月が静かに輝く深夜。僅かに薄い雲がかかる空の高みから、背の翼を大きく広げたソウセツ・オウゲンは苛立ちが少し混じった瞳で、眼下を見下ろす。
視界一杯に広がるのはソウセツが、義母より守護を託されたロウガの街。
その翼からは、弱く柔らかい風が産み出され、空気の流れに乗り周辺を探索し続ける。
もうじき日付が変わろうという深夜だというのに、ロウガの街では至る所で動く灯りが見られる。
早朝、深夜を問わず常に到着する船の荷を積み下ろしする港湾区は、日光に弱く、月明かりや篝火で十分だという夜目の効く一部の種族達が多く集う。
人気がなく明け方の僅かな時間にしか出現しないレアモンスター捕獲や、夜中にしか開かない迷宮区へと向かうために、深夜だというのに意気揚々と出発する探索者。
そんな彼らへとサービスを提供する職人、商人達によって営まれる夜市場は、昼間の市場と比べて規模は小さいが、品揃えは負けず劣らず、日没から、日の出まで営業している。
ロウガには様々な街区があるが、完全に眠りにつく街はなく、誰かしらが動いておりいつでも人の息吹が感じられる。
だがそんな不夜街の中、ぽっかりと浮かび上る一切の灯りが消えて闇に染まる街区が1つ。
それは本来は夜にもっとも輝くはずの街区。東域最大の歓楽街として名高い燭華。
きらびやかな灯りで派手に彩られ、地上の太陽となるはずの街は、明かりが全て落とされ、人の気配も皆無となっている。
『大将。こちら地下水道担当水狼ロッソ。魔力反応感知したんで、導線追跡を開始します。ただ内部の複雑さもある上にやばめのガーディアンも湧いて来ますし、どこまで追えるか微妙っすけどね』
「判った。無理はするな。方向さえ判ればサナを派遣するだけの理屈が通る。それで今は十分だ」
地上部には変化無し。だが地下に潜っている部下からは予想通りの報告が上がってくる。
報告から数秒後。眼下の闇の中にほのかな灯りが産まれる。
それは燭華中心部。今は火が消えたはずの大灯籠。大華燭台先端部。ガラス細工の花弁が放つ灯りだ。
『周辺警戒担当壁狼のリンシャです。地上でも魔力反応を感知しました。魔力遮断防御結界を展開。他街区への魔力伝播妨害を開始します』
別の部下の声と共に、さらに強い灯りを放つ光の壁が高く高く立ちのぼり、燭華の外郭を形作っていく。
街区と街区を隔てる防壁に展開していた部隊が使用したのは、防壁その物に備えられていた結界機能。
非常時には外部からの魔力攻撃を遮断し街を守るための防衛機能の1つだが、今は逆の目的。街中で発生する物から、外を、隣接街区を守るために用いられている。
一定の高さまで伸びた光壁が空を覆う天蓋上に形を変化させる中、境界上に浮かんでいたソウセツは僅かに翼を動かし降下。
閉まりはじめた結界内に自ら侵入する。
結界が閉じるとほぼ同時に、大華燭台の光も満開となり闇を煌々と照らし、そして突如弾ける。
弾けた光は無数の花弁状となって燭華全体に広がって降り注いでいく。
ヒラヒラと舞い落ちながらも、何かを探しているようにも見えた花弁達は、やがて捜し物が見つからず諦めたのか、すとんと一斉に地に落ちると徐々に形を変え、さらに光体のまま実体化していく。
ある花弁は、人の形をした何かに。
ある花弁は、獣の形をした何かに。
ある花弁は、道具の形をした何かに。
ある花弁は、見たことも無い何かに。
ボンヤリと光る発光体の形をした何か達は出現すると同時に、一斉に天を仰ぎ、声ではない声で、だが確実に判る悪意と殺意の篭もった呻きをあげる。
気の弱い者であれば、それだけで発狂しそうなほどにおぞましい呻き、嘆き、妬みの篭もった闇の誘い。
生きている者へと向ける羨望と嫉妬と怒りの声の対象となったのは、結界内でただ1人生きているソウセツだ。
