食堂へと手伝いに向かったケイスを送り出した後、ルディアは自分の身だしなみを整えてから、朝食までの時間を制作中の新触媒液のレシピと調整をノートへと記載をしながら、ゆったりと過ごしていた。
乗員乗客数に対しトライセルの食堂は手狭な為に、食事は部屋事で三回戦に分けられ一食ごとに順番がずれていく。
朝が一巡目なら昼は二巡目。夕食は三巡目といった具合だ。
ちなみにルディアは朝が一巡目のグループで船内時間での午前7時から。
普段の習慣からすれば朝食時間は一時間ほど早いが、相乗りさせて貰っているので我が儘は言えない。
それに夕食は最後の回なのでゆったりと食事が出来て、その後も居座って船内バーへと変わった食堂で、ちびちびと飲むのにも都合が良い。
夕食の三巡目のメンバーはルディアも含め、毎日晩酌を楽しむ酒飲み連中で占められ、逆に一巡目と二巡目には、女子供や祝い事の時だけしか飲まないタイプや下戸だという男性商人達が固まっている。
食事順はある程度意図的なのに決められているようだ。
年の半分近くが極寒期である冬大陸の生まれであるルディアにとって、身体を温めてくれる酒は身近な存在。
真っ昼間から飲んだくれるような事はないが、幼い時に寝る前に飲んでいたホットワインのミルク割りや蜂蜜入りから始まり、雪国では滅多にお目にかかれない芳醇な南国果実の香り漂うリキュール系のカクテルに嵌ってみたり、薬師見習い修行中には覚醒効果を施したオリジナルの薬草酒傍らに徹夜で調合といった風に、夜の共として常に傍らにあった。
おかげでアルコールにたいしては大分強くなり、さすがに『底の抜けたビア樽』とまで言われるドワーフ族とまではいかないが、どれだけの飲もうが滅多に悪酔いする事もなく、むしろ晩酌を欠いた時の方が寝付きが悪い程度には嗜んでいる。
そんなルディアが、夕食三巡目に回ったのはおそらく偶然ではない。
最初に会ったラズファンの酒場で交わした世間話を覚えていたファンリア辺りの気遣いだろうとルディアは予想していた。
飄々としているようで、些細な会話を覚えておき細かい気遣いが出来る辺りが、やり手の老商人といった所だろうか。
しかしそんな老獪なファンリアを持ってしても全くの計算不能な存在が一人。
それが、ひょんな縁からルディアが同室となったケイスと自称する謎の少女だ。
「……何か問題を起こしてないと良いんだけど」
整理の手を止めたルディアは軽く息を吐き額を抑える。
知り合ってまだ数日しか経たないのだが、なぜか懐かれたルディアが主にケイスの面倒を見る事になっていた。
元々面倒見が良いというか人が良いというか、世話焼きな性分。
飛び入り乗船だった為、空いていた二人部屋を一人で使っていた事もある。
元気すぎてそうは見えないが、一応相手は怪我人であり、医者ほどとはいかずとも薬師としてある程度の医療知識があるので適任といえば適任。
そして何よりケイス本人は気にもしていないようだが、ルディアにとっては命の恩人だ。
倉庫でサンドワームの攻撃からケイスが守ってくれなかったら、ルディアは命を落としていただろう。
その他諸々を加味してみて、ルディア本人としてケイスの面倒を見る事に異論はない。
だが正直、もう少し自重して行動をしてほしいと思う面が多々ある。
幾つか例を挙げてみれば、
大怪我を負っているというのに、多少痛いが動けるから問題なしだと狭い廊下で真剣で素振りをし始める。
危ないから止めろと注意すれば、私が斬る気もないのに他人に剣を当てるわけがないと胸を張る。
そう言う問題じゃないと再度注意すれば不承不承とはいえ承知はするが、今度は人の少ない所でやるなら問題無いなと言って、極寒の甲板へと出て行き数時間は帰ってこない。
