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No.19828の一覧
[0] 少女の愛した狼 第三部完結 (和風ファンタジー)[スペ](2011/12/14 12:47)
[1] 命名編 その一 山に住む狼[スペ](2010/11/01 12:11)
[2] その二 出会う[スペ](2010/11/08 12:17)
[3] その三 暮らす[スペ](2010/10/23 20:58)
[4] その四 おやすみ[スペ](2010/06/28 21:27)
[5] その五 雨のある日[スペ](2010/06/29 21:20)
[6] その六 そうだ山に行こう[スペ](2010/06/30 21:43)
[7] その七 天外という老人[スペ](2010/07/01 20:25)
[8] その八 帰る[スペ](2010/07/03 21:38)
[9] その九 拾う[スペ](2010/07/12 21:50)
[10] その十 鬼無子という女[スペ](2010/11/02 12:13)
[11] その十一 三人の暮らし[スペ](2010/07/07 22:35)
[12] その十二 魔猿襲来[スペ](2010/07/08 21:38)
[13] その十三 名前[スペ](2010/09/11 21:04)
[14] 怨嗟反魂編 その一 黄泉帰り[スペ](2010/11/01 12:11)
[15] その二 戸惑い[スペ](2011/03/07 12:38)
[16] その三 口は災いのもと[スペ](2010/11/08 22:29)
[17] その四 武影妖異[スペ](2010/12/22 08:49)
[18] その五 友[スペ](2010/10/23 20:59)
[19] その六 凛とお婆[スペ](2010/10/23 20:59)
[20] その七 すれ違う[スペ](2010/10/23 20:59)
[21] その八 蜘蛛[スペ](2010/10/23 20:59)
[22] その九 嘆息[スペ](2010/10/23 20:59)
[23] その十 待つ[スペ](2011/03/25 12:38)
[24] その十一 白の悪意再び[スペ](2010/12/01 21:21)
[25] その十二 ある一つの結末[スペ](2010/11/08 12:29)
[26] 屍山血河編 その一 風は朱に染まっているか[スペ](2010/11/04 12:15)
[27] その二 触[スペ](2010/11/09 08:50)
[28] その三 疑惑[スペ](2010/11/13 14:33)
[29] その四 この子何処の子誰の子うちの子[スペ](2010/11/20 00:32)
[30] その五 虚失[スペ](2010/11/22 22:07)
[31] その六 恋心の在り処[スペ](2010/11/29 22:15)
[32] その七 前夜[スペ](2010/12/13 08:54)
[33] その八 外[スペ](2010/12/22 08:50)
[34] その九 幽鬼[スペ](2010/12/27 12:12)
[35] その十 招かざる出会い[スペ](2011/01/03 20:29)
[36] その十一 二人の想い[スペ](2011/01/07 23:39)
[37] その十二 味と唇[スペ](2011/01/16 21:24)
[38] その十三 雪辱[スペ](2011/02/16 12:54)
[39] その十四 魔性剣士[スペ](2011/02/01 22:12)
[40] その十五 血風薫来[スペ](2011/05/25 12:59)
[41] その十六 死戦開幕[スペ](2011/02/24 12:21)
[42] その十七 邂逅[スペ](2011/03/20 20:29)
[43] その十八 妖戦[スペ](2011/03/23 12:38)
[44] その十九 魔弓[スペ](2011/03/31 09:00)
[45] その二十 死生前途[スペ](2011/05/17 08:55)
[46] その二十一 仙人奇怪話[スペ](2011/05/22 21:31)
[47] その二十二 魔狼と魔剣士[スペ](2011/06/05 20:58)
[48] その二十三 真実[スペ](2011/06/20 12:56)
[49] その二十四 別離[スペ](2011/09/02 23:49)
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[19828] その二十二 魔狼と魔剣士
Name: スペ◆52188bce ID:97590545 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/06/05 20:58
その二十二 魔狼と魔剣士


 ぽっかりと開いた亀裂の様な笑み。それを口元に貼りつけたまま天外はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。そこにはわずかな悪意と無邪気なからかいの気持ちと、そして類別できないなにかが秘められていた。

「わしが何か、か。そんなに気になるのか、雪輝よ?」

 椅子に腰かけたまま問いかける得体のしれぬ老人に、白銀の魔狼は青く濡れた満月の瞳をしっかと見据えて、皺しかない肌を枯れ木の様な骨に貼りつけたようにしか見えない老人の真意を見抜こうと試みている。
 雪輝の傍らの狗遠も筒状の寝台の中で横たわる鬼無子も、雪輝と天外の問答に気を引かれながらも、言葉を挟むことなく固唾を呑んで見守っている。
 雪輝が天外に答えた。

「ああ、なるとも。私が『私』であると自己を認識してから初めて見たのは、お前だった。仙界を追われたとはいえ、このような場所に庵を構えているのも奇妙な話。それにこの山の事情に詳しすぎる。お前は何だ? そして……私は何だ?」

 天外の正体を問う以上に、自身の真実を問う雪輝はこれまでひなや鬼無子が見た事がないほどの深い苦悩を抱いていた。
その様子を興味深げに見つめながら、天外は口元に貼りつけていた笑みを崩し、それまでの軽薄かつ飄々としていた相好を、仙人であるという肩書に相応しい超然とした雰囲気を纏う。
突けば今にも砂と変わって崩れそうな罅割れた唇から紡がれるのは、世界の真理を解き明かす賢者の言葉以外にあり得ないと感じるほどに、いまの天外の姿は神秘と計りしれぬ知性に満ちている。

「お前の問いから答えてやろう。お主の肉体は先ほど語ったように器に他ならぬ。この山が天地と近隣の気脈から強制的に吸い上げた最も純度の高い気を材料に、これまで妖哭山の妖魔達の闘争から収集した記録を元にして作り上げられた最強の妖魔の器。
 妖哭山を作り上げた八十八万柱の神のいずれか、十中八九邪悪な神の類に違いあるまいが、その邪神が手駒でも造ろうとして妖哭山という環境を整え、数多の妖魔の血と死と莫大な時間を引き換えにして作り上げた、とびきり贅沢でとびきり呪われた器。それがお前じゃ」

 言うなればこの妖哭山の存在の目的こそが、雪輝という個体そのものなのだと言える。顔も知らぬ先祖の時代から妖哭山での闘争に明け暮れていた妖魔である狗遠からすれば、これは聞き逃せぬ話である。
 生まれた時からただただ殺し合いに明け暮れていた自分や一族の者達が、この白銀の魔狼や大狼を産み出す為の礎に過ぎなかったと言うのだから、自分達がまるで目に見えぬ糸に操られている傀儡人形の様だと不快に感じていたのである。
 もっともそれと同時にやはり雪輝を伴侶にと選んだ自分の目に狂いは無かったと、どこか誇らしくもあったが。

「それは分かっている。この私の眼や耳や尻尾や肢が、器に過ぎないのは十二分に理解した。私が知りたいのは、その器を満たす『中身』の方だ。私を『私である』と認識しているこの意識も、造り物なのか?」

