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No.19828の一覧
[0] 少女の愛した狼 第三部完結 (和風ファンタジー)[スペ](2022/01/30 08:17)
[1] 命名編 その一 山に住む狼[スペ](2010/11/01 12:11)
[2] その二 出会う[スペ](2010/11/08 12:17)
[3] その三 暮らす[スペ](2010/10/23 20:58)
[4] その四 おやすみ[スペ](2010/06/28 21:27)
[5] その五 雨のある日[スペ](2010/06/29 21:20)
[6] その六 そうだ山に行こう[スペ](2010/06/30 21:43)
[7] その七 天外という老人[スペ](2010/07/01 20:25)
[8] その八 帰る[スペ](2010/07/03 21:38)
[9] その九 拾う[スペ](2010/07/12 21:50)
[10] その十 鬼無子という女[スペ](2010/11/02 12:13)
[11] その十一 三人の暮らし[スペ](2010/07/07 22:35)
[12] その十二 魔猿襲来[スペ](2010/07/08 21:38)
[13] その十三 名前[スペ](2010/09/11 21:04)
[14] 怨嗟反魂編 その一 黄泉帰り[スペ](2010/11/01 12:11)
[15] その二 戸惑い[スペ](2011/03/07 12:38)
[16] その三 口は災いのもと[スペ](2010/11/08 22:29)
[17] その四 武影妖異[スペ](2010/12/22 08:49)
[18] その五 友[スペ](2010/10/23 20:59)
[19] その六 凛とお婆[スペ](2010/10/23 20:59)
[20] その七 すれ違う[スペ](2010/10/23 20:59)
[21] その八 蜘蛛[スペ](2010/10/23 20:59)
[22] その九 嘆息[スペ](2010/10/23 20:59)
[23] その十 待つ[スペ](2011/03/25 12:38)
[24] その十一 白の悪意再び[スペ](2010/12/01 21:21)
[25] その十二 ある一つの結末[スペ](2010/11/08 12:29)
[26] 屍山血河編 その一 風は朱に染まっているか[スペ](2010/11/04 12:15)
[27] その二 触[スペ](2010/11/09 08:50)
[28] その三 疑惑[スペ](2010/11/13 14:33)
[29] その四 この子何処の子誰の子うちの子[スペ](2010/11/20 00:32)
[30] その五 虚失[スペ](2010/11/22 22:07)
[31] その六 恋心の在り処[スペ](2010/11/29 22:15)
[32] その七 前夜[スペ](2010/12/13 08:54)
[33] その八 外[スペ](2010/12/22 08:50)
[34] その九 幽鬼[スペ](2010/12/27 12:12)
[35] その十 招かざる出会い[スペ](2011/01/03 20:29)
[36] その十一 二人の想い[スペ](2011/01/07 23:39)
[37] その十二 味と唇[スペ](2011/01/16 21:24)
[38] その十三 雪辱[スペ](2011/02/16 12:54)
[39] その十四 魔性剣士[スペ](2011/02/01 22:12)
[40] その十五 血風薫来[スペ](2011/05/25 12:59)
[41] その十六 死戦開幕[スペ](2011/02/24 12:21)
[42] その十七 邂逅[スペ](2011/03/20 20:29)
[43] その十八 妖戦[スペ](2011/03/23 12:38)
[44] その十九 魔弓[スペ](2011/03/31 09:00)
[45] その二十 死生前途[スペ](2011/05/17 08:55)
[46] その二十一 仙人奇怪話[スペ](2011/05/22 21:31)
[47] その二十二 魔狼と魔剣士[スペ](2011/06/05 20:58)
[48] その二十三 真実[スペ](2011/06/20 12:56)
[49] その二十四 別離[スペ](2011/09/02 23:49)
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[19828] その十六 死戦開幕
Name: スペ◆52188bce ID:87e9f2f7 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/02/24 12:21
その十六 死戦開幕

 妖哭山の山内で緑織りなす木々の海と荒涼漠々たる赤茶けた荒地の境目から、数里ほど離れた所を、小さな三つの影が小走りに駆けている。
 通常ならば妖哭山を抜け出るまでに千、万の数で群れを成す恐るべき死虫達や常に飢餓に見舞われている小妖魔共に十回も百回も襲われて、その道中で息を絶やす所であるが彼らが山の外に出るまでに走破したのは、人里から生贄を届ける小屋まで続く山道であった。
 かつて妖哭山で殺戮の風を荒々しく吹かせた大狼が住まいとし、その大狼を屠った新たな狼の妖魔が住まいとしていた名残から、生贄を捧ぐ小屋の付近には滅多な事がない限りは妖魔の類が近づく事はない。
 それゆえに選んだ道であった。
 空気を煮え立たせるような熱気溢れる夏から、肌を凍らせて血を噴かせる冷厳な冬へと変わる最中の、熱気に苛まれる事も寒気に震える事もないが故の憂鬱さを大気に孕む秋の、昼下がりである。
 四季の移ろいはそこに住まう者達の心に変化を促し、世界の彩りを鮮やかに変えて行くものだが、この山の中でだけは住まう妖魔共の心に奈落の様に埋まる事を知らぬ飢えと殺戮への欲求ばかりが巣食っている。
 しかるに山の外へ逃げる様にして休むことなく駆けている小さな影は、そのわずかな例外と言えただろう。
 茶色の体毛に覆われた四尺余りの体に、大地を休むことなく蹴る短い四肢、丸みを帯びて上下左右に激しく揺れる尻尾。
 どこか見る者の肩の力を抜く愛嬌のある顔立ちは、誰が見ても間違いなく狸のものだ。
 白銀の魔狼雪輝の忠告に従って、一刻も早く妖哭山を離れんとする主水、朔、嶽ら狸の親子である。
 親狸である主水と朔は、まだ幼い嶽を代わり代わりに背に乗せながら走り続けている。
 雪輝の忠告を受け入れて、雪輝から教えられた最も安全な道のりを選んでの脱出行であったが、妖哭山内側の妖魔の進出に伴う妖哭山外側の妖魔達の生息図の変化によって、思いもよらぬ所に思いもよらぬ妖魔や猛獣が息を潜めていた事もあり、狸親子らの道行きは遅々としか進まなかった。
 妖哭山を抜けてからは脱出行を邪魔する妖魔の影はなりを潜めたが、精神的にも肉体的にも消耗を強いられた事もあって、主水と朔ともども狸としては大きな体に鉛の様な疲労をたっぷりと溜め込んでいた。
 岩石から削り出したのではないかと勘違いしそうなくらいに乾ききった木々や、触れた者の皮膚を貫く棘をびっしりと生やした草や茂みが所々に点在しているばかりで、後は地をぶちまけた様に赤い大地と岩ばかりが広がる中で、三頭が足を止める。
 大の大人が十人ほども手を伸ばせば囲めるような巨岩の影に身を置いてから、ぐでんと主水が大の字になって、だらしなく開いた口から舌を零して荒く息を吐く。
 妖哭山では持久力よりも瞬発力の方が逃げるにしろ戦うにしろものを言う場合がほとんどであるから、妖哭山産まれ妖哭山育ちの主水にとって何刻もの間走り続けるのは、相当に辛いものがあるようだ。
 一方で朔はというと妖哭山とは別の大地で生まれ育った事もあってか、あるいはなにがしかの妖術でも使っているようで、主水に比べればかすかに肩を上下させているだけで、さして疲れているようには見えない。
 朔の背から降りた嶽は、休まないともうこれ以上走れないと態度で表している父親の元へ歩み寄って、くうん、と心配そうに鳴いている。

