左手の千刃手甲で時折壁面を削り取ったケイスは、小石の破片を指弾の要領で跳ばして、微かに生まれた火花と反響音を頼りに、暗闇に覆われた火道を垂直に飛び降りていた。
ナーラグワイズとの戦闘があった場所から、既に2時間ほど。目算で10万ケーラ(100㎞)ほど降りてきたが、未だ底は見えず、どう考えてもあまりに深すぎる。
それに上の方は塞がっていた場所がいくつもあってナーラグワイズが溶かしていたのに、今は塞がっている箇所は皆無で、ひたすらスムーズに降りて来られている。
どうも周囲一帯の空間が歪んで、空間そのものが延長されているか、壁面質感の違いから別の場所と次々に入れ替わっているとケイスの勘が判断するが、魔力を持たないケイスでは、脱出するどころか、周辺空間の歪みさえ調べることが出来ないので、とりあえず降りていくしか出来ることはない。
思わず不安を覚えるような怪奇事象でも、ここトランド大陸の別名を思い返せば珍しい物ではない。
迷宮大陸。
迷宮神ミノトスによる摩訶不思議な迷宮が、太古より存在し、今も無数に生まれ続けている大地。
ある迷宮間回廊を通っていると、気づかないうちに遠く離れた場所へと転移しているというのもよくある話。
固定化された空間転移回廊は利便性が良い物は近道として利用されることもあり、固定転移回廊を見つけた探索者に管理協会から報酬が出たり、逆に見つけても報告せず、通路を偽装して秘匿して、個人やギルドで個人所有している者達もいると聞く。
そんなことを思い返していると、ふと一つの仮説がケイスの中に浮かび上がってきて、右手に握ったままの古代魔具へと目を向ける。
緊急用待避結界魔導具の中にはケイスの予想が正しければ、二人の上級探索者が逃げ込んでいるはずだ。
ケイスの直接の祖先であり五代前のルクセライゼン皇帝ベザルート。
もう一人がドワーフ王国エーグフォラン国王ガナド。
かつてはナーラグワイズが生み出した悪夢の島を攻略する為に、数百年以上の年月と夥しい犠牲を必要としたが、ひょっとしたら正直に島を海上から攻略したのが失敗だったのではないだろうか。
「まさか本来は……」
この転移回廊を使い、火口に陣取っていたナーラグワイズを直下から奇襲を仕掛けていればもっと早く、犠牲もすく……
「むぅ」
気にくわない仮説にたどりついてしまったケイスは気分を害して、顔をしかめて、考えるのをやめ、このような悪趣味を試練と称して人をあざ笑う神など、いつか斬ってやると決意を新たにし、降下に集中する。
迷宮主ナーラグワイズを喰らったことで、迷宮化が解除され、迷宮特性【離さず】や【思考単純化】の効果も同時に消失した事で、探索や移動に支障は無くなったが、それ以前の問題として探索用のアイテムが足りない。
借り受けた装備のうちまともに使えそうなのは千刃手甲くらい。
他の武器はナーラグワイズとの戦闘時あまりの熱量で溶解したか、原形はとどめているが柔らかくなっていて使い物にならず。
全身を覆っていた四宝鎧も、鎧に残っていた残存魔力を自らの血肉を用いて無理矢理増幅して使っていたが、龍のブレスを真っ正面からぶち抜いた事で、さすがに増幅元の魔力が尽きてしまった。いくらケイスの血が最高の魔術触媒といえど、増幅する元がなければどうしようもない。
四宝鎧だった物は、今は氷できたケイスの爪ほどの鱗がついたブレスレットに変化していた。
ケイス自身は囚人服だった血まみれのぼろ切れだけを纏った半裸状態だが、致命的な高熱も、一瞬で意識を失うような有毒ガスもこの辺りには流れていないので、今のところ問題は無いと、気にもしていない。
幸いにも四宝鎧を纏う為に、魔法陣を刻む為に、切り刻んだ皮膚や肉は、ナーラグワイズを食べたおかげで一時的に身体能力が強まったのか、ほぼ治りかけでかさぶたがやけに目立つ程度には癒やされている。
父の帝位継承の証であるルクセライゼン天印宝物。膨大な魔力増幅能力を持つ四宝杖も、非使用時は同じように鱗がついた革手袋となっていたので、帝家が受け継いだ龍魔力が発動の鍵であるようだ。
