「悪いねルディアさん。ただでさえ手荷物検査に時間が掛かるのに、身分証が変更されると手続きがどうしても色々と必要になるんでな。こっちの同意書にもサインを頼む」
「気にしないでください。この手の街に出入りする薬師の検査が厳重になるのは馴れてますから。今回は私事で身分証も変更しているから時間が掛かるのは覚悟していました」
鞄の中身は全部提出。持ち込んだ薬の種類、用途、販売用であるならその取引先まで全記載。さらに広域薬師ギルドの印が押された身分証を諸事情で新規発行したために、本人確認のための諸々の手続。
ロウガ第12街区【燭華】にいくつか設けられた関係者用出入り門の検問所で足止めをされていたルディアは、検査官の出してきた新たな書類を受け取りながら、軽く目を通して、まだ馴れない新たな名であるルディア・”リズン”とサインする。
「しかしあんたがリズンさんの後を継いでくれて良かったよ。あの人の作る薬は副作用が少なくて好評だったからな」
「まだまだリズンさんの出来にはほど遠いですけどね。レシピも色々頂いてますけど、十全な効果とまでは。私の薬でもいいと出資してくれた方もいるので、ご期待に応えられるように勉強の日々です」
ルディアのバイト先だったリズン薬師工房の老店主フォーリア・リズン御年92才は先日老齢を理由についに現役を引退した。
しかしフォーリアの作る薬には根強い愛用者が大勢いた為、何とか続けられないかという話もあり、フォーリア自身の推薦もあって急遽後継者として白羽の矢を立てられたのが、住み込みバイトをしていたルディアだ。
一度閉店してから、ルディアの名で再度営業資格を取るよりも、親子間の事業譲渡という形でした方が、申請期間も遥かに短く節税にもなるというアドバイスもあり、養子縁組をしたのがつい先日のこと。
店舗、機具やら在庫の薬草類をフォーリアが最下限の見積もりで譲渡してくれたので、課税される贈与税も最低限ではあったが、それでもフォーリアに支払う代金や各種諸々の税金は初級探索者となったばかりのルディアの貯金では、些か手が届かない大金。
薬師ギルドから借り受けた以外にも、フォーリアの顧客が何人か出資者となってくれてようやく事業を引き継げた形だ。
個人的には姓をタートキャスから、リズンへと変更する事にはなったが、ルディアの故郷である一年中雪に閉ざされた北方の氷大陸では、それぞれの村人口が都市部ほど多くないので、姓はどの地方や村出身かを現す程度の扱い。
居住地を替えれば、その村や地方を指す名へ性を変えるのが当たり前であったので、姓を変える事への抵抗はさほど無かった。
フォーリア当人は、昔からの友人が経営するロウガ近郊の薬草園へと嫁いだ娘さん夫妻と同居の為に引っ越していた。
古なじみや孫達と茶でも飲みゆっくり過ごしつつ、薬草の出来を見ながらルディアの元へと送ってくれる事になっており、仕入れルートも安泰という至れり尽くせりな状況。
傍目には順風満帆であるルディアだが、それら+要素を一人で一気に-へと持っていく要素がいることも忘れてはならない。
「それで話は変わりますけど、昨夜あの馬鹿って何やらかしたんですが? ここに来るまでにも、また壊しやがったとかちらほら聞こえてきたんですけど」
このまま考えないように、無視しておくにもさすがに限度もある。
ルディアの問いかけに、検査官は何とも言えない表情を浮かべた。
完全に人ごとなら見せ物的な感じで面白いが、少しでも関わっているとなると悩みの種。
誰と名を出さずとも、あの馬鹿で伝わるのが悲しいが現実。
「……燭華でも一、二を争う老舗な鳳凰楼って遊郭があるんだが、そこの象徴的な壁画をぶっ壊して、しばらく休業状態に追い込んだって話だ。そこの店主がたまりかねて、あの子の所に怒鳴りこむって話だが、余計な騒ぎになりそうな気がするんだがな」
「すみません。なるべく手続き早めでお願いします。無駄な騒動を避けるためにも」
同情的な目を向ける検査官に、沈痛な面持ちのルディアは不正になら無い程度に検査を簡略化してくれと懇願する以外の術を持たなかった。
「華替えの直前だってのに休業だ!? この時期に本店をぶっ壊してくれた落とし前をどう付ける気だ!」
「鳳凰楼の店主か……元々淫香を発する者が出たら店をしばらく閉めて、従業員を全員検査する決まりであろう。何を言っているのだ?」
いきなり喧嘩腰に怒鳴り込んで来た、右目の辺りに刀傷が入った柄の悪い初老の男性の恫喝に、ケイスはいつも通り傲岸不遜な態度で首を捻りながら答えると、何事も無かったかのように朝食を再開する。
