迷宮内に作られた安全地帯は2種類が存在する。1つは迷宮神によって魔物除けの処理がされ作られた天然の物。
もう一つは近隣の管理協会支部が、結界魔術によって作り出した人工的な安全地帯で、維持管理には手間と金は掛かるが、安心して休めることの出来る拠点設置は迷宮に挑む探索者の増加のみならず、近道として特別区を使う商隊の往来を増やし、ひいては地域経済の活性化に繋がる。
止まり木で休む鳥たちのように、安全地帯で休む探索者達は緊張から解き放たれ、ゆっくりと英気を養い明日に備える物と相場が決まっている。
カルデラ迷宮群人工安全地帯が1つ。ブナの木で出来た森を丸まる1つモンスター除けの結界で覆った通称『オーク森林の木陰』では、そのセオリーに反し悲痛な泣き声が響いていた。
「なっちゃん! もう無理! 胃が持たない! 森に帰りたい! あたし1人で下級迷宮に行かせられたんだよ!」
遠方との秘匿通信を行える魔術鏡を呼び出した管理協会ロウガ支部資料保管庫司書ミルカ・レイウッドは、今回の仕事に無理矢理送り込んだ従姉へと、いやいやと緑色の髪と共に首を振って泣き叫いていた。
見た目だけは10代後半のまだ年若い女性にも見えるが、ミルカは長命なウッドエルフ出身。これでも資料保管庫の主と呼ばれるほどの古株職員だ。もっとも精神的には見た目同様、もしくはもっと幼いがミルカを知る者一同の共通見解だ。
ケイス捜索隊改めケイス捕縛隊は、表向きはロウガ支部所属初級探索者有志一同による合同迷宮踏破訓練の名目で50人規模からなる大パーティを組んでいる。
これは始まりの宮を含め、あまりに非常識な行動かつ前人未踏の成果を出すケイスの扱いに困ったロウガ支部上層部が体面を気にして、未だケイス関連の情報を機密扱いし秘匿しているからだ。
故に大々的な支援をして外部に、ケイスの存在とその真の目的を察せられるのを防ぐため、ロウガ支部からの現場バックアップは最低限とし、非戦闘職員であるミルカが抜擢されていた。
『あーぴいぴい五月蠅い! いい歳した大人が一々嫌な事があったら、森に帰りたいとか情けない事を叫くな! 仕事だから諦めな!』
鏡の向こうでは治安部隊のご意見番上級探索者ナイカが苦虫を噛みつぶした様な顔で、へたれ過ぎる従妹を怒鳴りつける。
暗黒期末期のロウガ解放戦に参加し、英雄の1人としても知られるナイカに怒鳴られれば、大抵の物はその迫力に身が竦み、声を無くすが、ミルカからすれば、英雄で、部署は違うとはいえ上役でも、幼い頃からの付き合いの従姉のなっちゃんでしか無い。
「私まだ220越えたばかり! 下級探索者! なっちゃんみたいに上級探索者じゃないし、司書がお仕事! 通信魔術の使い手ならなっちゃんが来れば良いじゃない!」
保管庫に根を張りほとんど住み着く自他共に認める引きこもり型文系なミルカが、ロウガを離れ迷宮へと赴いたのはもちろん本人の意思ではない。
比喩抜きで、ナイカに無理矢理に檻に放り込まれて、ここまで強制的に連れてこられたからだ。
位階は下級探索者ながら、極めて優れた精霊魔術の使い手であるミルカは、特定の条件はあるが精霊を介し長距離かつ秘匿性の高い通信魔術を使用できる。
その為に、ロウガ支部と現場の迅速な情報共有が何よりも必要とされる、今回の極秘活動に抜擢されたのだが、元々ミルカの神経が細いのもあるが、今回の対象であるケイスがあまりに非常識すぎて、その神経を遠慮なく削られまくる日々に、ルディア特製の胃薬が手放せない日が続いている。
『あたしが動いたらただでさえ怪しいのが、完全に隠しきれなくなるって何度も説明したろうが! 顔が知られて無くて、警戒されない下級職員でこの時期に暇していたのはあんただけ! 普段はサボって、昔の資料を読みふけってるだけなんだから、給料分くらいはきっかり働きな! そんなんだから伯母上に穀潰し娘は世間の厳しさを知ってこいって森から追い出されてんだよ!』
「うっぁぅぅっ! なっちゃんまで母様みたいなこと! うぅっ!」
盛大な従姉妹喧嘩の末、伝家の宝刀を抜いたナイカに一撃で打ちのめされたミルカが、しくしくと泣き出す。
