砂船トライセルは全長約150ケーラ。
その最下層は隔壁で隔てられ船首側は機関部、船尾側は倉庫となっている。
厨房の仕込みを手伝い終えたケイスは、人気のない船尾側最下層まで降りていた。
倉庫のスペースを少しでもとるために通路の横幅は両手を伸ばしたくらいと狭いが、長さは約60ケーラほどもあり、闘気の底上げ無しでのケイスの全力疾走では7秒ほどかかる。
早朝の人気のない時間を使い、ケイスはこの通路での走り込みを行っていた。
ケイスの目的はスタミナ増強の為の走り込みではない。歩法の鍛錬がその主な目的となっていた。
「はっ!」
息を軽く吐き出しケイスは跳び出す。
柔らかな砂漠と違い、木製の硬い床は、1歩目からトップスピードに乗せる事を可能とする。
広い歩幅でしかも常に一定になるように気をつけ、すり足気味に床を蹴りながら、通路の端を目指してケイスは疾走する。
最初に歩数を決めてから、歩数に合わせて通路を平均分割して頭の中で線を引く。
線を捉えて良いのはつま先のみ。
最初は20歩から初め、成功したら1歩歩数を増やしていく。
線を踏み外したのなら失敗。全力疾走時のタイム+1秒を超えても失敗。
もう一度20歩からやり直す。
それがケイスが行う歩法鍛錬の基本ルールだ。
朝食の時間までの一時間を目処に今日の目標は40歩とケイスは決めて、ここまで5回目のやり直しでようやく30歩目まで進んだ。
闘気を使い身体能力強化をすれば、目標の数倍までも無理なくこなせるが、それでは意味がない。
闘気を用いれば身体能力を数倍、熟練者であれば数十倍にあげることが出来るが、元となる基礎能力自体が鍛えられるわけではない。
ケイスが今求めているのは高い基礎能力。
正確無比な距離感。
精密な身体操作。
どちらも敵と触れ合うほどの近距離での近接戦闘を唯一の戦闘手段とするケイスにとって必要な能力だ。
「はっ……はぁ……むぅ」
31歩目を踏んで壁際に到着。
本来ならこのままターンして次の歩数へと入るのだが、ケイスは肩で息をしながら不機嫌に眉を顰めた。
立ち止まったのは息が切れたからではない。
予定より壁が近い気がしたからだ。
「むぅ。だめか」
足元を見下ろして壁との距離を測ってみると、やはり指一本分ほどだが近すぎた。
1歩前までは満足のいく出来だったが、どうやら最後だけ止まろうとした分の動きが遅れ超過してしまったようだ。
指一本分の僅かな誤差。
これを許容範囲とみるか失敗ととるか。
「ふぅ……むぅ。もう一度最初からだな」
ケイスは後者である。
軽く息を整えて、唸ってからケイスは反対側へと振り返る。
踏むべき場所は壁の汚れや床の木目を目印にして頭の中でイメージとして作り上げてある。
後は自分がその思った位置を正確に踏み切れるかが問題なだけの単純だが難しい作業だけだ。
「はぁっ!」
大きく息を吸い混んでからケイスは反対の壁に向かって飛び出す。
指一本分だけといえ、ケイスからすれば誤差は大きい。
その僅かな誤差でも間合いを読み間違えれば、重要な腱や血管を切り裂かれてしまうかもしれない。
余分に踏み込んでしまえば、振るった剣の狙いがそれてしまうかもしれない。
紙一重の近距離戦闘を生きるケイスにとって、指一本部の誤差は十二分に生死を分ける。
これくらいは良いかと自分を誤魔化してしまえば、後で泣く羽目になる。
変な部分で生真面目なケイスは、鍛錬には一切の妥協をせずただ黙々と繰り返す。
「ふ……ふっ……次!」
20歩は問題無し。
壁にタッチしたケイスは振り返ると共に即座にスタートを切り、21歩であっという間に通路を走破し反対の行き止まりに辿り着き、次の22歩目の為に折り返す。
息を整える暇もない短距離走の連発。
1歩ごとに歩数を増やしていく分、スライドが小さくなり遅くなるタイムは足の回転をあげる事で維持する。
躍動する心臓と駆け巡る血で熱くなる身体の熱さがケイスの心をより滾らせ、鍛錬へと意識が集中していく。
ケイスの行う鍛錬には休憩などという概念は存在しない。
ただひたすらに、身体を限界以上に酷使し続けるという馬鹿げた物だ。
こんな事を毎日繰り返していれば、常人であればすぐに身体が壊れる。
しかし御殿医から先祖返りと診断されたケイスの肉体がその無茶を可能とする。
