身体に染みついた習慣か、それともその獣じみた本能か。
日の光が届かない常闇の砂漠においても、日の出の気配を身体が自然と感じ取り、ケイスは深い眠りから覚醒する。
目を開くと同時に半身を起こしたケイスは、寝起きとは思えない機敏な動作でさっと周囲を確認する。
部屋に一つだけある二重窓の外は相変わらず真っ暗なまま。
常夜灯のランプの微かな明かりが室内にうっすらと影を作る。
室内にはケイスが寝ていた物もあわせてベットが二つと机に鏡台が一つずつ。
壁の一部は埋め込み式のクローゼットになっている。
あまり生活感が感じられないここは、砂船の客室の一つだ。
ケイスのすぐ隣にあるもう一つのベットからは、静かな寝息が聞こえてくる。
寝息のリズムはここ数日で聞いていたのと変わらず。
狸寝入りをしている気配もない。
一時的な同居人であるルディアが、別の者にすり替わっていたということもなさそうだ。
寝ている間とはいえ室内に敵意を持つ誰かが忍び込んでくれば、自分が気づかないはずだとは思うが、それでも万が一ということもある。
クローゼットからは気配無し、部屋の死角に誰かが息を潜めている様子もない。
室内の各所に注意をむけていたケイスだったが、通路側の壁に作り付けられた机を見て目を止めた。
机の上では砂時計のような形の型枠でガラス器具が固定されており、ガラスの中では緑色の液体がコポコポと小さな音をたてながら加熱されていた。
型枠の天板と底板は金属製の文字盤となり、それぞれが冷却と加熱の効果を持つ小型の記入式魔法陣となっている。
記入式魔陣とは加熱、冷却等それぞれの基本術式があらかじめ文字盤に刻み込まれており、後から空白となっている外周部分に魔術文字を書き込み効果や発動時間を調整する物で、一から魔法陣を書かなくても良いので職人達に好まれ工房などで使われる魔法陣の一種だ。
だがケイスの知る記述式魔法陣は祖母の持つ巨大な温室を温める為の大型魔法陣だけだったので、二重化されたこのような小さい物もあるのかと物珍しさから興味が引かれていた。
昨夜寝る前に書かれた記述を軽く読んでみたのだが、随分細かな時間、温度指定をしてあり、何度も加熱と冷却を繰り返す事になっていた。
おそらく薬効成分を最大まで高める処置なのだろうが、薬師の知識を持ち合わせないケイスにはそれがどういう意味があるのかは理解できない。
一晩経ったというのに外周部の記述は三分の一も減っていないので、まだまだ完成までは時間が掛かるという事が判るくらいだ。
「薬の製作とは手間が掛かっているのだな……むぅパンに塗ろうとしたのは失礼だったか」
手間暇の掛かった物を本来の用途以外で使おうとすれば怒られて当然。
ルディアがなぜ怒鳴ったのか、かなりはき違えた答えを出しながらもケイスは数日前の自分の行動を思い返し反省する。
ケイスにとって世界は常に新鮮で目新しい。
一年前までのケイスは極めて偏った知識と経験しか持ち合わせていなかったからだ。
剣術と魔術に生存術の3つとケイスの為だけに復活した古代迷宮『龍冠』。そして迷宮龍冠直上のルクセライゼン帝国離宮『龍冠』だけがケイスの知る全てだった。
剣術を鍛え上げ、魔術を磨き、生存術を駆使して、迷宮龍冠を脱出し離宮龍冠へと帰る。
しかし脱出しても怪我が癒えればまた迷宮のどこかに転送され、無傷だったとしても一週間も経つと気づけば迷宮の最奥にいた。
この状況は祖母から聞いた話ではケイスの2才の誕生会から始まったそうだが、ケイスはその瞬間のことは良く覚えていない。
はっきりと覚えているのは、暗くじめじめした場所に独りぼっちでいた自らと、泣いても喚いてもいつまで経っても誰も来てくれなかった事。
そして迷宮から脱出する為に自分の足で一歩を踏み出したその時からだ。
