人通りの少ない脇道へと逸れたケイスは、腰ベルトにつけていた対魔術攻撃用の仮面型魔具を身につける。
ある程度までなら幻覚や大気変化等、間接的な魔術攻撃に対してこれで抵抗が出来るが、直接的な攻撃魔術に対する対抗手段は今の手持ちに乏しい。
普段用いている周囲へ魔力吸収物質を拡散させる爆裂ナイフは、他の刀剣類と一緒に封印されたポーチの中。
護身ナイフから刃を外した状態で、ベルトに下げる柄の内部には高濃度液体化された魔力吸収液が充填されているが、こちらは直接魔力と接触しなければならない形式なので、範囲攻撃魔術相手には不向き。
追跡者に余計なことをさせず、出来たらこちらから不意を突くのが最適。
(なるべく一撃で決めたい。ノエラ殿。伏兵に備えて周辺警戒。距離と進行方向が判れば良い)
脳裏に周辺地図を描きつつ、すれ違う通行人や、極小の使い魔によって会話を聞かれている可能性も考え、心の中で話しかける。
(承知した。最大範囲で熱探知を開始する)
フードの下で額当ての赤龍鱗が淡い光を発しながら、周辺の熱探知を開始。
捕らえた数百以上の熱源を、脳裏に描いた地図に重ね合わせ、連動した動きが無いか警戒しながらも、後方の追跡者へと意識を向ける。
追跡者は、別れたルディア達へと目は向けず、ケイスの後方約20ケーラを追尾中。
一人になっても特に何かを仕掛けて来るような気配は感じず、ケイスでさえ自然すぎて見逃していた。今だって、意識していなければ、偶然同方向に進んでいるとしか思えないほどだ。
だが普段のやる気はともかく、実力、能力共に信頼するウィーが追跡者と判断し、さらにはケイス狙いだと断言してくれたからこそ、確信を持って敵対者だと断言できる。
幾度か角を曲がり、視線を切った状態で、さらに別の角を曲がってみるが、追跡者の行動、速度に変化はない。
ただ淡々とケイスの後に続いてきており、姿を見失ったはずの分かれ道でも躊躇する素振りさえ感じさせない。
使い魔でも空に飛ばして上から見張ったり等、何らかの手段でケイスの姿を見失わないようにしているようだ。
情報収集が目的で、行動や範囲を探っているだけか?
それとも、もっと人気のない場所まで仕掛けてくる気が無いだけか。
相手はここで仕掛けてくる気が無いのかも知れないが、それはあちらの都合。ケイスには関係ない。
(ルディ達の方は大丈夫そうだな。単独のようだしここで抑える)
周辺に、隠れ潜んでいる者や、ケイスの行き先に会わせて先回りしている仲間の気配は無し。
無関係な人の通りは若干あるが、一撃で決めるつもりであるので巻き込む心配などする必要もない。
わざと一度行き止まりの路地へと曲がったケイスは、数歩分進んでから、道を間違えた振りをして元来た方向へと戻る。
視界を全体に広げながら、一点を注視しない状態で、ようやく肉眼の片隅に追跡者の姿を捕らえる。
中肉中背。よくいるような顔立ちの人間の男で、若くも無く、かといって年寄りとも呼べない。
特徴が無いのが特徴とでも言えばいいのか、服装もよく見かける他国の商人風の出で立ちで、歓楽街の燭華を、昼間からうろついていても悪目だちしていない。
逆走してきたケイスに対して、何の反応も示さず、周囲の店を見物がてら冷やかしているような行動を続けている。
(どう問い詰める気だ娘? 我を使うか)
(いらんいらん。お爺様を抜いたら、せっかく帯剣を見逃してくれたのに迷惑を掛けるから。徒手空拳でいく!)
