「あー、惚れた」 起きて開口一番、藤野はそうつぶやいた。 あの後帰宅した藤野は茫然自失だった。家に帰るなり玄関でつまずいて親に笑われ、食事中に米を口に入れようとした所で5分間程硬直して親に怪しまれ、トイレに一時間程こもって親に怒られ、風呂に入ってのぼせて親に心配され。何だか親不孝な夜を過ごしている間、ずっと頭の中は前田 柚の事でいっぱいだった。 予算増額の件も考えなきゃいけないのに、ダメだ。まずはアイツを考えてしまう。 趣味は何だろう、どんな食べ物が好きなんだろう、私服はどんなのを着てるんだろう、もっと笑った姿を見てみたい。などなど。生まれて16年の中で幾度目かの。高校生になってからは初めての恋といえた。「あー良かった。今日が休みで」 こんな調子では授業を受けても意味がない。生徒会活動にも当然身が入らないだろう。当然タソガレてしまう訳だから、クラスメイトからも怪しまれることこの上なしだ。平穏な高校生活を取り戻すために、クラス内での立ち位置はなるべく悪くしたくない。 今日は特に予定も入れていなかった。心ゆくまで物思いにふけっても良いのだろうが、それでは何かイケナイ気がするので、とりあえず気分転換として町へ行くことに決定する。 ケータイがメール着信を知らせたのはその時だった。送り主は昨日しっかりと登録しておいた校長からだった。【10時に出頭しなさい】 本文はなく、タイトルにだけそう書かれていた。 なんだろう。たった9文字なのに逆らうことがとっても許されない気がする。というかこっちの予定まるっきり無視ですよね。しかも本文が入ってないってことは用件は分かってるんだろうなって意味ですよね。そして出頭ってことはお怒りなんですね。 深い深い溜息がもれた。袖を通しかけていた私服を脱ぎ捨て、制服に着替えると、藤野は細々しくなった食欲で朝食のためにダイニングへ移動した。「なんだ、休みの日だというのに制服なんかきて」「あらあらホント。珍しいわね」 声をかけてきたのは両親だった。特に厳しい訳でもなく、甘い訳でもない両親は、これといった特徴はない。しかしその分家族の会話は成立しやすく、話しやすい雰囲気でもあるので家庭環境は良いと判断できる。 藤野はテーブルにつくと、出されていた食パンにバターを塗りながらどう言おうか悩んだ。校長に出頭しろと言われたからとバカ正直に答えては色んな意味でマズイことは分かっている。「うん、ちょっと学校に用事があるんだ」「学校に? 何かしでかしたのか?」「いや、そんな悪いことしてないよ。ちょっと生徒会の用事で行くだけだし」「生徒会?」 父親は訝しい表情で聞いてくる。あ、まずった。と思っても後の祭りである。聞き咎められた以上、答えなければならない。 いずれ言わなきゃいけないことだしね。ちょっと前倒しになったと思えばいいか。 やや楽観的に判断すると、藤野は正直に答えることにした。「うん。今度から生徒会長になるんだ」「ほほう。そうなのか」 沈黙。時間にすれば僅か数秒。しかし父親にとっては永遠に近い時間だったに違いない。「な、何ぃぃぃ――――――――――っ!?」 父親は叫んで大きく仰け反って椅子ごと後ろに倒れこみ、母親は絶句して手に持っていたお皿を落として割る。何このちょっとしたカタストロフ。 あまりと言えばあまりの反応に藤野はついていけず困っていると、父親は腰を押さえつつ何とか立ち上がった。その顔は驚愕に青ざめており、まさに信じられないといった様子である。「本当なのかそれ?」「うん。てかそんな嘘ついてどうすんのさ」「かかか母さんどうしようこの場合赤飯か? 寿司か? ステーキか焼き肉か? ああ、祝電打たなきゃいかんよな。あと、そうだお祝いの花も用意しなきゃ」「あら、あらあらあら。紅白饅頭とかも必要かしら。おめでたいんだから鯛の砂糖菓子とかカマボコとかかしら」 そこまでかそこまでの事なのか。それよりも何か色々間違ってるし。「まって二人ともおかしいから。赤飯とかどうでもいいし、まぁお寿司とか肉とかは嬉しいけど、祝電とか花とかはいらないでしょ。ってか今目の前にいるのに何で祝電なのさ。母さんも。紅白とか鯛とか結婚式じゃないんだから」「あ、ああそうか、そうだな、スマン。父さんとした事が取り乱してしまった」「あらあらあらお皿割っちゃってたわ、片付けなきゃ」 俺が生徒会長になるって聞いただけでそこまで取り乱しますか。一大事ですか。 激しく突っ込みたい衝動に駆られたが、どうせその通りだと言われるのがオチだろう。事実、今まで目立った何かをしてこなかったのだから仕方ないのかもしれない。オーバーリアクションは否めないが。 これ以上付き合っていたら時間に遅れる。そんな事になったらどうなるか分かったものではない。藤野は手早く朝食を済ませると玄関を後にした。家から学校まで、自転車でざっと15分といったところだ。 住宅街の路地を曲がると広い道路に出て、信号交差点がある所まで直進すれば地元商店街にぶつかる。地元とつくだけあって、八百屋、魚屋、肉屋、パン屋などをはじめとした食品関係から電気屋、本屋、中古からブランドまで幅広いアパレル、美容院、雑貨屋、薬局や診療所なども軒を連ね、果てはゲームセンターやちょっと怪しいPCショップまで取りそろえられている。 