「ふへえ、ぜえ、ぜえ、さ、流石に疲れた」

「雪輝様の仰られたとおりすぐに動いて良かったですね、貴方。私達が思っていた以上にお山の妖魔達が住む場所を変えておりました」

「そ、そうだなあ。普段なら、もっと、山の奥で、はあ、ひい、出くわす様な奴らが、あんな外側にまで、来てやがったもんなあ。……旦那に、教えてもらってなかったら……はひい、逃げるのも出来ないくらい、追いつめられちまったろうなあ」

 少しは息が整ってきた事もあって、主水がむくりと上半身を起こす。妻と自分との差をむざむざ見せつけられている様なものだが、このおおらかな狸には気に止めた様子はない。
 器が大きいと言うべきか、間抜けだからなのか。雪輝とどこか似た所のある主水であった。
 夫の情けないという他ない姿にも、朔は特に失望した様子はない。こちらもこちらで夫に対して心底惚れ抜いているから、短所であってもそれを好ましく解釈してしまう恋の病に、今も罹患中なのである。
 ちなみにこれはひなと鬼無子も現在発症中の、つける薬の存在しない極めて厄介な病だ。

「それにしても少しおかしくはありませんか、貴方。あれだけ山の中では妖魔達がひしめいていたと言うのに、山の外に出ようとする者はまるでおりません。いいえ、それだけではありません。私達も雪輝様に山を去る様に言われるまでは、山を出ると言う事をまるで考えませんでした」

 妻の言う事を徐々に理解して、主水は元々丸い瞳を更に丸く見開いて、ふむふむとしきりに頷いてみせる。
 確かに朔の言うとおりに、妖哭山では下から数えた方がはるかに早い程度の力しか持たない主水は、これまで散々な目にあってきたものだが、思い返してみるに自分が山を出ようと思った事は一度もなかったのを認めたのである。
 いや、自分だけでなく口ぶりからして山の外から来た朔でさえも妖哭山に足を踏み入れた時から、妖哭山を出ようと言う考えを忘れてしまったようだ。

「確かにお前の言うとおりだなあ。まるで山がおれ達を外に出さない様に聞こえない声で囁きかけているみたいだ。そりゃ出くわせば殺し合いを始めるのが妖魔ってもんだが、あんだけ山には住んでいるんだから、外に出ようと考える奴がけっこう居たっておかしかあない。だのに、外に出た妖魔なんておれが知っている限りじゃ大狼くらいなもんだ。やっぱり妖哭山はおかしな山なんだな」

「そう、ですね。外に出て暴れ狂ったのは大狼だけ。そして外に出るという考えに及んだのも雪輝様だけ。狼の妖魔である事がなにか特別だということ? それとも大狼と雪輝様だけが特別なのかしら」

 妖哭山の外に出た影響からか、朔はこれまでは抱かなかった疑問が次々と湧いてくるらしく、自分でも気付かぬうちに疑問が口を突いて出ていた。
 じっと考え込んでぶつぶつと呟く妻の様子を、主水は物珍しげに見ていたが、一息ついて余裕が出来た事もあって、適当な所で声をかけた。
 妖魔の影こそ見当たらなくなったが、ここから先の外界は情けない限りではあるが、外の世界で生まれ育ったこの愛しい妻だけが頼りなのである。

「なあなあ、朔よ。お前がおれなんか及びもつかないくらいに頭がいいのは前から知っているけれど、いまは早く山から離れて嶽を安全な所まで連れて行くのが一番だって忘れちゃいけないよ。おれ達は親なんだ。だったら自分達よりも子供の事をなにより大切にしなくちゃあ、親を名乗る資格はねえってもんだ」

 妻があらゆる点で自分より優れている事を理解し、その事に対して尊敬の念をこそ抱きはしても嫉みや妬みを抱いた事のない主水は、あくまでも優しく朔に言い聞かせる。
 主水の言葉に朔ははっと顔を上げて、申し訳なさ気に顔を俯かせる。あくまでも親である事を忘れない主水に対して、母親としての自分の至らなさを気づかされて、恥じ入っているのだ。
 考えごとに夢中になってしまって、周りが見えなくなってしまう自分を、いつも優しく窘めて諭してくれる主水の事を、朔は心から好いていた。

「ごめんなさい、貴方、嶽。私は母親ですものね。嶽の事を一番に考えないといけない時に、私ったら」

「くうくう」

 先ほどまで疲れ果てていた父親から、今度は意気消沈している母親を慰めようと、嶽はちょこちょことした動きで朔の近くまで来ると、母の頬をぺろりぺろりと小さな舌で舐める。

「いいさいいさ。こっから先はお前の知識と経験が頼りだからな。おれはあんまり役に立てなくて悪いけれど、おれも出来るだけの事をするから、あんまり気を張らずに行こうや。最初っから力を入れてちゃ疲れっちまうわ」