見た目はともかく両者とも自分よりも遥かに年上なのに、その何とも言えない身内喧嘩を横で見ていたルディアは、ファンドーレにそっと耳打ちする。
「この精神状態でも鮮明で、途切れないどころか遅れさえ無い通信状態が維持できるって……ミルカさんって司書よりも通信課向きなんじゃ」
長距離での通信魔術は、普通ならよほど精神を集中していても持続が難しいのだが、ミルカの呼び出した鏡に映すナイカの姿には一切のぶれさえ無い。
「この引きこもりエルフがそんな器用に繋げたらの話だ。今の所は繋げられるのは血が近い特定の同族との間だけ。この近辺ではナイカ殿くらいだ。ミルカ。話の邪魔だ。鏡は維持したままであっちに行ってろ」
「うう、ファンくんまで酷い事、言う……」
元々口の悪いファンドーレは悪意を含まない故により辛辣な評価を下して、顔なじみだというミルカをぞんざいに追い払う。
しくしくと泣きながらミルカは、近場に止めた馬車の荷台の最初に放り込まれた檻へと戻っていく。檻は捕獲したケイスをロウガまで移送する特別製なのだが、この狭さが実家でよく逃げ込んでいた洞を思い出して良いと、今はミルカの引きこもりスポットになっていた。
「毎度毎度の事だけど、あの扱い良いの?」
「どうせ英雄叙事詩本の1つでも与えておけば機嫌が直る。俺の蔵書からあれの読んでいない本をいくつか持ってきているから心配するな」
ミルカはまだモンスター達が跳梁跋扈していた幼い時代に、フォールセンを中心とした大英雄パーティに九死に一生の危機を救われ、それ以来の度を超した英雄フリーク。
アマチュア迷宮学者で迷宮マニアであるファンドーレとの接点は、治療院での仕事の合間に資料を求めて支部書庫に入り浸っていたときに、マニアックすぎる英雄達の迷宮攻略話で盛り上がって、それ以来、年の離れた友人関係となったらしい。
『悪いねファンドーレ。あんたがそっちで手綱を握ってくれて助かるよ。あたしがそっちに行けたらどうにかするんだけど、そうもいかないからね。で、そっちはどうなったんだい? 嬢ちゃんは本当に下級迷宮に入ったのかい?』
毎度毎度通信のたびに弱音を吐くミルカに辟易しているナイカが、安堵の息を吐くと、表情を改める。
ファンドーレが無言で首を振り始めろと丸投げしてくるので、始まりの宮に続いて一応現場のまとめ役をやっているルディアは、1歩前に出る。
「はい。それは間違いありません。さっきなんとかミルカさんに【魔禁沼】に入ってもらっていたんですが、完全踏破されていたらしく霧が晴れていたそうです。ただあの馬鹿は今の所まだ見失ったままです」
ミルカ以外は全員が初級探索者。だから下級迷宮の中を確認を出来るのが、始まりの宮後は一度も迷宮を踏破はしておらずとも、一応は下級探索者であるミルカだけだ。
単独で迷宮に入るのを怖がり、嫌がるミルカを何とかなだめすかして中の確認をしてもらったのだが、結果はあの通りだ。
『入って出て来ただけであの騒ぎかい。あの子は本当に……しかしケイスの嬢ちゃんが下級に到達したってのは、いよいよ誤報じゃ無さそうだね。しかもいきなりのぶっつけ本番で、ここの所、何期も未踏破宮だった魔禁沼。つくづく化け物だねあの娘は。上層部のお偉いさん達が右往左往するのもさすがに見飽きたね』
「踏破数が踏破数だ。ひょっとしたら無条件で半年後に初級から下級に上がるのは、時間経過で下級探索者になるのでは無く、時間切れで初級探索者でいられなくなるということかもしれない。迷宮学の通説が大きく塗り替えられる事になりそうだ。もう諦めてあの馬鹿の存在を公表すればいいだろ。信じる信じないかは別だが」
奇しくもケイスが出した推測と同じ予測を、迷宮学者であるファンドーレが仮説として唱える。
赤の初級迷宮だけとはいえケイスは、この一月あまりで50以上の迷宮を、それも全て迷宮主を倒す完全踏破を成し遂げている。
未だケイスが正式登録していないために、公式記録としては残せないが、ロウガどころか大陸全支部の公式記録を当たっても、前代未聞の踏破速度、数である事は間違いない。
故に半年後に初級探索者は下級探査者へと無条件で位階が上がるという通説を無視して、この段階で下級探索者へと到達したと考えてもおかしくは無い。
