それは爪である。
明かり1つ無い暗闇の迷宮へと一歩足を踏み入れると同時にロッソから借り受けた、クルミほどの小さな丸い陶器を刃まみれの左手で器用に四つ掴み、一つを中指と薬指で潰し、残り前方、右手に握った短槍の柄部分、穂先、そして間合いの僅かに外へと投げ入れる。
正確無比に投げられた陶器は前者二つは小さな音共に割れ、中に仕込まれていた淡い光を放つ蛍光塗料がほのかな灯りを放つ。
しかし最後の一つだけはケイスの手が届く間合いの範囲外に出た瞬間、小さな炎を放ち灰さえ残さず一瞬で燃え尽きる。
迷宮特性【離さず】
自らの手から離れ、届かない位置に手放してしまった物は消失する遠距離攻撃殺しの呪いが、やはり発動している。
ケイスが改めて確信するとほぼ同時に、左手、右手、そして穂先と三カ所から放つ小さな灯りに刺激を受けたのか、重く、熱く、息苦しさを覚えるほどに濃い気配がケイスを捕らえ、壁や天井を彩っていた陰が一斉に動き出す。
灯りの中でかすかに浮かび上がる陰を象り、元の床や天井を埋め尽すのは、びっしりと密集した多種多様な虫たち。
虫たちの体を覆う強固な外殻が互いにこすれ合って奏でる低い摩擦音や、無数の羽が震える高音が闇の中で響き、僅かにあった距離感を微妙に狂わしていく。
闇から迫る威圧感、恐怖感に負け、常人であれば即座にきびすを返す死地。
だが馬鹿はそこへ突っ込む。
距離感を狂わされるならば、狂わない距離まで、敵と肌が触れあうような極近接戦闘圏まで。
己が生きる世界へ。
己が君臨する世界へと。
一足飛びに暗がりに飛び込んだケイスは、左手のみを覆う無数の剣で出来た手甲の五指を大きく広げ、強く振る。
力任せに振られた灯りを灯す左手が、闇を大きく削り、切り裂き、さらには空気さえもかき乱す。
立ちはだかる音の壁さえも貫き崩し生み出した乱れに、石床がひび割れるほどの踏み込みと共に、同じく光る右手の短槍による音越えの突きを間髪無く打ち込む。
本来であれば、己に迫る矢の雨をしのぐために生み出された剣技【重ね風花塵】が生み出した暴風の盾が、攻め立てる虫たちの一角を崩し、猶予を作り出す。
それは鋏である。
防いだのは四方から迫る一角だけ。
生み出した安全地帯である前方へと足を踏み出しながら一瞥した天井から、先ほどまでケイスがいた場所に向かってぼとぼと落ちてくるのは、ケイスの腕ほどの体長と太さはある丸々としたウジ虫。
重ね風花のために振るった左手をそのまま頭上後方へと振り、五指それぞれを激しく動かすと、隣り合う指同士がぶつかり合い牙鳴りを奏でだす。
刃がぶつかりる音が重なり合う1音ごとに、ウジ虫は縦一文字の半身に断ち切られ、その死骸がべちゃりと落ちて床を汚す。
強酸性の体液をその身に含んでいたのか、異臭を放つ液体まみれのウジ虫の死骸に、他の虫たちが一斉に群がり、己の体が焼けるのもかまわず、咀嚼音を立てながらむさぼりはじめた。
虫たちはよほど飢えているようで、より食しやすいウジ虫の死骸にたかって、ケイスを無視しているほどだ。
監獄内にいたはずの囚人や看守達だけではとても足りなかったのか?