最初は、小動物が地上までの道案内をしてくれて、寒さと不安で眠れない身体を温めてくれた。
無尽蔵に生えていた甘い果物が空腹を満たし、よく冷えたわき水が喉の渇きを救ってくれた。
扉を開ける為のパズルや、綺麗な花で出来た迷路は楽しかった。
長い迷宮だったが、ケイスが遊び場と認識するまでさほど時間は掛からなかった。
だが、ケイスが成長するのに合わせるかのように迷宮も変化する。
小動物は成長しケイスを襲う獣と化し、食べられた果物は徐々に数が減り、わき水には毒が少しずつ混じり、鋼鉄の巨大な扉に行く手を塞がれ、致死トラップに巻き込まれた事も一度や二度でない。
だがケイスはそれでも止まらなかった。
友達を殺し血肉を喰らい、毒であろうが負けない身体をつくり、扉を打ち砕き、トラップを排除して、意地でも這い上がりつづけた。
ただ、ただ一つの目的だけを抱き。
離宮龍冠へ。
大好きな家族の元へと戻る為に。
幼少時から続いた摩訶不思議な体験が、ケイスのずば抜けた戦闘能力を生みだし同時に異常な思考を作り上げていた。
ルクセライゼン帝国最秘匿存在であるケイスを知るものは彼の帝国に極々少数。
だがケイスを知る者は誰もが口を揃える。
あの姫は神に選ばれた存在なのだと。
しかし当の本人は、自分の生まれや意味などそんな物を一切気にしていない。
どこまでも自由気儘にして傲慢、傲岸不遜なケイスにとって、自らの存在意義やその宿命など意に止めるものでは無い。
好きなことをやる。
それがケイスの絶対無二にして唯一の行動方針。
外の世界。
知らなかった本当の広い広い世界に出たことで、自分がどれだけ無知だったのか毎日思い知らされているが、同時に新しいことを知るのが楽しくてたまらない。
大望を抱きこのトランド大陸に渡り探索者を目指している以上、それが絶対優先目標であるのは変わらないが、それとは別にケイスは今の旅を心の底から楽しんでいた。
「……ん。起きるか」
室内の安全を確認したケイスは警戒態勢を解くと、寝ているのがもったいないとベットの中に入れたままの左手をそそくさと引き抜く。
その手には抜き身の小刀が握られていた。
握り拳ほどの短い刃が、ランプの明かりを受けてぎらりと輝く。
銀を用いたほっそりとした刀身と丸みを帯びた柄はどこか女性的で、万人が認める美少女でありながらも、普段の言動からはどうにも獰猛さが滲むケイスには少し不釣り合いだ。
見る者が見ればこの短剣が戦闘用では無く、お守り的な意味での護身懐剣として拵えられたものと気づくだろう。
その証拠にケイスが持つ短剣は柄からからからと乾いた音が微かに鳴っており、中身が中空となっている事を気づかせる。
華麗な銀細工で全体を彩られた懐剣は、持ち主を守護し邪気を払う神聖品を中空となった柄に納め生まれた女子に贈るという、今は無き古い国の慣習に基づいて作られた品だ。
オークションにでも出せば、収集家の目を引き相当な高値を付ける一流の芸術品といって良い出来映え。
しかしケイスの本音を言えば、いくらお気に入りの剣の1つで有り、大切な人から送られた護身刀とはいえ、このような小さな刃物では無防備な就寝中には心許ないというのが正直な所。
最低でも長剣。できたらこの間の戦闘で壊してしまったバスタードソードクラスをベットに持ち込みたい。
あのサイズならとっさの時の盾にも出来るし、場合によってはベッドごと襲撃者を切り裂く事も出来るのにと、昔から不満を持っていた。
しかしどうにも昔から剣を寝台に持ち込む癖は、周囲からは評判が悪かった。
寝ている間に怪我をしたらどうするとか、シーツや毛布がダメになると散々言われてきたが、ケイスからすればそれが判らない。
刀剣を常に身近においておかず不安にはならないのだろうか?