鍛えれば鍛えた分だけ強くなり、怪我を克服すればするほどより肉体は強靱となっていく。
無限とも思える潜在能力の底はケイス自身にも見えない。
だが今のケイスには己の稀有な体質は好都合以外のなんでもない。
ケイスは強くならなければならない。
胸に抱く大願を叶える為に。
願いを人に聞かせれば馬鹿げていると笑われるか、幼すぎる外見故に現実を知らない子供らしい夢とほほえましく見られるだろう。
しかしケイス本人は心底本気であり、自分が出来ないわけがないと微塵も疑っていない。
自信過剰とも言うべきケイスの生まれ持った心根が、無理な鍛錬にも心を折らせず続けさせる原動力となっていた。
「っぁ……26っ!」
26歩までは順調に数を積み重ねてきたが、きついのはここから先。
歩数を増やしながら速度を維持するのは骨が折れる。
だが同距離同速度で歩数を増やせるということは選択肢を増やす事に他ならない。
荒れる息もそのままにケイスは折り返す。
1歩目。床木目細めの渦……成功。
2歩目。右側壁のへこみ……成功。
3歩目。左壁の倉庫扉蝶番……成功
4歩目。天井ひっかき傷先端……成功。
目標を一つ一つ確かめながら、狭い通路をケイスは全力で走る。
わざわざ上下左右に目標を分けたのは、動体視力の強化と広い視野の確保も鍛錬目的の一つだ。
深い森に姿を顰める射手の僅かな動作がうむ違和感を見つけ出す為に。
乱戦の中で敵魔術師が唱える詠唱や組んだ印を読み取り展開した魔法陣から魔術の種類を一瞬で判別する為に。
飛翔魔獣が雲の隙間から放つ広範囲ブレス攻撃を避ける為に。
地中から突如襲いかかってくる地生魔獣が地下を移動する時の微かな地表の異変を感じ取る為に。
攻撃の兆候を少しでも早く正確に認識し対処する事が出来るようにと鍛えるその知覚能力は、身体強化と違いすぐに必要となる力ではない。
ケイスの反応速度を持ってすれば、先日のサンドワームとの戦闘のように大抵の攻撃を躱し弾くことができるからだ。
高い知覚能力が必要となるのは今より数年後。
中級探索者となる頃に必要となる力と定めケイスは鍛錬を続ける。
そしてその先も勿論視野に入っている。
上級探索者となり生き残る為に必要な高度な身体力、強靱な精神力は現状より遙か高みにある。
さらにその先。
自らの生まれがもたらすであろう戦乱を勝ち抜き、家族を守る為の圧倒的な対人、対軍戦闘能力。
これから先の人生。
自分の生涯全てが戦いの中にあるという確かな予感を抱くケイスの鍛錬は20年30年先を見据えている。
8歩目。上階へと通じる階段扉の一つ前の壁掛光球ランプ……成功
ここまでの目標を正確に捉えた事に心中で満足を覚えながら8歩目を踏みきろうとしたケイスだったが、その目の前でいきなり階段へと続く扉が通路側へと開きはじめた。
どうやら上から誰かが降りてきたようだ。
鍛錬に集中しすぎて周辺警戒がおろそかになっていたと反省する間も無く不意の来訪者が姿を現す。
しかし、スピードに乗っているこの状況下では、さすがのケイスでも立ち止まるには距離が足らない。
このままでは降りてきた人物へと体当たりをする羽目になる。
かといってこの狭い通路では扉を避けることも出来ない。
むやみやたらと人に怪我をさせるのは好きでないが、自分が怪我するのも嫌だ。
なら残った選択肢は一つ。
「っの!」
ケイスはとっさに8歩目を強く蹴り跳躍する。
扉までの僅かな距離で空中へと身を躍らせたケイスは、不意の侵入者の顔を掠めるように飛び越えながら、そのままくるりと回転し扉の上部に浴びせ蹴りを打ち放つ。
扉を破壊して進路を確保するついでに勢いをかき消せばいいと単純明快な答えをケイスの思考ははじき出していた。
「ここかっ!? どぁ!?」
怒り心頭で最下層通路へと続くドアを開けた瞬間、目の前をいきなり小柄な身体が横切り、ついで派手な衝撃音と共にラクト・マークスは強い衝撃を受けて握っていたドアノブから思わず手を離す。
ベキと音を立てて木枠が砕けて蝶番が外れた重く頑丈な木の扉が、バタンバタンと音を立てながら風に流されるゴミくずのように通路を転がっていく。
ドアノブを掴んだままだったら、ラクトも扉と一緒に転がっていくことになっただろう。
「はぁはぁ……なんだ……子グマか……ふぅ……すまん。避ける暇が無かった」