それとも彼らの死骸を苗床にして喰らい尽くしたから、これほどの数が迷宮内に蠢いているのだろうか。
我先と争い群がる虫たちの食事風景は、一歩間違えば己も餌になると、死を強く意識させる地獄絵図。
正気を失いかねない悪夢じみた光景。
だが飢えているのならば、その光景のきっかけとなった化け物もまた常に飢えている。
斬りたい。斬り殺したい。
自分がどれだけ斬り殺せば、斬れば、満足するのか……いや満足する日が来るのか。
ケイス自身にも分からない。
ただ斬りたいという渇望に突き動かされ、剣を振るだけだ。
既に正気などという物は失って久しいケイスを前に、食欲を優先するなど、自殺行為だ。
それは柄である。
「使ってやる! 感謝しろ!」
自分を無視して横を通り過ぎ、餌にありつこうとしたオオムカデの頭部を伸ばした左手で掴み、手のひらの無数の刃を食い込ませて握りつぶし、さらに闘気を注ぎ込み、絶命させる。
くたりと力なく折れたオオムカデの体長は、ケイスを三倍以上は上回る長さがあり、さらにその体の両側に生える無数の足には太い爪がぎらりと光る。
左手につかみ殺したムカデを振り回しながら、食事中の虫たちの中へと自ら突っ込む。
節ごとに折れて角度を変えるオオムカデの死骸を刀身とし、その爪を無数の刃と見立てた即席の連接剣として、剣戟の暴風と化したケイスの殺戮が始まる。
左手の一振りごとに、数百の虫たちがはじき飛ばされ、数十の虫たちが爪に貫かれ、切り裂かれ絶命し死骸を晒していく。
飛び散った体液や甲殻の破片がケイスにもびしびしと当たるが、着込んだ不格好な革鎧がむき出しの皮膚へと付着することを防ぐ。
瞬く間にウジ虫に群がっていた虫達で死骸の山を作ったケイスは、一本道となった通路の奥へ向けて進撃を開始する。
地図もなく、構造さえ把握していないうえ、こうも虫が多くては周辺探索する余裕もない。ならまずは斬る。
無数の虫たち、それこそ万を超えていようが、億に迫ろうが関係無い。
虫たちはケイスを喰らおうとした。餌としてみた。
ならばケイスも喰らうだけだ。
大ムカデ剣が一振りごとに無数の虫をたたきつぶし道を開き、時折運良く、それとも運悪く、刃の嵐を抜けて来た虫もいるが、それらはケイスにたどり着く前に右手の短槍で貫かれ、文字通りケイスに喰われる。
串刺しになった無数の虫の中から食べられる虫を選別し、口元に運びケイスは喰らう。
先ほど食べたパンだけでは物足りなかったので、ちょうど良いおやつだ。
殻ごと歯で砕き割り、柔らかい筋繊維や内臓をむさぼりながら、即座に消化し力へ変え、刃を振るう。
たった1人で、無数にわき出る虫たちを圧倒し、蹂躙する。
もし他者に今の姿を見られれば、それが親しい者達であっても、ケイスの評価は地に落ちるだろう。
その姿は、戦い方は、もはや人ではない。
弱肉強食。
迷宮のもっとも基礎的なルールに基づき動くケイスは、まさに悪鬼羅刹。
暴虐と残虐の象徴となり、嫌悪感をもたらすほどの圧倒的な暴力性を発揮する。
だがそれこそがケイスの本質。
人の世に生きる姿は、ケイスの仮初めの姿に過ぎない。
ケイスは美少女ではない。
美少女という皮を被った化け物。
迷宮に君臨する絶対的な強者。
この世の最強種。
人の姿をして生まれ落ちた龍。
齢三才にして迷宮へと捕らわれ、大半の時間を過ごしてきたケイスが本来生きる世界。
この地獄絵図こそが、迷宮こそが、ケイスがもっともケイスである世界。
守るべきルディア達仲間もおらず、助言や苦言を呈するラフォス達保護者もいない。
普段は無意識的に、窮屈さや、やりにくさを感じていたとも気づかぬまま、本性を解放したケイスは、冷静に、冷徹に、だが激しく、苛烈に、剣を振るい荒れ狂う。
それは槍である。
数百回は振るい、その数十倍の虫をたたきつぶし、貫き殺したオオムカデの死骸だが、さすがに酷使しすぎた所為か、通路を駆け抜け、大きな広間に出たところで半ばで千切れ掛かる。