 朔があまり気落ちしないようにと気を遣って、けらけらと主水は笑う。狸の妖魔らしからず生真面目に過ぎる所のある朔と、狸の妖魔らしく呑気であっけらかんとした所のある主水の夫妻は、ちょうどお互いの性格の凹凸が嵌まって、夫婦仲を良好なものに保っている様だ。
 夫と子に慰められて気を取り直し、朔は主水が心底惚れ抜いた笑みを浮かべる。

「ふふ、ありがとう。私はもう大丈夫ですよ。さあ、早く行きましょう。ここはまだ危ないですから」

 そう朔が告げ、一時の休憩を終えた狸の親子らが再び足を動かし始めようとした時、巨岩の向こう側から一人の若者が姿を現した。
 黄塵混じる風に靡くどこまでも深い闇色の黒髪、血を抜く事が美しさに繋がるのかと錯覚しそうな白い肌、夜空を切り裂く流星の尾を思わせる鼻筋、虚空の果てを見ているかのような幽妙の雰囲気を漂わせる瞳。
 顔を構成するあらゆる部位が人ならぬ者の手によって吟味されたとしか思えぬ途方もない美貌の若者であった。
 人間の美醜を完全には理解し得ぬ獣たる主水らを、一目で忘我の域に追いやった美貌の主は、外から来る災い――黄昏夕座に他ならない。
 そして人と獣の境を越えるほどの超絶の美貌以上に主水らを魂から雁字搦めにしたのは、夕座の全身から漂う妖魔のものとは異なる、しかし氷雪のごとく冷たい妖気であった。
 人に他ならぬ姿をしながら、人とは思えぬ美貌と異様な気配を放つ夕座を前に、主水も朔も嶽も、息をする事さえ忘れて呆然と夕座を見上げることしかできない。
 一方の夕座はと言えばいつもと変わらぬ青い着流しの背に、刃長四尺にもなる妖刀紅蓮地獄を背負い、右の眉を跳ねあげて足元の狸達を見下ろしていた。
 およそ道徳や人の道とはかけ離れた価値観の中に生きている若者であったが、狸らを見下ろす顔は、不思議と人間臭い感情が浮かんでいる。
 どうやら思いもかけぬ所で出くわした、夕座からすれば無力なことこの上ない狸達の処遇を決めかねているらしい。

「ほう。妖哭山の妖魔が外に出た事例は大狼ただひとつであったが、私の目の前に二例目がおるわ。さて、これはどうしたものか」

 雪輝が大狼と同一視されている為に二例目に数えられていないだけで、正確に言えば主水らは三例目になるのだが、その様な事は夕座にも主水らも知らぬ事であるし、どうでもよいことだろう。
 如何なる人物画の巨匠でさえも再現し得ぬ優美な線を描く顎に左手を添えて、夕座は思案するように半眼に瞼を閉じつつ、しげしげと主水らを見つめ、やがてこう口を開いた。

「ふむ。決めた。お主らは――――」


 異母弟飢刃丸に妖狼の長の座を追われて、負傷した狗遠を雪輝が匿ったのは、ひなや鬼無子と暮らしている樵小屋ではなく、ひなと初めて出会った生贄を運び込む為の小屋の方である。
 ひなと出会うまでは雪輝も塒にしていた小屋であり、以前に雪輝がひな喰われたかどうかを確認しに来た村人達を脅す際に壊した戸の方も修繕されており、小屋の中に隙間風が吹き込むような事や、雨露が沁み入ってくる事ももない。
 妖哭山の外部に移り住んでからの数年来をこの小屋で過ごした事もあって雪輝の妖気が小屋全体に沁みついており、雪輝の縄張りの範囲内に位置している為、内側の妖魔達が外側に進出し始めた今でも、さほど周囲に妖魔の気配が増えた様子はない。
 目の前に置かれた牡鹿を一瞥した後、狗遠はその牡鹿を運んできた雪輝へと視線を映した。
 牡鹿と言っても角は大きくねじくれてあちらこちらに鋭い突起を伸ばし、息絶えてだらりと舌を伸ばす口から覗く歯は、杭のように鋭く伸びていて、肉食獣の牙に他ならない。
 これでも妖魔ではなく、妖哭山の環境に適応する形で進化した鹿の派生種である。
 妖哭山以外の山に親しんだ熟練の猟師であったら、まず間違いなく妖魔であると勘違いする異様な外見だ。
 性質も外見に似つかわしく自分よりも体躯の大きな熊であろうが虎であろうが、怯むことなく挑みかかって、肥大凶暴化した角で突き殺し、びっしりと口内に生え揃った牙で肉を喰らいにゆく獰猛さだ。
 それでも雪輝からすれば片手間に狩る事の出来る他愛のない獲物に過ぎない事は、雪輝の巨躯に傷一つなく、返り血もまた一滴も付着していない事から分かる。
 肩高およそ六尺前後と、その体躯が異常に巨大なことを除けば双方共に灰と白銀と、色の違いこそあれ山の化身と見えても何ら不思議のない威厳と美しさを誇る魔性の狼達であったが、狗遠の方は雪輝に対して理解しがたいものを見る目を向けている。
 そんな狗遠の視線に気付き、雪輝は分かりやすく疑問を示した。首を傾げながら口を動かそうとしない狗遠に問いかけたのである。
 雪輝が口を開いた時に覗いた真珠色の牙にさえ、牡鹿の血が着いていないのが、狗遠には不思議だった。

「どうした、喰わぬのか? 横取るような真似はせぬから安心せよ」

 お前の為に獲ってきた、と恩着せがましい調子は一切ない雪輝の言葉であったが、狗遠は不機嫌そうに答えた。

「お前がそんな真似をしないことくらいは分かっている」

 どこか憮然とした様子に変わった狗遠に、雪輝はますます訳が分からんとばかりに、両耳をはたりと一度動かす。とかく耳と尻尾が嘘を吐けないのが、この狼の特徴の一つである。

「ならば毒でも入っているのかと気にしているのか。左様な事をしても私には一片の得もないことは、お前にも理解できよう。お前の首を持って飢刃丸に阿(おもね)るような事はせん」