 これまでの天外の言葉が全て真実であると言う前提によるが、雪輝の肉体が妖哭山の実験の産物である事はまず間違いない。だがそれよりも雪輝が真偽を問うているのは、自身を雪輝であると認識している意識、あるいは精神の正体をこそ知りたいのだ。
 天外の言葉を切望して待つ雪輝に、天外は変わらぬ荘厳ささえ纏う雰囲気のままに告げる。いまならばこの老人が世界の真理を知る仙人であると言う話も、紛れもない事実と信じる事が出来よう。

「それはわしにも正確な所は分からぬ。だが、雪輝よ。お前がわしと初めて対面した時の事、憶えておるな?」

「ああ。満月の下、私とお前は対峙し、周囲は破壊の限りが尽くされて荒れ果てていた。私とお前は、戦っていたのか?」

「然り。大狼という失敗作を経てこの妖哭山にお前さんが産み出された時、わしはお前さんを滅ぼす為に動いたのよ。大狼は強力な妖魔だったがこの山の中ではざっと十指にはいるほどの力しか持たなんだ。しかしお前さんがこの山に誕生した時に感知した力は大狼の比ではなかったのでな、流石にわしも腰を上げざるを得なかったのよ」

 あっけらかんと、それこと明日の天気の話でもしているかのように話す天外の言葉の、聞き逃せぬ文言に気付き、それまで黙って天外と雪輝の話を聞いていた鬼無子と狗遠が、揃って天外に視線を向ける。
 雪輝の天外に対する反応か、あるいは天外の行動次第でこの場が新たな戦場と化すのは間違いない。それを悟り、狗遠と鬼無子は天外に向ける視線に警戒の成分を含ませた。

「そうしたと言う事は、お前はこの山の実験の創始者とは敵対関係にあると言う事か」

 かつて自分と戦ったと天外は言うが自分の記憶にない事である、と雪輝は、鬼無子と狗遠の警戒ぶりとは真反対の様子で、天外に対して敵意を見せる事はなく、あくまで淡々と事実を確認する口調で呟く。

「まあ、の。そんでま、この世に誕生したばかりのお前さんとさんざかわしはやり合って、わしが渾身の術でお前さんに一撃を与えた所で、ちょいと事情が変わったのよ。第二の大狼だったはずの妖魔が、お前さんに、つまりは自らを雪輝であると認識しているお前さんになったのよ。それがお前さんの最初の記憶の正体だの」

「お前の言う事が事実ならば、この器を満たしている私という中身の正体は分からぬままか」

 結局は自分が何者であるかという事は分からぬ事に、雪輝はこの狼には極めて珍しい、疲れた様な嘆息を零す。普段の呑気さなど欠片もない雪輝の様子は、この場にひなが居たら大いに心を悲しませて、雪輝を出来る限りの事を持って慰めようとしたことだろう。

「そう気にするな。わしが見た限りお前さんは善の性質の魂を持っておる。お前さんの肉体は純粋な天地の気の塊であるから、妖魔としては珍しい事に別段邪悪だとか害毒を含んでいるというわけでも無し。これまで通りに暮らせばよかろうよ。
それにな、ある程度知恵の回る生き物になると、大なり小なり自身の存在というものに疑念を抱くもんじゃ。なぜ生まれて来たのか、とか生まれてきた意味を知りたがるのよ。
実際には世の中にゃあそんなものありはせん事が多いが、生まれてきた意味だのと七面倒なものは、結局自分で見つけるかこれだと思い込んで解決する問題だの。
お前さんは明確な目的の元に造り出されたわけじゃが、その後の事を自分で決める事の出来るだけの頭は持っておるじゃろ? お前さんの中身が一体何なのかなんぞ、知らんでも生きてゆけるし、自分で考えて生きる目的や存在する事の意味を見つけるこっちゃ」

「助言のようなそうでないような。なんとも抽象的な言葉であるな」

「前に会った時、お前が似たような事を言ったじゃろうが」

 前に会った時、とはひなを連れて天外に会いに来た時のことだろう。天外に会った時、この世が神々によって造られた神々の遊び場である、と教えられた際に雪輝はひなに対して、神の思惑など気にせず心の思うままに生きればよい、というような意味合いの事を告げている。
 よもや自分の吐いた言葉が巡り巡って自分に帰ってくる事になるとは、と雪輝は微苦笑を口に刻んでから、天外に首肯した。

「天に吐いた唾が自分の顔に堕ちて来たような気分だな。お前に揚げ足を取られるとは。とはいえ、確かに私という中身が何なのか、知らずとも生きては行けるし、生きる意味なら既に見つけてもいたか。……では天外よ、もう一つの私の質問に答えて貰おうか。お前は一体何者だ?」

「仙界の掟を破った元仙人の爺じゃよ。気まぐれにこの山に居を構えて殺し合う妖魔共の姿を肴に酒を飲みながら日々を過ごす堕落した仙人様。それがわし。それでよかろう」

「確かにお前の正体がなんであれなにかが変わるわけではない。昨日までの私ならそう考えただろう。だが今この山の事態を解決するにもお前の知恵と素性は知っておいた方がよさそうなのでな」

 引き下がる様子を見せない雪輝の態度に、天外は腕を組んで考える素振りを見せる。この老人の厄介な所は、平気で嘘を吐くだけでなく真実を話しても全ては離さずに、情報の一部をあえて伝えない、といった具合に話を鵜呑みにすると後で厄介な事になる場合がある。
 天外の口にする事が全て真実であるかどうか、まだ隠されている情報があるかどうかの判断もしなければならないのは、およそ嘘偽りとは無縁に生きている雪輝には極めて難しい。

「そうだのう、お前さんの言うとおり妖哭山の実験を始めた者とは一応、敵対関係にあると言ってもよい。雪輝よ、今のところ、お前さんは創造主の思惑から外れた意思で動いておるようじゃ。そうである限りわしはお前さんと戦うつもりはない。今のお前さんの状態の方がわしには都合が良いからの」

 条件付きの味方より中立と言った所だろうか。雪輝は明確に今、敵であるという立場を天外が示さなかった事で良し、と判断した。

「私が私でなくなったら容赦はしないと言う事か。今回の事態の顛末次第ではお前と再び私が戦う事になるとい考えて良いな?」

「おうよ。ただわしがお前さんを滅ぼしに掛る時は、もうお前さんは『雪輝』では無くなっておるだろうがの。そこら辺は出た所勝負になるがな」

 今回の事態の収拾を図る為に天外に情報提供を求めたわけだが、余計に面倒な情報を与えられた事で余計に頭を悩ませる事になってしまったのは、雪輝にとって大きな誤算だ。
下手をすれば夕座や他の妖魔の長達を倒した後に、ともすれば雪輝は天外とも戦わなければならなくなるかもしれないとは。
 雪輝が嘆息するのも無理の無いことだったろう。その雪輝の傍らで沈黙を維持していた狗遠がかすかに牙を覗かせて喉の奥で物騒な唸り声を立てていた。