昨日にいたっては喧嘩騒ぎというべきなのかどうか今ひとつ経緯が不明だが、人を床にたたきつけて気絶までさせている。
ケイス本人曰く危険だったかららしいが、その場にいなかったルディアからすればケイスの行動の方がよほど物騒だ。
とにかく一事が万事この調子で本人には大怪我をしている自覚が一切無い。
端的に言えば常識が無い。それに尽きる。
「とりあえず祈るのみね……」
いつの間にやら筆が止まり、奇妙すぎる同部屋人のことばかりを考えていたルディアは集中が途切れた事を自覚してパタとノートを閉じた。
薬師のレシピにはケール・レィトで現す一般的な国産単位法である神木法ではなく、より尺度が細分化された工房単位レド・ラグが使われている。
ノートに書き写している数値のなかに一つでも違いがあれば、魔術薬の効果は制作者の意図とはまったく別の物へと変わってしまう。
気もそぞろでやるべき仕事ではないし、現物はもう製作に入っているのだから慌ててまとめる必要もない。
椅子から立ち上がったルディアは軽く伸びをして凝り固まった身体をほぐしてから、机の上でぽこぽこと小さな泡を立て沸騰するフラスコへと目を向ける。
机の上で調合中の薬品が今記していたレシピの触媒液だ。
比較的に入手が容易で安価な20種類の魔術触媒を調合する事で、同価格帯で取引される触媒28種分と同様の効果を発揮する触媒液とする。
8種類分お得となるこのレシピ。
金銭効率は良いのだが、その反面繊細な分量配分と外環境に合わせた細かな調整。そして長時間の加熱冷却を必須とする。
魔法薬の製作販売で生計を立てる店持ち薬師からは、手間と器具の占有時間を含めて考えると儲けが合わないと敬遠される類の物だ。
今現在砂船の乗客で暇をもてあますルディアは、もう少し簡易化出来ないかと研究改良していたところだった。
とある人物がそれを聞きつけ、いくらかの手間賃と材料と同程度の触媒を融通するので代わりに試作中の触媒液を譲ってほしいと頼まれていた。
交換する触媒の現物はルディアの手持ちにはない物が多めにあり、おまけに手間賃まで出るのなら文句はない。
小遣い稼ぎの仕事みたいな物だと請け負っていた。
フラスコを固定する枠に刻んだ記入式魔法陣の記述は三分の一ほど消費。
順調にいってあと2日ほどで完成。
このまま放置で問題無しと確認を終えたルディアは室内に掛かる時計へと目をやる。
時刻は早朝6時35分を指していた。
砂幕により空が閉じたこの常夜の砂漠で時計は唯一時間を感じ取れる存在だ。
「ちょっと早いけど食堂いこ……アレの席も確保しとくか」
基本的に傍若無人で無軌道なケイスだが、変な部分で真面目なのか食事に限らず時間には正確で食事時間や手伝いの時間に遅れた事はない。
この時間は今日も最下層で走り込みをしていると思うが、食事時間までには上に上がってくるだろう。
ケイスの為にお代わりがしやすいカウンター近くを陣取って置くかとルディアは部屋を後にした。
「…………もう……駄目……眠いし……疲れすぎて……今日の明け方サンドワーム……私も美味しそうに見えてきた……」
食堂の椅子にもたれ掛かるように座って、天を見つめながら女性探索者セラが虚ろな声をあげる。
妹の憔悴しきった姿に、ボイドはどうしたもんかと、朝食までの繋ぎに出して貰った昨晩のつまみの残りの炒り豆をボリボリとかみ砕きながら考える。
先守船での先行偵察を他の探索者と交代して本船トライセルに戻ってきたボイドとヴィオンが寝る前に食事をと思って来た時には、既にセラはこの状態でダウンしていた。