「それも分かっている」

「ではなぜそのような目で私を見る?」

 狗遠は心底不思議そうな顔をする雪輝の事が、小憎らしくて仕方がなかったが、傷を負い万全には程遠い今の自分に、このすっ呆けた白銀の狼の庇護が遺憾ながらも必要である事は理解しており、一応は言葉を選んで返事をした。

「お前のする事に私の理解が及ばぬからだ。以前からおかしな奴だとは思っていたが、私を匿い、更にはこのように獣を獲って私に与えに来るなど、私の一族の者であったら、いや、この山に生きる妖魔であったら誰もすまい。お前以外はな」

「なるほど、確かに私がこの山ではいささか変わり種である事は自覚のある所。内側の妖魔共であったなら、傷ついたお前を前にすれば好機とばかりに喰おうとするだろうからな。
 しかし、先も言った様に私は私の心が望んでいる事をしているに過ぎぬ。お前には珍妙奇怪、私に何の得もない事のように思えても、私にとっては気の済むようにしている事なのだ。無理に理解しようとせずとも良い。今は腹を満たして英気を養うが良い」

 狗遠とて雪輝の言う事は頭では理解できるのだが、これまで妖哭山の内側で生きた経験からどうしても雪輝の行為に対して納得が行かず、一歩構えてしまうのだ。
 とはいえ腹が減っている事も、栄養を取ってふざけた真似をしてくれた弟に報いを受けさせる為にも、今は目の前の新鮮な血の匂いが薫る牡鹿を残すことなく食らわねばならないのもまた、揺るぎない事実である。
 狗遠は、牡鹿を挟んで自分と顔を突き合わす位置で腹ばいになっている雪輝の顔を見た。
 はたりはたりと耳を動かしながら、青い満月の瞳で狗遠の顔を見ている雪輝は、相も変わらぬ穏やかな雰囲気のままである。
 狗遠は自分でも分からぬ衝動にかられて、そっぽを向く。誰かに食事の風景を見られるのを嫌がったのは、今回が生まれて初めての事だった。

「あまりじろじろと見るな。食べ辛い」

「そういうものか? 他者の目など気にする性質(たち)とは思えぬが、まあ女性ならそう思う所もあろう」

 鬼無子は私が見ていても気にせずにばくばくと食べて、何度もお代わりするのだがな、と雪輝は心の中でこっそりと考えた。
 鬼無子が耳にしたら顔と耳を赤くして、雪輝に抗議しただろう。
 あまりに簡単に想像できたものだから、雪輝は狗遠から視線を逸らす途中、つい口元が緩みそうになるのを堪えなければならなかった。
 狗遠と牡鹿から雪輝が視線を外すと、ほどなくして狗遠が牡鹿にかぶりついて牙を立て、毛皮を切り裂き、傷つけられた血管から心臓から送り出されたばかりの血液が溢れだし、血の滴る肉が骨から引き剥がされて、牙と牙によって咀嚼される音がしはじめる。
 ぷん、と小屋の中に濃厚な血の香りが満ち始める。
 この山の妖魔なら血の香りを嗅いだ端から涎を滴らせて食欲と破壊衝動に昂る所だが、空腹や殺戮から縁遠い体質と性格の雪輝にとっては、好ましい匂いとは到底思えず、鼻先に小さく皺を寄せて不愉快そうに狼面を顰めている。

「狗遠、食べながらで構わぬから、私の質問にいくつか答えてくれぬか」

 ばり、と骨を噛み砕く音が雪輝の耳を揺らした。狗遠が噛み千切った牡鹿の首から上を噛み砕いて、頭蓋骨や特徴である大角、目玉、脳味噌などを喰らっているのだろう。
 しばらく咀嚼の音が続いてから、狗遠が承諾の返事をした。狗遠が口を動かす度にぬちゃり、という水音が零れる。

「よかろう。私に答えられる事であればな」

 また、ぐちゃり、と生肉を咀嚼する音がひとつ、ふたつと続く。雪輝が仕留めてきた牡鹿は、狗遠の舌を十分に唸らせる味らしい。
 ふむ、味は悪くなかったようでなにより、と雪輝は心中で頷いてからこう切り出した。

「お前には不愉快な事であろうが、どうやって飢刃丸がお前に勝ったのだ? 真っ当に戦えばお前の方が地力は上であるはず。不意を突かれたか? それとも一対一ではなかったのか?」

 ばきり、とひと際大きく骨の噛み砕かれる音が狗遠の噛み合った牙の間から、細かい骨片から零れ落ち、次いで牙と牙とが怨念の籠る歯軋りの音を立てる。

「言葉を隠さぬのはお前の長所であり、短所だな、銀色の。まあいい、こうしてお前の庇護を受けねばならぬ身であれば、屈辱の記憶を思い起こすことも甘んじて受け入れるしかあるまい」

「そこまで言わぬでもよいと思うのだが……。いや、お前の気に障る事を不躾に口にした私の落ち度か。すまん」

「謝るな。余計に腹が立つわ。ふん、私の生殺与奪の権利を握っていると、分かっているのか、お前は。いや、分かってはおらぬか。まあ、いい。深く考えても考えるだけ損であろう」

 狗遠はおそらく産まれて初めて溜息を吐いた。
 両親が蛇妖族の紅牙に喰われた時も、飢刃丸以外の弟妹が他種の妖魔達との闘争の中で命を散らした時も、吐いた事のない溜息であった。
 それをさせた当の雪輝はと言えば自分が何をしたのか、まるで分かっていない様子で、狗遠の機嫌を損ねてしまった事に対して、申し訳なさを感じたようで両方の耳を前に倒している。
 本当にこいつは分かっていない、と狗遠はもうひとつ溜息を吐いてから、気を取り直して雪輝の質問に対する答えを口にしはじめた。
 これ以上雪輝と付き合っているとどうにも調子が狂って仕方がない。

「私が飢刃丸に後れを取ったのは、ひとえに私があやつを見誤っていたからよ。銀色、通常我らが妖魔を喰らっても、相手がよほど己より格上でもない限りは、大幅に力が上がることはない。
 そうさな、百の力を持った妖魔の血肉を、同じように百の力を持った妖魔が喰っても、精々が一か二ほど上がれば良い方よ。
 だが飢刃丸はその例外だったのだ。妖魔の血肉を喰らった時の力の上昇率が、尋常ではなかったのだ。一つ二つ上がればよい所を、あやつは五つも六つも力を増す。あやつはそうして高めた力を抑えることで、その特異性を隠し続けて、私を長の座から追い落とす機を狙っておったのよ」

