大まかな形でいえば逆台形となるリトラセ砂漠は、北部と南部でその性質が大きく異なる。
南部は巨大な岩山が幾つもあり大小様々な岩と礫と砂の混在した大地となった岩石砂漠。
しかし逆台形の中心点となるオアシス都市ラズファンから北にかけては、さらさらとした砂で大半が構成された砂砂漠となっている。
この性質の違いは気候風土など自然環境の違いによる物ではない。
一面の砂の海である北側を作り出したのは、大陸全土の地下を今も掘り進め埋め立て続けている巨大サンドワーム類。
彼等の繁殖地、そして幼生体の育成地としての一面が北リトラセ砂漠にはある。
サンドワーム達が幼生体の生活環境に適した土地へと変化させる為に大半の岩を砕いてしまい、北リトラセ砂漠は非常に細かな砂で形成された砂漠となっている。
そして北リトラセ砂漠とは地上部だけを差す名称ではなく、その地下に十数層に形成される世界でも珍しい階層型砂漠全体を差す名称であり、常に変化を続ける世界で唯一の生きた迷宮永宮未完に属する『砂漠迷宮群』を指す名称でもあった。
また北リトラセ砂漠には昼夜の区別が無いことも大きな特徴の一つとしてあげられる。
燦々と輝く灼熱の太陽の光も熱も、白く淡く光る月や星の柔らかい灯りも、この砂の海に降りそそぐ事は無い。
その空にはぶ厚い砂の層。
通称『砂幕』が広がり、まるでカーテンのように天を覆い隠している。
今から300年近く前に起こった世界的異変。
迷宮異常拡大期とそれに伴う迷宮怪物増大期。
所謂『暗黒時代』に発生し、砂漠中心部で今も猛威を振るう砂嵐によって作られた砂幕が、北リトラセ砂漠を熱を失った恒常寒冷砂漠地帯へと変化させていた。
吐き出す息が一瞬で凍りつくほどの寒さと暗闇の中、右肩に身の丈ほどの両手剣を担いだ少女は、暗い遠くの空に浮かぶ点滅する灯りを目印にひたすらに砂の海を真っ直ぐに進む。
肩に担いだバスタードソードを握る右手には革紐が括り付けられその先にはカンテラが吊されている。
漆黒の闇の中ではカンテラの灯りはか細く弱々しく僅か先を照らし出すのが精々。
だが少女にとってはこのカンテラが命綱であった。
砂の海といってもここは平坦な場所ではない。
砂で出来た山があり、その周囲には急な坂や谷があり、蟻地獄のように底なしかと思わせる流砂の沼もある。
常人では命の危機がある場所も、僅かでも先が見えれば獣じみた反射神経を持つ少女であれば対応に苦労はなかった。
むしろ今の少女にとってこの砂漠での一番の難敵は、砂漠の砂そのものである。
サンドワームによって細かく砕かれてさらさらとしている砂は、ちょっと立ち止まっただけで容易く膝近くまで飲み込んでしまう。
悠長に歩いていれば、あっという間に砂の中に身体を引きずり込まれ、藻掻けば藻掻くほど脱出に苦労する事になる。
その事は身を持って体感済みだった少女が選択したのは、著しい生命力消費と引き替えに砂に足を取られずにすむ特殊な歩法であった。
少女の右足が地に触れた瞬間、手を打ち鳴らしたような小さな炸裂音が静寂に包まれた砂漠に響く。
その音と同時に足元で砂が弾け飛び、その衝撃に撃ち出された少女の身体が前に跳ぶ。
左足。
右足。
左足。
少女が一歩踏み出す度に音が立て続けに鳴り響き、小さな少女はまるで水切りの小石のように砂の上を次々に跳ねて驚異的な距離を一歩で稼ぎ出していた。
「次の岩場まであと少しか……お腹も空いてきたな」
小高い砂丘となっていた斜面を登り切った所で、少女の腹が小さくなって空腹を訴える。
生命力とは生命を動かす力。
世界を変える力その物。
生命力を肉体能力強化に特化した力『闘気』へと変換し少女は特殊歩法を行っている。
その恩恵で砂に足を取られることはないのだが、その反面すぐに疲労はたまり生命力も低下してくる。
長距離となる砂漠越えに対して少女は、少し疲れてきたら短時間の休憩と水分補給の小休憩を取り、小休憩を四回行ったら、その次は食事と仮眠を取る大休憩というローテションを決めていた。
北リトラセ砂漠の迷宮特別区に入ってから既に一日ほど。
取った休憩は小休憩を四回。次は大休憩を取る番だ。
だが、ただ立っているだけでも引きずり込まれそうになる、こんな砂漠のど真ん中で睡眠を含んだ休憩など取れるはずもない。
少女が目指しているのは、サンドワーム達に砕かれないように魔物避けの魔術印を施した人工の岩場。
ミノトス管理協会が過去に砂漠越えをする探索者や商人の為に用意した休憩所である。