「貴様が雪輝に敵対すると言うのならその時は私の牙でその枯れ枝の様な首をへし折ってやろう」

 はっきりと雪輝への助力を口にする狗遠に、雪輝は少なからず驚いた様子で眼をかすかに見開いて隣の狗遠の横顔を見つめ、天外は元の胡散臭さしかない怪しげで好色な老人の顔に戻っていた。

「妖狼の元長よ。お前さんも血に刻まれた呪いに屈服しておってもおかしくは無い筈じゃというのに、こうして雪輝の隣におるとはな。まったく偉大なるかな愛の力は」

 そのままかっかっかっか、と声を大にして笑う天外に、それ以上狗遠は食ってかかる事はせずに不愉快さを隠しもせずに、狗遠は一つ鼻を鳴らしてからそっぽを向いた。この不愉快な老人を一秒たりとも視界に入れておきたくないのだ。
 ひとしきり笑ってから天外は、右手を目の前に持ってくるとそこに小さな光の粒子が集中し、薄緑色に発光する光の板が出来上がり、そこに白い光が文字を刻んでゆく。
 おそらくは先ほどから鬼無子が横になって寝そべっている筒状の寝台が調べた鬼無子の肉体の情報が、そこに書き込まれているのだろうと雪輝は推察する。
 自身の正体について多大な興味と不安があったが、それ以上に鬼無子の容体の方が雪輝にとってははるかに重要な問題である。先ほどよりも更に真摯なまなざしで雪輝は天外を見つめて、口から零れ出る言葉を待つ。
 天外が目の前に持ってきた光の板に触れると、鬼無子が寝そべっていた筒状寝台の上半分が開き、いささか閉塞感を覚えていた鬼無子はやれやれと言わんばかりに上半身を起こした。
 それから雪輝達と同じように天外へと視線を向ける。鬼無子自身の感覚としては人間としての意識を維持できるのは長くて半年と言った所だが、この奇妙な老人はどのような判断を下すのか、興味がないと言えばうそになる。

「よくもまあ、これだけ妖魔の血肉を取り込んだものと取り敢えずは褒めておくわい。しかしこれはいささかまずいの。妖魔の血肉の影響がちと強すぎるわい。そう長くはないな」

 こればかりは茶化す気にはならなかったようで、天外は真剣な口調で鬼無子の容態の危うさを口にして、雪輝の眉間に深い皺を刻ませた。くるりとこちらを振り返る雪輝の視線を受けて、鬼無子は全てを受け入れた穏やかな笑みを浮かべる。
 美しい笑みだ、と雪輝は素直に思う。同時にその様な顔を浮かべる鬼無子への怒りも胸の内に湧きおこる。鬼無子の肉体の異常に気付けなかった事、そうさせてしまった自分への途方もなく大きな怒りも。

「鬼無子。分かっていたのだな?」

「はい。ここ最近の事でありますが、やはりそういう家の生まれでありますから、自分の運命というものくらいは心得ております」

 雪輝の顔に更に大きな皺が寄った。怒りの感情よりもさらに大きく深い悲しみが、この狼の面貌を歪ませる。雪輝にとってはようやく手に入れたばかりの家族を、遠からぬ内に失うと告げられたのである。平静な心理状態で居られる筈もない。

「ひなは悲しむ。泣きもするだろう。そして私もそうなったら、悲しい」

 この場に狗遠が居る事さえ忘れて、雪輝は飼い主の死を間近に見た飼い犬のように、悲しげにくぅん、と咽喉の奥で鳴らしていた。
 あまりの落ち込み様に狗遠などは信じられないものを見た思いで、ぎょっとした顔を拵えて雪輝を見つめているのだが、その事に気付かぬほど雪輝は鬼無子の運命に意識を奪われていた。

「申し訳ありません。それがしも出来れば雪輝殿達と共に在り続けたいと願ってはおるのです。ですが、すべての命にやがて死が訪れる様に、それがしの命にも必ず訪れる運命だったのです」

 全ての運命を受け入れた穏やかな笑みを口元に浮かべたままであったが、雪輝の隠そうともしない落胆と悲しみの感情を目の当たりにして、胸の奥に押し殺していた、生きたいという渇望が身じろぎするのを感じ、そっと顔を俯かせる。
 鬼無子とて生きたいのだ。愛するひなと雪輝と一緒に、ずっと生きていたいのだ。数百種の妖魔の血が流れる呪わしいこの身を、忌避する事もなく受け入れてくれるひなと雪輝と。
 だがそれが叶わぬ事は、誰よりも鬼無子自身が理解していた。多くの先達たちがそうだったように、覚醒させるたびに強まる妖魔の血肉に意識を奪われれば、そこから人間としての意識を取り戻す事はあり得ない。
 これまで多くの人間達が妖魔へとその魂と肉体を堕して、それまで共に轡を並べていた仲間や親兄弟、恋人の手に掛って歴史の闇の中へと葬られてきたのだから。
 いずれ残虐で邪悪な妖魔へと堕ちた鬼無子の始末を、雪輝に委ねるのはあまりにも残酷だ。
だから鬼無子はかねてから最後の時は自分自身の手で始末を着けることを決めていたし、その事ばかりは雪輝にも最後の最後まで秘密にするつもりだった。
そうしなければ雪輝は聞きわけの無い子供が駄々をこねる様にして、鬼無子がどう言った所で聞かずに、鬼無子の自決を止めるだろうから。

「例え鬼無子が妖魔に変わろうとも私もひなも気にせぬ。これまでの様に一緒に暮らしてゆけばよかろう。第一、私など最初から妖魔なのだから、気にする事は無いぞ」

 こう言う事を心から本気で言える狼なのだ。そしてひなも雪輝の言うとおりに鬼無子に対する態度を変える事は無いだろう。
だからこそその優しさが鬼無子には、思わず涙が零れ落ちてしまいそうになるほど嬉しく、そして切なくなるほどに辛かった。

「そうであるのならそれがしもこれほどまでには思い悩みはしなかったでしょう。しかしながら人間が妖魔に変わると言う事は存在の本質の変化のみに留まりませぬ。殊にそれがしの様に数多の妖魔の血を引く者は、徳の高い僧や神職にある者であれその性を一変させ、凶暴残忍、邪悪の権化と化してしまうのです。
それがしもその例からは漏れますまい。雪輝殿にもひなにも確実に刃を向けてしまいます。雪輝殿、それがしにとってそれがどれほどの苦痛であるか、お察しください。雪輝殿になら理解していただける筈です」

 こうまではっきりと鬼無子が明言すると言う事は、つまりは、もうどうしようもない冷厳な事実なのだと雪輝は理解せざるを得ずに、押し黙った。
 そして鬼無子の言うとおりに、もし雪輝が鬼無子の様な立場で、例えば天外が戦ったと言う第二の大狼としての意識が目覚めて、雪輝が雪輝でなくなりひなや鬼無子に牙を向けることになったら、鬼無子と同じように自決の道を選ぶだろう。
 雪輝自身の精神の正体について結局不明のままに終わったことよりも、鬼無子に待つ運命の過酷さに雪輝は悲しみと懊悩の色を深めて、二等辺三角形の耳をぺたりと倒しこみ、尻尾は元気を失って長々と床に伸びて動く事を忘れている。
 本来鬼無子の方が慰められるべき状況であったが、雪輝がこの世の終わりを目の当たりにしたかのような落ち込み具合を見せるモノだから、雪輝と鬼無子の立場は全く逆のものになっていた。