恐ろしいまでの勢いと衝撃をドアに叩きこんだのはケイスと名乗る黒髪の少女。
ケイスはスタっと床に降り立ち振りかえってラクトの顔を見て頬を膨らませる。
「しかしお前も気をつけろ。『訓練中立ち入り注意』と張り紙を貼ってあっただろ。いきなり扉を開けるからびっくりしたじゃないか」
すぐに息を整えたケイスは謝る気があるのかと、疑いたくなる傲岸不遜な言葉を打ち放つ。
長い黒檀色の髪と多少吊り気味だが意志の強そうな目と整った顔立ちは、ラクトの幼学校時代の同級の少女達とは比べものにならないほど際だっている。
都会の着飾った見目麗しい少女達の誰よりもさらに強い存在感を放ち、外見だけで見るならば、まだ幼い雰囲気を色濃く残しながらもながらも、ケイスは最上級の美少女といって過言ではない。
だがそれは見た目だけだ。
「て、てめぇケイス! いきなり人のこと蹴り飛ばそうとして偉そうだなおい!? それに俺は子グマじゃねぇ!」
ラクトの当然すぎる抗議に対してケイスがなぜか不機嫌に眉を顰めてから、転がった扉を指さして胸を張る。
「失礼なことを言うな。私がこの程度の速度と距離で目標を外すわけがないだろ。狙い通り扉だけ蹴ったんだ。見れば判るだろ。それにクマの子供だから子グマだ。二つとも問題無しだ」
ケイスが指さした扉上部にはくっきりと足跡が残っており、どうやらここを狙って蹴ったと言いたいようだが、そう言う問題ではない。
失礼なのはお前の方だと言い返したくなる言いぐさにラクトは苛立ちをより強める。
「問題しかねぇよ! それに親父のクマは渾名で俺には関係ない……ってまて! 逃げるな! 俺の話を聞け!」
ラクトの言葉を最後まで聞かずケイスは転がっていった扉を壁に立てかけると、すたすたと歩き出した。
まるで話は終わったと言わんばかりのケイスをラクトは追いかける。
「むぅ心底失礼な奴だな。別に逃げたわけではない。後で扉を壊してしまったことはちゃんと船員に伝えるがまだ時間が早い。朝食時にでも伝え謝るつもりだ。無論修理も手伝う。そして私は走法鍛錬の途中だ。時間が惜しい。他に何か言いたい事があるなら走りながら聞いてやるから、階段側の所で言え。邪魔だから通路には出るなよ」
振り返ったケイスは不満げに唸ってからおざなりに今ラクトがおいてきた階段を指さし、通路から引っ込んでいろと上から目線で言う。
しかし階段の位置は長い通路のほぼ中間地点だ。
「それと大声は出すな。たぶん大丈夫だと思うが、上の客室まで響いたら早朝でまだ寝ている者もいるから迷惑だぞ。小声で話せ。お前には常識が無いのか?」
通路には船首側の転血炉が稼働する重低音が響いていて、近い位置ならともかく離れていれば音は聞き取りづらい。
ましてや小声で話したら、ますます聞こえなくなる。
ケイスの言いぐさは、お前の話なんて聞いていられないと遠回しに言っているような物だ。
「んな所から声届くか! しかも大声出すなって! お前絶対聞く気ないだろ!」
「一々しつこい奴だな。聞いてやると言っているだろう。心配するな私は耳が良い。だから大声を上げるな。さっきも言っただろ。貴様こそ人の話を聞かないのは駄目なんだぞ」
お前が言うなと返したくなる内容をほざいてから、ケイスは踵を返し早足で通路を歩き出した。
自己中心的で身勝手な上に自信過剰で鼻持ちならない。
誰と比べても群を抜いて断トツで生意気で憎たらしい年下ガキ女だと、ケイスと知り合って数日でラクトは嫌になるほど思い知らされていた。
「こ、このっ!!………っくぅっく!」
ラクトはその無防備な背中につい掴み掛かろうとしたが、年下女しかも怪我人である事を思いだして歯ぎしりをしながらも何とか踏みとどまる。
それに昨日のこともある。
剣を取り上げようとケイスに近付いた所、ケイスに思い切り投げ飛ばされ気を失う羽目になった。
一晩経ってようやく強く打った身体の痛みも引いて動けるようになったので、昨日の喧嘩の続きとケイスの所へ出向いたのだが、その初っ端からケイスの傲岸不遜で自分勝手なペースに巻き込まれていた。
「いいか! このちび女! 俺が昨日投げられたのは油断してたからだからな! あれで勝ったと思うなよな!」
ケイスに追いついたラクトは、前に回り込むとその行く手に立ちふさがり睨みつける。