『それが出来たら苦労しないよ。何せ公式報告では、全員踏破の裏で双剣のお弟子様は始まりの宮で大怪我をして今も絶対安静って事になってる。アレだけ速報を打っておいて、まさか1人が未帰還だって言えやしないよ。しかも全員踏破の立役者が、今のままじゃ違法な未登録探索者で、さらには下級探索者に上がっている。功罪多すぎる上に、嘘に嘘を重ねているから今更引けないさね』
始まりの宮全員踏破の偉業を、ロウガ支部のイメージアップなど政治的に利用しようとしたのが運の尽きだとナイカは鼻で笑う。
確かに全員踏破はしたが、正確にはケイスは未だロウガに戻らず、探索者登録さえしていないので、未帰還かつ大陸の大体の国では違法となる未登録探索者。
ケイスが始まりの宮後に即座に迷宮に挑みはじめた初期の段階で、体面など気にせず公表していれば、まだ傷は浅かっただろうが、まさかケイスがその後に一月に渡り破竹の勢いで迷宮を踏破しまくり、たった一月で下級探索者になるなど誰も予想できなかっただろう。
とにかく、なんとしてでも秘密裏にケイスを捕獲して、嘘を真実にしないと、ロウガ支部の体面は丸つぶれという状況だ。
『どっちにしろ上のミスだ。あんたらは気にせず嬢ちゃんの追跡をしながら、一応の名目である合同踏破訓練の方もそこそこにやってておくれ。ほかの支部やら国が、どうにも疑っているみたいだからね。合同踏破訓練の方はどうだい?』
「そちらは問題ありません。人数はいますから無理せずに近隣の迷宮を廻って、完全踏破とまではいきませんが、踏破をぼちぼちやっています。赤の初級迷宮はケイスが完全踏破しているので、天恵は得られないスカベンジャーになりますけど、逆に安全に迷宮資源を集められるので、仲間内では好評です」
迷宮主を倒してケイスが完全踏破した迷宮は、迷宮を迷宮たらしめる仕掛けが解除され、モンスター達の異常な攻撃性も収まり、特別区とさほど変わりない安全性まで落ち着く。
完全踏破された迷宮を、主な狩り場とする探索者は、死肉漁り『スカベンジャー』と呼ばれることもあるが、立派な生き残るための知恵でもある。
ましてやケイスの場合は、中の資源など目もくれず、斬り倒した雑魚モンスターも大抵そのまま放置。迷宮主を喰らって即座に離脱と、ほぼ丸まる手つかずの迷宮資源が残っている。
後を追うルディア達はさほど時間をかけられないが、ケイスのおこぼれに預かり、かなりの恩恵を受けていた。
『順調みたいだね。しかし順調すぎるのも目がつけられるからね。一度あんたらは戻そうかって話も出ているよ。あの子が下級になったなら、こっちも精鋭が送り込めるからね。ガン坊なんぞ一番に名乗りあげたよ。ウチの総大将はさすがに送り込むわけに行かないけどね』
初級探索者しか出入りできない初級迷宮ではなく、狩り場が初級探索者を除いた全探索者が出入り可能な下級迷宮に移ったならば、ロウガから腕利きで口も硬い探索者を動員できる。
ケイスの恩人であり、ロウガ支部講師であるガンズならば、現時点でなら近接戦闘でもケイスを上回る技量を持つ。
いくらケイスと言えど、中級探索者を中心にしたパーティなら捕縛はさほど難しくは無いはずだ。
『とりあえずまだ話が纏まるまで、もう少し時間はかかるだろうから、嬢ちゃんの動向を探りつつ無理せず合同踏破訓練に重点を置いておくれ。もっとも言わなくても五月蠅い翼の姫君辺りなら、がむしゃらに踏破しようとしてるだろうね』
何時もならロウガとの通信の際には顔を出すロウガ王女サナの姿が見えず、さらにルディア達の背後の人数も少ないことに気づき、負けず嫌いなサナの性格から動向をナイカは予測する。
「正解だナイカ殿。姫なら、ケイスが下級探索者となって、追えなくなったら追いつくまでと、迷宮主を発見した青の初級迷宮の完全踏破に同期を連れ立って挑戦中だ」
『やれやれあのじゃじゃ馬姫は。そろそろ槍なんかもガタが来ているだろうに。一応替えの武具なんかやと一緒に、ギン坊が作った対ケイス専用捕獲魔具なんてのも、知り合いの商人ギルドに送らせた。今夜には合流できるって話だけど無事出会えたかい?』
「いえ、まだです。ウィーが散歩がてらに周囲偵察に出ています。この森の安全地帯は広い上に、見通しが利かないので、どこか別の場所にいるかも知れないので」