「妖魔を喰らう事で得られる力の増大か。あれで飢刃丸は慎重な所もある。お前を長の座から追い落としたと言う事は、お前の力を抜きにして他の妖魔達を相手に互角以上に戦い得ると判断したからだろう。となれば、これは手強いな」

 数年前に飢刃丸と初対面を果たした際に、返り討ちにした時の記憶は参考にはなりそうにない、と雪輝は肝に銘じた。
 雪輝の知る飢刃丸と狗遠を屈辱の泥濘に突き落とした飢刃丸は、その強大さにおいてもはや別の妖魔と言える域に達しているだろうことは、想像に難くない。

「銀色、私の見立てではお前の力は蛇妖の紅牙や妖虎の闘魔(とうま)に次ぐものがある。だが飢刃丸が動いたと言う事は、兼ねてから憎んでいたお前を倒せるだけの力を得たと確信したという事だ。ひいては紅牙や闘魔と戦える力を手にしたのだろう」

 紅牙は以前、雪輝がひなを背負って天外の庵を訪ねた際に遭遇した蛇妖の雌長の事だ。
 雪輝をして自分では勝てないと断言するほどの強者であり、おそらくは妖哭山最強の妖魔である。
 そして闘魔とは妖虎族最強の戦士にして若き長を務める雄の妖虎である。
 人間でいえばまだ凛とそう年の変わらぬ若者であるのだが、その潜在能力と生まれ持った莫大な妖気と強靭な肉体、戦闘に特化した妖哭山の妖魔達の中でもさらに突出した才覚の主で、長じれば紅牙をも凌駕する大妖となるのは間違いない。
 闘魔と雪輝の実力はやや闘魔に軍配が上がるが、実際に対決する際のわずかな体調の良し悪しや前後の状況次第で、いかようにも勝敗の天秤は傾く側を変える程度の実力差である。
 ただ闘魔の年齢を考えれば、雪輝が外に出てからの月日の間も恐るべき速度でその戦闘能力を増し、雪輝の戦闘能力を凌駕している可能性は決して小さくはない。
 その紅牙らや闘魔と戦えるほどの力を本当に飢刃丸が手にしたのならば、雪輝を滅ぼす自信を飢刃丸が抱いていもおかしくはない。
 少なくとも狗遠はそう判断していた。だからこその、雪輝に対する忠告である。狗遠は果たして雪輝に対する忠告が、雪輝の身を案ずるが故に出たからなのか、それとも雪輝の助力が欠かせぬからこそした事なのか、分かってはいなかっただろう。
 そんな狗遠の心情は知らず、雪輝は自身と紅牙と闘魔との実力差を比較して、正直な所を述べた

「闘魔はともかく紅牙が相手では、どんなに良くても相討ちに持ち込むのが精一杯というのが、私の正直な所だ。だが、私も以前にお前と出会った時に比べて、それなりに力を増しておる。飢刃丸にそうそう遅れはとらぬ。
 すまぬがもう一つ質問をさせてもらって構わぬか、狗遠よ。飢刃丸が妖狼の長の座に就いたのが、やはり内側の妖魔達がこちら側に姿を見せ始めた原因か?」

「ああ。お前も白猿王が猿どもから追われた事は知っていよう。飢刃丸はそれを好機と見て残る猿どもを襲い、皆殺しにしたのよ。そして力のある猿どもの血肉を尽く食らって、一挙に力を高めおった。
 そして私を襲い、その勢いをかって他の妖魔共へ襲い掛かり始め、一族の者達に妖魔共の肉を持ってくるように命じたのだ。飢刃丸の隠していた力は、他の妖魔共にとって脅威と言えるだけのものだったらしくてな。それで他の妖魔共も力を高める為に外側の妖魔共に目を向けたのだ」

「こちら側の妖魔達は内側の者達よりも弱いものがほとんどだ。こちら側でどれだけ貪ったとて、望むほどの力の増大は見込めまいに」

「なりふり構わぬと言う事よ。私も飢刃丸の目を晦まして以来、内側の情勢は知らぬが飢刃丸は私やお前の考える以上に、暴れ狂っておるのだろう。でなければああも内側の妖魔達が、こちら側に姿を現す筈がない。まあ、蛇妖と妖虎どもはまだ内側に主眼を置いている様だがな」

「ふぅむ、確かにその二種はこちらでほとんど姿を見ぬな。いずれにせよ、お前に再び妖狼の長の座に就いてもらう事が肝か。すまぬな、怪我人に長話をさせてしまった。今は体を癒すことだけ考えよ」

「ふん、言われるまでもない。しかし、銀色よ、お前とていずれはこの争乱の渦中に巻き込まれるのは明白よ。既に我が一族の者と出くわしているが、それ以上に飢刃丸はお前を目の敵にしている事が問題だ。
 そして天地万物の気を肉体の元としているお前は、純粋な天地の力の塊と言っていい。そんなお前の血肉を食えば、食っただけ力は増大化する。そう遠くない内にお前を標的に動き始める。あまりのんびりと構えてはおれぬぞ」

「聞けば聞くほど放ってはおけぬ状況になっていたか。私の至らなさゆえか、いつも事態が手遅れになってから私は気付く。しかし、狗遠よ」

 この場にはそぐわぬどこか楽しげな雪輝の声に、狗遠は訝しげに眉根を寄せ、口元を血で濡らしたまま雪輝の方を向いた。
 雪輝は相変わらず狗遠と獲ってきた牡鹿から目を背けたまま、笑いを含んだ声で告げる。