年下。しかもこんな小さく細い少女に負けたとあってはラクトとしては立つ瀬がない。
ラクト自身も負け惜しみだとは判っている文句だったのだが、ケイスはきょとんとした顔を浮かべた。
「ん? 別にお前と勝負した訳じゃないから勝ったなんて思ってないぞ。それよりあの程度の投げならちゃんと受け身をとれ。お前が気絶なんかしたからルディから叱られたんだぞ……よし話は終わったな。鍛錬時間がおしいから邪魔をするな」
ラクトなぞ喧嘩相手にならず、元々眼中にないとケイスの言葉と態度は雄弁に物語っている。
他人事であれば、どうやったらここまで人を怒らせる事ができるのかむしろ感心しそうになる。
だが当事者であるラクトとしてはたまった物ではない。
「っく!……それと! お前今日は絶対親父の店の剣を使うっ!?」
言葉の途中でケイスが動いた。
立ちふさがっているラクトの足の間へと右足をすっと滑り込ませ右足を払いながら、左手でラクトの右腕を掴んで軽く引っ張る。
たったそれだけのケイスの動作でラクトの視界が反転して、気がついた時には床に投げられていた。
昨日と違うのは床に落ちる直前で勢いが弱まってふわりと浮き、ケイスが差しだした右足の上に身体が着地したことだろうか。
「温厚な私でもいい加減に怒るぞ。剣はクマの好意に甘えさせてもらっているが貴様に口出しされる謂われはない。まともに受け身も取れない未熟者が私の鍛錬の邪魔をするな」
眉根を顰め実に不機嫌そうな顔を浮かべているケイスは右足をずらして、ラクトを通路の端にポイと置いた。
あまりに簡単に投げられたことにしばし呆気にとられていたラクトだったが、我に返りワナワナと肩を震わせながら跳ね起き、ケイスへと指を突きつける。
「っ…………くくくくくっ……このガキ上等だ! てめぇ決闘だ!」
ここまで虚仮にされたのはもうじき14になるラクトの人生の中でも初の経験だ。
怒りを通り越して笑うしかない。
こうなれば相手が女であろうが年下だろうが怪我人だろうが関係ない。
絶対に泣かしてやるラクトが意気込むが、怒声にケイスはきょとんとした顔を浮かべている。
頭二つ分ほど大きいラクトの剣幕にひるんだ様子も無かったケイスはしばらくしてから溜息を一つはいた。
「はぁ……器量が狭い。もう少し心を広く持った方が良いぞ。私は貴様は気に食わないが殺したくはならないぞ。この程度で殺し合いなんて貴様おかしくないか?」
訳の分からない事を言い出したケイスが同情的な目を浮かべた。
だが返されたラクトは唖然として言葉を失っていた。
決闘しろとは言ったが殺し合おうなんて一言も言っていない。
「しかし貴様がどうしてもと望むなら致し方ない。ルディに立会人をやって貰うがいいか? それとも他に希望する者がいるか? 出来たらクマは止めてくれ。いくら私でも父親の前で息子を殺すのは忍びない」
あまり気乗りしないと言いたげな顔を浮かべながらも、ケイスは一人で納得して話を進めているのを見てラクトは慌てて止めに入る。
「……い、いや!? ま、待てって!? お、お前何言ってんの!?」
「何って決闘だろ? どちらかが死ぬまでの。ふむ。しかしそうなると場所をどこに…………」
何でそんな常識を確認するんだと言いたげな顔を浮かべたケイスは、場所はどこが良いかや、長剣でいいかとやたらと具体的な内容をあげ始める。
ケイスが冗談や脅しで言っているのならまだいい。
しかし極めて不本意だと感じさせる困り顔を浮かべながらも、その表情や口調が至極真面目なのが怖い。
どうやら本気のようだと嫌でも伝わってくる。
子供同士の間で決闘と言えば、それはあくまでも喧嘩の延長線上でしかない。
ラクトはケイスを同じ子供としてみている。
しかしケイスは違う。
「…………お、お前馬鹿だろ!? 何で殺し合い!? っていうか何でそうなるんだよ?!」
「誰が馬鹿だ本当に失礼な奴だな。決闘に殺し合い以外の何がある?」
ラクトが言っている意味が本当に分からないのかケイスがちょこんと首をかしげる。
仕草だけ見れば可愛らしいのだが、言っている事はとてもまともじゃない。
「あ、あるにきまってんだろうが……」
怒りが通り越して笑いへと変化していたラクトだったが、おかしすぎるケイスの言動に段々疲れすらも覚え始めていた。