遂にバンドを始動させた藤野は、とびっきりの爆弾を詰め込んだ報告書を纏めて提出した。すぐにやってきたGWは楽器の練習に明け暮れて過ぎ去り、クリーンタウンキャンペーンを迎えた。 クリーンタウンキャンペーンは午前中の4時限をフルに使っての清掃活動だ。昼休憩を挟んだ後、午後に総括の意味でLHRを2時限取って終了となる、非常に疲れるイベントだ。殊更、今年は生徒会長として挑むので尚更疲れる。 結果、非常に幸いな事にトラブルというトラブルは発生しなかった。むしろ商工会から好評を得たのである。 その報告を聞いて一番ほっとしたのは藤野だ。 一番の危険因子である工学科二類を支配している新宮を抑え込み、トラブル要因である工学科一類を比較的校舎周辺に押しとどめ、各区画を清掃、連携しやすいように仕分けるなど、考え得る最大の策を講じたものの、一度に一〇〇〇人以上が動く一大イベントだ。何があってもおかしくはなく、内心ずっとハラハラしていた。 いち早く「商工会から良い評価を貰ったよ」と生徒会顧問が珍しく嬉々とした様子で伝えにきたのだから、おそらくかなりの好感触だったのだろうと想像ができ、さらに安堵した。さらに「苦情らしい苦情はこなかったよ。モンスターって言われる連中からの言いがかりはあったけれどね」と続き、完璧だとももてはやされた。 いっそ打ち上げでもしちゃう? と思ってしまうまでに舞い上がった藤野だが、狙ったかのように彼の者から呼び出しがやってきた。 昼休憩も終わりに差し掛かった頃、久しくなかった彼の者専用パターンの振動がポケットを戦慄させた。あ、きた。 どう考えてもイヤな汗でしかない何かが背中を掌握していく中で、藤野はおそるおそるケータイを覗き込んだ。画面にはもちろん「校長」とある。分かっていてもその文字を見ると再びの戦慄に襲われる。 【大至急】 放課後校長室に出頭。来なければ色んな意味でバラします。 色んな意味って何だ色んな意味って。っていうか何でメールかな。 生徒会長が校長室に呼び出しなど、校内放送でしてしまっては問題になるから、などという理由ではない。絶対に。来なければ色んな意味でバラします。この一文を入れたいがためにメールにしてきただけだ。 くそう。やっぱり爆弾が爆発したか。 画面が唐突に着信画面へと切り替わった。小早川からだ。「もしもし」「テメー校長にメアドか何か流しただろ!?」「は?」 いきなりの怒声と意味の分からない発言に、藤野は素になってしまった。小早川は矢継ぎ早に苦情を入れてくる。「だっから、何で俺のケータイに今日の放課後に出頭しろとか訳のわかんねぇメールが入ってくんだよ。差出人校長とかって。他に俺のアド知ってるヤツで校長と繋がってるヤツなんていねーんだけど!」 成程。そういうことか。 小早川の怒りをよそに、藤野は冷静に納得できた。校長からの呼び出しという最重要恐怖がなければ小早川の怒声を聞いて縮みあがっている所だが。「まぁまぁ落ち着いて、小早川。メアド流したの俺じゃないよ」「じゃあ誰だよ。どうやってメアド手に入れたんだっつの。ウソついてたらマジ消すぞオメー」 言葉の後半はかなりドスの効いたモノになっていたが、藤野は何一つ気にしない。「いや、だって校長だし?」「は!? マジ意味わかんねぇんだけど!」「それ以外に説明のしようがないんだってば。とりあえず、放課後に校長室で落ち合おうよ。たぶん、柚や瀬川にも呼び出しかかってるだろうしさ」「何でそんなことが……まーいいや。分かった。そこで俺が直接校長にきくから。もしオメーから聞いたってなったら、タダじゃおかねーかんな」 と言い残して、通話は終わった。 っていうか、これが校長の狙いだよね。たぶん。 藤野は当然にして、柚や瀬川なら簡単に応じてくれるだろう。