「ウィーさん!? どうしたんだ!」
ルディアが首を振って説明をしていると、見張り番に立っていた同期の1人が驚きの声をあげているのが聞こえて来た。
「噂をすれば何とやらだな。ウィーが戻ったようだ。だが何かあったようだ」
ルディアが声の聞こえてきた方向をみてみると、なにやら大きな袋を5つ担いだウィーと、旗を背負った女行商人がなにやら疲れ切った状態で続く
「ほい。ルディ。ケイの置き土産だって、で、こちらがケイに助けられたっていう、ボク達と合流予定だった行商人のミモザさん」
「猟犬商会のミモザだ。あんたらに文句をいうのはなんだけど、あの子、ケイスはなんなんだよ?」
気絶状態で首だけ出した若い男達が収納されている大袋を軽々と担いでいたウィーはその場に適当に降ろし、連れてきた女商人ミモザを紹介すると、ケイスに精神的にやられたらしいミモザは青ざめた顔を浮かべていた。
「じゃあなに。血の臭いを辿ったらミモザさんがいて、ついさっきまでケイスがいたのね?」
一通りの説明を聞きながら、ルディアは、深く息を吐き懐から胃薬を取りだし、苦い薬を水も無くかみ砕いて飲んでおく。
色々と精神的にやられたらしいミモザは、説明の途中で力尽き今は寝込んでいるが、ルディアはそういうわけにもいかない。
ケイスの名前が出た上に、そして当の本人がここにいない以上、どう転んでも胃が痛くなる話になるの間違いないので、予防策だ。
「そうそう。こっちの人達が、どこかの男爵様の依頼で、ボク達の動向を探るついでになにやら悪巧みしてミモザさんを襲ったって。偶然近くにいたケイがぶちのめして、ついでに口も割らせた状態」
気絶した男達の顔は例外なく恐怖で引きつっている。1人の頭部などつるつるで髪が無くなっているが、どうせケイスが嫌う下品な煽りでもして、剣の一振りでそり上げられたのだろう。
『そいつらはこっちで引き取りに人を回すとして、その本人はどこに行ったんだい?』
「えーと、ケイらしい我が儘な話と、ケイらしい最悪な話の2つありますけどどっちから聞きます?」
ナイカの問いかけに、鋭い爪が生えた指を立てたウィーが暢気な声で答える。
「その順番で良いからとっとと話せ。どこから聞いても、碌でもなく、馬鹿げた話なのは変わらないだろ」
男達により深い昏睡魔術をかけ終えたファンドーレは、既に予測が出来ているのかあきらめ顔だ。
「祈るだけ無駄だけど、予測が外れてることを祈るだけね」
正直言えばルディアも予測は付いているのだが、一応、万が一の幸運を祈ってファンドーレに同意する。
「んじゃまず一つ目。らしい我が儘話なんだけど、ボク達に渡る補給物資。特にウォーギンの作った魔具をケイが無理矢理に持っていたって。『私”に”使うか、私”が”使うかの些細な違いであろう』って、ついでに、邪魔をするならミモザさんでも斬るって何時もの脅し付きだって」
「そこが一番重要でしょうが……あの馬鹿。姿隠しのマントに、非殺傷性閃光ナイフ、それに軽量魔術添付ナイフってまた応用が効きそうなものを的確に持っていったわね」
ウォーギンが送ってきた魔具の説明書を読みつつその性能をみたルディアは、頭痛薬も飲むべきだったと後悔する。
化け物なケイスを捕獲するために、天才魔導技師であるウォーギンが用意した魔具は、人間離れしたケイスの反射速度を凌駕する機能を盛られたピーキーな特製品。
それは裏を返せば、並の武具、道具では耐えられないケイスの戦闘能力に、楽々と付随出来る性能を持つということ。
ウォーギン謹製魔具とケイスの相性の良さは、この一月、ルディア達がケイスを取り逃している事からも今更言うまでも無い。
鬼に金棒ではないが、ケイスの戦闘能力がまた跳ね上がったのは明白だ。
「なるほどあの商人がダウンしたのはあの馬鹿の殺気にやられた所為か。ルディア。気付け薬でも用意しておいてやれ。あれは初見では身体に悪い」
『時間が無いからって省いたけど使用者制限の仕掛けもギン坊にやらせとくべきだったね。で虎の嬢ちゃん。らしい最悪なのってのは? それだけの武装を持ってどこに行ったのかあんまり聞きたくないけどね』