「怪我をして気が弱っているのか、お前にしてはずいぶんとしおらしい事を言うな。私の安全を気遣う事まで言うとは。随分と意外に思える」

 くく、と雪輝は忍び笑いさえ漏らしていた。狗遠は頭に血が昇るのを感じて、咄嗟に言い繕った。

「お前が飢刃丸に負けようものなら、私にとっても不都合だから忠告してやったまでの事だ! 下らぬ勘ぐりをするでない!!」

「はは、その様に声を荒げるのも珍しい事よな。そう声を荒げては傷に響くぞ。自愛を忘れるでないぞ」

「荒げさせたのはお前ではないか」

「そうだな。さて、私はもう行く。また来る時には何かを獲ってこよう」

 顔を背けたまま立ち上がり、戸口へと向かう雪輝の背中に狗遠は視線を追従させる。

「なんだ、銀色、ここに残らぬのか。ふん、人間の童の所へ戻るのか」

 以前、雪輝が大蛇と交戦した場所に、雪輝以外にも人間の子供の匂いが残っていた事を思い出し、なんとなく呟いた狗遠の言葉であったが、雪輝は足を止めた。
 雪輝は良く分かったな、と言おうとして狗遠の言う人間の童、つまりひなの存在を認めてしまえば、これまた厄介なことになるのではないか、と幸いにも気づいた。

「さて、お前の好きなように考えるが良い。そう寂しがるでない。出来る限りここに顔を出す。お前に倒れられては私も困るのでな。それと狗遠よ、これからは私を雪輝と呼べ。今はそう名乗っている」

「雪輝? お前の名前と言うには響きが綺麗過ぎるな」

「そう言ってくれるな。私としては気に入っているので、生涯名乗るつもりでいるのだがな」

「お前の名前がどう変わろうが知った事ではないが、まあよかろう。さっさと何処へなりともゆけ、雪輝」

「ふ、も少し素直にすればもっと可愛げが出るぞ、狗遠よ。では、またな」

 可愛げが出る、などとこれまで狗遠の知る銀色の、と呼んでいた頃の雪輝であったならば決して口にしなかったであろう言葉が出てきた事に、狗遠は雪輝が小屋を出て行くまでの間、何も言えぬままその姿を見送るほかなかった。
 ようやく雪輝がとんでもない事を口にして去っていった事に気付いた狗遠は、猛烈な反論を加えようとして、既に雪輝の姿ない事に気付き、苛立ちをぶつける相手が居ない事に口を噤むしかなかった。

「ええい、銀色、いや雪輝か。雪輝の奴め、いつからあの様におかしなことを口走るようになったのだ!? くそ、妙な事を耳にしたせいで気分の悪い!」

 狗遠は仕方なしに貪っていた牡鹿の腹に鼻先を突っ込み、まだ暖かい内蔵に牙を立てて、ぶつりぶつりと弾力のある物を噛み千切る音と共に、瞬く間に牡鹿の腹の中身を喰らって行く。
 そうする事でしか、今、狗遠の胸の中にある奇妙な感覚を紛らわせる方法を知らなかった。


 さて、狗遠を匿った小屋を後にした雪輝が向かう場所と言えば、現在の生活の場となっている樵小屋しかない。
 とりあえず狗遠の傷の方は快方に向かっているようで、さほど心配する様はない様子に、雪輝の肢は軽やかに動いて、帰る場所に向かって機嫌よく歩を進めた。
 狗遠を匿う事と現在の妖哭山の状況は、すでにひなと鬼無子達に伝えてある。
 狗遠を匿う事に関しては、鬼無子が難色を示したが雪輝がどうにも狗遠を見捨てる事が出来ぬようである事と、狗遠が再び妖狼の長の座に返り咲けば敵対する様な事はない、という雪輝の言い分を受け入れて、文句を重ねるような事はしていない。
 樵小屋の周囲は雪輝が定期的に見回りをし、所々に妖気を残している事もあって、居を移した外側の妖魔達の数もそう多くはない。
 しかし、内側の妖魔達の狂奔が激しさを増せばその狂気にあてられて、外側の妖魔達も同族同士でさえ殺し合いを始めるだろう。
 あまりのんびりと構えていられるほどの時間的余裕は、残っていない。
 器用に左前肢を使って樵小屋の戸を開いて、雪輝はただいまと一声をかける。
 斜陽の差しこむ小屋の中で、繕いものをしていたひなと鬼無子が揃って雪輝の方を向き、共に好意を寄せる相手にだけ見せる笑顔を浮かべた。

「お帰りなさい、雪輝様」

「うむ。変わりがない様で何よりだ。しかし、また妖魔の数が増えたな」

 自分の羽織の解れを繕う手を止めて、鬼無子がまさに美貌と言う他ない顔に苦い色を浮かべる。
 こうしてひなと肩を並べて穏やかな時間を過ごしている間も、樵小屋を遠巻きにしている妖魔達の数が増えているのを、察していたからである。
 事前に周囲に敷設しておいた探知型の結界からの反応と、肌で感じ取れる妖気から、鬼無子は雪輝に言われるまでもなく周囲の状況を把握していたようだ。
 それでいて鬼無子が臨戦態勢を整えず、雪輝もまたひなと鬼無子を放って狗遠の所に顔を出したのは、樵小屋周囲の妖魔達が雪輝を恐れて決して敵意を向けてはいない事を理解していたからだ。
 だがそうであるにも関わらず、雪輝が敢えて妖魔の数の増大を口にしたのは、状況が静観を許さぬほど逼迫し始めているのを、否応にも認めねばならない為である。
 雪輝は土間で足を止めた。

「そろそろ凛から色よい返事を貰わねばならぬかもしれんな」

 そう告げる雪輝の言葉に、ひなは悲しげに眼を伏せて顔を俯かせる。おそらく以前の決闘の後に、なにか雪輝が凛に対して頼み事をしたのであろうが、その頼み事はひなにとって一抹の悲しさを抱く内容であるらしい。
 ひなを万物を退けて最上位に置く雪輝の価値観からすれば、これは極めて異例の事態と言えるだろう。
 その証拠をあらわす様にひなの俯いた横顔を見る雪輝は、狼であるにも関わらずあまりにも人間的に眉根を寄せている。雪輝にしても気の進まぬ事を凛に頼んでいるのだと、この一人と一頭の様子から容易に推し量る事が出来る。
 雪輝の視線から顔を背けて、ひなは何を言うでもなく腕を動かして繕いものに専念しなおし、雪輝は何か声をかけようとかと口を少しばかり動かしたが、結局何かを言う事はなかった。
 仕方なしに肢裏を拭って板間に上がろうとした雪輝であったが、耳に馴染んだ足音に気付いて背後を振り返る。雪輝にわずか遅れて鬼無子も同じ方向に目を向ける。
 傍らに置いた崩塵に手を伸ばしていない事から、雪輝や鬼無子らにとって危険な存在ではないのだろう。
 鬼無子と雪輝の様子から来客のある事を悟った様子のひなに、雪輝が告げる。

