結局、学校に着くまでの時間は早かった。いろいろと専門的知識が雪崩のように入ってきたけれど、頭が理解できなかったので精神的疲弊は少なかった。ほとんど一方的に聞いているだけでいいというのも大きい。 裏口の方の校門へ回ると、メンバーらしき人物が台車と共に待っていた。精密機械の上に重い荷物だけあって、ダンボールは二人がかりで下ろした。自転車置き場は正門からの方が近いので、藤野はそこで瀬川と別れた。 休日とはいえ、体育系の部活は活発だ。どこの部活かは分からないが、集団でランニングしている生徒の横を通り抜けて藤野は所定の位置に自転車を置いた。 さて、校長室かぁ。気が重いなぁ。 とはいえ、尻ごみしてもたもたしている余裕はない。時間に間に合わなければとんでもない事になる。 きっかり五分前に校長室へ辿り着いてノックすると、あの日と同じような調子の声で入るように促された。まるで過去にタイムスリップしたような感覚になりながら部屋へ入ると、やはりあの日と同じように校長が机にいた。「生徒会顧問から報告を受けました。と言えば、用件は分かるね?」 いきなりなんですかそのプレッシャーは。 人のよさそうな笑顔の裏に見える赤黒い修羅が怖い。この前囲んできた不良の三人より遥かに怖い。戦々恐々としていると、校長は全く変わらない笑みに歪んだ表情のまま続ける。「確かに僕は決議を取りなさいと言ったね。で、取ってきた決議がこれとは、いやあ。実に高校生だね」 予算増額の申請でまとまった事に対してだろう。 初々しく、中学生より大人で、でも大人より子供で。ただ甘酸っぱく、真っ直ぐでいられるだけの中学生の青春ではない、ほろ苦さも混じった青春。だからこそ違う意味で過ちを犯す。「分かっているだろうけど、一応大人の回答をしておこうか」 怒っているけれど、怒っている訳ではない。藤野は初めて違和感を覚えた。「学校は部活と学園祭のためだけに存在しているのではないよ。お金にしても、校舎の維持、施設の維持、教員の給与、物品、教育素材。光熱費などのライフライン維持ももちろん、様々な所で出費がある。その上で学校側にも使えるお金に限りがある」 当然だよね、といった含みを持たせて語りだすので、前置きなのだろう。藤野は相槌代わりに頷くだけにした。「その中で、今年の部活動や各科での学園祭で割り振られた予算額がそれだよ。単純に考えた訳ではなく、十二分に吟味した上で」 つまるところ。校長は人差し指を立てて語る。「前にも言ったと思うけれど、ウチにお金の余裕はない。それ以前に、お金は有限で、無限ではないんだ。応急処置的に他の予算から持ってくるという手もなくはないけど、そんな事までして予算を増やす気にはなれない。つまり、今回の予算は絶対条件と言っていい」 そこを理解できずに予算増額申請に至ったのは考えが足りないと言わざるを得ない。藤野は最初から言い訳の許されない状況に立たされてしまった。実にもっともなオトナの回答である。 ここでごめんなさいって言って引きさがっても、待っているのは決まらない決議だ。「よって、その予算増額の申請は、学校側としては受付できないんだ」「分かります。でも、何とかなりませんか?」 結論を待ってから、藤野は食らいついた。違和感が確かならば、校長は藤野に対して怒っている訳ではない。なら、せめてもの抵抗は許されるはずだ。脅迫されたら引き下がればいい。 校長は半分予想していたのか、表情をほとんど変えずに藤野の言い分を聞く姿勢に入った。ちょっと威圧感が増したけど。「今年の予算額がすごく少ないんです。去年と比べても、すごく。これじゃあ揉めても仕方がないし、予算を増やしてって声も出て当然だと思うんです。だから、何とかなりませんか?」「結論は変わらないよ」 さらりと校長は口を滑り込ませる。「予算が減額されたのは、それなりに理由があるんだ。去年より少ないからって予算を増やせというのは子供の理屈でしかないよ」「理由?」「単純だよ。去年に予想外の出費を受けたから、今年の予算を抑えざるを得なくなった。それだけなんだよねぇ」「予想外の出費?」 藤野は一瞬噛みつく要素を見つけたと思った。もしこれがオトナの事情での出費であるならば、生徒には関係がない、だから予算をせめて前年度と同じにしろなどと主張ができる。 しかしそう噛みつかれると校長も予想していたようだ。してやったりという笑みが見えた。「まぁ列挙していくとだね……」 週明けの月曜日。昼休みに決議を再開させるべく、藤野は朝の早いうちに委員長へ呼び出しをかけた。元々週明けの昼は決議の予備日として確保していた事もあり、集まりはスムーズのはずだった。「えぇっ!?」「ゴメンねぇ、すっかり忘れちゃっててさ」 衝撃的事実を聞かされたのはその日の4時限、選択科目の音楽が終わった頃だ。