自分ならそんな大胆なことは出来ない。
第一だ。
自分で握っている刃物なら、例え寝ている間であろうとも望まない物を切るはずがない。
そんな簡単な事が、なぜ他人には判らないのかケイスは理解できない。
ただ誰も彼も反対する上に、一番信頼していた従者でもあった従姉妹にさえも理解して貰えなかったので、目に見える大きな剣を持ち込むのは渋々止めて、常に身につけているこの護身刀だけで我慢していた。
「ふむ。問題無いな」
ベット脇のチェストの上に置いてあったチェーンのついた鞘を掴んで懐剣を納めて、鎖を首元に掛けて懐剣を懐にしまい込んだケイスはベットから抜け出す。
素足に触れる冷たい床の感触が、眠っていた間に火照っていた身体に気持ちいい。
足裏には最下層の転血炉が稼働する微かな振動が伝わってくる。
規則的な微動は転血炉が問題無く稼働している証拠だ。
サンドワームの襲撃で船体各部にそれなりのダメージを負ったはずだが、動力推進機関に問題はなさそうだ。
「ん」
旅が順調なことに満足気に頷いてから、大きく伸びをして体調を確認。
治療中の右腕は手首から先が包帯と当て木でぐるぐると巻かれ固定され不便なことこの上ないが、ルディアの痛み止めのおかげで引きつるような感触があるだけだ。
身体を捻りながら筋肉をほぐし、ついで左手の指を開いたり閉じたりして、反応速度も確認。
ここ数日ちゃんとした食事にありつけたおかげか、サンドワームとの戦闘で無茶をした影響で残っていた、身体のだるさや熱も完全に抜け、思った通りの動きができる。
そろそろ本格的な鍛錬を再開をしても問題無いだろう。
だがその前にやることをやってからだ。
今は好意で砂船にただ乗りさせてもらっている。
ならば手伝えることがあるなら極力手伝うべき。
基本的には常識外れなくせに、妙に義理堅いというか根っこの部分では真面目なケイスは一つ頷いてから、隣のベットで毛布にくるまっているルディアの身体を軽く揺する。
「ルディ。ルディ。良い朝だぞ。厨房の手伝いに行くから着替えの手伝いを頼む」
「…………ぁ……あぁ朝ね……ったく。朝から元気ね。あと何度も言うけどルディア。一文字だけ削った中途半端な略し方するなって言ってるでしょ」
眠りを妨げられたルディアが寝起きの不機嫌そうな表情を浮かべ文句を言いつつも、もぞもぞと動きベットから這い出てきた。
癖が強いのか派手な赤毛がぴょんぴょんとあちらこちらに飛び跳ねているが、あいては同性。しかも年下のケイスの前だからか特に気にしている様子はない。
「ふぁぁ……ほら。そっちいって。背中むけて。」
まだ寝足りないのか欠伸混じりのルディアは、ケイスの肩を掴んで背中を向けさせてから鏡台前の椅子に座らせる。
ケイスが着る寝間着は背中だけでなく右肩の後ろ側にもボタンが付いており、右側だけ半袖となっている。
ケイスが元々着ていた旅装束一式はボロボロとなった上に、右腕が包帯と当て木でふくれ上がり普通の服が着られなかった事もあったので、ファンリアの商隊で衣服商をやっている針子の女性が古着を縫い直して譲ってくれた特別品だ。
他にも幾つか袖を通さなくても、良い服をもらい受けている。
とりあえず頑丈で動きやすければあまり気にしないケイスとしては、そこまで着る物に拘りは無いのだが、
彼女曰く、
『女の子が見た目に気を使わなくてどうする。しかもあんたみたいなのが適当ってのは服飾神様に対する冒涜よ』
とのことで、どうやら”見た目だけ”で判断するならば、美少女であるケイスに自分が手直した服を着せる事を楽しんでいるようだ。
「にしてもあんたさ…………どんな身体してんの? 二、三日前まで髪はごわごわで肌もかさかさ傷だらけだったのが、何でこんなに良くなってるのよ」
しっとりと濡れるような艶のある黒髪と肩口から覗くすべすべとした卵のようなケイスの素肌を見たルディアが、この数日で別人のように変化したその肌や髪質に呆れ混じりの声をあげながら、背中まである黒髪を櫛で梳いていく。
「ん~ゆっくり寝たし、ご飯が美味しかったからな。生命力が十分戻ったから闘気で回復力だけを高めている所為だろ。それにルディの薬がいいのもあるな」
髪を梳かれる心地良い感触を楽しみながら、ケイスは弾んだ声で答える。