「凛だな。それと、もう一人」

 雪輝の言が正しかった事はすぐに証明された。樵小屋の前の広けた空間から雪輝達を呼ぶ凛の声が響いたのである。

「すまないが、話がある。ちょっといいかい?」

 いつもなら断りなしに戸を開いて樵小屋の中に足を踏み入れてくる凛が、どういう風の吹き回しでか断りを入れてきた。これは、少し妙な、と雪輝達は顔を見合わせる。
 雪輝の頼みごとの結果があまり良くない方向に出た事に、引け目を感じているのかもしれない。
 顔を見合せたまま一つ頷き、雪輝を先頭に鬼無子、ひなと続いて樵小屋の外へと出る。秋の光の中に凛はいた。見慣れた熊皮の上衣の上に更に黄ばんだ木の葉の色をした羽織に袖を通している。
 ちら、と雪輝と鬼無子とひなの三対の瞳は凛の傍らに立つ小さな人影に向けられる。わずかに目元の覗く、緻密な金糸の刺繍が施された紫色の布で全身を隠したおそらくは老婆と思しい女性だ。
 腰を深く折り曲げておりひなと同じくらいの背丈しかない。その割には助けとなる杖を携えてはいなかった。
 錬鉄衆の霊的面を支える祈祷衆の総帥であるお婆だ。普段滅多なことでは里の外には出ないお婆の外出は、凛をして非常事態であるという現実を認識させるもので、しかも行き先がこの樵小屋とあっては何かあるとしか思えない。
 雪輝は興味深げに紫色の布の塊と見えるお婆へと口を開く。

「お初にお目に掛るな。雪輝と言う。凛には良くしてもらっている」

「それがしは四方木鬼無子と申します。お見知りおきを」

 軽く頭を下げる鬼無子に続いて、ひなも慌ててお婆に向けて頭を下げる。

「あ、私はひなです。初めまして」

 挨拶をしたそれぞれへかわいい孫達を見つめる祖母の眼差しを向けてから、お婆は顔を隠す布の奥で、ほほ、と穏やかに笑う。

「これはご丁寧に。私はお婆とでも呼んでおくれな。雪輝さん、鬼無子さん、ひなちゃん。貴方達の事は凛から良く聞かされていますよ。凛と仲良くしてくださってありがとうね」

「お婆、その話はあとでいいだろ」

 身内に思わぬ話を暴露された気分になって、凛はやや慌てた様子で傍らのお婆をせっついた。

「せっかちだねえ、凛は。でも仕方のない事かしらね。皆さん、突然押し掛けてしまったことを、まずはお詫びします。けれど急がないといけないお話があるのです」

 雪輝らにはお婆が錬鉄衆の中でどれだけ重要な地位にあるかは分からなかったが、穏やかな老婆然とする姿から、かすかに感じ取れる穏やかな雰囲気の中に隠れている何かを感じ取り、目の前の老婆を軽んじるつもりにはなれなかった。
 凛もひどく緊張した様子である。少女ながらに豪傑めいた所のある凛が、いくら目上の者相手とはいえそうそう態度を畏まるとは考え難い。
 付け加えれば昨今の妖哭山の状況の血生臭い状況の変化だ。お婆と凛の訪問が現状に新たな変化を齎すものである事は、言われずとも雪輝と鬼無子は直感的に理解していた。

「先日、織田家のご家来衆から里へ依頼がきました。妖魔改と兵を妖哭山へ差し向けるので、道案内をするようにと」

 妖魔改という言葉が出てきた以上、妖哭山へ足を踏み入れるのは間違いなくあの黄昏夕座と名乗った妖剣士であるだろう。
 夕座以外の精鋭たちも共に来るに違いない。雪輝は新たな危険を感じ取って、狼の面貌に険しい色を浮かべ、鬼無子に至っては夕座の姿と言動を脳裏に思い返し、不愉快極まりない顔を拵えている。
 それぞれ夕座に抱く感情に若干の差異はあったが、決して油断ならない脅威であるという認識は一致していた。
 これからの事を考えて思いやられた様子の鬼無子が、眉間を揉み解してからお婆に向けて口を開いた。

「よろしいのですか。その様な話を我々に話してしまわれても」

「内緒にしておけば大丈夫」

 ほほ、と笑いながらお婆は言う。山の民の間で限りない畏怖の念を注がれるこの老婆は、悪戯好きな子供の様な面を持っているらしい。

「でもお気をつけ。内側の妖魔達も時が来た事を悟って暴れ始めている。それに加えて妖魔改まで来ているわ。貴方達の知っている黄昏夕座は、言うまでもない事ですけれど普通ではないの。人の姿をした途方もなく強力な妖魔を相手にすると思わないと危ないわ。彼らは三日後、この山に入ると告げました」

 三日か、と鬼無子は呟き、ひなはまたしても平穏な日常が失われる事を知り、不安げに鬼無子と雪輝の顔を交互に見る。すると、ひなは雪輝が老婆でも自分でもなく森の木々の彼方を見ている事に気付いた。
 雪輝の白銀の全身から発せられている雰囲気が、にわかに剣呑なものに変わり始め、ひなは息を呑んだ。

「三日と言うのは嘘だったらしいな。既に来ている」

 雪輝の言葉につられて、お婆が糸の様に細い目を雪輝と同じ方向へと向けた。雪輝は嗅覚と聴覚から招かざる客の来訪を感知したが、はたしてお婆は何を持って雪輝と同じモノを知覚したのか。

