「いやーマジで何でこんなトコにいるか知らないけどさ、ちょうど良かった」 扉が閉まって開口一番、鼻に痛々しいガーゼをつけた不良が話し出す。確か柚に鼻を折られたヤツだ。険しい表情なのは、疼痛と怒りからくるものか。威圧感に負けて後退ると、両脇を残りの二人がおさえこんだ。すぐ後ろはもう壁だ。 音楽準備室と言われるだけあって、教室の半分程度の大きさしかない。壁中に何かのロゴや落書きがところ狭しと乱雑に並び、本棚の一つもない。しかも埃臭い。そのくせ、端っこに置かれているピアノは綺麗に黒光りしていて、良く手入れがされているようだった。「痛かったぜぇ、これ、マジ折れてんだもん。今も痛み止め飲んでねぇとヤバいし」「キミがさっさと出してくれてたらこんな事にはならなかったんだぜ?」「だからさぁ」 内容はもちろん、口調も藤野を煽る調子だ。藤野は不快感を隠せず眉をひそめた。 情けない。何で俺が金出さなかったからアンタたちが怪我した事になってんだ。どこまで勝手なんだよ。しかも俺に絡んできてるのって柚には勝てないからだろ? 俺なら勝てるって思ってるからだろ? 事実その通りである。藤野は格闘技をやっている訳でもなければ、特別体を鍛えている訳でもない。不良から見たら恰好のマトだ。「とりあえず10万。親の財布から盗んででも持ってこいよ」「拒否権とかなしな? はいって言うまで殴り続けてやるからさ」「さぁどうすんの?」 三人が囲む輪が縮まる。怒りと恐怖がせめぎ合い、恐怖がやはり勝る。後ろに下がり、とうとう壁に背中をぶつけた。「黙ってたらわかんねぇじゃん。答えろよ!」 がなりと同時に蹴りが一発。左腿に走る痛みに、藤野は歯を食いしばった。「何やってんの」 声は不良の後ろ、それも扉が開いた音とほとんど同時だった。 あれ、なんかとってもデジャブ。 声を聞いた瞬間、不良三人組が露骨にびくついた。顔に浮かぶのは、恐怖。なんだ、こいつらが声を聞くだけでビビるって何。「こ、小早川クンじゃん」「確認はいらねーって。俺が聞いてんのは何やってんのって」 恐怖がへばりついた表情のまま、不良の一人がへらへらと笑う。藤野は竦んだ首を伸ばして向こうを伺うと、明らかに不機嫌と分かる小早川が立っていた。「何? カツアゲ?」と言いつつ教室にずかずかと入ってくる。 うわ。入ってきただけで逃げ腰になった。小早川ってナニモノ? そう言えば周辺の不良たちのカリスマで魔王ってあだ名がついてたなぁ、と前回の決議の時に見た資料を思い出す。なるほど、魔王と呼ばれるだけはあるらしい。「何でそんなの俺のエリアでやってんの?」「い、いや、それはさ」 しどろもどろになっている不良を、小早川は静かに見据える。切れるような視線だ。確かに怖い。「で、生徒会長。手に持ってんのは何?」「あ、ああ、これは音楽の先生に渡してって言われたヤツ」「何? わざわざそれを持って来にこんなトコまで?」「あ、後、今日の昼休みに決議があるからさ。えと、工学科って放送が今聞けないから、直接」「ふーん」 気のこもっていない返事だったが、小早川の不機嫌はさらに悪化した。切れるような視線に凄みが混じる。「で、お前ら、俺に用事あるヤツに手ぇ出そうとしてたんだ」 うわ。キツい。 今にも刺されそうな空気が流れた。不良たちはもうそれはそれは肉食動物の前に晒された小動物のように震えあがっている。「いい、いいいや、そんな事はしてないって。なぁ?」「う、え、おう」「お、俺たちこれから用事あるんだ。な、行こうぜ! じゃあまたね小早川クン」 何故姿勢を伸ばしてわざわざ演技臭い態度を取るんだろう。 冷静な突っ込みを内心で入れつつ、そそくさ、と言うよりほとんど逃げるようにして三人は教室を後にした。残ったのは小早川と藤野の二人だけ。「で、それ。ちょうだい」 大事に胸に抱え込んだ封筒を指差され、藤野はたどたどしい手つきで渡した。まずい重い空気のままだ。「ってかさ、それ何?」「楽譜」 端的に答え、小早川はピアノの前に座って封筒から取り出した楽譜を広げた。ぱっと見ただけでとんでもない数の音符が並んでいる。 静かに楽譜を見通した後、軽く準備運動させたピアノに――のった。そして、踊った。「これは……」 指が踊り、音が踊る。優雅と鮮烈と恐怖が入り混じった技術の結晶。左と右、どちらも留まる事を知らない。