おそらく、彼ら二人にはメールではなく教師を通じて呼び出しがかかっているはずだ。対して小早川は呼び出し程度には応じない。だからメールという奇襲を仕掛けたのだ。 いったいどうやって小早川のメールを調べたか分からないが、校長なのだから調べられたのだろう。そうとしか思えない。 さて、何を言われるのやら。 憂鬱な気持ちになりつつ、藤野はLHRに挑んだ。ほとんど眠気との戦いだが、切り抜けられたのは校長とどう戦うかとひたすらに悩んだためである。たまに役に立つんだよね、校長。 SHRも終え、藤野は校長室に足を向けた。扉の前まで来ると、既に小早川と柚と瀬川は揃っていた。「珍しいな、会長が一番遅いとは」「あ、ごめん。考え事しながら来たからかな」 いや、心の底から嫌だから足が自然と遅くなったっていうのもあるんだけどね。「ふーん。言い訳か何かか?」 怒りを隠すことなく言い放つ小早川は、出会った頃と全く同じ雰囲気を出している。近寄りがたい、危険なオーラと何ものも近寄らせない徹底的な敵意。 確かにこんなの向けられたらきっついなぁ。 などと思いつつ冷静なのは無実であるのと目の前にはさらに恐ろしい校長を相手取らなければならないためだ。「違うって。それも合わせて校長に聞くんでしょ。準備はいい?」「準備も何も。必要なの、それって」 柚の意見に小早川と瀬川は同意しているようだ。真の校長を知らないから当たり前か。「まぁ、良いんだけど。とりあえず入るよ」 言ってノックすると、「入って」という声が掛かってきた。どうぞ、ではなく入って、である。ヤバい、これはヤバい。 早くも脂汗が滲んで固まる藤野の変わりに扉を開けたのは実行力一直線柚だった。軽快なノリで「失礼しまーす」と言いつつ入って、彼女もまともに硬直した。「どうしたのかな、入ってって言ったんだけど」 小早川と瀬川に背中を押される形で藤野が入り、二人も続く。入った瞬間に理解したはずだ。校長室の中に充満する、異様に重たいなにかを。何だ、空気ってこんなに重かったのか。 パタン、と逃げ道を閉ざす音の後、校長は満面の笑みのまま、後ろに阿修羅を出現させた。見えないけど見えるのである。悪鬼のごとく深紅で漆黒の阿修羅が。小早川と瀬川も圧倒されて金縛りにあったが如く動けないでいた。 ほら、準備はいいって聞いたじゃん。 自身も硬直しながら藤野は内心で突っ込んでいた。「さて、君たちを纏めて呼び出したのは他でもない、この報告書なんだけどね」 ぱさり、と軽い音を立てて報告書が校長の机の上に置かれる。藤野が苦労して作り上げた報告書である。「内容はとても良いものだと思う。エコに注目してリユースカップを作ったり、劇団の諸経費を削る案を出したり、昨年のデータをフル活用してる辺りも大きいし、完成度は高いね。去年より高いんじゃないかな。さすが、三人寄れば文殊の知恵と言うだけある」 でもね、と次の瞬間、その阿修羅が最前線に出た。校長は当然表の笑顔のまま。「でもこれは許容できないかな。この、リユースカップの金額の三カ年計画って所。聞こえはいいけれど、学校側に更なる出費、言うなれば予算の増額を求めているんだよね。会長」「そういう事になります」「僕は今の予算以上の出費は学校側からはしないと通達したはずだけど。言い訳は聞かないけど意見は聞くよ」 言い方も声も柔らかいのだが、放たれるオーラはラスボス級である。動く事はもちろん、藤野以外は声を出す行為すら出来ない。 どうする、どうする。 校長はじっと藤野を見据える。他に助けを求める事を許さない視線のせいで、唯一切り抜けられるかもしれない知恵を持つ小早川を見る事すらできなかった。何となく動けないというか、思いついてないだろうなとは思いつつ。 