脳味噌がイイ感じに茹だっているセラの疲労の原因は、先日襲撃してきたサンドワームの死骸を倉庫の一つを借りてここ数日不眠不休で解剖調査をしていた事が主な原因だ。
護衛ギルドより派遣された砂船トライセルの探索者は当然セラ以外にもボイドやヴィオンを含め何人もいるのだが、セラが一人護衛から離れて報告書を作っているのには訳があった。
「生物知識を司る『黄の迷宮』の下級資格持っている探索者はこの船の中じゃお前だけなんだからしょうがねぇ。あと少しで終わるんだろ。それに親父もちゃんと報酬は出すって言ってるんだから、守銭奴なんだしそれで気力保て」
「うっさい……誰が守銭奴よ……馬鹿兄貴……この間の触媒の補填考えたらすぐに尽きるっての……それに今回のサンドワームはやばいから出来るだけ早く報告を遅れって父さんが五月蠅かったんだから……ラズファンでも調べてるんだからイイじゃない……ヴィオンも黙ってないでこの薄情者に何か言ってよ」
ギロリとボイドを睨みつけるセラの目元にはクマが浮かび、頬はこけて血色も悪く青白い顔になっている。
不眠不休の解剖調査とサンドワームの醜悪な見た目と死骸が放つ悪臭がその疲れを倍増させていた。
今朝に到っては一周回ってサンドワームの死骸がご馳走に見えるほどに精神状態が悪化し、さすがにこのままでは不味いと食堂へと一時避難してきたようだ。
「俺もそっち方面の技能はまだは取ってないから、出来る事はとりあえず頑張れって声援を送るだけかね。それに見落としがないように複数で調べるのは基本だろ。お嬢の所の親父さんが身内をこき使うタイプなのは今更だから諦めろって」
黄金色の液体が注がれたグラスの底からわき上がる細かな気泡が弾けて広がる芳醇な香りを楽しんでいたヴィオンは、恨めしげなセラの視線に軽く肩を竦め答える。
「うぅ……父さんの馬鹿ぁ……」
ヴィオンの言葉に力尽きたのかセラがパタンとテーブルの上に身を倒して愚痴をこぼし始めた。
大陸一つ分の空、大地、地底にまで広がる、広大かつ複雑な永宮未完内では、多種多様のモンスターが日々進化、発生を続けている。
驚異的な速度で変化を続けるモンスター達に対抗する為に、迷宮モンスターに関する情報や検体の収集が管理協会から探索者達へ奨励され。重要情報であれば高額な報奨金も出る。
その観点から見れば今回のサンドワームは管理協会からの注目度は高い。
ここ数ヶ月ほど連続発生していた小型砂船消失事件の犯人かも知れないモンスターの発見となれば、管理協会が色めき立つのは致し方ない。
出現地帯が一般人も進入可能な特別区であるのに、魔力無効化能力等、複数の効果を持つ砂弾を打ち出す変種で、危険度は特別区として考えた場合トップクラス。
その上に襲撃してきたサンドワームは複数。
セラ達の船を襲った群れ以外の個体が生息する可能性も十分に考えられる。
トライセルの緊急連絡を受け管理協会ラズファン支部からは、ラズファンへと向かう他船と接触して、調査用にサンドワームの死骸を至急送るようにと指示が下された。
そして砂船トライセルの目的地でありトランド大陸中央部への玄関口。
セラ達が所属する山岳都市カンナビスの協会支部からは、トライセルが到着するまでの時間が惜しい。
セラに調べさせておけと名指しで指名され、おまけにこれ以上の被害を押さえる目にもなるべく早く報告がほしい。寝る間もおしめという厳命つきでだ。
これは管理協会カンナビス支部長であり、クライシス兄妹の実父でもあるキンライズ・クライシスの依頼という名の命令だ。