「ソウセツだ。依り代となる小動物や古道具も全て排除した所為か、昨夜よりも姿が不明瞭であやふやになっているが、脅威度は変わらない。これより排除に入る。各員結界維持及び防衛に専念。水狼は魔力発生源及び魔術中心点の索敵に全力を挙げろ。以上」
重さなど感じないように飛び上がってくる、光で出来た怨嗟の塊を前にしても、何時もと変わらぬ厳しい顔を浮かべたままのソウセツは、部下達へと向けて指示を出し終えると、愛槍を握る右手の力を強める。
その右手の中指にはいくつもの輝石が輝き、複数の色が走る探索者の指輪が輝く。
輝石まで発現した指輪は、ソウセツが上級探索者である事を表す何よりの証左だ。
その右手の指輪に対して、左手に身につけた腕輪を近づけ意識を向ける。
左手にはめた腕輪は、若い頃ならばともかく、今のソウセツの趣味としては些か派手できらびやかな装飾が施された代物だ。
だがその似合わないアクセサリーをつけているのは、それが神によって認められた宝物であるからに他ならない。
銀細工で彩られた腕輪の中心で燦然と輝く金の印章は、山を司る山岳神派の中の一柱。中級神メフォリアが神印。
「神印解放」
唱え終わると共に神印が一瞬強く輝き、次いで腕輪そのものが光の粒子となり、探索者の証たる指輪を通じソウセツの体内に光が、力の塊が取り込まれる。
それは水路を水が流れるように。
それは風を受け回る風車のように。
それは炉の中に火種が放り込まれたように。
迷宮で振るわれるべき超常の力。天恵は迷宮外では制限され、探索者達の力は大きく劣ることになる。
迷宮外、人の世界に、迷宮内で得た天恵の力を全て発揮する為の奇跡であり、探索者の切り札。
それこそが【神印解放】
本来ならば、上級探索者たるその力が振るわれるのは迷宮最深部。
伝説の魔物が群れとなって跳梁闊歩する中を突き破り、山脈級の巨体を持つ大魔獣と渡り合い、万物を意のままに書き換える龍と対峙する為の力。
相手がいくら無数の光の化け物といえども、ソウセツが自ら力を振るうのは些か過剰ともいえる。
だが相手が、街を、人を、物を、この世の全てを、怨み、妬み、破壊しようとする輩であるならば、義母の愛したこの街を傷つけようとするならば、ソウセツが加減をする道理などない。
目前まで迫った光の化け物の群れを見下ろしたソウセツの目に怒りが篭もる。
剣士が振るった剣。獣が鳴らす牙。提灯らしき物が放つ火の玉。その全てはソウセツが引きつけなければ、地上で振るわれていた悪意。
この悪意によって初日、そして2日目。燭華の一時閉鎖と全域避難が決定されるまでに発生した死者重軽傷者は合わせて961名。
そして花弁に取り付かれ依り代となり怪物へと姿を変えた者は、ソウセツ率いる治安警備隊によって排除された125名にもなる。
その全ては解呪前に負った傷で死ぬか、解呪に成功しても、怪物へと変貌した段階で本来の生命力がつきていて、元に戻っても絶命してしまっている。
怪物としての姿だからこそ、その瞬間まで生きていただけ。花弁に取り付かれた段階で、それは死んでいる。生きる屍でしか無い。
あの光こそがあれの本質であり、動かす力。
ならば断つ。断たねばならない。全ての脅威を、全ての悪意を。
『帝御前我御剣也』
義母より教えられた古い言葉こそ、ソウセツの誇り。そして約定。
己が持てる全てをもって、この街を、新しきロウガを守る守護者である事の誓いの言葉であった。
「むぅ。早すぎる。目で追えん」
注視していた南の空では、地上から浮かび上がってきた無数の光が、瞬く間に消滅していく光景が展開される。
その殲滅速度はあまりに速すぎる。ケイスが必死で目をこらしているというのに、これだけ遠方からでもソウセツの動きを追うことさえ出来ていない。