ケイスなりに門番をしていた同期に気を使った答えをラフォスに返すと、ノーモーションで横ステップを踏み、すれ違う直前の追跡者の男に向かって、忽然と襲いかかる。
周囲からの評判、騒ぎによって生じる悪評等を、ケイスは一切気にしないからこそ出来る奇襲戦法。
相手が弱者であろうとも、無抵抗であろうとも、追跡をしている段階で既にケイス的には戦闘が始まっている。
横に跳んだケイスは、そのまま全身の体重を乗せた右足の浴びせ蹴りを、男の肩口へと叩き込む。
肩骨を折って無力化させるつもりで放った一撃。
「なっ!?」
だがケイスの足が、男の身体に触れた瞬間、その輪郭が歪み一瞬で全身が黒く変色し影の塊となって、ケイスの身体を勢いよく飲み込みはじめた。
男だった物体の厚さから見ればとっくに突き抜けているはずなのに、ケイスの足は反対から飛び出しはしない。
転位トラップの一種。しかも人型をした高度な魔術トラップだと気づくが、既に遅い。
ワイヤーナイフでもあれば、そこらの壁に打ち込み支えと出来ただろうが、今の手持ちには無い。
魔術攻撃の一種で有るならば、虎の子の魔力吸収液で打開できるかも知れないが、腰ベルトは既に飲み込まれてしまい、取り出すことも出来ない。
底なし沼にでも引きずり込まれたかのように勢いよく引っ張り込まれ、全身を瞬く間に影で出来た沼の中に引きずり込まれた。
抜け出すのは不可能と判断し、とっさに呼吸を止めたケイスの視界は一瞬だけ黒く染まるが、次の瞬間には光を取り戻し、空中に投げ出された浮遊感とともに身体にも自由が戻る。
「ここは?」
ほぼ勘で上下を判断して、猫のように身を丸めたケイスは四つ足で地面に降り立ち、素早く周囲を見渡す。
整然と立ち並ぶ店は燭華独特のケバケバしい装飾が施され、その軒先には灯りの消えた華灯籠が並ぶ。
その並びや、店それぞれの装飾は、つい先ほどまでケイスがいた場所と寸分の狂いも無い。
一見には先ほどまでと風景に変化は無い。だが決定的な違いが1つ。
人、いや、生物の気配が一切感じられない。
いくつか通りを隔てても聞こえてくる呼び込み達の声や、雑踏のざわめきも無い。
そこらの料亭で真っ昼間から宴会にふける座敷から聞こえてくる音楽や、歌声も消えている。
額当ての赤龍鱗を用いて、最大範囲で熱探査を開始。半径100ケーラまで広げるが、静まりかえった街中には、ケイス本人以外には熱源の1つさえ感じられない。
(嬢。幻覚の類いではないぞ。少なくとも俺には感じられない。ラフォス殿は?)
(周囲の水辺にいた魚や虫共の気配も無い。近くの炊事場や座席などの湯飲みまで含めて、存在する水の量に変化は無い)
「そうで有ろうな。仮面は正常に動いている。転位と判断したが、それより格上か……隔離空間作成魔術の類いと見た方がよかろう」
今の状況、情報から考え、あの一瞬で、周囲の空間情報を複写し、他の生物を排除し隔離された異空間を作りだしたと判断するしか無い。
だがあり得ない。あの一瞬でこれほどの空間を作りあげる魔術など、人の手でどうこう出来る物では無い。
例えそれが魔術を司る黒の上級迷宮を踏破した魔術を得意とする上級探索者であろうとも、これほどの規模の異空間を何の下準備も無く出来るはずが無い。
あり得ない事象。しかし実際に起きている現実。
二匹の龍達からの情報を受け、立ち上がったケイスは懐から羽の剣を引き抜き構える。
ならば自分が知らぬ理、存在がこの現象に絡んでいるだけ。
そしてケイスにとっては未知であろうが既知であろうが、対処は何時も替わらぬ。
ケイスは剣士だ。剣のほとんどは腰のポーチ内に封じられていて取り出せないが、羽の剣は健在……ならば切るだけだ。
「誰かいるならば出てこい。私にどのような用事があるのか聞いてやろう。出てこぬならば勝手に出て行かせてもらうだけだぞ」
地面を蹴って近くの店の屋根の上へと跳んだケイスは、フードを取り去ると声を大きく張り、この異空間を作り出した者へと呼びかけながら、再度赤龍鱗を起動。
ケイスの額で赤々と燃える光が、頭上の太陽にも負けぬほどに強く光り輝く。