「雪輝殿、そうお気に病まないでくださいませ。なにも今日明日にもそれがしが死ぬと言う話ではないのですから、今しばらく時間はございます。ですからまずは妖哭山の事態の収拾を念頭にお置きください。夕座に飢刃丸率いる妖狼族、またそれ以外の妖魔達も雪輝殿を狙い動くと見て間違いないでしょう。迷いを抱えたままで戦える相手ではありますまい」

「そうではあるが、鬼無子の事を考えるなという方が私にとっては無理がある。すまぬな、本来私が君を慰めるべきであろうに、要らぬ心配をかける。まず先に夕座と山の妖魔共を片付けて見せよう。だがな、鬼無子」

「はい」

 鬼無子は自分の方を向く雪輝の視線を真っ直ぐに受け止めた。

「私は最後の最後まで鬼無子の事を諦めん。その事を、忘れないでくれ」

 この狼が生まれ持った善性がはっきりと分かる穏やかで、優しくて、そして確たる意思を秘めた宣言だった。口にした通り、雪輝は本当に最後の最後まで鬼無子を救おうと足掻くことだろう。
その事が分ったから、鬼無子は思わず感動で涙ぐみそうになるのを堪えなければならなかった。
雪輝と鬼無子とが過酷な運命の重圧に耐えんとしている一方で、狗遠は妖魔に変わる事の何が問題なのだ、と内心では面白くない思いでいっぱいだった。
雪輝が格別優しい言葉を鬼無子に掛けるのも、お互いの事を心底から理解し合っているかのようなやり取りと雰囲気も気に入らないことこの上ない。
なんなら私がそこの毛無し猿の息の根を止めてやろうか、と狗遠は魅力的なことこの上ない提案をしようか考えたが、それを口にすれば確実に雪輝が自分の事を見限ると言う事は理解できたから、大変腹正しかったが口を噤んでいた。
妖哭山内側の妖魔達にとって、眼の上のたんこぶをはるかに上回る目障りな存在であった仙人が始めた気に入らない話もそうだが、鬼無子とかいう妖魔の匂いのする人間の女のどうでもよい運命についてぐだぐだと語り合い、意思が通じ合っている様子を見せられる羽目になるなど、狗遠にとっては夢にも思わなかった事だ。
少なくとも狗遠にとっては、不本意ながら雪輝の手を借りて飢刃丸を始末し、妖狼族の長の地位に返り咲くだけだった筈の話が、今では妖哭山全体と雪輝の素性と鬼無子の運命に関わるものにまで広がっている。
まったくもって狗遠には不本意な話である。
そんな二頭と一人の空気を変えたのはやはりというべきか、今回の事態において多くの鍵を握り、その存在を秘匿しているだろう天外であった。

「随分と陰気臭い話をしておるが、鬼無子ちゃんの体じゃがな、わしに任せれば何とかしてやるぞ?」

 倒していた耳をピン、と立たせて雪輝が首を千切れんばかりの勢いで天外の方へ向け、鬼無子もやや遅れて驚愕を張り付けた表情で天外を凝視する。
 青と黒の二色の視線を集めて、天外は愉快そうに唇を吊り上げながら言う。

「わしは色々と失われた技術や古い知識について詳しくてな。鬼無子ちゃんの様に人間の体にそれ以外の生き物を取り込んだ連中の治療法という奴にも多少明るい。鬼無子ちゃんの場合、単に肉体だけでなく霊魂にまで影響が及んでおるから薬を呑んでそれでもう大丈夫とはいかぬが、妖魔化を防ぐ処置くらいは只でしてやってもよい」

 先の見えぬ闇に閉ざされた中に差しこんだ一筋の光明。それはあまりにも眩く、唐突に過ぎた。
天外の気性を嫌というほど知る雪輝は、天外の言葉を信じて良いものかどうか逡巡するが、このような状況で偽りを口にしても天外には何の益もない事を考えれば、事実であると考えても良いだろう。
 縋る様な声になっていないと良いが、と雪輝は天外に対して借りを作る事で後々生じるだろう厄介事を頭の片隅で意識しながら、天外に問いかけずにはいられなかった。

「鬼無子を助けられるのだな」

「完全に人間にする事は出来ん。鬼無子ちゃんは人間と妖魔の混じり合った状態が極自然な状態なのでな」

 狗遠はまるで興味の無い様子で、鬼無子は半信半疑の様子で、天外の顔を見つめていたが、次に雪輝が深く頭を下げて天外に懇願の言葉を口にすると驚いてそちらに視線を映した。

「どうかよろしくお願いする。鬼無子を助けて欲しい」

「他者の為に頭を下げられるか。お前さんが器から雪輝に変わって良かったと、いま心より思うぞ。願わくは生涯そうであって欲しいの。多少、準備に時間を取る。お前さん達、今日はここに泊って行け。寝床と食事くらいは用意してやらんでもない」

「しかし事態を一刻も早く収めねばなるまい。休むのは鬼無子だけでよいだろう」

 咄嗟に雪輝に抗弁しようと鬼無子が口を開くが、それよりも天外が反論を述べる方が早かった。

「確かに鬼無子ちゃんの状態は芳しくはないが、お前さんと狗遠も消耗しておる。気付いておらんのか? 特にお前さんはちと大技を連発しすぎだの。妖気がかなり目減りしておるぞ」

 天外が持っていた光の板が再び無数の粒子へと散り、天外が指を鳴らすと再び雪輝達の周囲は瞬き一つをする間に光景を一変させて、以前雪輝がひなと共に訪れた無常庵へと有り様を変える。
 気付けば雪輝達は青い匂いの薫る真新しい畳が一面に敷かれた百畳ほどの部屋に立っており、天外は何重にも重ねた錦織の座布団の上に胡坐をかいて洒落た彫り細工の施された煙管を咥えて、煙の輪をぷかぷかと吐いていた。
 つい先ほどこれと同じ現象に見舞われたばかりとあって、雪輝達に驚く気配なかったが、天外の見事という以外形容のしようがない手並みには畏怖の念を、大なり小なり抱いていた。

「ここを出て左に曲がってまっすぐいった突き当たりに部屋を用意しておいたから、そこで今日は寝るんじゃな。食事は後で運び込む。ああ、雪輝と狗遠と言ったか、お主らは爪を出さんようにしておけよ。畳と床板に傷が付くでな」

 天外に言われたとおり連れ立って襖を開いて部屋の外に出てみると、そこにはやはり以前雪輝が訪れた時と同じような、見通せないほど高い天井や廊下の左右に並ぶ無数の戸口や障子、絢爛な襖と言った光景が広がっていた。

