幾筋もの滝から轟々と流れ落ちた水流が広大な水面を叩き、幾万もの水玉となって跳ねて、濃い霧を産み出す。
対岸は見えず、まるで大海のような錯覚を覚え、ひんやりと肌を包む冷気に思わず温かい太陽を求めて空を見上げても、そこには遥か高みに岩盤で覆われた天だけが広がる。
ここは地の底。かつて赤龍王の褥となった地底火山が、赤龍王の死と共に大規模な陥没を起こし発生した地底カルデラ湖。ロウガ近郊迷宮特別区。巨大すぎる地底湖は【龍王湖】と呼ばれていた。
水中に発光虫がいるのか、それとも何らかの神の加護なのか、水面はキラキラと発光していて、そこらには無数の林ができており、その奥からは動物たちの気配も感じる。
空を見なければ、ここが地下だと思わず忘れてしまうほどだ。
湖畔に築かれた迷宮神ミノトスの神殿の周囲では、始まりの宮が開くのを待つ挑戦者達が待機していた。
身体を温めるために剣を振る者。装備のチェックに余念がない者。瞑想して意識を集中させる者。役割分担を再度話し合う者達。他のパーティと協力しあうために最終の打ち合わせをする者達。
思い思いの時間を過ごす挑戦者達から少し離れた湖のすぐ側。そこに目を覚ましたケイスは立っていた
「ふむ……これが龍王湖か」
湖岸に立つケイスは、湖を見つめながら背伸びをして身体をほぐす。
遥か地底の底でこれほどの巨大で、そして眩く発光している湖を初めてみれば、大抵は圧倒されるのだが、ケイスはむしろ故郷に帰ってきたかのような安堵感を覚えていた。
始母が微睡む龍冠の最深部である地底湖と、どこか似たような雰囲気を感じる所為だろうか。
身体に当たる水しぶきが気持ちいい。水龍の血を引くせいか、ケイスは水が好きだ。
それにケイスの身体には祖母が倒し喰らった赤龍王の血も流れている。ここが赤龍王の玉座であり、死地であった事もよい影響があるのかも知れない。
龍の気配に満ちた湖。ケイスにとってもっとも過ごしやすい、力を発揮しやすい環境がそこにあった。
だからといってケイスは油断しない。
始まりの宮の出現まではもうすぐ。ロウガの【始まりの宮】はここ龍王湖に道が開く。あるのではない。
半年ごとに、日が頂点に昇ったときに忽然と現れ、そして3日後の迷宮閉鎖期の終わりと共に忽然と消滅する。まだ中に挑戦者達が残っていれば、その者たちごと消え去ってしまう。
始まりの宮はある程度の傾向はあるが、常に一定の物が出現するのではない。
その期に挑む挑戦者の数や、彼らの実力にふさわしい難度や規模の迷宮が、トランド大陸のどこから無作為に選ばれていると、昔から迷宮学では予測されており、概ねその推論に間違いは無い。
挑んだ始まりの宮のある街から遠く離れた地で、迷宮に挑むも力及ばす無残に喰われた挑戦者の亡骸が見つかるのも珍しい話では無く、その死体を金銭と引き替えに回収、返還をする専属ギルドもあるほどだ。
その法則で行けば、今回はただでさえ人が多く、さらには自分がいる。過去最大級に難度も規模も高い迷宮が選ばれるのは、ほぼ間違いないはずだ。
迷宮はケイスにとって幼き時より生きてきた遊び場ではあるが、一瞬の油断もできない死地であることも重々承知している。
ケイスを殺そうと、それとも試練を与えようとするのか知らぬが、神はいつでもケイスに全力で抗うことを求めてくる。
無論いつも通り生き残る。しかし他の者達も、大切な者達がいる。自分だけが生き残るのでは意味がない。
自分達が全員で生き残らなければ、全員が探索者にならなければ意味がない。
自分の願いを邪魔してくる神がだから気にくわない。自分の行く手を塞ぐ者は全て敵。ならば神だろうが悪魔だろうが斬るだけだ。
「ケイス! まだ打ち合わせに時間が掛かるけど、すぐに開くんだから遠くに行かないでよ!」
ほかの探索者パーティとなにやら話し合っていたルディアが、ケイスがどこかに行きそうに見えたのか注意してくる。
「ん。判っている」
ルディアに軽く手を上げ短く答える。