近年は比較的安価な大型砂船の登場もあり、徒歩での砂漠越えをする者はほぼ皆無となり、休憩所を利用する者などもほとんどいないというのが現状である。
だが休憩所の目印としてその直上に輝く光球は、この昼夜を問わず暗闇に覆われる砂漠において灯台としての役割を持つために、今も灯台兼緊急避難所として維持され続けている。
北リトラセ砂漠全体でその数は数千にも及び、個別認識するためにそれぞれの光球が別の色やリズムで点滅しており、すぐに地形が変わってしまう砂漠において絶対的な目印として重要な役割を持っていた。
「あそこが南の323番だろ…………ん。まだ一月半はかかるか。水は手持ちの水飴で足りるな。問題は……」
山の頂点を超えて今度は下りとなった急斜面を周りの砂と滑るように駆け下りていく少女は、ラズファンの街を出る前に覚えてきた北リトラセ砂漠地図と休憩所の発光パターンを頭の中に思いだす。
千を超える岩場の位置と目印であるそれぞれの光球の発光パターン。その全てが少女の頭の中には叩きこんである。
この岩場を伝うもっとも効率的な進行ルートを既に決めてあった。
現在目指している休憩所の位置から一日で進むことが出来た距離を計算して、残りの行程にかかる日数を大まかに考えた少女は、フードの奥で眉を微かに顰める。
その進行速度は少女が思った以上に芳しくなかった。
原因は足を取られやすい砂と起伏に富んだ地形のせいで、走る速度が思ったより上がらず、さらには上り下りばかりで平面の地図で見た距離の数倍を走る羽目になっていった。
当初は三週間ほどで砂漠を突破出来ればと考えていた予定を、少女は倍の日数へと修正せざる得なかった。
砂漠では水分が一番重要と考えて、水を固定凝縮した魔法薬『水飴』を60粒ほど購入してあったのは幸いだと少女は考える。
”飴”と名付けられてはいるが無味無臭のこの薬は口の中で転がしているだけで元の水に少しずつ戻っていき、その水量は一粒で人間種成人男子が一日で必要な水分量とほぼ同量という非常に携行性に優れた魔法薬である。
その分些か高価である事が唯一の難点だが、これで水についての問題はない。
もっとも飴なのに甘くないと店員と一悶着を起こした極甘党の少女的には、無味無臭である事が一番の問題点なのかもしれないが。
「っ!?」
斜面を下りきった少女は周りより一団低くなった盆地に足を踏み入れて悪寒を覚えた。
周囲は静寂に包まれ静かな暗闇があるだけ。だが少女の勘が殺気を感じ取っていた。
日程や食糧事情を考えていた通常思考から、より高速に物事を考える戦闘思考へと即時に切り替える。
少女が思考を切り替えるや刹那、目の前の地面の砂が不自然に盛り上がり、次いで少女の腕ほどの太さで鋭い先端を持つ何かが飛び出してくる。
それが何かを意識が認識する前に少女の身体は動く。
カンテラの紐を左手に掴み上空へと放り投げながら、バスタードソードの柄を握る右腕を、僅かに角度をつけて左下方向へ一気に降りさげる。
鞘に入ったままの剣の腹に刺突攻撃が打ち込まれ、ついで剣を納める革製の鞘が焼け付くような音を立て、鼻を突く刺激臭が漂う。
クルクルと回りながら地上を照らし出す微かなカンテラの明かりの元で、砂の中から飛び出してきた物の正体を少女は見る。
少女を襲ったのは擬態色となった砂色の甲羅に覆われた幾つもの節に覆われた長い尾だ。
尾の末端は少し膨らんでおりその先端は赤黒い毒針となっていた。針の先は鞘を焼いた毒液で怪しく濡れている。
受け流した尾が再度振るわれる前に少女は後方に飛び下がりながら、左手で鞘から垂れ下がる紐を掴む。。
跳び下がった少女が地に足をつけた瞬間、先ほどまで少女が立っていた場所の砂が大きく盛り上がり倒木ほどの大きさがある巨大なサソリが砂の中から姿を現す。地上を駆ける足音に引かれ、餌を求め攻撃を仕掛けてきたのだろう。
サソリが少女の頭を目がけて尾と同色の右蝕肢の先についた巨大な鋏を突き出した。だがその攻撃は少女の予想範囲内である。
少女は即座に左横に跳び鋏を躱す。
避けるのが一瞬でも遅れていれば、鋭いその切っ先が少女の顔面を抉っていたのは間違いない。
間一髪致命的な攻撃を避けた少女は、左手に握った紐を引っ張る。
すると剣を固定していた鞘のボタンが弾け飛び、観音開きのような形状の鞘から鈍く光るバスタードソードの刀身が姿を現した
「はぁっ!」
標的を失い空を彷徨う蝕肢に向かって、少女は裂帛の気合いと共に右腕を振るいバスタードソードの刃を叩きつける。
