轟々と鳴り響く風の音。
夜空をぶ厚く覆う黒雲からはまるで礫のように大粒の雨粒が降り注ぎ地上を激しく叩く。
天を切り裂く幾筋もの雷光と鳴り止まぬ雷鳴は、まるでこの世の終焉がすぐ其処まで迫っているかのようだ。
冬の終わり。
春の到来を告げる春嵐は、毎年同じ日に大陸の南方海で発生し、大陸各地に大雨と洪水をもたらしながら、3週間かけて徐々に北上していく。
小国なら丸々一つを覆ってしまうほどの大嵐は、やがて海から遠く離れた大陸中央部の険しい山岳地帯へと至り忽然と消滅する。
通常の嵐では有り得ない動きと規模。
これは嵐が消滅する山岳地帯に原因があると、歴史学者達の間ではまことしやかに囁かれる。
その地には遙か過去に大陸に君臨した龍王が居を構えていた迷宮があり、主が滅んだ今も生き続けている魔法陣によって大嵐が発生し引き寄せられているからだと。
二千年以上も定期的に続く大嵐の真相を究明しようと現地調査の申請をする者の後は断たない。
だが極一部の例外を除き山岳地域への立ち入りが許可されたことはない。
龍の秘術が解析され拡散する可能性や、調査によって予期せぬ事態が起きる懸念がされた事情もあるが、一番の理由は別にある。
それは彼の地が聖地であるからだ。
聖地と定めしは、迷宮を征し龍王を討ち滅ぼし勇者によって建国されし王国。
後に王国は南方大陸統一を成し遂げ統一帝国としてさらに勇名を馳せることになる。
討ち滅ぼし龍王の名を受け継ぎ『ルクセライゼン帝国』の聖地である古代迷宮は『龍冠』と呼ばれ、国母たる代々の皇太后が守として余生を過ごす離宮が迷宮への入り口を塞ぐように建てられていた。
春嵐がもたらす激しい雷雨はただでさえ見通しの悪い夜の森をさらに暗く彩る。
降りそそぐ雨が視界を塞ぎ、針葉樹林で構成された森を縦横に走る遊歩道は、長雨の影響で所々が冠水して、まるで川のように水が流れている。
嵐に晒される森。
その森に張り巡らされた遊歩道を、水に沈んだ根や段差をカンテラや魔術の灯りに照らし出し、何とか避けながら懸命に走る幾人もの騎士達がいる。
騎士達がいるこの森の中心部にルクセライゼンの聖地である古代迷宮『龍冠』が存在する。
龍達の長。龍王がかつて居を構えていたという伝説が残る【龍冠】は、人里から遠く離れた山岳地帯にある。
夏でも山頂付近に真白い雪が残る高い山脈に周囲を取り囲まれ、その姿がまるで王冠のように見えることから、龍王の王冠『龍冠』と古来より謳われていた。
山裾の隙間を縫うように流れる谷沿いに狭い道が一本あり、そこを通り山脈を抜けると巨大な盆地へ出る。
盆地の南側には古代樹が群生する森林、北半分には周囲の山々からの雪解け水で作られる冷たく透き通った湖。
湖の中央には湖水から垂直に伸びる断崖絶壁の高い崖で周囲から孤立した島が一つ。
島の天頂には針葉樹林の森が広がり、中央部には古めかしく荘厳な空気を醸し出す石造りの宮殿と広大な温室庭園が存在する。
この宮殿の直下に、龍冠の本体ともいうべき迷宮への入り口があった。
生物の侵入を拒む高い山脈と湖中央の切り立った断崖絶壁の島に存在する『龍冠』。
険しい山々を越えるのは夏期でも非常に困難であり、雪が根深く残る春を迎えたばかりのこの時期には不可能といっても過言ではない。
地上からの唯一安全なルートは、湖から海へと続く谷川沿いの狭い道しかない。
だが谷沿いには厳重な警戒網を誇る砦が幾つも設置され、人と物の出入りは厳しく検査されている。
もう一つルートもある事はあるが、それは飛竜などの騎乗生物を使う空からの山脈越えとなる。
だがこちらも常に監視がされており、しかも今は威力が強く巨大な春嵐の発生期。空路の山脈超えなど無謀の極み。
外部からの進入は事実上は不可能であるはずだ。
しかし今宵は違った。
地下倉庫に設置された探知結界が警報を奏でたのは、今より一時間ほど前。
警報直後に倉庫から走り去った茶色い外套の不審人物を追いかけ、騎士達は嵐の森の中へと踏みいる羽目になっていた。
『反応を拾った! また森の中を移動してやがる!』
『無茶苦茶だ! なんて野郎だ!』
『場所は!』
騎士達の襟元につけた魔術具より侵入者発見を伝える声が響く。
次いで舌打ちと苛立ちを抑えきれない忌々しげな声や、苦しげな呻き声がいくつも聞こえてくる。