それだけ音に溢れているというのに、不協和音は聞かせない。むしろ、美しいと思わせる。 この曲を、藤野は知っていた。「パガニーニの主題と変奏第6番?」 正解だ。だが小早川に答える余裕はなかった。当たり前である。 彼の技術は悪魔に魂を売り渡して手に入れたものだ。と言わしめた天才ヴァイオリニスト、パガニーニの曲をピアノの芸術的練習曲として構想された曲である。その超絶技巧を必要とする事から、つい数年前まで「演奏不可能」とされていた曲の一つだ。 むしろ、それほどの曲を弾けている事自体が異常である。しかも高校生が。 流れるように美しい曲は7分近くあったが、音は華麗に貪欲に進み、気がつけば終わっていた。「ま、こんなもんか」 極度に集中していたせいか、小早川はうっすらと汗をかいていた。「す、スゴイ」「それはこっちのセリフだっての、良く知ってたな、この曲名」 小早川は汗を拭きながら言った。 パガニーニの名前自体、そもそも音楽をかじっている人間でなければ知らない。そんな彼の曲から生み出されたピアノ練習曲など、一般的に知名度は極めて低いと言わざるを得ない。「ああ、親が揃ってクラシック好きでさ、聞いた事もあるから」 実はクラシック好きが両親の馴れ初めのきっかけだったりするが、語る必要はない。「ふーん」「でもやっぱりスゴいよ。初めてみたもん。生でそれ弾いてる人」「何言ってんだ。ミスタッチも多かったし、音も崩れてた」 気のない返事に聞こえるが、満更でもないようだ。小早川は藤野から視線を外して答えている辺りがそれだ。 なんだ。不良の魔王って言われてるけど、俺たちとそんなに変わらないんだよね。当たり前だけど。 当たり前のことを今更ながらに気がついた藤野は、内心で小早川との位置関係を少し修正した。成り行きとはいえ、助けてもらった恩も加算されている。「いやいや、形になってるだけでスゴイと思うよ」「持ち上げすぎだっつの。っていうか、お前、こんな時間にここに来てんならメシ食ってないっしょ」 あ、話題変えた。結構強引に。 思いつつも、腹部を覆う空腹感を自覚させる程度には効果があった。藤野は小さく返事をして頷く。とっとと用事を済ませて購買へ行く予定だったのだ。カツアゲにあったり、ピアノを聞いたりして結構タイムをロスしている。「しかも今日決議あるんだろ? 俺もまだでさ。購買よって会議室に直行しね? パンとかなら入るだろうし」 小早川はケータイで時間を確認しつつ言った。確かに、今から動けばパンをかきこめるぐらいの猶予はある。「そうだね、賛成」「決まり。行こうぜ」 不良の魔王と草食系に見えがちな一般男子(でも生徒会長)の組み合わせは意外なものだったが、それほど注目を浴びる事もなく、菓子パン類を仕入れて二人は会議室へ入った。 結局のところ、パンとジュースを詰め込んだ所で瀬川と柚が会議室へ現れ、雑談もそこそこに決議が始まった。 前回同様、この三人が揃うと空気がギスギスするものの、藤野の心境は違った。「で、決議再開って事は、まさか予算取れたの?」「いや無理だった」「何よー」 キラキラと目を輝かせた柚に、藤野は即答で切り捨てた。とたん、柚が不満顔に染まる。喜怒哀楽が激しいというよりかは表情豊かと言うべきか。くそ。カワイイ。「じゃあどうするのだ? 前と同じみたいに予算奪い合いするのか?」 デフォルトと勝手に認識したふてぶてしい物言いは瀬川だ。早くも臨戦態勢が伺えるのは、自分はしっかりと予算削減について考えてきたという自信があるからだろう。小早川は口からでまかせの発言だったはずだし、柚だって予算削減を十分に考えてきている訳ではないだろうから、強烈な武器にはなる。 そこまで深読みしての行動なら黒いけど、たぶん違うんだろうなぁ。 冷静に分析しつつも、空気が張り詰めていくのを藤野は感じた。早くも三人が空中で火花を散らせている。「血気盛んなのは良いと思うんだけど、話し合いだからね。ケンカになりそうだったら即座に黒板ひっかくからね」 念押しをしてから、校長から呼び出しを食らったあの日に伝えられたことをおこした紙を改めて見る。あえて三人には渡していない。「まず、何で今年の予算が削られたのか、だけど」 これは凶悪な威力を持った鎮静剤であり、劇薬だ。だからこそ、予算の奪い合いという不毛な争いはなくなるはずだ。「去年の予想外の出費が今年の予算に響いているみたい。