「だってお前、音楽の成績良いだろ?」 硬直状態から解けない藤野を追いつめるように、さらさらと小早川は言う。確かにその通りだ。と言うか。「どこでそんな情報を」「何言ってんの。俺の担任は音楽教師だぜ」「あー、そう言えばそうだった」 ぴしゃりと額を叩いて藤野は納得した。 他人の生徒に他の生徒の成績を教えるなど個人情報漏えい甚だしいが、小早川の舌先三寸の威力とあの音楽教師の軽さを考えれば仕方ないのかもしれない。おそらく、瀬川や柚の成績も耳に入れているはずだ。彼ら二人が選択教科である音楽を取っていればの話だが。 うーむ。侮れない。 意外な情報源と情報収集力に驚きながら、藤野はどう抵抗しようか悩む。「ってかさ、音楽の成績良くても、歌がうまいって事になんないじゃん?」 思いついた抵抗は、しかし無意味だった。「何言ってんの。お前、声楽が一番成績良いだろ」 さらりと返されて、藤野は言葉を失った。 ああ、そうですか。そうなんですか。そこまで調査されてるってかそこまで聞き出してるんですか。 口が軽すぎる音楽教師に恨みを持ちつつ、これ以上の抵抗はおそらく無意味だ。舌先三寸で丸めこまれるに決まっている。 反論の余地なし。かといって引き下がる訳にもいかない、か。 学園祭の成功のためと言う意味もあるが、この三人がまた仲直りできるかどうかの瀬戸際でもある。事情を知っているだけに、無碍に断るという訳にはいかなかった。「うん、わかった。引き受けるよ」 覚悟を決めて頷くと、小早川は今まで見せた事の無い笑みを浮かべた。「さんきゅ」 瞬間、柚と瀬川が石化した。空気すら固まりそうな雰囲気の中、おそるおそる柚が口を開く。「ちょっとマジ? 今、コイツ笑いながら本気で感謝口にしたわよ」「うむ。いかん。天変地異の前触れかもしれん。核シェルターの準備が必要だな」「何かお前らスゴイ物言いだなオイ。アレか? はっ倒していいか?」 半ば殺意を沸かせながらの発言に藤野は寒気を覚えるが、二人は一切動じない。「いやいやいやホントに奇跡だからさ、だってアンタ、人に感謝したのって何年ぶりよ?」 ああ、まずい。これは崩壊パターンだ。 藤野は素早く空気を読むと、険悪なムードになる前にバンと強く机を叩いた。「とりあえずバンドやるって事で決定でいいよね? じゃあ今日はこれでお開きって事で。バンドとしての打ち合わせはまた日を合わせてしようよ。ゴメン、悪いけど俺、報告書とか色々作らないといけなくてさ」 あ、ちょっと苦しいかな。 いかにも取ってつけた言い訳を最後に付属させたが、逆に臭いと思われたかもしれない。後悔が少し襲ってきた頃、柚と瀬川は了承した様子で席を立った。「分かったわ。あたしも部活あるしさ」「ではまた日取りを教えてくれ。出来るだけ都合を合わせよう」 何とか誤魔化せたか、それとも空気を読まれたか。二人は早々に席を立つと教室を後にした。残されたのは、瀬川と小早川の二人。「なんかちょっと釈然としないんだけど」「い、良いんじゃない? 結果的にはバンド組む事決定したんだしさ」「まぁな」 会議は成功と言えるものだった。クリーンタウンキャンペーンの振り分けも完成した上、学園祭のメインイベントも決定した。何より物別れに終わらなかったのだ。 藤野個人的という条件に限っては、バンドのボーカルを担当と言うとんでもない役目を背負わされて苦労しそうなので成功と言えるかどうか微妙だが。「じゃあ俺も資料作りしないと。バンドとかの関係は全部一任していい? こっちじゃまるで勝手分かんないからさ」「おっけ。楽器とかは部活であるからそれ使えばいいし、練習もそこで出来るしな。曲とかは俺が選ぶ。また色々決まってからメール流すからチェックよろしく」「うん。