遊歩道を走るのがやっとな騎士達を、まるであざ笑うかのように森の中を軽々と移動する侵入者に何度も囲みを突破され騎士達の苛立ちは募っていた。
『25番を南方向に抜けていった! 回り込める奴は回り込め! 何とか足を止めろ!』
指示の声に森に散らばっていた騎士達が一斉に動き出す。
近くの者は侵入者の進行方向を先んじて抑える為に直接的に回り込み、離れた場所にいた者は囲みを突破された場合に備え外側に回り込んでいく。
しかし騎士達の数は二十人にも満たず、いくら相手が一人といえど移動速度が段違いでは捕らえるのは至難であった。
現状は南側にある下の湖に通じる唯一の階段回廊は別働隊が封鎖し、残りの者達が北側にある離宮へと再度近づけぬように囲みを徐々に狭めながら退路を塞いでいくのがやっとだった。
『23分岐! 姿は見えない!』
『こちらは27分岐! 同じく確認できない! 22分岐の方か?! 気をつけろ! 相当速いぞ!』
近くを通ると予測される分かれ道に着いた騎士が次々に発見できずと報告をあげていく。
直線的に森を抜けてくる侵入者に対して遊歩道沿いの回り道しかできない騎士達では、一度侵入者を見失うと再発見は容易なことではなかった。
「22分岐についた。了解」
22番分岐路へと走り込んだ騎士は同僚の忠告に小声で答えながら、敵からの目印となるカンテラの火を消して近くの木の陰に身を隠して周囲を探る。
走り通しで荒れる息を整えつつ細身の長剣を引き抜く。
「ちっ……やりづらい」
雨で滑らぬように柄に巻いた荒縄の感触に違和感を覚えた騎士は舌を打つ。
強い風と雨を伴う嵐に森の樹が盛んにざわめき、音がかき消され気配が探りにくい事も苛立ちの要因だろう
「太后様がお留守のこの時期にか……」
この時期に現れた侵入者の狙いを推測し、それを口に出すことさえ躊躇した騎士は、緊張を押し殺そうとゴクリと息をのむ。
離宮の主である皇太后がここより遙か南方にある帝都にて執り行われる春迎の祭典に出席する為に、例年この時期は離宮から離れていることは周知の事実。
龍冠が存在する山脈への無断侵入は未遂であっても大罪。
ましてや離宮にまで辿り着いたのであれば、背後関係を徹底的に調べるために拷問。その上での死罪は確実。場合によっては反逆罪で一族郎党にまでその責は及ぶ。
其処までの危険を冒して主不在の離宮へと侵入する理由として、予想できる物はいくつか騎士にも思いあたる。
龍冠はその成り立ちから曰くのある場所で、帝国が抱える幾つもの機密情報が眠っていると民の間でも噂され、実際にそれは真実である。
騎士の心に浮かんだのは、その中でも、もっとも隠し通すべき秘匿存在であった。
下手にその存在が明るみに出れば、帝国の崩壊と終わりの見えない戦乱を招きかねないほどの危険を含むモノ。
四年も侍女として潜伏していた間者によって、その秘密が暴かれかけたのは僅か半年前。
その時は一人の犠牲と情報操作により秘密は辛うじて守る事ができたが、身辺調査と選別が厳重に行われていた離宮の侍女に間者が潜伏していた事実は、現皇帝とその側近達に衝撃を与えることになる。
皇太后を狙った暗殺未遂事件として処理しつつ、情報拡散を防ぐ為に元々少なかった離宮詰めの騎士と従者にさらに徹底した身上調査と思考調査が行われた。
これによって騎士と従者はより厳選された極少数となり、調査によって僅かでも不安要素がある者は任を外され、秘匿存在に関する記憶封印がされ別地へと異動させられた。
結果離宮の守りは薄くなったが、代わりに山脈外周部及び回廊である谷には兵力が倍増され、さらに新たな砦が幾つも設けられて守りをより強固な物へと変貌させている。
ネズミの一匹たりとも見過ごさないと言っても大袈裟ではない警戒網。それをすり抜けてきたとは考えにくい。ならば……
「まさか他にも内通者が?」
一瞬浮かんだ猜疑の念を即座に首を振って否定する。
今の同僚や従者達は数こそは少ないが、誰もが信頼できる家族のような者達ばかり。
裏切り者など居るはずが無い。
騎士は剣をしっかりと握り直して周囲の気配を探り続ける。
だが風雨の影響もあって侵入者の姿は見えず気配も感じ取ることは出来ない。
この嵐は侵入者にとっては心強い味方。騎士にとっては最悪の障害となっていた。
「……」
このままでみすみす見逃すと判断した騎士は、口笛のような音を一つ鳴らして高圧縮した詠唱を唱える。