「いやー何でもミモザさんを襲った襲撃者の1人で、仲間を裏切って助けてくれたおじさん探索者がいたらしいんですけど、その男爵に借金で縛り付けられた上に娘さんを人質に取られた上で犯罪行為を余儀なくされたとかで……で、その人を気にいったケイが男爵を斬るついでに、娘を助けてやるって領主館のある村にむかったみたいです」
「「『……あの馬鹿』」」
あまりにらしすぎてもう笑うしかないとウィーは苦笑いを浮かべ、残り3人は予測していた最悪の正解をなんのひねりも無く、そのままぶち抜いてくるケイスに対して、異口同音な何時もの代名詞を口にするしかなかった。
出発するときは頂点にあった月は半ばほどに沈み、夏が近いとはいえ、夜明けまであと僅かとなった空気は少し冷たい。
強行軍で文字通り迷宮を一直線に突破し、カルデラ迷宮群を抜けたケイスは、外輪山の麓近くにあるタクナール村へと到達していた。
村をぐるりと囲む動物避けの柵を横目でみながら、村の脇を流れる水量の多い川沿いを上流へと向かって茂みの中を静かに進む。
この辺りは迷宮隣接地域ではあるが、見返りが少ない割に難易度だけは高い迷宮が多い所為か探索者の拠点となるメイン拠点としては、あまり利用されておらず、村の主な産業は林業となるらしい。
川沿いには山から切り出してきたままの原木や、それらの枝葉を切り落として運搬しやすい丸太や板へと加工する製材所がいくつか見てとれた。
「大丈夫か? 息が相当苦しそうだぞ」
モーリスの呼吸は、迷宮外に出てから荒くなり、腹の傷が痛むのか時折呻き声もあげている。
なるべく振動が無いように走ってはいるが、ケイスとの体格差がありすぎる所為でどうしても肩で担ぐしか無く、モーリスの身体に負担が掛かるのは避けられなかった。
「だ、大丈夫だ。迷宮外だから天恵の効力が弱まっているが、薬は効いている」
脂汗を流しながらで強がりにしか聞こえないが、こういう強がりはケイスの好みだ。
探索者が得た天恵による強化の恩恵は、迷宮内で最大に発揮され得た天恵に合わせて強大な力を振るえるが、迷宮外ではその恩恵の効果は1/10以下となってしまう。
これは神によって与えられた力である天恵は、世界の危機に対応するための力であり、迷宮外、つまりは人の世でみだりに振るうべき力ではないからだと、神官達は説法をする。
「私の仲間が近くに来ているが、医療神術を得意とする者や腕の立つ薬師がいる。娘を助けたら連れて行ってやるから、もう少しだけ我慢しろ……見えてきた。あれだな」
村の最深部、川が大きく蛇行するそこに領主館は建っていた。
丸太を地面深くまで埋め込んで並べた壁を四方へと張り巡らし、3方向を流れる川を天然の掘とした、その佇まいは領主館というよりも砦と呼んだ方がしっくり来る無骨な作りだ。
村から続く正面は坂道となり、夜明け前だというのに煌々とかがり火を焚いて照らしだしており、門前には門番らしき兵が常駐し、壁の上にも幾人かの兵士が巡回している様が見てとれた。
「やけに厳重だな……なるほどそういう事か」
辺境の一男爵が居を構える割には、兵の数が多いと思ったが、砦門上部のポールに掲げられた旗を見てケイスは得心がいく。
門の上にはファードン領を示す木を基調とした紋章をあしらった古びた旗が掲げられているが、その隣のさらに高い位置に真新しい旗がひらめいていた。
夜中でもかがり火に反射する金をあしらった贅沢な旗には、この国クレファルドの王族が使用する紋章が誇らしげに輝く。
どうやらファードン男爵が取り入ろうとしているという、王族の姫とやらも館に在留中のようだ。
「王家の旗……こんな状況じゃいくらあんたでも」
「方針は変わらぬぞ。予定通り夜明け前にここまで来られたのだ。後は一気に攻め込んで男爵を斬って、ニーナとやらを助けるだけではないか。二人の身体的特徴を教えろ。ここから位置を察知して、斬り方を考える。ウォーギンの魔具が手に入ったのは僥倖だ。おまえの娘を思う気持ちが、私と出会った幸運を呼び込んだのだ。喜べ」
モーリスも厳重な警戒と王家の旗に気づき絶望的な表情を浮かべていたが、ケイスはその杞憂を一蹴して、自分と知り合ったことを喜べと笑ってみせた。