先ほどまでとは比べものにはならないほどの恐怖が、サナの全身を穿つ。
殺される、ではない。サナが感じるのはもっと原始的で粗暴な感情。ひと言でそれを表すなら【喰われる】
生物の根源。己が生きるために、他者を喰らう。
原初の生存本能が、頭が思考する前に、身体を自然と動かす。
力のこもった両腕が、大地を踏みしめる両足が、風を纏う翼が双翼が、反応する。
喰われる前に喰えと。
極限のプレッシャーを前に、萎縮すること無く、サナは自然な動作で槍を突き出していた。
無心から放たれたそれは紛れも無く、最速最鋭の一撃。
今のサナが放てる最強の一撃で風を切る穂先が目指すは、ケイスの身体中心一点。
互いの動き、間合い、槍の速度、それら全てを加味して、ようやくサナの意識は認識する。
どの方向に回避しようとしても、今の体勢から可能な横払いで致命的な一撃を与えられる。
短剣を使い防ごうとしても、先ほどまでのケイスの筋力であればその防御を弾き飛ばして貫ける。
防げずとも軌道だけを変えようとしても、この威力なら押し勝てる。
これは絶対の一撃だ。
サナが勝利を確信した刹那、真っ直ぐに突き進んできていたケイスが動き、右手に構えていた投擲ナイフを、手首の力のみで弾くように投げつけた。
ナイフの軌道は僅かに槍の穂先からずれている。それどころか重心がぶれてナイフが回転してしまっている。
焦って外した?
否、それは無い。
瞬時の判断で理解はするが、今のサナでは、ケイスの真意を見抜く術も、対応する時間もない。
既に己が出せる最大最高の一撃を放っている。ならそのまま貫くだけ。
だがこの天才を自称する化け物は、そんなサナの思惑を全て外してしまう。
迫る槍の穂先。
全身全霊を込めながらも自然体で繰り出される突きに、ケイスは歓喜する。
さすがだと。
自分の本気の殺意を前に萎縮すること無く、度重なる修練を経てのみ身につける事が可能な無駄なき一撃を放てるサナに、敬意と愛情をケイスは抱く。
なればこそ、だからこそ、自分が預かったこの技を伝えるに、サナはふさわしい。
ケイスの手によって回転を与えられ投げつけられたナイフは円軌道を描く。
その動きに釣られ、柄頭から伸びる極細のワイヤーが幾重にも連なる一直線の輪っかを一瞬だけ産み出す。
それは僅か刹那の造形。一瞬の時で崩れる脆く儚い奇跡の形。
天才たるケイスの手にかかれば、一瞬の奇跡さえ技となり得る。
本来であれば、魔術によって産み出される風の螺旋回廊を、剣の天才たるケイスは物理的に産み出す。
作り出された螺旋回廊が、サナが繰り出した槍の穂先をその中心に飲み込み、受け入れる。
邑源槍流【昇華音暈】
穂先を捉えた絶妙のタイミングで、腰から伸び投擲ナイフへと繋がるワイヤーに手をかけ、一気に引き絞った。
狭まったワイヤーの回廊が、槍の穂先を捉え、一綴りに連なる擦過音を奏であげながら優しく包み込む。
槍を縛り上げるのではない。槍の軌道をケイスが思い描く形へと極々僅かにだが修正し、全ての力を一点へと集中させる形へと昇華させる。
これこそがケイスの傲慢。天才故の残酷さ。
サナが繰り出した、度重なる修練によって得た最高の一撃。
だがその最高の一撃さえも上回る一撃。サナが未だ到達できない、もしくは一生掛かっても到達することの適わない領域。
天才が故の常人には既知外の領域へと、ケイスは無理矢理にサナを引きずり込んでいた。
ケイスが投げたワイヤーによって槍の軌道は僅かに変化する。
それは本当に僅かな、砂粒1つ分の大きさも無いズレ。
だが今のサナにはそのズレは、頂上が見えないほどに巨大な絶壁だと感じる。
何故だ? 自分は最高の一撃を放ったはずだ。
なのに。なのにだ。肉体はケイスが修正を施した一撃こそ最大の一撃だと認め、上書きしてしまった。
実際に穂先の速度も、穿つ貫通力も、一気に跳ね上がる。
修練を積んできた10年以上の刻。自分の今の限界を誰よりも知っているのは自分だと自負していた。
今の限界を超えるためには更なる修練を積み重ねて、僅かでも、着実に己を磨くしか無いと信じていた。
だが、ケイスによってその常識はあっさりと覆される。
サナが限界だと思っていた場所は、到底限界などと呼べる位置では無いという事実を。
ケイスが変えた槍の軌道は、ほんの少し、極々僅か。技を放ったサナの体躯には一切変化がない。
それなのに、それだけなのに、サナはある事さえ気づきも出来なかった、別世界の扉が、一気に無遠慮に、しかも幾枚も強制的に開いていく。
まざまざと見せつけられるのは技量……いや才能の差だ。
わずか10分ほどの手合わせで、化け物は、生まれたときから知る自分の肉体を、サナ以上に把握し、使ってみせる。
しかも魔術によって意識を乗っ取るのでもなく、逐一指示を出して体の使い方を教えるのでもなく、命の取り合いをしているはずの実戦の一瞬でまざまざと見せつけるという方法で。
自分の努力は無駄だったのか、無意味だったのかと、嘆く暇さえ、今のサナには与えられない。
ワイヤーを引き絞ったケイスが、その動きのまま身体を捻り体勢を変える。
急に鋭く早くなった穂先の速度差を利用し一瞬で攻撃をかろうじて躱し、追撃に移行しようとしているのか?
だがいくらサナの意図から外れ槍が早くなろうとも、その軌道までは大きな変化はしていない。
槍を舐めるように躱そうとするならば、そのまま横になぎ払い、柄で絡め取り、思い切り地面に叩きつければいい。
反射的にサナが持ち手に力をいれようとした瞬間、それを見越していたのか、ケイスの全身から力が抜け、さらにはつい今し方まで全身を撃ち貫かれると錯覚するほどの暴虐的で原始的だった殺気が霧散する。
力が抜けたことで動きが鈍ったのか、その脇腹を槍が掠めるが、傷を負ってもケイスは身じろぎさえしない。
あまりに唐突に切り変わった事でサナは困惑させられる。
生存本能は訴える。
殺気が消えようとも、ケイスはこちらに迫ってきている。対処しなければならないと。
だが別の本能が訴える。槍使いとしての本能が。
今自分は、自分でも認識できなかった世界へと、自分の限界だと思っていた物よりさらに先の領域へと片足を踏み入れている。
この槍を振り切れば、自分はその世界への行き方を完全に把握できる。今は適わずとも、一度見た道ならば、鍛錬を積み重ねれば、確実にいつでも自分の意図で到達できる。
そこはいわゆる天才の領域。凡人では見ることも適わず、ある事さえ認識できない別世界。
だが今偶然とはいえ足を踏み入れている。そこは既知の外では無い。既知の領域。今この機会を逃せば、二度と手に入らないかもしれない至宝。
せめぎ合う2つの本能。
意識することさえ出来ない刹那の刻に、無意識的にサナは選択をする。
二人が交差したその時、月明かりの元に、鮮血が飛び散った。