実娘だから無茶な期限設定を出来たという事もあるのだろうが、セラ一人に任せざる得なかったのにも理由はある。
世界で唯一の生きた迷宮『永宮未完』は踏破する為に求められる技能によって『赤・青・黒・白・緑・黄・紫』そして全ての技能が求められる特別な『金』の八迷宮に大まかに分類され、攻略難度によってそれぞれ上級、中級、下級、初級の四段階に分けられる。
この中で黄の迷宮を試練を超え踏破し天恵を得る為には、モンスター類を含む動植物に対する高い観察力と造詣を必要とした。
世界中のありとあらゆる花が咲き乱れる花畑迷宮の中より、新種を探し出して祭壇へと捧げよ。
弱点以外を攻撃すれば全身が爆ぜるモンスター(しかも個体事に弱点が異なる)を、原形を残したまま百匹討伐せよ。
黄の迷宮では試練としてはこのような課題が与えられ、見事試練を突破した者達に天恵が授けられる。
探索者となった者はまず初級踏破から始まり、天恵を積み重ねていくうちにより上位の迷宮へと踏みいる資格を得る。
そして一種でも下級迷宮への侵入が可能になれば下級探索者と呼ばれる。
この黄の下級探索者クラスからが、協会に正式なモンスター報告書として受理され報酬が出る最低限度の資格となっており、資格外の掛けだし探索者達からの場合は協力費と言う名目での雀の涙ほどの報酬しか出ない規則となっている。
これにはちゃんとした理由がある。
黄の下級探索者クラスになれば、迷宮踏破のために必要な知識技術をちゃんと身につけているため、報告書もただどこそこに現れたという簡易な物でなく、どの種族のどの分類に属し所持する能力やその身体能力などの精度の高い情報で報告が上がってくる。
万年人手不足な協会側としては、そのまま本部や他の支部にも回せる情報はありがたいというわけだ。
資格外の掛けだし探索者や、手間の掛かる解剖調査の時間を惜しむ探索者等は、調査と協会への報告を肩代わりして報酬を得るモンスター鑑定屋(現役を引退した探索者達が主)に依頼するのが主となっている。
今食堂にいる三人は全員が下級探索者だ。
ボイドの場合は近接の赤と、地形と建築の白。
ヴィオンは遠距離の青と魔術の黒。
セラは魔術の黒と生体知識の黄が、それぞれ初級を突破して下級資格へと到達している。
そしてセラだけがトライセルにいる探索者のうちで唯一黄の下級資格へと到達しており、調査に十分な知識と技術を身につけていた。
もっとも黄の迷宮は、セラが自ら望んで率先して踏破してきたわけではない。
「だから嫌だったのよ。黄の迷宮をあたしが先行して取るのは……覚える事たくさんだし、血なまぐさい解体なんかもあたしがやる羽目になるし……とっとと踏破して兄貴かヴィオンがやりなさいよ」
ジャンケンで負けて先行して取る事になったとは言え、もうこれ以上のトラウマはたくさんだとセラが涙混じりのジト目を浮かべて二人を睨むが、疲れ切っているのかその目尻に力はない。
「しょうがねぇな。判った判った。次辺りからの攻略シフトを変更してやるよ。ヴィオン。悪いが次のお前のメイン攻略の時は黄で頼めるか? 俺の方はまだ1回しか黄の初級迷宮踏破してないから時間かかりそうなんだわ」
疲れ切ったセラの姿にさすがにボイドも同情を覚えたのか、横で弱い発泡酒を煽っているヴィオンへと視線を送ると、ヴィオンは空になったグラスを軽く上げる。
「おうよ。お嬢のためだしょうがねぇ。次辺りで下級に上がりそうな緑にするつもりだったけど、黄の方も後二、三回、メインで攻略すればたぶん下級資格に入るだろから良いぜ」
「悪いな。街に戻ったら奢るから今日は此奴で我慢してくれ……ん? ほれもう誰か来たみたいだ。しゃっきとしろセラ。護衛がそんな醜態さらしてちゃ面目がたたねぇぞ」
