剣を振る。
ただ、ただ無心に剣を振る。
頂点まで昇った月明かりが薄明かりで照らし出す無人の野外鍛錬場で、ケイスはただひたすらに、左手の防御短剣、右手の長剣。双剣を振り続ける。
風を切る剣の音以外は、街の喧騒も遠く、ただ静かに、昼の暑さを残した風が吹いていく。
剣を振っている間だけは、どうにも出来ない息苦しさを忘れられる。
ケイスにとって、街は非日常の象徴。
命のやり取りになることはほとんどなく、思う様に剣を振るい、殺すことさえそうそう出来ない。
何故殺してはダメなのか?
なぜ自分以外の、他者の決めた決まり事が優先されなければならない?
物心ついたときより、他の命を奪い己の命を繋ぐ事を、常とする迷宮に捕らわれていたケイスにとって、大抵の人にとって当たり前の平穏な世界こそが、違和感の塊である非日常であり、命のやり取りが常となる迷宮世界こそが日常。
迷宮こそが、息苦しさもなく、ただ自然体に振る舞える世界。
街には信頼する友人達や、大恩ある恩人達や尊敬すべき師がいる。だから街が嫌いなわけではない。むしろ美味しい物も食べられ、身体をゆっくり休められるので、好きな部類だ。
それでも息苦しい。
思うままに剣を振るえず、抑圧され、ケイスには理解出来ない理論、理屈に制限され、鬱屈した感情が溜まっていく。
だから剣を振るう。
剣を振るうことこそが、ケイスにとっての日常の象徴。
振るった剣が宙を駈け、切り裂く物が無いことは、かなり不満だが、それでも息苦しさを少しだけだが忘れられる。
だがそれでも全部が解消されるわけではない。
だから強くなりたい。なによりも強くなりたい。この苦しさを無くすために。
どこにいようとも己の理が全てを支配するまでに強くなりたい。なれば良い。なるしかない。
ケイスは人と違う。他者を遙かにしのぐ天才性故か? それとも常人は理解も出来ない狂った思考故か?
当のケイス本人にも判らない。
判らないから、ただ剣を振る。
振るった剣こそが、自らの言葉であり、自らの意思、自らの姿、自ら。
不意に天上の月に雲がかかり、僅かに月明かりが切れる。
集中が一瞬揺らぎ、ケイスはふと気づく。こちらを観察する視線が頭上にある事に。
これが敵意を含むものであれば、剣に意識を向けていようが、すぐに気づいただろう。
しかし、ケイスに害をなそうという類いの物ではなく、かといってただの好奇心から来る物でも無い。
手を休め、息を整えたケイスは、空を見上げる。
雲が通り過ぎ、白色の月光がまた地上を照らし始める。その明かりの中、白い翼を広げ姿を隠すこと無く、こちらをじっと見下ろしてくるロウガ王女サナの姿があった。
サナの手には、槍士の槍であり、魔術師の杖でもある兵仗槍を握られていた。
「……初めて言葉を交わすがサナ殿だったな。何か私に用か?」
何か言ってくるかと思ったがサナが何も言わないので、ケイスから声をかける。
あくまでも言葉を交わすのが、初めてであるという前提の元に。
サナの眉がケイスの言葉に微かにだが、不満げにあがった。サナは翼に込めた浮遊の魔力を弱めたのか、音も無く地面まで降りてくると、ケイスと真正面から対峙する。
「私が尋ねたい事は、貴女が一番判っているのではありませんか? いくらとっさのことでも、対峙した者の顔と声を覚えていないとでも」
明確な敵意は無い。しかしその言葉には好意的な色も見えない。しらっと嘘をついたケイスが何を考えているの判らず、態度を決めかねているようだ。
しかし何を言われようとも、どう思われようとも、ケイスが返すべき言葉は、態度は1つだけだ。
「先ほども言ったが、私がサナ殿と声を交わすのはこれが初めてだ」
「……あくまでも惚けるつもりのようですね。ならば別の質問を致します。何故貴女が邑源流を名乗り、しかも私も知らない流派、そして技を使えるのですか」
すっと目を細めたサナが、ケイスをきつく睨み、兵仗槍を強く握る。
ケイスが真面目に答える気が無いとでも感じたのか、これ以上はぐらかすなと全身が強く訴えていた。
わざわざ武装し、いざとなれば力尽くでも聞き出してみせる。そんな強く明確な意思をケイスは感じ取る。
こういう判りやすいのは、自らの力に任せる猪武者振りは嫌いじゃ無い。むしろケイス的には好ましい。
「ん。先代の邑源宋雪とその配下の方々に偶然会ったので教わった。既に数百年前の混乱の中で亡くなった方々なので、ほとんどの流派や技が失伝していても当然であろう。特に一刀一槍流は先代邑源宋雪が作りだした流派だが、扱いずらくて他に担い手がいなかったそうだ」