ここは燭華の裏町で営業中の宿屋にして、燭華の街中からあげられた探索者への依頼を仲介する仲介屋【青葡萄の蔓】
元探索者の女性と、その女性探索者に買われた元遊郭つとめの遊女という変わった取り合わせのコンビが営む店だ。
商才がないのか、見る目が無いのか、運が無いのか、それともその全部か。
閑古鳥が大合唱をしているような経営状態が続いていたが、最近他国出身ではあるがベテラン仲介屋だった父親と、まだ幼いが接客業に適した娘という親子がスペシャルアドバイザーとしてロウガ支部から派遣されたことで、急速に立て直しを図っている真っ最中の店だ。
ただしその際に、ロウガ最悪の問題児を含む一組の初級探索者パーティが付いてきたのはご愛敬といった所か。
遊郭や高級酒場が建ち並ぶ華やかな表通りとは、壁などで物理的に仕切られ直接の出入りが難しい裏町通りは、表通りの店に勤める従業員の居住区や利用する商店、出入りする商人などが一時的に宿泊する宿屋など、一般的な街とさほど替わらない施設が建ち並ぶ。
「だから無理ですって親父! このガキに常識や道理を求めるのは!」
「頼んます。後生ですから堪えてください! この化け物と敵対したら俺らが潰されます!」
店主の後に少しばかり人相が悪い若い男達も続いて駆け込んできて、何とか店主をなだめようとしている。
彼らがケイスに対して及び腰なのは、一度ケイスと揉めた顔ぶればかりだからだ。
見た目だけなら美少女なので、からかい半分で下世話なヤジを飛ばして、躊躇無く半殺しにされたり、大剣の一振りで頭髪を刈られたトラウマが根深く残っているらしい。
ケイスがいつ暴発するか気がかりで仕方ないらしいが、無駄な心配という物だろう。
なにせケイス的には多少物言いは気になるが、彼らの言動はケイスの実力を認めているので、むしろ気分がいいもの。
だがそんな些事よりも今は朝食。
目の前に並ぶ朝食は、海鮮食材が多くあっさりのロウガ風朝食では無く、肉や野菜、チーズをふんだんに使ったクレファルド風朝食。
農耕・林業国家であるクレファルドは、重労働が多いためか、これから動く朝、昼はしっかり、夜は熟睡できるようにあっさりという食文化を持つ。
基本的にどの時間でも、いつでも食事はたっぷりなケイスには、何時もと少し変わった朝食は、気分が変わってありがたい。だから意味の判らない文句を言われるよりも、温かい朝食を優先するのはケイスにとって当たり前の事だ。
「うわっ!? ま、また揉め事なのケイス姉ちゃん!?」
「ん。気にするな。それよりニーナもう一人前だ。美味しいし昨夜は結構動いたからまだまだ食べられそうだ」
揉めている男達をさほど気にもせず、長めのパンを手頃な大きさに千切り、軽く炙った肉や塩っ気の強いハムと新鮮な野菜を挟んでチーズソースを付けて暢気にぱくつき、さらに何事かと奥から出てきた看板娘のニーナにおかわりを頼む始末。
これらの態度が余計に店主を苛立たせるとは、全く気づきもしない。
「こいつが壊した鳳凰はうちの金看板だ! 爺や親父から受け継いできたウチの誇りを壊されて黙ってろってか! 巫山戯るな!」
顔を真っ赤にし大声で怒鳴る店主の激怒する様に、若い衆もニーナも思わず身を縮める。
そこまで怒っている店主を見て、ようやくケイスは食事の手を止める。別に店主の剣幕に気圧されたからでは無い。
ケイス的に気に掛かる言葉が店主の口から飛びだしたからだ。
「むぅ……一族の誇りと言われては謝罪するしか無いな。すまん許せ。修繕費と休業中の営業補償は私が持とう」
誇りや矜持はケイスが気にする部分ではあり、本人的には十分謝る気もあったし、店舗を閉める事によって生じる機会損失を補うためのできる限りの提案のつもりなのだが、どうにも金で解決してやるから黙れといった雰囲気が出てくる。
常に上から目線な上に世間とかけ離れた価値観をもち、謝罪慣れしていないのがケイスのケイスらしさだ。
「あの壁はな! 名工左官が生涯最後の最高傑作として仕上げてくれた絵だ! 金看板を壊した代償が金だけで済むと思うんじゃねぇ!」
「むぅ、ならば他に謝罪が出来る事があるなら提案しろ。やれることだけはなんでもしてやろう」
謝る気はあるが、朝食が冷めるのも気に掛かる。ケイスが不用意に発したひと言に店主が苛立ち交じりの顔ながらも、値踏みするかのように目を動かした。
「このガキ……ならおまえの水揚げをウチでやらせろ。見た目だけなら最上だからな。十分仕込んだ上でお得意さんに募れば、華替えまで休業なんて情けないことになったウチの看板も癒やせるって」
「はいはい。そこまで。素人娘に手をかけたら名門鳳凰楼の名がそれこそ泣くわよ。しかもこの子の場合は旦那の首を撥ねかねないんだから手出し厳禁ね」