テーブルの上のボトルを手に取ったボイドは快諾を返したヴィオンのグラスへと新しい酒を注ぎながら礼を述べた時、その背後で食堂の扉が開く軋む音が響いた。
兄の注意にのろのろと身を起こしたセラが入り口の方へ視線をやると、女性としては並外れた長身で燃えるように赤い髪が目立つ女性薬師。ルディアが丁度扉をくぐってきた所だった。
自分が一番乗りかと思っていたルディアだったが、カウンター近く奥の席に陣取り背中を見せる男二人に気づく。
背中から生える特徴的なコウモリのような翼でうち一人がヴィオンだと判る、となるともう一人はボイドだろう。
「おはようございます。お二人とも戻られたんですね。お疲れ様でした」
ボイドとヴィオンの二人が昨夜は夜番で先行偵察に出ていると、昨夜の酒を飲み交わしながら他の護衛探索者達から聞いていたが、どうやら戻ってきたばかりのようで二人とも武器は持っていないが鎧姿のままだ。
「おはようさん」
「おう。ついさっきな。ルディアらは一陣だったな。どうだ空いているが相席。ケイスもすぐ来るんだろ? ここならすぐに代わり取りに行けるぜ」
振りかえたヴィオンがグラスを上げて挨拶を返しボイドが手招きをする。
ここ数日で船の乗員乗客が余すことなく知るほどにケイスの大食いは知れ渡っている。
もっとも行動が突飛、異常、そして怪我人の癖に常にそこらをちょろちょろ動き回っているのでケイス自体が目立つといった方が正しいのかも知れないが。
「ありがとうございます。あの子はまだですけど。っとセラさんもお早うご……なんか窶れてません?」
軽く会釈をしてにこやかに挨拶をして彼等に近付いたルディアは、ボイドの影に隠れて見えていなかったセラの姿に気づき挨拶をしようとして、その疲れた顔を見て目を丸くする。
「おはよ~……大丈夫大丈夫。ここの所、サンドワームの解剖調査が忙しくてあんまり寝て無いだけだから」
右手をひらひらと左右に振りながらセラが答えてみせるが、その身体は今にもぱたりと倒れそうにフラフラしており、どう見ても大丈夫そうには見えない。
目の下の濃いクマや血色の悪い青白い顔が合わさってまるで病人のようだ。
セラがここの所サンドワームの解剖調査とやらに掛かりきりと聞いてはいたが、ここまで憔悴しているとはルディアは思っていなかった。
ぼろぼろなセラの姿にどうにも世話焼きなルディアの性分がざわめく。
「あんまりって……速効性の栄養剤かなんか作りましょうか? ちょっと味の保証が出来なくて刺激が強いですけど」
味は二の次、三の次なのでしばらく口の中に苦みと辛みが残るが、効果”だけ”は抜群な栄養剤を進めてみるが、セラは意識が朦朧としていて考えが纏まらないのかしばらく虚空を見つめてから、力なく首を横に振る。
「あ~……今日はいいや。あとちょっとで終わるからその後頂戴。強い薬って使うとあたし魔術の制御が甘くなるんだよね。協会に報告する資料だからミスできなくて。ともかくありがと。どこぞの兄と幼なじみより、やっぱり同性の年下女の子の方が優しいわ……街に戻ったらそっち方面で新パーティでも探すかな」
ぼそっと愚痴と溜息をはき出したセラが生あくびをしながらボイド達を剣呑な目で睨んでいる。
確かにセラよりルディアのほうが二つほど年下だが、今更女の子って年でもないし、この背の高さでは柄でもないと自覚するルディアはどうにも返答に困り愛想笑いを浮かべるしかない。
「黄の迷宮優先するって言っただろ。お嬢のためお嬢のため」
「わーったわーった。ったくしょうがねぇな。ちゃんと完成してから言うつもりだったんだけどな。ルディア例のアレあとどのくらい掛かる?」