だからケイスは真面目に答えた。バカ正直に、これ以上ないくらいシンプルな事実だけを。
元々使えた邑源一刀流の師は、祖母や母であるので、多少の嘘は混じっているが、今の所、人目につくところで、自分の名で使った邑源流は、曾祖父の一刀一槍流の技1つのみ。嘘は言っていなかった。
巷で流れていた噂。尊敬する祖父に対する下劣で根拠の無い風説。
ケイスと呼ばれる娘は、祖父ソウセツ・オウゲンの隠し子、もしくはその血筋である。
だからケイスは、ソウセツを憎み、敵意を向けている。
だからケイスは、それを哀れんだフォールセンに匿われ、育てられていた。
その血筋故に邑源流を使えた。邑源を名乗る流派を自ら編み出した。
色々な想像をした末に、サナとしては相当な覚悟を決めて問いかけた質問に対し、当の本人があっけらかんと返してきた答えは、予想外な、そして馬鹿馬鹿し過ぎるほどの戯れ言だった。
「…………はあっ!?……な! なにを言っていますかっ!?」
「何をと問われても伝えたままだが。せっかく長きに渡り受け継がれ、研鑽されてきた武技、闘技、魔術の一大系譜。それがあのような形で途切れるのは、大いなる損失であろう。故に私が継承させていただいただけだぞ」
予想外の答えを平然と続けるケイスは、困惑し、言葉を失うサナに対して、何故不思議に思うと言わんばかりに、きょとんと小首をかしげる。
自分の答えに何が問題がある、どこに戸惑うことがあると、言わんばかりに胸を張る。
「もっとも私は魔力変換障害体質で魔術は使えんから魔術体系は、そのうちに暇でも出来たら書物に起こしてフォールセン殿に預ける予定だ。闘気を用いる技も、今は怪我で闘気を練れないから、宝の持ち腐れで申し訳なくはあるがな」
何を、何を言っている?
言葉は耳に入るが、サナの頭では理解出来ない答えが、ただ流されていく。
魔力変換障害で魔術は使えない。それはそうだ。魔術とは生命力を魔力に変換して初めて使用可能となる術技。魔力が使えなければ使えないのは道理だ。
闘気も同様だ。闘気は肉体を強化する力の源。肉体を強化できるからこそ、常人を遙かにしのぎ、魔物と渡り合える肉体能力を得ることが出来る。
サナが初めて見たケイスとは、前期の出陣式に乱入してきた襲撃者は、祖父のソウセツさえ退けるほどの力を持っていた。
怪我で弱体化しているというなら、今のケイスがあれに比べて弱くなっているというのも一応の理屈は通る。
しかしだ。しかし。それにしてもだ、ケイスは常識外の力を持つ。今日の昼間だってあれだけの数の千切り虫を相手でも、圧倒的な剣技で切り裂いて見せていた。
魔力も無く、闘気も無く、素の肉体の力であれをやって見せてのけたというつもりか?
続けるべき言葉を失ったサナに対して、一の問いかけで、無数の困惑を返した化け物が、極上の惚れ惚れする笑顔をなぜか浮かべた。
だがその醸し出す気配は、実に物騒で、物々しい。
先ほどまで剣を振り続けて乱れていた息が整う。全身から流れていた汗がピタリと止まる。
頬が赤く染まる。目に力が入る。全身にゆっくりと力がみなぎっていく。
「もっとも口で伝えても、私の話は信じにくいであろうな。だから私は、剣で語ろう。それにサナ殿もそのつもりであったのだろう」
左手の短剣を腰の鞘に治めたケイスが、長剣の握りを確認し、その重さを一度確かめる為か軽く振る。
背筋に氷柱が押し込められたような寒気が奔る。
じっとサナを見据えるケイスとの距離は5ケーラは離れているのに、肌と肌がふれあうほどの近距離にケイスがいるような錯覚を覚えた。
ようやくサナは気づく。自分が化け物のテリトリーに足を踏み入れていたことに。
とっさに後ろに跳び退り、全身に闘気による強化を施し、背中の羽根に魔力を込めて、兵仗槍を構えた臨戦態勢に……手合わせでは無く、本気の戦闘態勢でサナは構える。
我知らずにケイスによって構えさせられる。
「うむ。闘気も魔力も使うか。良いなサナ殿。天才たる私を相手にするには当然の選択だ。だから私も本気で行かせてもらうぞ…………帝御前我御剣也」
幻想的な月明かり。その神々しい月光さえも霞む、お伽噺から出て来た妖精のような微笑みを見せる美少女の口から古語が紡ぎ出される。
「お、お爺様のっく!」
驚きで一瞬反応が遅れる。その一瞬。刹那の逡巡。それだけの僅かな隙で、サナは一気に近づいてきたケイスに近距離に押し込まれていた。
サナの祖父。ソウセツ・オウゲンが負けられない戦いで口にする誓いと一文字一句の違えない言葉に驚きや戸惑いも覚える余裕も無く、サナは生まれて初めて、本気の殺気の洗礼を浴びていた。