そんな商店街のメインストリートを直線に抜けて、踏切を渡ったすぐ左をずっと行けば藤野の通う学校だ。 颯爽と自転車を駆っていた藤野は慌てて急停止した。狭い路地からヨタヨタとした足取りで誰かが出てきたからだ。ブレーキの摩擦した金切り音が耳を貫く。「おっと、失礼」 大きな荷物を肩に担いでいたせいで顔が見えなかったが、どこかで聞いたことのある声だった。「なんだ、生徒会長か」「そういう君は瀬川君、だよね」 忘れられるはずもない、前髪で片目を隠したどこか東洋離れした顔。間違いなく瀬川 元就である。「よし。手伝え」「は?」「何を間抜けた声を発している。同じ学校で顔を互いに知っている間柄で、且つお前は生徒会長であろう」 えっと。要するに、困ってるから助けろと、そう言ってるわけですか? 何かと曲解を生みそうな物言いはさすが天上天下唯我独尊と称されるだけはあると言うことか。藤野は苦笑しながらも了承した。幸いにも藤野の自転車は後輪上部に荷台が取り付けられているタイプだ。紐さえあればくくりつけられる。 近くに雑貨屋があるから、そこで仕入れようかと思っていたら、瀬川は懐からビニールの紐を取り出した。「なんでそんなの持ってるの」「必需品だからだろう」 そ、そうですか。進学系の考えてるコトってわかんねぇ。「っていうかサ、これ何なの、めっちゃ、重いんだけどさ、よっと」 ちゃんと自転車を支えていなければ重さに負けて倒れてしまう程だ。さらにそれなりの大きさで、無地のダンボールに包まれている。いったい何が入っているのだろう。「組み立て式の自作用HDD一式だ。それとモニターやマザーボードなんかも入っている」「自作PCの部品の塊ってこと?」「平たく言えばそうなるな」「ふーん。ところで、これ、どこに運べばいいの? 学校いく用事あるからさ、そう遠くまで行けないんだけど」「その程度は見れば分かる。学校まで運んでくれればいい。メンバーが台車を手配してくれているから、後は構わん」 メンバー、というのは部活のメンバーの事だった。聞くと、ほとんどの進学科と僅かな一般科で構成された部員は全員徒歩か電車通勤らしい。台車は学校からの貸し出しだから、校外持ち出し禁止だ。そのため、瀬川が自分の足で買いに来るしかなかったのだろう。「ところで、分かっているな」「フツーは自転車の荷台に積んであげるんだから、そっちが運転手やるもんじゃないの?」「何をいう。自慢ではないが私の体力の無さにおいて右に出る者はそうそういないぞ」 ホントに自慢じゃないな、それ。 藤野は内心で突っ込みつつ、身構えた。荷台に荷物を背負った自転車が一台。人間が二人。そして二人とも迅速に学校まで辿り着かなければならないとなれば手段は一つ。法律上とってもよろしくないが二人乗りになる。それも一人はサドルに乗るため、もう一人は延々立ちこぎをしなければならない。苦行である。 かくして、ある意味公平ではないが、手段としては公平なじゃんけんで勝負する運びとなった。 負けられない。男の勝負だ。と言わんばかりの殺気を二人は放ちながら、ほとんど同時に動いた。「最初はグー!」「じゃんけん!」 なんか後から聞くと勝てるかどうかは分からないけれどまず負けない手法ってのがじゃんけんにはあるみたいです。卑怯ですね。 サドルに座って悠々としている瀬川の前で、藤野は必死に立ちこぎをしていた。重い荷物に加え、一人を余剰に乗せていては太ももにかかる負担は尋常ではない。何とか学校までは持つだろうが、もし坂道があれば途中で力尽きるだろう。「でも自作PCってスゴイね。性能とか、そんなにこだわりあるんだ?」 藤野の中で自作PCと言われたら、それはそれは素晴らしいくらいの専門知識の集合体たる脳みそを持つ『ヲタク』な人種が口にするようなレアリティの高い言葉である。高校の部活でPCを自作してしまうなどはあまり聞かない。大抵は学校側が用意した、授業でも使うPCを使用するはずだ。「それもあるが、経費削減のためだ」 意外な答えに藤野は一瞬黙りこくった。「あの場面で、私は小早川に同意した」 記憶がフラッシュバックする。小早川が決議の時に無理やり藤野に押しつけた予算増額の件だ。「そして小早川は予算申請額を削れるかどうか検討するとも言った。それを含めての同意だ。だから余計な経費を節約できないか検討した結果、自作することにしたのだ。やはり完成されたものを買うのと比べれば、万単位で違う」「そんなに違うんだ」「その上で自分好みにセッティングできるからな」「ってか学校のPC使わないの? そしたら元手いらないじゃん?」「学校で使っているスペックがいかに低いか知らないのか。いいか……」 あ。地雷踏んだ。 内心で後悔しながら、藤野は話を流す方向へシフトした。出来るなら自転車のペースも上げたいところだが、それは体力の関係上無理なので諦めることにした。 でも悪いヤツじゃないんだ。予算削減考えてくれたりとか。正義感とかそういうのは持ち合わせていないし、物言いも偉そうだけど。もしかして、結構不器用なヤツなのかな。「おい、聞いているのか」「聞いてるよ、ちゃんと。続きどーぞ」 そう思うと気が楽になってきた。藤野は自然と笑顔になっていた。