「相変わらず出鱈目な」

 雪輝の呟きが狗遠と鬼無子の心情を代弁していた。天外の言った通りに左に曲がり、たった今建てられたばかりの新築の建物の様に真新しい庵の廊下を歩き、指定された部屋へとたどり着く。
 名のある武家の者や貴種の人間が宿としてもおかしくない豪奢な造りの部屋である。人間の世界にとんと縁の無い雪輝や狗遠からすれば、別段どうという事もなかったが、宮仕えをしていた鬼無子には、部屋の中にある文机や箪笥、火鉢をはじめ調度品の一つ一つが吟味を重ねられた一品である事が分かった。
 狼の妖魔と浪人が一泊の宿とするには余りに過ぎた場所というほかない。天外の部屋を出る時に脱いでいた草履を手に、鬼無子は二十畳ほどの部屋の中へ足を踏み入れて、片隅に積まれていた座布団を敷いてその上に正座した。
 雪輝と狗遠もそれに倣い畳の上に体を横たえて休息の体勢を取る。狗遠は本来なら一刻も早く行動に移りたい所だが、天外の言うとおりに自身と雪輝の消耗は感じていたから、この場での休息に異を唱える事はしなかった。
 鬼無子の身体について色々と問いかけるべきかどうか、雪輝は少しばかり悩んだが天外が治療を確約した以上はこれ以上無理に問いかける気にはなれずにいた。既にこの時点で雪輝は自身の中身の正体に対する疑問を忘れている。
 良くも悪くも自分より他者に重きを置く雪輝にとっては、自身の事よりも鬼無子の体の事の方がはるかに重大事として捉えられている為だ。
 陽が傾き地平線の彼方に沈んだ頃だろう、と雪輝が感覚から判断した頃、不意に襖の外から複数の匂いが立ちこめて、襖を開いてみると野菜と茸の煮物や魚の塩焼きや味噌を塗って焼いた魚やらが山と盛られた膳とお櫃、それに狗遠用であろう生の獣肉が山盛りで置かれていた。
 基本的に食事を必要としない雪輝の分が省かれている。一宿一飯の世話をするという天外の言葉は嘘ではないようで、鬼無子と狗遠は多少怪しみながらも用意された食事を一つ残さず平らげた。
 ちょうど空いていた腹を満たし終えた頃に再び天外が姿を見せて、鬼無子に風呂の位置を案内するとすぐさま姿を消したが、おそらくは鬼無子の肉体の妖魔化を防ぐための処置を準備するのに時間を取られているのだろう。
 半刻ほどしてからほんのりと肌を桜色に染めた湯上り姿の鬼無子が、部屋に戻って来たのを見てから、雪輝は自分も休まなければならぬなと組んだ前肢の上に顎を載せて瞼を閉じた。
 おそらく飢刃丸やその他の妖魔達との決着を着けるまで体を十分に休める機会は巡ってはこないだろう。ならば休める時に休めなければいざという時に状態を万全とする事は出来ないだろうから。
 そうして瞼を閉じてからうとうととしだして、雪輝が自分の意識が睡魔の手の中に沈み込むのを感じた時、雪輝の耳は自分を呼ぶ声を拾い上げてぴくりと震えた。
 先ほど閉じたばかりの瞼を雪輝は開いて周囲の光景の変化に気付く。瞼を閉じる寸前まで天外の用意した部屋にいた筈であるのに、今雪輝の周囲は麗らかな昼下がりの陽光が心地よい外であった。
 枝葉を四方に広げた大樹の根本で雪輝は横たわっているらしい。いずこかの大きな屋敷の庭の様である。庭の一角を占める雪輝の知らぬ無数の花々が、風にそよいで様々な色彩が波の様に揺れている様は美しい。
 天外の仕掛けた幻術かなにかか、と訝しみながら雪輝は首を巡らして自分のすぐ傍にいた誰かの姿を視界の中に納める。
 子供である。ひなよりも幼い、背丈が精々三尺に届くかどうかという幼子だ。青く染めた絹の着物を着て、薄い桃色の帯で締めている
雪輝の興味を引いたのは人間の耳の他に白銀の髪から飛びだしている獣の耳と、着物の帯の辺りから伸びている尻尾、それに袖や裾から覗く手足が髪の毛と同じ色の毛皮に包まれている点だった。
指先は犬や狼と人間の丁度中間の様な形状をしていたが、指先に至るまで毛皮に包まれて真珠色の爪の先端がかすかに覗いている。
くりくりとした黒い瞳に人懐っこい笑みの良く似合う女の子である。どことなくひなに似ているな、と雪輝は一日と離れていないのに、ひなともう随分と話していないような寂しさを感じた。
狼の耳と尻尾に手足、それと人の顔と胴を持った半人半獣の幼子に、雪輝は穏やかに声をかける。例えこれが天外の仕掛けた幻術の類であろうと、雪輝に目の前の幼子に危害を加える事は出来そうにもなかった。

「私を呼んだかね?」

 肩高六尺という狼としては途方もない巨躯の雪輝に対して、幼子はまるで怯えた様子は見せずなおかつ無防備な姿で、大輪の火周りを思わせる笑みを浮かべてこう言った。

「とおたま」

「?」

「おせなかのせてください」

「ふむ」

 とおたま? いずこかの地方で狼を指し示す言葉であろうか、と思いつつも雪輝は幼子の提案を拒絶する理由は無かったから、地面に腹ばいになった姿勢のまま幼子に優しいまなざしを向け、頷いて答える。
 雪輝の許可を得た幼子はにこにこと嬉しそうに雪輝の背中によじ登って跨り、雪輝の背中の毛並みを握って体を支えて、きゃっきゃと弾んだ声を零している。
 ひなもこれ位積極的に甘えてくれると嬉しいものだと、雪輝は背中に加わるわずかな重みを実感していた。初めて出会ったころに比べれば随分と素直に雪輝に甘えるようになったひなだが、雪輝としてはもっと積極的な触れあいを望んでいる様である。
 とても和やかな気持ちにはなったがこのままこの幻かなにかに捉われたままというわけにも行かない。雪輝は背中の幼子を落とさぬようにと気を配りながら立ちあがった。

