魔導技師ウォーギン・ザナドールだ。
そしてウォーギンの後ろから、さらに女性が2人姿を現す。
「あなたもギン君も今はそれどころじゃ無いでしょ! 私は治療の用意するからルディアちゃんお願いしますね!」
1人は20代後半から30代前半の栗色髪の女性で、ウォーギン達に説教じみた言葉で指示を飛ばし、手ひどくやられたケイスに心配そうな目を一瞬だけ向けてから、家の中に駆け戻っていった。
そしてもう1人。もう1人の女性は、実に不機嫌そうで、そして怒っている顔を浮かべていた。
女性にしては長身で痩躯なその人物の燃えるような真っ赤な髪がその怒りの様を現しているかのようだ。
つかつかと近づいてきたその女性は、同じく1年前に知り合ったルディア・タートキャスはケイスを睨み付けると、
「あんたね。本当に無茶もいい加減にしなさいよケイス! なんでその身体で戦い始めてるのよ!?」
憤懣やるせないといった感情が言葉の端々まで感じられる声でケイスを叱りつけつつも、丁寧に抱きかかえあげる。
どうやらルディアは治療のためにケイスを家の中に連れて行こうとしているようだ。
確かに早急な治療が必要。それに異論は無い。
しかしケイスにはまず言うべき事があった。
それはカンナビスで竜獣翁コオウゼルグと交わした協力してもらう為の条件。
世話になったルディアやウォーギンに面倒を及ばさない代わりに、自分は死んだことにして、再会しても知らぬ存ぜぬで押し通すという約束。
約束は守る。
妙なところで義理堅いケイスは朦朧とした意識の中でもその約定を果たそうとする。
「だ、誰……かは知らぬが……ひ、人違いだぞ……わ、私はルディ……なぞ……知らんぞ」
しかし朦朧とする意識のせいでケイスは盛大に墓穴を掘る。
「いや、あんたね。あたしの名前を呼んでおいてそれは無理があるでしょ……それにどこの世界にこんな無茶してまで戦う馬鹿が二人もいるっての」
「……っぅ……知らん……知らん……知らんと……言うて……」
重い重いため息を盛大に吐き出したルディアの言葉に、今のケイスはまともに答えることも出来ずただ鸚鵡のように繰り返すしか無かった。