元々の所有者であるベザルートとの魔力接続は、ケイスが着込む為に龍王魔術陣を描いた為に、今は一時的に切れてしまっているようで、時間経過での変化も見られない。
ブレスレットのサイズはケイスの細腕には大きすぎるが、首にはめる分にはちょうどいいので落とさないように今は首につけている。
何にせよ借り物の四宝鎧で、魔力の塊とはいえ龍、それも名の知られたナーラグワイズに対抗して斬れたのだ。感謝してもしたり無い。
このような機会をくれた先祖にも、そして左手の千刃手甲を作ったドワーフ族にも、受けた恩義は返さなければならない。
義理堅いケイスは、その恩義に報いる為に二人の王を絶対に国元へと返すという決意を固めていた。
ただ、国元へ返すとなると、稽古だとしても、気軽に剣を向けるのも難しいだろう。
となれば戦うなら、諸々が公にばれる前にしなければならない。
伝説の英雄達に剣を向けたとばれたら、今周囲にいる人たちや、国元の家族にも、ものすごく怒られることは確定。それだけは絶対に避けなければならない。
もっともそれ以前に古代魔導具をどうやって解除するかや、武装を整えるなど諸々の準備が必要。
だから第一目標はまずはロウガへの帰還。
ロウガに戻れば、魔導具の専門家魔導技師のウォーギンがいる。
それにケイスの愛用武具である先代深海青龍王ラフォスの宿る羽の剣や、火龍ノエラレイドが宿る額当ても早く迎えに行かねば。
それに見つけたあの長巻も使っていないので、振ってみたい。
ケイスが明確な目標を定めた事がきっかけだったのか、それとも一定の距離を移動したからか、あるいは偶然にも定められた順番を偶然成し遂げたのか、理屈は分からないが、今まで真っ暗闇だった奈落の底から、ほのかな青白い光が発せられ始めた。
下が見えて格段に降りやすくなったケイスは、一気に足を速めて、ほぼ落ちているのと変わらない速度で壁面を蹴って下り降りる。
穴の出口間近で壁に左手をたたき込み急制動してぴたりと勢いを殺して身体を止めてから、足下をのぞき込む。
「ふむ。やはり空間転移系か。天然の洞穴のようだがどう見ても溶岩溜まりやその後ではないな」
上下逆さの光景でのぞき込んだ穴の底は、ケイスの背丈の倍はあるほどの大きな水晶の柱が床や壁面から乱雑に突き出た洞穴の一部が姿を見せた。
数え切れないほどの無数の水晶は、仄かな光とほどよい熱を生み出しており、熱くなく、寒くもない、ちょうど良い気候で洞穴内で保たれている。
左手を抜いて水晶伝いに飛び降りて底に降り立つと、足首ほどまでの高さでうっすらとだが水が満ちていた。
水をすくってみると透き通っており、軽く舌先で舐めてみると、違和感や異臭、塩っ気もないほどよく冷たい真水だ。
「むぅ。綺麗すぎる。私が呼び込んだ海水でもないか」
真水があるのは有り難いが、一切の雑味が感じられないのは、周囲に動物や植物が存在しないということでもある。
喉の渇きは潤せたが、空腹はごまかせない。
とりあえず水晶の一部を左手で砕いて口にしてみたが、歯でかみ砕けるし、闘気強化した状態なら石だろうが何だろうが消化も出来るとは思うが、ざらざらしていて美味しくないので最後の手段だ。
水と砂利とはいえ胃に少し物が入ったおかげで、空腹が紛れたので周りを観察し考察してみるとすぐに違和感に気づく。
張り出した水晶で物陰が無数に生まれているが、そこに何かが潜む気配はない。むしろほどよい暖かさと柔らかい明かりの所為か、どこか心が安らぐ。そしてこの感覚には覚えがある。
「ふむ、動物どころかモンスターの気配もないとなると……安全地帯の可能性が高いか」
迷宮と迷宮を繋ぐ回廊は特別区扱いで通常ならモンスターなども出没するが、時折迷宮内にはモンスターが近寄らず探索者達が安心して野営を行える安全地帯が発生する。
もしここが安全地帯であるならば……
仮説を立てて周囲を探ったケイスは、すぐに水晶の一部が変化したのか、天然洞窟の中では不自然で目立つ模様の入った、迷宮への入り口を表す扉を見つけ出す。
しかもそれは最初に見つけた一つだけではなく、立て続けに複数の扉が次々に現れる。