ありがと」「でさ、結構気になってたんだけどさ、書記と会計? 今日も参加してなかったけど、何かあんの?」 率直に疑問をぶつけられ、藤野はああ、と相槌を打ってから返す。「あるっていうか、無いからかな。悪い奴らじゃないんだろうけど、予備校が忙しいとか何とかで、必要最低限の仕事しかしなくてさ」 一応、今日の会議は通達を入れてあるが、早々に欠席届がやってきた。生徒会役員として如何なものかと思うが、仕方がない。 聞いた小早川は気の無い「ふーん」を鼻から吐いて手を後頭部で組んだ。「じゃあ気ぃつけた方がいいな。協力してくれねーんだったら、ダイレクトに飛び火来るだろーし」「飛び火?」 オウム返しに問うと、小早川は会議室の窓から見える隣の校舎、工学科の校舎に指をやりながら言う。「来るとしたらそろそろなんだけど。あのバカの嫌がらせ」 あのバカ、と言われて思い至らない程藤野のカンは鈍くない。言うまでもなく新宮だ。「何しでかしてくっか分かんねーけど、注意しとけよ」 そんな小早川の予想はものの見事に的中する事になる。「何、コレ」 夜遅くまでかかって作り上げた報告書を顧問に提出したせいで、翌日にも疲れを残した藤野は何とか放課後までクリアした。今日は何もせずに帰ろうとしたものの、顧問に仕事を頼まれたので生徒会室に顔を出したのだが。 目の前に広がっている光景は、決して少ないとは言えない書類の束が乗せられていた机だった。 なんですか。なんなんですか。 先に生徒会室へやってきていた書記と会計は自分の仕事を済ませようとするだけで、こちらには意識の欠片もよこしてこない。生徒会長を空気扱いとは中々の達人である。 っていうか、挨拶もないって空気悪いよね。「部活動……承認要請書?」 席に座りながら一枚目の書類のタイトルを読んで、藤野は訝しく眉を潜めて思い至る。校長から手渡されたマニュアルに書いてあった。確か、予算のつかない同好会が予算のつく部への昇格を求める申請書の事だ。 部活動が盛んなこの高校において、部活動への昇格と部活動としての維持はかなり熾烈なものとなっている。 藤野が目を通した規定によれば、同好会はいつでも結成が可能で、顧問も必要がない。人数下限もなく、自由である事が一番のウリだが、学校に承認された訳ではないので部室を与えられる事もなければ部費としての予算も出ない。対して部は顧問が一人以上いる事と、最低五人の部員、適切な活動をしている事が大前提だ。ただし、予算がつく。また、部員が五人に満たなくなった場合は部が廃止されるデメリットがある。 部の承認、部の廃止、どちらも生徒会の仕事だ。 とはいえ、最終的な決定権は学校側にある。生徒会が承認した同好会は職員会議にかけられ、そこで承認されて初めて部となり、試験的な予算が与えられる。この予算が今季の補正予算の主な使い道であるが、来年度からは正規の部活動予算から算出されるため、今ある部活動の数や予算の割り振りを鑑みる必要がある。部への昇格は予想以上に厳しい。逆に廃止はすぐに通る。余程の嘆願書が集まらない限りはあっさりと廃止が承認されてしまう。 予算の節約、という面もあるが、新しく意欲のある部を承認して活気ある部活動を奨励するためでもある。「そっか、今がその時期なんだ」 諦めたように藤野は椅子に座りつつ、まずは顧問から頼まれた業務を先に始末してから、その書類に目を通した。 って、何ですかコレは。何の冗談だっつーの。 承認要請書に書かれている内容は、どれも酷いものだった。 ヲタク萌萌部。内容はとにかく萌えるヲタクアニメ観賞の部活。テニスラケットラブ部。内容はテニスラケットを愛でる部活。こんなものは可愛いもので、中には思わず脱力して机に突っ伏してしまうものもあった。 