ほぼやけくそになっている店主が怒りにまかせていると、不意に林檎のような甘い香りが店内にうっすらと漂い、次いで声だけでも艶を感じさせる声が響いた。
入り口の方へと目を向けると、いつの間に来たのか、朱と銀色の混じった少し眠たげな瞳の、年若そうにも、長い経験を積んだ妙齢にも見える、年齢不詳な美女が気怠そうにしながら扉をくぐってきた。
様々な特殊能力を持つ者達を魔族という。その中でも相手の夢の中に好きに出入りし、精気を主栄養源とする淫魔一族の中の代表格夢魔。
いわゆるサキュバスのインフィニア・ケルネは、激高する店主と、言われた水揚げの意味が判らず首を捻っているケイスの間にするりと入り込む。
「インフィの姐さんか。じゃあどうしろってんだ! このガキをここに呼び込んだのはあんただろ!」
「だから私が落とし前を付けてあげるってば。この子がお金はだすっていうんだから立て直しは豪勢にして、その落成記念であたしもお店に出るから勘弁してあげて、ね」
媚びる目で店主に話しかけたインフィの身体から漂う林檎の香りが僅かに強くなると、まるで憑き物でも落ちたかのように店主の顔から怒りがすっと抜け、さらにケイスが何をしでかすかと警戒していた若い衆達の警戒心もグッと落ちる。
「あ、あぁ……あんたがいうならその顔を立ててやる……おめぇら帰るぞ」
その後にインフィと二言、三言言葉を交わしただけで、つい今し方まで怒髪天だった店主を含めて、全員がどこか夢心地でふらふらとした心許ない足取りながら、あっさりと店から出て行った。
「あーもう。これで尻ぬぐいは12件目だったかしら。身体が足りるか不安になりそう」
その瞳に情欲の色を強く現したインフィが、その大きな胸を強調するかのように自分の身体を抱きしめながらよがる。
困っているどころか、喜んでいるのは一目瞭然だ。
「とっととその淫香を抑えろインフィ。朝ご飯を食べているのに、お菓子が食べたくなるではないか」
一方で仲裁してもらった形のケイスは、甘い林檎菓子みたいなインフォの放つ香りは嫌いな匂いではないが、ご飯よりもお菓子が食べたくなると嫌がって、ぞんざいに手を払って応対する。
「あら依頼主に対して、口の利き方がなっていないのじゃ無いかしらお嬢ちゃん。レイネちゃんに言いつけちゃおうおうかな。またたっぷりと叱られてしょぼんとする所を見てみたいかなぁ」
ロウガ帰還時に保護者である女医のレイネに、心配させすぎて泣かれた上に、その後、多数の友人や関係者に心配と迷惑を掛けたとして、泣かれた時間の数倍なお説教とお仕置きをされたケイスは、その時のことを思い出して身を軽く震わせ、眉をむっとしかめる。
「斬るぞ。おまえがインフィと呼べとか、いつも通りの口調と態度で構わないといったからであろう……それで昨夜の件であろう。どうなった?」
ただレイネに言いつけるというインフィが、自分をからかっているだけと判っており、下手な反応をしても喜ばせるだけだと理解もしたので、ケイスは素っ気なく答え、本題に入ることにする。
「ほんとつれないわねお嬢ちゃん……そっくりなんだから。ニーナちゃん。あたしにも朝食セット1つね。食べながら話しましょ」
インフィが一瞬向けた懐かしげな目と小さな呟き。あえてその独り言を聞かない振りをしたケイスは、インフィが自分を通して他人を見ている事に気づいている。
それが誰かも判っているが、あえて触れない。触れるようなことではない。
それに自分が気に食わないことではあるが、このロウガではそれも致し方ないと割り切る。何せその人の方がこのロウガに根付いている……いや、いた人なのだから。
「ニーナ。私のおかわりの方が先だからな。インフィの方が後だ!」
「どうぞどうぞ。あたしの主食はお嬢ちゃんのおかげでしばらく困りそうにないし」
だがそれでも腹立たしいのは腹立たしいので、せめてもの抵抗というにも子供っぽい嫌がらせをするケイスに、インフィは童女のような笑みをみせて可笑しそうに笑う。
インフィニア・ケルネはこの燭華でもっとも小規模ながら、もっとも古く、そしてもっとも高級と呼ばれる個人娼館の女主人にして唯一の娼婦。
そしてこの燭華を仕切る顔役、それも長老格の一人。
そんな彼女から、ロウガ支部の施療院院長に昇格したレイネを通じてケイスたちに依頼されたのが、最近この燭華で度重なる事件の解決だ。
先ほどのインフィのように、男達を手玉に取り、魅了し、時には暴走させるという淫魔が放つ果物の香りにも似た甘い体臭。
【淫香】が他種族から発生するという不可解な事件が、最近燭華を大きく騒がせていた。