「落ちないようにしっかりと捕まっていなさい」

「はい」

 まだまだ舌っ足らずな声で答える幼子に、雪輝は我知らず口元に穏やかな笑みを浮かべている。この屋敷の子供だろうと見当を着けて、雪輝は聴覚と嗅覚に神経を集中させる。
 どこまでも穏やかで優しい空気の流れる場所であったが、全く未知の場所である事と今の雪輝には自分自身と鬼無子と狗遠のそれぞれの事情を解決しなければならないと言う、差し迫った現実があり、あまりこの場に長い時間いるわけにはいかなかった。
 屋敷の縁側の方に向けて雪輝がゆるりと周囲への警戒を怠らずに進んでいると、丁度正面の障子が開き、背中に乗せている幼子よりも幾分か年上で、ひなとそう変わらない少女と子狼が三頭ほど顔を覗かせて、雪輝の姿を認めるや笑みを浮かべる。
 雪輝が生まれたての子供だったらこうだろう、という小さな子狼はそっくりそのまま小さくした白銀の子供、灰色の毛が首元や足の付け根に広がっている二色の子供、金色の毛並みが顔や背中に広がり、尻尾がことさらふんわりとしている子供の三頭である。
 その子狼三頭を連れているのは、栗色の髪の合間から先端だけ白銀色の毛が生えている狼の耳を覗かせた少女だ。濃紺の道着姿で左手には紫染めの鞘袋を手にしている。剣術を嗜む剣術少女なのだろう。
 雪輝の背の幼子とは違い道着から覗く手足は人間の者で狼の血がいくら薄いのであろう。だが仔細に観察すれば少女の体からは多くの妖魔の匂いが香っている。ちょうど、妖魔の血を疼かせている時の鬼無子に近い。
 この場所で目覚めてから出会う者全員が狼の血を引いていると分かる子供たちばかりである事に、雪輝はなにか意味があるのだろうかと知識はまるで足りないが回転は悪くない頭を悩ませる。
 雪輝が目の前の子どもたちにどう接するべきか迷っていると、たっと駆けだして縁側から降りた三頭の子狼達が雪輝の足元まで駆け寄って、しきりに雪輝の身体に自分達の体を擦りつけ、わふ、みゃん、と小さな声を上げて甘えてくる。
 獣の子供に甘えられると言うのは嶽を除けば初めての事であるから、雪輝は少々戸惑いながら、子狼達を踏み潰さないようにと注意を払いつつ、好きにさせた。
 そうしていると雪輝の背中の幼子が目の前の少女に朗らかに声をかける。

「ねえたまも、とおたまのおせなかにのりますか?」

 少女は愛する異母妹の提案に微笑を浮かべたまま首を横に振り、縁側に正座して鞘袋を左手側においてこちらを見下ろす雪輝の顔をまっすぐに見つめてこう言った。

「お父様、今日はお散歩ですか?」

「お父様?」

 首を傾げる雪輝に、少女は品の良い笑みを浮かべたまま言葉を重ねる。親の躾が良く行き届いている事が、見て取れる笑みと聞きとれる声音だった。

「はい、お父様。なにかおかしかったでしょうか」

「とおたまー?」

 ここにきてようやく雪輝の頭の中で背中の幼子の言う『とおたま』が『父様』と言っているのだ、という事に気付いた。となるとこの背中の幼子や足元の子狼達、目の前で正座し凛とした佇まいで雪輝を見つめている少女は揃って雪輝の子供という事になるらしい。
 なるほど、と雪輝は納得した。これは夢なのだと。
 それでも背中に感じられる幼子や足元の子狼達の存在を実感させる重さやぬくもり、匂いといったものは確たるものと雪輝には感じられていた。
 夢であると言うのならいつまでも見ていたいと願う様な心地の良い夢であったが、今の雪輝には現実を放棄して夢の世界に耽る事は許されなかった。
 雪輝は座したままの少女に笑いかけて言った。

「良い夢だな。とても」

 そこで目が醒めた。
 ぱちりと下ろしていた瞼を開き、雪輝はのそりと首を持ちあげて周囲を確認し、既に寝巻からいつもの野袴姿に着替え終えて腰帯に崩塵を佩いた鬼無子と、その鬼無子と睨み合いをしている狗遠の姿がある。
 朝から早々に剣呑な雰囲気を漂わせる一人と一頭であったが雪輝の起床に気付くと一時的に休戦協定を暗黙のうちに締結し、睨み合いを終了させる。

「おはよう、鬼無子、狗遠」

 普段の調子でのほほんと言う雪輝に、鬼無子は同じように挨拶を返し、狗遠は世の中面白くない事ばかりだと言わんばかりにそっぽを向く。雪輝はそんな狗遠の様子は気にせずに、夢の余韻に酔うかの様に機嫌が良かった。
 この世に産まれてから初めて見た雪輝の夢は、それが夢だと分かった時は言葉にし難い寂しさを残したが、それでも素晴らしいものだったと雪輝を喜ばせる夢だった。
 だから雪輝がこう口にするのもそう無理の無いことだったろう。それが及ぼす影響を雪輝がまるで考えていない事は、大きな問題ではあったが。

「ふむ、しかしあれだな。子供というのは良いものだな。私も欲しくなった」

 この言葉がはたしてどれほどの衝撃を鬼無子と狗遠に与えたものか。本心からそう望んでいるのだと分かる雪輝の台詞を理解した時、鬼無子と狗遠は全く心が通じ合っていないにもかかわらず、同時に雪輝へと視線を集中させる。
 視線の矢を浴びせられる形になった雪輝だが、上機嫌なこの狼は鼻歌でも歌いだしそうな様子である。ある意味幸せな脳味噌と神経の持ち主だ。

「ふん、なんだ、雪輝。私の話に乗るつもりになったのか。なら愚弟を始末したらさっそく子を作るか。今回の事で一族も随分と減っただろうから、何頭も産まねばならんな。望む所だがな」

 妙に力の籠った声で言う狗遠の尻尾は、その心情を表現するように左右にゆっくりと振られていた。
たいして鬼無子はと言えば狗遠に対して親の仇を見るかのような、気の小さい人間だったら卒倒して泡を吹くほどに怖い瞳で睨みつけてから、雪輝に言葉の真意を問いかける。
狗遠の誘いに乗るつもりになったと言われようものなら、鬼無子は自分がどんな反応をするが分かったものではなかったが、自分との間に子が欲しいと言われたら、という妄想が鬼無子の脳裏によぎらなかったと言えば嘘になる。

「雪輝殿、唐突にどうなされたのです。これまで子共が欲しいというような事は一度も口にされた事は無かったではありませぬか」

「うむ、別に狗遠の誘いに乗ると言うわけではなくてだな。つい今しがたまで私に子供が居る夢を見たもので、ついついそう言ってしまったのだよ。いや、目に入れても痛くないほど可愛い子供たちだったよ。夢でなければいいのにと思うほどにな」

 心の半分は安心し、もう半分は残念な思いで満たしながら、鬼無子は人騒がせなお方だと溜息を吐く。
狗遠はと言えば要らぬ期待を抱かされたことで、即座に不機嫌に変わっていたが、考えようによっては雪輝が子供を作ることを真剣に考える様になったのだから、そう悪い話ではないかと自分を宥めていた。
自分の言葉が一頭と一人をひどく動揺させたと知らぬ雪輝は、上機嫌な様子そのままに尻尾を左右に振っている。
妖哭山の状況や鬼無子の体の事、自身の精神の正体の事を忘れているのではないかと疑わせる様子の雪輝であるが、完全に気を緩ませているわけではないようでいつのまにか部屋の中に足を踏み入れていた天外の存在に気付いて、視線をそちらに向けている。
雪輝の視線に遅れる事半瞬ほどで、鬼無子と狗遠も天外の存在に気付く。この二頭と一人に気配を悟らせぬだけでも、この老仙人が常軌を逸した存在であることの証明といっていい。