他の者達と何をしようとしているのかは詳しく知らぬが、ルディアを信頼しているから、気にはならない。
今の自分がすべき事は、自分の力を最大にまで高める事。
自分の力とは、すなわち剣技。剣を最大威力で振るためには……
龍の力と水。少し思いついたケイスは、軽鎧のうえに纏った外套の下に、今は使えないが一応は身につけていた愛剣を手に取った。
暢気そうに見える態度ながら、その頭はすでに完全な戦闘態勢に切り変わっていた。
「なーんかケイ、何時もと少し違わない?」
手を振った後その場でしゃがみ込んで水辺に手を突っ込み何かを洗い出している。
一見子供が水遊びをしているようにも見えるが、どうにも真剣すぎるその横顔に口をはさむ気にもならず、ウィーは小声でルディアに耳打ちする。
違うといっても緊張している様子も無く、いつも通りマイペースで打ち合わせは任せるのひと言だけ残して、湖を見にいっている自分勝手全開は変わらず。
どこがどう変わったのかと尋ねられても説明しにくいが、周囲の空気が引き締まるとでも言えばいいのか、少しだけケイスをみる周りからの目も変わっていた。
「で、こっちの赤い瓶が攻撃系触媒液になります。大抵の流派の基本系魔術一次触媒にはなりますから、各属性との併用が効きます……ケイスの戦い前ってあんなもんよ。いつも通り何を考えてるか判らないけど、ケイスが必要と思ったなら必要なんでしょ」
ほかのパーティに持ってきた触媒液の種類を説明しながらを渡していたルディアは、手短に答える。
こと戦いに置いてはケイスの判断を、理解は出来なくともルディアは全面の信頼をしようと決めている。
「なぁルディアさん。あんたらの手助けや申し込みは正直に助かるし、こっちも全力で協力はさせてもらうが、あの子はあれで大丈夫なのか?」
しかしそれはルディアが、ケイスの戦いを肌で体感しているからに他ならない。
触媒液を受け取った魔術師が、ウィーに釣られたのかケイスを見るが、そこには心配と不安が入り交じった複雑な感情が浮かんでいた。
見た目は子供で中身が化け物だと判っているようだが、打ち合わせにも興味を示さず戦闘前と思えない行動に困惑しているようだ。
「すみません。大丈夫ですとしか今はいえなくて。口で言っても判ってもらえる話じゃないので。でも見れば判りますから。ケイスの戦いを」
協力関係を結んだパーティに答えるには我ながら不誠実だと思い、頭を下げながら、それでもルディアは詳細を語らない。語れない。
文字通り見て体感してもらうしかない。そうで無ければ実感できないのと知っているからだ。
砂船の倉庫で見たように。カンナビスの闘技場で見たように。誰かを守るために戦おうとするケイスの背中を。
「「「「「我が神。迷宮神ミノトスよ。新たなる道を切り開き、御身のお与えくださる試練に……」」」」」
吹きさらしになったミノトス神殿に、一糸乱れることなく整列した挑戦者達の頭上を、その周囲を囲む多数のミノトス神官達による朗々とした祝詞の声が響き渡っていく。
神力と呼ばれる神の力を降ろした神官の声が一音一音響くごとに、挑戦者達の足元に綺麗に敷き詰められた石畳に彫られた古式の神意文字の一つ一つが光を放ち始める。
神意文字の輝きと連動し、目の前の湖の湖面からは、まるで湖水が沸騰したかのように、水蒸気が昇り始め、徐々に徐々に霧が濃くなっていく。
濃い霧の向こうには、いつの間にやら巨大な壁が不意に現れ、次の瞬間には消えてと、出現と消滅を繰り返す。
ここではないどこか。トランド大陸のどこかに存在する迷宮との道が開かれ始めていた。
今は迷宮への立入が、最低ランクの特別区を除いて、一月の間不可能となる迷宮閉鎖期。
入ることは出来ないが、滞在できることは出来るため、閉鎖期前から迷宮に潜り続けている者達によって内部の様子は伝え聞こえているが、中は地獄だと語れた者はまだ運が良い方で、残った大半は行方不明となり、迷宮に喰われてしまう。