ふ、ふざけすぎたろ、こんなの! 却下だ却下! てか何でこんなアホな部に顧問ついてんだ!? 承認要請書に必要な事項は、部名と活動内容、五人の部員の氏名、そして顧問の名前だ。全ての書類が必要事項を満たしているのが不思議でたまらない。藤野は憤然としながら不許可のハンコを押していく。「ってか、毎年こんなモンなの? 結構な量なんだけど」 結構な量どころではない。不自然な量だ。しかし、書記と会計は全く気にする様子もなく、「分かりません」 の一言で終わらせた。さらに「今日の分は終わりましたので」とのたまって退室された。「ホント、何か冷たいってゆーか」 わいわい仲良く親友同士、とまでは行かなくとも、和気あいあいと出来ないものか。それとも生徒会とはこんなものか。 などと思いつつ全ての書類にハンコを押し終えて、藤野は帰路についた。「って今日もこんなにあるの!?」 驚きの声をあげたのは数日後の事だった。 部承認不許可の書類は書記に渡し、そこから各同好会の長に渡る。期間的に考えて、もう手渡されている頃合いだ。不服に思ったのか、また同じ内容のものが大量にあった。「そうですね」「いやいや、そうですね、じゃなくて、ほとんどが同じ内容じゃん。その場で却下してくれないの」「そんな権限持ってないです。それに僕の仕事じゃないし」 うわあ。とりつくシマもない。 とはいえ正論なので、藤野はそれ以上何もいわずに不許可のハンコを押していく。この単調作業は結構精神的にも肉体的にも厳しい上、二回目の申請書の場合不許可の理由も明記しなければならないため、物理的に時間も多くとられる。普段の業務が圧迫される勢いだ。 くそー。しかももっともらしい理由書かなきゃならん所がムカつく。 不満を内心で抱えつつ、藤野はその業務に没頭した。「おかしいっしょ、これ」 さらに数日後、また机の上に置かれた書類の束を見て、藤野は愕然と呟いた。それでも書記と会計は無視である。 こいつらの無関心の徹底ぶりはある意味習うべき点かもしれないけど。 思いつつ藤野は書類を持って顧問がいる職員室へと向かった。これは生徒だけで対処できる問題ではない。「嫌がらせかも知れないな、これは」 一通り事情を聞いた顧問が発した言葉はまずそれだった。かも知れないなも何も。「嫌がらせ以外の何ものでもないでしょ、これは」 憮然としてしまったのは相当ストレスが溜まっているからだ。この顧問に対しても。藤野は言い募る。「だって、申請書には何人もの同じ生徒の名前が被ってるし、顧問の先生だってホントに承認してるか怪しいですよ?」「部活動のかけもちは認められているからなぁ、そこを責める材料にはできないし、顧問の認印だって押されているし、まぁ、活動内容は確かにふざけているとしか思えないものだが」 顧問になった教諭に一応指導は出来るが、顧問になるなとは言えないんだよ、と顧問は弱弱しく言う。「だったら何とか出来ないんですか」 藤野はさらに突っ込んだ。今後もこの嫌がらせが続くようであれば堪えられないからだ。明らかに他の業務にさしつかえが出る。「口頭での注意は出来るが、具体的な処罰は不可能だ。部活の内容にしても、違法ではないから」 何だよその弱腰対応。 と思いつつも、藤野はどこかで納得していた。顧問が弱すぎるだけではない。申請書が狡猾なのだ。規約違反でもなければ、違法でもないのだ。 思ったよりもずっと考え込まれて作られているものということか。「それに注意した所で、逆に攻撃されかねん。すぐに教諭を頼る生徒会長なのか、とか。自分たちはここまで情熱的に訴えているだけだというのに、とかな」「つまり逃げ道を作った上での嫌がらせですか」「対処に苦しむが、一時的、一過性なものだろう。