「鬼無子ちゃんの処置の用意が出来た。ただ一度取りかかると半日は動けん。そしてもう一つ。お前さんを追ってきた外の人間が来ておる。わしが片づけても良いが鬼無子ちゃんの処置に手を取られるでな、雪輝よ、お前が始末せい」

「黄昏夕座か、正式に挨拶した事はまだなかったから、丁度良いか。後顧の憂いを断つのもな」

「雪輝殿、夕座との因縁はそれがしが自らの手で着けます。お手を煩わせるまでの事もありません!」

 夕座の危険性を理解しているが故に声を大にして雪輝を制止しようとする鬼無子に、雪輝はゆっくりと首を左右に振って拒絶の意思をあらわした。

「だめだ。鬼無子はこれ以上戦うな。天外の治療が終わるまでここで待っておれ。それとも私では夕座に勝てぬと言うつもりか? 私を信じよ」

「夕座めは恐るべき使い手です。それこそ純粋な技量ではそれがしの知る者の中でも一、二を争いましょう。剣術だけではないなにかをあやつは備えております。例え雪輝殿といえども……。正直に申し上げれば、その様にそれがしは考えてしまっているのです」

「鬼無子にそこまで言わせるとは敵ながら見事という他ないが、それでも私にとって夕座は花に集って腐らせる毒虫も同然。ここで命運を断っておきたい相手だ。鬼無子はここで待て」

 ほとんど初めて上の立場から断固と命じる雪輝の言葉に、鬼無子が怯む様子を見せると雪輝はそれ以上鬼無子が言葉を重ねる前にと、すぐに立ち上がり天外の背後の襖を開いて外へと出る。
 すれ違い際、雪輝は天外に短く呟いた。

「鬼無子を外に出すな。任せるぞ」

 いつも他者に対する皮肉やからかいを含んだ言葉ばかりを口にする天外も、この時ばかりは真摯な雪輝の声音に同じように答える。

「任せい。例え恨まれることになっても治療だけはしっかりとしてやる」

 雪輝に危険が及び鬼無子が治療中に飛び出そうとしても、無理にでも抑え込むと、天外は言っているのである。
雪輝の後に狗遠が続いて襖の向こうに消える背中に鬼無子が雪輝の名を呼ぶ声をかけたが、雪輝はそれに振りかえらずにそのまま部屋の外へと消えた。

「天外殿、それがしも外に参ります」

 天外の答えを待たずにすぐさま雪輝の後を追うべく動いた鬼無子が襖を開いた時、目の前にあったのはこの部屋に来る時に見た廊下ではなく、中央に寝台の置かれた石室であった。
 寝台の横に紫色の液体を入れた瓶が吊るされた棒がいくつか置かれていて、瓶の底からは透明な管が伸びている。石室の壁際にはいくつもの棚が置かれていて、そこには棒に吊られているのと同じような瓶や、乾燥させた植物の葉や茎、根っこが納められている。
 天外がこれまでたびたび見せた空間を操作し別の場所と場所を繋げる術、と悟った鬼無子は烈火の激情を湛える瞳で背後の天外を睨みつけたが、天外はまるで気にした風もなく石室の中へと歩を進めて寝台の横で止まる。

「雪輝の奴もあれで男じゃ。言い出したら聞かぬよ。あいつが死ぬか生きるかは実力と運次第。ここで雪輝の勝利を祈る事それだけが鬼無子ちゃんに許される事よ。わしは嘘をつくし情報を隠しもするが、雪輝の奴と交した約束は守る気でおるでな。鬼無子ちゃんの処置が済むまではここから出さぬ」

 雪輝同様に自分が何と言おうと、またどうしようとした所で譲る気は天外にないのだと悟り、鬼無子は雪輝に自分を信じろと言われた事と合わせて、無意識に崩塵の柄に添えていた手をそっと離した。
 事と次第によっては、鬼無子は天外に斬り掛っていただろう。鬼無子は自分がどう動こうともこの状況を変えられないと理性で感情を必死に宥めて、心中で吹き荒れる感情の嵐を沈めることに専念した。
 一度瞼を閉じて深く息を吸い、肺を一杯に膨らませた息をゆっくりと吐き、瞼を開いてから鬼無子は天外にこう言った。

「処置、ですか。天外殿、自分の体の事は自分が何よりも知っております。そして我が一族の歴史がこの身に流れる血が祓われる事の無い事を如実に語っております。雪輝殿に告げられたそれがしの肉体の妖魔化を防ぐと言う言葉、事実かもしれませぬがそれでもそれがしの寿命をわずかに伸ばすのが精一杯。それが真実では? 例えこれ以上の妖魔化が止まったとて、それがしの人間の肉体が妖魔の血肉が放つ毒素に耐えられませぬから」

 天外は、この老人には珍しく苦笑した。自身の力の不足を悔やむ様な笑いである。

「これだからお前さんがたはやり辛い。どいつもこいつも察しが良すぎるわい。わしにできるのは鬼無子ちゃんの残る半年の寿命を一年か二年に伸ばすことじゃ。要らぬ期待を抱かせたなら済まぬの」

 素直に謝意を示して頭を下げる天外に、鬼無子は首を振った。

「いいえ、残された時間が伸びるだけでもそれがしにはありがたき事でございます。ですが天外殿、出来うる限り早くその処置を終えて頂きたい。雪輝殿達の力にならなければなりませぬ」

「承知した。まずはこの寝台に横になるのじゃ。それから鬼無子ちゃんの体の中に霊血を入れる」

 崩塵を抜いて寝台に立てかけてから横になり、左腕の裾を捲った鬼無子が、血を入れると言う言葉に反応して、仰向けの体勢から天外の顔を見上げた。好色な糞爺といった天外の顔には、崇拝する神を前にした信者のように荘厳な色が浮かんでいる。

「血を入れるのですか?」

「そうじゃ。輸血というが、まだこの国には無い概念じゃな。血を穢れと考えるこの国ではもう数世紀は受け入れられぬものじゃろうが、これから鬼無子ちゃんに入れる霊血は穢れなんぞとは無縁の代物よ。大昔にこの星に降り立った神々の体に流れる神血を希釈し、神でない者の肉体に使えるように調整した代物よ」

 もっとも神々の本体はこの世界より高位の次元に存在しており、こちら側に降臨した神の肉体はあくまで仮初の器に過ぎない。仮にこの世界に降臨した神が討ち滅ぼされるような事があるとしても、それはいわば水面に映る姿を叩かれた様なもので神そのものにはなんら痛痒を与える事は無い。

「神の血肉はこの世界のあらゆる存在よりも優先される物質よ。それを体に入れるとなれば妖魔の血肉が真っ先に浄化される。人間の部分に影響が出ぬようにわしの方で希釈しておくが、一度始めれば処置が終わるまでは動けん」

「分かりました。一刻も早くお願いいたします」

 うむ、と頷いてから天外は寝台の傍らの棒に吊るされている瓶から管を取り出し、その先に備え付けられている針を、ぷつりと鬼無子の左腕に付き刺した。
 高貴なる者の色である紫の神の血が、透明な管を伝ってゆっくりと鬼無子の体へと流れて行った。