去年の部費とかの予算に手をつけなかったから、繰り越しはあったけど、結構ひどいよ。よく手をつけなかったな、ってくらい。例えば、夏休み期間中、何故か異常なまでに電気代が増えたとか」「異常?」「うん。ちょっとこれはって言いたくなるくらいの金額」 ここで僅かな動揺を見せたのは瀬川だった。やはり。口にはしなかったが、校長からは誰が犯人なのか、ある程度の示唆は受けている。その程度とは、藤野でも簡単に断定できるレベルだ。 僅かな変化を見逃さなかったのは小早川だった。「へぇ、何でなんだろうな。で、何でお前がちょっとキョドってんの?」「キョドってなど」「あ、そういや、アンタ去年夏休み中ずーっと学校通ってたわよね。勉強かと思ってたけど」 追い打ちは柚からやってきた。ほほう、と何かを察したかのように小早川はふてぶてしい態度のまま顎を指でさする。「そーいや、去年はお前スパコン研究とかしてたよな。もしかして、実験のせいか? 異常な電気代って」「例えば、スパコンの性能を引き出した状態での一か月の消費電力、とか」 補足は藤野が入れた。瀬川は完全に旗色悪しと唸り、縮こまった。図星らしい。こうなると瀬川がマトになるのだが、そうは問屋が卸さない。小早川と柚の攻撃が始まる前に藤野は次へ移る。「次に、教室ってか、校舎中のホウキやらモップやらが纏めて真っ二つになってたり、校庭の土がすごく掘り返されていたりと破壊活動が認められ、しばらく警備員を強化したりして人件費がかかったり」 この発言にぎくりとしたのは柚である。一番最初に追いつめられた瀬川は何も言わなかったが、余裕のある小早川が早速刃を向ける。「へー。スゲェ。軽く犯罪じゃん。何? 格闘技の練習とか?」「ちょっとテレビ見て興味出たからやってみただけよっ」 あ、自爆した。 そんな一面だったり、顔を赤らめている辺りもまた、とモードに入りかけるのを何とか藤野は制御する。「まだあるよー。教職員室が色とりどりのペンキに染まってたり、校長室が墨汁で真っ黒になってたり」「ああ、それ?」 とあっさりと小早川は認める方向で口を開いた。ちょっと意外である。悪びれる様子がない辺りはらしいが。「アンドリューのバカがウチの学校のセキュリティは万全だ! とかほざくからやったんだよ。簡単に侵入できてさ、色んな色のペンキをバラまいてさ。墨汁も面白かったな」 アンドリューと言うのは体育教師だ。藤野でも当然のように知っている、生徒間ではかなり有名な教師だ。かなり濃いキャラの上に生徒指導主任なので、特に小早川とは絡む事が多いのだろう。 いろいろ思う所もあるが、ペンキとは中々えげつない。そして、この事件も警備員を増強させる一因を担っているだろう。「結局、どの事件も犯人が特定できた訳じゃないから、全額学校側が泣く泣く負担したから、今年の予算を削らざるを得なかったみたい」 最も、校長辺りは独自のナニかを使って犯人を特定していそうだが。「あれ? じゃあ今年の予算削られたのって、あたし達のせい?」「うん。全員、連帯責任ってやつ?」「ぬう。ではこの予算で何とかしなければならないのか」「奪い合いはナシね。だって皆悪いんだから、痛み分け痛み分け」「だからって部費はこれ以上削れねーんだって。無理だろこんなの」 やはり各科の代表だけあって譲れないラインを割っている事は大きいようだ。「でもそうなるとさ、削るとしたら学園祭の方になるよ」 予算は学園祭運営の方も含まれている。結論、ここを削るしかなくなるのだ。部費を選ぶか、学園祭を選ぶか。苦渋の決断だ。 分かり切っていた道筋に、しかし三人は黙り込んでしまう。学園祭は学園祭で盛り上げたい思いがあるためだ。 前回よりも遥かに長机に優しい決議にはなったが、話し合いは平行線である。どこかで折り合いをつけなければならない。藤野はちらりと時計に目を配った。後五分程度しか残されていない。 さて、どうしたものかな。 このまま決まる気配はない。決議が次回に持ち越されるのであれば、日程を調整し、今度は会議室を抑えるために申請書を書かなければならないなどと、少し面倒な作業が加わる。何より、時間がもうほとんどない。 予算は確か生徒総会までに決定しておかなきゃならないんだよね。 その生徒総会は再来週に控えている。 何か乾坤一擲の策はないものか。思っていると、その策はとんでもない方向からやってきた。