詠唱によって発動した術は生体感知。
有効範囲はさほど広くはないが、魔術師が偵察用使い魔として使う小鳥程度の大きさの生命体も感知できる術になる。
騎士の視界で周囲の木々がうっすらと光って輪郭を描き出し、幾つもの光点があちらこちらに浮かんでくる。
木の洞や太い枝の根元辺りに浮かぶ光点。それらには動く様子も見えない。おそらく森に住み着いている小動物が嵐が去るのを耐え忍んでいるのだろうだろう。
しかし暗闇の森の中に一つだけ別の動きをする反応があった。
騎士が思わず驚くほどの速さで森の中を動く生命反応。
その主はでこぼこした地面を避けて、木の枝や幹を次々に蹴りつけながら宙を跳び、騎士の隠れる方向へと段々と近付いてきていた。
距離はそれほど遠くはない。このまま真っ直ぐ進めば数十秒後には騎士が隠れている樹の近くを通り抜けていく。おそらくこれが侵入者であろう。
迷い無く真っ直ぐ進む侵入者の足取りに、隠れているこちらの存在には気づいていないと騎士は判断する。
「発見した。仕掛ける」
即断した騎士は小さな声で味方に伝えると、周囲を探る魔力の流れから存在気取られぬようにと探知術を切ると、浅く深く息を吸ってピタと止めて、左足を半歩前に踏み出し半身体勢となる。
天を駆ける稲光に刀身が反射しないように侵入者が来る方向に対して己の身体に巻きつけるような右下段の腰構えで剣を隠し、左手は柄頭の近くを順手に握り、開いた右掌を鍔近くに押し当てる。
踏み込みと共に身体全体のひねりを解放し同時に右手を突き出す事で電光石火の一撃となす、初手を重視した独特の構え。
多数の追っ手に対して逃亡を図る侵入者が足を止めて戦闘をするとは考えにくい。
こちらに気づけばすぐに侵入者は逃亡を再開するだろう。
当たろうとも外そうとも次手を繰り出す余裕はない。
情報を引き出すためにも生きたまま捕らえ無ければいけない。
木を跳ぶ相手との位置関係と逃亡を防ぐためにも狙うべきは足。
足を殺して機動力を削ぐ。
情報と状況を整理し予測から目標を定めた騎士は息を押し殺し、最適のタイミングを伺う。
天を引き裂く雷光と雷鳴。
轟々と唸る風。
枝葉をかき鳴らしざわめく木々。
気を抜けば足を掬う勢いで流れていく水。
ザッ! ザッ! ザッ!
自然の猛威が不規則な音を奏でる中に微かな足音を騎士の耳が捕らえる。
計ったかのように一定のタイミングで鳴る足音。
隠れていた木の陰から騎士はそっと顔を出し侵入者を目視しようとした丁度その時、雷光が煌めき、黒い影だった侵入者の姿が一瞬だけ明々と照らし出される。
姿があらわとなったのは僅かな瞬間だが、広い国中から選抜された高い実力を持つ騎士にとってそれだけあれば十分だ。
侵入者の体格、武装、身のこなしを確かめた騎士は内心で僅かに驚く。
樹を次々に飛び移るという情報から身のこなしが軽いとは思っていたが、侵入者は騎士が想像していた以上に小柄だ。人間種の子供ほどの大きさしかなかい。
赤茶色の外套を纏い、フードを目深に被ったその顔を窺い知ることは出来ない。
騎士から見て反対側の右肩には、布でくるまれた持ち主の倍ほどの長さの棒のような物を担いでいる。
長柄の先は大きく膨らんでいる。槍の類だろうか。
小柄で森の中を自由自在に動き回れる長柄使い。
人の子ほどの背丈と聞いてまず思いつくのは精霊種の一部だが、代表的な者に限ってもハーフリングやハイゴブリン等が幾つもあげられる。
これに魔族や獣人など他系種の者達も含めればその候補は数百にも及ぶだろう。
見た目だけで相手の正体を絞り込むことなど出来ない。
背後関係を探るためにも是が非にでも捕らえなければならないが、侵入者の動きを実際に目の当たりにして、相手が高い技量を持つことを確信した騎士の鼓動は緊張で僅かに速くなる。
この森は全ての木を一定間隔に植え整備して作った森ではなく、元々あった森に少しばかり手を加えたに過ぎない。
法則性もなく乱雑に生える木々を速度を落とさずに、次々に一定のリズムで跳び移るには、先の足場を見極め続ける事が出来る頭脳と、思い描いたとおりに瞬時に身体を動かす高い身体能力が必要となる。
侵入者の技量はおそらくは自らよりも上。
そんな相手が逃亡中だというのに隠れている追っ手の騎士を見落とすだろうか?