柱がない円形状のホールは、何らかの意図があるのか物がなにも置かれていない。
物がない代わりに、ここに来るまでに斬った虫達の数倍はいるであろう数がひしめき合う、地獄の釜の底と化している。
その死地にも一瞬の躊躇無くケイスは飛び込むと、左手の力を緩め、オオムカデを拘束していた手のひらの刃を外す。
手から離れて落ちたぼろぼろのオオムカデの死骸も、また炎に全身を包まれ一瞬で消失する。
広範囲をなぎ払う武器を失ったケイスの姿を見て、本能的に好機と感じ取ったのか、背後の死角から、鎌のような二対の大顎を持つ甲虫が忍び寄る。
甲虫の大顎がケイスの胴を捕らえ、さらにそのまま両断しようと力が込められた。
だが両断されるよりも遙かに早く、ケイスはステップを踏んでくるりと反転し、左手の指を束ねた一本貫手を、下方からのアッパー気味に打ち上げ、甲虫の頭部へとたたき込む。
貫手で貫いた甲虫を上方へと打ち上げながら、自らは両足の力を抜き、崩れ落ちるように床に身を伏せ、大顎から逃れる。
それは逆茂木である。
体勢を崩したケイスを完全に床に押し倒そうと、いや挽き潰そうと、一抱えはある体を丸めた大虫が巨石のように転がりはじめた。
球状に丸まった巨大ダンゴムシに挽き潰されまいと、周囲の虫たちが慌てて離れていく。
迫る大虫を前に未だ態勢が崩れたままのケイスは、石床に向かって左手の五指を広げて力任せに打ち込む。
床石に深くめり込んだ己の左手を支えにして体を固定したケイスは、右手の短槍を手の中で回し逆手に持ちかえ、そのまま土台とした左手の中に槍の石突きを突っ込む。
固定された短槍がきしむ音を立てながらも、転がって来たダンゴムシを食い止め、さらに外殻を突き破り、神経節を貫き絶命させる。
それは盾である。
衝突の衝撃で床から外れた左手をそのまま体ごとくるり振り回し、今殺したばかりの大ダンゴムシが弛緩して丸まった球状を解いて開いたばかりの腹部へと突き立て、すくりと立ち上がる。
左手にダンゴムシの殻を使った即席大盾を産みだしたケイスは、そのまま左手を円を描くように振り回す。
羽音も荒々しくケイスを狙っていた大蜂が尻から打ち出した毒針を、大盾が次々にはじく。
豪雨の中で傘を差したような鳴り止まぬ衝突音を聞き流しながら床を蹴ったケイスは、背に短槍を戻し、腰ベルトから鉈状の厚手のナイフを引き抜き、空中の大蜂達へと襲いかかる。
大蜂を足場にして、他の蜂の背中側に回ってはその小五月蠅い羽を一刀両断で切り離し、さらに左手を振りかぶり体重を乗せたシールドバッシュで次々にたたき落としていく。
変幻自在に左手に装備した手甲を自由自在に組み替えながらケイスは、蹂躙を続け、時折気になった虫を喰らい、力へと変えて大広間で戦闘を続ける。
あまりに斬りすぎ殺しすぎ、その死骸が足下を覆い尽くしても、ケイスはさらに斬り続ける。
虫の死骸が幾重にも積もって層をなすほどになって、ようやくケイスは止まる。
通路や部屋の壁を埋め尽くすほどに湧いていた虫たちが奏でた、気が狂いそうになる羽音も消え、闇色にふさわしい静寂が周囲を包む。
僅かな生き残りも、ケイスを刺激しないためか必死に息を殺し、他の虫たちの死骸に混じり隠れ、生き残ろうと足掻いていた。
「ふむ……離さずが有るとはいえ、難度は初級程度ではあったな……少しおなかが減ったか」
乱れていた息を深呼吸して落ち着かせるケイスは、足下の死骸の山の中から、斬っている途中で、ほのかに甘くて一番気に入った大蟻の死骸を引きずり出し、かぶりつきながら装備の確認をはじめる。
体に怪我はしていないが、さすがに即席の革鎧では無理があったのか、外套はほぼ形をなさず崩れており、装甲板として用いた束ねた革表紙も酸や傷で損傷して、元々の題名など判別できないほどに薄汚れている。
だがそれだけ斬り殺し、喰らい尽くしたというのに、ロッソに借り受けた武装には損傷が見受けられない。