あまり気にしない事だ」 いや、気になるから言ってるんですけど。 内心の言葉は当然相手に伝わるはずがなく。藤野は大きく溜息をついて諦めた。職員室を出てから、頭は対策を練る事にやっきになっていた。何はともあれ現状を打破する必要がある。 まずは生徒会室に帰って資料を漁った。部活動承認要請書の提出期間についてだ。幸運な事に、提出時期は二回しかなく、春と冬の一ヶ月程度ずつだ。今春の残っている期間はおよそ三週間。しかも返答期間は期間ギリギリイッパイまで引き延ばせるという事も分かった。 よーし。そうなれば今の書類の返還をギリギリまで引っ張ればいいんだ。 とりあえず不許可のハンコを押し終えて、藤野は書類を引きだしの中へしまい込んだ。 次は発生原因だ。何でこんな嫌がらせを受けなければならないのか。と考えだした数分も経たない内に結論が出た。「あ、アイツか」 繙くきっかけになったのは申請書の生徒と顧問だ。調べればすぐに出てきた。工学科二類のクラスの担任の一人だったのだ。 工学科二類。イコール、新宮だ。 後悔させてやるとか何とか言っていた気がするが、こんなチマチマした嫌がらせを敢行してくるとは。予想以上に小さい。 でもま、ギリギリ正攻法で攻めてくるんならこっちもギリギリ正攻法で返してやるだけだし。 目には目を、歯には歯を。の理論で藤野は決定すると、普段の業務を再開した。「あの、会長」 珍しく書記の方から声をかけてきたのは、業務が終わりそうになってからだった。「何?」 顔をあげて聞くと、書記はどこか面倒臭そうに口を開いた。「部活承認の申請書、終わったんならくれませんか。早く返事が欲しいってせっつかれてるんで」 ほほう。こっちが返答期間を引き延ばしてくる事も予想済みって訳か。 さすがに小早川や柚、瀬川に勝負を挑もうとするだけはある。どれもこれも敗退してるようだが。「ああ、悪い。理由書かなきゃいけないからさ、それにちょっと時間食いそうで」「だったら早く仕上げてくれませんか。いつもの事をやってるみたいだから、もう終わってると思ったんですけど」 うわ、何かムカつくんだけど。 考えて見ればこの書記と会計もストレスの元になっている。もっとちゃんとしてほしい。意を決して藤野は相手を少し睨んだ。「いつもやってる事も大切なんだけど、俺にとっちゃ。返事はちゃんとするからさ、待っててくれって伝えてくれない? それは書記の仕事だよね」「いや、でもせっつかれてるんで」「だからさ。俺の仕事は部活承認の申請書をチェックするだけじゃないんだ。クリーンタウンの事もあるし、他の事もあるし。君たちがもっと積極的に手伝ってくれたら別だろうけど、嫌なんでしょ」 空気が最悪になる。分かっているが、藤野は止まれない。協力的になりつつある三人衆と比べて、この二人はあまりに非協力的だ。それも同じ生徒会のメンバーなのに。 ムッと機嫌を悪くした書記はさらに食い下がってくる。「でもそれが会長の仕事でしょ」「そうだよ。だから会長の仕事としてやるから、期限までに返事するから待っといてって言ってるの」 自分たちが手伝うつもりがないんだろう? という攻撃は裏で肯定しつつの反駁は、あっさりと藤野に潰された。あの三人衆に揉まれていれば、多少なりとも胆力がつく。 睨みあいはしばらく続いたが、折れたのは書記だった。「わかりました。そう伝えます」 そう言ったきり、書記は自分の席に座った。自分の仕事を終えて退室する時まで、一言も話さず。会計も直接はぶつかりあっていないはずだが、書記と同調しているのだろう、同じように退室するまで一言も口を開かなかった。 なんか、俺、こいつらと上手くやっていける気がしない。 身を凍えさせる程の居心地の悪さを感じながら、藤野は目の前の業務に手をつけた。