呼びかけに対して、これだけの空間を用意した相手には未だ動きは無し。
どうやって出るか手段はまだ思いついていないが、出るという結論だけは出している。ケイスが決めたのだ。だから決定事項だ。
周囲に熱変化は無し。このまま隔離し続けて、閉じ込めているつもりなのだろうか。
再度の熱探知を今度は、地上部では無く、地下に向けて使おうとかと考えていると、
『昨夜と同じその赤き光……問います。やはり貴女がレッドキュクロープスと呼ばれた者ですか』
街全体に響く女性の声が耳に飛び込んでくる。声は反響して聞こえるのでその出所は様として知れない。
精気をあまり感じ無い、感情が抜け落ちたような幽鬼のような声。
だが反応はあった。しかしその問いかけて来た内容は少し意外な物であった。
少し前によくある迷宮での噂話として流れた、赤の初級迷宮だけを荒らし回る赤き単眼を持つ巨人の化け物の名を。
「むぅ。自分で名乗った覚えは無い。だが私の戦闘行動を見て、そんな噂が流れたのは事実だ」
声の主が言うのは昨夜鳳凰楼で建物内の捜索の際に使った赤龍鱗の光のことだろう。相手はほぼ確信を持って尋ねてくる。ならば誤魔化す意味もない。
馬鹿正直に答えながらケイスは全身へと闘気を張り巡らし、戦闘態勢を作る。
声の主の正体も問いかけの真意もまだ判らない。だがケイスの戦闘本能が確信する。
今の答えこそが分水嶺だと。
『ならば……怨みはありません。恨まれても仕方ありません。ですが貴女を贄とし厄災を鎮めさせていただきます。それこそが私の定め』
響く声が僅かに固くなる。どうやら本意で無いようだが、それでも替わらぬ意思の硬さを感じさせた。
『目覚めなさい。猛りなさい。抑圧されし怨みを。奪われた悲しみを。亡くした者への怒りを。その思いの一つ一つを糸とし紡ぎ、己の体を作りあげなさい』
響く声に合わせて風が渦を巻きながら、空で輝く太陽を背にして空に巨大な何かを象りはじめる。
描くのは人。だがそれは明瞭では無く、不明瞭に、そして禍々しく崩れた造形の身体と四肢。
顔には血涙を模したとおぼしき風が流れ、その大元の瞼は硬く縫い合わされている。
ゆらゆらと蠢き不定型に形を変える足元からは、足かせが姿を覗かせる。
首には大蛇のように太い縄が編み込まれ全身の何倍もの長さで伸びていく。
その異形の人影はやがて、偽りの天の太陽と一体化し、赤々と全身を燃やしはじめた。
足元から焼かれもがき苦しみ、風にのって身も竦むような怨嗟の声が響き渡っていく。首に巻かれたロープは身体を焼く炎よりも禍々しく赤黒い血の色に染まる。
天に表れたのは、ロープの長さも合わせれば全身が数十ケーラはあろう巨大な、そして歪な、火刑に処された少女とおぼしき怪物だ。
「私は人形をもって荒ぶる魂の鎮魂を担う者。クレファルドが子の一人にして、脈々と受け継がれし魂の運び手。人形たる姫が祈ります。大火厄災の少女霊よ。その怒りを解放しなさい』
朗々と響き渡った女性の、人形姫の声が終わると共に、天に浮かんでいた火刑少女の目を縫い合わせていた糸が燃え落ち、燃えさかる炎で出来た目を見開くとケイスをぎらりと睨みつける。
天に向かって伸ばした2本の手はそのままに、その目線に合わせて足元で燃えさかる炎の一部が分離し、小屋一軒ほどの大きさの巨大な火球となって落ちて来る。
その速度は早くはないが、巨大なだけ合って爆ぜて燃え広がれば周囲は瞬く間に火の海と化すだろう。
「ふん。なるほどクレファルドの人形姫か! 男爵絡みか!? 良かろう。事情は知らぬが掛かってこい!」
相手が何者かは判ったが、真意は今ひとつ不明。どうやら男爵の敵討ちという単純な話でも無さそうだが、ケイスには関係ない。
敵がいて、ケイスに刃を向ける。ならば斬るだけだ。
軽量マントへと魔力を通して身軽となったケイスは、足元へと蹴りを叩き込み、屋根瓦の一部を砕き跳ね上げ、そのまま返す足で天に向かって高く蹴り上げる。
屋根瓦を飛ばすと同時に再度屋根を蹴って飛び上がったケイスの目が捕らえる目標は上空から迫る火球。
額の赤龍鱗が輝き火球を分析する。
(嬢。どうする気だ!? あれは純粋な火の塊だ!)