血の滴る生肉も悪くはないが、温かいご飯も美味しいし、固い地面よりベットの方が気持ちが良いのは言うまでも無い。
よく寝てよく食べるから自然と生命力も戻り、闘気を身体に張り巡らせて回復を早めることが出来る
それに腕の立つ薬師の薬もあるのだから、これくらいはケイスにとって当たり前。
むしろたかだか骨折程度で骨がまだくっつかないのは遅すぎるくらいだ。
「身体能力全般を高めるならともかく、回復だけって……あんた探索者でもない癖によくそんな器用に使えるわね。それにあたしの薬はただの化膿止めと痛み止め。美容効果はないっての」
闘気を使って身体能力をあげるのはさほど難しい事ではない。
それこそ子供でもそこそこの生命力があり生命力を闘気変換するコツさえ知っていれば出来る。
しかし生み出した闘気で全身の身体能力強化を行うならともかく、一部だけに限定して強化するとなると途端に技術的には難しくなる。
だがこの闘気操作をいとも簡単にこなす者達がいる。
それが神の恩恵である天恵を得た者達。所謂探索者だ。
天恵は探索者に強い生命力を与えると同時に、変換能力の増大と細分能力をもたらす。
探索者ではないルディアには魔力の違いなど判別できないのだが、最高位の上級探索者ともなると、魔術に使う魔力一つとっても術にもっとも適した波形の魔力を生み出す事ができるという。
勿論探索者と比べればケイスの闘気の細分化は拙いの物だが、年齢を考えれば十分驚異的なものだ。
しかしここ数日でケイスの無茶苦茶な言動と能力を目の当たりにした所為か、常識という感覚が麻痺し掛かっているルディアはただ呆れ顔を浮かべるだけだった。
「はい縛るわよ……そうだ。食事で思いだしたけどあんた食べ過ぎじゃない? 並の大人の二、三人前はぱくぱく食べてるけどよく入るわね」
髪を梳き終わったルディアは、今度は髪を大きくまとめて紐で結い上げポニーテールへと仕上げていく。
この髪型は動きやすいからケイスは気に入っているが、自分でやるとどうしても納得がいかずいろいろ弄っているうち変になってしまう事が多かった。
結局紐で適当に縛る事が多いのだが、ルディアの髪結いはケイス的には十分及第点だ。
「私は動いているからな。ルディも一緒に鍛錬するか? 身体を動かすとご飯が美味しいぞ」
「冗談。あんたの鍛錬なんて付き合ってたら2、3日は筋肉痛が確定でしょうが。それ以前に怪我人が無茶するなっての。昨日もいったでしょ。治る物も治らないわよ。ほら馬鹿言ってないで右手出して。包帯をまき直すから」
素気なく断られたケイスは不満顔を浮かべるが、ルディアはケイスの頭を軽く叩いて注意すると、寝ている間に緩んでいた右手の包帯を強めにまき直しはじめる。
ケイスからすれば昨日はまだだるさもあって軽く身体を動かした程度なのだが、ルディアから見ると十分すぎるほどのオーバーワークだったようだ。
「そういえばあんた昨日マークスさんとこの息子さんに喧嘩を吹っ掛けたって? マークスさんが何かやたら上機嫌で、調子に乗ってた息子が叩きのめされたとか言ってたんだけど」
「ん?……あぁ子グマのことか。失礼なことを言うな。私がクマから剣を借りて素振りしていたのだがあいつの方から絡んできたんだぞ。失礼な奴だ」
しばらく考えてからケイスは昨日あったことを思いだして不愉快に眉を顰める。
ちょっとした”認識”の違いから誤解が生じていた武器商人のクレン・マークス通称クマだったが、無事に誤解が解けたこともあって良好な仲を築きかけている。
昨日などはクマからケイスは鍛錬用に武器を貸してもらったほどだ。
それ故に昨日は途中までケイスはすこぶる上機嫌だったのだがクマの息子。
ケイスが子グマと呼ぶ13才の少年ラクト・マークスに出会った事で気分は最悪になった。
「それに叩きのめしたのではない。あいつが剣を取り上げようとずかずかと私の間合いに入ってきたので危ないから投げ飛ばしただけだぞ……子グマが気絶がしたが受け身を取らなかったあいつが悪い」
気絶させたのはやりすぎたかと思いつつも、ケイスは頬を膨らませる。
どうやら自分が剣を持ち出すと怒る父親が、ケイスには喜んで貸し出していたのが気に食わなかったらしいが、ケイスからすればいい迷惑だ。