「あら、雪輝さんの仰る通りの様ねえ。たくさん兵士を連れているわ。可哀そうに、ほとんど生きては帰れないでしょう」

「おそらく苗場村の者達がひな達と遭遇した時に居た凛の姿から、山の民と私の関係を疑ったのだろう。カマをかける意味もあって三日と偽ったのやもしれぬ」

 既に刃を突きつけられたも同然の心構えで、雪輝は全細胞に流入している妖気の量を増大させ、瞬時に最大の戦闘能力を発揮できるように整えている。
 最大の問題は妖哭山へと足を踏み入れた者達がまっすぐに、狗遠を匿った生贄小屋へと向かっている事だった。
 白猿王一派との戦闘の時、怨霊達との戦いの時、そして今度もまた、雪輝は判断を誤ったのである。
 妖哭山内部で生まれ育った狗遠の気性の危険性を考慮して、鬼無子やひならと同居させない選択肢を選んだのだが、こうなってはすぐ駆けつけられる距離に匿わなかった事が仇となってしまった。

「お婆よ。お主ら山の民の掟の厳しさを知った上でなお願う。このひなを、お主らの里で匿ってやってはくれまいか」

 ひなと凛が、はっと雪輝の顔を見つめる。それはかねてより雪輝が凛に対して依頼した内容と同じものであった。
 雪輝と鬼無子のみが戦う力を有する現状では、ひなの身の安全を守るのは数で来られた場合に大きく難易度を上げる。
 事実、白猿王の時はひなを人質に取られて雪輝は死の淵に追いやられかけたし、その後の怨霊との戦いでも鬼無子は動きを大幅に制限されてしまった。
 怨霊との戦いではひなに危険が及ぶのは事前に防げたが、外の人間達と山の妖魔達を相手にしなければならない現状では、より安全な方法を考慮すべきと雪輝と鬼無子が判断し、凛に今度何か危険な事態が起きた際に、預かってはもらえぬかと頼みんでいたのである。
 凛がどこか懇願するようにお婆の方を向く。里長にも強い影響力を持つお婆の許しがあれば、ひなを預かる事も不可能ではない。
 凛としては、実の妹も同然に可愛がっているひなの安全に役立てるなら、出来る限りの事をしたいと心底思っていた。
 お婆は小さく肩を揺すりながら答えた。言葉も覚束ない老齢であろうに、かくしゃくとした物言いである。

「私にお任せあれ。ひなちゃんの事はお預かりいたします。ただ、掟もある関係上、自由にはしてあげられませんよ」

「この事態を収めるのに相当時間がかかるのは間違いない。その期間の間、ひなの身の安全を守り抜くのは、情けない話だが難しいものになるだろう。私達が自由に動く為にもひなには安全な場所に居て貰いたい」

「なら私の方から里の者達に伝えておきましょう。ひなちゃんはそれでよいのですか?」

 ひなは泣き出しそうにあるのを堪えている表情を浮かべている。いつもいつもこういう時に自分が無力である事が、ひなには悔しくて情けなくて仕方がなくなる。
 だがここで雪輝達の提案を拒む事が余計に雪輝達を苦しめることになるのを、理解するだけの聡明さをひなは持っていた。
 言いたい事はある。雪輝と鬼無子が命の危険のある場所へと赴いて、再び血を流し痛みに苛まれる事態になるのだ。
 ひなは小袖の裾をぎゅっと握りしめて、くしゃくしゃに歪みそうになる顔を必死に笑顔を浮かべて、自分をまっすぐに見つめる雪輝と瞳を交わした。

「また、行かれるのですね」

「ああ。そうせねばならぬ事だ。分かってくれとは言わぬ。だがひなの居る所が私の帰る場所だと、前にも言ったろう。必ず帰ってくるから待っていておくれ。ひなが居てくれるから私は頑張れる」

「はい。雪輝様のお帰りをいつまでも待っていますから、絶対に帰ってきてください」

 首を伸ばしてひなに頬を寄せる雪輝の首筋に、ひなは抱きついて雪輝の存在を感じる為に強く強く抱きつく。
 柔らかで繊細な雪輝の毛並みを通じて逞しい雪輝の肉体の存在を感じる。雪輝もまたひなに甘えるようにして首を動かし、ひなのぬくもりを堪能していた。
 またしばらく離れ離れになる間、ひなの事を忘れぬ為に、短い時間ではあったが雪輝は全身を使ってひなの匂いやぬくもりを感じ続けた。

「鬼無子共々必ずや帰ってくる」

 雪輝の首に回していた腕を放し、ひなは眼尻に涙の粒を浮かべながら、雪輝の顔を見上げた。ひなを安心させる為に、雪輝はことさら優しげな光を瞳に浮かべている。
 次にひなは鬼無子とも抱き合った。我が子を抱きしめる優しい母を思わせる仕草でひなを腕の中に抱きしめて、鬼無子は死闘を目前に控えて昂りつつあった神経が安らぎを覚えるのを実感した。
 ひなの存在は鬼無子にとって一種の甘美な麻薬の様なものとなっていた。いずれ妖魔へと心身を堕する鬼無子は、いますぐにでもひなから離れるべきであるのに、このぬくもりを手放すことは恐怖さえ伴い、今日に至るまで鬼無子はひなの傍に在り続けている。
 名残惜しさを豊かな胸の中に満たしつつ、鬼無子はひなの背に回した腕を解いた。

「雪輝殿の事はそれがしが必ず守る。ひなはきちんと食べてぐっすりと眠って、それがし達が帰って来た時に元気な姿を見せるのだ。約束だぞ」

「はい」

 よろしい、とひとつひなの頭を撫でてから、鬼無子はお婆と凛の方へと視線を動かす。お婆と凛の二人は、揃って首を縦に振る。

「このままひなをお預けいたします。それがし達はすぐに動かねばならぬ様ですから」

「老い先短いですけれど、私の命を賭けて」

「うちの里は一度も妖魔共の侵入を許した事がないのが自慢さ。だからひなの事は安心して」

 お婆と凛の言葉を聞き届けてから、雪輝は鬼無子に声を掛ける。

「行くぞ、鬼無子。私の背に乗れ」

「はっ。失礼仕ります」

 軽やかに地を蹴った鬼無子が自分の背に跨るのを待ち、雪輝はひなの方を振り返る。

「行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」

 ひなは深く腰を折り頭を下げながら答えた。そしてひなの言葉を聞き届けた雪輝が地を蹴って風と変わり、その姿が見えなくなるまでひなは頭を下げ続けた。
 風が吹く。
 血の匂いと断末魔の呻きを乗せた風が、ひなの長い黒髪を撫でて行った。

<続>

頂いたご感想への返事は又後日に。

2/24 12:16 修正


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