迷宮色が判別できない扉もごろごろと転がっているので、それらは中級、もしくは上級のケイスが未だ踏みいる資格を持たない上位迷宮達だ。
これだけ一つの安全地帯と隣接した迷宮入り口があるとなると、俗に迷宮群と呼ばれる迷宮密集地域となる。
「どこかの迷宮群。しかも初級や下位迷宮ですら終盤時期に軒並み未踏破となると……未発見迷宮群か」
永宮未完に属する迷宮は、始まりの宮を始まりとして迷宮の扉が開き、五ヶ月後に下級迷宮や特別区迷宮を除いた迷宮が、扉を閉じ、出ることは出来ても入ることが出来無い迷宮閉鎖期を迎える。
閉鎖中の迷宮内ではモンスターが異常増大し、迷宮構造そのものを大きく変える地殻変動も頻発する、まるで地獄のような状況になるという。
そして一月後の閉鎖期の終わりに、次期始まりの宮が開くというサイクルで動いている。
上位迷宮には、幾度も閉鎖期という地獄を超えて数年単位での攻略を必要とする大規模迷宮も存在するが、下位や初級には今のところそれほど大規模な迷宮は発見されておらず、やけに難易度が高い迷宮を除いてほとんどが、二、三ヶ月もあれば踏破されて、迷宮化が解除されている。
だというのに、今発見した迷宮に完全踏破されて迷宮化が解除された物は皆無。
ケイスが探索者となって既に4ヶ月以上。
どれもが高難度で踏破が出来無かったと考えるよりは、この周囲の迷宮群がまだ人が足を踏み入れていない辺境や、よほど辺鄙な場所にあるからかもしれない。
さてどこまで飛ばされた事やら……などとケイスは考えない。
目の前に迷宮がある。なら生き残る為に、大切な人たちの元へと帰る為。かつて故郷の龍冠迷宮で過ごしたときのように、迷宮を乗り越えるだけだ。
「ふむ何はともあれ。まずはご飯からだな」
やはり石では物足りないし、味気ない。
迷うことなく赤の初級迷宮を示す赤い扉を選んだケイスは、どのようなご飯……もといモンスターがいるかとわくわくした顔で迷うことなく、前人未踏の迷宮へと飛び込んでいった。
夕暮れに照らし出されるロウガの街は、ここ数日で急速にお祭りムードが盛り上がっていた。
街の宿屋では至る所で派手な飾り付けがなされ、呼び込みに忙しい酒屋や露天には食べ物や酒が溢れ、武具商店や魔具屋にも真新しい新商品が並び、この半年に一度に最大の商機を逃してなる物かという気概で、誰もの目が血走っていた。
明日には迷宮が閉鎖する迷宮閉鎖期が始まる。
普段は迷宮に籠もりっぱなしだった探索者達が大挙して街に戻ってくるこの時期は、物珍しい迷宮素材が大量に入荷する時期で有り、戦利品によって財布の肥えた探索者達が集まる時期で有り、羽振りの良い探索者達にいかに金を吐かせるかと、商人達の鼻息の荒くなる時期でもある。
「よっしゃ! 飲め飲め! 今日は俺らの凱旋祝いでローゼン獣鱗団のおごりだ!」
普段は街ではあまり見かけない歴戦の貫禄を誇る中級探索者の集団は、今回の探索で一山当てたのか、豪毅にも酒場の一つを借り切った上に、店先に樽をいくつも積み上げて、店内の客のみならず通りがかる通行人にまで、振る舞い酒を配っている。
その乱痴気騒ぎを横目で見たルディアは、樽の銘柄がこの辺りではそこそこ珍しい地方の高級酒だとめざとく見つけ、一杯もらいたくなるが、配達の途中でもあり同行人もいる状況だったのでさすがに我慢をする。
「またいいお酒を。どこでどんだけ稼いできたんだか」
「ローゼン獣鱗団ですか。北部の湖沼地帯の大型淡水水竜を群れ単位で狩ってきたと聞いています。あの様にして自分たちの成果を誇って名前を売ることも重要らしいですね」
あの酒を樽買いとは。羨ましげに零したルディアの独り言に、横を歩いていたサナが反応し、サナらしい真面目な回答で答える。
背中に大きな翼をもつ翼人という希少種族であるサナは、顔も知られ人気もあるロウガの姫で、こうやって街の雑踏を歩くのは難しいのだが、今はウォーギン謹製の内部空間をゆがめた翼隠しの外套を被っているので、あまり目立たず群衆の中に紛れ込めている。
むしろ周りより頭一つ、二つ突き抜けた高身長で、燃えるような赤髪のルディアの方が周囲の目を引くほどだ。