焦燥感ばかり募るばかりで藤野が何も言えないでいると、校長はにこり、と笑いの皺を増やした。「これじゃあ話しにならないなぁ」「ていうかさ」 声は後ろからした。小早川だ。今なら振り返れると思って振り返ると、小早川は辛うじていつもの体裁を保っている程度だった。 あ、ヤバい。相当追いつめられてる。これ。「話ぶった切るみたいで悪いんだけどさ、俺、アンタ……いや校長センセーに聞きたい事あんだけど」「言いなおしたけど敬語使えてない時点でダメだからね。まあいいや、どうぞ」 さらりと毒を吐きつけながら、校長は促した。ってか今ので普通の人だったら封殺されてるよね、うん。「なんで俺のケータイのアドとか知ってんの、誰に聞いたの。呼び出しなら放送とかでいいじゃん」「だって僕校長だもん」「はぁ!? マジ意味わかんねぇ。俺は何でケータイのアドとか知ってんのって聞いてんだけど。答えるのがオトナの義務じゃね?」「知りたいなら教えてあげなくはないけど、その代わり君の大事な何かは失われると思うよ」「何それ」「例えばだね」 言いつつ校長は机の上のノートパソコンに手を伸ばした。一分程度で小早川のケータイが振動する。メールだ。促されるがまま不審そうにメールの内容を見た小早川は、今までに見せたことのない表情を浮かべた。 うわぁ。 思っている間に小早川はメール画面と校長を何度も交互に見る。どんどん青ざめていく辺り、相当な弱みなのだろうか。「他にもあるんだけど。どうしても知りたいのなら、それぐらいの対価が必要になるね。何かを求めるなら何かの対価が必要になるんだよ。オトナの義務というのなら、オトナの世界の方式を使わせてもらうまでだけど。それでも、聞く?」 と、満面の笑みで言われてしまっては。「スミマセンでした……話を続けてクダサイ……」 そう言うしか方法はない。くそう。あの小早川がこんなにあっさりとやられてしまうなんて。 予想以上のあっけなさだが、時間が稼がれたのも事実だ。それと、少しばかりの心の余裕もできた。校長の視線と阿修羅が向けられると同時に、藤野は口を開いた。「校長先生、確かに実質は学校側に更なる予算を請求してるんですけど、でもリユースカップはエコになる以上に、長期で考えたら経費削減にもなるんです。何十回と繰り返し使えるんだから、何年も使用できます。壊れるまでは経費がかからないんです」「それは、洗浄費も加算しての結論なのかな」 素早い切り返しが襲ってくるが、想定内だ。実際の洗浄費用は瀬川が概算で出してくれている。 藤野は負けじとすぐに言葉を口にする。小早川と校長のやりとりでヒントを得た頭脳はアイディアを次々と吐きだしていく。「生徒の手で行えばその洗浄費も大きく削れます。それに、学園祭でエコのリユースカップを使ったって宣伝すれば、学校にとっても大きな宣伝になるんじゃないでしょうか。しかも生徒側からの提案で許可したとなれば、生徒の自主性を重んじるという評価も出るはずですよ、きっと」 何かを得るには対価が必要だ。藤野はそれを使ったのだ。予算を請求する代わりに見返りがあると。「なるほど、エコ活動に励んでいるという学校側への心証も良くなるし、生徒数の応募増加にもつながる、か。形あるものを得るために形ないものを対価として差し出してくるなんて、考えたじゃないか」 うんうん、と頷きつつも、校長は阿修羅を引き下げようとしなかった。「でもダメ。もっと形あるものじゃないとね。もし失敗したら、が付き纏う以上は対価になり得ないよ」「形にならなっていると思いますが」 反駁を口にしたのは瀬川だった。校長の視線、いやもはやアイビームと言えるものの直撃を受けながらも、瀬川は口上を述べた。「エコという言葉は既に市民権を得ています。多くの学校でもエコ活動に励みだしていますが、学園祭でリユースカップとなるとまだ使用例はごくごく限られています。