さすが中級探索者の扱う武具。耐久性が段違いだ。
特に左手の手甲は、あれだけ酷使ししたのに、返り血や砕いた甲殻のカスが付着している程度で、ケイスが動かす指の動きにも支障は無く、武器としての機能を十全に保っていた。
「なれば次は特別棟に築かれた研究所とやらを……ふむ?」
静かになった闇の中、かすかに聞こえてくる水滴音にケイスは気づく。
その音が響いてくるのは足下。床下からだ。
重なった虫の死骸に左手をたたきつけ乱雑になぎ払って、体液でぬれた床を露出させる。
暗くてよく分からなかったので目を近づけてみると、石床の一部に線が走りそこにしみこんだ虫の体液が、空洞となった床下に落ちているようだ。
そのまま周囲の死骸を払って線をさらに露出させてみると、曲線を描きながらそれはホールを一周する大きな円を描いていた。
「この作り……大型の昇降機か」
どうやらホールだと思ったこの部屋は、部屋そのものが上下する昇降機だと判断したケイスは、周辺の壁を見渡し操作盤を探し始める。
程なくして、入り口付近の壁に操作盤らしきスイッチ類を見つけるが、これも転血炉からの魔力で動いているのか、どのスイッチを入れても床は微動だもしない。
エレベーターホールには入ってきた通路以外にも、どこかに繋がる通路が3つあるが、どれも通常の大きさの通路で、これほど巨大な昇降機を使う必要性があるのかと疑問を抱く構造になっている。
目を閉じて耳を澄ませたケイスは、床を強く蹴ってその反響音を確認しはじめる。
積み重なった虫の死骸に邪魔されて音が捕らえにくかったが、何度か試して、ホールの片隅でようやく目当ての、石床とは違う反応が返ってきた。
周囲とは違う音が響いたあたりの死骸をどけて、金属製の整備用扉を発見する
取っ手を掴み扉を開けてみると、熱を伴う風がケイスの髪を揺らすと、底の見えない暗闇と、その暗闇の中で道しるべのように光る簡易はしごがあった。
はしごにはロッソが使っているような蛍光塗料が含まれているようだ。
ホールから続く他の通路を探すか、それとも下の階層へと行ってみるか?
これだけの規模の施設に用いる転血炉や、龍に関する研究をする魔導研究所ともなれば大型機材が必須となるが、今いる最上階は構造的に独房区画とみて間違いなく、それら大型機材を運び込むには、通路が狭すぎる。
となれば目当ての部屋は別の階層にある、
砂時計の砂粒が一粒落ちる程度の時間を思考に回し、推測を導き出したケイスは、別階層探索を選択して、はしごへと足をかける。
熱気を伴う風が足下から断続的に吹き上がり、その風には薄いが不快感を覚える腐った卵のような硫黄の臭いが混じる。
周辺の壁は補強されているが、元は溶岩噴出口でも再利用したのか、どうやら火山の深部までこの大穴は続いているようだ。
上手くすれば赤龍転血石へと直行出来るやもしれぬと期待を覚えながら、壁を時折叩きつつ降りていると、音が変わる。
足を止め、はしご周辺の壁を触って、すぐに壁に備え付けられた取っ手を探り当て、少しきしむ取っ手を捻ると、壁の一部がゆっくりと開く。
見つけ出した別階層の整備扉から外へ出てみると、エレベーターホールには血、肉の臭いが充満し、さらに先ほどまで聞き飽きていた無数の羽音がまたも響いていた。
どうやら先ほどまでは生き残りがいたのかもしれないが、戦闘音らしき物は聞こえてこないので、既に全滅したか、生き残っていても少数がいるかどうかだろう。
導き出した推測にケイスは、眉を僅かに顰める。
「むぅ。これではここの虫達は食べられないではないか」
亡き母との約束で人だけは食べるなと言われているので、人を食べたばかりと分かる虫を食べるのもケイス的には同義。
逃げ込んだ人たちがいるのならば、どこかに食料があることを期待するしかない。
異常過ぎる思考で冷静に考えながら、ケイスは別の群れを駆逐するために戦闘を再開した。