そして睨まれている二人といえば、別段慌てるでもなくヴィオンは肩を竦め、ボイドは手の中で弄んでいた豆を一粒ひょいと投げて口の中に放り込んでからルディアへと目くばせする。
ルディアはすぐに何の事か判ったのだが、まったくの初耳だったのかセラが不審げな顔を浮かべる。
「なによ兄貴あれって?」
「まぁアレだ。愚かながら可愛い妹への兄なりの気遣いってやつだ」
「だれが愚かよこの脳筋! って……ぁぅ……フラフラする」
妹をからかうのを楽しんでいるのかまともに答える気のないボイドの態度に、セラが一瞬激高して立ち上がったが、体力がない所で大声を上げたのが堪え貧血でも起こしたのかか、そのままドッスと椅子に逆戻りした。
テーブルにべったと力なくもたれ掛かるセラだが悔しそうにボイドを睨みつけ、体力さえあれば絶対ただじゃ置かないと呪詛の言葉を漏らしている。
「ボイドさんからセラさん用に魔術触媒液を依頼されてます。依頼と言ってもじつはこちら試作品みたいな物で、無料で」
「タダ!?」
このまま兄妹喧嘩でもされたらかなわないとルディアは事情説明を始めたのだが、無料と聞いた瞬間、どこに力が残っていたのかセラが椅子から跳びはねルディアの手を強く掴んだ。
セラは魔術師だがそれでも探索者。
同年代の一般人女性よりも遙かに強い力がありルディアの手がミシミシと嫌な音を立てて、あまりの痛みに思わず上がりそうになる悲鳴を堪える羽目になった。
「まぁタダつっても実費の原料とルディアに払う手間賃は掛かるんだが、俺とボイドで折半してるんで、お嬢の負担は無しって事だ」
「感謝しろよ守銭奴妹。しかも二十八種分の触媒と同効果だと。これでこの間の戦闘で使った分の補填になるだろ」
握りつぶされるかと思うほどの力で手を握られ説明の途中で止まってしまったルディアに代わりヴィオンが続きを伝え、ボイドが現金な妹を見て呆れ顔を浮かべている。
「ほんと兄貴とヴィオン感謝! これで解剖調査のやる気がわいてきたぁ! ルディアもありがとう! 杖とかと違って触媒液って高いのに消耗品だからかうの躊躇してたから嬉しい!」
一気にテンションが跳ね上がったセラが喜びの声をあげながらボイド達に礼を述べつつさらに力を強めルディアの手を握ったまま上下に振る。
ひょっとしたら本人的にはお礼の意味を込めた握手のつもりかも知れないが、ただでさえ痛いルディアにはたまったものではない。
「あ、あのセラさん……手……手が痛いんで離してもらえると嬉しいんですけど」
冷や汗を浮かべ僅かに苦悶の表情を浮かべ痛みを堪えて震える声をあげるルディアの様子にようやく気づいたセラが慌てて力を緩める。
「わぁっ! ごめん! ちょっと興奮しすぎた…………って……あぅ……駄目だ気力戻ったけど……やっぱ力入らない」
しかし我に返った事で肉体疲労も限界に近かった事を再自覚したのか、ルディアの腕を掴んだままルディアの方へと倒れ込んできた。
ルディアは何とかセラを支えようとしたが、いくら男と比べて軽いと言っても大人の女性一人分はそれなりの重さがある。
しかも今はセラは目を回したうえに身体に力がほとんど入っていない状態。
一抱えもある石が腕の中に出現したのとそうは変わらない。
倒れかかってきたセラの勢いを受け止めきれずに、ルディアもバランスを崩すことになる。
「だぁあっ! この愚妹はなにやってんだ?!」
もつれて倒れそうになる二人を見てボイドが慌てて手を伸ばしてセラのローブの端を掴もうとしたが一瞬遅く、その手は空を切る。
「ち、ちょっと!? 無理ですって!?」