大きく発信すれば、地方新聞の記事くらいはかっさらえるでしょう」「確実性はあるのかな」「地元商店街を抱きかかえての学園祭で、さらにエコを叫ぶとなれば話題性は十分のはずです」「なるほど、地域活性も含まれてあるから、地方紙には載るかも、か。うまくいけば地方ローカルのテレビにも出るかもね」 地方紙やローカルテレビとはいえ、一度発信されたという実績を作ってしまえば大々的に宣伝できる。効果の程度は計算しきれないが、間違いなくメリットが大きいはずだった。 校長はしばらく考え込む様子を見せる。あくまで様子である事は、相も変わらず放たれる異様な威圧感から伺い知れた。ちらりと横を見ると、柚の限界が近い。いや、柚だけでなく、小早川はもちろん、実は瀬川も限界が来ているようだった。うっすらと脂汗がにじみ出ている。 まぁ、初めての校長プレッシャーを全開でこんなに受け続けてるんだもんなぁ。「仕方ないね。じゃあ三年計画において予算を捻出しよう。来年、再来年の学園祭予算はその分削られるからね」「ありがとうございます」 成功するとは思わなかった計画なだけに、思わず藤野はポロリとお礼を口にした。これでコストは紙コップ並みに抑えられる。この額の差はかなり大きいはずだ。「まぁ商工会の印象もかなり上がってくれたみたいだしね。これを維持すればプレゼンも何とかなるだろうし。水面下ではもう交渉を始めようとしているからね。いやあ大変だよ。相手の弱みを探すというのは」 最後の一言に藤野と小早川が一瞬ビクっと反応した。弱みですか。弱みを見つけようとしなさりますか。「だから小早川クン、キミは工学科一類の代表委員なんだから、商店街では揉め事を起こさないように徹底してね。多少のことなら黙殺してあげるから」 さらりと黒い発言が飛び出して、藤野以外の全員が顔をひきつらせた。はっきりと教育者の発言ではない。言外に言う事きかないヤツがいたら粛清してよし。と許可を出しているのだから。 こくこくと頷くしかできない小早川を満面の笑みで認めてから、校長は退室していいよ、と言った。 事実上の釈放宣言に一同の肩から力が抜けそうになる。抜かなかったのは未だ室内に残る威圧感の残滓のせいだ。藤野が一番に「失礼します」と告げて部屋を出ると、思い出したように三人もそれに続いた。 パタン、と扉を閉めて歩くことしばし。ようやく一同は解放されたように肩を安堵で落とした。「な、何なのアレ。マジあり得ない。今まで試合してきたヤツのどんなのよりも強烈だったわ」 一番ダメージを受けているらしい柚はカバンからスポーツドリンクを取り出して喉を潤した。かなり喉が渇いていたらしい。「アレは関わっちゃダメな人種っていうの? むしろ何であんなのが校長やってんだって俺は思うぞ」「同意だな」 珍しく疲弊の表情を見せながら小早川と瀬川は言う。まぁ、あの校長を前にして疲弊しないヤツなんていないんだろうけど。 時計を見ると結構な時間が経っていた。校長プレッシャーのせいで時間の感覚さえ狂わされていたのだろうか。「カイチョー、その、悪かったな。疑ったりして」 謝る、というタイミングを知らないのだろう。小早川は唐突に言ってきた。ってか晴れたんだ。疑い。しかし小早川を責めるのは酷というものだ。何せ校長の行動の方が遥かにぶっ飛んでいる。 ここはフツーに許す場面だよね。 藤野は鷹揚に手を振りつつ、「いいよ、疑いが晴れたんだしさ。気にしないで」「すまん」「んーなんか知らないけど仲直りな感じ? じゃ、あたしはスパとロードワーク軽くしたいから部室行くね。またねー」 一番ダメージ食らったのは柚だが、一番回復するのが早いのも柚のようだった。軽快に走り去る姿を見送り、男三人衆もそれぞれに帰宅の途についた。