「やり過ぎだっての。あたしもそうだけどあんたも居候みたいなもんだから大人しくしてなさいよほんと」
「ん。判っている。だから早起きして厨房の仕事を手伝っているだろ。それにあっちが絡んでこない限り私から力を振るう事は無いぞ。私は心が広いから、昨日のことは水に流してやるし、意味なく力を振るう乱暴者ではないからな」
ケイスは強く頷き胸を張って答えたが、ルディアが向ける視線は非常に疑わしいと雄弁に物語っていた。
「テーブルと床の掃除は終わったぞ。次は何をすればいい?」
使い終わったモップを左手で持ちながらケイスは食堂のカウンターから、厨房の中へと声をかける。
砂船『トライセル』は乗員乗客合わせて八十人以上が乗り合わせる中型船だが、その食堂は人数に対して大分手狭で最大に詰めても三十人分ほどの席しかない。
これは元々トライセルが探索者向けの船として設計されていた事が原因だ。
探索者は大抵4~7人で1パーティを組む。
基本的にはそのパーティ単位で探索者達は、迷宮を探索したり、様々な依頼をこなしていく。
また大規模な討伐や長期に及ぶ依頼。危険度が高い迷宮に潜る場合は、数パーティが集まり、チームを形成するのが昨今の主流だ。
迷宮内に船を持ち込んだり、建築魔術スキルをもつ術者が簡易砦を築城して拠点を作り長期探索や採取をおこなう場合は、中級探索者クラスの場合は安全性と収益分配や採算の関係から、最大で4パーティほどが合同チームを結成している。
中級迷宮探索船であったトライセルも、定員四十人を見越して建造、運用されていた。
だが老朽化に伴う払い下げの際に、過剰武装と不要設備の撤去をして旅客貨物船への改装をおこない客室と倉庫の容量を増やしている。
だが厨房等水回りが関係する部分は大規模な改装をするのが難しく、元のままとなっている。
結果厨房の拡張が出来ない為、食堂も元の広さのまま据え置かれていた。
「おう…………おし。ちゃんと出来てるようだな」
白髪交じりの料理長セラギ・イチノは仕込みの手を休めて食堂へ出てくると、掃除箇所を一通り確認してからケイスの頭を撫でて褒める。
固太りで厳つい顔の為か肉を捌く姿は、料理人よりもオーガだと言われるセラギだが、その厳つい外見に反して繊細な味の料理を得意とし、貨客砂船程度の料理長をしているのが不思議な腕をしていた。
「うむ。当然だ。食事を取る場所は綺麗にしなければいけないのだろ。セラギの教えてくれた通りにぴかぴかにしたぞ」
セラギに褒められたことに、素直な笑みを浮かべて喜びながらケイスは胸を張る。
親子以上に離れた年長者に対する言葉遣いではなく傲岸不遜その物だが、テーブルの上は綺麗に磨かれ、床にはゴミ一つ無く、額にはうっすらと汗を掻いたケイスが一生懸命に掃除をしていたことは一目瞭然だ。
「初日から比べて随分進歩したな。まさか床用のモップでテーブルを拭く奴がいるとは俺も思わなかったからな」
初日にとりあえず掃除をさせてみたケイスがモップでテーブルを拭き始めたのを見た時には巫山戯ているのかと思い怒鳴りつけたのだが、セラギの怒気にも恐れた様子も見せずなぜ怒られたのか判らずケイスはきょとんと首をかしげるだけだった。
本当に知らないようだったので仕方なくセラギ自ら見本を見せたのだが、すぐに気をつける場所や効率的なやり方を覚え、言葉使いのわりには妙に素直な所があるケイスをセラギは気に入っていた。
「むぅ。しょうがないだろ知らなかったんだから。ちゃんと見て覚えたからいいだろ。それより次の仕事を寄越せ。鍛錬までまだ時間はある。私に出来ることなら何でもやるぞ」
セラギのからかい混じりの目線に頬を膨らませるケイスだったが、すぐに気を取り直して次の仕事を催促する。
掃除は適度に身体を動かす事ができるので準備運動代わりにはもってこいだが、手伝いをする時間は朝と夕方それぞれ一時間の約束としていた。
今日は掃除になれてきたのと身体が自由に動くので所為で思ったより早く終わり、約束の1時間までは30分以上残していた。
「次の手伝いか・そうはいってもな。お前さんの右手がそれじゃなあ」