「今年は良くも悪くもロウガに注目が集まっていますから、他の探索者パーティや、各ギルドも埋没しないようにと普段よりも派手に宣伝をしているようです」
今期の新人探査者全員踏破に始まり、東域最大の花街が壊滅した大華災事件、今も様々な噂がされるロウガ沖合の孤島監獄。通称悪夢の島でおきた大規模な火山災害とそれに伴う島の大半か海面下に沈下したことで大量の看守、囚人が行方不明となった悪夢の島事件。
確かに話題なら事欠かないほどに、ロウガではいろいろな騒ぎがこの半年間で起きている。
酒のつまみ代わりに大いに壮大で荒唐無稽な英雄詩やら陰謀論やら持論を語るにはちょうどいいだろうし、それに負けじと自分たちの成果を謳うのもいいだろう。
だがルディアは周りとの温度差に辟易し首を振るしかない。
「……これが当事者でなければ、野次馬根性発揮できますけどね」
悪夢の島での行方不明者は既に生存は絶望視されている。
だが個人的には、いや仲間内や同期の間では、どうせ生きていると誰もが口をそろえるケイスは、未だ戻らず、既に3週間が過ぎていた。
「変に真面目なケイスさんのことですから、次の始まりの宮が始まり私たちが下級探索者に自動昇進するまで収監されることになっていたからと、自分で居残っていませんか?」
「嫌なんですよ想像するの。あのバカこっちの想像をぶっちぎった行動するから考えるだけ損です」
サナがあげた推論を肯定も否定もせず眉間のしわだけが深くなる。
ケイスならどれだけ荒唐無稽な理論理屈をひねり出してもおかしくない。
それなりに長いつきあいになったが、未だケイスがやることなすことバカすぎるというか、考えやら思考パターンが独特すぎて読み切れないルディアは、とうの昔に心配はするが想像するのは止めたのだが、まだサナの方はそこまで達していないようだ。
「一応あの刀はまだ存在しているようですから生きているのは確実ですが、掘り進めてもまだ特別棟の上の階層だけでケイスさんが向かった深部にもたどり着けていないそうです」
声を潜めたサナが語るあの刀とは、ケイスが見つけた神印宝物【紅十尺】
やたらと長い深紅の柄と分厚い刀身で出来た長巻と分別されるらしい刀はルディアも初めて見た種別の武具だ。
なにやら大英雄の1人が使っていた武器だそうだが、それよりも重要なのは、今の所有権を持つのが最初に紅十尺を取り出したケイスのままと言うことだ。
神が認めた印。神印を宿す宝物は、探索者が真の力を発揮する神印解放に用いる事ができるという特性の他に、所有者が死亡した場合、消滅するという特性も持つ。
ミノトス神官による譲渡の儀式を行えば他の探索者に譲ることも出来るので、流派によっては一つの神印宝物を代々の継承者の証として伝承しているようなところもあるが、紅十尺は所有権の変更を行っておらず未だケイスの所有品のまま。
紅十尺の存在がケイスの生存を確信させる理由となっているが、この場合それは運が良かったのか悪かったのか……
「素直にそっちにいると思ってくれればいんですけど。こうやって付き纏われるのさすがに居心地悪くなってきたんですけど」
ルディアが指すのはサナではない。
ちらりと見た背後。そこには明らかにこちらを伺っていた事を隠そうともしない者が、それも複数いる。
監視者のほとんどはフードの奥に顔を隠して人相もうかがい知れないが、中にはルディアも見知った警備治安隊のナイカなどもいて、そらに性質の悪いことに、わざと姿を見せているのが丸わかりなことだ。
何せナイカは上級探索者。その気になればいくらでも姿を隠せるのであろうに、こうやって存在を誇示すること自体が、一筋縄でいかない事態になっていると嫌でも理解させる。
ナイカ達の目的は聞いてもいないし、聞けそうもないが、十中八九、行方不明になったケイスが、ルディアに接触してくる可能性が高いからということだろう。
島で何をしたのか、やらかしたのか。そして今何をしでかしているのか。
裏の事情など一切知りはしないが、またもやケイスに巻き込まれたルディアは、ただの街の薬師として、いつも通りの日常を送っているというのに、複数の者達からの監視生活を余儀なくされていた。