無数のモンスター達が異常増殖し、狂ったかのように暴れるモンスター同士の迷宮内部で弱肉強食の喰らい合いと、迷宮の内部構造を大きく変化させる激しい環境変化が発生する。
煮えたぎる溶岩が流れ古い通路を完全に塞ぎ、街すら飲み込むサンドワームの成虫が新たな通路を築き、異種交配によって生まれた新たな迷宮モンスターが跳梁跋扈を始め、勢力図は大きく書き換えられ、過去の攻略地図は無意味となる。
入り口だけは同じとしても、中身は全く新しい迷宮が半年ごとに新たに姿を現す。
だからこの迷宮は、永久に完成せず変化し続ける迷宮【永宮未完】と呼ばれている。
挑戦者達は生まれ変わったばかりの新しい迷宮へと挑む事になる。そこには決められた道筋も、攻略法も、モンスター情報さえも存在しない。
迷宮が消える三日後までに、それぞれに与えられた試練を突破し、迷宮から脱出が出来る転位場所を探し出して脱出しなければ、迷宮と共に消え去り、この地に再び生きて戻ることは不可能となる。
「「「「「やがて生まれる災厄に抗う者達への試練よ。今道は切り開かれん!!!」」」」」
天を覆う岩盤の先で見えないが、天に燦然と輝く太陽が頂点に達する時間とともに、神官達はトランス状態となり、その神力が最大まで高まる。
地上に太陽が生まれたかのような目も眩む閃光が、地下の湖岸を一瞬真っ白に染め上げ、突如発生した暴風が駆け抜けていく。
光と風が収まったとき、挑戦者達の姿はなくなり、代わりに完全に取り払われた霧の向こう。巨大な湖面を覆いつくす古木の壁が出現していた。
足元からの強すぎる閃光に目を閉じていたのは一瞬か。それとも数秒、数分、もしくは数日?
どうにも時間感覚が曖昧となるような不可思議な感覚にとらわれていたルディアは、ゆっくりと瞼を開き、声を失う。
儀式の終わりと共に迷宮内に転送されると事前説明されており、目の前の光景が変わると理解もしていたが、それでもさすがに驚く。
先ほどまで見えていたのは、地下の湖と、そこに築かれた壮大な石造りの神殿とそこにならぶ同期達の姿だ。
しかし今ルディアの目の前に広がるのはなにも無い空間で、数ケーラ先には先を見通せない暗闇がぽっかりと穴を開けていた。
その闇の中に無数に禍々しく輝く赤い小さな実らしき物が取り囲んでいる。
濃厚な緑の匂いに混じり漂ってくるのは、微かな刺激を伴う酸味臭と不快なアンモニア臭。
足元は今にも腐り落ちそうな古い木の枝が無数に絡み合って出来た自然の床。ぎしぎしと軋み揺れ動いている。
どうやら空洞で宙づりになっているようだが、あまりに不安定で今にも抜け落ちそうだ。
宙に浮く床を支えるのは、か細い蔦で出来た橋。人一人がかろうじて通れるくらい細い橋が何本も暗闇の向こうに消えており、どうやら道を選べという事らしい。
「光球使うわよ……っひ!?」
暗さを嫌がったのか中央の方で誰かが光球を打ち上げるが、それはすぐに悲鳴に変わる。
暗闇だと思っていたものは数え切れない無数の大型犬ほどもある巨大な蝙蝠達。そして赤い実だと思ったものは彼らの目だ。
僅かに蝙蝠達の隙間から見えるのは、樹木のようにも見える。どうやら巨大な木の洞の中に自分達は転送されたようだと誰もが気づく。
上を見上げてみれば、天井にもびっしりと蝙蝠達がぶら下がっており、前後上方を蝙蝠の群れに取り囲まれていた。
しかし急に現れた明かりに蝙蝠達は反応はせず、ただルディア達を見据えている。
緊張感からか頬に浮き出た冷や汗を右手でぬぐったルディアはいつの間にやら、自分の右手の中指に透明な指輪が嵌まっていることに初めて気づく。
それは探索者達の証である指輪の素の状態であり、この指輪が銀色に染まったとき試練を突破した証明となる。
指輪を見て、自分が超常の存在である探索者になろうとしていると、ルディアは初めて実感をし、同時に落ち着きを取り戻す。
まずはいつ落ちるか判らないここから蔦を伝わり、安全な場所に行かねば。その為にはどうにか蝙蝠をやりすご、