包帯と当て木で固定されたケイスの右手を見てセラギはどうしたもんかと腕を組む。
左手一本で出来ることなどさほどない。
それが料理人……いや一般人であるセラギの常識だ。
「ねぇ親父。それならケイスに皮むきやって貰おうよ。今日の夕食のポテトサラダ用」
二人の会話を厨房内で聞いていたのか焦げ茶色の髪の若い女性がカウンターに身を乗り出し、手に持っていたジャガイモとペティナイフを掲げてみせる。
女性はミズハ・イチノ。名前の通りセラギの一人娘でこの厨房のもう一人の料理人だ。 ミズハは父親の元で修行中とのことだが、イチノ親子たった二人で八十人分を毎日三食作っているのだから、もう一人前と言っても過言ではない。
特に前菜とデザートに関しては女性としての感性が勝るのか、ミズハの料理の方がセラギよりも評判がよい。
「馬鹿かミズハ。ケイスの右手は塞がってんだぞ。自分が楽したいからって無茶を言うな。サラダ用のジャガイモはヘント種だから小さくてただでさえ剥きづらいってのに」
ミズハの持つジャガイモはヘント種と呼ばれる鶏の卵より一回りほど小さい大きさと形をした品種だ。
冷やしてもホクホクとした食感が変わらないのでサラダ用には適しているが、粒が小さいので皮が剥きにくく、仕込みをする下っ端料理人泣かせのジャガイモだ。
トライセルの料理人は二人しかいない為にどちらが大変な作業をやるとかではないが、肉、魚関連はセラギ、野菜の仕込みはミズハと分担が出来ている。
夕食のサラダに使うヘントジャガイモも無論ミズハの担当で、朝のうちに木箱一杯分の皮を剥き水にさらし茹でておかなければならない。
手間を考えるとかなりの一苦労なのだが、
「違う違う。親父はケイスを甘く見てるんだって。ほらケイス昨日の林檎みたいにやって。ほいパ~ス」
「おわっ! ミズハ刃物を投げるな!」
ちっちと小さなジャガイモを振ってみせたミズハは、ケイスに向かってペティナイフと小さなジャガイモをポンと投げ渡す。
いきなり刃物を投げたミズハの行動にセラギが驚きの声をあげるが、当のケイスは落ち着いた物だ。
飛んでくる矢に比べれば、クルクルと回るナイフ程度など、ふわりと落ちてくる綿毛と危険度は変わらない。
「ふむ。よかろう」
無造作に左手を付きだしたケイスは人差し指と中指でナイフの刃を挟みとり、そのついでに宙を舞っていたジャガイモにも手を伸ばすと親指と小指でつかみ取る。
ナイフとジャガイモをキャッチしたケイスは指を軽く動かして、手の中でジャガイモを回転させながらナイフの刃を当てて皮を剥いていく。
物の一瞬でケイスの手から一本に繋がった薄い皮がカウンターの上にぽとりと落ちた。
「これくらいの厚さで良いかミズハ?」
見事に裸になったジャガイモをケイスは二人へとみせる。
大きさは皮を剥く前とさほど変わらず表面はなめらか。身を削らないように薄皮一枚で剥いてあり、とても左手一本でやった物とは思えないほどだ。
「なっ?!」
「おぉさすが! やるケイス! ご褒美に後で新作デザートの試食させてやんね。昨日の表情みた限り林檎は好きでしょ?」
驚きの声をあげる父親とは違い、昨日既にこのケイスの曲芸じみた皮むきを見ていた娘はぱちぱちと拍手を送りながらウインクしてみせる。
「ん。良いのか? でも楽しみにしておく。リンゴもミズハのデザートも好きだ」
手の中にある動かない物を斬るなどケイスからすれば朝飯前。
この程度でご褒美を貰ってもいいのかと思いながらも、一番の好物であるリンゴのデザートと聞いて是非もなく笑顔を浮かべる。
「ってなわけで親父。ケイスに手伝わせるのに文句はないでしょ。この子、刃物扱わせたらたぶん親父より上なんだから」
「判った判った。確かに俺には出来ない芸当だ。でもそれとは別にだ。ナイフを投げるな驚くから」
勝ち誇った顔を浮かべるミズハに、苦々しい顔で睨みつけながら苦言を呈すセラギの横でケイスが胸を張る。
「当然だ。私は剣士だからな。他にも斬る物があれば任せておけ。斬るのは大好きだ」
この後数日間、十分に物を斬っておらず欲求不満気味だったケイスは、言葉通り嬉々として刃物を振るい、ジャガイモ1箱とニンジン30本ついでに骨付きの牛半身を捌き満足な斬りごたえを感じてから朝の手伝いを終えた。