ひょっとしたこちらの存在に気づいていないと、思わせているだけではないのか。
不意に弱気な考えが騎士の心に浮かび上がる。
しかし迷いは剣を鈍らせる。
騎士は不安を無視してぐっと足に力を込める。
騎士の間合いまで敵は後二歩まで迫っていた。
ザッ!
柄の握りを強め身体を僅かに前方へと倒す。後一歩。
ザッ!
枝を蹴りつける足音を意識が認識する前に、騎士は左足を滑るように水を切りながら踏みだし隠れていた木陰から飛び出す。
空中を跳ぶ黒い影が視界の真正面に一つ。
騎士に対して左側面を晒す侵入者が其処にいた。
宙を跳ぶ侵入者の体勢が僅かに乱れた。水を蹴った踏み込みの音でようやく隠れていた騎士の存在に気づいたようだ。
慌てて音が聞こえる方向に顔を向けながら、右肩に担いでいた長柄を僅かに持ち上げ迎撃の構えを取ろうしている。
察知能力と判断能力は騎士の予想以上に速い。
だが足場のない空中でもたついて、意識に身体がついていかないようだ。
大きな隙が出来た侵入者。手練の騎士がその隙を見逃すはずもない。
騎士は腰構えにしていた長剣を握る左手を一気に振り上げ、柄に当てた右手に捻りを加えながら強く打ち込む。
剣は一拍の間も置かずに最高速に達し、侵入者の左足首に食らいつこうと襲いかかった。
その時、騎士の背後の僅かに姿を見せた空でまたも天を切り裂き雷が一つ奔り、森の中を明々と染める。
刀身が雷光を受けて光輝いた。
文字通りの閃光の一撃となったその一振りは、騎士の非凡な才能と何千何万と振った型の上に身についた必殺の一撃。
だが刀身を輝かせた雷光は同時に、フードを被った侵入者の顔をも照らし出していた。
雷光を受けて形を現したのは、黒髪と黒目のまだ幼い少女の顔。
それは騎士のよく見知る者……この瞬間に絶対にこの場にいてはいけない者の顔だった。
自分が剣を振るったのが誰なのか瞬時に気づいた騎士は、とっさに狙いを逸らそうとする。しかし最速で振り出した剣は騎士の思うとおりにはならない。
非凡な才能を持つ騎士の腕を持ってしても、その速さを僅かに弛める程度のことしかできない。
騎士のとっさの動きも無駄となり少女の足首はばっさりと斬り飛ばされている…………はずである。
だがこの少女には騎士が作り出したその刹那の遅れで十分だった。
少女が長柄を持つ右手を下に振りながら掌の中で滑らして足下へと柄を伸ばす。
同時に伸びた柄を左足で絡め取って足首の後ろ側へと回した。
次の瞬間、金属同士がぶつかり合う高音が嵐の森に高らかに鳴り響く。
少女の足首を切断するはずだった刃を、長柄の柄がガッチリと受け止めていた。
布にくるまれていてその材質までは判らないが、少女は僅かに長柄を動かし力を分散させることで、必殺の一撃である騎士の剣を容易く受け止め、そして跳ね返してみせた。
しかし剣に乗っていた力まで相殺されるわけではない。
宙に浮かんだ状態で足下に強い一撃を受ければ、小柄な少女の身体では衝撃で弾き飛ばされるだろう。
しかしそうはならない。
剣と長柄がぶつかり合う衝突音が鳴るとほぼ同時に少女が足を上げ下半身を丸めながら、左手を後ろに振り上半身を反らして横向きの衝撃の力をその体捌きのみで円の力へと変えるという離れ業をやってのけていたからだ。
腕の立つ騎士の全速攻撃を受けたというのに、軽々と凌いで見せた少女は、まるで猫のように空中で一回転してスタッと地面に降り立った。
剣を放った体勢のまま凍りついていた騎士だったが、少女に怪我が無かったことにほっと胸をなで下ろしかけて、
「なんで貴女がここに!?」
すぐに今もっとも問題にするべき事があると気づく。
なぜここにこの少女がいるのか。しかもなぜ侵入者として追われていたのか?
「驚かすなっ!!!」
「おぶっ!」
問いただそうとした騎士に対して、少女がもたらしたのは不機嫌な怒鳴り声……そして先ほど剣を防いだ長柄であった。
溜めや構えを悟らせることなく不意に繰り出した少女の一撃。
油断していたために攻撃をまともに頭部に受けることになった騎士が見たのは布がほどけて顔を覗かした三つ叉にわかれる長柄の先端と、周囲に飛び散る妙に白い破片だった。
「し、燭台!?」
少女がもつのは武器ですら無く離宮ではありふれた燭台だった。
まさかそんな物で自分の一撃が防がれたとは。
驚愕する騎士の意識は急速に遠のいていた。