刃と蝕肢を覆う頑丈な殻がぶつかり合い重く鈍い音を発し、鋼鉄の板を叩いたような痺れを伴う衝撃が少女の右腕を駆ける。
「む…………反動が返ってくるか。私もまだまだ鍛錬が必要だな。投擲は少し技量が上がったかな」
剣を振り切った体勢のまま後方に下がった少女は不満げに呟き左手を上へと伸ばす。
その手の中に先ほど宙へと投げ飛ばしていたカンテラの紐が丁度落ちてきた。
とっさに投げたが大体思った通りの位置に落ちてきたことにフードの中で満足げな笑みを浮かべながらカンテラの灯りで前を照らし出す。
灯りの中に右の蝕肢が千切れかかったサソリの姿が浮かび上がった。
傷ついたサソリは威嚇するかのように残った左手の鋏をカチカチと打ち鳴らし、毒針のついた尾を逆立てて怒りを露わにしている。
しかし怒れるモンスターを前にしても少女は動じる様子もなくサソリを見つめ、僅かの間を置いて合点がいったのか小さく頷く。
「ん……蟹か海老みたいだな。よし今日のご飯はお前に決めた……待てよ。その前に足にしてやろう」
カンテラを再度宙へと放り投げた少女はどんな味がするのだろうと楽しみに思いつつ、サソリへと斬りかかっていった。
『ん~……今ひとつだな。しかも硬すぎるぞおまえの殻は。苦労して割ったのだから、もう少し中身があっても良いだろ。これは毒腺か? ん。さすがに食べられないかこれは?』
背中に乗る化け物が不満げなうなり声をあげたことに恐怖を感じながら、彼は必至に足を動かし前に進む。
先ほどから背中では化け物が食事をしながらぶつぶつと呟き、時折唸っている。
彼とこの化け物では、種がまったく異なるために意思の疎通ができるはずがなかった。 だがそれでも、この化け物が何を考えているのか簡易ではあるが彼には伝わってくる。
理外の存在である化け物に、彼は徹底的に打ちのめされていた。
同族の中でも鋭く硬い鋏は獲物を容易く切り裂き、長く鋭い針のついた尾は強力な毒をもっていった。
だが両腕の鋏も尾の毒針も今の彼には無い。
背中の化け物に全てを叩き斬られてしまったのだ。
武器を無くし半死半生となった彼に対し化け物は、鈍く光る銀色の一本爪で空に浮かぶ光の方向を指さしてから彼の背中に乗ってきた。
あそこに迎え。さもなくば殺す。
彼の背中をコツコツとその爪で叩いた化け物はそう命令を下した。
声に出したわけではない。
意思疎通が出来たわけでもない。
だがその存在が、気配が、何を彼に望んでいるのかを雄弁に物語っていた。
死にたくないという生物としての本能的な欲求から、傷ついた身体で必至に光の方向へ向けて走り始めると、この化け物はすぐに食事をはじめた。
化け物が食しているのは彼の自慢だった鋏や尾だ。
硬い殻を爪で叩き切り、殻を無理矢理こじ開けてその中身をむさぼり食っていた。
自分の背中に自分を食する化け物が乗っている。もし彼に高度な知性があればこの状況に恐怖のあまり狂っていただろう。
だが幸か不幸か、彼が感じているのは本能的な恐怖だけだった。
その本能に動かされるままにただひたすらに足を動かし前に進む。
化け物が望む場所へと連れて行かなければ殺されるという恐怖が彼を縛り付けていた。
そしてその恐怖心から急ぐ足が、彼の警戒を甘くし、彼の命運を断つ事になる。
いきなり彼の足下の砂が柔らかくなり彼の身体が沈み込みはじめる。
突如直下に穴が開き周囲の砂ごと彼を飲み込みはじめたのだ。
穴を作り出したのはこの砂漠の地上に君臨するサンドワームの幼生体が開いた口蓋。
周囲の砂事、獲物を取り込む豪快な食事法である。そして幼生体といえどその大きさは彼の数倍はある。
地下には彼等を遙かに凌駕する化け物達が腐るほどいるが、地上部分においてはサンドワームの幼生体は絶対の捕食者であった。
以前に何度も襲われ死の恐怖を感じながらもその度になんとか逃げ切った彼だったが、今回は注意が散漫となっていた為にその口の中にまともに飛びこむ事になってしまった。
しかも傷ついた身体では逃げる事など出来そうもない。
だが実際に死を前にしても、彼の中にサンドワームへの恐怖がわき上がってくる事は無かった。
『む……サンドワームか。休憩所に着いたら身体の方を食べるのを楽しみにしていたのに横取りしおって…………まぁいい。あまり期待できなかったからな。お前の方はどうだ?』
彼がサンドワームの口蓋に飲み込まれた瞬間、その背を蹴り上げて脱出した化け物の声が明朗と響き渡る。
お前も食べてやろう。
そう宣言する化け物に比べればサンドワームから感じる恐怖など無いに等しかった。