ソウセツによって潰された光が弾けるので、かろうじてその航跡をたどれるが、どこを飛んでいるかなどまるで判らない。
あの速度ではあと1、2分もあれば、全ての光の化け物を殲滅できるだろう
「お爺様が神印解放をしているので私たちでは見えなくて当たり前です。お爺様が言われるには自分などまだ遅い方で、一部の格闘家は短距離ですが光よりも早く動いてラッシュを叩き込む方もいるとの事です」
同じように空を見ていたソウセツの孫娘であるサナが、実力差も考えず本気で悔しがるケイスに呆れる。
「むぅ。雷光という奴だな。私もそのうち体得するつもりだが、闘気消費が激しすぎて、距離が限られるのもそうだが、連続使用も難しいという話だ。あれのように常時超高速移動できる方が使い勝手が良いかも知れんな」
「気になるようでしたら、直接コツなどを聞かれたいかがですか? 私が仲立ちし」
「断る。あれは絶対に実力で斬る。話すのはそれからだ」
サナからの仲裁案をケイスは途中でぶった切る。
あれだけの実力を持ち本来は尊敬できる大叔父だが、兎にも角にも、一度手を抜かれ勝ちを押しつけられたからには、斬って実力のみで勝ってからで無ければ、話したくは無い。
それが紛れも無いケイスの本音で、決意だ。
「貴女は……もう面倒なので何も言いませんが、お爺様のあれを見ても対抗心が沸き立つってどれだけ負けず嫌いですか」
自分の生まれを普段は一応はひた隠しにしている癖に、その場のノリでつい真名を名乗ったケイスによって、その生まれの一端を知ってしまっているサナは、他人に相談できないジレンマから、深く息を吐くだけだ。
「ケイス。サナさん。あっちは私達じゃどうしようもないし、ソウセツさんが動いたんだからもう見学も良いでしょ。こっちはこっちの仕事。たぶん地下水道から繋がっているっていう魔術中心点の調査の打ち合わせを始めましょ」
2人の会話が何時もの流れになったのを見計らい、ルディアが声を掛ける。
最後に少しだけ空を見て、ソウセツの動きがまだ追えないことを再確認したケイスは、小さく息を吐くと表情を改める。
それは奇しくも、先ほどソウセツが見せた物とよく似た表情。
炎に焼かれ肩に裾が掛かる程度に短めの髪になっても色あせない幼い美貌に微かな、しかし確かな怒りが浮かぶ。
「ん。私の同期の名誉を汚し、命まで奪ったのだ。この事件は絶対に私が解決してみせる」
花弁によって怪物へと姿を変え大暴れした、加害者にして被害者の中には、ケイス達の同期。燭華で門番をしていた若い槍使いもいた。
話した時間は少ない。どういう人物だったかもあまり知らない。
それでもケイスを気に掛け声をかけてくれた。
ケイスの大切な者達と共に協力し迷宮に挑んで、ケイスの大切な者の1人となった人物だ。
だがそんな者が守るべき町を破壊させられ、守るべき人を殺させられ、傷つけさせられた。
そして命まで奪われた。
魔術学者の中には、花弁が人の心の奥底に眠る欲望や渇望を具現化しているのではないかと説を立てる者もいる。
その前兆現象こそが、時折起こっていた淫香事件であり、淫魔となっても客を取りたいという欲望が、何らかの魔具や儀式魔術によって形となったのではないかと。
そしてケイスがロウガ支部に報告し、国家間の問題となる恐れから、公には出来ないとして今は隠されているクレファルドの人形姫や、あの火刑少女の霊を形取っていた悪霊の群れが絡む変化によって、その魔術式に変貌が生じ、今回の事件へと発展したのだと。
真相は調べなければ判らない。調べても判らないかも知れない。
しかし、結果はどうあれケイスがするべき事は、望むことはただ2つだけ。
仲間の敵を取り、汚された名誉を晴らす。
それだけだ。