あれには中心核など無くただの、それ故に斬る事も出来無いはずの火の塊。そんな物に真っ正面から突っ込むなんてただの馬鹿のやることだと、ノエラレイドが声をあげる。
「丁度よい修行相手ではないか! 火龍のブレスを弾く技を実戦で会得するには良い機会だ! 邑源一刀流……模倣轟風道!」
弾む声で答えたケイスは、火球の遥か手前で、両手に構えた羽の剣を形状変化させる。
柄頭に刃先が重なるほどに極端な弧を描きながら、身体を捻り、刃先に先ほど蹴り上げた瓦を捕らえる。
刃先を止めていた柄頭を軟化させると同時に、刀身を本来の形状に戻しながら最大硬化。
風切り音を放つ刀身に合わせて、己の体自身も超高速で振り回し、瓦を砕きながら撃ち出す。
空気を切り裂く轟音を奏でながら、飛散した煉瓦の破片が四方へと散らばって広がりながら衝撃を伴う不可視の波を起こす。
ケイスが模した技は邑源流弓技が1つ【轟風道】
途中で細かく分離する鏃を超音速で放ち、巨大な衝撃を複数発生させ不可視の壁を作りあげる術。一瞬しか存在しないその障壁は、タイミングさえ合えば龍のブレスさえ弾き方角をそらすことさえ可能となる。
実際にケイスは幻の狼牙で、この技が天から降り注ぐ龍のブレスを弾き、大河コウリュウへと反らした場面をこの目に焼き付けている。
その時に火龍が放った巨大ブレスに比べれば、この程度の速度。この程度の大きさの火球など児戯にも等しい。
ならば剣で再現が出来る。剣士だからこそ出来る。ケイスだからこそ出来る。
自らと剣を、剣術をもって、弓へと替え、撃ち出す瓦礫を矢とする。
真っ直ぐに落ちてきた火球は、ケイスが産み出した衝撃によって途中で不意に角度を変えて、坂道でも転げるように行き先を変え近くの料亭の庭に設けられた池へと落ちて大きな水蒸気を起こしながら爆ぜ、火の粉と水滴を撒き散らかした。
天から降り注ぐ火の粉と水滴という矛盾した空模様の下、すぐ直上で起きた衝撃波によって屋根瓦のほとんどが吹き飛ばされた屋根へとケイスは着地する。
見れば周囲の庭木はいくつも折れ、窓も粉々に割れたり外れたり、広範囲の建物にかなりの被害が出ているようだ。
「ふむ。地上近くでこの技を使うなと言ってたのはこれか。ここが異界で良かったな」
(感想は後にしろ! くるぞ娘!)
ラフォスの注意に前を見れば、今の火球が無効化されるとみたのか、それともケイスを直接つぶそうとしてなのか、地上に降りて、燃えさかる炎の足で周囲の建物に火を放ちながら、こちらへと進んでくる火刑巨大少女の姿。
だが少女の進んだ先は燃えることはあっても、建物がその自重で崩れ落ちる事は無い。どうやら実体は火球と同じく炎であり、自在に形を変えているようだ。
「炎の身体か。だが意思を持っているのならば斬るのに問題はない! お爺様は近くの水源確認! ノエラ殿! 炎を予想外の方向から飛ばす可能性も警戒しろ!」
斬る事が出来ないと言われれば、むしろ是が非でも斬りたくなる。
ちりちりと肌が焼かれる熱よりも、さらに剣士の血を熱く燃えたぎらしたケイスは鋭く吠えると、強敵を斬る事への楽しみと、周囲の被害を一切考えなくても良い幸運に喜びを含んだ笑みを浮かべながらまたも真っ正面から突っ込んでいった。