 雪輝と狗遠が襖を潜るとその先はすでに無常庵の外へと繋げられていた。天外が常に展開している妖魔除けの結界が今は解除されているようで、雪輝と狗遠の体に負荷が掛る事は無い。
 対岸がはるか遠い湖のほとりに立つ無常庵の周囲にも、妖哭山に立ちこめる濃厚な血と腐敗した肉の悪臭が漂っており、空気を吸った肺腑や鼻孔が赤く染まってしまいそうである。
 狗遠にとってはむしろ好ましい環境であるかもしれないが、もともと内側の環境に嫌気がさして離れた雪輝にとっては、すぐさま白銀の面貌を顰めざるを得ないものだ。

「狗遠、お前は手を出すなよ。夕座ばかりは私が直接手を下さねば気が済まん」

「ふん、あの毛無し猿が決着を着けていれば面倒なことにならなかったものを。あやつの尻拭いをするのがそんなに大切か?」

「ここで決着をつけねばいつまでも関わることになりそうな予感がする。お前は余計な横槍が入らぬように周囲への警戒を頼みたい。傷はもう癒えただろう?」

「私に命令をするな」

 そうは言いつつも雪輝と夕座が戦い始めたなら、雪輝に頼まれたとおりに他の妖魔達の介入がない様に行動する自分が、あまりに簡単に想像できて、狗遠は不愉快そうに鼻を一つ鳴らした。

「第一だな、あの爺のような奴は腹に一物二物抱えている者だ。あやつの言葉をどこまで信用できると言うのだ」

「半分といった所だな。あいつは自分でも言っていたが、嘘は言わぬが情報を隠して伝える事や、そもそも嘘しか口にしない時と言動の真偽を読む事が出来ん。だが鬼無子を任せると頼み込んだ時の、天外の眼は信じる事の出来るものだった。だから任せた」

「はっ、どこまでも甘い奴だ。それでよく今日まで生きてこられたな」

「なら私を番にするのは止めにするか? 私の様な甘っちょろい雄が番では、お前に要らぬ苦労をかけるだろう。ちょうど今のようにな」

「自覚があるのなら少しは慎む事を覚えろ」

「そう言いながら、お前は良く付き合ってくれるものだな」

「知るか。貴様といると調子が狂う」

 ある程度数が減った事で短期的な小康状態が生じたのか、比較的妖哭山内部での戦闘の騒音や気配が幾分か少なくなったようである。夕座という外部からの介入者との決着を着けるには、丁度良い機会であるかもしれない。
 庵を出てから血の匂いが濃すぎるほどに濃い風の中に混じる人間の臭いを、雪輝の鼻は敏感に嗅ぎ分けて、臓物や血肉のぶちまけられている森の中を迷うことなく進んでゆく。
 おそらくは夕座もどのようにしてかは分からぬが、雪輝の存在と接近を知覚しているのだろう。雪輝の嗅覚が嗅いだ臭いの源は動く事を止めている。
 現在の妖哭山の状況を考えれば不気味なことこの上ない事に、妖魔達からの襲撃は一切なく、肢を止めることなく雪輝は木々の開けた場所で夕座と対峙した。
 七勢力にこそ数えられぬが、強力な妖魔である熊の妖魔達の死骸が折り重なった山の上に腰かけた、人とは思えぬほど美しい魔性の剣士と。
 清澄な朝の陽光であるはずなのに、夕座に降り注ぐ陽光だけは腐臭を発しているかのように穢れてしまっていても、おかしくは無いだろう。
 纏う青い着流しに血の一点も着けることなく、そしてまた白磁の肌に傷一つ刻むことなく、片膝をついて死骸の山の上に腰かけていた夕座は気だるげな仕草で雪輝を見下ろした。
 見つめられた者が魂まで吸い取られそうなほど美しく、虚ろな瞳が白銀の獣を映して薄く細められる。それだけで老若を問わずに女なら頬を朱に染めるだろう。

「こうして対峙するのは初めての事か。四方木の姫はどうした。大狼よ」

「鬼無子の手を煩わせるまでもない。私を大狼と呼ぶ者よ。私はお前を生かしておくつもりはないのだ。貴様はここで死ね」

 雪輝が殺意を隠さずに告げた瞬間、雪輝の全身から妖気と殺気とが炎のごとく爆発させて噴出させる。それは雪輝の傍で肢を止めていた狗遠の全身を打ち、思わず狗遠がその場から後方へと跳躍してしまうほど、敵意と殺気に満ちていた。
 周囲に無差別に放たれる雪輝の妖気は、はるか地下で奇襲の機会を伺っていた蚯蚓や土竜といった地下に棲息する妖魔達をはるか遠方へと逃げださせていた。
 鬼無子に固執し鬼無子に妖魔化を強いた夕座を、雪輝は口にした通りに殺すと言う以外の選択肢を持っていなかった。雪輝が他者に対して抱いた殺意の強さという点において、おそらくは最も強いものだったろう。
 四肢を肩幅よりやや大きく広げて重心を落として瞬時に疾風へと加速する体勢を整える雪輝に、夕座がゆらりと死体の山から腰を上げて、右手に握っていた抜き身のままの妖刀紅蓮地獄の刀身が、妖しく輝く。
 熊の妖魔達を無数に斬り殺した後とは思えぬ、純銀の輝きを紅蓮地獄の刀身は纏っている。夕座の凍える様な剣気と紅蓮地獄の刀身から立ち上る強力な霊気は、雪輝の放つ強大な妖気と真っ向からぶつかり合い、拮抗状態を作り上げる。
 魔狼と魔剣士との対峙はどちらかの死という結末以外にはあり得ぬ死闘となることは自明の理であった。

<続>
頂いた感想への返信を送ればせながら。

>通りすがり様

はい。もともとこの山に住む妖魔たちの遺伝子というか霊魂のレベルで外に広がらないようプログラミングされているのですね。ただ外側に移り住んだ者達はその本能が希薄なので、主水のようになにかのきっかけで外に出ようとするものも居るのです。

>taisaさま

天外の面倒な所はその時々で嘘と本音を使い分けて、なおかつ意味のある嘘と意味のない嘘も平気で吐きまくる所ですね。真っ正直な雪輝にとって相性最悪の相手なのです。今回の事も果たしてどこまで天外が本当の事を口にしているのか、雪輝には正確なところが把握できていなかったりします。

>天船さま

いやあ、夕座も嫌われたものですね。鬼畜なので仕方ありませんが。とりあえず次回雪輝の頑張り次第でございますね。ちなみに狗遠は雪輝への愛の力で本能を抑え込んでいたりいなかったり。

>ヨシヲさま

( ゚∀゚)o彡°モッフる!モッフる!(挨拶返し)
別板の方に力を入れていたら遅くなってしまいました。申し訳ございません。天外の立場ですがこれは結構複雑な設定だったりします。現在は雪輝が現在の意識を保っていられる間という条件付で味方をしていますが場合によっては途方もない強敵になる可能性があるのです。

ではではここまでお付き合い頂きありがとうございます。また次回もよろしくお願い致します。


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