さぁこれからお昼だと思った時に、担当の教師から思い出したように打ち明けられたのである。小早川に今日の昼、決議があると知らせていないと。 収集を急遽決めたため、事前通達が出来なかった藤野は、1時限が終わった時点で放送部を通して全校放送で通達させたが、念を置いて小早川、瀬川、柚のそれぞれの担任に通達をお願いしていた。嫌な予感がしたからである。主に小早川に関して。 だから念には念を押したってのに。と苦ってもはじまらない。 藤野の予感は的中しており、出席簿によると小早川は2時限の途中から登校しているため、放送を聞いていない。他のクラスメイトが教えてくれていれば良いのだが、その確認も取れていない。つまり、小早川は何も知らない可能性があるのだ。「どうするんですか、もう昼ですよ!?」 苛立ちを隠すことなく藤野は責めたてる。しかし教師は特に反省する様子もなく、「それで悪いんだけど、先生これから出張なのね。だから直接伝えてくれないかな?」と言ってのけた。「そんなこと言われたって、小早川がどこにいるかなんて、分かりませんよ? 放送も流せないのに!」 不幸な事に、工学科の校舎のスピーカーは調子が悪いらしく使用ができなくなっていた。つまり、全校放送を行っても小早川が工学科の校舎にいる限り意味をなさない。「いや、この時間なら音楽準備室にいるわ。お昼は絶対そこにいるの」「音楽準備室って言われても知りませんよ場所なんて」 藤野は一般科だ。トモダチと呼べる知り合いもいない工学科の校舎による機会などまずなく、勝手など知る由もない。「ダーイジョブ、校舎入って左ドンツキだから」「いや、ってかそんなの言われても、俺だって昼飯食わなきゃならないし、準備もあるし、困ります」「ゴメンね、先生ホントにもう出なきゃいけないからさ、お願いっ。今度なんか先生おごるからさ」 と両手を合わせて拝まれる。こういう時の女性は強いもので、藤野は押しつけられる形で了承するしかなかった。「それでついでって言ったらなんだけど、これも届けてあげて」 渡されたのはA4サイズの茶色の封筒だった。本か何かだろうか。思っていると、「じゃあヨロシク~」と言い残して教師はさっさと教室を後にした。もう溜息しかもれない。とりあえず何かおごってもらう約束は取り付けたので良しとしよう。 ほとんど無理やり自分を納得させて、藤野はその足で工学科へ向かった。教室に帰ってから動くよりも、このまま工学科へ向かった方がタイムロスは少ないからだ。 届け物して決議があること伝えて、購買よってから会議室でメシ食うか。あ、そういや、工学科の校舎ってヘンな雰囲気って誰か言ってたな。ヤだなぁ。めんどくせぇ。 などと心の中で愚痴りながら一階へ降りて、工学科へつながる渡り廊下へ出た。「うわぁ」 思わず声を出してしまった自分を、しかし藤野は恥ずかしいと思わなかった。 ところどころ欠けてひび割れたコンクリートの地面。トタンの屋根は錆びていて、柱には傷がたくさん。渡り廊下の左右は中庭なのだろうが、手入れも何もされておらず、ただ雑草が生えるのみという荒れっぷりだ。「何コレ」 極めつけは天井に張られた墨痕鮮やかな横断幕だった。「絶対……不干渉領域?」 意味が分からない。何だかイヤな予感しかしないので、さっさと済ませようと足を進める。 どこぞの不良学園モノ映画に出てきそうな雰囲気の中、藤野は校舎へ入った。何か入って右から工学科二類(ヲタクの聖域)の勢力、左から工学科一類(不良の領域)互いに入るべからず。と校舎入口の中央に立つ柱にでかでかと書かれているが、とりあえず無視する。 ホントに変な雰囲気だな。 どうしても馴染めそうにない空気の中、藤野は左側、工学科一類の方へ足を向けた。「えっと、ここかな」 ドンツキまで来た所で、藤野は小さなプレートを見つけた。「音楽準備室」。ここだ。雰囲気からして今は何も使われていないただの空き室のようだ。鍵がかかっている事を懸念したが、あっさりと開いた。「あれぇ?」 油断していた、とは多少違う。前の方に意識を集中させ過ぎていたせいだ。後ろから肩を叩かれ、藤野は大きく体を震わせた。「なんでキミがここにいるのかなぁ?」 振り向くと、三人。全員に見覚えがあった。確か、カツアゲしようとしてきたが返り討ちにあった不良連中だ。 そう言えば工学科だって言ってたな、柚が。「ここに用事あるんだ? ちょうどいいじゃん、俺らも用事あるんだ、ちょっと一緒に入ろうぜ」 あ。危機再来。 顔をひきつらせながら藤野は顔を左右に振ったが、相手は全く見る気もない。挙句「そっかそっか、一緒に入ってくれるか」などと嘯きながら肩を掴む力が強くさせ、半ば強制的に教室の中へ連れ込む始末だ。 抵抗らしい抵抗も出来ず連れ込まれた藤野は、無情にも閉められる扉をただ見つめるしかなかった。