ルディアはなんとか立て直そうとするが堪えきれずセラ諸共後ろへと倒れそうになった。
しかしバランスを崩したルディアの背に何かが触れたかと思うと、ルディアとセラの二人分の重さをがっしりと受け止め、それどころかそのまま押し戻してしまった。
態勢を整えたルディアが、目を回しているセラの身体を倒れないように腕を差し入れて支え直していると、
「ふぅ? ふぁいりょうぶかふでぃ?」
押し戻した人物の声が背後から響いてくる。
まだ幼さを残す声の感じからケイスと見て間違いないだろうが、なぜかその声はくぐもって聞こえてきた。
そのケイスの姿が見えるはずのボイドとヴィオンは、なぜかあっけにとられた顔を浮かべて呆然と固まっている。
その表情を一言で言い表すなら『理解不能なモノ』を見た時に浮かべる顔だろうか。
非常に嫌な予感を覚えつつも、またもケイスに助けて貰った礼を言うべきだろうとルディアは振り返り、ケイスの姿を見て…………もっと正確に言えば、ケイスが口にくわえるモノを見てしばし言葉を無くす。
ケイスが口にくわえるモノ。
それはどう見ても、武器商人マークスの息子であるラクトだった。
ラクトは意識を失っているのか四肢がだらんと垂れており、ケイスはそのラクトが腰にまく皮ベルトの背中側の方をガッチリと口にくわえてぶら下げていた。
少年一人分を口にくわえても微動だにしないケイスのその姿は、狩りから帰ってきた肉食獣のようにも見えた。
「…………あんた一体何があったの?」
礼を言うべきかという先ほどまでの思いは頭の中からすっかりと消え去ったルディアは頭痛を覚えながらもケイスに問いかける。
ケイスは左手でラクトのベルトを掴みなおして口を開いてベルトから歯を外し、
「ん。ちゃんと説明すると長いから端的に言うと、決闘を仕掛けられたのだが遊びなので拒否した。だがそれでも突っかかってきて、私の行く手を塞ぎ鍛錬の邪魔をしてきた」
「決闘ってそんな時代錯誤な状況にどうやったらなるのよ。それでやっちゃったの?」
「子グマ程度相手に決闘なぞしていないぞ。口論する時間も惜しいので仕方なく予定を変更して子グマを障害だと見立てて回避練習をしていたのだが、回避する私に業を煮やしたのか闘気を使い出した。ただ使い方が拙く危なかったので、此奴の心臓を一時的に止めて運んできた所だ。ルディすまないが見てやってくれ」
「……心臓を止めたってあんた……殺したって事?」
聞くのが恐ろしいと思いつつルディアが確認するとケイスは心外と言わんばかりに眉を顰め不機嫌を露わにする。
「むぅ。失礼な事を言うな。一時的だと言っただろ。子グマの闘気の使い方が拙く暴走気味で基礎生命力すらも削りだしていたので、一度解除するために心打ちで一時的に仮死状態に持っていっただけだ。ただ生命力が落ちているから速効性のある回復薬を投与してやってくれ」
事情はなんとなく分かったが、そこでなぜ心臓を止めるという選択肢にいたり、実際に実行可能なのかがよくわからない。
ケイスの説明を僅かに吟味してからルディアはすぐに一つの結論へと辿り着く。
ケイスが何を思ってこうなったのかとか、何でできるのかはもう理解しようとするのは止めよう。とりあえず判る事からやっていこう。
「あぁ。うん…………とりあえずそこの椅子座らせてあげて。ボイドさん。すみませんけど厨房から飲み水を貰ってきてください。ヴィオンさんはセラさんの方をお願いします」
人間理解の範疇を超えた事態に遭遇するとパニックになるものだが、ある程度慣れてくると逆に冷静になるものなんだと思いつつ、ルディアは溜息混じりに指示を出していた。