「ルディ。ちょっとこの状況はまずそうだ。私があいつらを引きつけてくる。ウィー。皆の護衛を任せるぞ。ファンドーレ。蔦の橋は16に別れているから、マッピングをなんとしてでも他のパーティと共有しろ。難度が違いすぎる。ウォーギン。耐酸性の防御魔具があれば広域展開して、この場所をなんとしてでも確保しろ」
有無を言わせぬ口調でケイスが早口で指示を出す。1秒一瞬でも時間が勿体ないと言いたげなケイスは、腰の鞘から長剣と短剣を引き抜くと、両手に構え、ぐるりと周囲を見渡す。
「……なるべく破裂させないように斬るが、ちょっと派手にやりあうことになりそうだ」
いきなり剣を抜いて戦闘態勢に入ったケイスに、周囲の者達が驚きの表情を浮かべるが、誰も声をあげない。あげれない。ケイスがあげさせない。
その鈴のような可愛らしい声が、何故か頼もしく聞こえ、聞き逃せば、危険が増すと本能が理解する。
何をケイスが感じ取ったのかルディアには判らない。だがその顔と背には意思が、ルディアが絶対の信頼をする、誰かを守ろうとするケイスの思いが詰まっていた。
「ったく、いきなりね。ケイス、通信魔具は持ったわね。無茶するなって言っても無駄だろうけど、気をつけなさいよ」
言っても止まらない。そしてもし万が一止まっても、それは致命的な判断ミスとなりかねない。
だから今は信じるだけだ。ルディアが捕らわれてしまった、心奪われてしまった小さな剣士を。
「ん。では行ってくる…………帝御前我御剣也、っぐ!」
ケイスは見送ってくれたルディアに感謝の意を込めて挨拶してから、誓いの言葉と共に、ほんの一瞬だけ心臓から闘気を産み出す。
身の毛がよだつ恐ろしい気配が龍王の気配が、思わず漏らした苦悶の声と共に僅かに洩れだす。
一瞬だが全身に奔る痛み。ばらばらに切り裂いてケイスの身体からあふれ出そうとする龍の闘気。
しかし……一瞬だけだが耐えられなくはない。初めて全開で解放したときには、耐えられなかったが、今はほんの一瞬でも耐えられる。
怪我をしてから闘気を産み出せななくなったこの数ヶ月。それでも地味でも着実に積み上げた鍛錬。そしてこの地に満ちる水と、龍の気配がその一瞬を作り出す。
誰もが身をすくめさせる龍の気配。しかしそれは一瞬で収まる。それはここに弱り、傷つき、全力を発せられない、龍が居ることを告げる何よりもの印。
迷宮モンスター達にとって龍は迷宮に君臨する最上級種の暴虐なる王であるが、弱り死にかけているならば最大の馳走へと変わる。その身を喰らえば、己の力は数倍、数十倍へと跳ね上がると本能が知っている。
迷宮モンスターであれば何もが目の色を変える供物がそこにあるのだ。無反応だった蝙蝠達も例外では無い。
微動だもしていなかった蝙蝠達が一斉に羽ばたき、我先にと壁から離れた。狙うはケイス。
「ふん、私を喰らいたくなったか。良かろう。付いてこい」
しかしそれこそがケイスの狙い。全ての敵を己の身1つでおびき寄せ、この地を確保する。ケイスは軽く枝の床を蹴り、暗闇に、底が見えない穴に向かって飛び込んでいく。
落下していくケイスを追い、喰らうために無数の蝙蝠達は幾筋もの黒い波となって続いていった。
「っ! あの気配は! やはりあの娘ですか!」
僅かに聞こえた誰かの声は蝙蝠の羽ばたきに消えケイスの耳には届かぬままに。
賽子が転がる。
賽子の内側で無数の賽子が転がる。
無数の賽子の内側でさらに無数の賽子が転がる。
賽子が転がる。
神々の退屈を紛らわすために。
神々の熱狂を呼び起こすために。
神々の嗜虐を満たすために。
賽子が転がる。
迷宮という名の舞台を廻すために転がり続ける。
次期メインクエスト最重要因子【赤龍】
探索者モードへと仮登録。特異生存保護指定消去。
システム蠱毒常態モード移行。
迷宮主【十刃】覚醒。新規贄全捕食モード移行。
贄全捕食可能性及び赤龍覚醒確率を計算……計算終了。
到達可能性は極めて低く、現在位置関係、赤龍の状態によって十刃早期消去可能性高し。
代替えシナリオ生成準備。新規龍滅者。翼女王をメインにサブシナリオ生成開始。